唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (65) 触等相応門 (47) 護法正義を述べる (Ⅵ)

2011-11-29 23:02:18 | 心の構造について

 「若し染心の中に散乱無くんば、流蕩(るとう)に非ず染汚心に非ざるべし。若し失念と不正知と無くんば、如何ぞ能く煩悩を起こして現前せん。」(『論』第四・三十五左)

 (若し染心の中に散乱が存在しないのであれば、心が定まらず乱れ動くことはないので染汚心ではない。若し失念と不正知とが存在しなければ、どうして煩悩を起こして現前させるのであろうか。)

 本科段は五遍染師が散乱と失念と不正知は遍染の随煩悩ではないと云う説を論破します。つまり、散乱と失念と不正知は遍染の随煩悩であることを述べます。

 「次には初師の唯だ五に倶なりと許すを難ず。若し染心の中には散乱無くば応に流蕩に非ざるべし、善心等の如し。既に流蕩有ることは散乱に由るが故に。」(『述記』第五本・六十五右)

 染心の中に散乱が存在しなければ流蕩ではないことになる。流蕩とは「流は馳流(ちる)なり。即ち是れ散の功能の義なり。蕩とは蕩逸(とういつ)。即ち是れ乱の功能の義なり。」といわれます。心が川の流れのように、流れる様子を散といい、蕩はとろける・とろかすという意味があります。水がゆらゆら揺れ動く様子を言い、心がだらしなく、しまりがない状態を乱というのです。「散乱ハ、アマタノ事ニ心ノ兎角(とかく)ウツリテミダレタルナリ」(『ニ巻抄』)と述べられています。「染心の中に散乱が存在しなければ流蕩ではないことになる」というのは、心を流蕩させるのは散乱の働きですから、流蕩であるはずの染心に散乱が無かったならば、流蕩は染心ではないということになり、それは善心か無覆無記心になる。流蕩が染心である限り散乱が存在するわけですから、散乱は遍染の随煩悩であると云う論証になります。

 失念・不正知が遍染の随煩悩であると云う論証は明日考察します。

 


第二能変 心所相応門 (64) 触等相応門 (46) 護法正義を述べる (Ⅴ)

2011-11-28 23:56:46 | 心の構造について

 六遍染説を論破する一段です。六遍染師は惛沈は遍染の随煩悩ではないと主張していることに対して、惛沈は遍染の随煩悩であると破斥します。

 「対法等に云く、惛沈性とは、無堪任性ぞと云えり。又云く、無堪任に離れては染の性は成ぜずと云えり。是の故に惛沈は定んで染に遍して起こるが故に。掉を起こす時は既に是れ染心なるを以て惛沈は定んで有り。」(『述記』第五本・六十四右)

 『雑集論』巻第一に「惛沈の本質的な働きとは、無堪任性である」と説かれている。惛沈は遍染の随煩悩ではないということは、染心には無堪任性が存在しないということになるということです。そして、「無堪任性を離れては染性は成り立たない」と述べられているのです。逆にいうと、染心に無堪任性が存在しないということは、染心は善心であるということになります。「是の故に惛沈は定んで染に遍して起こるが故に」と、惛沈は遍染の随煩悩であると説きます。

 次は掉挙が遍染の随煩悩ではないという主張を論破します。主旨は惛沈と同じ染心に遍在して生起するからであるというこになります。

 「掉挙若し無くんば、囂動(ごうどう)無かるべし。便ち善等の如く染汚の位に非ざるべし。」(『論』第四・三十五右)

 (掉挙が若し(染心に)なかったならば、囂動もないであろう。すなわち善等のように染汚心の位ではないからである。)

 従って、「煩悩が起こるは必ず無堪任・囂動・不信・懈怠・放逸の五つに由る。善心の起こる位には必ず掉挙の囂動を離れる」と説かれているように、染心である位には必ず囂動(動き回ること)が存在するのである。よって掉挙は遍染の随煩悩であると主張します。

 2010年2月14日の記述より

 掉はふり上げる、ふりうごかすという意味があり、挙は高く持ち上げるということです。掉挙は心の高ぶりであり、心が高ぶって揺れ動くということですね。冷静ではいられないという心の働きになります。

 「心をして境に於いて寂静ならざらしむるを以って性と為し。能く行捨(ぎょうしゃ)と奢摩他(しゃまた)とを障うるを以って業と為す。」(『論』)

 「境」に於いてといわれますから対象です、対象世界、私が見ている、考えている対象に於いて「寂静ならざらしむ」ということです。平静ではいられないということですね。心が静かではなく揺り動かされるということになります。心が平静を保てないという事が掉挙(じょうこ)の本性なのです。行捨(ぎょうしゃ)は善の心所十一の一つに数えられ「心を平静正直にならしむる心なり」(『ニ巻抄』)といわれ、奢摩他(しゃまた)は止と訳し、心が寂静になった状態を言います。「行捨・奢摩他」を障碍するのです。行捨・奢摩他は修行に於いていわれることです。止観行といいますね。雑念を止めて心を一つの対象に集中し、正しい智慧を起こして対象を観察する修行のあり方です。心をいつも平静を保った状態で精進と貪らず・瞋からず・愚痴らずという三根を修めていくのです。いわゆる精進努力です。これを妨げる働きが掉挙なのです。

 「掉挙(じょうこ)の別相と云うは。謂く即ち囂動(ぎょうどう)なり。倶生の法をして寂静なら令しむるが故に。」 (謂く囂(かまびす)く掉(ふるっ)て挙動す。是れ此の自性なり。其の倶生する心心所法をして寂静ならざら令むるが故に。)

 囂ーゴウ(ガウ)・かまびすしい。がやがやと騒がしいこと。掉ートウ・チュウ掉舌(トウゼツ)-さかんにしゃべること。掉臂(トウヒ)ー腕を振り動かす、ここはですね、がやがやと騒がしく、落ち着かず、心が揺り動かされることが掉挙(じょうこ)の別相といわれるのです。 


『自己に背くもの』 安田理深述 (16) 業道の超越 (Ⅱ)

2011-11-27 22:17:40 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 今日業といわれてきたものは行為ということである。業、行為ということを深く考えた行為は人間が考える限り必ず結びついたものである。人間が問題ににされるところ必ず行為、自由意志が問題である。仏教でも行為を深く考えたところに業の問題があるようである。親鸞は信巻において論註並びに善導の散善義の解釈と共に、五逆というものについて小乗の五逆とか大乗の五逆とかいうことを述べておられる。一般の五逆について五逆というのは世間の恩田・福田に背くという意味である。一、故(ことさら)に思うて父を殺す、二、故に思うて母を殺す、三、故に思うて羅漢を殺す・・・・・・と「故に思うて」とある。思うというのはここでは俗語ではない。日本語の思うというものではない。仏教の熟語の場合は心所有法の謂である。心所有法、心は意識、即ち意識に属する法である。心に属する法、心法ともいう、心的な存在である。意識的な存在感情とか意志とか表象とか、意志、心的存在である。これは現代語では意志 Will をあらわす。業というのは行為であるが、その本質は意志である。ただ運動というものではない。立ったり座ったりは意志ではない。無記の業である。意志のいかんにかかわらず転ぶ、そこでは行為ということは成り立たない。自由な意志を以て、意志決定を以て断行するところに行為がある。行為は自由を前提としている。しかし自由を前提としているそれのみで行為は成り立つか。それは必要な条件ではあるが十分な条件ではない。 「旅の恥はかきすて」 ということがあるが、そういうことはできない。なぜ行為が大事であるか、それは為すことは自由であるが為したということを捨てることはできぬ。行為にはちょっと待ってくれということができない。あるときにおける、あるところにおける、誰かの自由意志決定である。行為には保留ができない。判断を中止することができない。猶予・躊躇が出来ぬ、猶予すれば猶予したということになる。そういうところに行為のもつ非常に厳粛な事実がある。キリスト教では信仰は決断であるという。決定的な信仰は二十願の信仰である。二十願は決断的信仰である。一心一向ということはそういうことをあらわしている。決断の信仰を語る言葉である。それだから自分を殺すも阿鼻地獄の運命を決するのも、その全権が自分の上にある。自由は行為の欠くべからざる契機であるが、それのみでは十分な条件でない。行為は意志、意志の体験である。意志の経験が行為である。ものがあることは現在である。あるということが現在している。過去はないということ、未来はないということ、現在は刹那という。為したということは時を貫いて残る。することは自由であるが、したことは時と共に消えない。ここに責任ということがついてまわる。この責任ということがなかったら行為ということは成り立たない。この契機が必然である。自由と必然、なすことによって縛られる。為したことは為した昔を限定する。逆に限定される。逆限定である。逆限定ということが行為の本質である。本当に敵を知らんと欲せば自己を知れというが、なるほど逆限定を語る西田哲学の偉いところだと思う。逆限定ということが歴史の論理の原理となる。大体いうと、行為ということと業ということと、言葉の感じが違う。行為という言葉は外国の用語からきている。業というのは仏教でいう。日本語はその両方ともに翻訳されたものである。行為というときは自由な感じがする。創造的行為などといって明るい感じである。業というと暗い感じがする。そこに行為の把握の方法が違う。暗く問題にしているところに東洋人がある。明るく問題にしているところにキリスト教の伝統がある。仏教では行為における責任ということを強くいい、そこに重点をおく。西洋の方は創るという方に重点をおいている。仏教では後を引き受けるという風に重点をおく。そこに行為をいかに把握するかの問題がある。行為の責任というものを誰が引き受けるか。意志か、肉体か、そこに阿頼耶識の問題が出てくる。行為の主体、行為の責任を荷負するものを世間では我という。ヨーロッパでは自我が行為の主体である。仏教では無我、無我というところにはじめて行為が成り立つ。だから業とは責任感という自覚をおさえていっている。つまり人間は自分自ら行為して自らを縛っている。これを自業自得といっている。自己の主体は何か。自己と自我とを区別しなければならない。仏教の区別では自我と自己、自我が行為であるというときは自己を見てない。本当の自己は法蔵菩薩的構造をしている。人間存在そのものが法蔵菩薩的構造をしている。一切を荷負する。重担を荷負するという構造をもっている。自我は嫌いなものは拒否する。好きなものは取り入れる。自己は好悪を離れてそれらを無心に自己としている。自我にはそれができない。行為する自己即意志と引き受ける自己とは段階がある。悪党息子を外にみると自他の対立、相対があるが、一度内観すると意志的な(意志は行為を作るが)行為を引き受けてくれる。一切衆生は悪をつくるが、それを引き受けるのが法蔵菩薩、そういうところに全体責任ということがある。業、そういうことが行為を厳粛に考えた問題である。(つづく)

                     次週はその(Ⅲ)を配信します。


第二能変 心所相応門 (63) 触等相応門 (45) 護法正義を述べる (Ⅳ)

2011-11-26 16:55:44 | 心の構造について

 十遍染師は理と事とは相依しており、不一不異であることから、疑が理を縁じ疑が生起した時にはそこには事が含まれるという主張ですね。事が含まれるということは、当然そこには邪勝解が疑と相応すると理解されます。そしてもう一つの解釈は事にも疑は有るが、その行相は微弱であるため、論書には遍染の随煩悩としては挙げられていないのであるということです。この十遍染師の主張を破斥するのがこの科段です。護法の主張が述べられます。

 「疏に、前の解は但事のみを疑うに約すとは、即ち前に彼の五十八を引いて云わく、疑由五相より、如何有欲勝解二数に至るなり。此の解は彼の事の疑に約して難を為すなり。」(『演秘』第四末・二十二左)

 これが前にも述べましたが、第一解になるわけです。十遍染師は理と事とは相依の関係にあると認めているわけですから、理を疑うということは事をも疑うと云うことになります。それは疑の煩悩(『瑜伽論』巻第五十八)に説かれる他世の五相を疑うということを認めていることに為り、理と事に対して猶予するということになり、決定する邪勝解が存在することは有り得ないことになります。また決定されていない事柄に対して、他世は有るのか、無いのかと疑っているところに邪勝解が働くことはなく、また不確定な事柄に対して邪欲も働くことがないというのが 「且く他世は有りとせんか無しとせんかと疑える彼に於て、何の欲と勝解との相か有る。」(『論』第四・三十五右) という論破になります。

 「疏に、以疑理所引等者とは外は前の難に属す。故に此に之れを釈す。外の難の意の云く、若し事を縁ずる疑は、是れ煩悩ならばまさに見断に非ざるべし。見断は唯だ是れ迷理の惑なるが故に。答の意は詳らかに易し。」(『演秘』)

 見断は誤った教えを聞き、邪な思考をする等を因として後天的に身につけた知的な迷い、その迷いから生じる行為で、見道で断じられるものをいいます。

 第二解は理と事について邪欲と邪勝解が遍染の随煩悩ではないことを論証します。

 「然るに去・来の若しは事、若しは理に於て猶予を生ずは、心は現在を縁ぜず。但だ去・来のみを縁ずるは、何に於てか印を生ぜん。」

 他世の事・理に対して疑の煩悩が生じている時は、心は現在を認識していないということなのです。それが例として未来の涅槃の理を縁じて疑を起こしている時、現在の事を縁じていない。ただ他世のみを縁じているところにどのような邪欲と邪勝解が生起しようとするのか。存在することはない、現在の状況が決定的に理解されていないのだから、と論破します。(「故に知る。欲と解とは染心に遍せず。此れも亦、去・来の理と事とに双べて疑すると云う。」)

 一昨日からの記述と重なりますが考えてみました。

 余談になりますが迷いと云うものは面白いものですね。迷いが迷い自身を納得させようと働くのです。迷っているのは迷わせる原因があって迷っているだけだと。あなた自身に何の迷う原因はない。原因がないのに迷っているのは他に原因があるのだから、それを解決さえすれば迷いは晴れると、迷いが迷いを納得させるのです。「見取等の如し」といわれています。見取とは『(『瑜伽論』巻第十に「見取とは云何、謂く薩伽耶見を除いて所余の見に於けるあらゆる欲貪なり。」と定義され、『論』には「謂く、諸見と及び所依の蘊とのうえに執して最勝なりとなし能く清浄を得すという。一切の闘争の所依たるを以て業と為す。」と定義されています。五見の一つなのです。他の間違った悪見を正しいと認識し、それを自己の見解として執着する心で、それが闘争をもたらす原因となるわけです。闘争の原因となる背景には自己執着心が漂っているわけですが、それが細やかに詳らかに真実を覆い隠しているのですね。闘争という面からは自己との限りない闘争です。それほど自己とは深いものなのです。迷いが迷いを納得させようと働いているのは限りなく浅く、 「行相浅きを以て是れ煩悩にあらず」と。 迷いが迷いを納得させようと働いている底に流れている自己執着心が深いのです。第七末那識相応の煩悩は深いのです。自己自身の根幹に関わる問題です。聞法は自己闘争といってもいいのでしょうね。自己を納得させるものでは有りません。「仏法を聞いて心が落ち着き、晴れやかになりました」と。これは我執が納得しているだけの話ですね。すぐに現実に戻され退転しますから、聞き方を間違えますと仏法を聞いて仏法を利用する、己の利の為にですね。世間の法の選択肢の一つとして利用するという関係になります。仏法を利用しているだけではないのかという目覚めが必要になりますでしょう。そこを突破するというか、この闇を切り裂く働きが名号ですね。南無阿弥陀仏の法です。「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」と。それが限りなく救われることはないという目覚めにつながるのでしょう。

          浄土真宗に帰すれども
             真実の心はありがたし
             虚仮不実のわが身にて
             清浄の心もさらになし


          外儀のすがたはひとごとに
             賢善精進現ぜしむ
             貪瞋邪儀おおきゆえ
             奸詐ももはし身にみてり


          悪性さらにやめがたし
             こころは蛇蝎のごとくなり
             修善も雑毒なるゆえに
             虚仮の行とぞなづけたる

             (愚禿悲嘆述懐和讃より)

 親鸞聖人の法の深信に裏づけされた機の深信の自信に満ちた領解です。

 道草をしましたが次に進みます。次の科段は護法が六遍染師の説を論破します。初は惛沈は遍染の随煩悩ではないという説を論破します。

 「煩悩の起る位に、若し惛沈無くんば、まさに定んで無堪任性有るにあらざるべし。」(『論』第四・三十五右)

 (煩悩の生起しているところに、もし惛沈がなかったならば、必ず無堪任性も存在しないであろう。)

 無堪任性(むかんにんしょう) - 身心が調いのびやかで健やかではない状態、身心が重く不活動であること。不善の心所である惛沈のありかた。無堪任性の対は善の心所である軽安のこと。

 煩悩の生起している状態の時に惛沈という、無堪任性が存在しないと心は染心ではなく善心になる。無堪任性ではなく堪任性であるならばこれは善性になる。煩悩が生起している状態の時に、堪任性が存在するとなれば、それは誤りである。染心にはかなら無堪任性が存在しているのであって、とりもなおさず、惛沈が存在しているのである。「無堪任性を離れては染の性は成ぜずと云へり。是の故に惛沈は定んで染に遍して起こる故に」(『述記』)と。従って惛沈は遍染の随煩悩であると破斥します。


第二能変 心所相応門 (62) 触等相応門 (44) 護法正義を述べる (Ⅲ)

2011-11-25 23:54:17 | 心の構造について

 過去・未来という他世の事を疑う時には、必ず現在に於て勝解の働きが存在する。他世について決定的に理解する(印持)勝解の働きが存在するから(邪)勝解及び(邪)欲は遍染の随煩悩であるという理解が生じる。しかし、護法は「他世は有りとせんか無しとせんかと疑える彼(他世)に於て、何の欲と勝解との相か有る。」と疑義を呈します。他世の有無を疑うということは疑の煩悩が生起していることであって、現在に於て勝解が生起しているわけではない。勝解は決定的に理解する心ですから、他世に対して有るか無いかと不確定な事柄に対しては勝解は働くことないのですから、従って(邪)欲と(邪)勝解は遍染の随煩悩ではない、と論難します。

 「難じて言く、未来は無と為すと疑うときは此れは我見も有るべし。我見は是れ推求(思考すること)なり。若し疑の推求する時には我見無しといはば、印持は是れ決定なり、疑の時にも勝解なかるべし。又他世等の於に疑うときには一心に勝解有りといはば、杭を疑うて人と為す時にも此の心に解有るべし。(『述記』)

 十遍染師は「所縁の事に対しまた猶予するのは煩悩の疑ではない。それは人か杭かと疑うようなものである」と。事に対して疑うのは煩悩の疑の働きではない、と主張していました。しかし、護法は「他世等に対して疑う時に、心に勝解が存在すると言うのであれば、杭を疑って人と為すという時にも勝解は存在するはずである、という。即ち疑の煩悩が理・事に対して疑いを生じる時には邪欲・邪勝解は存在しないと十遍染師の説を破斥します。

 第二解(奪って現を縁ずるの難)

 「二に云く、然るに去・来の若しは事若しは理の於に猶予を生ずる者、心現在の事を縁ぜずした但去・来のみを縁ずるには、何に於てが印を生ぜむ。釈種の涅槃の中に於いて猶予を生ずるは、何の印する相か有るや。故に知りぬ、欲と解とは染心に遍ぜざるなり。

 此れは亦去・来と理・事とに雙べて疑するという。前の解は但事のみを縁ずる疑なり。理を疑って引かれたるを以て亦見道断なり。難じて事を縁じて起こるが故に見道断に非ずとは言うべからず。行相理に迷て事を縁ずるが故に。見取等の如し。此れは行相深きを以て杭を疑うには同じからず。彼(杭を見て人かと疑う)は行相浅きを以て是れ煩悩には非ず。

 此れは第三師の十遍の疑を破しつ。若し爾らば何が故か十と倶なりと説かるや。初の師の解するが如し。」(『述記』第五本・六十二左)

 第二解も第一解と同じ主旨のことをのべていますが、第一解が事に約して難じていることに対して、第二解は理と事とに並べて疑を述べています。去・来という他世の理と事を疑うという時には、他世を認識する為には現世の確定が必要である。現在の事(存在)を認識せずしては他世のことを認識することはできない。そこにどうして印可を生じることができようか。未来の涅槃の理の中に於て疑を生じる時、現在の事をも猶予していることになる。従って(邪)欲と(邪)勝解は染心に遍在するものではない、と破斥します。


第二能変 心所相応門 (61) 触等相応門 (43) 護法正義を述べる (Ⅱ)

2011-11-24 23:14:21 | 心の構造について

 護法は上来述べてきた第一説、第一師及び第二説、第一師(五遍染説)・第二師(六遍染説)・第三師(十遍染説)の説は理にかなわないことを述べる。

 「有義は前の説は皆未だ理を尽くさず。」(『論』第四・三十五右)

 (有義(護法)は、前の説はみな未だ理を尽くしたものではない、と主張する。)

 「述して曰く、護法菩薩なり。第四の説と為す。中に於いて三有り。初は総じて非す。次は理を申ぶ。後は総じて結す。此れは初なり。」(『述記』第五本・六十二右)

 (初にすでに述べられた第二説三師の説は理を尽くしたものではないと述べる。次には護法の正義である八遍染説を説明する。後はまとめて結ぶのである。これは初である。)

 正義である八遍染説を述べる前に、何故に五・六・十遍染説は理を尽くしたものではないのかを述べ、論破します。すべてを否定するのではなく、遍染と認められない心所を破斥します。

 次は八遍染説を説明する。(「下は理を申ぶ。中に二有り。初は遍の随を顕す。後は此の識と倶なるを云う。初の中に二有り。初は前を破し、後は遍を顕す。此れは前の説を破す。」(『述記』第五本・六十二左)

 第三師を破斥する。

 「且く他世は有りとせんか無しとせんかと疑える彼に於て、何の欲と勝解との相か有る。」(『論』第四・三十五右)

 (他世(現在の世界以外の他の世界である来世のこと)が有るのか無いのかと疑う他世に対して、何の邪欲と邪勝解の相があるのであろうか。)

 十遍染説の中の邪欲と邪勝解は遍染の随煩悩ではないと破斥し、その他の遍染の随煩悩は承認するという論法を用いて説明しています。

 十遍染師が主張する邪欲と邪勝解が遍染の随煩悩である説明は既に述べてきましたが、疑の煩悩は理のみを疑うという立場にありました。問題は理と事は別であるのか(「何故か理に疑し事に印することを須いる」)、に答えて事と理は認識対象は別ではあるけれども、事と理は相依相関関係にあるのであって、疑が理を認識し疑ったときにはそこには事が必ず相応する。認識対象に理と事が有って、疑は理を認識し、(邪)勝解は事を認識するのであって、理を疑う時にも事に於て印持する(邪)勝解は存在し、疑と(邪)勝解は相応するといい、事にも又疑は有るけれども、その作用は微隠であり(邪)勝解は遍染の随煩悩であると主張していました。邪欲も同様の説明がされていました。

 理と事が相依(不一不異)であるならば、疑は理のみを疑うということであっても、事もまた疑うことになる。理と事に於て疑うということがあれば、(邪)勝解は存在しないことになり、十遍染師の説は成り立たないことになるのではないか、という問題が生じてきます。

 論破の第一解のⅠ(教を引いて論難する。)

 「汝は理に於て疑を生ずるに、必ず事印を帯せりと言うといはば、五十八等に説けるが如し。疑は五相に由る。謂く他世と作用と因果と諸諦と実との中に於て、心に猶予を懐けり。即ち事に於て生ずる疑も亦是れ煩悩なり。汝何故か事に於て疑うは煩悩に非ずと言う。既に事に於て疑も是れ疑惑ならば、如何ぞ欲と勝解と二の数有らん。・・・・・・」(『述記』第五本・六十二左)

 「他世(現在の世界以外の他の世界である来世のこと)が有るのか無いのかと疑う他世に対して」というのは、疑の五相に由るわけです。煩悩の働きです。煩悩の働きによって、有るのか、無いのか不確定な他世(事)に対して邪欲・邪勝解は存在せず、従ってこの二は遍染に随煩悩ではないことが明らかにされるわけです。

 論破の第一解のⅡ(救(くー 救済)を挙げて論難する。)

 「若し彼しこにのたまう、他世の於に疑するときには、必ず現在の於には印可を生ず。未来世の中にして希望を生じて、無きか或いは有るかとする。故に現在に於て罪を為ると福と為ると差別有るが故に、他世を疑するが中に於ても亦理に迷へり。(未来世の)理に迷はずして而も(未来の)事に迷うのみには非ず。故に現(在の事)の於に印するときにも亦勝解有りといはば、難じて言く、」

 十遍染師の説を一応認めたとして、三世を考える時には、必ず現在の上に於いて確定をするわけです。この時、現在の事には邪欲も邪勝解も存在し、疑と邪欲・邪勝解は相応するから邪欲・邪勝解は遍染の随煩悩であると、十遍染師の説を救済しつつ、論難します。   (つづく)          論難については明日、伺っていきます。


第二能変 心所相応門 (60) 触等相応門 (42) 護法正義を述べる (Ⅰ)

2011-11-23 14:48:50 | 心の構造について

 第七識相応の心所について、その正義とは何かに答えているのが、第四師の説である護法の説です。護法正義といわれています。その内容は『論』の記述に従って伺っていきますが、先ず、その要旨を述べてみます。

 第七末那識は十八の心所と相応する、というのが正義になります。

 「惛沈と掉挙と不信と懈怠と放逸と忘念(失念)と散乱と不正知となり。」

 「然も此の意と倶なる心所は十八なり。謂く前の九法と八の随煩悩と並びに別境の慧となり。余の心所無きことと及び論の三文とは。前に准じて釈すべし。」

 即ち、根本の四煩悩と五遍行と別境の慧と随煩悩の八が第七末那識と相応する、といわれ、捨受相応になります。第七末那識は無始已来任運に一類に相続するから、憂・喜・苦・楽の変異受とは相応しないからです。

 第七末那識の性格は恒審思量といわれていますように、恒に細やかに我を思いつづけている働きなのです。ですから恒に真実を覆い隠し、心を染汚していくのです。そのことによって自らが自らを縛っていくという性格をもっています。

 そして八つの大随煩悩が第七末那識と倶に働くわけです。根本煩悩と倶に八大随煩悩が働きます。この大随惑といわれる煩悩は不善と有覆無記との両方に働きますが、第七末那識と相応するときには有覆無記として働きます。不善は麤動に働きますが、有覆無記の働きは審細なのです。自覚することが非常に難しいというより、不可能なわけです。ここに聞法の課題があるように思われます。

 「しかるに常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽実に獲ること難し。何をもってのゆえに。」(真聖p211)という課題です。

 最後が別境の慧の心所が第七末那識と相応するということです。慧の心所は「所観の境の於に簡択するを以て性と為す」といわれています。我と我所を簡択する心所なのですね。自分と自分のものを明らかにし、恒に自分の利益になるように働いていくエゴイズムです。それが自と他(自尊損他)を分ける働きを持つ慧の心所なのです。無意識的に、いわば自己防衛本能として意識の底に漂っている我執なのです。我執を乗り越えようとする意識を覆い隠そうとする潜在的意識が働いているのですね。

 では『論』の記述に従って学びをつづけていきます。


第二能変 心所相応門 (59) 触等相応門 (41)

2011-11-22 23:48:50 | 心の構造について

 「問、(邪)欲と(邪勝)解とは染心に遍すと云はば、論の文に何ぞ説かず。」 (問う。邪欲と邪勝解とは染心に遍在する遍染の随煩悩であるならば、どうして論書の中に邪欲と邪勝解を遍染の随煩悩とは説いていないのであろうか。)

 論書は五遍染説の根拠として挙げられる『阿毘達磨集論』巻第四や、六遍染説の根拠として挙げられる『瑜伽論』巻第五十五等を指します。(五遍染説や六遍染説の項を参照してください。)

 「余処に此の二を遍と説かざることは、非愛の事を縁ずるとき、疑と相応するときに、心の邪欲と勝解とは麤顕に非ざるが故に。」(『論』第四・三十五右)

 (他の論書にこの二つを遍染の随煩悩と説かれていないのは、非愛の事を縁じる時と、疑と相応する時に、心における邪欲と邪勝解は麤顕ではないから説かれていないのである。)

  •  非愛の事を縁じる時 - 自分にとって愛せない、好ましくない、或いは憎い対象を認識する時。
  •  疑と相応する時 - 疑の煩悩が理を疑う時のこと。

 従って、「非愛の事を縁じる時」と「疑と相応する時」は心の状態が麤顕(はっきりと認識されるありようをいい、強力であるということ。)ではなく、微弱であるが故に、他の論書には遍染の随煩悩として挙げられていないのである、という。作用は微弱であるが、体は有るということからこの二つは遍染の随煩悩であるといえるのであると。

 「述して曰く、余の論に此の二を遍と説かざることは、此の二は体染心に遍ぜりと雖も、若し非ありの事を縁ずるときは、情に則ち此の事を欲せず。疑を理する時には理を印せざるに由ってなり。此の二の境が於に、欲と勝解とは相麤に非ざるが故に。体は細にして是れ有とも相は顕著に非ず。説かざることは麤顕なるに約するなり。体を論ぜば実に是れ有なり。此の二が時には即ち欲と解と無きを以て説いて遍と為さずと云うことを顕す。此は体有るに據って所以に遍と言う。」(『述記』第五本・六十一右)

 「余は互に有無なることは、義いい前に得が如し。」(『論』第四・三十五右)

 (他の遍染の随煩悩の互いの有無については前に説いた通りである。)

 「述して曰く、五と云うが中に余の忘念等の三無きことは、六と説く家の其の五というを会するが如し。六と説くが中に沈と掉との二無きことは、五と説く家の六と説けるを会せるが如し。余の互に有無なることは、故に前に説くが如しという。」(『述記』第五本・六十一左)

 五遍染説は惛沈・掉挙・不信・懈怠・放逸が遍染の随煩悩であると説き、忘念(失念)・散乱・不正知の三が除かれていることは、六遍染師が五遍染説を会通するようなものであり、六遍染説に惛沈と掉挙の二が説かれていないのは、五遍染師が六遍染説を会通しているようなものであって、他の互いの随煩悩の有・無については五遍染説と六遍染説を述べた通りである、といいます。

 「此の意の心所は二十四有り。謂く前の九の法と、十の随煩悩と、別境の五を加うるとぞ。前の理に准じて釈せり。」(『論』第四・三十五右)

 (以上述べてきたように、十遍染を説く師の説は、第七識と相応する心所は二十四ある。つまり前の九つの法と、十の遍染の随煩悩と、別境の五つを加えたものである。前の理に准じて解釈せよ。)

  •  前の九つの法 - 四煩悩(我癡・我見・我慢・我愛)と遍行の五(触・作意・受・想・思)
  •  十の遍染の随煩悩 - 掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸・忘念(失念)・散乱・不正知・邪欲・邪勝解
  •  別境の五 - 欲・勝解・念・定・慧

 「余の心所無きことは、上の如く知る応し。」(『論』第四・三十五右)

 (他の心所が第七識に相応しないことは、上の通り知るべきである。)

 「述して曰く、下は無を弁ず。此れと相応する善の十一と不定の中の四と根本の六の惑と忿等の諸随と無しと説くことは上の如く准じて説くべし。」(『述記』第五本・六十二右)

 十遍染師が説く第七識に相応しない心所について説明される。善の心所のすべて・四煩悩以外の煩悩・十遍染以外の随煩悩・不定の心所である。これらの理由については上のとおり知るべきであると。「此の意の心所は、唯四のみ有りや。」(『論』第四・三十左)以下の所論を指しています。随時参考にして下さい。

 以上で五遍染説・六遍染説及び十遍染説の所論がすべて述べられ、次の科段より護法の正義である八遍染説が述べられます。


第二能変 心所相応門 (58) 触等相応門 (40)

2011-11-21 22:10:46 | 心の構造について

 「問う。若し理の於に疑する時は必ず事の於に印す。若し事の於に疑する時は則ち印する所無しといはば、此の疑と相応するに便ち邪解無けん耶。解の法は染に遍せざるべしなり。」(『述記』)

 (問う、若し事に対して疑うことがあるならば、それは事に対して印持しないことになり、疑が事を疑うときは邪勝解は存在しなのではないのか。邪勝解は疑が生起している染心では起こりえないから遍染の随煩悩ではない。勝解は猶予の境に於ても疑心の中にも亦審決ではない心にも生起しないのであるから。)

 「所縁の事の於に亦猶予するは、煩悩の疑には非ず、人か杭かと疑うが如し」(『論』第四・三十四左)

 (所縁の事に対し亦猶予するのは煩悩の疑ではない。例えば人か杭かと疑うようなものである。)

 十遍染師の答えは、事に対して疑うのは煩悩の疑でなはく、それは何かを見て、人か杭かと疑うようなものである、という。

 「述して曰く、若し事の中に於て独り疑を生ずる者は、此れは是れ苦の事か此れは苦の事に非ざるや。理に迷うて疑を生ぜる者は此れは煩悩に非ず。杭を疑うて人かかと為すが如きぞ。是れ異熟生の無記心に摂したり、染汚心には非ず若し是れ染心には必ず邪欲有り。故に此の(異熟無記)心の中には邪勝解無し。(大乗は)勝解は是れ遍行の法に非ざるが故に。」(『述記』第五本・六十右)

 事に疑いが生じても、何かを見て人か杭かと疑うような日常の単純な間違いから生じるようなものであり、そこに邪勝解が存在しなくても疑と邪勝解は相応しないというような意味ではない、という。これは(事に対して疑うこと)異熟生の無覆無記心の働きであり、染汚心ではない。若し染汚心であるならば必ず邪欲も倶に存在する。異熟無記心の中には邪勝解は存在しない。しかし勝解は遍行の心所である、というのが十遍染師の問に対する回答になります。

 疑が理のみを猶予し、事に対しては煩悩の疑ではないから、疑と邪勝解とが倶に存在するのに何等問題なないと主張します。


『自己に背くもの』 安田理深述 (15) 業道の超越 (Ⅰ)

2011-11-20 18:07:13 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 問曰 『業道経』言業道如称重者先牽・・・・・・(『業道経』に言はく、業道は称の如し。重きもの先ず牽く・・・・・)(真聖p192・聖全Ⅰp309)

 これは第六番目の問答である。ここからまた問題の内容が新しくなってくる。仏教の経典は業道を語っている。業道経は特定の経典ではない。業道経とは何経を指しているのか明らかでない。業道は秤の如く重いものが先ず牽くということが業道についていわれている。ここでは五逆罪であろう。五逆罪ということが業道ということになっている。それが観無量寿経によってみると、十念念仏によって五逆罪を犯したものが救われるといってある。そこに新しく問題を出しておられる。観経下々品の場合は迴真懺悔して十念念仏すると五逆罪を犯したものも往生することができると 「人ありて五逆十悪を造り諸々の不善を具せむ・・・・・・無量の苦を受くべし」 そういう五逆等の罪を犯したものは悪道に堕するという。これは一つの業道自然の道理として重きもの先ず牽くという必然性である。しかるに 「命終の時に臨んで善知識の教えに遇うて南無阿弥陀仏を称えしむ・・・・・・」 これは観経のままの言葉ではない。ここにこれに続いて 「安楽浄土に往生して即ち大乗正定聚に入ることを得」 とあるが、観経にはこの大乗正定聚の言葉はない。これは曇鸞大師の信仏の因縁を以ての易行道という大師のお考えによって、下々品の趣意を取って述べられた言葉である。つまり五逆を犯した罪人が十念念仏即ち念仏の信心によって、永遠に業道自然を超えて安楽浄土において不退を得ると。故にこれは観経下々品と大経本願成就文とを二つ一緒にしたお言葉である。

 「是の如く至心して令声不絶十念を具足して便ち安楽浄土に往生して即ち大乗正定聚に入りて畢竟して不退を得て三途諸苦を永く隔てむ」(聖全p309 - 「問曰。『業道經』に言たまはく。「業道は稱の如し。重き者先づ牽く」と。『觀无量壽經』に言たまふが如し。人有りて五逆・十惡を造り諸の不善を具せらむ。惡道に墮して多劫を逕歴して无量の苦を受くべし。命終の時に臨て善知識の敎に遇て南无无量壽佛と稱せむ。是の如き心を至して聲をして絶へざらしめて、十念を具足して便ち安樂淨土に往生して、即ち大乘正定の聚に入て、畢竟じて退せず。三塗の諸の苦と永く隔てむ。」)

 これは本願成就の文のお言葉である。それを下々品に一緒にして述べられたものである。つまり念仏の信心を得れば、永遠に業道自然を断つ、そうすると業道自然の道理というものはどうなるのか。五逆罪を造ったものが、五逆罪のみならずそういう罪を造ったものが、ただ十念念仏で業道自然を断つというのはどういうわけか、十念念仏と五逆の罪とを較べてみると五逆罪の方が重い。重いものが先ず牽かねばならぬ。こういうことであれば業道経と観無量寿経とは矛盾する。

 先づ牽くの義、理に於て如何ぞ。又曠劫より已來、備に諸の行を造て有漏の法は三界に繋屬せり

 こういう風に重ねて業には先ず牽くという義に今一つ繋がれるということがある。無始嚝劫已来悪業を造って来た罪人が、十念によりて業道自然に超越するということはどういうことか、こういう問題である。先ず牽く、業を造ったものは三界に繋がれるという繋業の義という業道の道理と、念仏の信心との間にいかにしても否定することのできぬ業道の必然性を破壊するという難がありはしないかというのである。        (つづく) 次週はそのⅡを配信します。