一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

京都紀行 その2

2009-05-24 20:32:21 | 
  


     襄が帰国して出会ったのが山本八重。

     会津藩の砲術師範の家に生まれた八重は戊辰
     戦争のときには若松城(現在の鶴ヶ城)にたて
     こもって、一か月以上も攻めくる長州軍と戦った
     武勇伝の持ち主。
     実際に当時最新の七連発のスペンサー銃を持っ
     て、である。
     気性も男勝りなら、銃の腕前も男以上であった。
     しかし幕府に味方した会津藩は薩長軍にやられ
     て、ついに逆賊に。

     失意の八重は兄の山本覚馬をたよって京都に
     出るのだが、その時の心境はまだ調べきれて
     いない。
     新天地で銃のかわりに持ったのが英語であった。

     襄は理想の妻は?と聞かれて、ヤマトナデシコ
     ではない女性と答えている。
     つまりアメリカで自分の意見をもってはっきり
     主張する女性をみてきた彼は、夫のいいなりに
     なる女性には人間として魅力を感じなかったの
     であろう。
     八重はうってつけの妻であった。
     (写真は結婚したての新島夫妻
     襄は初婚で33歳、八重は再婚の31歳)

     ところがこの妻と結婚したがゆえに、襄には
     かつてない難題が降りかかる……
 

     
     
     

京都紀行 その1

2009-05-17 20:22:27 | 
     ふと思い立って京都に行ってきた。
     (気まぐれだから朝起きて急に思いつくことが多い。
     体調、天気、他の用事との兼ね合い、さらに混雑
     を避けたい、といった諸々の条件を考えると
     どうしても唐突的になる)
     目的は京都市上京区にある新島襄旧邸の見学と
     襄のお墓に参ること。
     旧邸は市指定の有形文化財になっている。

     新島襄が21歳で函館にわたり、アメリカ商船ベルリン
     号に乗り込んで密航したことを思うとき、どうしても
     吉田松陰を思い浮かばずにはいられない。

     松陰は安政元(1854)、密航を企ててちょうど浦賀
     に来ていたアメリカ軍艦に乗り込むが突き返されて、
     当時の幕府に牢屋敷に入れられた。
     ペリーとしては開国させることが目的だったから、松陰の
     希望を聞いてやるわけにはいかなかったのである。
     その5年後に「安政の大獄」で死刑に処されることは
     歴史の教科書で習ったとおり。ときに松陰30歳。

     ではなぜ、襄は密航に成功したのか。
     襄が幕府の目の届かない函館にわたり、そこからアメリカ
     商船を使ったからである。
     それと、松陰の密航企てから10年、「安政の大獄」から
     でも5年たっていることが何よりの大きな要因であろう。
     船上ではボーイとして働き、英語を習い、アメリカに渡っ
     てからはハーディ夫妻の援助で神学校に入った。

     時勢は刻々と変わり、明治5年アメリカ訪問中の岩倉使節
     団が渡米中は通訳をつとめ留学生としても認められた。
     日本に帰ったのは密航から10年たった明治7年である。
     やはり、当初の周到な計画もあるが、時代のちょっとした
     違いで一方は生命を落とし、一方は無事帰還を果たすこと
     を思うと感慨深い。
     どちらも日本の近代化の先導者たらんとしており、
     思想家、教育者としての吉田松陰の早世を惜しむと
     同時に、新島襄の活躍もしのばれるのである。
          
    

春耕

2009-05-05 20:05:41 | 雑記
    大型連休も終盤、ここ何年かは混雑がいやで外出
    も連休中は避けるのが習慣のようになっている。
    まあ、仕事現役のときは連休でもなければ遠出は
    できなかったのだが……。
    今はむしろ、TVのニュースの渋滞をみて、それから
    疎外されている身がうれしくてたまらない。

    家の近くにある市民農園、
    連休にもかかわらず(だからというべきか)、停年
    退職したらしき男性、主婦らしき人が黙々と土いじ
    りをしている。
    2~3坪に区切られた土地をわが城のように守って
    いる光景……。
    まさに春耕(しゅんこう)の季節、自分で作った
    野菜はどんな不格好でもおいしいに相違ない。
    しかし、それだけではなく他の効用もあるのだろう。  

    「耕す」という言葉は「田返す」から変じたのだという。
    土を掘り返して種をまき、芽が出る新鮮な驚き……、
    実際はそんな単純なことではないことが分かってくる。
    虫もつくし、雑草も生える。
     
    百姓の子に生まれたくせして雑草も虫もコワ~イ私は
    とてもできない。物臭でもある。
    だから、ときどき遠回りして農園の様子を見るだけ。
    ただ見るのが好きなのです。     
 
     「畑はいつもきれいな色と よい風の吹いている
      卓子(たくし)である」    
    と書いたのは詩人の佐藤惣之助であった。 
    卓子とはテーブルのこと。
    
    

風薫る5月

2009-05-02 12:29:49 | 雑記
     「風薫る5月」
     なんていい響き、なんて含みのある言葉なんだろう
     と思う。藤棚もまっこと美しい。
     なのに、何かの啓示のように突然わき起こった新型
     豚インフルエンザ!
     世界中を震撼させるその恐怖やいかに。

     世界的に流行したインフルエンザで真っ先に思いだ
     すのはスペイン風邪。
     1918年(大正7)~翌19年にかけて、たちまち
     世界を席巻した。
     感染者6億人、死者4000~5000万人とも。
     これは第一次世界大戦での戦死者をはるかに
     超えている。
     米国で発生したにも関わらずスペイン風邪と呼ばれる
     のは、情報がスペイン発だったからだとか。

     日本でも2500万人が感染し、約38万人が亡くなった。
     劇作家の島村抱月がこれで亡くなり、愛人の松井須磨子
     が後追い自殺したのはあまりにも有名。

     書いたものによると、抱月と須磨子は師の坪内逍遥の
     もとを飛び出し芸術座をつくったばかり。
     (飛び出したのも2人のスキャンダルが原因)
     最初は須磨子の方が風邪に罹ったが、すぐ回復したので
     軽くみていたらしい。
     その日も稽古があり、須磨子は抱月の枕もとに声を
     かけて出かけた。そして深夜に帰宅したときには冷
     たくなっていたというのだ。
     (抱月は医者にいくといったのだが、家族のもとに
     帰られるのを恐れた須磨子が、診せなかったとも
     いわれる)
     
     狂乱となった須磨子は2か月後の月命日に首つり
     自殺した。
     抱月42歳、須磨子27歳。
     師の信頼もあつく、妻子思いで堅物だったという
     抱月、彼の方が血迷ったのか、それとも彼女が
     魔性の女だったのか。