唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (43) 触等相応門 (25)

2011-11-03 20:06:01 | 心の構造について

 不正知が第七識と相応しない理由を述べる。

 「不正知とは謂く外門の身・語・意の行を起して軌則に違越せるぞ。此れは唯内のみを執す。故に彼と倶なるに非ず。」(第四・三十三右)

 (不正知とは、つまり外門の身・口・意の三業を起こさせて軌則に違越させる心所である。しかし、この第七識は唯内のみに対して執着する。故に不正知と第七識は倶ではない。)

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 不正知については2010年2月28日の項を参照してください。要点のみ抜粋しますと。

 「不正知は、しるべき事をあやまちて知る心なり。」(『ニ巻抄』)境に於いて誤解を起こさせる心所なのです。正しく知るという事は智慧ですね。それに対し不正知は間違って知る心です。

 「云何なるか不正知。所観の境に於いて謬解(みょうげー誤った理解)するを以って性と為し。能く正知を障えて毀犯(きぼんーそこなうこと)するを以って業と為す。謂く不正知の者は、毀犯する所多きが故に。」(『論』)

 対象に於いて謬(びゅう)は誤る、誤解することですね。解は理解、了解で、謬解は誤った了解ということになります。それが不正知の性格であると云われています。此の事に由り、正知という、はっきりと心にとめていることを妨げ、そこなうことが行為となって現れるのですね。『成唯識論』宗前敬叙分の造論の意趣に「迷・謬」とありました。迷は無明・縁起の理や真如の理に昏いのですが、謬は厄介ですね。知っているのですが疑っているのです。疑惑です。仏智疑惑という謗法です。知ったかぶりの仏教ということがありますね。知っているのですが間違って理解をしているのです。その誤った理解が正知を邪魔をする不正知です。

  1.  不正知は慧の一分に摂める。
  2.  不正知は癡の一分に摂める。
  3.  不正知は倶の一分に摂める。(慧と癡の両方の働きによるとする説)

我執によって空・無我の理が覆われ、正しく簡び分けられないのです。第一説の慧の一分ということですが、慧は正しく分別するということですね。簡択の義といわれていました。不正知には慧という心所が働いているといわれているのです。しかし間違って働いているという事が厄介なのです。それが無知という無明煩悩と共に働いてくるのが不正知なのです。これもまた「染心に遍ず」といわれ、「散乱」と同じく悪と有覆無記の心です。

 「境に迷って闇鈍に非ざるなり。但だ是れ錯謬して邪に解するを不正知と名づく。不正知、多く業を発し。多く悪の身語業を起こして、多く惑を犯す。」(『述記』)

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 軌則(きそく) - 規則。行為の規範。戒律のこと。「軌則に違越する」というのは戒律を破るという意味になります。

 「述して曰く、此の数は設い是れ別境の慧が分と云うにも、或は是れ癡が分と云うにも、多く外門の身・語・意業を起す染汚の三種業を縁じて軌則に違越せり。三界に皆然なり。並に善に越せるが故に軌則に違せりと名づく。彼は外を縁じて生ず。此れは唯内を縁ず。故に彼も無し。亦是れ遍にも非ず。内を縁ずるに無きが故に。」(『述記』第五本・五十二左)

 不正知は外の染汚の三種業を縁じて生じるのである、と述べています。外境に対して誤った認識をし、三不善業を起こすが、第七識は唯ひたすら内のみに執着するのであるからその行相は違背する。よって第七識と不正知とは相応しないのである、と五遍染師は主張します。