一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

京都紀行 その5

2009-06-28 20:47:46 | 


     新島襄が46歳で亡くなったのは明治23年
     のこと、そのとき八重は43歳であった。
     
     それからの八重は同志社とは距離をおいて、
     独自の生活に。
     あれほど苦労して襄をささえてきたのに、未練
     たらしくしがみついたり、学校経営に欲を出す
     なんてこともしない。
     
     何をしたかというと、日清、日露戦争では篤志
     看護婦として傷病兵のために身を粉にして働いた
     り、茶道をきわめて、晩年は若い娘さんたちに
     お茶を教えたりしている。

     このさっぱりした生き方、人生のリセットの
     達人!!
     見事というほかない。
   
     写真は娘さんたちに茶の指導をする八重。
     若いころの顔とちがって、清々しいほど柔和
     である。
     そして、若いころよりずっと美人でもある。

     若いころ、ギンギンしていたひとが老いてから
     毒気がぬけて腑抜けになってしまうことが
     よくあるが、それとは違う生気がみなぎって
     いる。
     これはどこからくるものだろうか。
     不思議な魅力をもったひとである。
      

京都紀行 その4

2009-06-18 20:57:49 | 

    新島襄が八重の兄の山本覚馬の援助をうけて
    京都に同志社英学校(同志社大学の前身)を
    つくったのは明治8年のこと。
    場所は旧薩摩藩邸跡地で、覚馬が新政府に
    捕えられ、幽閉されていた場所。

    やがて釈放され、持前の勝気と才能をかわれて
    京都府顧問に抜擢される。
    しかもこのとき覚馬は目が見えず(ソコヒ)、
    歩けないという二重苦を背負っていた。

    襄が英学校をはじめたのは、最初からキリスト教
    の学校をつくるのを反対されたからである。
    アメリカから宣教師を呼んだものの、キリスト教
    はもちろん、聖書も教えてはいけないと命じられる。

    いわば京都はお寺さんの町、仏教徒からの猛烈な
    反対やいやがらせがあった。
    その都度、襄や覚馬が明治政府におもむき、府にも
    陳情するが、なかなかスムーズにはいかない。
    盲目の上に歩行困難な兄に付き添うのは、いつも
    八重であった。
    (しかも八重はその前に襄と結婚したとして女紅
     場=女学校の舎監をクビになっている)

    襄がキリスト教の学校創立にこだわったことよりも、
    むしろ、覚馬、八重兄妹をそこまで走らせたもの
    は何だろう。
    私はそこが気になる。
    かつて会津にいるときに闘った薩摩長州藩にたい   
    する意地か。
    はたまた、
    そんな国内の小さなことにはこだわらない、世界
    に向けてはばたく大きな意志といったものか。
    まだ、そこも責めきれないでいる。

    (写真は応接間にあったオルガンー部屋には賛美歌
     がながれていた)
  
    
    

京都紀行 その3

2009-06-11 21:44:10 | 
    京都紀行に話をもどそう。
     
    新島夫妻が京都寺町通りに構えた邸が現在、
    有形文化財としてボランティアの人たちに
    よって護られている。
    周囲にバルコニーをめぐらした、当時としては
    洒落た建物。
    (写真は2階の書斎)
    応接間やセントラルヒーティングなど洋風スタイル
    を取り入れ、中でもトイレは日本で初の洋式トイレ
    だとか。
    
    ここで2人は新婚時代を送った。
    ところが着物に帽子、編み上げ靴という八重の
    恰好がすこぶる評判が悪い。
    まして夫が「八重さん」と呼ぶのに対して、妻は
    夫を「襄」と呼び捨てにし、さらに人力車に乗る
    際、夫に手をとらせて先に乗りこむ八重の横柄な
    態度も、当時の学生たちには我慢がならなかった
    ようだ。

    学生というのは徳富猪一郎(後の蘇峰)や蘆花
    兄弟たち。
    新島先生が八重を妻にしたのは「一生の不覚」だ
    とし、学生や新島夫妻のいる公開の場で明らかに
    夫人を中傷した。
    蘆花に至ってはその作品の中で八重を「鵺(ぬえ)
    のような女」とまでいっている。
(鵺とは上半身と下半身がちがう妖怪のこと)
    若くて潔癖な彼らには、八重の奔放な生き方は
    受け入れられなかったのであろう。

    これらのバッシングもどこふく風、八重は自分を
    貫き、襄も学校に反旗をひるがえして退学した
    彼らにもやさしく接した。
    襄の寛容さは宗教からくるとしても、八重のその
    動じない自信というのはどこからくるのだろう。
    まだ追及できないでいる。
  
    

閑話休題

2009-06-02 17:22:42 | 雑記
     京都紀行の途中ではありますが、ちょっと一休み
     して先日行ったコーラスの話を。     

     40年来の友人夫妻の所属している合唱団の
     発表会が例年今頃ある。
     彼女Nさんは20代からずっと続けていて、私は
     とっくにドロップアウトした。
     もちろん彼女はハズもコーラスの仲間から選んだ。
     アルトとバスの組み合わせ。
     (なぜかソプラノの人はテノールの男性を選ぶ)

     ハズ(ご主人)は仕事をリタイアしてから合唱団に
     復帰、現在は夫婦ともに同じ趣味を生きるよすが
     としている(ように見受けられる)。
     去年は息子さんの結婚式で歌う機会にも恵まれた
     そうだ。

     毎年、お話をいただくたびに、
     「よく続くねえ」というと、
     「これ(コーラス)しかないもの」という答えが
     返ってくる。
     
     継続は力なり、
     証拠に彼女はいまや音域が広がってソプラノの
     パートにいる。
     本題に入ろう。
     今年はちょっと趣向が変わって
     デイナ・ハンチャード氏を迎えて"Feel the Spirit"
     とある。

     スピリチュアルズ(黒人霊歌)とゴスペルの区別が
     つかなかったが、
     スピリチュアルズは奴隷が苦しい生活の中で救いや  
     平安を求めて唄ったもの。もともと口伝えなので
     楽譜はなく作者も不明。
     これに対しゴスペルは192年代に黒人霊歌と当時
     流行していたブルース、ジャズが融合してつくられ
     たのだそうだ。

     そんな理屈はどうでもいい。
     聞いていて震撼とさせられる。
     そして、一流のソリストやオーケストラをバックに
     歌う素晴らしさ。
     聞くより歌う方がずっと楽しいに決まっているのだから。
     もはや鼻歌も出なくなった私は、羨望のまなざしと
     ともに、歳月の経過をいたく感じるのである。