一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

これからが これまでを決める

2016-02-28 09:08:52 | 雑記


      気が向いたとき、あるお寺さんの前を通るのだが、
      門前の(掲示板になっている)法話に目を向ける。
 
      「これからが これまでを決める}

      ん?
      さらっと読んで通り過ぎようとしたとき
      はっと思った。

      ふつう、
      「これまでが これからを決める」
      ではないのか。

      歩きながら考えた。
      これは逆の発想というのだろうか。

      気の小さい私は時折、過去の恥ずかしいミスや
      失敗を思い出して、いたたまれなくなる。
      (それが生きているのも気恥ずかしいような
       言動や、失敗、ミスが掃いて捨てるほど
       あるのだ)

      つまり、消すことの出来ない過去にとらわれて
      生き方そのものが委縮して小さくなってしまう
      のである。

      一般に過去、現在、未来という時間の流れで
      物事を考えるのでそうなるのだが、
      これを逆転して考えればいいのか。

      「これからが これまでを決める}

      そうか、なるほど。
      人生はパソコンの「削除」や「上書き保存」が
      効かない。
      
      ならば、せめて気持ちだけでも
      「これからが これまでを決める」
      でいきましょう。
      ……と、一瞬だけでも思ったのでした。


      ※ 本文とは関係ないがお寺さんの近くに
        あった空地が半年前から整地され、
        マンション建設がはじまった。
        今朝通ったら、すでに鉄骨が組まれ
        「入居者募集」の垂れ幕が下がって
        いた。
        こうして空地も山も崩されていくのねえ。



      
         


      
      

初鳴き

2016-02-27 15:38:02 | 自然

  

     ちょっと取り込んでいてブログ更新が遅れがち。
     ですが、4日前の23日に鶯の初鳴きを聞きま
     した。
     ここ何日か冷え込んで鶯もなりをひそめていた
     が今朝27日ははっきりと
     ♪ ホーホケキョ
     と鳴いていました。

     去年のブログをみると、初鳴きを聞いたのは
     2月24日。
     ほとんど同時期といっていいだろう。

     自然の摂理はうまくしたもので、きびしかった
     冬も次へとバトンタッチして、春のきざしである。

     ああ、これから初夏まで鶯のさえずりが聞ける
     なあという悦びとともに、またこうして季節が
     めくりめくって、どんどん齢を重ねていくこと
     の焦燥にもおそわれます。

     今日の午前中に会った87歳の女性は
     お子さんたちも巣立って長年独り暮らし。
     書を習い、水泳と体操をして健康をたもち、
     背筋もぴっとまっすぐで、素敵な人である。

     それでも年をとっていくことに不安をおぼえ、
     こうして何もしないで
     (何もしないどころか立派に自立しておられ
      るように見えるのだが)
     老けるのが怖いと嘆いておられた。

     誰しも同じ。
     50代、60代、70代になっても日々同じ
     ような感慨にとらわれる。
     
     徳川家康はいった。
     「人生は重い荷物を背負って上り坂をのぼって
      ゆくようなもの」
     もうとっくに下り坂になっているのかも知れな
     いのに、まだあえぎ登っている感じなのである。

     散歩をすれば冬の極寒でも
     リスはどんぐりを食べ、素早く鉄柵をつたい、
     木の枝から枝へとわたり遊んでいた。
     (スマホ写真ではうまく撮れないが、この日は  
      4匹が人間を避けることもなく走りまわって
      いた)
     この森から離れないのは、どんぐりが多く
     餌に困らないからであろう。

     生きるとはなにか、などと考えるのは人間の
     おごりなのかもしれない。

     


至福のとき

2016-02-20 08:34:19 | 雑記


      バレンタインとは関係ないので時期を失ったが
      最近またチョコレートにはまっている。
      このブームは突然やってきて半年くらい続くの
      だが。

      従って現在はチョコレートをお供にコーヒー
      タイムが至福のときである。


      このチョコレート、ずっと「太る」というイメージ
      だったが、ついこの間TVの健康番組をみていた
      ら、「チョコレートは太らない」といっていた。
      これを機に他のものを、どか食いするのが太る原因
      なのだそうだ。

      むしろチョコレートはポリフェノールが豊富で
      健康によく、血圧も下げる働きもあるのだとか。
      とはいっても食べすぎは良くないだろうね。
      (ちなみにホワイトチョコレートはNGだそうです)

      ところで1~2ヶ月前に新聞で、
      若い男性がコーヒーを飲みすぎて死亡した
      という記事をみてびっくりした。

      外国のニュースではなく日本の話である。
      なんでもその男性は深夜勤務の眠気さましのため
      コーヒーの他に、
      カフェインの多いエナジードリンクとカフェイン
      錠剤も摂っていたというのである。
      1年前からだというが、そんな短期間に生命を
      失うほどの影響があるのだろうか。

      アメリカではこのカフェン中毒死はいくつか報告
      されていて、
      不眠、吐き気、下痢、興奮といった症状にあらわ
      れるのだという。

      ではどれくらいが適量かというと、コーヒーの場合
      日本では1日5~6杯程度、
      海外ではマグカップの3杯と勧告されている。

      当たり前だけど、
      「薬も過ぎれば毒」
      ということですねえ。

      何事も、ほどほどが難しいのだけど。
      

      
      

理想を失ったとき

2016-02-14 10:45:34 | 雑記




     昨日の「老い」のつづき。

     「老成」ということばがある。
     年をとり経験を積んで熟達している人のことを
     いうが、「老成」とも「老いのまろやかさ」とも
     縁のない私は、
     人はいつ老いるのだろう、と考える。

     見た目には年齢相応でも、ちょっと話してみる
     と非常に若々しい人がいる。
     そんな人はいつしか年齢を忘れて、その素敵な
     生き方に共鳴して見習いたいと思う。

     一方で若作りしているのに考え方が常識的で
     範疇を飛び超えることをしないので、落胆さ
     せられることもマレではない。

     これはどこから来るのだろう。

     はたと思い当たったのはサミュエル・ウルマン
     の詩だ。
     彼はこんなことを云っている。

     <年を重ねるだけで人は老いない。
      理想をうしなったとき初めて老いる>

     なるほどねえ、
     歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失うとき
     に青春はしぼむ、ということなのか。

     一方の私はこんなことも思う。
     年齢を重ねているのに、いつまでも
     「夢見る夢子さんではねえ」と。

     つまり理想ばかり追って、現実を把握しない
     老人になることを恐れているのだ。
     
     しかし、ここはサミュエル氏にならって
     もうちょっと耳を傾けてみよう。

     彼は「青春」という詩のなかでこんなこと
     も云っている。

     <人は信念と共に若く 疑念と共に老いゆる
     人は自信と共に若く 恐怖と共に老いゆる
     希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる>

     う~ん。
     つまり老いを自覚して、尚且つ、理想や希望
     を持ちつづけることが難しいのだ。

 
     ※ 散歩の途次にみた畑の菜の花

     
      

こらえ性がない

2016-02-13 15:28:00 | 雑記


      さっきも電話が入った。
      外出先から急ぎ帰ってお茶を飲もうとしていた
      ところである。
      「○○さんですか」「はい」
      「○○△△さんいらっしゃいますか」
      男の人の声で、やけに慇懃である。
      「私ですけど」
      「先日もお電話した××保険ですが」

      「はあ?」
      この辺から私の声はとげとげしくなる。
      相手は保険会社の名前を二度くりかえした。

      「勧誘か何かでしょうか。あの、保険はたくさん
       入っていますのでお断りしたはずですが」
      先方はまた粘って、くりかえそうとする。

      「今取り込み中なので失礼します」
      ガチャン!!
      受話器を置いた。

      (電話で勧誘するなよ~)
      (用があるときはこっちから連絡するさ)

      私はお茶をすすりながら、まだうそぶいている。
      不愉快な気持ちはしばらくおさまらない。

      こんなことが頻繁になると、どうやら私の頑固さ
      は年齢とともに度を増してくるようだ。
      年々、こらえ性がなくなってきているように思う。

      古代ローマの政治家、哲学者のキケロは「老年論」
      のなかでこんなことを云っている。

      <人生のおのおのの時期には、それにふさわしい
      ものが備わっているんだよ。
      少年期の元気よさ、壮年期の重々しさ、老年期の
      まろやかさには、何か自然なものがある。それを
      それぞれの時代に享受すべきなのだ>

      老年期のまろやかさ、ねえ。
      ここで私はしばし、考えこむ。

      そして、2000年前のキケロさんはこう諭す
      のである。

      <人はやはり、いつまでも生きようとはせずに
      それぞれ適当なときに消え去ることが望ましい
      のだ。
      自然は他のすべてのことに限界をおくのと同じ
      ように、生きることにも限界をおくからだ>

            
      老年期のまろやかさにはほど遠いけど、
      私だって、少しは忍耐づよく、不意の電話にも
      臨機応変の対応をしたいと思っているのだ。
      

      ※ 陽だまりの水仙
      
  
      

東風解凍

2016-02-07 08:05:24 | 季節



     二十四節気のことは以前にこのブログでも触れ
     たが、この季節は「立春」もあり、ことに古人
     が暦に織り込んだことばに敏感になる。

     二十四節気を三つずつに分けたのが七十二候と
     いう中国由来のもので、それを日本風に書き
     換えたのが「初候」「次候」「末候」らしい。

     つまり、節分も終わり立春も迎えた今の季節
     (立春からの5日間・2月4~8日)をさす
     初候は「東風解凍」。
     「はるかぜこおりをとく」と読む。

     そういえば昔、国語で習った。
     菅原道真の歌である。

     「東風(こち)吹かばにほいおこせよ梅の花
      あるじなしとて春な忘れそ」

     平安京から大宰府へと左遷された道真が、
     家の梅の花に向かって
     「東風が吹いたなら大宰府まで匂いを届けて
      くれ、主人がいなくても忘れないように」
     と詠んだ歌である。

     「東風(こち)」は、
     「西高東低の冬型の気圧配置がくずれて
      太平洋から大陸の方へと風が吹き始めること」
     とあり、
     立春過ぎると天気が不安定になるのはこのこと
     か!と納得。

     一雨ごとに春になる、否、雪国ではこうはいか
     ないだろうが、
     「冬来たりなば、春遠からじ」
     であることは確かだろうから、
     もう少しの辛抱である。


     ※ 先日、北鎌倉に行ったときにとった
       東慶寺の梅

     

粗忽者

2016-02-06 20:16:29 | 雑記



      新聞の「再思三省」(さいしさんせいーー
      何度も考え、何度も省みること)を読んで
      わが粗忽者に赤面した。

      新聞によると、
      「一挙手一投足」が変換ミスで「一挙手一頭足」
      となってしまう。
      手と足があるのだから頭があってもおかしくない
      だろう、と間違いに気づかない。
      ちなみに頭足類はタコやイカの仲間のこと。
 
      また「風邪で伏せている」も勘違いしやすい。
      正しくは「風邪で臥せっている」なのだ。
      「伏せる」腹ばいになることで、
      横になる(寝込む)のは仰臥(ぎょうが)という
      言葉があるように「臥せる」と書く。

      しかし私にしたら、これは高等なミスで、
      私の場合、それ以前の単純ミスなのだ。

      ある人にメールして
      「フェミニズム」をフェミシスムと書いたり、
      「○○新聞西部本社」を西部本社と書いたり、
      思い出すだけでも恥ずかしい。
      
      落ち着いて読み直せばいいものを、気が急いて
      すぐさま「送信」ボタンをクリックしてしまう。

      不思議なことに何日か経ってふと、思いだし
      てチェックすると、やはり間違っている!
      かといって時間が経っていまさられ訂正するのも
      おかしいと思って、黙ってしまう。

      そんな粗忽者の私ーー
      嗚呼、穴があったら入りたい。
      

      ※ 長谷寺の節分会