『願生偈』ははですね、偈文の方には一番初めに、「世尊よ、我は一心に」と、「我は一心に尽十方無碍光如来に帰命して」、帰命すると。そして、「彼の国に生ぜんと願います」と、こういう具合に述べてありますわね。そこに「我」という字が置いてあるでしょう。「我一心に」と。そこだけが、その「我」が一番大事なんですけどね。次に「我依修多羅 真実功徳相」といって又、「我」という字が出とるでしょう。それから『願生偈』の一番真ん中に「故願生彼 阿弥陀仏国」とあり、かるが故に我。それから一番最後に「我、論を作りて偈を説きたり。」と、こういう。ま、広く言えば四ヶ所に我という字が置いてあるんですわ。そして、それを、結んで「無量寿経修多羅章句、我、偈誦を以て総説し竟りぬ」と、ま、ここに総説という言葉が出ておるから、総説。ここにも「我」という字が付いておる。結ぶ言葉にも「我」という字が付いておる。結ぶ言葉にも「我」という字が付いとるね。
それから「解義文」も方にもやっぱり結ぶところには同じような言葉が出とるんですけども。「無量寿経修多羅優婆第提舎願偈、略して解義し竟わんぬ」と、こういう具合に。それで「解義文」という。その時に「我」という字は置いてないわね。
だから、五ヶ所に「我」という字が置いてあるね。偈文の方は。特に一番最初の「我一心」というのは、それは「我」を代表する言葉でしょう。解釈を見てもね、我々とは何々、一心とは何々と、こう、解釈せずに「我一心とは」とこういう具合にね、我と一心を区別せずにね、我とは何々、一心とは何々と、そういう解釈をせずにね、「我一心」とは何々。我が一心を発すんでない、一心に依って我が成り立つ。
我というものがあって、何か、それが一心を発すと考えるけど、一心を発さん前の我というものは意味が分からんです。目があったり鼻があったりするのが我じゃない。だからして、我があって一心を発すんじゃない。一心に依って我が成り立つ。そういう場合の我を主体と言うんですわね。主体。我という字は主体を表す言葉でしょう。」(『分からなくなったら はじめにかえる』p6~9)
触の心所について(5)
阿頼耶識はどのような心所と相応するのかを述べているわけですが、阿頼耶識は五つの遍行と相応する、相応するが五つの遍行は無覆無記である。触・作意が受・想・思の所依となることが云われていました。阿頼耶識は自己自身なんだけれども、自己を超えた自己を表す概念が阿頼耶識なんでしょう。決して私有化できるものではない、ということです。阿頼耶識は迷いを表す概念ですが、性から言えば、円成実性。智慧から言えば、大円鏡智という無分別智を背景として成り立っている識なんでしょう。大円鏡智においてある識が阿頼耶識、単なる迷いの識ではないということでしょう。
私たちは、自分の都合によって、いろんな見方をするのでしょうが、それらはすべて、自分の都合から出たものである、そのことを知らしめる働きをもった識が阿頼耶識といっていいと思いますね。「触」という心所も、私たちが考える以前に事実として触れている、考えて触れるのではありませんね。触の背景に三和合が成り立っているということでしょう。
種子と現行の関係ですが、種子としてある時は、あらゆる可能性があるということです。ですから、種子と現行の間には変異が語られるわけです。「バラバラでいっしょ」という法語がありましたが、種子としてある時はバラバラです。それが因縁和合する時に現行が生じます。
「だから、三が和合するのとしない位とでは、非常に大きな変化がある。それを変異という。いまだ無かった用きが起こる。心所を生ずるという用きである。これは一つの変異である。三和は体で、三和の変異というのは三和の用にである。心所を生ずるという用きである。それを分別(ぶんべつ)するという。変異を分別する。分別は触の用きである。変異は三和の用きである。触が心所を生ずる。三和によって触が生ずるから、三和の用きが触の用きになる。分別というのは分かち取ることである。願生心所は三和の用きであるが、それが触の用きとなる。三和の用きの場合は変異、それを分かち取る。領似という。似て起こるのである。かくのごとく、三和の用きを触が分別しているから、心心所を境に触れしめる。それが自性になる。一切の心心所を和合して、一つのグループとして境に触れしめる。つまり、眼識が起こるなら、眼識は色の知覚であるが、そうすれば、そこに色についての感情が起こる。声という境に触れれば、声というものについての感情が起こる。かくのごとく、触が一切の心心所を境に触れしめるのが自性であるから、他に対してはそれをもって受・想・思の近教になるのである。」(『安田理深選集』第二巻p210)
三和という中でも、特に根の力が強いことから、『大乗阿毘達磨集論』・『大乗阿毘達磨雑集論』には、三和ではなく、根が変異に分別するんだと説かれているそれは何故かといいますと、
「根が変異の力いい触を引いて起せしむる時に彼の識と境とに勝れたり。故に『集論』等に但だ変異に分別すと説けり」(『論』第三』初左) 根・境・識が和合して、そこに変異が起こるわけですが、根・境・識の中でも、根の変異の力が勝れているんだ、と。根の変異によって識を生み出してくる、こういうように言われているんですね。境は対象ですから力はありません。識は、根と境によって現れるわけです。
六根
} 十二処 によって、 六識 } 十八界 、これに身体の構成要素である五蘊を加えて、五蘊・十二処・十八界で阿毘達磨仏教の説く人間観を表しているわけです。
六境
「一切の心と及び心所とを和合して同じく境に触れしむるは、是れ触の自性なり。」(『論』第三・初左)
触の自性とは何かと云いますと、境に触れさせることである、こういうわけですね。 この項もう少し熟考します。