唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第九 起滅分位門 (12) 五位無心 (10)

2016-12-31 09:28:15 | 第三能変 第九・起滅...
 
 大晦日、皆様方には大変おせわになりました。ありがとうございます。ブログは、多分僕の好き放題で綴っていると思います。そのことが自分への問いと為って、また学ばせていただいております。パソコンも、一方的な発信ということになりましょうが、思惟をすることに於いては有意義なものであるようにも思われます。
 年明けも、こつこつ発信して行けたらと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。m(__)m

 本年度最後の投稿になります。「無想定を修して無想天に生まれる」一段を読ませていただいております。 
 投稿は重複するかもしれませんが、無想状についての記述を読ませていただきます。
 
無想定は、謂く有る異生の、遍浄までの貪をば伏するも上の染をば伏せずして、出離想の作意を先と為すに由って、不恒行の心・心所をして滅せしむ。想を滅するを首と為すに無想と云う名を立つ。身を安和ならしむるが故に亦定と名く」(『論』第七・十一左) 
 (意訳) 第一段五義がだされます。(1) 異生 (2) 遍浄(3) 出離想 (4) 不恒行 (5) 想滅為首 
 をもって無想定を解釈しています。概略はこの一段で云い尽されています。
 無想定という定は聖者の厭うものでであり、凡夫の類は第三禅天の遍浄天までの貪欲を滅することはできても、第四禅天の染汚を滅することが出来ずに、無想天を想い出離涅槃の想を作してこの定を修して不恒行(前六識)の心・心所を滅すると云われています。しかし想を滅することを首(主題)とするので無想という名が与えられているわけです。「入定前の定力に依って身をして安和ならしめられること有心定の如く」であるので、また定という名を与えた。ということになります
出離想作意(シュッリソウサイ)に基づいて、不恒行(六識)の心・心所を滅した定で、解脱を求めるのではなく、今の境遇を受け入れられずに、その場所から逃避するために意識活動を停止する。無心といわずに、無想というところに、此の定の意味があります。
 想は遍行(触・作意・受・想・思)の心所一つですが、想は知的な束縛をもたらす働きがあるといわれます。
 「想とは境のうえに像をとるを以て性と為し、種々の名言を施設するを以て業と為す」と。言葉による束縛から離れて身を安和ならしめることが無心であるといい、この状態を解脱と考えているのですね。「身を安和ならしむるが故に亦定と名く」といわれていますが、定は心の状態ですね。「心を専注して散ぜらしむる」、心一境性と定義されていますが、定の世界は身を安和ならしめるのですね。身が安らかに和むと。こいうところに誤解が生まれてくるのでしょうね。無想定を修して得られた果が解脱であるという謬りです。ここを明らかにするのが『論』の役割なのでしょう。私たちの聞法も同じことだと思います。造論の主旨に「二空の於に迷・謬すること有る者に正と解とを生ぜしめんが為の故なり」と。        
          
          「仏智不思議をうたがいて
            善本徳本たのむひと
            辺地懈慢にうまるれば
            大慈大悲はえざりけり」 (正像末和讃)

 参考文献 『述記』
 
 「述曰。 この下は別解なり。文は六に分かつといえども、義に十一有り。
 (異生)とは一に得する人を顕す。聖はこれを厭うが故に。
 (遍浄)とは謂く第三禅天なり。第四禅以上の貪を猶未だ伏せず。二に離欲を顕す。
 (出離想)とは三に行相を顕す。即ち涅槃の想を作すなり。
 (不恒行)等、滅とは四に所滅の識の多少を顕す。
 (想滅為首)等とは五に定の名を釈するなり。
 謂く有心定は身心ともに平等ならしむるを安と名づく。怡悦(いえつ)するを和と名づく。いま無心定は定前の心力によって身をして、平等和悦ならしめること有心定の如くなれば、また名づけて定と為す。義が彼と等し。この体は前の第一巻に説けるが如し。二十二法(心王・五遍行・五別境・善十一)の滅する上に依って仮立す。以上、総じてこれ第一段の文なり。五義あるなり。
 何を作し染を伏して定に入るとならば、瑜伽の第十二に説く、 問、 何の方便をもってこの等至に入るや。 答、 想は病の如し、癰(ヨウーはれもの)の如し、箭(ヤ)の如しと観じ、第四定に入り、想を厭背(おんはいー忌み嫌うこと)する作意を修し、生起するところの種々の想の中において、厭背して住す。ただ無想のみ寂静微妙なりとおもい、無想の中において心を持して住す。かくの如く漸次に諸の所縁を離れて、心は便ち寂滅すといえり。・・・」(『述記』第七本・六十三右)

 無想定の六段十一義の要である第一段五義の説明をしました。まとめますと、(1)得する人を顕す。 (2)離欲を顕す。 (3)行相を顕す。 (4)所滅の識を顕す。 (5)定の名を釈す。どのような人が、どのような欲を離れ、どのような認識のあり方をし、そしてどのような識を滅するのか、それは何と名づけられる定なのか、ということを述べられています。次に第二段・第六の義から第六段・第十一の義が解釈されます。概略を述べまして、滅尽定の説明に移ります。
 • 第二段の文・第六の義。三品修(上品・中品・下品)を云う。「此の定を修習するに品の別なること三あり。」
 • 第三段の文・第七の義。地繋を云う。 「此の定はただ第四静慮のみに属す。」
 • 第三段の文のうち第八の義。三性分別。 「又ただ是れ善なり。」
 • 第四段の文・第九の義。四業に於て分別する。 「四の業於ては三に通ず。順現受をば除く。」
 • 第五段の文・第十の義。起界地を云う。二義が述べられ、第ニ義を勝と為す。 「欲界に先に修し、色界において受果の処を除き、余の下の一切地(下三禅)・或いは一切処(下三禅と第四禅の下三天)において、みなよく重ねて引いて現前せしむ。」
 • 第六段の文・第十一の義。漏無漏を云う。 「此れは想を厭いて彼の果を欣って入するに由って、故にただ有漏なり。聖の起こる所には非ず。」
 以上が無想定の説明になります。無想定は有漏の定なのです。
 それに対して、次に述べられます滅尽定は無漏の定であると説明されます。
 第六段・第十一義の『述記』の解釈を見てみましょう。
 「述曰。下は第六の文、第十一の漏無漏なり。凡聖をいうといえども、初の文にすでに異生と説くをもって、さらに別の門なし。 (何故、ただ有漏であって無漏に通じないのか、という問いに対して) 想を厭い、かの無想の果を欣い、この定に入るが故なり。 (教証をもって答える) 『瑜伽論』五十三に説く。「無想定には無漏の慧が現行することなし。此れより上には勝れたる住(滅尽定)と及び生(五浄居・無色界)とあるを以ての故に、未だ証得せざるところの諸の勝れたる善法を、証得する能わず。これに由って稽留誑横(ケイルオウオウーあざむきとどまってまげる)の処なるが故に、聖の所入にあらずといえり。・・・」(『述記』第七本・六十七左)
 次科段より滅尽定について説明されます。

第三能変 第九 起滅分位門 (11) 五位無心 (9) 雑感

2016-12-29 10:56:15 | 第三能変 第九・起滅...
  

 唯識では、五位無心という、意識が働かない時がある。意識は恒に働いているわけではなく、間断があるといわれています。間断が有るといわれて、自己が無くなってしまうのかと云うとそうではないのですね。有間断の底に恒に自己を思い続ける、恒相続の意識(第七末那識)が動いていると見抜いてきたのです。
 恒相続は生存中と云うだけにとどまらず、現在・過去・未来を包んで恒相続だといわれています。私は私から逃げる事を許さないのです。厳しさというより、道理なのでしょう。
 摂取不捨とうお言葉が有りますが、「摂取」という意味は二通りあるように思います。。一つは信心の行者を救い取って離さない、ということでありましょう。もう一つは、私は私から逃げる事を許さない、私は私に成ることの他に生きる事の意味はないのだということを、命の底から願いつづけている。このことは、私が私自身の「生まれたことの意味」なのでしょう。
 仏教徒は其の中から、いろいろな過ちを見出してきたのですね。この五位無心も、信心の落とし穴になるわけですが、緻密に、自分の心を分析しています。
 意識が働かない時が有る、無心の状態ですね。この無心の状態に自己を埋没させることに甘い期待を抱いているんだと指摘します。
 『論』の説かれるところは、無想定という禅定を修して、その果報として無想天に生じると、いわれているわけです。ある意味、出離解脱をもとめるわけです。そこに開かれてくる世界は永遠の楽土であると。そういう作意をもって無想定というものが得られ、色界第四静慮を解脱地と考えているわけです。第四静慮・広果天に於いて完全に意識活動が停止するとされますから。そこが解脱地だと間違いを起こすわけです。意識が停止状態であって、意識がなくなったわけではないのですね。記述によりますと、五百大劫の間、無心という状態がつづくといわれています。しかし醒めれば、色界第四静慮から転落して欲界に逆戻りするわけです。この記述は何を意味しているのでしょうか。
 私たちが生活しているこの場所は欲界だといわれています。何故かといいますと、欲望がみなぎっている世界、自我欲を中核として成立している世界が欲界といわれていますね。自我欲の裏返しが苦脳満ち溢れる世界と、云い換える事が出来ると思います。苦脳と共に生きていますから苦脳を離れる、苦脳しない世界を求めるわけでしょう。それが自我欲を満足させることであると思い違いをしている世界を、欲界と云い現わされたのではないでしょうかね。
 「満足」をしたいという思いが、宗教に求める方もおられるでしょう。または世俗のいろいろな誘惑に自己を埋没させることで、一時的に満足を得ようとされる方もおられるでしょう。一時的な満足ではあっても、その世界に沈んでいる間は無心でおられるわけですね。一時の世界に没我したい、そこでストレスを解消させたいという願望があるわけでしょう。何もかも忘れて熱中し、無心になれるという時間を生んでくるのではないでしょうか。間違いではあってもです。これは一種の天に身を置いている状態ですね。しかし、縁が尽きれば現実に戻されますから、この繰り返しをつづけざるを得ないのです。
 また「宗教」の世界にも、このような問題があります。無想天が究極の目標であると、錯覚を起こさせるわけです。新興宗教の世界に多く見受けられます。世俗の欲求としての無心の状態より根が深い問題です。宗教という名の外道に没我すると云う問題です。宗教を対象的に捉え、集団の中に自己を埋没させ、それが幸福であると思いこむ、或いは幸福であると思いこませることです。仏の教えを信、行じて、証を得る。これが教行証という仏教のあり方なのですが、これを巧みに歪曲し、“この信心はすごい”という迷文句を生みだしてくるのです。“願いは必ず叶う”・“冬は必ず春と為る”という元の意義をすりかえて、信心をしなさい。そして功徳を頂くのですと。その為に新聞・雑誌等々、布施という名の財務を半ば強要してくるわけです。新興宗教の大部分は必ず入会届を出させます。家族構成まで書かせます。それで、入会届を出すとですね、信心が成立したことになるのです。“この信心は必ず幸福になれるんですよ、すごいですね”が合言葉になり、洗悩という思想改造が始まるのですね。ここには「自己を問う」、ということはありません。これは自我欲を巧みに利用しているわけですが、この自我欲に気づかせないように休息を与えないのです。ですから入会した人たちは自己欲求達成のために、一生懸命に、会の為に励む日々を送るわけです。そしていつの間にか、その場所が居心地の良い楽土と、思い込むのですね。この場所に陥ってしまいますと、そこが解脱地となり、永遠に目覚める事が出来ないという過失を犯すことになってしまいます。修道の問題でいえば、「空に沈む」ということななるのでしょう。
 親鸞聖人は「聞不具足・信不具足」として信心の内実を確かめておいでになります。聖教の言葉では「然に名を稱し憶念すること有れども、无明なほ存して所願を滿てざる者」、称名憶念すれども、無明がなお存して志願が満てないのは何故か、という問題になるのでしょうか。私たちはいつでもどっかに逃げ込んでしまいたいと云う欲求をもっているのでしょうね。ですから無想天という問題が大きく取り上げられている理由になると思うのです。私たちが簡単に陥ってしまう信心の課題になると思われます。
 明日より、第三能変に戻ります。
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 補足
 菩薩の行位と修行の階位について

 十住(初住<十信も含める>~第十住

 十行(初行~第十行)       

 十回向(初回向~第十回向)

  第十回向が二つにわかれ 第十回向(初住より第十回向を三賢(順解脱分)-資糧位

  満心 - 四善根(順決択分) -加行位   

 資糧位と加行位が初阿僧祇 - 方便道

ここまでが地前の菩薩といわれます。以後の初地より第十地までを地上の菩薩とよばれます。

 次に通達位に入りますが、見道ともいわれ、ここで初めて(入心)無分別智の一部が現行し、真理を見るといわれています。

 十地(初地~第十地)

  初地 - 入心 - 見道 - 通達位

      - 住心 -

      - 出心 - }修道 - 修習位 

  第十地(等覚を含む)

 初地より七地以前を第二阿僧祇・八地以上を第三阿僧祇となり第二阿僧祇と第三阿僧祇を聖道となり方便道とあわせて因道となります。

 仏果 ― 無学道 ― 究竟位 ― 果道

 よく初発心から仏果に至るまでの修行の時間が三大阿僧祇劫かかるというのはこういう意味があるわけです。仏果に至って初めて自利利他が円満成就すると教えられています。

雑感 大掃除に感じた事

2016-12-28 20:40:21 | 雑感
  

  大掃除に感じた事。
 お釈迦様のお弟子に周利槃特(梵語:Cūḍpanthaka)英語ではCuuda-pantaka (チューダ・パンタカ)という方がおられました。皆さんもよくご存じだと思います。
 レレレノレのおじいちゃんですね。このお方は、修行が出来きず、阿羅漢になることが出来ずにおりました。ある時、お釈迦様が「塵や垢を除け」と唱えなさい、そして精舎を払浄せしめるように勧められたのです。彼はそれにより、汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟り、ついに仏の教えを理解して、阿羅漢果を得たとされています。
 普段の掃除とは違い年末の大掃除はほんとに大変です。見えないところや、普段は掃除をしないところは垢がこびりついています。掃いても、拭き掃除をしても落ちません。マジックリンしか有りませんね。
 逸話から思えることは、塵や垢は煩悩でしょう。見えるような塵・垢は問題ではないんですね。普段から掃除をしていますからね。しかし塵・垢を放置しておきますと、溜まります。溜まって、下の方はこびりついて落ちません。
 これはね、日常の生活の中でいろいろと起こってきます悩みや迷いは見えてるものなんですね。これはたいしたことないんです。仏教では分別起の煩悩と言っていますが、私たちがよく耳にする言葉では、我執です。我に執われている自分が居て、その上に生活をしているということになりましょう。ですから、眼が外に向いているのと同じように、自分に離れて有るものによって自分の心が乱されると思っています。
 少し戻りますが、掃除と云う一つの行為も大切なことに違いは無いのですが、いくら掃除をしても目覚めは生まれてきません。何故なんでしょう。
 僕の経験の中で思い出すことがありました。茶道の稽古に通っていたのですが、いつの頃からかお稽古場の御庭の掃除をするようになり、お稽古がはじまる前に、打ち水をしてお迎えをするようになりました。
 その当時は禅宗の論書である『碧巌録』や『正法眼蔵』なども読んでおりましたが、茶道に関する本もよく読みました。
 有る時、利休の修行時代の逸話ですが、綺麗に掃き清められ、打ち水もされたその時にですね、一本の樹の枝を揺り動かした打ち水の上に枯れ葉が舞い落ちる風情を演出されたのですね。見事な光景だと思うのですが、それをまねするんですわ。
 それはね、形だけです。何の意味もありませんでした。背景がないからですね。
 周利槃特は釈迦のお弟子の中で、もっとも愚かで頭の悪い人だったと伝えられていますが、本当にそうだったのでしょうか。僕は聡明な人だったと思うのです。お釈迦様猶ご説法を身で聴いておられたんだと思います。それが掃除をされることの異於いて、説法が聞こえたんですね。
 このことは、私の人生に大きなインパクトを与えているように思います。
 「私は何を依りところとして生きているのか」という問いに繋がるんだと思います。
 善導大師は「曠劫以来常に没し、恒に流転して」この身をいただいたと表白されていますが、仏教の覚りは「無始以来ずっと流転してきた」という目覚めが、新たな生の誕生になると教えていたんだろうと思うのです。
 流転は迷いですが、迷いは自己中心の考え方から漏れ出しているものです。それは塵や垢のようなものではなく、掃いても掃いても掃ききれない、頑固な汚れなんですね。
 この汚れは、教えに遇うことに於いてしか拭い去ることはできないのでしょう。ここに、僕は宗教の役割が有ると思うのです。
 例えば、「何々を信ずる」という行為は、「信ずる」主体は「私」ですね。この「私」が問題になったところから開かれてくる世界が「信」の世界でしょうね。
 曠劫以来流転してきたこたが「私」に出遇えた御縁であったという感動だと思います。私たちは、「自分」に出遇いたいんですよ。求めているんです。それが間違った方向に進んでトラブルを起こしてしまうのですね。間違いをを起してしまうほど煩悩がこびりついているんです。
 煩悩はお客様、人間本来のこころは「澄み切った清らかな水のようである」とする学派もあるのですが、いかがなものでしょうか。
 親鸞聖人は『正像末和讃』で「罪業もとよりかたちなし/妄想顛倒のなせるなり/心性もとよりきよけれど/この世はまことのひとぞなき」とうたわれておられますが、この「心性もとよりきよけれど」は無漏の種子を言っておられるのですね。「妄想顛倒のなせるなり」は有漏の種子を言っておられるのだと思います。無漏は有漏を包んで、超えている性ですね。如来の分限です。不可知の世界で、僕たちには手も足も出ないわけです。
 僕たちは「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という上杉鷹山の名言ですが、川は縦に超えることは出来ないのですね。縦は努力の積み重ねです。此れを否定しているのではありません。縦の努力を積み重ねながら、無漏法に遇うことが求められているんです。それが横超につながるんだと思います。
 何を言いたいのか、はっきりしませんが、大掃除をしての感想を綴ってみました。

第三能変 第九 起滅分位門 (10) 五位無心 (8)

2016-12-25 10:48:29 | 『成唯識論』に学ぶ


part(1)でここまで読ませていただきました。
 「『摂論』の書き下しを記します。
 ここは、第八識の存在証明にもなります。「衆名品第一の一」です。
 「云何が此の識を或は説いて、阿陀那識(アダナシキ)と為すや。
 能く一切の有色の諸根を執持し、一切の受生(ジュウショウ)の取の依止なるが故なり。何を以ての故に、有色の諸根は此の識に執持せられて、壊せず失せず、乃し相続して後際(ゴサイ・未来世)に至る。又、正しく生を受くるの時、能く取陰(シュウン)を生ずるに由るが故なり。故に六道の身はみな是の如く取る。是の取の事用(ジユウ)は識に摂持せらるるが故に説いて阿陀那と名く。
 或は説いて心と名く。仏世尊の心意識と言えるが如し。
 意に二種あり、一は能く彼の生ずる與(タメ)に、次第(シダイ・物事の順序)縁の依止なるが故に、先に滅せる識を意と為し、又識の生ずる依止なるを以て意と為す。
 二には有染汚(ウゼンマ)の意、四煩悩と恒に相応す。一には我見、二には我慢、三には我愛、四には無明なり。
 此の識は、是れ余の煩悩識の依止なり。此の煩悩識は第一に由って依止して生じ、第二に由って染汚す。
 塵(ジン)を縁じ、及び次第して、能く分別するに由るが故に此の二を意と名く。
 云何が染汚心有るを知ることを得るや。
 若し此の心、無ければ独行無明は則ち有りと説くべからず。五識と相似せる此の法は応に無かるべし。何を以ての故に、此の五識は共に一時に自の依止有り。謂ゆる眼等の諸根なり。」
 part(2)
 「復次に、意の名は応に義有ること無かるべし。
 復次に、無想定と滅心定とは、応に異り有ること無かるべし。
 何を以ての故に。無想定は有染汚の心の所顕なるも、滅心定は爾らず。若し爾らざれば、此の二定は応に異らざるべし。
 復次に、無想天の一部に於て、応に無流無失を成ずべし。染汚無きが故に。中に於て、若しは我見及び我慢等無けん。
 復次に、一切時の中に我執を起して善・悪・無記の心中に遍ず。
 若し此の如くならざれば、但だ悪心のみは我執等と相応するが故に。我及び我所には此の惑行ずることを得んも、善と無記との中に於ては則ち行ずることを得ず。若し二心同時に生ずと立つれば、此の過失無し。若し第六識と相応して行ずと立つれば、この過失有らん。
 独行無明及び 相似の五識無く、二定の差別無く 意の名に義有ること無く、無想に我執無く、一期の生は無流なり、善悪無記の中に、我執は応に起るべからず。汚心を離れては有ならず、二(染と雑染)と三(三性の心・善悪無記)と相違す。此れ無ければ一切処に 我執は生ずることを得ず。真実の義を証見することを 惑障は起さざらしめ、恒に一切処に行ずるを、独行無明と名く。
 此の心は染汚なるが故に、無記性に摂す。
 恒に四惑と相応す。
 譬へば色・無色界の惑は是れ有覆無記なるが如し。此の二界の煩悩は、奢摩他の所蔵なるが故に。
 此の心は恒に生じて廃せず。
 第二の体を尋るに、阿黎耶識を離れては得べからず。此の故に阿黎耶識を成就して意と為す。此に依って種子を為すを以て余識生ずることを得。」

『摂大乗論』(正蔵31・114a19~b19)、原文を掲載します。
  先滅識爲意。又以識生依止爲意。二有染汚意。與四煩惱恒相應。一身見。二我慢。三我愛。四無明。此識是餘煩惱識依止。此煩惱識由一依止生。由第二染汚。由縁塵及次第能分別故。此二名意。云何得知有染汚心。若無此心獨行無明則不可説有。與五識相似此法應無。何以故。此五識共一時有自依止。謂眼等諸根。復次意名應無有義。復次無想定滅心定應無有異。何以故。無想定有染汚心。所顯滅心定不爾。若不爾此二定應不異。復次於無想天一 期。應成無流無失無染汚故。於中若無我見及我慢等。復次一切時中起我執遍善惡無記心中。若不如此。但惡心與我執等相應故。我及我所此或得行。於善無記中則不得行。若立二心同時生。無此過失。若立與第六識相應行。有此過失 無獨行無明 及相似五識 二定無差別 意名無有義 無想無我執 一期生無流 善惡無記中 我執不應起 離汚心不有 二與三相違 無此一切處 我執不得生 證見眞實義 或障令不起 恒行一切處 名獨行無明此心染汚故無記性攝。恒與四惑相應。譬如色無色界惑。是有覆無記。此二界煩惱奢摩他所藏故。此心恒生不廢尋。第三體離阿黎耶識不可得。是故阿黎耶識成就爲意。依此以爲種子餘識得生。(無著造・真諦訳)

 一応ここまで読んでおきます。解説は後日にします。


阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (4)

2016-12-19 21:53:35 | 『成唯識論』に学ぶ
  

  今日は「依」についてです。
 「依と云うは是れ縁の義、即ち執持識にして、無始の時より来た一切法の為に等しく依止と為る。故に名けて縁と為す。」
 と定義されています。「来」は本来、元よりと云う意味になります。依止めは依り所、これに依って保たれているという意味です。
 その理由が述べられます。
 「謂く能く諸の種子を執持するが故に、現行法の與(タメ)に所依と為るが故に、即ち彼を変為し、及び彼の依と為る。」
 ここは種子の特性ですね。因は種子識であるが、種子は縁に触れて現行する働きをもっている、このことが縁の義と云われることなのでしょう。これを現行の側面からみますと、成した行為は成す種子から出てくるわけです。種子無きところからは現行しないということなのです。
 因は阿頼耶識の中に蓄積された種子なのでしょうが、種子が種子のままであるなら、現行はしません。適切な喩ではありませんが、園芸店にいって、花の種を買ってきてもですね、蒔かなければ芽はでませんね。蒔くと云うのが縁です。直接的な増上縁です。水とか日差しは間接的な助縁になるのでしょう。
 阿頼耶識が何かに触れた時に、種子が動くわけです。私たちの生活はここを依り所として動いているのでしょうね。
 すごく厳しいですよね。一点の妥協も許さない厳しさを生きているのですね。生まれてからの一生涯、種子を執持していくのです。種子を離れての生活はないというわけです。このときの執は、共に有るという意味になります。身と共にあるもの、阿頼耶識と共にあるものです。それが種子だと。
 本識を依止として七転識が現行するのです。
 本識が因として、所縁は種子・有根身・器(種・根・器)これが七転識の為に依となると教えているのです。
 今月はここまで読めればと思います。また来月にします。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (3)

2016-12-18 20:23:26 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 頌は『摂論』の所知依分第二の一・衆名章第三に、
 「世尊は何れの処にか阿頼耶識を説いて阿頼耶識と名けしや。謂く、薄伽梵は阿毘達磨大乗経の伽陀の中に於て説けり」と。
 ここを背景に成り立っているのですね。そして、無性の釈には、「界とは因なり。即ち種子なり。是れ誰が因種なりや。謂く一切法なり。此れ唯だ雑染のみ、是れ清浄に非ざるが故に。」と。
 界とは因の義である、と。真諦訳では、性の義と。
 『選注』p56を参考に読ませていただきますが、「無始の時より」とは「初際無きが故」である。
 「界と云うは是れ因の義、即ち種子識にして」
 界というのは因という意味だと。原因です。第八識が原因となってという意味ですね。では第八識の用は何かといいますと、所縁ですね、五色根と種子と処である、種・根・器が因となって、四生の在り方が決定されてきた、それが異熟として過去を引き受けた身である、或は過去を牽きづっている身であるともいえるのでしょう。
 この因のことを、
 「無始の時より来た展転相続(チンデンソウゾク)して親しく諸法を生ず。故に名けて因と為す。」と説明されます。
 「本識の中にして親しく自果を生ずる功能(クウノウ)差別(シャベツ)なり」と種子が説明されていましたが、この種子に本有(ホンヌ)と新熏(シンクン)の問題もあるわけですね。
 ここに『阿毘達磨経』が引用されて、
 「諸法をば識に於て、識を法に於ても亦爾なり。更互(タガイ)に果性と為り、亦常に因性と為ると。」
 阿頼耶識と雑染法とは互いに因縁と為る、と。これも『摂論』によるわけです。
 ここを読んでいきますと、種子とは、現行を生み出す力である。其の力が第八阿頼耶識に蓄積されている。それが縁を伴って「親しく諸法を生ず」るのですね。このことは講義の中で幾度となくお話をさせていただきました。
 大事なことは、現行は種子より生み出される、阿頼耶識の発露であるということです。自分がどのように生きているのかは、どのような種子を蓄積しているのかと密接に関係してきます。
 ここまでが「因」の義です。
 次に「依」の義について述べられます。ちょっと疲れましたね。続きは明日にします。今日はここまでですね。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (2)

2016-12-18 19:14:23 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 先ず教証ですが、五教証の中で、初めの四つは大乗の教証(『大乗阿毘達磨経』から二つ、『解深密経』・『入楞伽経』)と後の一つが小乗の教証になります。
 この教証・理証については無著菩薩が『摂大乗論』のなかで阿頼耶識の存在論証を挙げられています。それを受けて『成唯識論』が五教十理を以て阿頼耶識の存在論証をしているのです。
 六識を離れて末那識・阿頼耶識が有るということを論証しなければならないのですね。
 「離眼等識有別自体」(眼等の識を離れて別の自体有ることを)
 これが護法菩薩のお仕事になります。
 宗前敬叙分にですね、「種々の異執を遮せんが為に、唯識の深妙の理の中に於て、実の如く解を得せ令めんとして此の論を作れり。」の一文に表れています。
 護法の論拠は、用が体で体が有って用くのではなく、表層から深層に向かって八つの重層的構造をもつものとして、八識別体を明らかにされたのです。つまり、三能変は、心が三層をなして、深層から表層に向かって能動的に対象に働きかける面を捉えています。
 第一教証
 『大乗阿毘達磨契経』の中に説く有り。
 無始の時より来(コノカ)た界(カイ)たり
 一切法に於て等しく依(エ)たり
 此に由って諸趣(ショシュ)と
 及び涅槃の証得(ショウトク)と有りと。」
 六識以外にもう一つ識が有ることが説かれているという論証として引用されています。この文章だけでは、第八阿頼耶識の言葉が見えませんが、この説に対して三人の論者の主張が述べられます。そこではっきりするのです。
 ・阿頼耶識がどこに説かれているのか。
 ・何故阿頼耶識と名づけられるのか。
 読み方なのですが、重層的に読まれているようです。「有」を二度読んでいます。新導本では「有の字を二度読め」と注意書きが記されています。
 「此れが有なることに由って、諸趣と及び涅槃の証得と有り」
 この「此」が第八識を指しています。第八識が有ることによってという意味になります。
 主題は「界」と「依」です。因と縁の問題です。因と縁をはっきりさせるのです。
 第一解です。
 「此の第八識は自性微細(ジショウミサイ)なるが故に作用(サユウ)を以て之を顕示(ケンジ)す。頌中(ジュチュウ)の初の半は、第八識因縁と為る用を顕し、後の半は流転と還滅(ルテントゲンメツ)とのために依持(エジ)と作(ナ)る用を顕す。」
 ここまでが全体の解釈になります。後半に上二句と下二句の解釈が述べられます。
 分解しますと、
 ・第八識は自性微細である。
 ・作用を以て之を顕示する。
 頌中の初の半は、
 ・「無始の時より来(コノカ)た界(カイ)たり 一切法に於て等しく依(エ)たり」の二句。此れに対して「第八識因縁と為る用を顕す」で相応します。因縁となる働きを顕す。
 後の半は、
 ・「此に由って諸趣(ショシュ)と及び涅槃の証得(ショウトク)と有りと。」の二句で、此れに対して「流転と還滅(ルテントゲンメツ)とのために依持(エジ)と作(ナ)る用を顕す。」ことが相応します。生死流転の根拠と涅槃の根拠が明らかにされます。還滅といいますが、帰るのではないのですね、帰るは自分の足で行くことを表しますが、「還」は行くのではないのです。還るのです。
 善導大師は「(法事讃)また云わく、帰去来、他郷には停まるべからず。仏に従いて、本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願自然に成ず。」(『化身土』本p355)と。
 滅、寂滅です。ここが本国になります。ですから娑婆を他郷と。ですから娑婆から滅度に行くのではないのです。還るんです、滅度に還っていくのですね。この依持と為る作用が第八識であると証明しているのです。
 第八識が因縁となり、此の身を引き受けているのですが、此の身が流転と還滅の依り所となることをはっきりさせたのです。
 次に上二句を釈します。
 ・「界」は因の義、つまり種子識である。
 ・「依」は縁の義、つまり執持識である。
 これ等のことを細かく釈してまいります。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (1)

2016-12-18 10:56:53 | 『成唯識論』に学ぶ
  

  今月より、阿頼耶識の存在論証にはいります。
 先ず概略を述べます。第八識の異名をあげ、其の位には有漏位と無漏位があることが明らかにされました。
 私たちの意識の上では「受」の心所が大切な役割をもっているのですが、無意識と云われる領域では、受は捨受なのです。苦でもなく楽でもない、不苦不楽受である。此れは有漏位における性質なのです。
 何を意味しているのか、迷いの境涯であっても、命を支えている働きは無覆無記であり、捨受であるということなのです。此れに由って、何時でも、どこでも、どのような境遇であっても、いろいろな条件そのものが御縁となって、本来の自己に戻ることが出来ることを教えているのであろうと思います。
 有漏位の阿頼耶識は何を対象としているのか、阿頼耶識の具体性ですが、すべては阿頼耶識の遍現した世界に身を置いているということなのです。それを二の執受(種子と有根身)と処(環境世界)の三つに摂ってくるのでしょう。
 有漏位の性質が無記であるというのは、経験そのものは色付けをされない無記である性質を持って、そこに善・悪の色付けをして一喜一憂しているのが私たちの現実相なのです。
 これではどこまでいっても有漏位からの解放はありませんね。我欲を自らの生活の起点としておりますから、我を離れて、客観的に自らを観察することはまず不可能であると思います。
 このことを解決する方法は、唯一つです。「他人の振り見て我振り直せ」とぃいますが、「他人の振り」とは、自らの意識が他人に投影し、自らの判断が自らの襟を正すということになるのですね。
 「人の批判はするけれど、我が身はどうかと尋ぬれば」、この尋ねるということが大事なことなのです。仏教は尋求(ジング)と押さえていますが、追及する、自らが作り出した世界を外界において批判をしているのですが、批判そのものが自分の心の影像であるということなのです。
 迷いという流転はどのような構造になっているのか、「我が心の影像」が、外界に存在するという見方であり、事実は「唯だ我が心が作り出した世界である」ことを知り得ないということなのです。これを「一切不離識」といっています。
 「すべての現象は識(阿頼耶識のはたらき)に離れてあるものではない、すべては識が作り出した世界である。」
 此れに由って、流転の法が明らかにされるのです。流転は、「識が織りなす現象である」ということなのですね。
 ここに無漏位との関係がみてとれます。無漏位は不可知ですが、有漏の元を尋ぬれば、無漏位という世界に支えられて成り立っていることが教えられます。無漏位が還滅の法になります。
 迷いを超えるということは、どういうことなのか。親鸞聖人は、大菩提心・大般涅槃ということに、(浄土の)信心の内実を明らかにされたのでしょう。
 有漏から無漏へは成り立たないのです。無漏に触れることに於いて超証される世界なのですね。
 このような事柄を先月は学ばせていただきました。
 今月から、阿頼耶識の全体像として、阿頼耶識の存在論証を読み解いていければと思います。
 学びは我見ではないということなのです。ものを言うには、言い得る根拠がなければなりません、私が勝手に押し付けているのではありませんよ、という論証になります。
 「云何が応に知るべし。此の第八識は眼等の識に離れて別の自体有りと云うことを。」
 (眼識等の六識以外に、第八識が有るということを)どうして知り得ることができるのか。
 ここに五教証・十理証が挙げられて存在の証明がなされます。
 「聖教と正理とを以て定量と為すが故に。」
 聖教が五教証・正理が十理証。これを以て、決定的な判断の基準(定量)とします。釈尊の教えに違することはありませんと宣言するのです。
 第一教証(選注p56) 『大乗阿毘達磨契経』、三師の説が出されます。
 第二教証(選注p58) 『大乗阿毘達磨契経』
 第三教証(選注p58) 『解深密経』
 第四教証(選注p59) 『入楞伽経』
 第五教証(選注p60) 『余部の経』、大衆部・上座部・化地部・有部。
 十理証は、選注p62~p77に記載されています。ここを以て初能変が閉じられます。
 では第一教証を読んでいきたいと思います。 ちょっと休憩します。

第三能変 第九 起滅分位門 (9) 五位無心 (7)

2016-12-17 00:54:19 | 第三能変 第九・起滅...
  

 松田様、ご質問に答えなければいけませんが、少し猶予を頂きまして、『摂論』の記述をお読み頂ければと思います。少しづつ記載していきます。
 part(1)
 「『摂論』の書き下しを記します。
 ここは、第八識の存在証明にもなります。「衆名品第一の一」です。
 「云何が此の識を或は説いて、阿陀那識(アダナシキ)と為すや。
 能く一切の有色の諸根を執持し、一切の受生(ジュウショウ)の取の依止なるが故なり。何を以ての故に、有色の諸根は此の識に執持せられて、壊せず失せず、乃し相続して後際(ゴサイ・未来世)に至る。又、正しく生を受くるの時、能く取陰(シュウン)を生ずるに由るが故なり。故に六道の身はみな是の如く取る。是の取の事用(ジユウ)は識に摂持せらるるが故に説いて阿陀那と名く。
 或は説いて心と名く。仏世尊の心意識と言えるが如し。
 意に二種あり、一は能く彼の生ずる與(タメ)に、次第(シダイ・物事の順序)縁の依止なるが故に、先に滅せる識を意と為し、又識の生ずる依止なるを以て意と為す。
 二には有染汚(ウゼンマ)の意、四煩悩と恒に相応す。一には我見、二には我慢、三には我愛、四には無明なり。
 此の識は、是れ余の煩悩識の依止なり。此の煩悩識は第一に由って依止して生じ、第二に由って染汚す。
 塵(ジン)を縁じ、及び次第して、能く分別するに由るが故に此の二を意と名く。
 云何が染汚心有るを知ることを得るや。
 若し此の心、無ければ独行無明は則ち有りと説くべからず。五識と相似せる此の法は応に無かるべし。何を以ての故に、此の五識は共に一時に自の依止有り。謂ゆる眼等の諸根なり。」

 この次に、無想定を修して無想天に生まれることの意味が記されます。これは何を意味しているのか。「四煩悩と倶なり」と関りがあるようです。
僕たちの生きざまは、利益優先なのですね。どうしたら人の上に立ち得るにか、優雅な生活を送れるのかという妄想の中で蠢いているのでしょうね。仏教は、名聞。利養・勝他という三種の神器を断ち切ることにおいて、道理に生きることを教えました。私たちは常日頃から、道理に反して生きていることかを思い知らされます。

第三能変 第九 起滅分位門 (8) 五位無心 (6)

2016-12-14 22:14:08 | 第三能変 第九・起滅...
  

   ― 染汚(ゼンマ)された意(マナス)の存在証明としての根拠 ―
 『摂大乗論』に「一切の時に我執は生起しており、善・悪・無記、すべての心の中に遍在している」という意識を見い出してきたのです。
 『摂大乗論』にマナスの記述と無想天に関する記述が述べられていますので紹介しておきます。「もろもろの存在は、ア―ラヤによって存在する。それは、一切の種子ともいうべき識であるが故に、ア―ラヤと名づける」 このア―ラヤが「心」と呼ばれ、また「心・意・識」と呼ばれることもあると。
 そして、この「意」には、二種類あると説かれています。
 前滅の意
 「一つには、先に消滅した識を意とし、また、識の発生する根拠なので意とする。」
 染汚された意、
 二つめは、汚染された意で、常に四つの根本的な煩悩を伴っている。それは、(一)我見・(二)我慢・(三)我愛・(四)我癡である。この識は、他の煩悩の識の発生源である。この煩悩ある識は、第一の識を発生源として発生し、第二の識によって汚染される。
 外界を対象化し、それにしたがって順序に分別的認識をするようになるので、この二つを意と名づけるのです。
 ではですね、なぜ、汚染された心が存在すると知ることができるのか、という問題が残ります。その理由が六つ述べられます。
 (1)もし、この心がないとすれば、独立して働く無明(独行無明)が存在すると言えなくなるからである。
 (2)五識と同質のこの存在がないことになる。何故かというと、この五識はどれもみな同時的に自分の依り所をもっている。いわゆる眼などの諸器官である。
 (3)また次に、意という名称に意味がなくなってしまうからである。
 (4)また次に、無想定と滅尽定との区別がなくなってしまう。何故かというと、無想定は汚染された心から現れるものであるが、滅尽定はそうではない。もし、そうでないとすれば、この二つの禅定に区別がなくなってしまうだろう。
 (5)また次に、無想天の一生には煩悩の流出がない(無流)という過失におちいる。汚染がないことになるのだから。その中では、我見や我慢などもないことになる。
 (6)また次に、一切の時に我執は生起しており、善・悪・無記、すべての心の中に遍在している。もし、そうでなければ、悪の心だけが我執などと対応することになり、我と我に所属する作用はそこでは生起しうるにしても、善と無記の中では生起しないことになる。それゆえ、善・無記と我執の二つの心が同時に生じることがあるとすれば、この矛盾がなくなる。我執は第六識と対応して生起するとしても、こうした矛盾が生じるだろう。
 根拠としての教証を挙げます。参考文献(出典は『摂大乗論』(正蔵31・114a19~b19)、原文を掲載します。
  先滅識爲意。又以識生依止爲意。二有染汚意。與四煩惱恒相應。一身見。二我慢。三我愛。四無明。此識是餘煩惱識依止。此煩惱識由一依止生。由第二染汚。由縁塵及次第能分別故。此二名意。云何得知有染汚心。若無此心獨行無明則不可説有。與五識相似此法應無。何以故。此五識共一時有自依止。謂眼等諸根。復次意名應無有義。復次無想定滅心定應無有異。何以故。無想定有染汚心。所顯滅心定不爾。若不爾此二定應不異。復次於無想天一 期。應成無流無失無染汚故。於中若無我見及我慢等。復次一切時中起我執遍善惡無記心中。若不如此。但惡心與我執等相應故。我及我所此或得行。於善無記中則不得行。若立二心同時生。3無此過失。若立與第六識相應行。有此過失 無獨行無明 及相似五識 二定無差別 意名無有義 無想無我執 一期生無流 善惡無記中 我執不應起 離汚心不有 二與三相違 無此一切處 我執不得生 證見眞實義 4或障令不起 恒行一切處 名獨行無明此心染汚故無記性攝。恒與四惑相應。譬如色無色界5惑。是有覆無記。此二界煩惱奢摩他所藏故。此心恒生不廢尋。第三體離阿黎耶識不可得。是故阿黎耶識成就爲意。依此以爲種子餘識得生。(無著造・真諦訳)
 このマナスは、恒に生起しており、停止しない。(此心恒生不廢尋) この識の体はア―ラヤ識を離れては存在しえない。この故にア―ラヤ識から意が成立(ジョウリュウ)する。これに依って種子ができるので、他の識が発生することができる。(第三體離阿黎耶識不可得。是故阿黎耶識成就爲意。依此以爲種子餘識得生)と説明されます。
 五位無心説を通じて、無心の底に流れる我の執着意識を明らかにし、第七・第八識の存在証明を初能変・第二能変に説き明かしているのです。