週に何回か鎌倉通いをしながらお寺巡りとは縁遠い。
いつも時間に追われているのと、一度足を踏みいれて
しまうとハマってしまいそうな危険性があるためである。
(昔、一時のハシカのように鎌倉に入れ込んだことが
あって、思い出すのがイヤなのだ)
ところが先日、車で北鎌倉駅前をとおった際、東慶寺の
前に出て、千姫を思い出した。
東慶寺といえば「縁切り寺」として有名だが、ここで
触れるのは豊臣秀頼の娘のこと。
千姫はご存じのように家康の孫娘で、政略結婚で秀吉
の後継者である秀頼のところに嫁いだ。
しかし、慶長5(1600)年の「関ヶ原の戦い」の後、「冬の
陣」「夏の陣」と続き、豊臣家は崩壊の危機にあった。
問題は秀吉の側室・淀殿と息子の秀頼のこと。
ドラマなどでは、大阪落城寸前、淀殿が嫁である千姫
の袖を膝で押さえて離さなかったとか、千姫を人質
にして家康と交渉したとか面白おかしく描かれているが、
ほんというと誰も真実は分からない。
私は千姫を役立たずの嫁とみている。
淀殿は城が炎上する間際になって、家康への手紙をもた
せて千姫を逃がした(といわれている)。
しかし、老獪な家康は孫娘の姿を認めた直後に大阪城に
とどめを刺し、周知のように淀殿と秀頼母子は城の
もくずとなって消えた。
となると、千姫は自分だけが助かり、姑淀殿と夫秀頼
を見捨てたことになる。
政略結婚で豊臣家に入ったのは7歳と幼かったとして
も、落城のときは20歳近くになっていたはず。
なのに意見らしい意見をいった気配もなく、助命嘆願
に動いた様子もない。
(いくら戦国の世は女の意見など聞き入れられないと
してもだ)
もちろん爺やの家康(その時は秀忠の世)が、一枚上手
だったともいえるが、千姫はその後、ハンサムな本多忠刻
と再婚してぬくぬくと暮らすのである。
だが、だがである。
多分、千姫は戦国の姫に似合わない心やさしい娘だった
と思いたい。
夫の秀頼にしたがって豊臣家と運命をともにする考えな
ど思いもつかず、周囲の流れに身をまかせた結果がそう
なったということなのだろう。
千姫と秀頼の間には子供はいなかった。
千姫は秀頼と側室の間に生まれた女の子を引きとって
(男の子は家康に殺された)
育て、後にその子は東慶寺の尼(天秀尼)となった。
歴史の解釈はむずかしい。
史実ひとつを取っても、いろいろな見方ができるから
である。
だからこそ面白いともいえるのだが。
写真は東慶寺の老白梅と紅梅。