唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (49) 五受相応門 (13)

2014-08-27 23:06:14 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 河合師から多くのメッセージをいただきました。ありがとうございます。河合師のコメントを読ませていただき、ふと感じたことがありました。僕は不思議に思っていることがあったんですね。それは、お寺の門を出ると元の木阿弥、「今日の話はよかった」と済ませてしまうことなんです。それは、聞いている、聞く立場の問題なのでしょうが、本人というか、私は、仏法を聞いている、と思っている立場なんですね。

  •  聞いている自分がいる
  • このように聞いたという自分がいる
  • 先生のお話はこういうことだったと解釈する自分がいる
  • 仏法を聞かせていただくと、どんなにか自己中心のエゴで生きているか教えられますね、と聞いている自分がいる

 どうも、ここで止まってしまう、留まってしまうように思われるんです。何故なんでしょうか。「ふと感じたこと」はですね、ここに関係する事なんですが、私たちの知り得る範囲は意識相応なんですね。ですから聞くということも、意識相応なんです。そしていろんな判断を下し、反省をし、仏法を聞いたら、いい人間になれるんや、という錯覚を起こしているんでしょうね。仏法を聞いていると云う錯覚に陥っているんです、ここが問題です。

 でも、私たちは、悪いことをしたら反省もしますし、仏法を聞いたら自己中心的な自分やなあと思います。すべて自分の思いであったと懺悔心も生まれてきますが、それが我愛という染汚心から出たものであることは知り得ないのですね。第六意識での判断能力は染汚心が下したもの、やっぱり我愛から一歩もでることができないような構造を私は持っているということなのですね。

 いうなれば、表層の段階では知り得ることは、深層の働きによって左右されている、それも染汚心という我痴(無明)、私の底に動いている私、この私は絶対に反省をすることはない。すべて自分にとって優位に導き出そうと、時を分かたず、寝ても醒めても自分を愛おしく思いつづけているんだと教えています。

 深層の、無意識の領域は「不可知」と示されているんです。知り得ることは出来ない、と。『摂論』を読みますと、染汚心も阿頼耶識の中で語られているんですが、阿頼耶識は、「無始より来」恒相続されてきたものですが、その阿頼耶識と倶に働いているのが染汚心という末那識であると云われています。

 そうしますと、知り得るはずのない深層の心の領域を、どうして知り得ることが出来るのでしょうか。

 問題としては、

 染汚心(我執)を知る、のではなく。我執を破る働きはどこから生まれてくるのか、ということ。ここに仏教学と仏法の違いがあるようです。学べば知ることは出来ます。しかし、知ってどうなるのかです。破られてこなければなりませんね。仏法に遇うことの第一義は我執を破る働きに出遇うことなのでしょう。

 『成唯識論』に阿頼耶識の自相の定義が、「謂く雑染のために(能蔵・所蔵・執蔵)互に縁と為るが故に、有情に執せられて自の内我と為らるるが故に、此は即ち初能変の識所有の自相を顕示す」と述べられてあります。そして阿頼耶識の因相ですが、「諸法の種子を執持して失せざらしむるが故に一切種と名づく。此れに離れて余の法は、能く遍く諸法の種子を執持すること得べからざるが故に」とですね、すべての現行の因は種子であると明らかにしているんです、そして種子とはですね、「本識(阿頼耶識)の中に親しく自果を生ずる功能差別なり」と教えられています。

 阿頼耶識は無覆無記であり、働きは「恒に転ずること暴流の如し」一時も休むことのない識なんですが、そこに寄り添うように、色を染めてしまう雑染(染汚心)の為に、識が濁ってしまうわけです、それが無始以来だということなんですね。いうなれば我執に覆われているということですね。しかし無記、有覆無記である。ここにですね、なにか大きなヒントがあるように思えるんです。

 それは、無漏種子という仏種、仏性の問題です。ここがはっきりしないと、我執が破られていく構造はわかりません。そして、大乗仏教徒は修行の中で見いだそうと懸命の努力をされたんですね。その結果、己が修行の成果を回向して功徳を得ようとされたんですね。無漏種子は回向と大きく関わってくる問題でもあるんでしょうね。

 「不可知」であると云われながら、「雑染の為に互に縁と為って」迷いの構造が出来上がってくると喝破したわけです。僕は、わかりませんよ、わかりませんが、阿頼耶識には「能」という能動的な働きはありませんが、阿頼耶識がもともと持っている無漏種子の(知り得る)働きを感じられていたんではないでしょうか、そのように思えるんです。それを言葉に表現されたのが、『唯識三十頌』を著され、『浄土論』も著された世親菩薩ですね。「本願力回向を以ての故に」と。本願力回向のもっている本意を親鸞聖人は、『教行信証』に「往相の回向について、真実の教行信証あり」と明言されたのではないでしょうか。

 なかなかはっきりしないんですが、破られていく心と、破っていく力の出遇う場所(邂逅)が本願ではないのかと思うんです。そこにですね、「不可知」であるはずの深層無意識の心の働きが、本願という働きを持って染汚心を破ってくるのではないでしょうか。今日はこの辺にしておきます。 河合さん、ありがとうございました


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (48) 五受相応門 (12)

2014-08-26 22:13:28 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 第四に、薩迦耶見・辺執見の二見と五受との相応について説明されます この二見と五受相応については、二つの説が有り、本科段は第一師の説になります。第二師の説は護法の正義になります。

 第一師の説。

 「有義は、倶生の身と辺との二の見は、但喜と楽と捨との受とのみ相応す、五識と倶なるには非ず、唯無記のみなるが故に。」(『論』第六・十八左)

 有る義(第一師)は、倶生の薩迦耶見(身見)と辺執見(辺見)の二つの見は、ただ喜受と楽受と捨受とののみ相応すると説く。
 (何故ならば)薩迦耶見と辺執見の二見は五識と倶ではない(五識には薩迦耶見・辺執見の二見は存在しないということ。五識と倶なるのは貪・瞋・痴のみである。)からである。また倶生起の薩迦耶見と辺執見は、ただ無記のみのものだからである。

 倶生の薩迦耶見と辺執見の二見は無記であることは、『瑜伽論』巻第五十八に説かれている通りである。

 後半には、分別起の薩迦耶見と辺執見の二見は、四つの受(楽受・喜受・憂受・捨受)と相応すると説かれます。

 本科段は『述記』によりますと、倶生起の薩迦耶見・辺執見の二見は苦受と相応しない、

 「意には苦受無し。五識と倶に非ず、故に苦受無し。」というのが第一師の主張になるということを明らかにしています。

 また、「此の倶生は唯無記性なり」ということを以て憂受と相応しないことを示しています。

 「憂と相応せず、憂は(善・不善の)二性なるが故に。」

 唯無記性(有覆無記)であるということは善・不善である憂受とは相応しないということなのですね。

 本科段の意図するところは、受倶門において述べられているところでもあります。先に投稿しました「受倶門」のコピーを参照してください。

 「第六意識相応の有覆無記性の薩伽耶見と相応するのは憂根ではない。憂根は無記ではない。」

 という意味から、薩迦耶見・辺執見の二見は、五識と倶に非ずという理由から苦受とは相応せず、無記性という点から、憂受とも相応しない、従って、相応するのは、喜受・楽受・捨受のみと相応するのであると主張しているのですね。

 次科段は、分別起における五受との相応について説かれます。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (47) 五受相応門 (11)

2014-08-25 22:45:23 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 邪見と喜受の相応については、これもですね、邪見は因果撥無の見と云われていますように、悪を為しても、果として苦は生じないという因果の否定の上に、邪見は喜受と相応するんだ、と云われているのですね。悪因苦果の否定ですね。「本願ぼこり」とはこういうことを言っているのではないですか。
 昔のことですが、「悪人を救うのが真宗の本義であろう。ならば、あの悪人を救ってあげるのが我々の役目ではないのか。」とうそぶいておられた方がおられましたが、まさに邪見が喜受と相応することを証明されていたようですね。造悪無碍という考え方ですね。

 

煩悩の恐ろしい処は、煩悩は次の瞬間に引き起こされてくる果を否定しているということなのではないかな、と思うんですね。とにかく今の欲望を満足させ、つぎに起こるであろう果を考えないというところに悲劇性があるんだと思います。ある意味、人生のスパーンを長い時間の中で思考することも邪見ですね。ですから、喜受というのも、苦受の上に立てられた楼閣のような、夢幻のようなものでしかないんですね。

 

今日は、第二の、見取見と戒禁取見と憂受との相応について考えてみます。

 

「二取は若し憂と倶なる見等を縁じて、爾の時に憂と相応することを得るが故に。」(『論』第六・十八左)

 

二取は、見取見と戒禁取見ですが、此の二取が憂受と相応するというのは、この二取は、憂と相応する見等(見と戒と所依の蘊)を縁じる時に、憂受と相応するからである、と。

 

見取見は、前にも述べていますが、誤った見解を自己の見解とし、その見解が正しいものとしている人は、誤った見解を、最も勝れ、かつ清浄な涅槃を得る原因となると考える見解です。戒禁取見もですね、誤った戒を正しいとし、その戒に基づいての規範ですね。これも、涅槃に至る道として遵守するわけです。しかし、どちらも誤った見解ですから、涅槃は得られないのですね、そうしますと、涅槃に至る道だと思っていたのに、涅槃が得られない時、そこに生れてくる感情は憂受なのです。誤った見解の結果は憂受ということになりますね。

 

正見でないと、満足が得られないということなのです。「能令速満足」と『浄土論』に頌われていますが、この「速」ですね、「速」でないとそこには分別がさしはさんでくるんでしょうね。親鸞聖人は、この『頌』の意味をですね、

 

「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」とのたまえり。この文のこころは、仏の本願力を観ずるに、もうおうてむなしくすぐるひとなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむとのたまえり。「観」は、願力をこころにうかべみるともうす、またしるというこころなり。「遇」は、もうあうという。もうあうともうすは、本願力を信ずるなり。「無」は、なしという。「空」は、むなしくという。「過」は、すぐるという。「者」は、ひとという。むなしくすぐるひとなしというは、信心あらんひと、むなしく生死にとどまることなしとなり。「能」は、よくという。「令」は、せしむという、よしという。「速」は、すみやかにという、ときことというなり。「満」は、みつという。「足」は、たりぬという。「功徳」ともうすは、名号なり。「大宝海」は、よろずの善根功徳みちきわまるを、海にたとえたまう。この功徳よく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに、とくみちたりぬとしらしめんとなり。しかれば、金剛心のひとは、しらず、もとめざるに、功徳の大宝、そのみにみちみつがゆえに、大宝海とたとえたるなり(『一念多念文意』真聖p543)

 

と教えておいでになります。種子の六義の一番目が「刹那」であるといわれているのですが、間隔を入れずということが種子の意義なのですね。本願力が種子とし、現行の果が功徳大宝海で、因果同時である、ここに、「むなしくすぎることのない」人生が開かれてくるのでしょう。

 

     本願力にあいぬれば
       むなしくすぐるひとぞなき
       功徳の宝海みちみちて
       煩悩の濁水へだてなし (『高僧和讃』真聖p490)

 

 坊主バーのカクテルに、功徳大宝海というメニュがあるんですが、「本願力にあいぬれば」がキーポイントになりますね。もっと厳しくいいますと、仏法に遇えばいいのか、そうではないんだ、本願力に遇うということなんだ、ということなのでしょう。こういうところが教相というものではないでしょうか。

 

 もう一つ、「遊煩悩林」というカクテルもあるんですが、これもやはり「本願力にありぬれば・・・・煩悩の濁水へだてなし」と云われているのですね。本願力が主体になりますね。

 

 『浄土論』には、

 

 「出第五門というは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園・煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに、これを出第五門と名づく。」

 

 『教行信証』信の巻の御自釈に、『浄土論』を承けられて、

 

 「真に知りぬ。二河の譬喩の中に、「白道四五寸」と言うは、「白道」とは、「白」の言は黒に対するなり。「白」は、すなわちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。「黒」は、すなわちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人天の雑善なり。「道」の言は、路に対せるなり。「道」は、すなわちこれ本願一実の直道、大般涅槃無上の大道なり。」

 

 と釈されています。「無明煩悩の黒業、二乗・人天の雑善」は「白道即ち、本願力ですね、その本願力によって見出されてきたもの、本当の自己に出遇ってみれば、雑染であった、しかし、雑染は本願に出遇ったという喜びに他ならないんですね。

 

 功徳大宝海も、遊煩悩林もですね、私が起こすものではない、いうならば、私が起こすにも起こしようがない絶望の淵から輝いてくるものでしょう。教えに触れ、教えに自己を尋ね、自己を聴く歩みが、自己に絶望するんでしょう。絶望の淵に燦然と輝きを放っていたのが本願力であった、という感慨なのではないでしょうかね、ここに頭が下がってくるのでしょう。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (46) 五受相応門 (10)

2014-08-24 20:10:40 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 第三に、疑と三見とを明かす。(疑と邪見・見取見・戒禁取見と四受との相応について)

 五受の苦受を除く四つの受と相応することを明かす。

 「疑と後の三の見とは、四の受と倶なる容し、欲にて苦等はは無からんかと疑うときに、亦喜受と倶なるが故に。」『論』第六・十八左)

 疑と後の三見とは、苦受を除く四つの受と倶である。欲界の疑は先に悪行を作し、苦集諦無きかと疑うときは喜受と倶である。
 つまり、疑と喜受が苦であるのは、欲界に於て悪行を作りながらも、苦諦・集諦は無いであろうと疑う時には、また喜受と相応するのである、と。

 五受相応を述べながら、何故苦受を除いた四受と相応するのかという問題ですが、これは先にも論じられましたように、極苦処には苦受は存在しないという理由からなのです。即ち、極苦処には分別起の惑は存在しないが、疑・邪見・見取見・戒禁取見は分別起の惑(煩悩)であるので、疑と三つの見には苦受は存在しないと説かれている。
 しかし、極苦処である地獄よりも逼迫が軽い人・天界には苦受は存在しないが、四つの受は存在するのである。ここまでが、本科段の第一の解釈になります。

 「論。疑後三見至亦喜受倶故 述曰。第三明疑・三見。三見謂見・戒取・邪見。四受除苦。隨意有無。唯是正義。以地獄無分別惑故。」(『述記』第六末・四十左。大正43・451c~452a)

 (「述して曰く。第三に疑と三見とを明かす。三見とは謂く見と戒取と邪見なり。四受は苦を除くなり。意に随って有無なり(第六意識の分別惑は余処には有り、極苦処には無し)。唯是れ正義なり。地獄には分別の惑無きを以ての故に。」)

 次に後半の文章です。

 「欲にて苦等はは無からんかと疑うときに、亦喜受と倶なるが故に。」

 『述記』の釈をみますと、

 「逐難解云。欲界之疑先作惡行。疑無苦・集諦等。亦喜受倶故。以後苦無故。上界即無。無惡行果故。上界疑與樂受倶故。此等皆通三界總聚。有處作法故。致極成之言。」

 (「難を逐って解して云く。欲界の疑は先に悪行を作して苦集諦等なからんと疑うとき、亦喜受と倶なるが故に、後に苦無きを以ての故に、上界には即ち無し(苦なからんかと疑うとき方に喜と倶なるものは無し)。悪行の果無き故に。上界の疑は楽受と倶なるが故に。これ等は皆三界に通じて總聚を以て有る処に作法するが如し。極成の言を致す。」)

 『演秘』の釈。

 「 論。欲無苦等者。有義簡薩婆多欲疑唯憂。故顯宗二十七云。何縁二疑倶不決定而上得與喜・樂相應。非欲界疑與喜倶起。以諸煩惱在離欲地。雖不決定亦不憂滅。雖壞疑網無癡情怡。如在人間求得所愛。雖多勞倦而生樂想。疏説上界不如欲疑有喜受者。慼欲似不得此中文意。上地何故不與喜倶 詳曰。疏意説云疑無苦果方與喜倶。上無此疑。由上無造彼惡行故。故疑苦無方喜倶者。但在欲界不障上界疑得喜倶。下麁相中疏言上界疑有喜故。自義既立他計便遮。不言成矣。此自不得疏之本意。非疏不得論之意也。」(『演秘』第五末・九右。大正43・922a~b)

 (「論に、欲にして苦等は無からんかとは、有義は薩多婆(有部)の欲の疑は唯憂なりというを簡ぶが故に顕宗二十七(『顕宗論』巻二十七。大正29・908c)に、何に縁りてか二の疑(上界の疑と欲界の疑)は倶に決定せざるに、
 上は喜・楽と相応することを得ば、欲界の疑は喜と倶起するに非ずや。
 諸の煩悩は離欲地(離垢地。菩薩十地の第二の段階。過ち・破戒・煩悩を増す心を離れた位をいい、 十善道を行じることで心の垢が無くなるとされる)に在っては決定せずと雖も、亦憂慼(ウセキ・憂い)ならず。疑網を懐くと雖も、癡の情に怡(イ・喜ぶこと)すること無し。人間に在って所愛を得と求むるが如しと云えり。労倦(ロウケン・つかれくたびれていること)多しと雖も楽想を生ずと云えり。
 疏に上界には欲の疑の喜受有るが如くにあらずと説くは、欲は、此の中の文の意を得ざるに似たり。上地に何んが故に喜と倶ならざる。
 詳らかに曰く、疏の意の説いて云く、苦果無しと疑うときには方に喜と倶なり。上(上界)は此の疑無し。上は彼の悪行を造すること無きに由るが故に。
 故に苦は無きかと疑するに方に喜と倶なりというは但だ欲界に在り、上界の疑は喜と倶なることを得るということを障えず、下の麤相の中に疏に上界の疑は喜有りと言うが故に。
 自義既に立つるを以て他の計便ち遮すること言わずして成ぜり。此れ自ら疏の本意を得ず、疏は論の意を得ざるに非ざるなり。」)

 後半は、疑と喜受との相応について論じられているところです。疑と喜受はどのようなときに相応するのであるのかという問いに対して、
 「欲界の疑は先に悪行を作して苦集諦等なからんと疑うとき、亦喜受と倶なるが故に」と答えているわけです。
 欲界に於いて、(煩悩によって)悪行を行う(集諦)ことと、その結果としての報くいである苦(苦諦)は無いであろうと疑う時には、また喜受と相応するのである。つまり、苦の報いが無いと疑うので喜受を生ずるということなのですね。

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 う~ん、まさにその通りですね。心当たり大いにあります。いつもこれで苦しんでいます、後悔先に立たず。先が見えん愚かさですね。でもね、欲望の流れの中を逆らえない自分がいますのや。そんな自分の姿を写し出してくれる大悲の働きに手が合わさります。 南無阿弥陀仏

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 『演秘』の所論は、色界・無色界という上界には、悪行を造ることが無いために欲界での出来事して釈されています。但し、上界で疑と喜受が相応しないというわけでもない。
 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (45) 五受相応門 (9)

2014-08-23 12:18:56 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 今日は午後七時半より大坂坊主バーにスタッフとして勤めさせていただきます。皆さまのご来店よろしくお願いいたします。

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 慢についてまとめてみますと、慢という心所は、

 

 『論』に、「己を恃(タノ)み他に於て高挙(コウコ)するを以て性と為し、能く不慢を障え、苦を生ずるを以て業と為す。」(『論』第六・十三右)という心所であると説かれています。

 

 詳細につきましては、2014年3月22日~3月27日の投稿を参照してください。今回は本科段に於ける『樞要』の所論を聞いてみます。

 「 慢有二種。一高擧。二卑下。高擧有三。一稱量。二解了。三利養。以卑下慢與憂相應。高擧不爾。故前所説不與身・耶一分倶。此與憂倶。據卑下説亦不相違 正義若地獄無分別煩惱。應無因力斷善者死時續等。解云。勢力不生。非因邪見 五十九云。於利養等他引猶預疑與憂相應。於惡趣等他引猶預喜根相應。邪見先作妙行憂根相應。先作惡行喜根相應。二取隨境故四受倶。五十九中但依欲界疑・邪見等説。此通一切地。故與樂相應。」(『樞要』巻下・四十左。大正43・644a)

 (「慢に二種有り。一に高擧(コウコ)、二に卑下(ヒゲ)なり。高擧に三有り。一に称量(ショウリョウ)・二に解了(ゲリョウ)・三に利養(リヨウ)なり。卑下慢は憂と相応するを以て、高擧は爾らず。故に前に説く所の身と邪との一分と倶にあらず。此に憂と倶に卑下に據って説く。亦相違にあらず。正義は若し地獄は分別の煩悩無しと云はば、まさに因力を以て善を断ずるは死の時に続く等無かるべし。解して云く、勢力を以て生ぜずとは邪見に因るに非ず。五十九に云く、利養等に於て他に引いて猶預する疑と憂と相応す。悪趣等に於て他に引いて猶預するは喜根と相応す。邪見は先に妙行を作すとならば憂根と相応す。先ず悪行を作すならば喜根と相応す。二取(見取・戒禁取)は境に随うが故に四受と倶なり。五十九の中には、但だ欲界に依って疑と邪見等とに説く。此は一切地に通ずと云う。故に楽と相応す。」)

 貪と慢との関係(倶起)

  貪は、他を愛するから起こる。 - 慢は他を凌蔑するから起こる。
     自を愛するから起こる。 - 自を高挙するから起こる。

 瞋と慢との関係(不倶起)

  瞋は、憎しみの対象に対して起こるに対し、慢はそうではない。

 慢と他の煩悩との関係(不倶起でもあり、倶起でもある)

  疑とは不倶起。疑は不決定の境に対し、慢は自に対するものである。
  我見の内、苦しい自己の場合は慢とは不倶起であるが、楽しい自己の場合は倶起する。
  邪見の内、苦の因果撥無の時は倶起せず、楽の因果撥無の時は倶起する。
  辺見の内、断見とは倶起せず、常見とは倶起する。見取見と戒禁取見とは倶起する。

 慢と五受との関係

 第一師 - 慢は苦受を除いた四受と相応すると説く。
 第二師(護法正義) - 慢と五受は相応すると説く(五受相応説)。倶生起の慢が苦受と相応するのであると説き、分別起の慢と五受との相応については、地獄には、そもそも分別起の煩悩が存在しないために、地獄には分別起の慢は存在しないという。ただ、地獄を除いた処では慢と五受とは相応すると説かれるのである。厳密には、倶生起の慢は五受と相応し、分別起の慢は苦受を除いた四受と相応するということになります。

  •  称量 - 「自と他との徳類の差別を称量(推し量って)して、心自ら挙恃(コジ・自らを勝れた者として誇ること)し、他を凌蔑するが故に名づけて慢と為す。
  •  解了 - 理解すること。知るべき対象において思考をすること。自と他を比較して、自が勝れていると理解する。)
  •  利養 - 利益。利益を得ること。執着する対象。自に執着を起こし、他を蔑むこと。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (44) 五受相応門 (8)

2014-08-22 23:45:19 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 「然も彼)(カシコ)には悪趣を引く業をば造らず、要ず分別起を以て能く彼をば發すが故にと云う。」(『論』第六・十八左)

 彼は、地獄を指しています。純苦処です。純苦処では、悪趣を引く業(総報業)を造らない。何故ならば、純苦処には分別起は存在しないという大前提があります。よって悪趣の業を造るのは分別起を以て起こすと説かれていることからですね、総報は造らないということになります。

 「論。然彼不造至能發彼故 述曰。所以者何。五十九説要分別煩惱發惡趣業故。此據總報多分爲論。其別報者修道亦發。故五十九分別慢等不言與苦相應。下疑等准此應知。故知前師彼趣有分別煩惱。前生勢力故。即造惡趣業也。與對法第七。五十五違。此文皆如貪等會。」(『述記』第六末・四十右。大正43・451c)

 『述記』には「所以者何」(所以は何ん)と、「地獄では、悪趣を引く業を造らない」という理由を述べていますが、教証として『瑜伽論』巻第五十九を挙げています。

 (述して曰く。所以は何ん。五十九に要ず分別の煩悩が悪趣の業を發すと説くが故に。此は総報に拠って多分を以て論を為せり。(「悪趣を引く業」とは、悪趣の総報を引き起こす發業は分別起の煩悩である。)その別報とは、修道も亦た發すが故に。五十九に分別の慢等は苦と相応すと言わず、下の疑等も此に准じて知るべし。故に知る。前師は彼の趣に分別の煩悩の前生の勢力あるが故に、即ち悪趣の業を造るなり。対法の第七、五十九と違す。此の文は皆貪等の如く計すべし。」)

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 『阿毘達磨雑集論』巻第七・決択分諦品第一の二に

 「又十煩悩は、皆滅(滅諦)と道(道諦)とに迷い、諸の邪行を起す。此に由りて、能く彼の怖畏(フイ)を生ずるが故なり。

 所以は何ん。煩悩の力に由りて(倶生起の我執)生死に楽著し、清浄の法い於て懸崖(ケンガイ)の想を起して大怖畏を生ず。又諸の外道は滅諦と道諦とに於て、妄りに種々の顚倒分別を起す。此の故に十惑(十の煩悩)は、皆滅と道とに迷い諸の邪行を起す。」

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 私たちが生きるのには、必ず所依をもっています。それは二つしかないんです。一つは煩悩(根本我執)。もう一つは清浄の法です。そして根本我執の勢力が非常に強いのですね。ですから、我執の赴くままが、人として安らぎの場と錯覚を起こしてしまうのです。それが、「妄りに種々の顚倒分別を起す」と説かれているのです。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (43) 五受相応門 (7)

2014-08-21 22:31:04 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 護法正義を述べていますが、護法は前科段において、先ず倶生起の慢は苦受と相応することを述べました。では、分別起の慢と五受との相応はどうなるのでしょうか。この問いに対して、本科段は答えます。

 「分別の慢は純苦趣(ジュンクシュ)には無し。彼(カシコ)には邪師と邪教との等(ゴト)き無きが故に。」(『論』第六・十八右)

 分別起の慢等は、純苦趣(地獄)には存在しない。なぜなら地獄には、邪師や邪教等は存在しないからである。

 ここで、僕は前から問題となっていたことがあるんです。「唯識無境」が大前提ですよね、そして仏教は内観の法である、と。そうしますと、『論』の記述はどのように読んだらいいのでしょうか。邪師・邪教は外に存在するとしたら、「無境」ではなくなりますし、外界の存在が自己を既定することになりはしませんか。

 『論』の記述は「仮」にですね。仮に説く、ということなのでしょうね。仮説が非常に大切な概念になるんだと思います。そのように説かなければ有情は理解できないんだと。仮を通して実に触れよという催促ではないかなと思っています。

 本科段の主旨は、

 (a) 地獄の中では、分別起の、慢は存在しない。
 (b) 分別起の慢を作る、邪師・邪教等が存在しないからである。

 地獄には、分別起の煩悩を作る邪教や邪師や邪思惟が無いから、地獄には分別起の煩悩は存在せず、五受とも相応しないということになります。

 ここは大切な所だと思いますが、三毒の煩悩(貪・瞋・痴)は分別起ではないということです。ですから、地獄には分別起の慢は存在しないというのが、護法正義になります。

 また、地獄を除いた、分別起の煩悩には、苦受を除いた四つの受と相応するということにもなります。

 

 「 論。分別慢至邪教等故 述曰。其地獄中與苦相應。於總聚中。但有得一切受相應義。非一切慢皆得相應。無分別慢等。即等一切分別貪・瞋・癡・疑・邪見・見・戒取等。以無邪教・邪師・及邪思惟故。」(『述記』第六末・四十右。大正43・451c)

 

 (「述して曰く。其の地獄の中は、苦と相応す。總聚の中に於て、但だ一切の受と相応することを得る義有り。一切の慢は皆相応することを得るに非ず。分別の慢は無しと云わん。等とは、即ち一切の分別の貪・瞋・癡・疑・邪見・見・戒取等を等(取)す、邪教・邪師及び邪思惟無きを以ての故に。」)

 そもそも、地獄の中には分別起の慢は存在せず、従って苦受とは相応しないというところの、地獄とは何を指しているのでしょうか。

 ここはですね、本当の苦しみと云うのは、分別起ではないということを表していると思うんです。生まれてからのいろんな経験は自己を育てているものであって、苦を与えるものではないのでしょう。苦は教えに先立って、先天的に自己に執着を起こす倶生起の煩悩だと教えているのですね。

 成人するまでは、親の庇護のもとで育てられていますから、親の躾の如何が大きくその子の人生を左右するものでしょうが、成人してからの、自分の人生は自分で切り開いていく、成人するまでの過程が縁となって、自己責任のもとで一歩一歩進んでいくのではないでしょうかね。この過程は分別起そのものですね。しかしですね、その背景に倶生起の煩悩が働いていると同時にですね、倶生起の煩悩と倶に如来の大悲ですね、命の救済が働いているということなのでしょうね。分別起に如来の大悲が働いているのでは無いということだと思います。根本的な命そのものへの大きな眼差しが大悲として語られているのではないでしょうかね。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (42) 五受相応門 (6)

2014-08-19 22:29:11 | 第三能変 諸門分別 五受相応門
 

護法正義を述べる。

 「有義(護法)は、倶生のは亦苦とも倶起す、意に苦受有りということは、前に已に説きてしが故に。」(『論』第六・十八右)

 第二師の説は護法の正義である。護法は、倶生起のものは苦受とも倶起する、と。意識に苦受があるということは、前(巻第五)にも既に説いたからである。

 (巻第五の記述・概略)

 「護法の説(正義) - 五段階に分けられる。(1)標宗 (2)引証 (3)立理 (4)会通 (5)総結であり、その(1)がさらに二つに分けられ、初めに逼迫受の軽い所における受について、後に重い所の受について述べる。

 これを『述記』には「下は護法等第二師の説なり。文の中に五有り。一に宗を標し、二に証を引き、三に理を立て、四に違を会し、五に総じて結ぶ。人と天との逼迫軽にして尤重に非ざるが故に、意に在るは唯憂受なり。鬼・畜処は通ぜり。(鬼・畜が)若しただ苦処ならば地獄と相似せり。五十七の地獄と同なりと説けり。純ら受けて重きが故に。若し雑受処ならば喜・楽も有る容し、況や復憂無からむや。雑受は軽きは故に」と説明されてあります。
 
 「五十七の地獄と同なりと説けり」というのは『瑜伽論』巻五十七に「余の三(憂・喜楽の三根)は現行の故に成就せず、種子の故に成就す。那落迦趣に生ずるが如きは一向に於いてす、若しくは傍生餓鬼もまさに知るべし亦爾なりと」の文によります。つづいて『瑜伽論』には「若しくは苦楽雑受の処には後の(憂・喜・楽)三種も亦現行し成就す。問う、若し人趣に生ずれば幾根を成就するや。答う、一切有るべし。人中に生ずるが如く天に生ずるも亦爾なり」と。
 
 「有義は二に通ず、人天の中には、恒に名づけて憂と為す。尤重に非ざるが故に。傍生と鬼界とのをば、憂とも名づけ苦とも名づく、雑受と純受と軽重有るが故に」(『論』)
 
 「雑受」 - 他の感受と入りまじって受ける受をいう。
 「純受」 - 他の感受がまじわらない受をいう。純受の方が、その受について重い感受となる。
 
 (意訳) 護法正義は第六意識と倶である逼迫受については、憂受と苦受の二つに通じるといいます。人天の中には、恒に憂受となす。なぜなら尤重ではないからである。また畜生と餓鬼界とのものは、憂受とも苦受ともいうのである。それは雑受と純受の軽重の差があるからである。
 
 人天は六道の中の二趣であり、この二趣は逼迫の度合いが軽く尤重ではないので、憂受となり、苦受はないことになります。そして六道の中の畜生と餓鬼界は受が混在する処(雑受)と、混在しない処(純受)がある為に第六意識の逼迫受は憂受と苦受となると、護法は主張します。
 
 尚、地獄界は純受であり、尤重であり、無分別の処であるから、第六意識相応といえども苦受であるという。逼迫の重い所における受については、
 「那落迦(地獄)の中をば、唯名づけて苦と為す、純受にして尤重なり、無分別なるが故に」(『論』)
 
 「其の諸の地獄は一向に苦なるが故に唯苦のみにして憂は無し、迫ること尤重にして苦の為に逼らるを以ってなり。亦分別無し、憂は分別して方に生ずることを得るを以っての故に。
 
 捺落迦というは、此には苦器と云う、罪を受くる処なり。那落迦というは彼の苦を受くる者ぞ。故に二別なり。」(『述記』) 捺落迦と那落迦は同義語でnarakaの音写、地獄と訳す。
 
 次の項で問答があります。無分別と云われていることです。分別が無いというのは、分別の煩悩が無いのか、という問いです。それに対して、そうではないのだ、分別の惑は有る。「憂は即ち分別あり」と、憂受は分別して生じるものであって、分別が無いということは、第六意識と倶である逼迫受は分別を経ない為に、地獄には唯苦受のみであるというのである。「加行に分別あるが故に逼迫すること既に極をもって分別を假らず」といわれています。これは地獄は苦が極まった処、逼迫することが極限状態の為に分別する余地さえないからであるという、ことで押さえられています。
 
 巻第五に於る護法の説は、地獄の第六意識の逼迫受は苦受であると述べていました。2010年7月の投稿を参考にしてください。
 
 尚、巻第五では、護法は地獄でにいる有情の第六意識には苦受が存在していると述べているのは、倶生起のものであるということなのです。護法は地獄には分別起の煩悩は存在しないと云う立場を取っています。
 
 では、分別起の慢と五受との相応は如何という問題が生じてきますが、次科段において説明されます。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (41) 五受相応門 (5)

2014-08-18 22:49:52 | 第三能変・善の心所・第三の七、五受相応門
 

 「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。」(『一念多念文意』真聖p545)

 昨日の投稿からですね、上記の文章をどうのように読みこなすかですね。宿題は大きいですね。そして続いての文章が

 「かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分、ようようずつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにおさめとりたまうがゆえに、かならず安楽浄土にいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚のはなに化生して、大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。」

 機の深信・法の深信の織りなす世界ですね。ここに真宗のダイナミクスが述べられているのでしょうね。すごい世界観・人間観ですね。

 

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 其の二は、慢と五受の相応について説かれます。

 「有義は、倶生と分別起との慢は、苦には非ずして四の受と相応す容し、苦ある劣蘊を恃むときには、憂と相応するが故にと云う。」(『論』第六・十八右)

 有義(第一師)は、倶生起と分別起との慢は、苦受と相応するのではなく、楽受・喜受・憂受・捨受の四つの受と相応するのであると説く。何故ならば、地獄等に於て、苦のある劣蘊を恃む時は、苦受と相応するのではなく、憂受と相応するからである、と第一師は主張する。

 先ず、『述記』の所論を聞いてみましょう。

 「 論。有義倶生至憂相應故 述曰。第二明慢有二説。此初也。此二種慢五趣爲論。容四受倶。唯除苦受。由苦趣中亦恃己身有苦劣蘊。起慢之時與憂相應。此依實義慢與憂倶。前約相麁説慢不與身・邪見一分倶。不恃苦蘊故。此唯意識。故通分別。不同貪等苦得定説。」(『述記』第六末・三十九左。大正43・451c)

 (「述して曰く。第二に、慢を解す。二説あり。此は初なり。此の二種の慢(倶生起・分別起)は五趣に於て論を為す。四受と倶なるべし。唯、苦受を除く。苦趣の中にもまた己の身の苦ある劣蘊を恃んで慢を起こす時憂と相応するに由るなり。此は実義に依り慢は憂と倶なりという。前には相麤なるに約して、慢は、身と邪見との一分と倶にあらずと説く。苦蘊を恃まざる故に、此れ慢は唯だ意識にあり。故に分別に通ず。貪等の苦を定めて説くことを得るには同ならず。」)

 第一師の説 - 慢は、喜受・楽受・憂受・捨受の四受と相応すると説く。

 第二師(護法)の説 - 慢は五受すべてと相応すると説く。

 第一師の主張は、「五趣に於て論を為す」と、悪趣における第六意識には憂受のみあって苦受の存在は認めないとする立場です。慢は、第六意識と第七末那識に存在する煩悩ですね。そして、末那識は有覆無記で、捨受とのも相応しますから。慢は捨受と相応することがわかります。そして、第一師は「苦受を除く」と主張していますから、その他は有るということになります。問題は苦受ですが、「 苦趣の中にもまた己の身の苦ある劣蘊を恃んで慢を起こす時」ですが、地獄の中には逼迫受(苦受)しかないわけですが、その地獄の第六意識いさえ苦受は存在しないと主張しているわけですから、五趣に(悪趣)には苦受は当然存在しないという主張になります。そうすれば、地獄の中で慢と相応する第六意識は苦受とは相応せず、憂受と相応するのである、ということになります。

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 『安田理深選集』第三巻、p408~409

 「つまり状態によって、五蘊は苦・楽のみであるが、六識は喜・憂の他に、状態によって楽を起こしうるのである。ところがここで、意識に苦を許すか許さないかが大きな問題となってくるのである。ここの見解の相違がある。

 一に、意識に苦の相応を許さず、ただ憂のみという場合。

 二に、意識にも苦は起こるという場合。

 二の見解は、地獄というような状態から考える。

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 次に慢はどうか。これは、苦を除いた四受と相応が可能であるという。慢であるから、他と比較して喜や楽と相応することは、やはり当然のことである。その点は、改めて吟味するまでもない。そこで今度は、不幸な境遇をもった自分の身を考えた場合、苦の劣蘊である。地獄・餓鬼・畜生という不幸な境遇を考えるとき、身は苦の劣蘊である。その場合、苦の劣蘊をたのんでいるのである。慢であるから、その場合は、憂と相応しているのである。慢は、第六意識のみにしか起こらない煩悩である。他と比較するのであるから。第六意識であるから、苦がないのは当然だといえる。」

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 本科段の前提は、第三能変・受倶門において説かれてきたことです。第一師の主張の概略は、

 「意識と倶なるは、有義は唯だ憂という、心を逼迫するが故に、諸の聖教に、意地の慼受(しゃくじゅ)をば憂根と名づくと説けるが故に」(『論』)

 (意訳)第六意識と共なる逼迫受は有義(安慧の説)は、ただ憂受という。なぜなら心を逼迫するからである。そして諸の聖教(『対法論』巻第七)に第六意識の慼(うれい)受を憂根というと、説かれているからである。

 「此の意には唯憂のみ有り。唯分別なるが故に。緒の聖教に意識と相応して有る所の慼受をば、皆憂と名づくと説くが故に。これは長徒の義なり。若し地獄の意に苦有りと言うものならば、何が故にか説かぬという」(『述記』)

 これが第一師の説で、『述記』には長徒の義と述べ、具体的な論師の名を挙げていませんが、注釈等から安慧の説であるとされています。第六意識は分別意識であるので、これと相応する逼迫受は、憂受のみで、苦受はないという立場です「瑜伽論に説かく、地獄の中に生まれたる諸の有情類は、異生の無間に異熟の無間に異熟生の苦憂相続すること有りといえり」(『論』)

 (意訳) 『瑜伽論』巻第六十六に「此の受は一切処に於いて異熟の所摂なりと。余の苦楽受は応に知るべし、皆な是れ異熟の所生にして其の種子の如きは異熟の所摂なりと。即ち此の因、此の縁に随って因縁と為るが故に異熟生より那落迦(地獄)の諸の有情類を生じ、異熟の無間に異熟生あり、苦憂相続して那落迦に生ず。・・・」と語られてあります。「異熟の無間」というのは、初めに生じる心であり、阿頼耶識を指します。「異熟生」は前六識を指し、「異熟生の苦憂相続すること」というのは、六識中、前五識は苦が相続し、第六意識は憂が相続するということになります。このようなことから、地獄の逼迫受を受ける第六意識には憂受のみあって、苦受はないという証拠であるといっています。

 「異熟の無間というは、初生の心なり。是第八識なり。苦・憂相続というは、第八異熟心に次いで後に生ずるをもって、地獄中の意は唯苦のみあらば何が憂と言うや。此の師の意の説かく、(『瑜伽論』)五十七に地獄に八根を成ずることを言うは、定んで六識に約して論を作すという。客の受に依って説けり。五十一等に六識の中に受をば名づけて客受とすと説けり。謂はく五色根と意と命と或いは憂とは定んで成就するが故に。余は皆間断す。或いは復五識の苦を取る。・・・」(『述記』)

 「又説かく、地獄の尋伺(じんし)は憂と倶なり、一分の鬼趣と傍生とも又爾なりという」(『論』)

 「是の如く若くは一分の餓鬼及び傍生の中に生ずるもまさに知るべし亦爾なりと」(『瑜伽論』巻六十六)

 (意訳) 地獄の中の尋伺は、憂と倶である。尋伺はただ第六意識と相応するので、地獄の中の第六意識には、憂受のみあって、苦受はない証拠である。餓鬼と畜生もまた同様である。鬼趣は餓鬼のこと。傍生は畜生のことです。「一分の」というのは純苦処であることを意味します。

 「故に知る、意地の尤重(うじゅう)なる慼受(しゃくじゅ)すら尚名けて憂と為せり、況や余の軽なる者をや」(『論』)
 
 「此れは結ぶなり。意の重き処を以って余の軽き処に例す。重く遍する尚然り、況や余の軽く逼するをや。第一師の意なり」(『述記』)
 (意訳) 以上述べてきたことに依って、意識の尤も重い憂い(慼はうれえる・くよくよする意)でさえ憂受と名づけられる。ましてや他の軽いものであればなおさらのこと、憂受というべきである。
 第一師の説(安慧)は、第六意識と倶である逼迫受は憂受であり、苦受はないと主張しているのです。
 ここに『述記』には問答が設問されてあります。 「問う。第六識の中の捨受も既に亦不善の業に招かれる。何が故か、地獄に捨受無しというや。 答う。苦重きを以っての故なり。不善業の軽に即ち捨根有り、少しき静なるを以っての故に。然も総報(第八識の捨根)には同じからず、総報は相続するが故に、趣の体なるが故に、報の主なるが故に、若し是れ苦ならば善趣に違しめるが故に」。なぜ地獄には捨受はないのかという設問に、地獄は苦が重いから捨受はないのである。不善業のように軽いものには捨受はある、それは少しでも静をもっているからである、と。
 以上は受倶門において述べられてきた内容ですが、この所論を受けて本科段が説かれているわけです。

 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (40) 五受相応門 (4)

2014-08-17 21:08:43 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 本科段で説かれていることは、煩悩は我執を帯びた時に生れてくるものですね、本来は無我ですから、煩悩は無いわけです。ですから阿頼耶識には全く無しと説かれていたのですね。我執とは、我に非ざるものを我とするということですから固定化します、本来流動的なものを人為的に縛り付けるのですね、そこからの歪が煩悩なんですね。

 

 困った人を見れば助けてあげたい、憎い人をみれば怒りが込み上げてくると云う感情も、我執の影なんですね。愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦という苦は、外からやって来た苦ではないということです。自分が自分で作ってきた苦である、そこに深い求道の歴史があるんですね。命がけで煩悩の正体を見破ってきたのです。ストレスにしても、自閉症にしても、精神疾患にしてもですね、或は、心的外傷後ストレス障害(Posttraumatic stress disorder)ですね、もっと言えば、あらゆるコンプレックスもですね。内観の道でしか解けないものだと思いますね。対症療法や環境を変えるといった外境の変革においては、一時的な安らぎを与えることは出来るかもしれませんが、根本的な解決には程遠いものだと思います。

      問題は、  - 我執 -  なんですね。

 我でないものを我とし、その我に執着を起こして、貪・瞋・癡の根本煩悩を引き起こし、癡から他の三見(七つの煩悩)及び根本煩悩に付随した形で随煩悩が生起してくるのですね。いうなれば、無我を我であると錯誤をおこして、錯誤された我を、実の我とし、その我を脅かすものが外なる環境であり、対象であるとして煩悩を引き起こしてくるのでしょう。対象もですね、我によって造られたものなんですね。造られたものにも執着を起こすんです。我と我所に於いてですね、我執・我所執と。「我有り」とは自我の目覚めであるかもしれませんが、執着された我という眼差しが必要でしょうね。

 もっと深く言えばですね、我執は第六意識相応なんですね、そしてその第六意識相応の我執を成り立たしめているのが、深層意識である、第七末那識なんです。それを根本我執と。その根本我執と云う所に、閉じられた心の解放されるヒントが隠されているように思いますね。

 ですから、煩悩の分析は、私が(我)という、執われた心の分析、我執の深さを抉り出してくる作業なんだと思います。

 そしてそれらのすべてを取捨選択することなく平等に受け入れている心の働きが、お一人お一人の中に働きとして動いている、それが阿頼耶識と表現されているわけですね。阿頼耶識は純粋であるためにですね、すべての経験を引き受ける働きを持ち、引き受けた過去の経験を捨てることなく、人格形成の上に大いなる役割をはたしつつ、純粋であるが為に、我によって執着され、白いものが赤に染まり、或は青に染まり、あるいは紫に染まり、或は黄に染まってしまうのですね。染めたものは我執です。阿頼耶識は執着されるところでもあるのです。わたしが、わたしが(我)といって、私の中に働いている純粋意識を染汚しているんです。自分で自分を汚しているんですね、それによって苦しんでいる。こういうところの心の構造を知ると言う言も非常に大切なことであろうかと思います。

 今日は前に進むことは出来ませんでしたが、私たちは何か大切なことを見失っているのではないかなと思うわけです。