六遍染師の説を述べる。文が二つに分けられ説明される。初は遍染の随煩悩を述べ、後に第七識と倶である心所と倶でない心所について説明がなされる。又初の中が四つに分けられる。一は前に述べたように遍染の随煩悩は六つであることを挙げる。二にはその証を挙げる。三には失念と散乱と不正知が遍染の随煩悩であることを説明する。四には問題点を会通する。ここはその初の中の一である。
「有義は、応に説くべし、六の随煩悩いい遍く一切の染心と相応すと。」(『論』第四・三十三左)
(有義(六遍染師)は、応に説くであろう。六つの随煩悩が遍く一切の染心と相応すると。)
六遍染師が説く六つの随煩悩とは、不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知である。
「何を以て知るならば、」(『述記』)
(何を以て知られるのであろうか。その理由を問う。)
二には、教証を挙げる。
「『瑜伽論』に不信と懈怠と放逸と忘念と散乱と悪慧とは一切の染心と皆相応すと説けるが故に。」(『論』第四・三十三左)
(『瑜伽論』(巻第五十五)に「不信と懈怠と放逸と忘念と散乱と悪慧は一切の染心と相応する」と説かれているからである。
巻第五十五、第三門随煩悩の相応を示す文に「復次に、随煩悩は云何が展転して相応するや。まさに知るべし、無慚、無愧は一切の不善と相応し、不信、懈怠、放逸、忘念、散乱、悪慧は一切の染汚心と相応し、睡眠、悪作は一切の善、不善、無記と相応すと。所余はまさに知るべし互に相応せずと。」(10月26日の項を参照してください)
忘念は失念のことで、悪慧は不正知のことです。
「述して曰く、下は証を引くなり。五十五に不信等至皆相応するが故にと説くを以て六有りと名づくなり。此の師の意の説かく、一切の染心には此の六種いい皆相応するが故にと云んとぞ。不信・懈怠・放逸の三種は行相違せず。前の師の説くが如し。実に染心に遍ず。忘念等の三をば前よりこのかた未だ解さず。故に今応に釈すべし。」(『述記』第第五本・五十四右)
三は失念と散乱と不正知が遍染の随煩悩であることを説明する。
「忘念と散乱と悪慧と若し無くば、心いい必ず諸の煩悩を起すこと能はざるべし」(『論』第四・三十三右)
(忘念と散乱と悪慧とが若しなかったならば、心は必ず諸々の煩悩を起こすことはできないであろう。)
この科段は道理を立てて説明されます。忘念と散乱と悪慧がなかったならば煩悩を起こすことはできないのである、と。それは煩悩が起きるということは忘念と散乱と悪慧が有るということになります。
この三が五遍染師の説には見られない遍染の随煩悩であることを明らかにして、五遍染師が説いている掉挙・惛沈は遍染の随煩悩とは認めていないのです。この理由は後に説明されます。
「述して曰く、下は理を立つなり。忘念と散乱と悪慧との三若し無くんば、心必ず諸の煩悩を起こすこと能はざるべし、此の三無きが故に、善心等の如し。忘念と慧とは是れ癡等に摂せらる。散乱は別に体有るを以ての故に染心に遍ぜり。如何ぞ要ず忘念等の三有るや。」(『述記』第五本・五十四右)
不信・懈怠・放逸 - 第一師も認めるところ。
忘念・散乱・悪慧 - 六遍染師の己証。
掉挙・惛沈 - 遍染の随煩悩とは認めない。
四煩悩と五遍行と別境の念・定・慧と不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知の六遍染とその他の随煩悩である惛沈の合計十九の心所が第七識と相応することを示しています。
次の科段において、煩悩が生起する時には必ず失念と散乱と不正知が存在することの理由を述べます。「如何ぞ要ず忘念等の三有るや」と。