大晦日、皆様方には大変おせわになりました。ありがとうございます。ブログは、多分僕の好き放題で綴っていると思います。そのことが自分への問いと為って、また学ばせていただいております。パソコンも、一方的な発信ということになりましょうが、思惟をすることに於いては有意義なものであるようにも思われます。
年明けも、こつこつ発信して行けたらと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。m(__)m
本年度最後の投稿になります。「無想定を修して無想天に生まれる」一段を読ませていただいております。
投稿は重複するかもしれませんが、無想状についての記述を読ませていただきます。
「無想定は、謂く有る異生の、遍浄までの貪をば伏するも上の染をば伏せずして、出離想の作意を先と為すに由って、不恒行の心・心所をして滅せしむ。想を滅するを首と為すに無想と云う名を立つ。身を安和ならしむるが故に亦定と名く」(『論』第七・十一左)
(意訳) 第一段五義がだされます。(1) 異生 (2) 遍浄(3) 出離想 (4) 不恒行 (5) 想滅為首
をもって無想定を解釈しています。概略はこの一段で云い尽されています。
無想定という定は聖者の厭うものでであり、凡夫の類は第三禅天の遍浄天までの貪欲を滅することはできても、第四禅天の染汚を滅することが出来ずに、無想天を想い出離涅槃の想を作してこの定を修して不恒行(前六識)の心・心所を滅すると云われています。しかし想を滅することを首(主題)とするので無想という名が与えられているわけです。「入定前の定力に依って身をして安和ならしめられること有心定の如く」であるので、また定という名を与えた。ということになります
出離想作意(シュッリソウサイ)に基づいて、不恒行(六識)の心・心所を滅した定で、解脱を求めるのではなく、今の境遇を受け入れられずに、その場所から逃避するために意識活動を停止する。無心といわずに、無想というところに、此の定の意味があります。
想は遍行(触・作意・受・想・思)の心所一つですが、想は知的な束縛をもたらす働きがあるといわれます。
「想とは境のうえに像をとるを以て性と為し、種々の名言を施設するを以て業と為す」と。言葉による束縛から離れて身を安和ならしめることが無心であるといい、この状態を解脱と考えているのですね。「身を安和ならしむるが故に亦定と名く」といわれていますが、定は心の状態ですね。「心を専注して散ぜらしむる」、心一境性と定義されていますが、定の世界は身を安和ならしめるのですね。身が安らかに和むと。こいうところに誤解が生まれてくるのでしょうね。無想定を修して得られた果が解脱であるという謬りです。ここを明らかにするのが『論』の役割なのでしょう。私たちの聞法も同じことだと思います。造論の主旨に「二空の於に迷・謬すること有る者に正と解とを生ぜしめんが為の故なり」と。
「仏智不思議をうたがいて
善本徳本たのむひと
辺地懈慢にうまるれば
大慈大悲はえざりけり」 (正像末和讃)
参考文献 『述記』
「述曰。 この下は別解なり。文は六に分かつといえども、義に十一有り。
(異生)とは一に得する人を顕す。聖はこれを厭うが故に。
(遍浄)とは謂く第三禅天なり。第四禅以上の貪を猶未だ伏せず。二に離欲を顕す。
(出離想)とは三に行相を顕す。即ち涅槃の想を作すなり。
(不恒行)等、滅とは四に所滅の識の多少を顕す。
(想滅為首)等とは五に定の名を釈するなり。
謂く有心定は身心ともに平等ならしむるを安と名づく。怡悦(いえつ)するを和と名づく。いま無心定は定前の心力によって身をして、平等和悦ならしめること有心定の如くなれば、また名づけて定と為す。義が彼と等し。この体は前の第一巻に説けるが如し。二十二法(心王・五遍行・五別境・善十一)の滅する上に依って仮立す。以上、総じてこれ第一段の文なり。五義あるなり。
何を作し染を伏して定に入るとならば、瑜伽の第十二に説く、 問、 何の方便をもってこの等至に入るや。 答、 想は病の如し、癰(ヨウーはれもの)の如し、箭(ヤ)の如しと観じ、第四定に入り、想を厭背(おんはいー忌み嫌うこと)する作意を修し、生起するところの種々の想の中において、厭背して住す。ただ無想のみ寂静微妙なりとおもい、無想の中において心を持して住す。かくの如く漸次に諸の所縁を離れて、心は便ち寂滅すといえり。・・・」(『述記』第七本・六十三右)
無想定の六段十一義の要である第一段五義の説明をしました。まとめますと、(1)得する人を顕す。 (2)離欲を顕す。 (3)行相を顕す。 (4)所滅の識を顕す。 (5)定の名を釈す。どのような人が、どのような欲を離れ、どのような認識のあり方をし、そしてどのような識を滅するのか、それは何と名づけられる定なのか、ということを述べられています。次に第二段・第六の義から第六段・第十一の義が解釈されます。概略を述べまして、滅尽定の説明に移ります。
• 第二段の文・第六の義。三品修(上品・中品・下品)を云う。「此の定を修習するに品の別なること三あり。」
• 第三段の文・第七の義。地繋を云う。 「此の定はただ第四静慮のみに属す。」
• 第三段の文のうち第八の義。三性分別。 「又ただ是れ善なり。」
• 第四段の文・第九の義。四業に於て分別する。 「四の業於ては三に通ず。順現受をば除く。」
• 第五段の文・第十の義。起界地を云う。二義が述べられ、第ニ義を勝と為す。 「欲界に先に修し、色界において受果の処を除き、余の下の一切地(下三禅)・或いは一切処(下三禅と第四禅の下三天)において、みなよく重ねて引いて現前せしむ。」
• 第六段の文・第十一の義。漏無漏を云う。 「此れは想を厭いて彼の果を欣って入するに由って、故にただ有漏なり。聖の起こる所には非ず。」
以上が無想定の説明になります。無想定は有漏の定なのです。
それに対して、次に述べられます滅尽定は無漏の定であると説明されます。
第六段・第十一義の『述記』の解釈を見てみましょう。
「述曰。下は第六の文、第十一の漏無漏なり。凡聖をいうといえども、初の文にすでに異生と説くをもって、さらに別の門なし。 (何故、ただ有漏であって無漏に通じないのか、という問いに対して) 想を厭い、かの無想の果を欣い、この定に入るが故なり。 (教証をもって答える) 『瑜伽論』五十三に説く。「無想定には無漏の慧が現行することなし。此れより上には勝れたる住(滅尽定)と及び生(五浄居・無色界)とあるを以ての故に、未だ証得せざるところの諸の勝れたる善法を、証得する能わず。これに由って稽留誑横(ケイルオウオウーあざむきとどまってまげる)の処なるが故に、聖の所入にあらずといえり。・・・」(『述記』第七本・六十七左)
次科段より滅尽定について説明されます。