唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

三月度テキスト

2019-03-15 22:15:15 | 第二能変 末那識について
「末那と心所は何の地にか繋せらるる耶。」(『論』第五)
 先ず末那識と、その心所は三界九地の内、どの階層に繋ぎとめられるのであろうか、という問が出されます。
「彼の所生に随って、彼の地に繋せらる。」(『論』第五)
 「彼(阿頼耶識)が生まれたところ(所生=界)に随って、その生まれたところ(阿頼耶識の生じたところ)に繋ぎとめられるのである。
「謂く、欲界に生じぬるとき、現行の末那と相応の心所とは、即ち欲界繋なり、乃し有頂に至るまで応に知るべし亦然なり。」(『論』第五)
 つまり、阿頼耶識が欲界に生じた時は、現行している末那識と、末那識相応の心所とは、欲界繋のものとなる。このことは欲界から無色界の有頂に至るまで同様であることを知るべきである。
「任運に恒に自地の蔵識を縁じて、執じて内我と為す、他地には非ざるが故に。」(『論』第五)
 末那識は任運に恒に自地の阿頼耶識を縁じて、執着して内我とするからであり、この阿頼耶識は他地のものではないからである。
「若し彼の地の異熟の蔵識を起こして現在前せしむるをば、彼の地に生じたりと名く。染汚の末那は、彼を縁じて我と執じ、即ち彼に繋属す、彼に繋せらると名く。」(『論』第五)
 第一義・繋属 - 関係する。所属する。内在すること。
 もし彼の地の異熟の蔵識を起こして(阿頼耶識の現行)、現在前させるのを彼の地に生じたという。染汚の末那識は、阿頼耶識の現行を縁じて、我であると執着し、阿頼耶識に繋属する。すなわち、阿頼耶識に繋せられるという。
「或は彼の地の諸煩悩等の為に繋縛せらるるを以て、彼に繋せらると名く。」(『論』第五)
 第二義・繋縛 - 心を内につなぎ止めること。
 或いは、阿頼耶識の現行した地の諸煩悩の為に末那識が繋縛されることから、彼(阿頼耶識)に繋せられると名づけられる。
「若し已転依ならば、即ち所繋には非ず」(『論』第五)
 もし已転依ならば、所繋ではない。
 第八段第十門 ・ 起滅分位門(いかなる位によって末那識を断ずることができるのかを問う。)
「此の染汚(ぜんま)の意は無始より相続す。何(いずれ)の位にか永(とこしえ)に断じ或は暫く断ずるや。」(『論』第五)
 この染汚の意は、無始より相続して働きつづけている。しかしどのような位に至ってこの末那識は永遠に断じられ、あるいは、暫く断じられるのであろうか。
「阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し。」(『論』第五)
 阿羅漢と滅定と出世道とには、末那識は無いのである。
「阿羅漢とは、総じて三乗の無学果の位を顕す。此の位には、染の意の種と及び現行と倶に永に断滅せり、故に有ること無しと説く。」(『論』第五)
 阿羅漢とは、まとめて三乗の無学果の位を顕している。この位には、染汚の末那識の種子と、染汚の末那識の現行とを倶に永遠に断しているのである。よって、三の位には末那識は「無い」と説くのである。
「学位の滅定と出世道との中には、倶に暫と伏滅せり。故に有ること無しと説く。」(『論』第五)
 有学の位の滅尽定と、出世道との中では、倶に暫に伏滅される。その故に「無有」と説かれるのである。
「謂く、染汚の意は、無始の時より来、微細(みさい)に一類に任運にして転ず。諸の有漏道をもっては伏滅すること能わず。三乗の聖道のみをもって伏し滅する義有り、真無我の解いい我執に違えるが故に。」(『論』第五)
 つまり、染汚の末那識は、無始より以来、微細に一類に任運に転じている。諸々の有漏道をもっては、伏滅することはできない。ただ三乗の聖道をもって、伏滅することができるのである。真解脱の解(無分別智)は、我執に違背するからである。
「後得無漏の現在前する時にも、是れ彼の等流なるを以て亦此の意に違へり。」 (『論』第五)
 後得無漏(後得智)が現在前する時にも、これは、彼(無分別智)の等流であるから、またこの意(末那識)に違背する。
「真無我の解と及び後所得とは倶に無漏なるが故に、出世道と名づく。」(『論』第五)
 真無我の解(無分別智)と及び後所得(後得智)とは倶に無漏であるから、出世道と名づける。
「滅定は既に是れ聖道の等流にも極めて寂静にもあるが故に、此れにも亦有るに非ず。」(『論』第五)
 滅尽定は既に聖道の等流のものであり、極めて寂静でもある。此れにも亦末那識は無い。
「未だ永に此の種子を断ぜざるに由るが故に、滅尽定と聖道と従り起こし已んぬるときに、此れ復た現行す。乃し未滅に至るまでなり。」(『論』第五)
 未だ、永遠に、この種子を断じていない為に、滅尽定と聖道から出たときには、これは、また現行する。そして未滅に至るまではこの繰り返しである。
「然に此の染の意と相応する煩悩は、是れ倶生なるが故に、見所断に非ず、是れ染汚なるが故に非所断には非ず。」(『論』第五)
 しかも、この染の末那識と相応する煩悩は、倶生起の煩悩であるから、見道での所断ではない。またこれは染汚のものであるので、非所断ではない。
「極めて微細なるが故に、有らゆる種子をば、有頂地の下下の煩悩と一時に頓に断ず。勢力等しきが故に。金剛喩定の現在前する時に、頓に此の種を断じて、阿羅漢と成る。故に無学の位には永く復た起らずなりぬ。」(『論』第五)
 末那識相応の煩悩は極めて微細であるから、あらゆる煩悩の種子を、有頂地の下下の煩悩と一時に直ちに断じる。それは勢力(せいりき)が等しいからである。金剛喩定(こんごうゆじょう)が現在前する時に、直ちにこの種子を断じて阿羅漢と成る。だから、無学の位には末那識相応の煩悩は永遠に、また再び起こるということがなくなる。
 「二乗の無学の大乗に廻趣(えしゅ)せるは初発心より未だ成仏せざるに至るまでは実に是れ菩薩なりと雖も亦阿羅漢と名づく、応の義等しきが故に、別に之を説かず。」(『論』第五)
 ・廻趣 - めぐらしおもむくこと。廻心向大(心を廻らし大にむかう)を廻趣といい、漸悟の菩薩のこと。
 二乗の無学が大乗に廻趣した場合、その初発心より未だ成仏しないところまでは、実にこれは菩薩といってもいいのであるが、また阿羅漢と名づけるのである。応の意味が等しいので別にこれを説かないのである。
「此の中に有義は、末那は唯煩悩障とのみ倶なること有り、聖教に皆、三の位に無しと言えるが故に。」(『論』第五)
 この中において、有義(安慧等)は、末那識は、ただ煩悩障とのみ倶にあると、その訳は、聖教(『対法論』=大乗阿毘達磨雑集論・巻第二)に、すべて、三の位には末那識の体無し、と説かれているからである、と。
「又、四惑と恒に相応すと説けるが故に。」(『論』第五)
 『顕揚論』第一に「四惑と倶なり」と説かれているからである。
「又識の雑染の依為りと説けるが故に。」(『論』第五)
 また『無性摂論』第一の論本に、浄が依とすとは説かれていない。「識の雑染の依である」と説かれているからである。
 以上、安慧等は『顕揚論』第一・『無性摂論』第一の記述をもって、三の位には末那識の体は無いと主張します。

11月度テキスト

2018-11-11 13:23:33 | 第二能変 末那識について
 「彼れに十種有り、此れには何ぞ唯四のみある。」(『論』第四)
 (彼(根本煩悩)には十種ある。此れ(第七末那識)にはどうしてただ四つの煩悩のみがあるのか?)
 「我見有るが故に余の見生ぜず、一心の中には二の慧有ること無きが故に。」(『論』第四)
(我見があるために、他の見は生じないのである。一心の中、即ち一つの識の中に二つの慧が生起することはないからである。)
 「如何ぞ此の識に要ず我見しも有る。」(『論』第四)
 (どうしてこの識にはかならず我見が存在するのか。)
 「二取と邪見とは但分別生なり、唯見所断なり。此れと倶なる煩悩は唯是れ倶生なり、修所断なるが故に。」(『論』第四)
 (二取(見取見・戒禁取見)と邪見とはただ分別生、分別起の煩悩であり、ただ見所断の煩悩である。しかし第七末那識と倶である煩悩はただ倶生起のものである。何故ならば第七末那識と相応する煩悩は修所断の煩悩であるからである。だから見取見・戒禁取見・邪見は第七末那識と相応する煩悩ではない。)
 注
 見所断 - 見道所断ともいい、見道において断じられるものをいう。分別起の煩悩は真理を見ることに於て断じられるものである。見取見と戒禁取見と邪見とは見所断の煩悩である。
 修所断(しゅしょだん) - 修道所断ともいい、修道に於て断じられるものをいう。倶生起の煩悩は修道で断じられる。第七末那識と相応する煩悩は修所断の煩悩である。「金剛喩定に方に能く断ずといえるが故に」と。第七末那識相応の煩悩は「無始より未転依に至るまで此の意は任運に恒に蔵識と縁じて四つの根本煩悩と相応する」と述べられていますように、未転依である間は金剛喩定までは四煩悩と相応している。
 「我所と辺見とは我見に依って生ず。此れと相応する見は彼に依って起こらず、恒に内に我有りと執す。故に要ず我見あり。」(『論』第四)
 (我所(見)と辺見とは我見に依って生じる。しかし第七末那識と相応する見は我見に依って起こるものではない。何故ならば第七末那識と相応する見は恒に内に我が有ると執着するからである。その為に第七末那識にはかならず我見が有る。)
 「見いい審に決するに由って疑起る容きこと無し。愛いい我に著するが故に瞋生ずることを得ず。故に此の識と倶なる煩悩は唯四のみなり。」(『論』第四)
 (我見は認識対象が何であるのかを審らかに決するものであるから、我見と倶に疑は起こることはない。疑の行は猶予(因果の理の存在を疑い猶予する心をいう。決断できずあれこれとまようこと)であるから相応しないのである。愛(貪)は我に執着するものであるから愛(貪)と倶に瞋は生じることは出来ない。この故に第七末那識と倶である煩悩はただ四のみである。)
 「見と慢と愛との三いい如何ぞ倶起する。」(『論』第四)
 (見と慢と愛(我見と我慢と我愛)との三つはどうして相応することができるのか。)
 「行相違すること無し、倶起すというに何の失かあらむ。」(『論』第四)
 (見と慢と愛の行相が相違しないからである。従って、見と慢と愛が倶起するということに、何の過失があるのであろうか、ないはずである。)
  「瑜伽論に説かく、貪は心をして下なら令め、慢は心をして挙なら令むという、寧ぞ相違せざるや。」(『論』第四)
 (『瑜伽論』に説かれているのは、「貪は心をして下ならしめ、慢は心をして挙ならしめる」という。にもかかわらず、どうして貪と慢の行相は相違していないというのであろうか、相違しているではないのか。)
 「分別・倶生と外境・内境と所陵(しょりょう)・所恃(しょじ)と、麤・細と、殊なること有るをもっての故に、彼此の文いい義、乖返(かいへん)すること無し。」(『論』第四)
 語句説明
 •所陵(しょりょう)の境 - 陵はあなどること。見下しあなどる対象。
 •所恃(しょじ)の境 -  恃はおごること。恃む認識対象。
 •陵恃(りょうじ) - 他人を見下し、自己をおごり、たよりとすること。
 •乖返(かいへん) - 論理的に矛盾していること。
 ((1)分別と倶生との別。 (2)外境と内境との義の別 (3)所陵と所恃との境の別 (4)麤と細との行相の別という四義の別によって貪と慢は相応する場合と、相応しない場合とがある。彼と此れとの文は意味が論理的に矛盾しているわけではない、相違はしていないのである。)
 四義の説明
 煩悩の相応・不相応を述べる四つの義は、
 1.分別と倶生の別 - 分別起のものか倶生起のものかで相応・不相応の別が生じるということ。 「一には分別と倶生との二種別なるが故に。謂く五十五(五十八の誤り)には分別を説けり。五十八(五十五の誤り)には倶生を説けり。分別の者は唯見断なり。又分別は未だ必ずしも唯見断にはあらず。即ち修道の中にも強く分別して生じ、相続せざる者ならば亦是れ類なるが故に、分別して起こるが故に、煩悩増猛なるは貪は下にして慢は挙す。故に二つ相違せり。倶生起の者は微細にして相続す。故に相応することを得。」(『述記』)と述べられ、分別起の煩悩は増猛であるから互いに相違し相応することはないということであり、倶生起の煩悩は微細であり任運に相続するために、互いに相違しないで相応するのである。尚、貪と慢は分別起のものと倶生起のものとの両方がある煩悩である。その他、貪・慢と瞋・癡・身見・辺見とがある。ただ分別起の煩悩としては疑・邪見・見取見・戒禁取見が数えられる。 また分別起の煩悩は見断であるが、必ずしも見断のみではなく、修道の中にも強く分別して生じるものは修道において断じるのである、と。
 2.外境と内境の別 - 外境を認識する時は、貪染して愛を生ずるときには必ず心を下す、しかし慢を生ずる時は卑下することはない。たとえ卑慢であっても貪と相応するすることはないのである。また第八阿頼耶識の見分(内境)を縁じるならば、自らを愛することによって心は卑下せず、第八阿頼耶識を縁じて慢を起こす時には自ら高ぶるのでこの両者は相応するのである、という。 「外境と内境との二義別なるが故に。若し外境を縁ずるは多分見断なり。または修断にも通ず。貪染して愛を生ずるときには心必ず之に下す。此れは見・修に通ず。若し彼(外境)が於に慢ずるときは即ち卑下せざるが故に。設い卑慢なれども亦貪と相応すとは許さざるが故に。若し内身(第八阿頼耶識の見分)を縁じて境とするは、自を愛するを以ての故に心卑下せず。之を縁じて慢を起こすときは自ら高ぶるを以ての故に、二相応することを得。五十五(五十八の誤り)は外に約すといい、五十八(五十五の誤り)等は内に約していう。(『述記』)
 3.所陵と所恃との二境の別 - 「若し彼を陵いで慢を起こすの時は必ずしも愛を起こさず。故に二相違せり。若し自ら恃んで愛を起こすときは心必ず高挙す。或は他をも陵ぐが故に、故に貪・慢相応することを得。並に見・修断に通ず。」(『述記』)他を見下して慢を起こす時には、同一の対象に対して愛は起こさないが、自らをおごって愛を起こす時は必ず自らを高挙する、或いは他をも見下すから「所恃の境」に対しては貪と慢は相応する。
 4.麤と細との行相の別 - 煩悩の行相の麤と細によって相応する・相応しないことが生じる。「麤にして猛利なる者は相応せずと説く。二の麤は行相相違返せるが故に。若し細ならば相応す可し。此の二が行相は相違せざる故に見・修断に通ず。」(『述記』 行相が麤であり猛利(みょうり-はなはだしいこと)な煩悩同士は行相が相違するので相応しない。しかし行相が細である煩悩は行相が相違しないので相応するという。そしてこの貪と慢の行相が麤であるときは相応しないが、細であるときには相応すると述べられている。
 以上を以て護法は、第七末那識と相応する煩悩は我癡・我見・我慢・我愛の四つのみであり、他の煩悩は第七末那識と相応しないこと、そして四煩悩同士は相応することを述べてきました。

第二能変 六月度テキスト・開導依についての解説

2018-06-20 09:14:15 | 第二能変 末那識について
 「伽陀に説けるが如し、 阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り、 心と及び意とに依止して、 余の転識生ずることを得という。」(『論』第四・二十一右)
 (伽陀(『入楞伽経』第九巻・大正16・571c20「依止阿梨耶 能轉生意識 依止依心意 能生於轉識」の取意)に説かれている通りである。「阿頼耶識を依とすることに於いて、末那識は活動する。心と意とに依止して、他の転識は生じる。)
 『入楞伽経』第九巻・総品の中の頌に「阿梨耶 に依止して能く転じて意識を生ず、心に依る意に依止して能く転識を生ずと。」と語られているのですが、『論』はこの『頌』の要を述べています。そしてこの文が第七識の倶有依は第八識であることの証拠であると示しているのです。
 「述して曰く、即ち『楞伽経』第九巻の総品の中の頌なり。旧偈には阿梨耶 に依止して能く転じて意識を生ず、心に依る意に依止して、能く転識を生ずと云えり。稍此と別なり。此れに准ずれば前の依において好(よ)き証と為すに足れり。今の文は解すべし。」(『述記』九十五左)
 「此れに准ずれば前の依において好(よ)き証と為すに足れり。今の文は解すべし。」ということは、この『論』の文章は『頌』の前半と後半に分けて第七識の倶有依と前五識の倶有依と第六識の倶有依を示す証拠になる、と理解すべきである、と述べています。前半は「阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り、」という部分ですね、第七識の倶有依は第八識であることを示し、後半の「心と及び意とに依止して、 余の転識生ずることを得」という部分は、第七識と第八識を倶有依として前五識及び第六識は活動する、という証拠を示しているということになります。
 前五識の開導依 
 難陀等 - 第六識
 安慧等 - 自類と第六識
 護法等 - 自類
 第六識の開導依
 難陀等 - 前五識と自類
 安慧等 - 自類と第七識と第八識
  護法等 - 自類
 第七識の開導依
 難陀等 - 自類
 安慧等 - 自類と第六識
 護法等 - 自類
 第八識の開導依
 難陀等 ー 自類
 安慧等 - 自類と第六識と第七識
 護法等 - 自類
 自類とは、眼識は眼識を耳識は耳識を開導依としていることを意味します。 第三に護法の正義を結ぶ
 「故に自類を以て依となすと云う、深く教理に契えり。」(『論』第四・二十六右)
 (上来述べてきたことを以て正義を結ぶ。ゆえに自類を以て開導依とする。これは深く教と理にかなうものである。)
 護法正義
• 因縁依 - 種子
• 増上縁依(倶有依) - 五識の倶有依は五色根と第六識と第七識と第八識であり、所依の種類の別が有る。五根は五識に対し同境依・第六識は分別依・第七識は染浄依・第八識は根本依である。 第六識の倶有依は第七識と第八識であり、第七識の倶有依は第八識である。そして第八識の倶有依は第七識となる。
• 等無間縁依(開導依) - 五識の開導依は五識それぞれの前念の自識・第六識は前滅の第六識・第七識は前滅の第七識・第八識は前滅の第八識で、八識各自の自類を以て等無間縁依となる。
  この科段より護法の正義を述べるわけですが、一言で表すと、護法の説くところは全ての識が、それぞれの自類を以て開導依とするということです。自類のみに限定しているのですね。同じ性質の心が連続しているということです。結論から述べますと、心王については「是の故に八識は、各々唯自類を以て開導依と為すという、深く教理に契えり、自類は必ず倶起する義無きが故に」と。そして、心所については「心所の此の依は、識に随って説くべし」と。
 「有義は、此の説も亦理に応ぜず。」(『論』第四・二十四右)
 (有義(護法)は、この説(安慧等の説)もまた理にかなわないと主張する。)
 文意に四有り、と。
1.出体義(体と義とを出す) - 護法の開導依説について説明する。
2.破前非(前の非を破す) - 安慧等の説を論破する。
3.申正理(正理を申ぶ) - 護法正義を述べる。
4.釈違難(違難を釈す) - 護法説に対する批判に答える。
 「開導依とは、謂く、有縁の法が、主たり、能く等無間縁と作るぞ。」(『論』第四・二十四右)
 (開導依とは、つまり有縁の法が主となりよく等無間縁となるのである。)
 「開導依とは、四縁の中の等無間縁とは別なり。但だ是の開導依は必ず是れ等無間縁なり。是れ無間縁にて開導依に非ざる有り。謂く前念に滅せんとし自類の心所なり。」(『述記』)
 開導依の説明から述べられます。開導依とは、四縁の中の等無間縁とは別である、と。この意味は、等無間縁でなければ開導依とはならないが、等無間縁であるからといって開導依になるわけではない、という。その理由が次に述べられています。等無間縁にはなるけれども、開導依にならないものとは、前念の自類の心所である、と。自類のみが開導依となるということを主張します。例えば、第八識の開導依は前念の第八識のみであり、第七識においては前念の第七識のみであり、異類の識が開導依になることはないと説きます。
 次に開導依の説明です。その第一義
 「開導依とは、謂く有縁の法というは、謂く若し有法の体是れ縁を有するなり。即ち色と不相応と無為法との等を簡ぶ。所縁有って力有るもの能く引生するが故に。」
 開導依(等無間縁依)は、対象を認識する心の作用を持たない色法・無為法・不相応行法・種子は等無間縁にも等無間縁依にもならない。等無間縁になるのは心王・心所のみである。そして等無間縁依になるのは心王のみであり、しかも自類のみである、これが開導依であると護法は主張します。そして本文にもありますように開導依を三義によって定義しています。
 開導依の三義
 第一義は「有縁の法」であること。
「有縁」とは有所縁(所縁を有していること・認識対象を持っていること)のこと。有縁の法とは、「所縁有って力有るもの能く引生する」ものでなくてはならないことを示す定義になります。後念の存在を引生する力があることが条件となり、その力の無い色法・不相応行法・無為法は除かれるのです。
 第二義は「主となる」こと。「主たり」というは即ち一切の心所法の等きを簡ぶ。彼は主に非ざるが故に、要ず主として力有るいい方に依とは為るべし。」(『述記』)
 心所法は主ではなく伴であるので所依とはならないという。主となるのは、所依となり、所依となる作用を有している法であることが定義になります。伴というのは心王が主であり、心王に対して伴であるということです。
 第三義は「能く等無間縁となる」こと。三点を以て説明されます。
 「能く等無間縁と作るぞ」というは、
 (1)、異類の他識が自識の開導依とはならない。眼識の開導依は前念の眼識である、乃至。これは八識倶起・八識倶転を真実とするところから述べられています。 
 (2)は、自類の識であっても後念の自識が前念の自識の開導依とはならない。後念の自識という未だ生じていない法は依とはならないということ。
 (3)は、同時に存在する法同士には時間的前後がないために、同時に存在する法は依とならないということ。
 その二は、開導依の意味と名の由来
 「此れが後に生ずる心心所法に於て、開避し引導するを以て開導依と名く。此れは但心のみに属す、心所等には非ず。」(『論』第四・二十四右)
 (この後に生じる心・心所法に対し開避し引導することから開導依と名づけられる。これはただ心のみであり、心所等ではない。)
 「此れ」は前念の心王を指し、「後」は後念を指す。
 「前念の心王、此れが後の心及び心所法に於て、能く彼の路を開避し引導して生ぜしむる故に此の依と為る」が依の体を説明しており、「此れは但、心にのみ属す、諸の心所と色と不相応とに非ず、皆力無きが故に。亦無為にも非ず。前後無きが故に」が依の義を説明しています。
 開導依の体は心王、即ち識であり、心所等ではない、心王以外の法は開導依とはならないことを述べています。
 心所は主とならないので、開導依ではない。
 色法・不相応行法は引導する力がなく開導依とはならない。
 無為法も又後念を引く力が無い。そして無為は常住であるから前念・後念という時間的な前後がなく開導依の体とはならない。
 以上の理由から、護法は開導依となるのは但だ前滅の心王(識)のみであるという。一刹那前に滅した心を開導依と、そのことによって後念が引生されるのです。
 第二 ・ 安慧等の説を論破する。
 (1) 諸識不倶難(諸の識倶ならざるべしという難 - 異類の識の開導を認めるならば諸識は倶起しないであろうと論破する。)
 (2) 色心無異難(色と心と異なることなかるべしという難 - 異類の識の開導を認めるならば色法と心法とに異なる所が無くなるであろうと論破する。
 「下は初の難なり。」(『述記』)
 「若し此れが彼と倶起する義無しといはば、此れを彼に於て開導する力有りと説くべし。一身に八識既に倶起す容し、如何ぞ異類を開導依と為すという。」(『論』第四・二十四左)
 (もし此れが彼と倶起しないというのであれば、此れは彼に対して開導する力が有ると説くべきである。一身に八識がすでに倶起することを承認しているのであるから、どうして異類の識を開導依とできるというのか、できないはずである。)
 護法の理は、前念の識(心王)は後念の識(心王)・心所を生じる為の路を開避し、後念の識(心王)・心所を引導する働きを依とするのが開導依であるという。そして八識倶起説(難陀・安慧等も承認している)からみると、八識は倶起するのであるから八識同士は互いに他識が生起するべき路を妨げないということになり、八識は互いに開導依とはならないのです。「自識を他識の識が與に開導依と為すというや」と。自識からみて異類の他識は開導依とはならないというものです。
 前念の識が生起している限り後念の識の生起する路を塞いでいるわけです。そして前念の識が消滅してはじめて後念の識が生起するわけですから、前念の識が後念の識を開避し引導する力が存在することがわかるといいます。「此れを彼に於て開導する力有りと説くべし。」と本文は述べています。
 そして、八識倶起ということは、八識相互の関係は異類になりますが、八識が倶起するということは互いに妨げないで生起することになりますから、八識相互の間においては開導依は成り立たないということです。逆にいうと、倶起しないということは、ある識が生起する路を妨害しているということになりますから、妨害している識には妨害されている識の生起する路を開避し引導するという力が存在することになります。従って開導依となるのは(自識)前念の自識に限られるというのが護法の開導依説になります。
  ―  八識倶転(1) 倶転を明かす ― p159
「是の故に八識は一切の有情に於て心と末那と二は恒に倶転す。若し第六起るときには則ち三いい倶転す。余は縁の合するに随て一より五に至るまでを起すときには則ち四いい倶転し乃至八いい倶なり。是を略して識の倶転する義を説くと謂う。」(『論』第七・十六左)
(意訳) このようなわけで、八識はすべての有情にに於いて倶に動いている。阿頼耶識と末那識は恒に倶転する。マナーという我執の心は、ときどき動くのではなく、恒に動いている。阿頼耶識を依り所として動いていく。若し第六意識が起こる時には、阿頼耶識と末那識とが一緒に動く。余(前五識)は縁に依り一つが動くときも有り、全部が動くときもある。それは縁によって違う。そして阿頼耶識と末那識の二つはいつも有る。則ち阿頼耶識と末那識と第六意識と前五識のいずれかが、起きている時には動いているわけですから、四つは必ず動いていることになります。それが倶に動いていく。これを略して識の倶転する意義を説くのである。
 初能変・第二能変・第三能変を結ぶにあたって八識倶転・八識一異が述べられます。「こころは一つか」という問いに答えているわけです。八識はどのように動くのか、一つの識なのか、八識は別体なのかという問いが先ずあるわけです。この問題については概略を示して、初能変・第二能変を学びおえてから再考したいと思います。『成唯識論』の立場は八識別体・八識は、別々の識体を持つということです。八識倶転を受けて八識一異が述べられます。
八識一異 p160
 「心と意と識との八種は、 俗の故には、 別なること有り。 真の故には相別なること無し。 相と所相と無きが故にと」
 (意訳) 心・意・識という八種の識は世俗諦(道理世俗諦)でいうならば、八識は別体である。しかし勝義の立場(二空)からは相は別であることはない。それは相と所相との差別が無いからである。
 「若し依と為ると許さば、倶起せざる応し、便ち異部の心は、並生せずというに同じぬ。」(『論』第四・二十四左)
 (もし異類の識が開導依となるのなら、八識は倶起しないであろう。もしそのように主張するならば、それは有部等の部派仏教が主張する「心は並生しない」という説と同じことになる。)
  安慧等の主張を論破します。
 『述記』より、「若し互いに依と為ると云はば、互いに相い障るが故に」と。もし互いに開導依となるというのであれば、とりもなをさず八識が互いにそれぞれの生起を妨害しあっていることになり、八識は倶起しないはずである。
 もしそうであるならば、「小乗等の異部の心並生すること無しという義に同なりぬ」と。有部等の説は六識が倶起しないといい、六識が互いに妨害し合うからこそ倶起しないので六識同士は開導依となるという。
 難陀等・安慧等も八識倶起を認めているわけですから、異類の識が自識の開導依になるという説は誤りなのです、これによって八識倶起を認めている以上、八識相互が開導依となるという説は成立しないと護法は論破します。
 八識倶起説が『成唯識論』の立場であることを意味します。
 その二は、「色心無異難」(色と心と異なる所が無くなるであろうと論破する。)ここが二つに分けて説かれる。
 (1) 異なること無かるべしと難じ、(異類の識の開導を認めるならば、色法と心法とに異なる所が無くなると論破する。)
 (2) 相違を釈す。(聖教との間において相違がある問題について説明する。)
 (1)について、
 「又一身の中に、諸識の倶起すること多少不定なるを以て、若し互いに等無間縁と作る容しといわば、色等も爾る応し。」(『論』第四・二十四左)
 (また一身の中に諸識が倶起する場合には、その前念と後念とでは生起する識の数の多少は不定であるにもかかわらず、もし諸識が互いに等無間縁となるというのであれば、色等の間も互いに等無間縁となるであろう。)
 異類の識が開導依となるとすれば色法と心法とに相違がなくなることになる。前科段において「若し異類の識が開導依となるなら八識は倶起しないであろう」と述べられ、異類の識が開導依となることはないと論破しています。
 色法 - 物質的な存在。五根(五つの感官)・五境(感覚対象)・無表色(具体的に認識されない存在)をいう。一切法を五つに分類する中の一つ。
 一切法 - すべての存在するものの分類法。(1)有為・無為 (2)有漏・無漏 (3)心・心所・色・心不相応行・無為で(3)の分類を五位百法という。 
 心法 - 心所有法の略称。心の中心体である心王に付属して働く細かい心作用をいう。遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の六種に分類して五十一の心所がある。
 『述記』によれば、等無間縁の意味を先ず説明しています。「等」とは斉しいこと、同一であることです。
 二つの意味が有ります。(1)体等 (2)用等で、「体等とは前のも後のも一法なるが故に、心の唯一なるが如し。乃至受等も亦唯一有り。」(前念と後念とにおいて対応する法が一つずつであること。前念において心王の体が一つ・受の体が一つ・想等もその体が一つずつである。また後念においても同じく体は一つずつである。
 「用等」とは、前念の心・心所が引導する功能は一つになって後念の心・心所を引導するということ。
 体等・用等の斉しいことが等無間縁の「等」の示す条件になります。
 次は「無間」です。「隣次して生じて余の自心隔つること無きが故に無間と名づく。」(『述記』)と。前念・後念連続して生じてその間に他の心が介在する物理的空間を持たないことで、時間的空間ではなく異類の心が介在しないという物理的なところから述べられています。「自心隔つること無きが故に」と。これが無間の意味になります。
 次に「縁」とは縁慮作用。ある対象を認識する心の認識作用のことで、「色は質礙にして心は縁慮なり」と。ですから、等無間縁というのは心・心所に限られるということになります。
 色法には等無間縁は無いのですね。それは色法には縁慮作用が無いからです。それから同類の色法が同時に存在し(一身中において眼根・耳根・鼻根等の扶塵根などの色法が多種倶起しているような状態を示す。)、しかも前後で生起する数が相違し体等の義がないからです。このようにもし心法に於いて体等の義が欠如しているにもかかわらず、「互いに等無間縁と作る」というのであれば、色法にも等無間縁が成り立つということになり、心法と色法の区別がなくなるであろうというのが論難の視点になります。
 諸識の倶起を認め、そして諸識が互いに等無間縁となるのであれば、安慧や難陀等の説は心法と色法とに相違がなくなる、と護法は論破し、その証拠を引く。
 「若し彼れいい復色を心等の如く是れ無間縁なりと許すと言はば、」(『述記』)(もし、安慧・難陀等が、色法にも心法のように等無間縁があると認めるのであれば、)
 『論』の中では問いは隠されていますが、問いを受けて展開されていることが分かります。
 「便ち聖の、等無間縁は唯心・心所のみと説けるに違しぬ。」(『論』第四・二十四左・p87二行目)
 (すなわち、聖教に「等無間縁はただ心・心所のみである」と説かれるのに相違することになる。違は相違という意味ですが、間違って正義に背いているということですから違背していることになります。)
 安慧・難陀等の説を破斥するのに『瑜伽論』等の証を引く。
 『瑜伽論』巻第三十八(大正30・501b)
 「復有四縁。一因縁。二等無間縁。三所縁縁。四増上縁。當知此中若能生因是名因縁。若方便因是増上縁。等無間縁及所縁縁。唯望一切心心法説。由彼一切心及心法前生開導所攝受故。所縁境界所攝受故。方生方轉。是故當知等無間縁及所縁縁。攝受因攝。」(「復た四縁あり、一には因縁、二には等無間縁、三には所縁縁、四には増上縁なり。まさに知るべし此の中若しくは能生因をば是れを因縁と名づけ、若しくは方便因は是れ増上縁なりと。等無間縁及び所縁縁は唯だ一切の心心所に望みて説くのみ。彼の一切の心及び心法は前生の開導に摂受せらるるが故に、所縁の境界に摂受せらるるが故に方に生じ方に転ず、是の故にまさに知るべし等無間縁及び所縁縁は摂受因の摂なりと。」)
 また『無性摂論』巻第一(大正31・384c)
 「心及心法四縁定故。」(心及び心法は四縁定まるが故に。」)と。これらの証拠によって、等無間縁はただすべての心・心所に対してのみ説くのであって、これによって色等はすべて等無間縁として立ててはならないと云います。
 「然も摂大乗に、色にも亦等無間縁有る容しと説かるは、是れ縦奪(じゅうだつ)の言なり。謂く、仮に、小乗の色心いい前後として、等無間縁有りということを縦(ゆる)して、因縁を奪はんとの故なり。爾らずば、等の言は無用(むゆう)に成んぬ応し。(『論』第四・二十四左・p87)
 色心は色は身体的要素・心は精神的要素で、身と心ですね。
 (そして『摂大乗論』(『無性摂論』巻第三・大正31・396c)に「色法にも亦等無間縁がある」と説かれているのは縦奪の言によるものである。つまり、仮に小乗の色心には前後して等無間縁があるということを認めて、因縁を否定しようとしているための言である。そうでなければ、等の言は無用となるであろう。そうであるが故に、『摂大乗』の記述は色法に等無間縁が有るということを認めているものではない。)前段に「等無間縁は心・心所のみである。」と説かれているのに、聖教には色法にも亦等無間縁が有ると説かれているのは矛盾するのではないか、という、問いかけに応じて「縦奪の言」を以て答えています。
 『摂大乗論』に色にも亦等無間縁が有ると説かれているのは、これは縦奪(じゅうだつ)の言によるものである、という。この場合の、「縦」は認めることであり、「奪」は否定することを意味します。「縦体破之」(体をゆるしてこれを破す)、そして「奪体破之」(体をうばってこれを破す)という意味になります。
 色法にも等無間縁があると説かれているのは縦奪の言である。前念の色法と後念の色法との間には等無間縁が存在することを認めるということであって、色法が因縁になることはないと否定しているわけです。即ち、上座部の中の経量部の主張は「前念の色・心が後念の色・心の因縁となる(種子となる)」と云うのですが、これを『摂論』は経量部の主張の因縁となることを否定する為に「色・心には前後して等無間縁がある」ことを認めているという。認めてはいるが実際にはそこに等無間縁が存在するということを説いているものではない、と。
 等無間縁の「等」について、
 「等」は等しいということ、なにが等しいかというと、前念の心・心所と後念の心・心所とはそれぞれ一法づつ対応しているということであり、色法は前念と後念では法の数が相違している(色法は五根・五境。無表色)ので「等」という字は用いられない。このことから色法は等無間縁ではないことがわかるという。
 「若し謂く、等の言は多少を遮するに非ず、但同類を表すといはば、便ち汝が、異類の識いい等無間縁と作ると執ずるに違しぬ。」(論』第四・二十五右)  (もし「等」の言は法の多少を否定するものではなく、ただ同類を表すものであるというのであれば、それはあなた方(安慧等)の「異類の識が等無間縁になる」という主張と矛盾することになり、汝の反論は成り立たない、というべきである。)
 安慧の主張は「等の言葉は法の多少を否定するものではなく、ただ同類を表すものである」と。同類を表すということは、「前念は是れ此の心・心所なり、後のも亦此の心・心所なり」ということ。これを以て「等」であるという。これが安慧等の反論になるわけですが、これを亦護法が論破するわけです。「同類を表すということであれば、汝が主張する「異類の識が等無間縁になる」ということと矛盾するではないか。故に汝の反論は意味をなさないのである、と。
 「是の故に・・・」、正理を述べます。p87五行目
 「是の故に八識は、各々唯自類を以て開導依と為すという、深く教理に契えり、自類は必ず倶起する義無きが故に。」(『論』第四・二十五右)
 (以上のような理由から、八識は各々ただ前念の自類の識を開導依とする。これは深く教と理に適うのである。何故ならば、自類は絶対に倶起しないからである。)
 この科段は前をうけて、護法の正理を述べます。開導依の三義を読んでいただければ理解できると思いますが、開導依は「但心のみに属す。心所等には非ず。」と。「前念の心王の此れが後の心と及び心所法とに於いて、能く彼の路を開避し引導して生ぜしむが故に此の依と為る、此れは但心のみに属す、・・・」
 識については、八識の開導依は八識それぞれの自類である、と述べ、これは「深く教と理に適う」と護法はいいます。
 「心所の此の依は、識に随って説くべし。」(『論』)
 「各々本識に随って以て所依をば説けり。故に識に随って説くべしと云う。」(『述記』)
 今回はここまでにします

第二能変 六月度テキスト・開導依について

2018-06-17 11:05:05 | 第二能変 末那識について
 等無間縁依(開導依)について、
 『論』第四(テキストp86)に護法の正義が記されています。
 「開導依(かいどうえ)というは、謂く有縁の法たり、主と為り能く等無間縁(とうむけんえん)と作(な)る。此れ後に生ずる心・心所法に於て開避(かいひ)し引導(いんどう)するを以て開導依と名づく。此れは但心のみに属す。心所等には非ず。」
 説明
 一刹那前に滅した心を開導依という。前念の一刹那を開避し、後念の心・心所を引導して障りなく生起させる前滅の心・意根をいう。即ち諸の心・心所は、この開導依なくしては生起することが不可能であり、すべての心・心所は開導依(等無間縁依)に託して生起する。
 しかし、この開導依に難陀・安慧・護法の異説があり、初に難陀等の説が述べられ、つぎに安慧等の説が述べられ、そして最後に護法の正義が示されます。
 護法の正義のみを読み解きます。
 「有義は、此の説も亦理に応ぜず。」
 (有義(護法)は、この説(安慧等の説)もまた理にかなわないと主張する。)
 「開導依とは、謂く、有縁の法が、主たり、能く等無間縁と作るぞ。」
 (開導依とは、つまり有縁の法が主となりよく等無間縁となるのである。)
 開導依の意味と名の由来
 「此れが後に生ずる心心所法に於て、開避し引導するを以て開導依と名く。此れは但心のみに属す、心所等には非ず。」
 (この後に生じる心・心所法に対し開避し引導することから開導依と名づけられる。これはただ心のみであり、心所等ではない。)
 安慧等の説を論破。
 「若し此れが彼と倶起(くき)する義無しといはば、此れを彼に於て開導する力有りと説くべし。一身に八識既に倶起す容し、如何ぞ異類を開導依と為すという。」
 (もし此れが彼と倶起しないというのであれば、此れは彼に対して開導する力が有ると説くべきである。一身に八識がすでに倶起することを承認しているのであるから、どうして異類の識を開導依とできるというのか、できないはずである。)
 「若し依と為ると許さば、倶起せざる応し、便ち異部の心は、並生せずというに同じぬ。」
 (もし異類の識が開導依となるのなら、八識は倶起しないであろう。もしそのように主張するならば、それは有部等の部派仏教が主張する「心は並生しない」という説と同じことになる。)
  「又一身の中に、諸識の倶起すること多少不定なるを以て、若し互いに等無間縁と作る容しといわば、色等も爾る応し。」
 (また一身の中に諸識が倶起する場合には、その前念と後念とでは生起する識の数の多少は不定であるにもかかわらず、もし諸識が互いに等無間縁となるというのであれば、色等の間も互いに等無間縁となるであろう。)
 「即ち聖の等無間縁は唯心・心所のみと説くに違す。」
 (すなわち、聖教に「等無間縁はただ心・心所のみである」と説かれるのに相違することになる。
 「然も摂大乗に、色にも亦等無間縁有る容しと説けるは、是れ縦奪(じゅうだつ)の言なり。謂く、仮に、小乗の色心いい前後として、等無間縁有りということを縦(ゆる)して、因縁を奪はんとの故なり。爾らずば、等の言は無用(むゆう)に成んぬ応し。
 (そして『摂大乗論』(『無性摂論』巻第三・大正31・396c)に「色法にも亦等無間縁がある」と説かれているのは縦奪の言によるものである。つまり、仮に小乗の色心には前後して等無間縁があるということを認めて、因縁を否定しようとしているための言である。そうでなければ、等の言は無用となるであろう。そうであるが故に、『摂大乗』の記述は色法に等無間縁が有るということを認めているものではない。)
 等無間縁の「等」について、
 「若し謂く、等の言は多少を遮するに非ず、但同類を表すといはば、便ち汝が、異類の識いい等無間縁と作ると執ずるに違しぬ。」
 (もし「等」の言は法の多少を否定するものではなく、ただ同類を表すものであるというのであれば、それはあなた方(安慧等)の「異類の識が等無間縁になる」という主張と矛盾することになり、汝の反論は成り立たない、というべきである。)
 「是の故に八識は、各々唯自類を以て開導依と為すという、深く教理に契えり、自類は必ず倶起する義無きが故に。」
 (以上のような理由から、八識は各々ただ前念の自類の識を開導依とする。これは深く教と理に適うのである。何故ならば、自類は絶対に倶起しないからである。)
  「心所の此の依は、識に随って説くべし。」

五月度テキスト

2018-05-22 20:17:16 | 第二能変 末那識について
 随分暖かくなりました。日中は汗ばむくらいですね。
 唯識の学びも遅々として進みませんが、末那識の所依について煩雑な論考もなされています。このところはスルーして今回は護法菩薩の所論を学ばせていただきたいと思っています。原文と和訳をてきすととして用います。5月24日八尾別院で午後三時開講です。
 「有義は、前の説くこと皆理に応ぜず、未だ所依と依との別(ことなる)ことを了せざるが故に。」(『論』第四・十九左。『選註p83))
 (護法は、前に説かれていることはすべて理にかなわないという。何故ならば、前に説かれている諸説は、未だ所依と依とが別であることを理解していないからである、と。)
 「依とは、謂く、一切の生滅を有せる法が、因に杖し縁に託して、而も生じ住することを得。」(『論』第四・十九左)
 (依というのは、一切の有生滅の法が、因に杖し縁に託して生じ住するという、お互いに支えあい助け合って一つのものができていることを指すのである。)
 「諸の杖託する所をば、皆説いて依と為す。王と臣と互いに相依る等の如し。」(『論』第四・十九左)
 (諸々の杖託するものすべてを依とする。それはあたかも王と臣とが互いに相依るようなものである。)
 「若し法が決定せり、境を有せり、主たり、心心所をして自の所縁を取ら令む、乃ち是れ所依なり、即ち内の六処ぞ、」(『論』第四・二十右)
 (もし法が決定し、境を有し、主となり、心心所に自の所縁を取らせるならば、これが所依である。即ちこれらの条件を備えているものは内の六処である。)
 「余は、有境と定と為主とに非ざるが故に」(『論』第四・二十右)
 (内の六処の他は、有境・決定・為主の義を備えていないから所依ではない。)
 「此は但王の如し、臣等の如きには非ず」(『論』第四・二十右)
 (これはただ王のようなものであり、臣等のようなものではない。)
 「故に諸の聖教に、唯心心所のみを有所依と名づけたり。色等の法には非ず、所縁無きが故に。」(『論』第四・二十右)
 (その為に諸々の聖教に、ただ心・心所のみを有所依と名づけているのである。色等の法ではない、所縁がないからである。)
 「但心所は心を所依と為すとのみ説いて、心所を心が所依と為すとは説かず、彼は主に非ざるが故に。」(『論』第四・二十右。『選註p84))
 (心所は心王を所依とするとのみ説いて、心所を心王の所依とするとは説かない。彼(心所)は主ではないからである。)
 「然るに有る処に、依を所依と為し、或いは所依を依と為すと説けるは、皆宜しきに随って仮って説けり。」(『論』第四・二十右)
 (しかもある所に依を所依とし、或いは所依を依とすると説かれているのは、「皆宜しきに随って仮って説けり。」と。すべて便宜的に仮に説かれているのである、と。)
 (これからの科段は心・心所の倶有依について説明がなされます。初には識の倶有依を解釈し、後には心所の倶有依を解釈してきます。一には五識の倶有依について・二には第六識の倶有依について・三には第七識の倶有依について・四には第八識の倶有依について解釈します。)
 「此れに由って五識の倶有依は、定んで四種有り、謂く、五色根と、六と七と八との識ぞ。」(『論』第四・二十右)
 (これによって五識の倶有依は必ず四種がある。つまり五色根と第六識と第七識と第八識との識である。)
 「随って一種をも闕きぬるときには、必ず転ぜざるが故に、同境と分別と染浄と根本と所依別なるが故に。」(『論』第四・二十左)
 (したがって五色根と第六識と第七識と第八識のうちの一種でも闕いたときには五識は転じない。また同じ倶有依であっても五色根は五識の同境依であり、第六識は五識の分別依であり、第七識は五識の染浄依であり、第八識は五識の根本依であるという所依の種類の別がある。)
 「聖教に、唯五根に依るとのみ説けることは、不共なるを以ての故に、又は必ず同境なり近なり相順せるが故に。」(『論』第四・二十左)
 (聖教とは(『述記』には『対法論』第一等の如し、と記されていますが、『対法論』第二の誤写ではないかと見られます。『対法論』第二(大正31・0702a17)に「眼識者。謂依眼縁色了別爲性。」と『述記』に記されている文章が出ています。巻第一には見受けられません。)に五識は唯だ五根に依る、とのみとかれているのは、五根が五識の不共依だからである。また、五根と五識は必ず、同境であり、近であり、相順するからである、と。)
 「第六意識の倶有所依は、唯二種有り、謂く、七と八との識ぞ。随って一種をも闕きぬるときには、必ず転ぜざるが故に。」(『論』第四・二十左)
 (第六意識の倶有依はただ二種である。それは第七識と第八識とである。随って第七識と第八識のうちの一種でも欠いたときには第六識は、必ず転じることはないからである。)
 「五識と倶にして、境を取ること明了なりと雖も、而も定んで有るにあらず、故に所依に非ず。」(『論』第四・二十左)
 (第六識は五識と倶に活動し、境(対象)を取る(認識する)ことが明了であるとはいっても、しかし五識は恒に必ずしも存在するものではない。つまり五識は第六識の倶有依ではないのである。)
 「聖教に、唯第七に依るとのみ説けるは、染浄依なるが故に、同じく転識に摂め、近くして、相順せるが故に」(『論』第四・二十左)
 (聖教に第六識は唯第七識に依るとのみ説かれているのは、第七識は第六識の染浄依だからであり、第七識は第六識と同じく転識の一種であり、その理由は第七識は第六識に近いからであり、相順するからである。)
 「第七意識の倶有所依は、但一種有り、謂く第八ぞ、蔵識若し無きときには、定んで転ぜざるが故に。』(『論』第四・二十左)
 (第七識の倶有依はただ一種である。つまり第八識である、若し蔵識(第八識)が存在しない時には、第七識は必ず活動しないからである。)
 「伽陀に説けるが如し、 阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り、 心と及び意とに依止して、 余の転識生ずることを得という。」(『論』第四・二十一右)
 (伽陀(『入楞伽経』第九巻・大正16・571c20「依止阿梨耶 能轉生意識 依止依心意 能生於轉識」(阿梨耶 に依止して能く転じて意識を生ず、心に依る意に依止して能く転識を生ずと。の取意)に説かれている通りである。「阿頼耶識を依とすることに於いて、末那識は活動する。心と意とに依止して、他の転識は生じることが出来るのである。)
 「阿頼耶識の倶有所依も、亦但一種なり、謂く第七識ぞ、彼の識若し無きときには定んで転ぜざるが故に。」(『論』第四・二十一右)
 (阿頼耶識の倶有所依もまたただ一種である。つまり第七識である。彼の識(第七識)がもし存在しない時には第八識も必ず転じないからである。)
 「論に、蔵識は恒に末那と倶時にして転ずと説けるが故に。又、蔵識は恒に染汚に依ると説けり、此れは即ち末那なり。」(『論』第四・二十一右)
 (何を以て知ることができるのかは、『瑜伽論』巻第六十三(大正30・651b)に「第八識は恒に末那識と倶時に転じる」と説かれている。又、第八識は「恒に染汚に依る」と説かれている。これは即ち末那識のことである。)
 「而も、三位に末那無しと説けるは、有覆に依って説けり。四位に阿頼耶無しと言えども、第八無きに非ざるが如し、此も亦爾るべし。」(『論』第四・二十一右)
 (『頌』に「三位に末那無し」と説かれているのは、有覆無記に依って説かれているのである。これは四位に阿頼耶識が存在しないと説かれていても、第八識の体が存在しないということではなく、此れも亦同様であり、三位に末那識が存在しないと説かれていても、末那識の体が存在しないということではない。)
 「有色界には、亦五根にも依ると雖も、而も定んで有あるにあらざれば、所依に摂めらるるに非ず。」(『論』第四・二十一左)
 (有色界では第八識はまた五根に依って存在するといわれていても、五根は三界のどこでも存在するものではない。よって、五根は第八識の倶有依ではない。)
 「識種は、現に自の境を取ること能わざれば、依の義は有る可けれど、而も所依たること無し。」
 (現行八識と種子との関係において、現行八識の種子は現に自らの境を取ることができないので、現行八識は種子に対しての依ではあるが倶有依ではない。)
 「心所の所依をば識に随って説くべし。復各に自相応する心を加えたり。」(『論』第四本・二十一左)
 (心所の所依は識に随って説かれるべきである。また、各々(各心所の所依)に自らの相応する心識をも所依の一つとして加えるのである。)
 「若し是の説を作すときには、妙に理教に符えり。」(『論』第四・二十一)
 (もしこの説をなす時には、妙に理と教にかなうのである。)
   ・・・・・・・・・・
 護法菩薩の倶有依についての所論を学んでいるわけですが、ここまでのところを少し整理をしてみます。倶有依は依と区別され、倶有依というからには、決定の義・有境の義・為主の義・取自所縁の義という四義を備えていなければならないといい、これらの四義を備えているのが、内の六処である五根と第六識・第七識・第八識の意根なのです。
 前五識の倶有依は五色根と第六識と第七識と第八識との識です。『瑜伽論』巻第一に「何等をか五識身と為すや、所謂眼識・耳識・鼻識・舌識・身識なり、云何が眼識の自性なるや、謂く眼に依って色を了別するなり。彼(眼識)の所依とは三有り、倶有依は謂く眼根なり、等無間依は、謂く意根なり、種子依は謂く即ち此れ一切種子を執受する所依にして、異熟に摂めらるる阿頼耶識なり。」との記述があります。五識身は五つの感覚ですね。五識に対して眼覚乃至触覚です。根(五根と意根)が所依であり、識(前五識・第六識・第七識・第八識)は能依になり、同時に存在するので倶有依となるのです。五識身といわれますように、先ず身をもっているということが大前提になります。身をもって感覚器官が働くのです。前五識が働くのは前五識の力ではないですね。第六意識(五倶の意識)が前五識に働きかけて物事を判断したり思考したりするわけです。五感覚器官と倶に働く意識に依って判断思考が行われるのです。そしてその深層に第七末那識が働いているのです。恒審思量といわれる潜在的な利己性が潜んで表層の意識を支えています。そしてこれらすべての根本に第八阿頼耶識があって、すべての経験を蓄えているのですね。このような重層的な構造をもって前五識は動いているわけです。前五識は身において支えられていますが、その働きは心・心所に依るわけです。所依の第四の条件に「心・心所をして自の所縁を取らしむ」と明らかにされ、所依の条件として、能依である心・心所をして自の所縁を取らしむるということです。
 前五識は、五根と第六識・第七識・第八識を倶有依とし、第六識は第七識と第八識を倶有依とし、第七識は第八識を、第八識は第七識を倶有依とする、と。第七識と第八識の倶有依が人間として非常に大切なことを教えています。「第七識の倶有所依は、但一種のみ有り。謂く第八識なり。蔵識若し無き時は定めて転ぜざるが故に」と説かれ、また、「阿頼耶識の倶有所依も、亦但一種のみなり。謂く第七識なり。彼の識若し無き時には定めて転ぜざるが故に。」と説かれ、深層意識の中で利己性に染汚された識が根本識に蓄積され、染汚されたままの識が表層の意識に伴って前五識が働いてくるのですね。これが迷いの構造になるわけですが、この迷いの構造を知らしめる働きが、法蔵願心ですね。現実的には苦悩を縁とするということでしょうね。苦悩を縁として苦悩なき世界を願う、その願いは利己性からは出てこないでしょう。利己性が利己性を知り利己性を内面から内破る働きが本来自身の中に備わっているのでしょうか。利己性と倶に如来の願心が恒に働いているわけでしょう。いうなれば、阿頼耶識と一体になっている働きではないでしょうかね。迷いの識は迷いの識のままで働いているわけではなく、迷いを知らしめることを通して如来は如来の願心を表現しているのではないでしょうか。具体的には法蔵菩薩の働きであり、法性としては南無阿弥陀仏の御心でありましょう。

四月度テキスト

2018-04-07 11:15:06 | 第二能変 末那識について
 今月のテキストを掲載します。13日の金曜日午後二時より八尾別院書院にて開講です。どちら様もお誘いあわせの上ご聴聞くださいませ。
  第二能変 所依門 増上縁依(倶有依) (1) 概説
 次からの科段は増上縁依(倶有依)のについて述べられます。(「次に第二の依なり、四師の解有り。)倶有依とは同時に存在する所依を指しますが、あるものが生じる時、そのものと同時に存在してそれを生じる依り所、その因を倶有依という。眼識の倶有依は眼根、乃至、意識の倶有依は意根であると『瑜伽論』巻一(大正30・279a) に説かれています。
 『論』には倶有依についての解釈が四有りと説明され、第一説から第三説が異説、第四説が正義を述べる護法の説になります。概略を示しますと(『述記』による)
· 第一説 難陀等の説で前五識は第六意識を倶有依とし、第六識は第七末那識を倶有依とするが、第七識・第八識には倶有依はないとする。
· 第二説 安慧等の説で前五識は五色根と第六意識を倶有依とし、第六識は五識と第七末那識を倶有依とし、第七識は第八阿頼耶識を倶有依とするが、第八識には倶有依はないとする。
· 第三説 浄月等の説で前五識は五色根と第六意識を倶有依とし、第六識は五識と第七末那識を、第七識は第八阿頼耶識を倶有依とする。ここまでは安慧等の説と同じですが、第八識の倶有依を浄月等は第七末那識と色根と第八阿頼耶識の現行と七転識の現行を倶有依とすると説きます。
· 第四説 護法等の説で正義とされます。前五識は五色根と第六意識と第七末那識と第八阿頼耶識を倶有依とし、第六識は第七末那識と第八阿頼耶識を倶有依とし、第七識は第八阿頼耶識を倶有依とする。そして第八識は第七末那識を倶有依とすると説かれます。
 難陀等の義 ・ (1)五識の倶有依を解す
 「次に倶有依において、有るが是の説を作さく、眼等の五識は意識を依と為す。此れが現起する時には、必ず彼有るが故に。」(『論』第四・十四左)
 (次の倶有依について、難陀等がこのような説を立てている。眼等の五識は意識を倶有依とする。何故ならば、五識が現行する時には必ず第六識があるからである。)
 五識の倶有依は第六意識のみであるというのが、難陀等の説。その理由は、五識が現行する時には必ず第六識があるからである、という。何を以て知ることを得るのかといいますと、『解深密経』第一巻と『瑜伽論』第七十六とに説かれているからである、と『述記』に述べられています。
 「彼(前五識)は劣なるを以ての故に」、前五識は自らの分別力に由らないことを明らかにしています。
  概説で述べていますように、難陀等は前五識の倶有依は第六意識であり、五色根は認めていないのです。第二師からは五色根が倶有依とされ、第二師の第一師への批判という形で十難が設けられています。難陀等の考えは、前五識に独自の根を認めないのですね。五根は種子であるというのです。次の科段で述べられます。
      ー 難陀等の説の根拠を示す ー
 「別の眼等を倶有依と為ることは無し、眼等の五根は即ち種子なるが故に」(『論』第四・十四左)
 (五識が第六意識以外の別の浄色の大種所造を眼等の根を倶有依と為すことはない。何故ならば、根の体は識の種子であるからである。)
 『瑜伽論』巻第一に「眼は謂く、四大種に造られ、眼識の所依の浄色にして、無見有対なり。」と述べられていますが、難陀等はこれを認めないという主張ですね。
· 四大種所造浄色 - 四大種所造とは、地・水・火・風の四つの元素から造られた清らかな物質で、浄色とは、浄明色のこと。眼根等の五根は浄明であること宝珠が光を放つように、五境を照らし取る働きを浄色と喩える。
· 無見有対 - 視覚の対象ではないが、なんらかの事象として存在するもの。眼等の五根は視覚としては対象にならないもので、無見と、しかし眼根の対象である色として存在するので有対と云う。(「色に五種あり。一には諸の大種、二には大種所造、三には有見有対、四には無見有対、五には無見無対なり。」)(『瑜伽論』六十四)
 『瑜伽論』にも述べられていますように、五識の倶有依には四大種所造の五根が説かれています。しかし、難陀等は第六識のみを以て倶有依とし、四大種所造の色法の五根を五識の倶有依とすることはないと主張しているのです。その理由として、五根は五識の種子だからであると言うのですね。五根は五識の種子であるということは倶有依ではなく、種子依ということになります。難陀等は種子依に於いて異時因果を主張していました。倶有依は同時因果で、現行と現行の関係を述べますので、難陀等の説は倶有依にはならないのです。次科段はその証拠を引用して根拠を明らかにしています。
      ー 難陀等の説の論証 ー
 初に世親所造の『唯識二十論』の頌文を挙げ、後に文を釈す。
 (大正31・74b・玄奘訳『唯識二十論』第八頌)
 「頌曰 識從自種生 似境相而轉 爲成内外處 佛説彼爲十」の文。
 「二十唯識の伽他の中に言えらく /  識は自種従り生じて、 /  境相に似て転ず。 / 内外処を成ぜんとして、 / 仏彼を説いて十としたまえり。(『論』四・十四左)
 彼の頌の意の説かく、世尊十二処を成ぜんと為るが故に、五識の種を説いて眼等の根と為し、五識の相分を色等の境としたまえり。故に眼等の根は、即ち五識が種なり。」(『論』四・十五右)

 (識は自らの種子より生じて、境相に似て活動する。内処と外処を明らかにされようとして、仏はこれを説いて十とされたのである。
 彼の頌の意味を説くと、世尊は十二処を述べられようとして、五識の種子を眼等の根とされ、五識の相分を色等の境とされたのである。よって、眼等の根は、即ち五識の種子である。)
· 内六処・外六処について - 内外合わせて十二処で、内にある六つの処、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの器官・六根のこと。外六処は外にある六つの認識対象(六境)、色・声・香・味・触・法をいう。「六識身は内六処を以て因と為し、外六処を以て縁と為す」
 本科段より難陀等の説(第六識のみが五識の倶有依であるという)の正当性を証明する為に文献的根拠を挙げる。
 「自種より生ず」というは、此の師の意の説く、見分と相分とを倶に自種と名づく。」(『述記』第四末・六十六右)といわれている文章が、難陀等の論証になっていいるのですね。そして、「境相に似て転ず」が、識の相分で、五境のことです。内外十といわれていますが、本来は十二処ですね。しかし、此処では五根(内処)と五境(外処)を以て仏は十と説かれたと述べられています。仏陀が十処を述べられるのは、実我有りと執着することを破る為に説かれと説明されています。アートマン(我)は存在する、というのがバラモン教以来の考え方があるわけです。部派仏教においても境は実に存在するという考え方が強いですね。説一切有部という学派がありますが、無我は認めているのですが、法有という、ダルマは有るんだと主張しています。これを受けて大乗仏教が興起するわけですね。我空・法空であると。しかし、「空」に執らわれますとニヒリズムに陥ってしまいます。ここに唯識が起こる必然性があるわけです。仮説として「識が有る」と、仮を通して真実を明らかにするところに、唯識の教えがあるわけですね。唯識が「境は無し」(唯識無境)を主張する背景には「有境・有我」説が根強くあるわけですね。そうではないんだと。「唯、識のみ有って境は無し」、識を離れて境は無い、有るのは迷いの識のみである。迷いの構造を明らかし、自分の迷っている心がはっきりする、唯識を学ぶことにおいて、自分の心が迷っていることを明らかにするところに唯識の眼目があるわけです。仏陀が十処を説かれる背景にはこういうことがあるのですね。
 「十というは十の色処なり」と説明されています。十処はいずれも色法であるということ。意根は法境を対象としていますから、色法ではないわけです。色法を内容とした識が起こる、それが自種から生ず、と。これは「外道の実我ありというを破せんが為」といわれています。実我の執着を破るために色法ではない意根と法境を除いた、五根と五境を合わせた十を説かれたというのです。根というのは実我ではないのです。この仏陀の教説を五根を五識の種子であると理解し、五根に対する実我としての執着を取り除かれようとしたのであるというのが難陀等の頌引用の解釈ですね。
 「自種より生ず」という時の「自」とは何かという問題があります。それに答えて、『述記』には「自に三種あり」とし、自種子とはという問いに対して三つの解釈をあげています。
· 一には親因縁の自で五識の見分の種子であることを示す「自」であるということを述べています。つまり、五識の見分の種子を五根としているわけです。ですから見分と相分は別々の種子より現行しているという主張ですね。
· 二には所縁縁の自で相分の種子であると述べています。五識の相分の種子から五識の相分が現行していることを「自」という解釈です。つまり、五識の相分の種子を五根としているという主張になりますね。
· 三には増上縁の自でよく五識を感ずる業種であると述べています。つまり、五識が五識の所縁縁でもある相分の種子を業種子(増上縁)として生起すると述べ、業種子を「自」と解釈しているのです。
      ― 難陀等の説を証明する論証 ー
 初に陳那造の『観所縁縁論』の頌文を挙げ、後に文を釈す。
 「小乗等の心外に境有りて所縁縁と成るということを破す。」(『述記』第四末・六十七右)                           
  (陳那造・玄奘訳 『観所縁縁論』 第八頌 よりの引用)
 「識上色功能 名五根應理 功能與境色 無始互爲因』の文 (大正・31・888c~888a)
 「『観所縁縁』に亦是の説を作さく、 識が上の色の功能を /  五根と名づくということを理に応ぜり / 功能と境色とは / 無始より互に因と為るをいう」(『論』第四・十五右)
 (『観所縁縁』 の頌に亦このように説かれている。「識の上の色の功能を 五根と名づけるということは理にかなっている。 功能と境色とは 無始より互いに因となる」 と。 )
 前五識の倶有依は第六意識のみであるという難陀等の説の第二の論証です。(五境は、五識の転変であり、似現することであって、境を内容とする識が起こる。これが自種子であり、五識の種子が根であるといわれる所以である。従って、五識の他に五境はない。五識の転変が五境である。五根は五識の種子であり、五識の種子に仮に五根をたてるという。)
 語句の説明
· 識の上 - 第八識に蔵されているという意味。
· 功能 - 種子のこと。
· 境色 - 相分のこと。
 『頌』の意味について、詳しくは次科段で述べられますが、凡その解釈は「第八識に蔵されている種子(種子生種子・現行薫種子)を五根と名づける。そして五識の種子を五根とすることは理に適うのである、そして、この種子と相分は無始より互いに因となっているのである、という。この『頌』が難陀等の説の立場を論証する裏づけになっているわけです。
 亦、頌の「功能」について、先の『二十論』の「自種子」に三釈があるのと同じく、ここも三種の釈が述べられます。いずれも「識」は第八識で、
 「功能」の解釈が (1) 見分の種子 (2) 相分の種子 (3) 業種子(見相二分同種子説)という三解釈があるということです。 
 先の頌を解釈するのと同様に解釈せよと『述記』には述べられています。
       ー 頌の文を解す (前半) ー
 「彼の頌の意(こころ)の言えらく、異熟識が上の能く眼等と色識を生ずる種子を、色の功能と名けて、説いて五根となす。」(『論』第四・十五右)
  (彼の『観所縁縁論』の頌の中の意味を説く。異熟識(第八識)の上に眼等の色識を生じる種子を色の功能と名けて五根とする。)
  次には境色の解釈になります。
 「二の境色有り。一には倶時の見分の識所変の者、二には前念の識の相を後の識が境となる。・・・即ち是れ前念の相分の所薫の種いい今の現行の色識を生ず。故に前の相は是れ今の識の境と説く。」と説かれています。即ち見相同時であり、異時ではないと説いているのですね。前の識を用いて今の所縁となるのではないということです。これが本識(第八識)の中に自に似る果を生ずる功能を引いて起こるという理に違わないのであると。種子とは「阿頼耶識の中にあって親しく自果を生ずる功能差別である」(「本識中親生自果功能差別」)と定義されていますが、これが『観所縁縁論』の第八頌の境色の意味になると云われています。
       ー 頌の後半を解釈する ー
  「種は色識が與に常に互いに因と為り、能薫は種が與に逓(たがい)に因と為る故にという。」(『論』第四・十五右)
 (頌の下の半を解釈すると、種子は色識に対して常に互いに因となり、能薫(能薫習)は種子に対してたがいに因となる、ということを述べようとしている。)
 「功能と境色とは、無始より互いに因と為る」の解釈を述べていますが、この解釈は難陀等の説の意味を表しています。
 逓 - てい、「たがいに」という意。
 難陀等の主張は五識の種子を名づけて五根となす、と述べているのですが、ここに問題が出てきます。即ち、五識の種子とは五識の見分の種子か五識の相分の種子かという問題です。これに対して三つの解釈がなされています
· 第一の釈 - 「見分の種を説いて名づけて五根と為す。現行の見分は変じて境色に似るを名づけて色識と為す。(見分の現行と見分の)種と互いに因(縁)と為る。(現行の)見分は是れ能薫なるが故に。」 (五識の見分の種子を五根となし、その種子から現行した五識の見分が五識の相分を変じて境色に似て現行する。この五識の見分の現行を色識と名づける。見分の現行と見分の種子が互いに因となる。それは見分は能く薫習するものであるからである、という。) 
· 第二の釈 - 「或いは相分の現行も亦是れ能薫なり。此の(相分)種をば眼等と名づけ、(相分の種と)現行(相分)の法と互いに因(縁)と為るなり。相の色は識に離れざるをもって名づけて色識となす。」 (五識の相分の種子を五根とし、相分の種子と現行している五識の相分を色識とする。互いに因縁となり、相分である色境等は識に離れないことから色識と名づけられるのである。)
· 第三の釈 - 「若し此の見分の種と色識とは常に(根境)互いに因と為すと言わば、境は(能取の)根に用ゆるべく、故に境を縁として(見分)の種子の根有り、根は(所取の)境に用いたるべし。故に根を縁として(見分現行し)変じて境に似るをもって、互いに因と為すと名づくるを以てせば、因とは因由なり因縁の義には非ず。色識は能薫なり。根種は是れ所薫なり。互いに能生して(相分現行と見分種子と)逓に因と為るが故に。
  此の師(難陀等)の意の説く、識の(見分の)種をば根と名づく。識の相を色と名づく。境は別に有ること無きをもってなり。(『述記』)第一巻に巳に略して計を叙せしが如し。
 意識を以て前の五が倶有依とすということは、『解深密』等の経に説くが如し。故に五色根無しという。『二十唯識』等の如し。」(『述記』第四末・十八左)
 第三の解釈は見・相二分同種子説による解釈です。(五)識の見分の種子を(五)根と名づけ、現行している(五)識の相分を色識とするのが難陀等の解釈になります。「根を縁として(見分現行し)変じて境に似るをもって、互いに因と為す」と、現行した見分が変現して相分に相似して互いに因となるといわれています。又この因は因に由るということであって、因縁ということではないとされます。難陀等の説は、五根は五識の種子であるから種子依であって、倶有依ではない。従って五識の倶有依は第六意識のみである、とする。
 この第三釈を勝れているとされます。
 難陀等の説
   能依          所依
   前五識         第六識
   第六識         第七識
   第七識
        }  ー    別の所依なし   
   第八識      
  世親の『唯識二十論』と陳那の『観所縁縁論』に依って、五根は五識を生ずる功能(種子)であるとするので、五根をもって倶有依となさない。五識が生起する時には必ず第六識があるから、五識の倶有依は第六識とし、第六識は第七識に依って生起するので、第六識の倶有依は第七末那識とし、第七識と第八識は互いに相続し転じ、自力勝れているので、べつに倶有依を必要としないと述べ、自らの説を主張しています。
 「第七・八識は別の此の依無し、恒に相続して転ず、自力勝れたるが故に。」(『論』第四・十五左)
 (第七識と第八識には別の此の依(倶有依)はない。なぜなら第七識も第八識も恒に相続して転(働く)じ、自力が勝れているからである。)
 難陀等の説では第七識と第八識には倶有依は存在しないという、その理由はこの二識は恒に相続して働き、非常に自らの力が勝れているので、他の倶有依を借りなくても働くことが出来るからであると説いています。
 しかし、諸論には阿頼耶識が存在することにおいて末那識が存在すると説かれている。この諸論に説かれている末那識の倶有依が第八識であるという解釈を難陀等は、
 「故に諸論に説いて阿頼耶有る」というのは、第八識が存在の根本であるということを述べているのであって、第八識が末那識の倶有依であることを述べているものではない、と解釈しているのです。
難陀等の説 ・ 第六識の倶有依について
この科段は難陀等の第六識の倶有依について説明がなされます。
 「第六意識は別に此の依有り、要ず末那に託して而も起こることを得るが故にという。」(『論』第四・十五左)
 「第六は別に此の倶有依有り。即ち第七識なり。何を以てかしかるとならば、自體間断するを以て要ず末那に託し、方に起こることを得るが故に。」
 (第六意識には別に此の倶有依が存在する。即ち第七識である。第六識は五位無心の時(意識は唯、五位を除いて常に現起す。)に間断するので、恒に相続して間断しない末那識にたよって生起し存在することを得ることが出来るからである。)
 語句説明  託す - まかせること。たよること。よること。 末那に託しは、末那識にまかせる、末那識にたよる、末那識による、という意味になります。
 では何故第六識は第八識によって倶有依としないのか、また前五識に依らないのか、という問題がでてきます。
  第一の問題である「第六識は第八識によって倶有依としないのか」ということは相順しないからであると答えられています。相順しないということは、第六識は一切諸法を認識して我・法二執を起こすが、第八識は我・法二執がない純粋識であり、その性格を異にするので第八識を以て倶有依とはしない。又第二の問題は五識は間断するが五識が間断している時でも第六識は働いており、前五識は倶有依とはならないのである。
  この項で難陀等の説の説明が終わります。次科段は安慧等の説が述べられます。

今月の課題・テキスト

2018-03-04 13:04:59 | 第二能変 末那識について
 二能変  所依門・「所依について広く解す」
「諸の心・心所をば皆有所依という、然も彼の所依に総じて三種あり。」(『論』第四・十三右)
 (諸々の心・心所をみな(すべて)有所依という。そして心心所の所依には三種がある。)
 ・ 心・心所がそなえている三条件(有行相・有所依・有所縁)の一つです。
 (所依の体について、初め因縁依(種子依)について説明する。)
 「一には因縁依、謂く自の種子ぞ、諸の有為法は、皆此の依に託す、自の因縁に離れては、必ず生ぜざるが故に」(『論』第四・十三右)
 (一には因縁依、自らの種子のことである。諸々の有為法は、すべてこの因縁依を依り所として生じるのである。諸々の有為法は自らの因縁を離れては絶対に生じることはない。)
 (増上縁依(倶有依)について)
 「二には増上縁依、謂く内の六処ぞ、諸の心心所は、皆此の依に託す、倶有根に離れては、必ず転ぜざるが故に。」(『論』第四・十三左)
 (二には増上縁依である。それは内の六処(眼根等の六根)である。諸々の心心所は皆この依を依り所として生じる。諸々の心心所は倶有依を離れては絶対に転じることはない。)
 (等無間縁依(開導依)について)
 「三には等無間縁依、謂く前滅の意ぞ、諸の心心所は、皆此の依に託す、開導根に離れては、必ず起らざるが故に」(『論』第四・十三左)
 (三には等無間縁依である。等無間縁依は前滅の意である。諸々の心心所は皆この等無間縁依を依り所として生ずるのである。それは開導依を離れては諸々の心心所は絶対に生起しないからである。)
 (三所依についての説明を結ぶ。)
 「唯、心心所のみ三の所依を具せるをもって、有所依と名く、所余の法には非ず。」(『論』第四・十三左)
 (ただ、心・心所のみが三つの所依を備えるので有所依と名づくのである。他の法は三所依を備えているということはない。)
  - 因縁依(種子依)-
 「初の種子依において、有るいい是の説を作さく、要ず種いい滅し巳って現の果方に生ず。」(『論』第四・十三左)
 (初めの種子依について有る人(難陀・最勝子)がこのような説を立てている。必ず種子が滅しおわってから現行の果が生起するのであると。)
 -教証-
 「種無くして巳に生ぜりと集論に説けるが故に。」(『論』第四・十三左)
 (種子生現行の因果異時説を立てる難陀・最勝子が文証(教証)と理証を以て自説の正当性を論証する一段です。)
 (種子がなくても、すでに現行が生ずる、と『大乗阿毘達磨集論』巻二に説かれているからである。)
 -理証-
 「種と芽等とは、倶有に非ざるが故にという。」(『論』第四・十三左)
 (種と芽等とは、倶有ではないからである。)
 - 護法等の説(正義を述べる) -
 第二説、これが四つに分けられて説明されます。)
•(1) 前を破す。(難陀・最勝子の説を論破する。)
•(2) 理を立てる。(護法正義を説明する。)
•(3) 違を破す。(異説を会通する。)
•(4) 正に結す。(正義を結ぶ。)
 (1)
 「有義は、彼が説くこと、証と為るに成ぜず、彼には後の種を引生(いんしょう)するに依って説けるが故に」(『論』第四・十四右)
 (有義(護法等の説)は、彼(難陀・最勝子)が証(『集論』の解釈)として説いていることを以て教証とすることは出来ない。その理由は『集論』には「後の種子を引生しないということによって説いている」ものである。種子生種子において説かれているのであって、種子生現行において説かれているものではないからである。)
 (難陀・最勝子の理証を論破する。)
 ・「種の芽等を生ずるは、勝義に非ざるが故に。」(『論』第四・十四右)
 (種が芽等を生ずるのは、種子生現行の因果関係のような勝義の因果関係ではない。よって勝義の因果関係の例として「種が芽を生ずる」ということを用いる事はできないのである。)
 ・「種滅して芽生ずというは、極成(ごくじょう)せるに非ざるが故に。」(『論』第四・十四右)
 (種が滅して芽が生まれるということは、一般に認められていることではないからである。)
 ・「焔と炷(しゅ)とは同時にして互いに因となる故に』(『論』第四・十四)
 (焔と炷とは同時に存在して相互に因となるからである。)
 (勝義の因果関係が述べられます。)
 「然も種の自類の因と果とは、倶に非ず、種と現との相生は、決定して倶有なり。」(『論』)第四・十四右)
 (種子の自類相生(じるいそうしょう)の因と果とは倶に存在しない。しかし種子と現行の相生の因と果は必ず倶に存在する。)
 「故に瑜伽に説かく、無常の法いい他性が與に因と為る。亦は後念の自性が與に因と為るという。是れ因縁の義なり」(『論』第四・十四右)
 (種子生現行が同時因果であるとどうしていえるのか、ということを論拠を引いて論証する。-故に『瑜伽論』巻五に説かれる、「無常の法(種子)は他性(現行法)の為に因と為る」という。または「後念の自性の為に因と為る」(前念の種子が後念の種子の為に因と為る)という。これらは因縁の義である。つまり種子がすべて親因縁(直接の因縁)である。)
 「自性という言は、種子の自類の前のを後のが因と為るということを顕す。他性という言は種と現行との互に因と為る義を顕す」(『論』第四・十四右)
 (「無常の法は無常の法の因と為るといえども、然も他性の與に因と為る。」という『瑜伽論』の文は『論』には「無常の法は他性のために因となる」といい、「亦後の自性の與にも因と為れども、即ち此の刹那には非ず。」という文は「後念の自性のために因となる」と述べ、「この刹那ではない」という一文は省略され、「後念の自性のために因となる」ということは、種子が自類において前の種子が後の種子の因となることを示している。種子そのものを自性と述べている。つまり種子生種子を述べているのであり、種子生種子は異時因果であることを述べています。)
  「摂大乗論に亦是の説を作さく、蔵識と染法とは、互に因縁と為ること、猶束蘆(そくろ)の倶時にして有るが如しといえり。」(『論』第四・十四左)
 (『摂大乗論』にまたこのような説が述べられている。第八識と七転識とは、互いに因縁と為ることは、あたかも多くの葦が束ねられて、相互によりあって同時に立っているようなものである、と。)
 文献
「阿頼耶識と彼の雑染の諸法とは同時に更に互に因と為る、云何が見るべし。譬ば明灯の焔と炷は生じ焼くこと同時に更互なり。又蘆束は互に相依り持って同時に不倒なり。まさに此の中更互に因と為るを観ず、道理亦爾らず。阿頼耶識は雑染の為に諸法の因となるが如し。雑染の諸法も亦阿頼耶識の因と為る。」(『無性摂論』大正31・388a18~21)
 (ア-ラヤ識が汚染の種子と同時に互に原因となるというのは、どのようなことか。たとえば、燈の炎と燈の柱は発生し、燃焼して、同時に互に原因となるようなものである。また、葦の束が同時に互に支えあうのでずっと立っていることができるようなものである。本識と能動的な薫習とが互いに原因となる、という意味もまたそのようなものだと知るべきである。識が汚染された存在の原因となるように、汚染された存在は識の原因となる。なぜそう言えるのか。この二つの存在を離れて他の諸存在の原因は見い出しえないからである。)
 「又説かく、種子と果とは、必ず倶なりという、故に種子の依は、定んで前後には非ず。」(『論』第四・十四左)
 (又、『摂論』無性釈に説かれている。「種子と果(現行)とは、必ず倶である」という。そうであるから、種子の依(種子依=因縁依)は必ず前後ではない、同時なのである。=果倶有)
 「設い有る処に、種と果と前後なりと説けるは応に知るべし、皆な是れ随転理門なり。」(『論』第四・十四左)
 (たとえある処に、種子と現行(果)とは前後の関係であると説かれているのは、すべて随転理門によって説かれているのである。)
 「是の如く八識と及び諸の心所とは、定めて各別に種子の所依あり。」(『論』第四・十四左)
 (このように八識と諸の心所とには、必ずそれぞれに種子の所依がある。)