唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

八識倶転 ・ 八識一異 (3)

2010-12-31 11:15:41 | 八識倶転・八識一異

Dsc_0248300x198  本年最後の配信になりましす。早いもので今年も大晦日を迎えました。今年一年私如きのブログを読んでいただきありがとうございました。本年最後の書き込みは 『述記』では巻第七・本・終の記述になります。一応これで第三能変の概略を示し、年明けから第二能変 末那識について『成唯識論』に学んでいこうと思っています。皆様方のご指導・ご鞭撻よろしくお願いいたします。

 今日は夜更けから南御堂の除夜の鐘をつきにいかしていただきます。ブットン君も除夜の鐘をつくそうです。皆さん方も出かけられたらいかがでしょうか。Images

 また年が明け午前一時から修正会が勤まります。その後に法話が聞けます。心を新たに聞法させていただきましょう。(画像は南御堂ブログより) 2010年12月31日(金) 午前11時30分記す。

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 八識倶転・八識一異について (3)

          ー 八識一異 ・ 如伽陀説 ー

 「心と意と識との八種は、 俗の故には、 別なること有り。 真の故には相別なること無し。 相と所相と無きが故にと」

 (意訳) 心・意・識という八種の識は世俗諦(道理世俗諦)でいうならば、八識は別体である。しかし勝義の立場(二空)からは相は別であることはない。それは相と所相との差別が無いからである。

 今日は大晦日ですね。一年の締めくくりという意味と、新たな年を迎えるという節目の日ですが、実際には空です。私の心が大晦日を意識し、新年を意識しているに過ぎないのですね。国が変われば、新年の日は違いますからね。日本に住んでおられる各国の人の思いは違うわけです。ですから、真実は 「相と所相となきが故」 なのです。勝義の於に立ってしまえば、すべては無自性空になり、解脱していない者にとってはニヒリズムに陥ってしまいますね。『解深密経』に「我凡と愚とに於ては開演せず」という意味は、このことなのです。人間の心の中に大晦日を迎えるというのは、一年を振り返り、自分の姿を見つめ直すという機会を与えることなのでしょうし、節目を立てて、新たな視線に立って人生を見つめ直すスタートを切る、という意味があるのでしょう。そこに自分のこころの状態を知るという大切な意味が含まれているのではないでしょうか。迷っていることを知る、迷わせているのは何、を知ることが非常に大切なことなのです。意識起滅の分位の締めくくりに、安田理深先生のお言葉を記します。

 「迷っているという上に悟りの智慧がある。生命つまり、何か生きたもの、生きる用き、生きた生命というものは、固定されたような生命ではない。物質的生命でない。原始の生命。本能。これは無限の創造力をもつ。裸となった創造力理知とか文明とかを捨てて、そういうものに帰らんとする叫びがある。」(『選集』第四巻p43)

 次の第十七頌では、三能変をまとめとして、識転変して作り上げている私の世界を述べられています。初能変・第二能変を学ばせていただき、第十七頌を後に述べたいとおもいます。一応第三能変の記述を閉じさせていただきます。 

  

 


八識倶転・ 八識一異について (2)

2010-12-30 14:32:39 | 八識倶転・八識一異

Nishizaki06w                    入西鑑察の段・仁治三年(1242)、親鸞聖人七十歳

 「入西房鑑察のむねを随喜して、すなわちかの法橋を召請す、定禅左右なくまいりぬ。すなわち、尊顔にむかいたてまつりて、申していわく、「去夜、奇特の霊夢をなん感ずるところなり。その夢中に拝したてまつるところの聖僧の面像、いまむかいたてまつる容貌、すこしもたがうところなし」といいて、たちまちに随喜感歎の色ふかくして、みずからその夢をかたる。」(『本願寺聖人伝絵』真聖p730)Shinran8

 親鸞聖人と善光寺

  善光寺の如来の  

   われらをあわれみましまして

   なにわのうらにきたります  

   御名をもしらぬ守屋にて (善光寺如来和讃) 

 「親鸞においても、善光寺如来は太子と緊密な関連をもって理解されていたことが知られる。・・・定禅法橋が、親鸞の真影を写すに際して、親鸞が「善光寺の本願御房」であるという霊夢を感得した物語が、覚如の「本願寺聖人伝絵」に載せられているが、親鸞と善光寺との関係からみて、意味のないことではない。」(松野純孝著 『親鸞』p353より 三省堂刊) 

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   八識倶転 ・ 八識一異 について (2)

        ―  八識一異 八識の自性  ―

 初能変・第二能変・第三能変を結ぶにあたって八識倶転・八識一異が述べられます。「こころは一つか」という問いに答えているわけです。八識はどのように動くのか、一つの識なのか、八識は別体なのかという問いが先ずあるわけです。この問題については概略を示して、初能変・第二能変を学びおえてから再考したいと思います。『成唯識論』の立場は八識別体・八識は、別々の識体を持つということです。八識倶転を受けて八識一異が述べられます。

 「八識の自性は、定めて一とは言うべからず。行相と所依と縁と相応と異なるが故に。又一の滅する時に余滅するものにしもあらざるが故に。能 ・ 所薫等の相各異なるが故に。亦定めて異なるにも非ず。経に八識は水波等の如く差別無しと説くけるが故に。定めて異ならば因果の性に非ざるべきが故に。幻事等の如く定性無きが故に。前所説の如き識差別の相は、理世俗に依る。真勝義には非ず。真勝義の中には心言絶するが故に。伽陀に説くが如し。

 心と意と識との八種は  俗の故には相別なること有り

 真の故には相別なること無し  相と所相と無きが故にと。」(『論』第七・十八右)

  (解説) 第一説 ・  ここは三義を以て「定めて一とは言うべからず」を釈します。その第一行相とは見分である。識の自性(存在のありよう)はいつでも一つだとは言えない。それは、「行相と所依と縁と相応と異なるが故」だからである。行相は心の働き、所依は依り所となるもの、根。縁は対象、所縁。相応は心所で、多少の別ある、と。。「眼識は色を見るを行相と為す」。眼識は色を見る働きを持ち、眼根を依り所とする。耳識は聞く働きを持ち、耳根を依り所として動くわけです。このように「第八は色等を変ずるをもって行相となす等の如し」と、八識はいつも一つだとは言えないということです。

 第二は「又もし一の識が滅するとき、余の七等は必ずしも滅するものではない」ということ。八の心は働き・依所も違うのであるから一体だとは言えない。その理由が「能・所薫等の相各異なるが故に」と、働きがみんな違う。これが第三の義です。前七識が能薫・第八識が所薫で、また前七識は因、第八識は果であると、『楞伽経』第七に説かれている。また、三性・異熟生・真異熟等、種々の相が異なるからである。 能薫 - 薫とは薫習のこと。現行・転識(顕在的な心)が潜在的な根本心・阿頼耶識にその種子(影響)を薫じること。薫じる七転識を能薫・薫じられる阿頼耶識を所薫という。 第二説 ・ 「亦定めて異なるにも非ず」を釈しています。ここも三義を以てとかれます。 第一の義は、必ずしも異なるものではないということ。『楞伽経』の第九巻の頌に 「八識は大海の水と波と  差別の相あること無きが如し」 と説かれている。また大海と鏡面とによって、多くの波をおこすようなものであり、そこには大海と鏡面と差別はない。それは一つの水と波のようなものである。 第二の義は、定めて異というならば、因果が成立しない。更互に因果となるからであり、法爾の因果は必ずしも別なるものではない。 第三の義は、一切法は幻事・陽炎・夢影のようなもので、必ずしも別の性があるわけではない。この三義で、八識は一つのものではないし、また別なるものではないといっているのですね。これが私の心の構造なのです。AかBではないのですね、またAかBかのどちらでもないということでもない、と。概念的には絶対矛盾しているわけですが、そこに同時に存在しているのが私の生命体なのです。八識は一なるものでもないし、別なるものではない、と教えられています。 「此の一異に非ずは、四勝義に依りて四の世俗に対して皆得たり」(『述記』)と。『瑜伽論』巻六十四に四重二諦について説かれています。要約しますと、世俗諦と勝義諦とを世間・道理・証得・勝義の四つに分けてそれぞれの四つがどのように相応するかを説いているのです。世俗の真理を世間世俗諦・道理世俗諦・証得世俗諦・勝義世俗諦とにわけ、それぞれ、道理世俗諦が世間勝義諦・証得世俗諦が道理勝義諦・勝義世俗諦が証得勝義諦に相応し、勝義諦の勝義は勝義勝義として、非安立一真法界(言葉で語られない真実の世界)を立て、真実とは何かを説き明かしています。 まとめとして、  「前所説の如き識差別の相は、理世俗に依る。真勝義には非ず。真勝義の中には心言絶するが故に」と。八識五十一の心所の総まとめです。八識五十一の心所の違いの相は道理世俗に依る。道理に依ってものを見る、という立場です。迷いは何故起こるのかということを分析的に明らかにしているわけです。勝義勝義という空の立場に立って、すべては無自性なるが故に空であるとはいわないのです。何故かといいますと、造論の意のなかで、「二空の於に迷・謬すること有る者の為に、生と解とを生ぜしめむが故なり」と述べられていました。勝義勝義を理解した上で、勝義勝義に迷い、謬っているのは何故かを明らかにして、生と解を生じせしめるのである、ということを忘れてはならないところです。 『述記』(第七本・九十八左)の記述を示しますと、  「もし爾らば、前来、所説の三能変の相は、これ何ぞ。これは四の俗諦のうち第二の道理世俗に依って、八等ありと説く。事に随って差別す。四重の真諦のうち第四の真勝義諦に非らず。勝義諦のうちに八識の理を窮めるに、分別の心と言と、みな絶するが故に。非一非異なり。四句分別等を離れたり。前の心所を心に望めて一異なること、第二の俗諦を以て第二・第三・第四の真諦に相対するなり。今は第二の俗諦を以て第四の真諦に対して論を為す。」 大乗仏教の真理を弁えた上で、迷いの構造を明らかにしているのが唯識なのですね。煩悩即菩提・生死即涅槃と一言でいってしまえば誤解が生まれます。生死は涅槃なのだから、迷う必要は無いわけです。しかし現実には迷い苦しんでいるのが私の姿です。それは何故かと疑問を呈しているわけですね。真勝義の立場に立ってしまいますと「心・言絶する」と。非一非異として八識を重層的に説明をし、「唯識無境」を明らかにしているのですね。 明日は最後の詩句について述べてみたいと思います。

参考文献 『瑜伽論』巻六十四より・第一真義理門を説く。

  「真義に略して六種ありと。謂く世間成真実乃至(道理真実・煩悩障行智所行真実)所知障浄智所行真実、安立真実、非安立真実なり。前の四真実は應に知るべし前の菩薩地の中にすでに広く分別せるが如しと。

 云何が安立真実なる、謂く四聖諦なり、苦は苦に由るが故に、乃至道は道に由るが故なり。

 所以は何ん、略を以て三種の世俗を安立す。一には世間世俗、二には道理世俗、三には證得世俗なり。

 世間世俗とは、所謂宅舎・瓶盆(びょうぼん)・軍・林・数(しゅ)等を安立し、又復た我・有情等を安立し、

 道理世俗とは、所謂蘊界処等を安立し、

 證得世俗とは、所謂預流果等の彼の所依処たる四諦を安立するなり。

 又復安立に略して四種あり、謂く前に説けるが如き三種の世俗及び勝義世俗を安立す、即ち勝義諦なり。此の諦義は安立すべからざる内の所証なるに由るが故に、但だ随順して此の智を発生(ほっしょう)せんが為めに、の故に仮立す。

 云何が非安立真実なる。謂く諸法の真如なり。」

  


 八識倶転 ・八識一異について (1)

2010-12-29 16:33:51 | 八識倶転・八識一異

Shinran61_4   吉水における 「信不退・行不退の図」

 「聖人 親鸞 のたまわく、いにしえ我が本師聖人の御前に、聖信房、勢観房、念仏房已下の人々おおかりし時、はかりなき諍論をし侍る事ありき。そのゆえは「聖人 源空 の御信心と、善信が信心といささかもかわるところあるべからず、ただ一なり」と申したりしに、このひとびととがめていわく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるる事いわれなし。いかでかひとしかるべき」と。善信申して云わく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆえは、深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおおけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、一たび他力信心のことわりをうけ給わりしよりこのかた、まったくわたくしなし。しかれば、聖人の御信心も、他力よりたまわらせたまう、善信が信心も他力なり。かるがゆえにひとしくしてかわるところなし、と申すなり」と、申し侍りしところに、大師聖人まさしく仰せられてのたまわく、「信心のかわると申すは、自力の信にとりての事なり。すなわち、智恵各別なるがゆえに、信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず。信心のかわりおうておわしまさん人々は、わがまいらん浄土へはよもまいらせたまわじ。よくよくこころえらるべき事なり」と云々 ここに、めんめんしたをまき、くちをとじてやみにけり 。」(『本願寺聖人伝絵」 真聖p729~730)Shinran7_3

     吉水に於ける 「信心諍論の図」

 「法然はひと息いれて、おだやかな口調で範宴にたずねた。

「わたしは日々つねに念仏を口にとなえて暮らしておる。その法然の念仏と、そなたがとなえる念仏とは、はたしてちがうところがあるであろうか。それとも同じ念仏として、変わるところがないのか。どうじゃ」

 範宴はしばらく考えた。遵西や蓮空の視線が針のように突き刺さってくる。そして、いった。

「同じ念仏でございましょう。すこしも変わるところはないと思います」

「なんと―」

 蓮空が怒りの声をあげた。遵西は呆れはてたといわんばかりに唇をゆがめ、首をふっている。

「安楽房は、この範宴の意見をどう思う?」

 法然がきいた。遵西は言下に答えた。

「とんでもない思いあがりでございます。反論する気もありません」

「よくそのようなことを」

 と、よこで蓮空がけもののような唸り声をあげた。

「我慢ももうこれまでじゃ」

 いきなりとびかかった蓮空の拳が、固い石のように範宴の顔を連打した。

「やめよ、蓮空」

 法然の声が厳しくひびいた。さきほどまでのおだやかな声とはまったくちがう、戦場の武者頭のような野太い声だった。

「わたしの念仏も、範宴の念仏も、そして蓮空や遵西のなんぶつも、ここにあつまるすべての人びとの念仏も、すべてみ仏とのご縁によってうまれる念仏じゃ。阿弥陀如来からたまわった念仏であることに変わりはない。そう思えば、この法然房源空の念仏も、そなたたちの念仏も、まったく同じ念仏であろう。範宴とやら、よう答えた。きょうからそなたを、この法然の仲間の一人として吉水に迎えよう。よいか」

 いま自分は、はじめて本当の師とめぐりあったのだ、と範宴は思った。」  (五木寛之著 『親鸞』巻下 p61~62より ・ 講談社刊)

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 八識倶転 ・ 八識一異 について 

      ―  八識倶転(1) 倶転を明かす ―

 「是の故に八識は一切の有情に於て心と末那と二は恒に倶転す。若し第六起るときには則ち三いい倶転す。余は縁の合するに随て一より五に至るまでを起すときには則ち四いい倶転し乃至八いい倶なり。是を略して識の倶転する義を説くと謂う。」(『論』第七・十六左)

 (意訳) このようなわけで、八識はすべての有情にに於いて倶に動いている。阿頼耶識と末那識は恒に倶転する。マナーという我執の心は、ときどき動くのではなく、恒に動いている。阿頼耶識を依り所として動いていく。若し第六意識が起こる時には、阿頼耶識と末那識とが一緒に動く。余(前五識)は縁に依り一つが動くときも有り、全部が動くときもある。それは縁によって違う。そして阿頼耶識と末那識の二つはいつも有る。則ち阿頼耶識と末那識と第六意識と前五識のいずれかが、起きている時には動いているわけですから、四つは必ず動いていることになります。それが倶に動いていく。これを略して識の倶転する意義を説くのである。

 「述曰。 五十一と七十六とに説けるが如し。上来、すでに三能変の本頌を解しおわる。 自下、第二に総じて分別をなす。 中において三あり。一に倶転を明かし、ニに問答分別、 三に一異の分別、これは即ち初なり。六の倶なることを弁ずるに因んで、八の倶転を説くなり。」(『述記』第七本・九十左)

 表層の六識は深層の識と深く重層的に関わって動いていくわけですね。「面は菩薩の如く、内心夜叉の如し」と云われることがあります。内なる自己を見つめていく。そこに六識ではわからないこと、六識を動かしている深層の働きが恒に倶に動いている。そこに人格が形成されていくわけです。道元禅師は「仏道をならうというは自己をならうなり」(『正法眼蔵/現成公案』)といわれています。「仏道を学ぶということは自己を学ぶことである。自己を学ぶということは自己をわすれることである。自己を忘れるということは、総てのものごとが自然に明らかになることである。総てのものごとが自然に明らかになるということは、自分をも他人をも解脱させることである。悟りのあとかたさえ残さないのである。そのことをいい現わして行くのである。」と。真実の自己に出会うことが他者をして他者を生かすことなのですね。親鸞聖人がいわれる「自信教人信」のまことをつくすこと、これが聞法の課題ですね。自己を知る自信力を得ることが仏道、仏教を学んで他者を知るのではありません。自分を知る、このことが八識倶転で教えられているのではないでしょうかね。