唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(3)

2019-12-29 10:54:13 | 心の構造

 おはようございます。一週間あっという間ですね。そして年末も押し迫ってまいりました。慌ただしくお過ごしのことと思います。本年最後のブログになりますが、来年度も引き続きよろしくお願いいたします。
 「唯識入門」といえ、かなり難解な熟語が出てまいります。出来るだけ現在の言葉に置き換えてご理解していただけるように努力を重ねてまいりますので、よろしくお願いいたします。
 仏教といえば、すぐに「悟り」を連想されると思いますが、唯識は、初めから悟りを目指すのではなく、悩み、苦しんでいる(苦悩の群萌)に対して、正しい仏教理解をしていただけるように、心の構造を開いて、先ず、理解を深めていただきたいと願っているのです。
 私が、苦しんだり、悩んでいるとき、何に苦しみ、何に病んでいるのか?あまり深く考えたことはないようです。それは「私という存在」が自明の理だからですね。物事を考えるときに非常に大切な要素なのですが、脆い弱点を持っています。私たちは、ごく自然に(普通に)自分を立てて日暮をしています。日暮は蜩とも書きます。せみのことですね。自分の境遇を知らないという譬えに使われることがあります。その為に、どうしても自己本位にならざるを得ません。そこに隙間ができてね、言葉巧みにつけこんでくる集団があります。これはね、集団が悪いのでℋなく、つけこまれるこちら側に自己本位という隙間があるからなのです。
 そこで、仏教というと、抹香臭いとか、お説教というイメージが付き纏います。そして現在社会の中では、一つのセクトのように考えられています。そういうイメージを払拭するためにも、先ず初めに、認識はどのように成り立っているのかを、フッサールの現象学から主体と客体の関わりを簡単に学んでいこうと思います。
 唯識的に説明しますと、認識は、主体は客体に依り、客体は主体に依って成り立っているのですね。ですから、主体そのもの、客体そのものには意味はないのです。認識が起こって初めて意味が付与されるのです。この過程で間違いが起こるとフッサールは指摘します。noema(ノエマ)・noeshisu(ノエシス)という概念がでてきます。認識構造を分析すると、認識は認識する側を、精神的な知覚作用としての「考える作用」を意味するといいます。これがノエシスにあたります。そして客体である認識されるものをノエマと表現しました。考える作用が認識されるものに指向したときに、具体的に認識が自覚されるのです。
 ここですでにお気づきの皆さんがおいでになると思いますが、主体が問題であると教えているわけですね。仏教的に表現すれば、客体は縁であり、主体が因であって、その相対関係の中で現実が色を帯びてくるということになります。
 今日はここで閉じます。また。