四の不死矯乱について、
ここも、外道の六十二見の見解の一つになります。邪見は、すべて外界を変革することに於て、自己満足を得ようとする見解になりますが、どうでしょうか、普段は何も考えていませんが、六十二見は私のすべてではないでしょうか。六十二見をはずして私が生きている証しはないのではないでしょうか。やっぱし、自分が中心で生きているのではないでしょうか。それしかありませんね、いや僕はですよ。僕は、仏法を聞いていてもですね、自分のことしか考えていません、自分を中心に世界が動いています。そんなことを教えられますね。
「邪見憍慢の悪衆生」という自覚があったらですね、もう邪見憍慢の悪衆生ではなくなります。自覚を通してですね、邪見憍慢の悪衆生の大地に立つわけでしょうね。開かれた大地とは、そういうものではないでしょうか。
不死矯乱については四つあるので、古来より四不死矯乱論として、六十二見の中の一つに数えられています。
『述記』には、
「不死とは謂く天なり。天の長寿なるを以て、外道は執して常住不死と為す。不死なる天の乱なき問に答するに由っての故に、彼の天に生ずることを得という。いまこれを毀する言を矯乱と為す。
矯乱 - いつわりを言って人をごまかすこと。
一に、念ずらく、我は善不善等を知らず、余の我に問うことあるも、定めて答うること能わず。我もし定めて答えるならば、他は我が無知なるに鑑みて、因って即ち軽咲すること勿んや。我は天の秘密義に於て、皆説くべからず等なり。
「念ずらく」という、誤魔化しです。不死とは天のことで、天に生れることが常住不死であると考える外道に対して、仏法者が詰問しているのです。その答えが誤魔化しであるといいます。仏法者からの問いは、涅槃と天の問題ですね。涅槃に至る方が勝れているのではないのかという問いに対して、若し答えることが出来なかったとしたら嘲笑されるかもしれないので、次のように誤魔化すのです。「天の秘密義に於て、説くべからず」と。天の秘密義は答えることが出来ないのだ、ということです。
涅槃ということは、仏教徒にとってというより、有情にとっては一番の安楽処になるわけですね。安楽処を求めている存在、言葉を変えていいますと、空虚に終わらない生活を求めている存在が有情であるわけです。そうしますと、私たちは、どこに向かって歩みを進めているのかはっきりしませんね、誤魔化して生きているとしかいいようがありません。このこと一つをとってみてもですね、邪見は深い意味をもっています。
今日はここまでにしておきます。明日は16組の組推協総会が八尾別院で開催されます。