「末那と心所は何の地にか繋せらるる耶。」(『論』第五)
先ず末那識と、その心所は三界九地の内、どの階層に繋ぎとめられるのであろうか、という問が出されます。
「彼の所生に随って、彼の地に繋せらる。」(『論』第五)
「彼(阿頼耶識)が生まれたところ(所生=界)に随って、その生まれたところ(阿頼耶識の生じたところ)に繋ぎとめられるのである。
「謂く、欲界に生じぬるとき、現行の末那と相応の心所とは、即ち欲界繋なり、乃し有頂に至るまで応に知るべし亦然なり。」(『論』第五)
つまり、阿頼耶識が欲界に生じた時は、現行している末那識と、末那識相応の心所とは、欲界繋のものとなる。このことは欲界から無色界の有頂に至るまで同様であることを知るべきである。
「任運に恒に自地の蔵識を縁じて、執じて内我と為す、他地には非ざるが故に。」(『論』第五)
末那識は任運に恒に自地の阿頼耶識を縁じて、執着して内我とするからであり、この阿頼耶識は他地のものではないからである。
「若し彼の地の異熟の蔵識を起こして現在前せしむるをば、彼の地に生じたりと名く。染汚の末那は、彼を縁じて我と執じ、即ち彼に繋属す、彼に繋せらると名く。」(『論』第五)
第一義・繋属 - 関係する。所属する。内在すること。
もし彼の地の異熟の蔵識を起こして(阿頼耶識の現行)、現在前させるのを彼の地に生じたという。染汚の末那識は、阿頼耶識の現行を縁じて、我であると執着し、阿頼耶識に繋属する。すなわち、阿頼耶識に繋せられるという。
「或は彼の地の諸煩悩等の為に繋縛せらるるを以て、彼に繋せらると名く。」(『論』第五)
第二義・繋縛 - 心を内につなぎ止めること。
或いは、阿頼耶識の現行した地の諸煩悩の為に末那識が繋縛されることから、彼(阿頼耶識)に繋せられると名づけられる。
「若し已転依ならば、即ち所繋には非ず」(『論』第五)
もし已転依ならば、所繋ではない。
第八段第十門 ・ 起滅分位門(いかなる位によって末那識を断ずることができるのかを問う。)
「此の染汚(ぜんま)の意は無始より相続す。何(いずれ)の位にか永(とこしえ)に断じ或は暫く断ずるや。」(『論』第五)
この染汚の意は、無始より相続して働きつづけている。しかしどのような位に至ってこの末那識は永遠に断じられ、あるいは、暫く断じられるのであろうか。
「阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し。」(『論』第五)
阿羅漢と滅定と出世道とには、末那識は無いのである。
「阿羅漢とは、総じて三乗の無学果の位を顕す。此の位には、染の意の種と及び現行と倶に永に断滅せり、故に有ること無しと説く。」(『論』第五)
阿羅漢とは、まとめて三乗の無学果の位を顕している。この位には、染汚の末那識の種子と、染汚の末那識の現行とを倶に永遠に断しているのである。よって、三の位には末那識は「無い」と説くのである。
「学位の滅定と出世道との中には、倶に暫と伏滅せり。故に有ること無しと説く。」(『論』第五)
有学の位の滅尽定と、出世道との中では、倶に暫に伏滅される。その故に「無有」と説かれるのである。
「謂く、染汚の意は、無始の時より来、微細(みさい)に一類に任運にして転ず。諸の有漏道をもっては伏滅すること能わず。三乗の聖道のみをもって伏し滅する義有り、真無我の解いい我執に違えるが故に。」(『論』第五)
つまり、染汚の末那識は、無始より以来、微細に一類に任運に転じている。諸々の有漏道をもっては、伏滅することはできない。ただ三乗の聖道をもって、伏滅することができるのである。真解脱の解(無分別智)は、我執に違背するからである。
「後得無漏の現在前する時にも、是れ彼の等流なるを以て亦此の意に違へり。」 (『論』第五)
後得無漏(後得智)が現在前する時にも、これは、彼(無分別智)の等流であるから、またこの意(末那識)に違背する。
「真無我の解と及び後所得とは倶に無漏なるが故に、出世道と名づく。」(『論』第五)
真無我の解(無分別智)と及び後所得(後得智)とは倶に無漏であるから、出世道と名づける。
「滅定は既に是れ聖道の等流にも極めて寂静にもあるが故に、此れにも亦有るに非ず。」(『論』第五)
滅尽定は既に聖道の等流のものであり、極めて寂静でもある。此れにも亦末那識は無い。
「未だ永に此の種子を断ぜざるに由るが故に、滅尽定と聖道と従り起こし已んぬるときに、此れ復た現行す。乃し未滅に至るまでなり。」(『論』第五)
未だ、永遠に、この種子を断じていない為に、滅尽定と聖道から出たときには、これは、また現行する。そして未滅に至るまではこの繰り返しである。
「然に此の染の意と相応する煩悩は、是れ倶生なるが故に、見所断に非ず、是れ染汚なるが故に非所断には非ず。」(『論』第五)
しかも、この染の末那識と相応する煩悩は、倶生起の煩悩であるから、見道での所断ではない。またこれは染汚のものであるので、非所断ではない。
「極めて微細なるが故に、有らゆる種子をば、有頂地の下下の煩悩と一時に頓に断ず。勢力等しきが故に。金剛喩定の現在前する時に、頓に此の種を断じて、阿羅漢と成る。故に無学の位には永く復た起らずなりぬ。」(『論』第五)
末那識相応の煩悩は極めて微細であるから、あらゆる煩悩の種子を、有頂地の下下の煩悩と一時に直ちに断じる。それは勢力(せいりき)が等しいからである。金剛喩定(こんごうゆじょう)が現在前する時に、直ちにこの種子を断じて阿羅漢と成る。だから、無学の位には末那識相応の煩悩は永遠に、また再び起こるということがなくなる。
「二乗の無学の大乗に廻趣(えしゅ)せるは初発心より未だ成仏せざるに至るまでは実に是れ菩薩なりと雖も亦阿羅漢と名づく、応の義等しきが故に、別に之を説かず。」(『論』第五)
・廻趣 - めぐらしおもむくこと。廻心向大(心を廻らし大にむかう)を廻趣といい、漸悟の菩薩のこと。
二乗の無学が大乗に廻趣した場合、その初発心より未だ成仏しないところまでは、実にこれは菩薩といってもいいのであるが、また阿羅漢と名づけるのである。応の意味が等しいので別にこれを説かないのである。
「此の中に有義は、末那は唯煩悩障とのみ倶なること有り、聖教に皆、三の位に無しと言えるが故に。」(『論』第五)
この中において、有義(安慧等)は、末那識は、ただ煩悩障とのみ倶にあると、その訳は、聖教(『対法論』=大乗阿毘達磨雑集論・巻第二)に、すべて、三の位には末那識の体無し、と説かれているからである、と。
「又、四惑と恒に相応すと説けるが故に。」(『論』第五)
『顕揚論』第一に「四惑と倶なり」と説かれているからである。
「又識の雑染の依為りと説けるが故に。」(『論』第五)
また『無性摂論』第一の論本に、浄が依とすとは説かれていない。「識の雑染の依である」と説かれているからである。
以上、安慧等は『顕揚論』第一・『無性摂論』第一の記述をもって、三の位には末那識の体は無いと主張します。
先ず末那識と、その心所は三界九地の内、どの階層に繋ぎとめられるのであろうか、という問が出されます。
「彼の所生に随って、彼の地に繋せらる。」(『論』第五)
「彼(阿頼耶識)が生まれたところ(所生=界)に随って、その生まれたところ(阿頼耶識の生じたところ)に繋ぎとめられるのである。
「謂く、欲界に生じぬるとき、現行の末那と相応の心所とは、即ち欲界繋なり、乃し有頂に至るまで応に知るべし亦然なり。」(『論』第五)
つまり、阿頼耶識が欲界に生じた時は、現行している末那識と、末那識相応の心所とは、欲界繋のものとなる。このことは欲界から無色界の有頂に至るまで同様であることを知るべきである。
「任運に恒に自地の蔵識を縁じて、執じて内我と為す、他地には非ざるが故に。」(『論』第五)
末那識は任運に恒に自地の阿頼耶識を縁じて、執着して内我とするからであり、この阿頼耶識は他地のものではないからである。
「若し彼の地の異熟の蔵識を起こして現在前せしむるをば、彼の地に生じたりと名く。染汚の末那は、彼を縁じて我と執じ、即ち彼に繋属す、彼に繋せらると名く。」(『論』第五)
第一義・繋属 - 関係する。所属する。内在すること。
もし彼の地の異熟の蔵識を起こして(阿頼耶識の現行)、現在前させるのを彼の地に生じたという。染汚の末那識は、阿頼耶識の現行を縁じて、我であると執着し、阿頼耶識に繋属する。すなわち、阿頼耶識に繋せられるという。
「或は彼の地の諸煩悩等の為に繋縛せらるるを以て、彼に繋せらると名く。」(『論』第五)
第二義・繋縛 - 心を内につなぎ止めること。
或いは、阿頼耶識の現行した地の諸煩悩の為に末那識が繋縛されることから、彼(阿頼耶識)に繋せられると名づけられる。
「若し已転依ならば、即ち所繋には非ず」(『論』第五)
もし已転依ならば、所繋ではない。
第八段第十門 ・ 起滅分位門(いかなる位によって末那識を断ずることができるのかを問う。)
「此の染汚(ぜんま)の意は無始より相続す。何(いずれ)の位にか永(とこしえ)に断じ或は暫く断ずるや。」(『論』第五)
この染汚の意は、無始より相続して働きつづけている。しかしどのような位に至ってこの末那識は永遠に断じられ、あるいは、暫く断じられるのであろうか。
「阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し。」(『論』第五)
阿羅漢と滅定と出世道とには、末那識は無いのである。
「阿羅漢とは、総じて三乗の無学果の位を顕す。此の位には、染の意の種と及び現行と倶に永に断滅せり、故に有ること無しと説く。」(『論』第五)
阿羅漢とは、まとめて三乗の無学果の位を顕している。この位には、染汚の末那識の種子と、染汚の末那識の現行とを倶に永遠に断しているのである。よって、三の位には末那識は「無い」と説くのである。
「学位の滅定と出世道との中には、倶に暫と伏滅せり。故に有ること無しと説く。」(『論』第五)
有学の位の滅尽定と、出世道との中では、倶に暫に伏滅される。その故に「無有」と説かれるのである。
「謂く、染汚の意は、無始の時より来、微細(みさい)に一類に任運にして転ず。諸の有漏道をもっては伏滅すること能わず。三乗の聖道のみをもって伏し滅する義有り、真無我の解いい我執に違えるが故に。」(『論』第五)
つまり、染汚の末那識は、無始より以来、微細に一類に任運に転じている。諸々の有漏道をもっては、伏滅することはできない。ただ三乗の聖道をもって、伏滅することができるのである。真解脱の解(無分別智)は、我執に違背するからである。
「後得無漏の現在前する時にも、是れ彼の等流なるを以て亦此の意に違へり。」 (『論』第五)
後得無漏(後得智)が現在前する時にも、これは、彼(無分別智)の等流であるから、またこの意(末那識)に違背する。
「真無我の解と及び後所得とは倶に無漏なるが故に、出世道と名づく。」(『論』第五)
真無我の解(無分別智)と及び後所得(後得智)とは倶に無漏であるから、出世道と名づける。
「滅定は既に是れ聖道の等流にも極めて寂静にもあるが故に、此れにも亦有るに非ず。」(『論』第五)
滅尽定は既に聖道の等流のものであり、極めて寂静でもある。此れにも亦末那識は無い。
「未だ永に此の種子を断ぜざるに由るが故に、滅尽定と聖道と従り起こし已んぬるときに、此れ復た現行す。乃し未滅に至るまでなり。」(『論』第五)
未だ、永遠に、この種子を断じていない為に、滅尽定と聖道から出たときには、これは、また現行する。そして未滅に至るまではこの繰り返しである。
「然に此の染の意と相応する煩悩は、是れ倶生なるが故に、見所断に非ず、是れ染汚なるが故に非所断には非ず。」(『論』第五)
しかも、この染の末那識と相応する煩悩は、倶生起の煩悩であるから、見道での所断ではない。またこれは染汚のものであるので、非所断ではない。
「極めて微細なるが故に、有らゆる種子をば、有頂地の下下の煩悩と一時に頓に断ず。勢力等しきが故に。金剛喩定の現在前する時に、頓に此の種を断じて、阿羅漢と成る。故に無学の位には永く復た起らずなりぬ。」(『論』第五)
末那識相応の煩悩は極めて微細であるから、あらゆる煩悩の種子を、有頂地の下下の煩悩と一時に直ちに断じる。それは勢力(せいりき)が等しいからである。金剛喩定(こんごうゆじょう)が現在前する時に、直ちにこの種子を断じて阿羅漢と成る。だから、無学の位には末那識相応の煩悩は永遠に、また再び起こるということがなくなる。
「二乗の無学の大乗に廻趣(えしゅ)せるは初発心より未だ成仏せざるに至るまでは実に是れ菩薩なりと雖も亦阿羅漢と名づく、応の義等しきが故に、別に之を説かず。」(『論』第五)
・廻趣 - めぐらしおもむくこと。廻心向大(心を廻らし大にむかう)を廻趣といい、漸悟の菩薩のこと。
二乗の無学が大乗に廻趣した場合、その初発心より未だ成仏しないところまでは、実にこれは菩薩といってもいいのであるが、また阿羅漢と名づけるのである。応の意味が等しいので別にこれを説かないのである。
「此の中に有義は、末那は唯煩悩障とのみ倶なること有り、聖教に皆、三の位に無しと言えるが故に。」(『論』第五)
この中において、有義(安慧等)は、末那識は、ただ煩悩障とのみ倶にあると、その訳は、聖教(『対法論』=大乗阿毘達磨雑集論・巻第二)に、すべて、三の位には末那識の体無し、と説かれているからである、と。
「又、四惑と恒に相応すと説けるが故に。」(『論』第五)
『顕揚論』第一に「四惑と倶なり」と説かれているからである。
「又識の雑染の依為りと説けるが故に。」(『論』第五)
また『無性摂論』第一の論本に、浄が依とすとは説かれていない。「識の雑染の依である」と説かれているからである。
以上、安慧等は『顕揚論』第一・『無性摂論』第一の記述をもって、三の位には末那識の体は無いと主張します。