唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(6) 触の心所 (5)

2015-08-30 16:55:58 | 初能変 第三 心所相応門



  
 『願生偈』ははですね、偈文の方には一番初めに、「世尊よ、我は一心に」と、「我は一心に尽十方無碍光如来に帰命して」、帰命すると。そして、「彼の国に生ぜんと願います」と、こういう具合に述べてありますわね。そこに「我」という字が置いてあるでしょう。「我一心に」と。そこだけが、その「我」が一番大事なんですけどね。次に「我依修多羅 真実功徳相」といって又、「我」という字が出とるでしょう。それから『願生偈』の一番真ん中に「故願生彼 阿弥陀仏国」とあり、かるが故に我。それから一番最後に「我、論を作りて偈を説きたり。」と、こういう。ま、広く言えば四ヶ所に我という字が置いてあるんですわ。そして、それを、結んで「無量寿経修多羅章句、我、偈誦を以て総説し竟りぬ」と、ま、ここに総説という言葉が出ておるから、総説。ここにも「我」という字が付いておる。結ぶ言葉にも「我」という字が付いておる。結ぶ言葉にも「我」という字が付いとるね。
 それから「解義文」も方にもやっぱり結ぶところには同じような言葉が出とるんですけども。「無量寿経修多羅優婆第提舎願偈、略して解義し竟わんぬ」と、こういう具合に。それで「解義文」という。その時に「我」という字は置いてないわね。
 だから、五ヶ所に「我」という字が置いてあるね。偈文の方は。特に一番最初の「我一心」というのは、それは「我」を代表する言葉でしょう。解釈を見てもね、我々とは何々、一心とは何々と、こう、解釈せずに「我一心とは」とこういう具合にね、我と一心を区別せずにね、我とは何々、一心とは何々と、そういう解釈をせずにね、「我一心」とは何々。我が一心を発すんでない、一心に依って我が成り立つ。
 我というものがあって、何か、それが一心を発すと考えるけど、一心を発さん前の我というものは意味が分からんです。目があったり鼻があったりするのが我じゃない。だからして、我があって一心を発すんじゃない。一心に依って我が成り立つ。そういう場合の我を主体と言うんですわね。主体。我という字は主体を表す言葉でしょう。」(『分からなくなったら はじめにかえる』p6~9)


 触の心所について(5)
 阿頼耶識はどのような心所と相応するのかを述べているわけですが、阿頼耶識は五つの遍行と相応する、相応するが五つの遍行は無覆無記である。触・作意が受・想・思の所依となることが云われていました。阿頼耶識は自己自身なんだけれども、自己を超えた自己を表す概念が阿頼耶識なんでしょう。決して私有化できるものではない、ということです。阿頼耶識は迷いを表す概念ですが、性から言えば、円成実性。智慧から言えば、大円鏡智という無分別智を背景として成り立っている識なんでしょう。大円鏡智においてある識が阿頼耶識、単なる迷いの識ではないということでしょう。
 私たちは、自分の都合によって、いろんな見方をするのでしょうが、それらはすべて、自分の都合から出たものである、そのことを知らしめる働きをもった識が阿頼耶識といっていいと思いますね。「触」という心所も、私たちが考える以前に事実として触れている、考えて触れるのではありませんね。触の背景に三和合が成り立っているということでしょう。
 種子と現行の関係ですが、種子としてある時は、あらゆる可能性があるということです。ですから、種子と現行の間には変異が語られるわけです。「バラバラでいっしょ」という法語がありましたが、種子としてある時はバラバラです。それが因縁和合する時に現行が生じます。
 
 「だから、三が和合するのとしない位とでは、非常に大きな変化がある。それを変異という。いまだ無かった用きが起こる。心所を生ずるという用きである。これは一つの変異である。三和は体で、三和の変異というのは三和の用にである。心所を生ずるという用きである。それを分別(ぶんべつ)するという。変異を分別する。分別は触の用きである。変異は三和の用きである。触が心所を生ずる。三和によって触が生ずるから、三和の用きが触の用きになる。分別というのは分かち取ることである。願生心所は三和の用きであるが、それが触の用きとなる。三和の用きの場合は変異、それを分かち取る。領似という。似て起こるのである。かくのごとく、三和の用きを触が分別しているから、心心所を境に触れしめる。それが自性になる。一切の心心所を和合して、一つのグループとして境に触れしめる。つまり、眼識が起こるなら、眼識は色の知覚であるが、そうすれば、そこに色についての感情が起こる。声という境に触れれば、声というものについての感情が起こる。かくのごとく、触が一切の心心所を境に触れしめるのが自性であるから、他に対してはそれをもって受・想・思の近教になるのである。」(『安田理深選集』第二巻p210)

 三和という中でも、特に根の力が強いことから、『大乗阿毘達磨集論』・『大乗阿毘達磨雑集論』には、三和ではなく、根が変異に分別するんだと説かれているそれは何故かといいますと、
 「根が変異の力いい触を引いて起せしむる時に彼の識と境とに勝れたり。故に『集論』等に但だ変異に分別すと説けり」(『論』第三』初左) 根・境・識が和合して、そこに変異が起こるわけですが、根・境・識の中でも、根の変異の力が勝れているんだ、と。根の変異によって識を生み出してくる、こういうように言われているんですね。境は対象ですから力はありません。識は、根と境によって現れるわけです。
  六根
      } 十二処  によって、 六識  } 十八界 、これに身体の構成要素である五蘊を加えて、五蘊・十二処・十八界で阿毘達磨仏教の説く人間観を表しているわけです。
  六境


 「一切の心と及び心所とを和合して同じく境に触れしむるは、是れ触の自性なり。」(『論』第三・初左)
 触の自性とは何かと云いますと、境に触れさせることである、こういうわけですね。 この項もう少し熟考します。

 

初能変 第三 心所相応門(5) 触の心所 (4)

2015-08-30 00:55:17 | 初能変 第三 心所相応門
  
 
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 心所相応門における、遍行心所総説及び各説については、『安田理深選集』第二巻 p187~200 を参考にしてください。
 触の心所につきましては、先回も述べましたが、『成唯識論』では、五遍行の並びが、触・作意となっています。世親の『百法明門論』によりますと、作意・触という順に説かれています。良遍も『二巻鈔』においては、作意・触の順に説いています。
 触の新所は、作意(さい)を抜いて、「受・想・思等の所依たるを業と為す」と云われています。安田先生は、「触は直接に受の基礎になるということを語る。この順序が変わっているということは、作意・触も、触・作意も、受想思の所依というものをあらわすのではないか。・・・心所の所依としての心所なのである。所依も心所である。」と教えられています。
 触が先なのか、作意が先なのかはわかりませんが、これが認識の一番基礎になっているのは間違いのないところです。これが基礎となって、受想思が生まれてくるのです。
 根・境・識の和合体を三和生触と云う。三和によって生じてくるのが触の心所なんです。三和が=触ではないというところに注意していかなかればなりません。
 根 - 識の所依
 境 - 所縁
 識 - 所依と所縁をもったもの。根を(所依)として境(所縁)の区別が成り立つ。
 「触は彼(三和)に依って生じ、彼(三和)をして和合せしむるが故に説いて彼(三和)と為す。」(『論』第三・初左) (触は三和に依って生じ、三和をして三和せしめるから三和を触とする。)
 三和は触の因なんですね。前回も述べましたが「彼と云うは即ち根等なり。是れ触の因、三和に依るが故に亦三和と名く。」(『述記』第三末・三右)
 亦、「彼をして和合せしむ」と云っていますように、三和は触の果でもあるわけです。因即果(三和は触の因であると共に果である)という意味をもっています。
 触がどのようにして生起してくるのかと云いますと、種子生現行なのです。種子として在る場合は、根・境・識はバラバラです。現行する場合は、縁をともなって三つが和合し、触の心所が生まれてくるのですね。これを「変異に分別する」と云われる意味なんです。
 「そのものが出会った時に、根境識の三つが変わる、というのが変異に分別するんです。どういうことかといいますと、黒板を見ますでしょ、黒板を見るその時に常に根境識の出会いで見るわけです。その時の条件といいますか、この三つのものの出会い方によって見えてくる世界が変わってきます。」(太田久紀述『成唯識論抄講』巻第五p128~129)
 ここを見てもですね、境が実存在ではないことがわかります。私の方に境を捉える認識主体があるということです。自分の色眼鏡を通した世界でしか、世界を見ることはできないんですね。自分の変化が、イコール世界も変わるという構図になります。
 穢土とか、娑婆という世界も実体としてあるわけではありません。浄土もそうですね。穢土と浄土は対立概念ではないのです。自分の心が作り出してきた、「無始より来、異熟識が持する所の一切の有漏法」によってこの世界を築いてきたのは、他ならぬ自分であったという頷きです。この頷きが「この世は穢土だ」と言わしめたのですね。この頷きには、慚愧の心が働いていますから、浄土の一分に触れていることなんです。しかし、有漏の住人ですから、浄土の住人というわけにはいきません。
 分別(ぶんべつ)は触につき、変異は三和につく。
 『論』には
 「三が和合する位に皆順じて心所を生ずる功能有るを説きて変異と名づく。」
 三つの法がバラバラの時はなにも生まれてきませんが、三つの法が和合する時に心所が生ずるわけです。それを変異と名づけるんだ、と云う。
 「触いい彼に似て起こるが故に分別と名づく。」
 分別の用は触の功能である。三和の法が功能の上に起こっている。それで分別をブンベツと読むのです。『述記』の釈によりますと、「謂く触が上に前の三が順じて心所を生ぜしむる変異の用に似る功能有るを説いて分別と名づく。分別とは即ち是れ領似(りょうじ)の異名なり。
 領似 - 五遍行の心所の一つである触の働きを説明するなかで用いられる概念。変異とは根境識の三つが和合(結合)する時に様々な心所を生ずる力を持つように変化することであsり、その変異を分別するというなかの分別を言い換えて領似と云う。受け止めて似るという意味である。
 いい喩がだされています。
  「子の父に似るを以て父に分別せりと名づくるが如し」(生まれた子供が、生んだ父母に似るように、また似た行動をするように、触もまたそれを生ぜしめた根境識の三つの変化ににることによって、さまざまな心所を生ぜしめる力を持つという。)
 「此の意は総じて根等の三法が能く順じて心所を起こす功能有るを以て名づけて変異とす。この触も亦順じて心所を生ずる功能作用有って彼の三に領似せり。是の故に名づけて変異に分別すと云うことを顕すなり。」(『述記』)


 

初能変 第三 心所相応門 (4) 触の心所 (3)

2015-08-27 22:47:13 | 初能変 第三 心所相応門


 

 「触いい彼に依って生じ彼をして和合せしむ。故に説いてkれと為す。三が和合する位に皆順じて心所を生ずる功能有るを説いて変異と名づく。触いい彼に似て起る故に分別(ぶんべつ)と名づく。」(『論』第三・初左)
 根・境・識が三和して触の心所が現れると思うのですが、そうではないのですね。触という心所はあるわけです、それは三和に似た相が触だと云われています。
 触を三和と云うことについて二義によって説明されています。
 一つには、「彼に依って生ず」ということ。彼は「根等」等は等取、境・識をも含める。触が因として、根・境・識が縁とし、因縁和合して三和と云う。三和合といっても、因は触なんですね。根・境・識が縁となって触の心所が働いてくるのです。ここを以て、三和生触と云われているのですね。『対法論』には、三和合するに依る、と云われています。
 二には、根・境・識をして和合するんだ、と。今度は根・境・識が因として引き出されてくるのが触だと。触が果になるというのです。つまり、触がよく根・境・識の三法を和合せしむ働きを持って、所依の根と、所取の境と所生の了別(識)を成り立たせるわけです。従って、触があって、根・境・識が和合することができるのです。
 この二義によって「触」を三和と名づけるのである、と『述記』は説明しています。私たちは、考える以前に朝目を覚ましたら対象に触れています。そこには根・境・識が出会っている世界があるわけですね。どのように触れているのかは、根・境・識の状態によります。仏法に触れ得るのも、根・境・識が和合しているからなんですね。根・境・識がバラバラのときは触れるということはありませんが、私たち意識されている間は、何らかのことについて触れています。出会いによって、根・境・識が変わって、和合して触れるわけです。それを変異と云っているわけです。仕お稽古事で考えてみますと、よく理解できます。これは熏習と関係しますが、最初は無我夢中で、何がなにやらわからずに先生のいわれるままにお稽古をしますね。この時も、三和合しているわけです。しかし、お稽古を積み重ねることに於いて、いろんなことが解ってきます。所作もスムーズになりますし、周りの状態も見えてみます。この時も三和合しているわけです。このことからも窺えますが、根・境・識といっても実体としてはないということなんですね。触れる状態に於いて根・境・識は変化しているということです。
 昨日も述べましたが、台所に立って食事の支度をしておりましても、裸眼のときと眼鏡をかけているときとでは世界が違いますね。眼鏡もですね、より精巧なものでしたら、よいよく見えるのでしょうね。なにが本当の姿なのかわけりません。こちら側の問題としてですが、自分が変わると世界が変わるんですね。これは間違いのないところだと思います。
 次科段は、「変異」と「分別」について分けて説明されます。もう少し考えてみたいと思います。
  
 今日明日は、南御堂盆踊り
 
  宮部師の投稿より 

 

初能変 第三 心所相応門 (4) 触の心所 (2)

2015-08-26 23:57:15 | 初能変 第三 心所相応門


 

 「謂く根と境と識との更相(たがい)に随順なるが故に三和と名く。」(『論』第三・初右)
 三和生触(さんなじょうそく)といいますが、三つが出会ってそこに一つの認識が成り立つのです。認識の根柢に在るのが「触」の心所なんですね。
 「正しき三和の体は謂く根と境と識となり。体異なるを以て三和と名く。相乖返(かいへん)せず。更相(たがい)に交渉するを名づけて随順とす。眼識生ぜざる時、眼根と色境と或は起こるが如きを名づけて乖返とす。又耳根と眼識と香境との三法乖返せるが如きは三和とは名づけず。若し相順ぜるときは三必ず倶に生ず。既に相違せざるが故に随順と名づく。根は依と為る可く、境は取と為る可く識は二に生ざられて根に依として境を取る可く、此くの如く交渉するを三和の体と名づく。」(『述記』)
 乖返は乖違或は乖反のことで、論理的に矛盾していること。互いに相違していること。
 取(しゅ)は認識すること。
 根は認識を起こす依り所なんですね。境は認識されるもので、根と境によって識が生じ、識が生ずることに於いて根が依となり対象を認識する働きが生まれてくるという構図になります。つまり、認識は識別なんです。外界に実体としてのものがあるわけではなく、心が映じたものが、あたかも実体的にあるかのように錯覚を起こしているのであって、心の中に映じたものが外に投影されたもの、心に似た相が現れているだけに過ぎないということなのです。
 しかし、これがなかなか頷くことができないのですね。
 「煩悩具足の凡夫」といわれるのは、外界は実に存在し、変化することのない私が存在していると思っています。いかり、はらだちは外界の責任であって、私は被害者という立場です。このようなエゴイスチックな私に気づけよ、気づいた私が「煩悩具足の凡夫」であった自己なんですね。
 人間はどこまでいってもエゴイストでしょうね。エゴはエゴを満足させるためだけに動いています。確かにエゴを満たせば心地いいのかもしれませんが、一時的です。長続きはしません。なぜなら、次の波が襲ってくるからですね。条件が刻々変化していますから、エゴもそれに応じて変化させているんです。ですからエゴが満たされないときの方が多いのかもしれません。
 どうでしょうか、エゴが傷つけられたら怒り心頭なんではないですか。
 エゴは自己中心性ですから、密かにエゴを知られまいとしてエゴに正当化の論理をもって覆い隠していきます。エゴは自分の意に沿うときは喜び、意に沿わないときは怒り・悲しを覚えます。しかし、このような状態は不安定です。安定を求めながら、不安定で在るというのは何故なんでしょうか。「このような疑問をもって安定を求めたのが仏教徒でしょう。自己中心のエゴスタイルは、本当の安らぎを得ることはできないんだ、と。
 そので、見破られたのが、自分に対するあくなき執着性ですね。自己執着性が、安らぎを求めながら、自己を縛って、苦し悩むむことを余儀なくさせる根本の原因であったと。そこに目覚めて、自己中心のエゴ性からの脱却を目指したのが仏教徒でしょう。
 順境の時は、意に沿うエゴが満足していますから、何等問題は起こりませんが、順境が一転して逆境になった時に「何故・どうして?」という問題が沸騰してきます。しかし、ここが大事なところなんでしょう。逆境、言葉にすれば、自分にとって許されないことを言われた時、或は批判された時、非難された時です。
 ここで立腹するのは、自己に執われがあるからですね。執われからの解放を目指す仏教徒が、一番真摯に向き合わなければならない事柄です。逆境、これがとりもなおさず私にとっての善知識なんです。問題は外にあるのではないということです。自己の中に、自己を埋没させる因が隠されているということなんですね。自我の矢が折れるのは、自我の矢を知らしめたものの存在が大きいのです。逆境を縁として、自己存在の無意識の働きである阿頼耶識との対話が重要な役割をもっていることでしょう。ここに眼を覆うのではなく、しっかりと眼を開いて自己に向き合っていきたいものです。
 

初能変 第三 心所相応門 (3) 触の心所 (1)

2015-08-25 22:04:35 | 初能変 第三 心所相応門


 
五遍行について その(1) 触の心所
 「触と云うは、謂く三和して変異(へんい)に分別(ぶんべつ)し心・心所をして境に触れ令むるを以て性と為し、受と想と思等の所依たるを以て業と為す。」(『論』第三・初右)
 (「触ノ心所ト云ハ、心ヲ心ガ知ルベキ所ニヨク触シムル心ナリ」(『二巻鈔』)
 触の性(本質は)、「三和して変異(へんい)に分別(ぶんべつ)し心・心所をして境に触れ令むる」ことなんですね。
  三和は、根(感覚器官)と境(認識対象)と識(認識する心)との三者が一つの場の中で相互に関係し結合しなければならない。三者が結合することを三和合とよぶが、この三つが和合したところに生じ、しかも、逆に三つを和合せしめるような心作用を触とよぶ。(『唯識とは何か』P138より)
 触とは、接触の触ですね。触覚・触感・触診の触ですが、接触が一番意にそう意味ではないかと思います。つまり、くっついて触れあう。関わり合いを持つということなのです。根・境・識がバラバラではないということですね。対象を知るということは、根・境・識の三つが出会ってはじめて境に触れることができるんです。三和合しなかったら、対象を認識することはできないのです。認識が起こっているのは、根・境・識の三つが和合している状態の時のみ認識が成り立っているということなんです。
 第八阿頼耶識の所縁は、内執受と外器でした。つまり、所縁は能縁の識である心・心所が似て現れたものだと教えられていました。内執受は、種子と有根身ですね。有根身は身体、まあいえば肉体です。感覚器官は肉体に宿しているわけですから、内的物資です。境は外器、器世間ですから、外的物資ですが、内的物資と外的物質が結合するところに識の働きがあるわけです。
 例えば、私たちは本当に物を正しく認識しているのでしょうか。はなはだ疑問です。年を重ねますと、だんだん見えなくなります。見えなくなりますから部屋も綺麗なんです。眼鏡をかけますと汚さが見えてきます。このこと一つをとりましても、対象は無いということになりますね。対象の本質を見ていないというのが正しいでしょうか。どのような状態であっても、認識が成り立っているのは、三和合しているということなんです。その時、その時の状況によって認識が違う、こちら側の問題ですが、こちら側の都合によって外界は変化するわけです。それが「変異に分別する」と云っているのですね。
 先日も書き込みましたが、私たちは物を見ている、見えていると思っていますが、漆黒の闇の中では眼は何の作用もしません。こういうことからも、私たちは本当に、正しく世間を見ているのでしょうか。変異に分別しているのではないですか。面白いですね。自分の認識は、自分が作り上げた世界の認識から出ることはないのです。
 私たちが世間に対してメーセージを送るとすれば、仏法に触れた縁起の世界、依他起の世界を発信すること以外にはないのでしょう。諸法は無常であり、諸行は無我である。「いろはにおえとちりぬるをわかよたれそつねならん」ということに於て迷っている存在が私なんです。正論だ、大義だという前に、いろんな状況次第で変わっていく自分自身の迷妄の相を鏡に映し出す必要がありそうです。
 五遍行の内、受と想と思は触がなければ出てこないのです。受・想・思の所依が触なのですね。触と作意は連動しているのですね触が先か、作意が先なのかは分かりません。『二巻鈔』では作意が先にだされています。

初能変 第三 心所相応門 (2)

2015-08-24 22:36:47 | 初能変 第三 心所相応門


 
  
   心所相応なのですが、第八識は五遍行と相応すると説かれていましたが、八識すべてがなにがしかの心所と相応するわけです。概略を述べますと、
 『成唯識論』巻第二・二十六右の四分義に於いて、「有漏の識が自体生ずる時、皆所縁能縁に似る相現ず」と、心王は心所と相応するんだと説かれておりました。
 「彼の相応法も応に知るべし亦爾なり。」(『論』第二・二十六左)
 「彼の相応法」とは心所のことですね。識には必ず心所が相応していますから、心所法も同じように、能縁・所縁という形を以て現ずる。心には必ず心所法が相応すると説いてきます。
 心王 ― 八識
 心所 ― 五十一の心所をいう。遍行(5)・別境(5)・善(11)・煩悩(6)・随煩悩(20)・不定(4)
 心心所相応 ― 各識に相応する心所 /前五識…34 ・第六識…51 ・第七末那識…18 ・第八阿頼耶識…5
  前五識は34の心所と相応する。遍行の5と別境の5と善の11と貪・瞋・癡の3と随煩悩の無慚・無愧・不信・懈怠・放逸・惛沈・掉挙・失念・不正知と散乱
  第六意識は51の心所すべてと相応する。
  第七末那識は18の心所と相応する。遍行の5と別境の慧と四煩悩と随煩悩の不信・懈怠・放逸・惛沈・掉挙・失念・不正知と散乱。 
   第八識は5遍行と相応す。

 「所縁に似る相をば説いて相分と名づく。能縁に似る相をば説きて見分と名づく。」(『論』第二・二十六左)
 「此は能似をば見相に摂すると云うことを説く」(『述記』第三本・四十一右)
 繰り返しになりますが、大事な所ですから、ここを間違えますと混乱を起こしますので外境は無いんだと(心外の法は無し)繰り返し説いています。
 所縁に似る相 ― 相分
 能縁に似る相 ― 見分
 私たちは何を見ているのか。対象が有って対象を見ているのかが問われているのですね。そうではなく、心は対象に似て、あたかも対象が有るかのように、心を外に投げ出して、心の中を見ているというのが見・相の二分であるということですね。そうすれば、心の中の深さですね、迷いの深さです。見・相二分は染汚性ですから、迷いの深さを知れば知るほど人間の深さを知ることになります。外境有りとしますと、心は深まりませんね。すべて責任を外境に転嫁しますから、自分の中に問題が有ったと。気づきを得ることはありませんからね。自分の心の広さを見・相二分で現しているのです。心の豊かさは、迷いの深さに気づかせていただくところから、豊かさ、広さをいただくんですね。
 本文に戻ります。
 「阿頼耶識は無始の時より来た乃し未転に至まで、一切の位に於て恒に此の五の心所と相応す。是れ遍行の心所に摂むるを以ての故に。」(『論』第三・初右)
 第八阿頼耶識は、恒に五の遍行と相応して働くのです。それは、始め無き始めから、終わり無き終わりに至まで、阿頼耶識が動いている時は、この五の遍行と相応して働いているのです。
 ここが少し問題のあるところだと思いますが、往生と成仏の問題です。往生は現生であり、成仏は未来なんですね。唯識の観点から見ますと、往生は現生正定聚であっても、人としての身をもっているのですね。人としての身を持っているということは、そこには恒に阿頼耶識は転じたとしても、心は動いていますから、五遍行と相応して働いているということだと思いますね。言葉を変えたら、現生往生(現生不退。往生の身が定まる)と、未来往生(往生の完成)とでもいえましょうか。
 『述記』の解釈は面白いですよ。
 「此れは本頌を釈して相応の位次を云う。即ち常の字を解す。第三段なり。謂く此の本識の三位の中に初の狭き名を挙げて識の寛き体を釈す。故に無始より来た乃し未転に至るまで、即ち仏と成るを除いて余の一切の位なり。此れは自体の三位に於て二に通じて恒に此の五の心所と相応すと云うことを説く。」(『述記』第三本・初右)
 本識の三位とは、我愛現行執蔵位(遍計所執性)・善悪業果位(依他起性)・相続執持位(円成実性)のこと。
 傍線の部分がいいですね。「本識の三位の中に初の狭き名を挙げて識の寛き体を釈す」言葉の響きがとてもいいです。第八阿頼耶識の名は七地までに限るので狭き名であるといい、しかし本識の体は無始以来乃至仏果に至まで相続して断ずることがないので寛き体と云う。
 この「自体の三位に於て二に通じて恒に此の五の心所と相応すと云うことを説く」のは、命あるかぎり、悟りは依他起性なんですね。縁起されたもの。縁起に於てある存在は恒に五の遍行と相応して働いているということを明らかにしていることだと思います。
 依他起性は円成実性に於て証明された存在ということであり、空観でいえば、縁起は空性に於て証明された存在ということなんですね。
 本頌の第二十頌には「自性は所有無し」(無自性なるが故に空なり)といい、第二十二頌に至って「一切の法は性なしと説きたもう」。唯識性は「諸法の勝義なり」と。諸法は無自性であり、無自性なるが故に、無自性の於に戯論が寂滅するんだと説いています。
 遍計所執は迷いの依他起であって、依他起に依って遍計所執している現実があるというのです。しかし依他起は円成実に於て依他起なんですね。これが唯識実性と云われている所以なんです。

初能変 第三 心所相応門 (1)

2015-08-23 22:44:18 | 初能変 第三 心所相応門


『成唯識論』巻第三
 本科段より、巻第三にはいります。『述記』では、第三末・初右。大正43・328a16~。
 「成唯識論述記卷第三末基撰論第三卷若解本識十門義中。上來合二段已解五門訖 自下第三辨第六義心所相應門於中有五。一問起論端。二擧頌正答。三釋常字顯五相應所在位次。四別釋五所體性・作用。五釋頌中相應之義 或分爲二。一問。二答 答中有二。初擧頌。後廣釋廣釋中有三。初釋常字・五相應位。二別解五所。三解相應義。」よりはじまります。 
 (「若し本識を解する十門の義あるが中に、上来は合して二段を以て已に五門を解し訖んね。自下は第三に第六義の心所相応門を弁ぜん。中に於いて五有り。一に論端を問起し、二に頌を挙げて正しく答し、三に常の字を釈して五と相応する所在の位次を顕し、四に別して五数が心所の体性と作用とを釈し、五に頌の中の相応の義を釈す。或は分って二とす、一に問。二に答。答えの中に似有り、初に頌を挙げて後に広く釈す。広く釈すが中に三有り、初に常の字を釈して五が相応の位を云い、二に別して五の所を解す。三に相応の義を解す。」)
 初めに科段が示され、全体的な釈文の傾向が明らかにされています。

 「此の識は幾ばくかの心所と相応する。」(『論』第三初右)  
  「此れは初に問うなり」(『述記』第三末・初右)

 心所 - 正しくは心所有法(しんしょほう)。心の中心体である心王(八種類)に付属して働く細かい心作用のこと。『倶舎論』では、大地法・大善地法・大煩悩地法・大不善地法・小煩悩地法の五種類に分離されていますが、唯識は、さらに細かく、六位五十一の心所を挙げています。即ち、遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の六種に分類しています。
 初能変の識を、第八識
 第二能変の識を、第七末那識
 第三能変の識を、前六識
 これが心王です。この八つの識の具体相が心所になるわけです。心王はある意味抽象的です。理論的に捉えて、第八識は五遍行と相応す、というのは他の心所とは相応しないということが具体相なんですね。心が動いていく具体相が善であり、煩悩であり、随煩悩であるわけで、その心所に五十一数えられています。
 この心所は三能変に付属して存在しますが、どの識がどの心所と相応して働くのかは異なります。第八識の場合は、五遍行と相応するわけですが、ただし捨受のみである。(五遍行と相応して働くのですが、対象をそのまま受け止める、苦もなく、楽もなく、憂いもなく、喜びもない、あるがままをあるがままに受けとめているのが第八識の特徴です。)

 「常に触(そく)・作意(さい)・受(じゅ)・想(そう)・思(し)と相応す。」(『論』第三・初右)
 
 遍行とは、触(そく)・作意(さい)・受(じゅ)・想(そう)・思(し)の五つです。第八阿頼耶識はが動くときには、必ずこの五つと倶に動いているのですね。
 遍行とは、どのような認識にも働く基本的なもので五つあります。
  触- 心を認識対象に触れしめる心作用で、「三和(根・境・識)して変異を分別(ぶんべつ)するぞ。心心所を境に触れしむるを以て性と為し、受・想・思の所依たるを業と為す」心所である。
  作意 - 心を始動せしめて対象に向けしめる心作用で、「能く心を警するを以て性と為し、所縁の境の於(うえ)に心を引くを以て業と為す」心所である。
  受 - 感受作用、「順と違と倶非との境の相を領納(りょうのう)するを以て性と為し、愛を起こすを以て業と為す」心所である。
  想 - 対象が何であるかと知る知覚する心作用で、「境のうえに像を取るを以て性と為し、種々の名言(みょうごん)を施設するを以て業と為す」心所である。
  思 - 認識対象に具体的に働きかける意思決定の心作用で、「心を造作せしむるを以て性と為し、善品等のうえに心を役するを以て業と為す」心所である。
 
 
 

 

雑感

2015-08-22 23:52:53 | 雑感


 仏教用語 - 退屈 -
 仏教語辞典によりますと、「退」は、しぞくこと。「発心が退く」、その反対が、「出世道によって煩悩を断ずる者は定んで退あることなし」、或は「長時に無間に精勤し策励し心に怯弱無く退屈なし」といわれています。「屈」は屈する。降伏すること。つまり、仏道を求める心が退き屈することなんです。
 仏道を求める階位は、四十一の階位(十住・十行・十回向・十地・仏果)の十住の初めの初発心位、ここからですね、加行位の初地に至るまで、一大阿僧祇劫の時間を費やして仏道を歩みつづけるわけです。初発心の菩薩は勇猛精進にして、自利利他円満の世界を求めて退くことのない行を積み重ねていくわけです。いうなれば善行です。この善行が有漏の種子を揺さぶり、少しづつ有漏種子を断滅して、無漏種子を開発していくのですね。これが不退という意味になりますね。
 退屈はその逆です。
 本来の意味は(仏道からの観察では)、仏道を志そうとする発菩提心が、仏道修行の在り方や実践行を聞き、或は、二の重障(煩悩頌・所知障)の断じ難いことを聞いて、菩薩行の躊躇や断念があると『成唯識論』には説かれていますが、このような、躊躇断念することを「退屈」と云うのですね。
 世間の解釈とはずいぶん違いますが、暇という意味ではないんですね。目標が定まらない、目標を断念すると、そこに虚無感が漂ってくる、このことを指して「退屈」といっているようです。
  Wikipediaの解釈ですと、「退屈は、なすべきことがなくて時間をもてあましその状況に嫌気がさしている様、もしくは実行中の事柄について関心を失い飽きている様、及びその感情である。ある程度の時間にわたって、興味(好奇心)を持てる感覚的な刺激が得られない状態で、その状態を維持することを求められると、当初はどのようなものかに興味が持てるかもしれないが、その内容に見通しがつき、それが興味を維持できないものであった場合、飽きが来る。それでも止めることを選択できない場合、それを続けるのが苦痛になる。この状態が退屈である。教科書をただ棒読みするだけの先生の授業や、会社での単調な作業はひどく苦痛である。これが退屈という感情である。」とでていました。世間と出世間の違いを見るようで面白いですね。

 退屈は不退に対する言葉なんでしょうね。親鸞聖人は『一念多念文意』において、次のように語っておいでになります。
 「『無量寿経』の中に、あるいは「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」と、ときたまえり。「諸有衆生」というは、十方のよろずの衆生と、もうすこころなり。「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。きくというは、本願をききてうたがうこころなきを「聞」というなり。また、きくというは信心をあらわす御のりなり。「信心歓喜 乃至一念」というは、信心は如来の御ちかいをききて、うたがうこころのなきなり。「歓喜」というは、「歓」は、みをよろこばしむるなり。「喜」は、こころによろこばしむるなり。 うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。「乃至」は、おおきをも、すくなきをも、ひさしきをも、ちかきをも、さきをも、のちをも、みな、かねおさむることばなり。「一念」というは、信心をうるときのきわまりをあらわすことばなり。「至心回向」というは、「至心」は、真実ということばなり。真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもって十方の衆生にあたえたまう御のりなり。「願生彼国」というは、「願生」は、よろずの衆生、本願の報土へうまれんとねがえとなり。「彼国」は、かのくにという。安楽国をおしえたまえるなり。「即得往生」というは、「即」は、すなわちという、ときをへず、日をもへだてぬなり。また即は、つくという。そのくらいにさだまりつくということばなり。「得」は、うべきことをえたりという。真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。「摂」は、おさめたまう、「取」は、むかえとると、もうすなり。おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり。・・・
 、「それ衆生あって、かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆえはいかんとなれば、かの仏国のうちには、もろもろの邪聚および不定聚は、なければなり」とのたまえり。この二尊の御のりをみたてまつるに、すなわち往生すとのたまえるは、正定聚のくらいにさだまるを、不退転に住すとはのたまえるなり。このくらいにさだまりぬれば、かならず無上大涅槃にいたるべき身となるがゆえに、等正覚をなるともとき、阿毘抜致にいたるとも、阿惟越致にいたるとも、ときたまう。即時入必定とももうすなり。・・・」
 傍線の部分は吟味を要すると思いますが、私たち、人生の目的は「無上大涅槃にいたる身」の確立なんでしょう。ここにですね、「不退」という言葉が大きな意味を以て、私に仏道を歩めと背中を押し続けてくださるのでしょう。ですから、不退に退転する在り方が、「退屈」ということになってくんだと思います。

 

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (18)

2015-08-21 23:46:09 | 初能変 第二 所縁行相門



 「或は、此が所縁の内執受の境も亦微細なるが故、外の器世間も量測り難気が故に、不可知と名づく。」(『論』第二・三十二左)
        種子
 内執受〈           〉  所縁
        有根身(身体)
 
 外     器世間

 所縁は相分ですが、相分は知りがたいと、自分の経験が自分の根柢の阿頼耶識の中に蓄えられ、縁に触れて現行してくるわけですが、そのことは思いもよらずで、具体的にどのような形で現れてくるのかはわからない、今こうしてPCの前でブログを更新しているわけですが、これも様々な縁の催しによるわけですね。明日ここに座っていることができるのかはわかりません。どういう形で現行してくるのか予測がつきません。どちらかというと希望的観測で、明日もこうであろうと判断しているだけに過ぎないのですね。
 「内の執受の境に於いて、即ち有漏の種と及び有根身とは微細にして知り難し。非執受の境に於て、外の器世間は量大にして知り難し。」(『述記』)
 外の器世間は量測り難し、私たちの知っている世界はたかが知れています。宇宙全体のことは微塵も解っていませんね。地球以外に生物が生存しているのかどうかもわからない、生命体がいても、その生命体がどのようにして命を持続させているのかも判らないですね。知っていることはたかが知れているわけです。
 内執受と、外の器世間は不可知であるということは、私が知りえる範囲は非常に狭いということ。狭い範囲で本当に物事を正確に判断することができるのかが問われているわけでしょう。
 その深い不可知の世界からの問いかけが阿頼耶識として、私の意識に、意識を超えた働きとしてあることを思います。

 一応ここで第二の所縁行相門を閉じます。そして第三の心所相応門について考究させていただきます。

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (17)

2015-08-20 22:45:49 | 初能変 第二 所縁行相門


 「自下は第二に不可知を解す。二有り。初に不可知を解し、後に問答して弁論す。」(『述記』)
 これは初である。
 「不可知とは、謂く此れが行相極めて微細なるが故に了知す可きこと難しと云はんとぞ。」(『論』第二・三十二左)
 不可知とは何か?と問うています。「知るべからず」(知ることができない)知ることが難い、不可能である、と云っているのです。理由は三つあげられています。一つは本科段にでています。つまり、「此れが行相極めて微細なるが故に了知す可きこと難し」です。もう一つは次科段にでてきますが「所縁の内執受の境も亦微細なるが故に」・「外の器世間も量測り難きが故に」
 傍線の、行相と内執受と外器、それが不可知である。行相につきましては、すでに説き終えましたので、ここでは詳論されません。四分という形で心の在り方を考究されていましたが、一言でいうと微細であると云うことになります。
 「第一には見分の行相了知すべきこと難し」(『述記』)であります。すべてを知り尽くすことは難である、一部分知ることはできるかもしれませんが、無意識の領域で、すべてを了別することはできないと云っているわけです。対象化された心ではありません。対象化された心は妄想ですから説明はつくわけです。戯論だと。しかし、すべては心から生み出されてくる、その心の世界は厳然として秘密裡なんでしょうね。
 種子生現行は、
 「さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』)
 予想がつきません。何が起こっても不思議ではない生き方をしているわけです。大事なのは、縁が種子に触れて現行するわけですから、私にできることは、いかなる種子を植え付けるかです。
 
 「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」 と。煩悩具足の人間が知りえる世界が、「火宅無常の世界」なんですね、そして「ただ念仏のみぞまことにておわします」と頷きをえるのでしょう。
 火宅無常の世界は、『正信偈』では「決以疑情為所止」(決するに疑情を以て所止とす)、と。我執でしか生きることができない世界を「火宅」だと、我執を通して我執を知ったわけです。お念仏に触れて初めて知りえた世界ですね。そうしましたら、この世界を作っているのは我執だとわかるわけです。私がこの世界を変現しているんだと、ですね。外器は所縁であるということです。

 「ただ念仏のみぞまことにておわします」という種子を植え付けなければなりませんね。そうしますと、無漏の種子が撃発されて「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなき」我執を依り所とした世界は、むさぼりと怒りしか生み出すことがないと要求してくるのではないでしょうか。聞法と無漏種子の感応道交において頭が下がるのでしょう。
 私は苦しんでいる、悩んでいるという視線は、あたかも仏法を求めているように見えますが、内実は自分の思いを通したい、思いが通らないから苦しみ悩んでいるということに、苦しまなければなりませんね。「あんたに私の何がわかるねん」と反発をくらうんでしょうが、自分の殻に閉じこもっていたのでは、何も解決をしないということに、先ず目を開かなければなりません。