大川の桜も満開になりました。明日から天候が崩れるとの予報です。週末も雨の予報、なんとか持ってほしいですね。![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/10/e8/55c9cb4758f3f16abe4d5a974fee11af_s.jpg)
何気なく読んでいるのですが、グサッと突き刺さる文章が綴られています。私たちはと言ったら語弊があります、私です。長年欲にまみれて生活をしていますが、時として「安らぎ」が欲しいなと言う心が湧いてくることが有ります。僕はこの心は、僕の中にもこのような安らぎを求める心があるんだな、と思っておりました。
それは、欲界という、欲に翻弄され、縛られて、繋がれては息苦しくて生活が出来ないことを教えているんですね。欲は二つの方向性を持っています。一つは貪欲、一つは清浄意欲、これは善を欲する欲(善法欲)です。清浄は善くて、貪という「むさぼり」は悪だと云うふうに思っておりました。ところが、貪が上地を求め、、上地の生を求める、と云われているのですね。貪は貪に安住することなく、貪が貪自ら「安らぎ」の世界を求めているということだったんです。
普段は全く気づきもしませんが、右往左往してもがいているのは、求めているからなんでしょう。求めているから、右往左往するんですね。それが本願に触れた時に転ぜられる、と教えられています。「悪を転じ徳となす正智」です。その元は、貪にあったということなんです。いわば、貪は貪が一番欲しているのは、清浄であるということなんですね。散乱し麁動する心が求めているのは、寂静なんです。寂静を求めているのが、本来の欲なんでしょうね。
ですから、別境の心所で説かれる「欲」は、善法を欲するこころと云われています。
「云何なるをか欲と為す。所楽の境のうえに希望するを以て性となし、勤が依たるを以て業となす」心所である。
「所楽(しょぎょう)の境に於いて希望(けもう)するを以って性と為し。勤の依たるを以って業と為す」といわれています。楽は願われるということです。願われる対象に対して希望を起こすということなのです。浄土を願うというのを本願では欲生というでしょう。浄土に生まれんと願いなさいという願いですね。願生心は願生に先立って願われているということを意味していますね。それが本願でしょう。希望することが努力(精進)の根拠となるのです。希望することが無かったら努力しませんね。性は本質、内面的な働きですし、業は外に働くものです。欲というと欲望と連想しますが、本来の欲は努力の依り処なのです。願われる対象に向かって努力を惜しまないということになります。「所楽と云うは欲観(よくかん)の境なり。一切の事に於いて観察(かんざつ)せんと欲する者は。希望すること有るが故に」といわれています。すべてのことに対して関心を持つことが欲ということである。それは願うこと、希望することがあるからである、ということですね。欲望・欲求と云うことも含まれるでしょうし、欲楽という、浄土を願い求めるということもあるわけですね。聞法も欲ですね。欲生心なんです。「欲生は即ち是、願楽覚知の心なり」(『教行信証』信巻)。ですから「欲」という別境は間口が広いのですね。欲によって迷うのですが、また欲によって目覚めることができるのですね。>一つの視座をいただきました。 南無阿弥陀仏
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何気なく読んでいるのですが、グサッと突き刺さる文章が綴られています。私たちはと言ったら語弊があります、私です。長年欲にまみれて生活をしていますが、時として「安らぎ」が欲しいなと言う心が湧いてくることが有ります。僕はこの心は、僕の中にもこのような安らぎを求める心があるんだな、と思っておりました。
それは、欲界という、欲に翻弄され、縛られて、繋がれては息苦しくて生活が出来ないことを教えているんですね。欲は二つの方向性を持っています。一つは貪欲、一つは清浄意欲、これは善を欲する欲(善法欲)です。清浄は善くて、貪という「むさぼり」は悪だと云うふうに思っておりました。ところが、貪が上地を求め、、上地の生を求める、と云われているのですね。貪は貪に安住することなく、貪が貪自ら「安らぎ」の世界を求めているということだったんです。
普段は全く気づきもしませんが、右往左往してもがいているのは、求めているからなんでしょう。求めているから、右往左往するんですね。それが本願に触れた時に転ぜられる、と教えられています。「悪を転じ徳となす正智」です。その元は、貪にあったということなんです。いわば、貪は貪が一番欲しているのは、清浄であるということなんですね。散乱し麁動する心が求めているのは、寂静なんです。寂静を求めているのが、本来の欲なんでしょうね。
ですから、別境の心所で説かれる「欲」は、善法を欲するこころと云われています。
「云何なるをか欲と為す。所楽の境のうえに希望するを以て性となし、勤が依たるを以て業となす」心所である。
「所楽(しょぎょう)の境に於いて希望(けもう)するを以って性と為し。勤の依たるを以って業と為す」といわれています。楽は願われるということです。願われる対象に対して希望を起こすということなのです。浄土を願うというのを本願では欲生というでしょう。浄土に生まれんと願いなさいという願いですね。願生心は願生に先立って願われているということを意味していますね。それが本願でしょう。希望することが努力(精進)の根拠となるのです。希望することが無かったら努力しませんね。性は本質、内面的な働きですし、業は外に働くものです。欲というと欲望と連想しますが、本来の欲は努力の依り処なのです。願われる対象に向かって努力を惜しまないということになります。「所楽と云うは欲観(よくかん)の境なり。一切の事に於いて観察(かんざつ)せんと欲する者は。希望すること有るが故に」といわれています。すべてのことに対して関心を持つことが欲ということである。それは願うこと、希望することがあるからである、ということですね。欲望・欲求と云うことも含まれるでしょうし、欲楽という、浄土を願い求めるということもあるわけですね。聞法も欲ですね。欲生心なんです。「欲生は即ち是、願楽覚知の心なり」(『教行信証』信巻)。ですから「欲」という別境は間口が広いのですね。欲によって迷うのですが、また欲によって目覚めることができるのですね。>一つの視座をいただきました。 南無阿弥陀仏