唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第九 起滅分位門 (20) 八識一異について (まとめ)

2017-01-16 20:52:58 | 第三能変 第九・起滅...
  

 極睡眠というのは、私たちが日頃、夢を見たりするような睡眠を指すのではなく、夢も見ない、起こらない極重の睡眠を指し亦た悶絶も極重の悶絶を指すのです。
 「疲極(ヒゴク、つかれきっていること「身疲労し疲極す」と。)等の縁あって睡をして有ることを得しむ。有心のときを名づけて睡眠となす。これを無心ならしむるが故に極重の睡と名づく。」(『述記』第七・八十六左)
 と云われますように、疲労ということが縁となっているのです。「身疲労し」といわれていますね。心が疲労し、とはいわれていません。心が疲労しているときは、睡眠も、うとうとだったり、夢心地だったりするわけです。「心が」という場合は不定の心所の一つで、眠(めん)といわれています。「眠とは、謂く心をして昧略ならしむを以て性と為す。」と。この時は、煩悩が種子として潜在している状態で、眠っている心ですね。ですから、無心の睡眠には不定の心所である眠の心所はないのです。身の分位であると。ただ眠に似たものであるので、仮に立てたといわれています。『述記』に問いを立てて答えています。
 「此の睡眠の時には、彼の体なしと雖も而も彼に由って、彼に似る、故に仮に彼の名を説く」(『論』第七・十五左)
 「問う、此に既に心所の眠なし。何を名づけて眠となし、而も論の中と大論の無心地等に説いて眠となすや、
 「(答え)これに二解あり。一に由、二に似なり。この眠の時には彼の心所の眠の体は無しと雖も、而も彼の加行の眠の引くに由る。あるいは沈重にして不自在なることは、彼の眠の心所ある時に似る。二義を以っての故に、無心なる身の分位を仮説して眠と名づく。実に眠にあらざるなり。」(『述記』第七本・八十八右)
 次に悶絶ですが、これも睡眠と同じように、身の分位になります。
 「大論の第一に、悶絶はこれ意の不共業なりと説けり。即ち悶の時に、ただ意識のみあるによる。悶は心所法にあらず。末摩(マツマ・marmanの音写で死穴、死節ともいう。)に触するを以って悶が生ずること有るが故に。悶は即ち触処の悶なり。」
 「末摩というは梵言なり。此には死穴と云い、或いは死節と云う。順正理論の第三十に云わく、末摩は別物無し。身に異の支節ありて触する時は便ち死を致すといえり。」(『演秘』第六本・十九右)
 断末の叫びですね。悶絶とはそのような身の上に起こることなのです。風熱等の縁なくして、悶絶を起こすならば、これは心所であるけれども、風熱等の縁によって、身の分位を引くのである、と云われています。
 「二無心定と無想天と及び睡と悶との二と、この五の時と除き、第六の意は恒に起こる。縁が恒に具せるが故に。」(『述記』第七本・八十九右)
 (意訳)無想定と滅尽定と生無想天と睡眠と悶絶の五位を除いては第六意識は恒に起こるのである、何故ならば、第六意識が起こる縁が恒に起こっているからである。
 「是の故に八識は一切の有情に於て心と末那と二は恒に倶転す。若し第六起るときには則ち三いい倶転す。余は縁の合するに随て一より五に至るまでを起すときには則ち四いい倶転し乃至八いい倶なり。是を略して識の倶転する義を説くと謂う。」(『論』第七・十六左)
 (意訳) このようなわけで、八識はすべての有情にに於いて倶に動いている。阿頼耶識と末那識は恒に倶転する。マナーという我執の心は、ときどき動くのではなく、恒に動いている。阿頼耶識を依り所として動いていく。若し第六意識が起こる時には、阿頼耶識と末那識とが一緒に動く。余(前五識)は縁に依り一つが動くときも有り、全部が動くときもある。それは縁によって違う。そして阿頼耶識と末那識の二つはいつも有る。則ち阿頼耶識と末那識と第六意識と前五識のいずれかが、起きている時には動いているわけですから、四つは必ず動いていることになります。それが倶に動いていく。これを略して識の倶転する意義を説くのである。
 ここが、八識倶転 ・ 八識一異 について述べられる一段になります。
 初能変・第二能変・第三能変を結ぶにあたって八識倶転・八識一異が述べられます。「こころは一つか」という問いに答えているわけです。八識はどのように動くのか、一つの識なのか、八識は別体なのかという問いが先ずあるわけです。この問題については概略を示して、初能変・第二能変を学びおえてから再考したいと思います。『成唯識論』の立場は八識別体・八識は、別々の識体を持つということです。八識倶転を受けて八識一異が述べられます。
 「八識の自性は、定めて一とは言うべからず。行相と所依と縁と相応と異なるが故に。又一の滅する時に余滅するものにしもあらざるが故に。能 ・ 所薫等の相各異なるが故に。亦定めて異なるにも非ず。経に八識は水波等の如く差別無しと説くけるが故に。定めて異ならば因果の性に非ざるべきが故に。幻事等の如く定性無きが故に。前所説の如き識差別の相は、理世俗に依る。真勝義には非ず。真勝義の中には心言絶するが故に。伽陀に説くが如し。
 心と意と識との八種は  俗の故には相別なること有り
 真の故には相別なること無し  相と所相と無きが故にと。」(『論』第七・十八右)

(解説) 
 第一説 ・ ここは三義を以て「定めて一とは言うべからず」を釈します。その第一行相とは見分である。識の自性(存在のありよう)はいつでも一つだとは言えない。それは、「行相と所依と縁と相応と異なるが故」だからである。行相は心の働き、所依は依り所となるもの、根。縁は対象、所縁。相応は心所で、多少の別ある、と。。「眼識は色を見るを行相と為す」。眼識は色を見る働きを持ち、眼根を依り所とする。耳識は聞く働きを持ち、耳根を依り所として動くわけです。このように「第八は色等を変ずるをもって行相となす等の如し」と、八識はいつも一つだとは言えないということです。
 第二は「又もし一の識が滅するとき、余の七等は必ずしも滅するものではない」ということ。八の心は働き・依所も違うのであるから一体だとは言えない。その理由が「能・所薫等の相各異なるが故に」と、働きがみんな違う。これが第三の義です。前七識が能薫・第八識が所薫で、また前七識は因、第八識は果であると、『楞伽経』第七に説かれている。また、三性・異熟生・真異熟等、種々の相が異なるからである。 能薫 - 薫とは薫習のこと。現行・転識(顕在的な心)が潜在的な根本心・阿頼耶識にその種子(影響)を薫じること。薫じる七転識を能薫・薫じられる阿頼耶識を所薫という。 第二説 ・ 「亦定めて異なるにも非ず」を釈しています。ここも三義を以てとかれます。 第一の義は、必ずしも異なるものではないということ。『楞伽経』の第九巻の頌に 「八識は大海の水と波と  差別の相あること無きが如し」 と説かれている。また大海と鏡面とによって、多くの波をおこすようなものであり、そこには大海と鏡面と差別はない。それは一つの水と波のようなものである。 第二の義は、定めて異というならば、因果が成立しない。更互に因果となるからであり、法爾の因果は必ずしも別なるものではない。 第三の義は、一切法は幻事・陽炎・夢影のようなもので、必ずしも別の性があるわけではない。この三義で、八識は一つのものではないし、また別なるものではないといっているのですね。これが私の心の構造なのです。AかBではないのですね、またAかBかのどちらでもないということでもない、と。概念的には絶対矛盾しているわけですが、そこに同時に存在しているのが私の生命体なのです。八識は一なるものでもないし、別なるものではない、と教えられています。 「此の一異に非ずは、四勝義に依りて四の世俗に対して皆得たり」(『述記』)と。『瑜伽論』巻六十四に四重二諦について説かれています。要約しますと、世俗諦と勝義諦とを世間・道理・証得・勝義の四つに分けてそれぞれの四つがどのように相応するかを説いているのです。世俗の真理を世間世俗諦・道理世俗諦・証得世俗諦・勝義世俗諦とにわけ、それぞれ、道理世俗諦が世間勝義諦・証得世俗諦が道理勝義諦・勝義世俗諦が証得勝義諦に相応し、勝義諦の勝義は勝義勝義として、非安立一真法界(言葉で語られない真実の世界)を立て、真実とは何かを説き明かしています。 まとめとして、  「前所説の如き識差別の相は、理世俗に依る。真勝義には非ず。真勝義の中には心言絶するが故に」と。八識五十一の心所の総まとめです。八識五十一の心所の違いの相は道理世俗に依る。道理に依ってものを見る、という立場です。迷いは何故起こるのかということを分析的に明らかにしているわけです。勝義勝義という空の立場に立って、すべては無自性なるが故に空であるとはいわないのです。何故かといいますと、造論の意のなかで、「二空の於に迷・謬すること有る者の為に、生と解とを生ぜしめむが故なり」と述べられていました。勝義勝義を理解した上で、勝義勝義に迷い、謬っているのは何故かを明らかにして、生と解を生じせしめるのである、ということを忘れてはならないところです。 『述記』(第七本・九十八左)の記述を示しますと、  「もし爾らば、前来、所説の三能変の相は、これ何ぞ。これは四の俗諦のうち第二の道理世俗に依って、八等ありと説く。事に随って差別す。四重の真諦のうち第四の真勝義諦に非らず。勝義諦のうちに八識の理を窮めるに、分別の心と言と、みな絶するが故に。非一非異なり。四句分別等を離れたり。前の心所を心に望めて一異なること、第二の俗諦を以て第二・第三・第四の真諦に相対するなり。今は第二の俗諦を以て第四の真諦に対して論を為す。」 大乗仏教の真理を弁えた上で、迷いの構造を明らかにしているのが唯識なのですね。煩悩即菩提・生死即涅槃と一言でいってしまえば誤解が生まれます。生死は涅槃なのだから、迷う必要は無いわけです。しかし現実には迷い苦しんでいるのが私の姿です。それは何故かと疑問を呈しているわけですね。真勝義の立場に立ってしまいますと「心・言絶する」と。非一非異として八識を重層的に説明をし、「唯識無境」を明らかにしているのですね。 明日は最後の詩句について述べてみたいと思います。
  参考文献 『瑜伽論』巻六十四より・第一真義理門を説く。
 「真義に略して六種ありと。謂く世間成真実乃至(道理真実・煩悩障行智所行真実)所知障浄智所行真実、安立真実、非安立真実なり。前の四真実は應に知るべし前の菩薩地の中にすでに広く分別せるが如しと。
 云何が安立真実なる、謂く四聖諦なり、苦は苦に由るが故に、乃至道は道に由るが故なり。
 所以は何ん、略を以て三種の世俗を安立す。一には世間世俗、二には道理世俗、三には證得世俗なり。
 世間世俗とは、所謂宅舎・瓶盆(ビョウボン)・軍・林・数(シュ)等を安立し、又復た我・有情等を安立し、道理世俗とは、所謂蘊界処等を安立し、證得世俗とは、所謂預流果等の彼の所依処たる四諦を安立するなり。又復安立に略して四種あり、謂く前に説けるが如き三種の世俗及び勝義世俗を安立す、即ち勝義諦なり。此の諦義は安立すべからざる内の所証なるに由るが故に、但だ随順して此の智を発生(ホッショウ)せんが為めに、の故に仮立す。云何が非安立真実なる。謂く諸法の真如なり。」と。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「心と意と識との八種は、 俗の故には、 別なること有り。 真の故には相別なること無し。 相と所相と無きが故にと」
 (意訳) 心・意・識という八種の識は世俗諦(道理世俗諦)でいうならば、八識は別体である。しかし勝義の立場(二空)からは相は別であることはない。それは相と所相との差別が無いからである。
 真実は 「相と所相となきが故」 なのです。勝義の於に立ってしまえば、すべては無自性空になり、解脱していない者にとってはニヒリズムに陥ってしまいますね。『解深密経』に「我凡と愚とに於ては開演せず」という意味は、このことなのです。人間の心の中に大晦日を迎えるというのは、一年を振り返り、自分の姿を見つめ直すという機会を与えることなのでしょうし、節目を立てて、新たな視線に立って人生を見つめ直すスタートを切る、という意味があるのでしょう。そこに自分のこころの状態を知るという大切な意味が含まれているのではないでしょうか。迷っていることを知る、迷わせているのは何、を知ることが非常に大切なことなのです。意識起滅の分位の締めくくりに、安田理深先生のお言葉を記します。
 「迷っているという上に悟りの智慧がある。生命つまり、何か生きたもの、生きる用き、生きた生命というものは、固定されたような生命ではない。物質的生命でない。原始の生命。本能。これは無限の創造力をもつ。裸となった創造力理知とか文明とかを捨てて、そういうものに帰らんとする叫びがある。」(『選集』第四巻p43)

第三能変 第九 起滅分位門 (19)滅尽定について(4)

2017-01-13 22:34:45 | 第三能変 第九・起滅...
  

 滅尽定 第一段 第五 釈名
 「偏に受と想とを厭するに由って、亦彼の滅する定と名づく」(『論』第七・十三右)
 (偏に受と想とを厭うことによって、七転識を滅する定と名づける。)
 七転識の心・心所を滅するを滅定と名づける。
 その理由は恒行の染汚の心等が滅するからである。また、滅受想定とも名づけられる。滅受想定と云われるのは、遍行の中の受と想とを滅した定で、心所の中で特に心を悩ます感受作用である受と、言葉による概念的思考を引き起こして心を騒がす想とを嫌ってそれら二つを滅するから、滅受想定といわれる。
 二乗と七地以前の菩薩には、色界の四禅と無色界の四地(空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処)とを修して、受と想とを厭うことがあれば滅受想定と名づける、と云われています。
 「恒行の染汚の心等を滅する」といわれていますが、これは末那識を表しているのです。ですから、末那を滅するといっても、第七識を滅するのではないということです。末那識の滅尽定において学びましたが、人執は滅しても法執は残る、さらに法執を滅したとしても末那を滅したことではないのです。末那は平等智に転ずる識ですね。八地以上の自在の菩薩と如来とには有漏の第六識はないので、阿頼耶とはいわず、阿陀名といい、人執を起こすから阿頼耶というわけです。また法執を縁ずることで異熟識といわれていました。
 次には第二段から第六段の概略です。 
 • 第二段 ・ 義の第六 「三品の修を弁ずる」
 • 第三段 ・ 義の第七 「初に修する依地を云う」、二乗と及び七地以前で未自在と名づく。(後に少し述べたいと思いますが、世親菩薩の課題は未自在の菩薩が自在の菩薩と違わないと云えるのは、どうして可能かです。最大の課題だと思います。)
 • 第三段 ・ 義の第八 「無漏に於いて分別す」
 • 第四段 ・ 義の第九 「三学に於いて分別す」
 • 第五段 ・ 義の第十 「初起と後起との界地を云う」(初起の位は必ず人中にあり。後には上二界にも現前することを得)
 • 第六段 ・ 義の第十一 「一に見惑を明かす。二に修惑を明かす。」
 以上で滅尽定についての概略を記しました。
 総論としては、
 「謂く有る無学、或いは有学の聖の、無所有までの貪を、已に伏し、或いは離る。上の貪は不定なり。止息想の作意を先と為すに由って、不恒行と恒行の汚心との心・心所を滅せしめて滅尽という名を立つ、身を安和ならしむる故に亦た定と名づく、偏に受と想とを厭いしに由って、亦た彼を滅する定と名づく」(『論』第七・十三右)
 の文につきるのではないかと思います。「有無学」というのは二乗の倶解脱で、「二乗の倶解脱に非ざる者を簡ぶ、入るを得ざるが故に」と、また独覚の中にも滅定を得ざる有り、部行独覚を簡んで有る無学と云われています。「有学の聖」とは、初二果を除くと。有学の中には異生あるを以って聖と簡び、第三の不還果中の身証不還の者がこの定を得るという。
 再録して、もう一度読み直しますと、
 『瑜伽論』巻第五十三の記述を詳説しましたが、それに基づき概略を述べます。別名、滅受想定(受と想を滅した定)といわれます。不恒行と恒行の染汚との心・心所を滅し、無色界の第三処である無所有処の貪欲をすでに離れた有学の聖者あるいは阿羅漢が、有頂天である非想非非想処において寂静の心境になろうという思い(止息想)によって心の働きを滅して入る定、七転識が滅するだけで第八阿頼耶識は滅していないといわれる。
 『論』では無想定の定義と同じく六段十一義を以て解説している。
 「滅尽定とは、謂く有る無学・或いは有学の聖の。無所有までの貪を已に伏し或いは離れて上の貪不定なるは、止息想の作意を先と為るに由って、不恒行と恒行の染汚との心・心所を滅せしむるに滅尽と云う名を立つ。身を安和にならしむ故に亦定と名づく。偏に受と想とを厭にし亦彼(受・想)を滅する定と名づく。」(『論』第七・十三右)
 (意訳) 初めに第一段五義が示されます。 (1) 得する人(倶解脱)を云う。- 三乗の無学(倶解脱の阿羅漢) (2) 得する所依と伏段の差別を云う。 - この定は、非想定によって起こるもの。非想定より前の無所有処までの貪欲は、或いは伏し、或いは離れなければ、この定は得られないことを顕す。上の貪とは有頂天の貪欲のことであり、この貪欲は、定の障りになるものと、そうでないものとがあって不定という。 (3) 前の出離想と別を云う。 - この定に入るきっかけは止息想であることを述べる。(後に詳説す) (4) 識を滅する多少を云う。 - 不恒行と恒行の染汚との心・心所を滅することにより、身を安和にならしめる。 (5) 名を釈す。 - 受と想を厭うので彼を滅する定という。 
 六識と第七識が滅するのは滅尽定においてである。無想定に於いては六識はなくなるけれども、第七・第八識はなくならない。「不恒行と恒行の染汚との心・心所を滅す」といわれています。そして「身を安和にならしめる」作用がある、といわれますね。滅定は完全に六識は滅せられている定ですが、身を持っていることが大事です。それは六識は滅せられても生きているということです。
 無想定は、想を離れるが染汚意は残る。しかし、滅尽定は、受と想を離れる。染汚意はなくなる。染汚の末那が滅せられる。「阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し」とは第二能変の結びの言葉ですね。
 滅尽定を求める人は三乗の無学すなわち倶解脱の阿羅漢そして滅定・出世道は有学(なお学び修すべきことがある人、四向の聖者と三果の聖者)である。ここに有学の聖というのは、有学のうちに異生も存在するので聖という言葉をもって簡ぶのである。これが一番目にいわれています。
 二番目は、得する所以と伏断の差別が述べられます。この定は非想定によって起こるもの、「これは初修の二乗のものが離するによる。菩薩は貪を伏離せず」と。非想定より前の無所有処までの貪は伏し、或いは離れなければ、この定は得られないという。「六行をもって亦伏す」と六行智をもって伏すといわれています。
 三番目に、出離想と別なることを顕し、所滅の識をいいます。「止息想とは、謂く二乗の者は六識の有漏の労慮(ろうりょ - 疲労)を厭患(おんげん - 苦や苦の因となるものを観察することによって、それらを嫌悪し、それらから離れようと欲すること)し、或いは無漏心の麤動(そどう - 心が定まらずに動揺していること)なるを観ず。もし菩薩ならば、また無心の寂静の涅槃に似るの功徳を発生(ほっしょう - 起こすこと)せんと欲するが故に起こす。」
 四番目に、滅識の多少。『述記』には、「「令不恒行と及び恒行の染」とは、謂く、もし二乗ならば、即ち人空の染(我執)を除く。菩薩はまた法空の染(法執)をも除く。各自乗に望めて説いて染となすが故に。対法の第二と五蘊論には、恒行の一分のみをいえり。もし第七はただ有漏にして、ただ人執のみなりと説く者(安慧)は、即ち第七は全に行ぜず、第八に望めて是れ一分なり。故に即ちこの文を以て証として、ただ有漏のみなりという。もし法執もありと説く者(護法)ならば、二乗は人空の一分のみを除く。菩薩は雙て除く。全に第七なきにあらず。定という名は前に同なり。第五に釈名なり。」と。
 阿羅漢・滅定・出世道の三つの状態に末那そのものがない、末那は人執に限られているというのが安慧の立場です。護法の言い分はもっと徹底して吟味しています。法執の末那は存在する。人執の末那は否定しても、法執の末那は存在する、即ち二乗の無学にも法執の末那は存在するのであると。(第二能変・第九、伏断分位門・三位に末那無きことを明かす。体であるのか・義であるのか二師の諍あり。安慧と護法の対論を通して明らかにしているのです。(『論』第五・選註p97、新導本p198に詳説されています。)
 「此の染汚の意は無始より相続す。何の位にか永く断じ、暫らく断ずるや。阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し」
 永断は阿羅漢を指し、暫断は滅定・出世道を指す。「此の中、有義は末那は唯、煩悩障とのみ倶なること有り。聖教に三位に無しと言えるが故に。・・・有義は彼の説は教と理とに相違せり。出世の末那をば経に有りと説ける故に。・・・」
 我と思量することが染汚ですね。執着せしめるものは煩悩です。人執の末那は滅しても法執の末那は存在する。第七識が滅するのではない。無想定は六識を滅して無想果を得るが、滅尽定は六識と、染汚の末那を滅して無心であるといわれているのです。

第三能変 第九 起滅分位門 (18)滅尽定について(3)

2017-01-11 21:34:54 | 第三能変 第九・起滅...
  
 明日、坊主バーへ、一年ぶりに遊びにいきます。河合先生の還暦祝いだそうです。おめでとうございます。 
 
 末那識の分位行相について述べています。今日は、第二、法我見と相応する位について説明します。 
 「次のは、一切の異生と声聞と独覚とに相続せると、一切の菩薩の法空智と果との現前せざる位とに通ず。」(『論』第五・六右)
(意訳) 次に法我見と相応する位について説明する。法我見と相応する末那識は、一切の異生と声聞と独覚とに相続するのと、一切の菩薩の中の法空智とその果との現前しない位とに通じて存在するのである。

 末那識が滅する状態は「阿羅漢と滅定と出世道とには有ることなし」と。無漏智が具体的に生起した位です。この位を聖者で、それ以前が凡夫。十地でいえば、七地以前が凡夫で、我執は無始より見道通達位まで存在するといわれています。八地以上が聖者です。
 そして無漏智に生空智と法空智の二つがあります。生空智とは人空智ともいわれ、実体としての自己はいないという智慧・我見によって執着するような実体としての自我は存在しないという智慧です。この真理を観ずることを人空観といいます。そしてその智慧をさらにつきつめて、全ては存在しないという智慧に到達したのが法空智といわれています。

 「法空智とは、謂く無分別智、法空観に入るの時なり。果と云うは、即ち是れ此の正智が果なり。謂く法空の後得智と及び法空の後得智に依って滅定に入る位となり。無分別智に引起せられたるが故に法空智が果と名づく。此の時に第七識は必ず平等智を起こす。第六の法空心は細なれば、第七の法執、彼の法空智を障えり。法空智起こるが故に平等智生ず。」(『述記』第五末・二左)

 法空智とは、無分別智が法空観に入る時をいう。その果とは、この法空智による後得智と、この後得智による滅尽定に入る位を指す。この説明は、法空智と、その後得智と、後得智にによる滅尽定の三つを述べています。そしてこの位には必ず平等性智を起こすと述べられています。「法空智起こるが故に平等智生ず。」といわれる所以です。第六識が人空観を起こすなら、人執は断じられるが、法執は残り、法空智を障える、と。

 ですから、法我見と相応する末那識は、上に述べた三つの位を除いた状態が「現前しない位」になるわけですね。すべての異生と二乗と、「一切の菩薩の中で法空智と、その果との現前しない位」の菩薩が執着を起こす位になるのですね。

 所縁の境は、「彼は異熟識を縁じて、法我見を起こすなり」と説かれます。
法我見と相応する末那識の所縁の境はなにかについては、

 「彼は異熟識を縁じて、法我見を起こすなり。」(『論』第五・六左)と述べられます。
 (意訳) 彼(法我見と相応する末那識)は、異熟識を認識して法我見を起こすのである。

 「述曰。此の法執の心は異熟識を縁じて、法我見を起こす。法我見の位は既に長し。異熟の心も亦爾なり。」

 法執は無始より金剛喩定(コンゴウユジョウ)まで存在するといわれています。法我見と相応する末那識は法執と相応する末那識ですから、「法我見の位は既に長し」と説かれているわけです。

 金剛喩定(金剛心) - 有頂天(非想非非想天)で最後の第九品の惑を断じる無間道で起こす定。最後の最後まで残った煩悩を断じ、次の瞬間に仏陀になる禅定。

 この位の名を善悪業果位といい、異熟の名があるわけです。
 • 無始より七地以前、二乗の有学までの第八識は - 阿頼耶・異熟・阿陀那の三つの名を持つ。
 • 菩薩の八地以上、仏果未満、二乗の無学の第八識は - 阿頼耶の名はなくなり、異熟と阿陀那の名で称されます。
 • 仏果と成った以降は阿陀那と称されることになる。

 第三能変に於ける五位無心を学ぶ中で、滅尽定について末那識の記述から学びました。我執を伏しても法執は残るということですね。我執は必ず法執によって起こるということ。そして二乗の有学の聖道と、滅尽定の現在前する時と、頓悟の菩薩の修道の位に有る時と、有学の漸悟の菩薩の生空智とその果の現在前する時とには、みなただ法執のみを起こすのである、それはすでに我執を伏しているからである、と。 この科段は末那識を述べるところで詳しく読んでいこうと思います。

 明日より、第三能変・起滅分位門・五位無心・滅尽定の説明に戻ります。滅尽定についても無想定と同じく六段十一義をもって説明されています。ここまでは第一段五義を説明しました。

第三能変 第九 起滅分位門 (17)滅尽定について(2)

2017-01-10 22:15:58 | 第三能変 第九・起滅...
  

 第三能変・起滅分位門・滅尽定について
   ― 末那識の分位行相について ―
 末那識おけるに起滅分位門につづいて、分位行相門が説かれます。この分位の行相について、先ず行相の種類を述べます。
 「一には補特伽羅我見(ふとがらがけん)と相応する。二には法我見と相応する。三には平等性智と相応する。」(『論』第五・六右)
 • 一には補特伽羅我見と相応する末那識である。
 • 二には法我見と相応する末那識である。
 • 三には平等性智と相応する末那識である。
 『論』には、三位(三種類の末那識の別)について、それぞれ説明がされています。
 (雑感)
 親鸞聖人は聖徳太子を和国の教主と仰がれ、生涯、太子の恩徳を謝されていました。 今、唯識において五位無心を学んでいますが、大意は自利利他の問題だと思うわけです。そういえば曇鸞は「声聞は自利にして大慈悲を障う」といわれていました。要するに五位における問題は自利のみという、自己中心的な解脱を目指し、そこに執着するということが問題視されたのではないでしょうか。
 仏陀は自利利他円満の覚者です。そうすれば、私の上に自利利他円満するということは、私が仏陀にならなければ成就しないということになります。それでは、大乗仏教の旗印である「上求菩提・下化衆生」は名目だけに終わってしまうのでしょうか。そうではありませんね。仏教の歴史は自利利他円満成就する道を模索してきたのではありませんか。親鸞聖人もその課題をもちつづけながら比叡山での修行に二十年の歳月を費やされたのでしょう。六角堂から上の太子の聖徳太子の御廟に足を運ばれ、三宝に帰することの意味を尋ねられたのではないのかと思うのです。そして師、法然上人に邂逅されたのですね。「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」と『教行信証』の結びに記されています。「本願に帰す」ることにおいてのみ、自利利他円満成就の道があるという感慨を記されたのではないでしょうか。ここに大乗仏教が大乗仏教として成就する道が、すでにして開かれていたことを開示されたのですね。そうとすれば、如来の本願は阿頼耶識と一つのものといえますね。命と共に歩み続けるものが阿頼耶識であり、そこに如来の本願が働き続けているのではないでしょうか。如来の本願は夢物語ではなく、私が生きていることの根底に働き続けている命の事実ではないかと思います。
 参考文献
 「「建仁第三の暦春のころ 聖人二十九歳 隠遁のこころざしにひかれて、源空聖人の吉水の禅房に尋ね参りたまいき。是すなわち、世くだり人つたなくして、難行の小路まよいやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。真宗紹隆の大祖聖人、ことに宗の淵源をつくし、教の理致をきわめて、これをのべ給うに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、飽まで、凡夫直入の真心を決定し、ましましけり。」(真聖p724.『御伝鈔』)
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 分位行相の種類は並存的に一人に並び立つという意味ではなく、修行の階位に応じてその範囲に相違があるということになります。
 (一に補特伽羅我見と相応する) - 人我見の末那識といわれますが、特に補特伽羅(プトガラ)と云われる意味は、生死をくりかえす存在、生命的存在を指し、人と限定されないという意味があります。『瑜伽論』巻八十三に「補特伽羅とは、謂く能く数数(シバシバ)諸趣(五趣のこと)に往収して厭足(オンソク)すること無きが故なり。」と。
 補特伽羅我見と相応する位を説明しますが、ここが二つに分かれ、初は執と相応する末那識の位を説き、後半は所縁の境が説明されます。
 「初のは、一切の異生に相続すると、二乗の有学と、七地以前の一類の菩薩との有漏心の位とに通ず。」(『論』第五・六右)
 (最初に説かれる「補特伽羅我見と相応する」末那識は、すべての異生に相続し、二乗の有学と、七地以前の一類の菩薩との有漏心の位とに通じて存在する。)
 『述記』にも、人我見と相応するということは、「正しくは補特伽羅と云うは五趣に通じて摂したり。唯、人のみには非ざるが故に」と説明されています。

 二に所縁の境が説明されます。
 「彼は阿頼耶識を縁じて補特伽羅我見を起こす」(『論』第五・六左)
 (補特伽羅我見と相応する末那識は、阿頼耶識を縁じて補特伽羅我見を起こすのである。)
 阿頼耶識を認識対象とし、阿頼耶識を実体的な我であると錯誤して我執を起こしているのですね。 
 次科段において、第二、法我見と相応する位について説明されます。 

第三能変 第九 起滅分位門 (16)滅尽定について

2017-01-07 22:07:21 | 第三能変 第九・起滅...
  

 第三能変 起滅分位門 滅尽定について、滅尽定 第一段 第五 釈名
 「偏に受と想とを厭するに由って、亦彼の滅する定と名づく」(『論』第七・十三右) (意訳)偏に受と想とを厭うことによって、七転識を滅する定と名づける。
 七転識の心・心所を滅するを滅定と名づけるのです。その理由は恒行の染汚の心等が滅するからである。また、滅受想定とも名づけられる。滅受想定と云われるのは、遍行の中の受と想とを滅した定で、心所の中で特に心を悩ます感受作用である受と、言葉による概念的思考を引き起こして心を騒がす想とを嫌ってそれら二つを滅するから、滅受想定といわれます。
 二乗と七地以前の菩薩には、色界の四禅と無色界の四地(空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処)とを修して、受と想とを厭うことがあれば,滅受想定と名づけ、「恒行の染汚の心等を滅する」といわれていますが、これは末那識を表しているのです。ですから、末那を滅するといっても、第七識を滅するのではないということです。末那識の滅尽定において学びましたが、人執は滅しても法執は残る、さらに法執を滅したとしても末那を滅したことではないのです。末那は平等智に転ずる識ですね。八地以上の自在の菩薩と如来とには有漏の第六識はないので、阿頼耶とはいわず、阿陀名といい、人執を起こすから阿頼耶というわけです。また法執を縁ずることで異熟識といわれていました。
 次には第二段から第六段の概略です。
 • 第一段 ・ 義の第六 「三品の修を弁ずる」
 • 第二段 ・ 義の第七 「初に修する依地を云う」、二乗と及び七地以前で未自在と名づく。(後に少し述べたいと思いますが、世親菩薩の課題は未自在の菩薩が自在の菩薩と違わないでいられるのは、何故かと問われています。)
 • 第三段 ・ 義の第八 「無漏に於いて分別す」
 • 第四段 ・ 義の第九 「三学に於いて分別す」
 • 第五段 ・ 義の第十 「初起と後起との界地を云う」(初起の位は必ず人中にあり。後には上二界にも現前することを得)
 • 第六段 ・ 義の第十一 「一に見惑を明かす。二に修惑を明かす。」
 まとめますと、
 「謂く有る無学、或いは有学の聖の、無所有までの貪を、已に伏し、或いは離る。上の貪は不定なり。止息想の作意を先と為すに由って、不恒行と恒行の汚心との心・心所を滅せしめて滅尽という名を立つ、身を安和ならしむる故に亦た定と名づく、偏に受と想とを厭いしに由って、亦た彼を滅する定と名づく」(『論』第七・十三右)の文につきるのではないかと思います。
 「有無学」というのは二乗の倶解脱で、「二乗の倶解脱に非ざる者を簡ぶ、入るを得ざるが故に」と、また独覚の中にも滅定を得ざる有り、部行独覚を簡んで有る無学と云われています。「有学の聖」とは、初二果を除くと。有学の中には異生あるを以って聖と簡び、第三の不還果中の身証不還の者がこの定を得るという。
      ―  雑感  ―
 仏道の課題は自利利他成就であることを述べています。二乗及び七地以前の菩薩には人執は滅することはできるが、法執は残るといわれています。二乗地に堕するを菩薩の死と名づく、といわれ、声聞は自利にして大慈悲を障える、ともいわれていますが、このことは何を意味するのかですね。生死解脱を目指して仏道修行をするのですが、その仏道が問題にされているのではないかと思うわけです。いうなれば、七地を超える課題です。『浄土論註』・不虚作住持功徳成就に二つの喩えを出して宿業を生きる凡夫の相が見つめられています。
 「人、飡(さん)を輟(とど) 止也貞劣反 めて士を養い、或は舟の中に舋(つみおこ)すこと有り、金を積みて庫に盈てれども餓死を免れず。斯の如きの事、目に觸に皆是なり。得て得を作す. 」
 この初の喩えは『呉越春秋』巻二・巻四と『魯子春秋』第十に出る故事ですが、飼い犬に手を噛まれるということをいっています。即ち、呉の公子である慶忌が敵の臣下、要離を誤って信じ、食事や給与を与えて養っていたが、要離は有るとき船の中で、隙を見て謀略をめぐらし、公子である慶忌を討ったという裏切りの記事が載っている。
 また次には『前漢書』第九十二・三にでる故事が引用されています。登通という者が、漢の文帝に可愛がられ、大金を貯めるほどの幸せの境涯にあずかったが、逆にこの幸せを受けたことが仇となって次の帝、景帝の時には、この大金は没収され遂に餓死してしまうという、この二つの故事を引き合いにだして、宿業を生きるをえない人間がみつめられているのですね。虚作の相を示しています。凡夫の虚作の相は「虚妄の業をして作して住持すること能わざるに由ってなり」といわれています。このことは、人間の能力の上には利他は成立しないことを示唆しているのでしょうか。自利利他円満成就という大乗仏教の面目は「菩薩は出第五門の回向利益の行成就したまえると」、説かれ、成就は「回向の因を以って教化地の果を証す」と。この因と果は不虚作の相として、「本、法蔵菩薩の四十八願と今日の阿弥陀如来の自在神力とに依るなり」と。この願と力に由って未証浄心の菩薩が上地の菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得ることができるのであると、いわれるわけです。ここにですね。自利利他が円満成就する道が開示されたわけです。大乗仏教に於いて自利と利他の限界が七地として説かれています。修道は第六地(現前地)において般若が現前してくるところで完成するのですが、最後の作心が残るのですね。「菩薩七地の中に於して大寂滅を得ば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず、仏道を捨てて実際を証せんと欲す。」 真如のみを欲して仏道の目的を失い作心を以っての故に菩薩の願心である下化衆生を忘れ、七地の中に埋没してしまうのです。古来、七地沈空の難といわれ、自力の作願・回向では超えることができない、といわれているわけです。
 今日はここまでにします。喩もいいですね。
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第三能変 第九 起滅分位門 (16) 五位無心 (14) 護法正義 (2)

2017-01-05 22:07:45 | 第三能変 第九・起滅...
  
  今日は九つの過失をすべて説明します。少し長いですが整理をしてお読みください。読んでくださるだけでいいと思います。
  第二能変 起滅分位門・伏断分位より、九の過失を挙げて説明します。
 護法の説を述べる。
三位において末那識の体自体が断じられ無くなるというのが安慧の立場でした。「煩悩障のみと倶なり」と、末那識と倶にあるのは人執のみであり、法執は無いと主張しています。これに対して護法は、そうではない、体は有る、義が無くなるのであると(「三の位には染の義なし、体も亦無と云うにあらず)末那識の染汚性がなくなり、無執の末那を考えるのですね。平等性智に転ずる末那(転識得智)です。末那識が無くなるのではなく、智慧に転ずると主張しています」。
 論証として、護法は、安慧の説に対して、九の過失を挙げて批判します。
「有義は、彼が説は教と理とに相違せり。出世の末那をば、経に有りと説けるが故に」(『論』第五・四右)
(護法は安慧の説は教と理に相違する、出世間(無漏)にも末那識は存在すると経(『解脱経』)に説かれているからである。)
これが第一の失で経に違う失といわれています。(違経の失)
「述して曰く、護法等の釈なり。三の位には染の義無しと云う。(第七の)体も亦無しといはむとには非ず。(『瑜伽論』)六十三に云く、問う、若し彼の末那は一切の時に於て思量して転ずといはば、世尊の説くが如し。出世の末那は云何が建立する、此の大論及び此処の文に経に有りと説くと称するに准ずと云へり。下に此の識有りと証するに准ぜば、即ち是れ『解脱経』なり。六十三の中に二解有り。一には名は仮なり。義の如くにあらず。即ち出世の末那は実に思量せざるが故に。二には顚倒の思量を遠離して能く正しく思量するが故にと云へり。浄にも通ず、此れは教に違すと云う、次に理に違するを云う。」(『述記』第五本・八十三右)
末那識の中には出世の末那と呼ばれる末那識もあると述べています。『解脱経』の中に説かれている通り、浄としての末那、染汚の末那が転じて、出世道の浄らかな末那識が有ると説かれているのです。出世の末那には二つの意味が有るのですね。一つには名は仮につけられたものである、ということ。二つには顚倒の思量を転じて正しく思量するという意味があるのです。染汚と浄とは矛盾概念ですが、全く違うものではないのですね。いわば一つのものの裏表という感じなのでしょうか。安慧等の説は末那識の体そのものがなくなると主張していましたが、護法は用はなくなるが、体は有る。末那識の体は有るが出世道の末那にかわっていくというのですね。ここがひじょうに有り難いですね。染汚といわれる煩悩が無駄ではなかったということなのです。煩悩が菩提の水となる、と教えられています。

                無碍光の利益より
                  威徳広大の信をえて
                  かならず煩悩のこおりとけ
                  すなわち菩提のみずとなる

                罪障功徳の体となる
                  こおりとみずのごとくにて
                  こおりおおきにみずおおし
                  さわりおおきに徳おおし

                名号不思議の海水は
                  逆謗の屍骸もとどまらず
                  衆悪の万川帰しぬれば
                  功徳のうしおに一味なり

                尽十方無碍光の
                  大悲大願の海水に
                  煩悩の衆流帰しぬれば
                  智慧にうしおに一味なり (高僧和讃・曇鸞章)

 第二の失は量に違う失といわれます。(違量の失)
対象を認識し論証することに相違する過失(量)といわれています。ここは因明の論式(宗・因・喩)をもって説明されています。第二・違量の失について因明の法式に則って論証しています。
「無染の意識は有染の時の如く、定んで倶生なり、不共なる依有るべきが故に」(『論』第五・四右)
(無染の第六意識は、有染の時のように、必ず倶生である。それは不共なる所依(第七識)があるはずだからである。)
第六意識は有染であれ、無染であれ、第六意識は第七末那識を依り所として動いていくわけです。第七末那識がなくなると、第六意識の依り所が無くなってしまうわけです。こういうところにも安慧等の説は誤りで有ることがわかります。
「述曰。彼れ有学の出世道の現前と及び無学の位との有漏・無漏の第六意識は皆第七の依無しといわば、此れ等の無染の意は定んで倶生なり。不共なる所依有るべし。次第に逆に第八と及び無間縁と種子との等を簡ぶ。宗なり。是れ意識なるが故に、有染の時の意識の如くと。論には因を闕きたり。下の六の証の中に自ら具に量を作れり。故に此には言略せり。」(『述記』第五本・八十三左)
量とは判断・認識の根拠ですね。自らの主張や命題が正当であるとする根拠です。因明では立量といい、「自ら(護法)が量を作る」と記され、「論には因を闕きたり」と。因が記されていないと明記しています。
 宗 - 「有学の出世道の現前と及び無学の位との有漏・無漏の第六意識」(有法)には、不共依(第七識)が有る(法)。
 因 - 「是れ意識なるが故に」
 喩 - 「有染の時の意識の如く」
 この量によって安慧が主張する聖道及び無漏の時にも末那識が存在しないという説は誤りである、という。第六意識は有漏・無漏と問わず第六意識の存在は根本識に依止しているわけです。阿頼耶識を所依とし、末那識を不共依としているわけですから、第六意識が存在している以上、末那識は存在しているはずであるから、安慧の説である、聖道・無漏には末那識は存在しないというのは過失であると批判しているのです。これが違量の失といわれています。
 第三の失(違瑜伽の失・『瑜伽論』に違背する過失)
「論に、蔵識は決定して、恒に一の識と倶転すと説けり。所謂末那ぞ、意識の起こる時には則ち二と倶転す。所謂意識と及び末那とぞ。若し五識の中に随って一の識を起こす時には則ち三と倶転す。乃至或時に頓に五識ながらを起こす時には則ち七と倶転すと云う。」(『論』第五・四右)
(論(『瑜伽論』巻第五十一・大正30・580c)に、
「云何が阿頼耶識と転識等と倶転して転ずる相を建立するや。謂く、阿頼耶識は或いは一時に於いて唯だ一種の転識と倶に転ず、所謂末那識なり。何となれば此の識の我見、慢等と恒に共に相応し思量する行相は、若しくは有心位にまれ、若しくは無心位にまれ恒に阿頼耶識と一時に倶に転ずると、阿頼耶識の見分を縁じて以てその相分境界と為し、我を執し慢を起こし思量する行相とに由ればなり。或いは一時に於いて二識と倶に転ず、謂く末那識及び意識なり。或いは一時に於いて三識(末那識・意識と前五識の中の、いずれか一識の合計四識)と倶に転ず、謂く五識身の随の一、転ずる時なり。或いは一時に於いて四識と倶に転ず、謂く五識身の随の二、転する時なり。或時は乃至七識と倶に転ず、謂く五識身和合して転ずる時なり。」
「蔵識は必ず恒に一つの識と倶転する」と説かれている。いわゆる末那識である。また、意識の起こる時には、すなわち蔵識は二の識と倶転する。いわゆる末那識と意識とである。またもし前五識の中で、いずれかひとつの識を起こす時には、蔵識はすなわち三の識と倶転する。乃至、或時に頓に五識同時に起こす時には、蔵識はすなわち七と倶転すると、説かれている。)
 要旨は、第八阿頼耶識は、必ず第七末那識と倶に活動するということです。単独には活動しない、第六識や前五識もまた単独には活動することはなく、必ず第八阿頼耶識と第七末那識の二識を依り所として活動することが述べられています。「阿頼耶識と末那識は恒に倶に転ず」という意味は、恒とありますように、末那識が無くなると、阿頼耶識と倶転するとは説かれないはずである。このことにおいても安慧等の主張は『瑜伽論』の所論に相違している過失があるということなのです。
「述して曰く、下に(『述記』第七本)まさに知るべし、(『瑜伽論』第五十一及び解深密経(巻第一)なり。七十六に当る。」(『述記』第五本・八十三左)
「違瑜伽の失」の二、『瑜伽論』の文によって説明され、安慧等の説を論破する。
「若し滅定に住するときには、第七無くば、爾の時の蔵識は識と倶なること無かる応し、便ち恒に定んで一の識と倶転するに非ずなんぬ。」(『論』第五・四左)
 若し滅尽定に入っているときには、第七末那識が存在しないというのであれば、その時の第八阿頼耶識は他の識と倶に存在するということが無くなってしまう。そうすれば、すなわち「阿頼耶識は恒に必ず一つの識と倶転す」と説かれている『瑜伽論』の記述と相違することになる。従って、安慧等の説は誤りである。)
 『瑜伽論』の記述は昨日述べましたが、「阿頼耶識は或いは一時に於いて唯だ一種の転識と倶に転ず、所謂末那識なり。」 末那識は、いついかなる時にでも、阿頼耶識と倶転していると述べられているように、安慧等の説である、滅尽定においては末那識は存在しないという主張は誤りであるというのである。
 「述して曰く、此れは前に滅定の中に二乗には法執無く、大乗の位の中には浄の第七無しと説きつる者を難ず。論に恒に一識と倶なりという言を説けり。既に是れ恒にも非ず亦是れ決定にも非ず。此の位に無きが故に。前の師の説きて云わく、此れは多分に拠って云う。若し爾らずんば、定んで恒に倶なるものには非ざるが故に。」(『述記』第五本・八十四右)
 『瑜伽論』巻第五十一の記述より 「聖道に住せる時にも浄位の末那識が存在する」 ことから、安慧の主張は誤りであると論破する。
 「聖道に住せる時に、若し第七無くんば、爾の時の蔵識は、一の識のみ倶なる応し、如何ぞ、若し意識を起せる爾の時の蔵識は、定んで二と倶転すと言う可き。」(『論』第五・四左)
(聖道に入っている時に、もし第七末那識が存在しなかったならば、その時の第八阿頼耶識は一つの識(無漏の第六識)とのみ倶に存在することになる。ではどうして、『瑜伽論』に「若し意識を起せる爾の時の蔵識は、定んで二と倶転すと」、説かれているのであろうか。) 
「述して曰く、此れは聖道に随って法執と及び浄との第七無しという者を難ず。第六の意起こる時には唯一識とのみ倶ならば、如何ぞ二識倶に転ずと言う可き。前の師の若し多時に拠って語すと云はば、」(『述記』第五本・八十四右)
 聖道とは、無漏智を起こす位で、出世道のことで、末那識と恒に倶に相応する四煩悩は染法であって、悪でもなく善でもない無記性であるが、聖道を障碍するものであり、無漏智を覆うことから有覆という。聖道を起こす位に在って、法執のある末那識と浄位の末那識とが存在しないならば、どうして、『瑜伽論』に「若し意識を起せる爾の時の蔵識は、定んで二と倶転すと」、説かれているのであろうか、『瑜伽論』の記述は、第六意識の他に阿頼耶識と倶転するもう一つの識が存在することを示しており、その一つが末那識であるという。つまり意識が起こる時には阿頼耶識と末那識との合計三識が倶転することになる、と。従って、安慧等が主張するように、聖道には法執のある末那識と浄位の末那識は存在しないとするのは誤りであるというのである。
 このように教えに触れることに於て自己に目覚めていく。自己に目覚めると云うことは教えに触れることを通して可能なわけです。教法ですね。法によって生み出された人の言葉を通して自己自身を成就するのです。安田先生は次のように述べられていました。
「だからして、我々が我々自身に目を開くためには、まず法から生まれた人、つまり、仏ですね。仏法が仏から始まるのは、そういう意味なんです。法から生まれた仏の言葉しか我々には縁がない。そして、仏の言葉を通して法に触れる。直接触れるのなら、何も指導者はいらんわけですよ。直接法に触れることはできんのや。法に目覚めた人の言葉を通して、法に触れてみたらその法は自分にあった。自分の法だったんやわね。法から出た人の言葉で、法に目を覚ました。覚ましてみたら、法は自己の法だった。」 (『解深密経』講義より)
 第四の失・ 違顕揚の失を述べる。(『顕揚論』の記述に相違する過失を挙げて、安慧等の説を論破する。)
「顕揚論に説かく、末那は恒に四の煩悩と相応す、或いは彼に翻ぜると相応す、恃挙(じこ - おごること)するを以て行と為し、或いは平等の行なりと云う。故に知んぬ、此の意は染と不染とに通ず。」(『論』第五・四左)
(『顕揚論』巻第一に「末那識は、恒に四つの煩悩と相応す」、或いは「四煩悩に翻(ほん - ひるがえすこと、反対の性格)ずるものと相応す」、或いは「恃挙することを以て、その働きとする」、或いは「平等の働きである」と説かれている。
「意者。謂從阿頼耶識種子所生還縁彼識。我癡我愛我我所執我慢相應。或翻彼相應。於一切時恃擧爲行。或平等行與彼倶轉。了別為性。」(大正31-480c)(末那識というは、意に謂く、阿頼耶識の種子より生ぜられて還って彼の識を縁ず。我癡と我愛と我我所執と我慢と相應す。或いは彼に翻じて相応す。一切時に於て恃擧するを以て行と為し、或いは平等に行ず、彼と倶転して了別するを性と為すと云えり。」故に知られるのである。この第七末那識は染と不染とに通ずることを。(不染の末那識が存在することを以て、安慧等の説は誤りであるとする。))
「四煩悩に翻ぜる」 - 「平等の行(平等性智)」があるから、四煩悩に翻ぜると相応すと述べられ、「煩悩と相応する時」は恃挙の行があるからである、と説明されます。平等の行とは、具体的には、遍行の心所の五と別境の心所の五と善の心所の十一の合計二十一の心所が、無漏の第七末那識と相応するといわれています。
 以上の記述より染(有漏)の末那と不染(無漏)の末那が存在することが知られ、無漏の末那識は存在しないとする安慧等の主張は『顕揚論』の記述にも相違することになる。
 「述して曰く、彼の第一の説なり(『顕揚論』の説)。復た如何が通ずるや。彼(四煩悩)に翻ぜると相応とは、平等の行なるが故に。煩悩と相応するときは、恃擧の行なるが故に。
 然るに引く所(『瑜伽論』巻第五十一の文)の識の起こる多少の中に、無学の五識を起こすときは唯だ六識のみ倶なり。七と倶に非ずと云う難の文有るべし。意は蔵識というの言有るが為の故に説かざるに似たり。無学には蔵識と云うこと無きが故に。」(『述記』第五本・八十四左)
「然るに」(『述記』の了見)『瑜伽論』巻第五十一の記述の意味するところは、あくまでも末那識が有漏の場合の所論であって、それは多時によって説いているものである。聖道と言ったような少時で説いたものではない、と。従って少時においては末那識は存在しないというのが安慧等の反論である。それに答えて『顕揚論』の記述を挙げ、安慧等の反論は成立しないと破斥する。
 「疏に、然所引識というより無蔵識故に至るは、『瑜伽論』に、蔵識は或いは二と転ずる等と言うを以て、所以に此の論に無学を難ぜず。彼の無学には蔵識無きを以てのゆ故に。有る義は文略して説かずと云う。詳らかにして曰く、略と為すに非ざるなり。大論に識の多少を引て、之を以て難と為すが為なり。本論に既に蔵識を挙げて法と為せり。所以に無学を難ずることを得ず。故に疏を正と為す。若し彼の文を取りて理と為さずんば、無学を難ぜんに即ち傷無きなり」(『演秘』第四末・二十六右)
 末那識は恒に四煩悩と相応する、しかしまた、恒に四煩悩を翻じて平等の行も働いているという不即不離の関係にあると教えているわけですね。四煩悩と相応するということは、恒に「恃挙することを以て行と為す」と云われていますように、慢心をもって人を見下し、自分の方が偉いと思い上がっている感情ですが、その感情と共にですね、その感情と一体となって平等の智慧が働いているということを教えています。「出世の末那」は有るんだと。
 第五の失は、違七八相例の失(第七識と第八識の例が相違する過失)、まず文を引いて過失を顕す。
「若し論に、阿羅漢の位に染の意無しと説くに由るが故に、便ち第七無しと云はば、論に、阿羅漢の位に蔵識を捨すと説くに由るが故に、便ち第八も無かる応し。」(『論』第五・五右)
(若し『論』(『瑜伽論』)に「阿羅漢の位に染の意(末那識)が無い」と説かれていることから、すなわち阿羅漢の位には第七末那識は存在しないというのであれば、同じく『論』に「阿羅漢の位に蔵識(阿頼耶識)を捨す」と説かれているのだから、すなわち第八阿頼耶識も阿羅漢の位に存在しないはずであることになる。)
 『瑜伽論』巻第六十三に「阿羅漢の位には(末那識は)有ることが無い」と説かれていることを以て、阿羅漢の位には末那識が無いと主張するのであれば、『論』に「阿羅漢の位(無学の身)には阿頼耶識を捨す」とも説かれている。そうであれば、安慧等は、阿羅漢の位には第八阿頼耶識も存在しないと主張しなければならないはずである。しかし、安慧等の主張は、第八阿頼耶識は存在し、第八阿頼耶識は存在しないとは主張していない。
 尚、『瑜伽論』巻第六十三の記述には当該の文章は無く、巻第五十一に「転依の無間にまさに已に阿頼耶識を断ぜりと言うべく、此れ断ぜるに由るが故に、まさに已に一切の雑染を断ぜりと言うべし。まさに知るべし、転依は相違に由るが故に能く永く阿頼耶識を対治すと。」記述され、転依の時に阿頼耶識は対治される、即ち有学から無学へと転依した時に、無学の身には「阿頼耶識は捨す」と述べられているのです。
 「述して曰く、若し大論六十三に阿羅漢の位には有ること無しと説くに由るが故に、便ち第七無しといはば、則ち無学の身には第八無かるべし。聖に説なるを以ての故に、何ぞ第八を愛して便ち有りと許し、第七をば憎んで無しと言うや。染の意無しということ倶に許すを以ての故に。」(『述記』第五本・八十四左)
 上の『論』の言をうけ、第八阿頼耶識に例をとって安慧等の説を論破します。
 「彼既に爾らず、此れ云何ぞ然らん。」(『論』第五・五右)
 彼(第八阿頼耶識)は、すでに、そうではない、此れ(第七末那識)はどうして、そういえるのであろうか。)
 『瑜伽論』の記述は「断ぜり」・「対治す」と述べられていますが、用はないということを言っているのですね。体は有ると。同じく末那識についても、末那識の用はないが、体はあると。このように阿頼耶識についても、末那識についても体は存在するのですね。そうであるならば、末那識だけが何故、(阿羅漢の位には末那識は存在しないという)例からはずれるのであろうか。そのようなことはないであろう、と。よって安慧等の説は誤りであると破斥します。
  第六は、四智不斎の失(四智に矛盾が生じる過失)
「又諸の論に言く、第七識を転じて平等智を得と云う。彼も余の智の如く、定めて所依の相応の浄識有るべし。此の識無くんば、彼の智も無かるべし。所依を離れて能依有るものには非ざるが故に。」(『論』第五・五右)
(また、諸の論に説かれている、「第七識を転じて平等性智を得る」と。平等性智も他の智のように必ず所依となる相応の浄識が有るはずである。従って、この識が存在しないのであれば、彼の智も存在しないであろう。何故ならば、所依を離れて能依はないからである。)
 「諸の論」とは『大乗荘厳経論」巻第三・『摂大乗論無性釈』巻第九等を指す。「」荘厳論』と『摂論』第九とに第七を転じて平等智を得すと云へり。平等智も定んで所依識有るを以て、故に第七の浄有るべし。」(『述記』第五本・八十五右)
 『大乗荘厳経論」巻第三に「轉第七識得平等智」(大正31・607a)と、『摂大乗論無性釈』巻第九に「轉染汚末那故得平等性智」(大正31・438a18)と述べられています。『論』に末那識と平等性智の関係を末那識を所依とし、平等性智を能依とし、末那識を離れて平等性智ない、と述べられているのです。
「量に云く、平等性智も定んで別の所依の識有るべし。転じて得すと説とくが故に、余の三の智の如くと。第七もし無くんば即ち平等智も亦応に有に非ざるべし。所依の心に離れて能依の智有るものに非ざるが故に。」(『述記』第五本・八十五右)
「余の三の智」は仏の四智を指しています。即ち、大円境智・平等性智・妙観察智・成所作智の四つです。安慧等の主張ではこの四智に矛盾が生じる過失が有るというものです。

 (注)四智について(転識得智)
 •有漏の前五識を転じて無漏の成所作智を得る。作すべきことを成就する智慧
 •有漏の第六識を転じて妙観察智を得る。妙にものごとを観察する智慧。自相と共相とを把握する智慧で、総持(無量の教えを忘れずに心にとどめる)と定門(心を一つの対象に集中せしめた状態)と功徳(六波羅蜜多・十力・四無畏などの功徳)とを身につけ、説法の会座において無辺の働きを示し、すぐれた教えを垂れて人々のあらゆる疑問を断じることが出来る智慧のこと。
 •有漏の第七末那識を転じて無漏の平等性智を得る。深層的な自我執着心である末那識が転じて、自と他は平等であると観る智慧。あらゆる存在は一味平等であると悟り、大慈悲心を起こして人々の願いに応じて他受用身と他受用身の国土とを示現する智慧。
 •有漏の阿頼耶識を転じて無漏の大円境智を得る。阿頼耶識の中からあらゆる汚れが取り除かれ、塵一つない磨かれた鏡のように透き通った心をいう。法界を照らし、自受用身と自受用身の国土を示現し、他の三智を生じる働きがある智慧。
四智の説明でもわかりますように、第七末那識が転じて平等性智が得られるわけです。安慧等が主張するように、第七の浄識は存在しないとするならば、平等性智も存在しないことになるのです。しかし、平等性智は実際に働き、また、その存在は認められていることであり、能依である平等性智が存在する以上、その所依となる第七の浄識が存在していることは明白であって、安慧等の主張は誤りである。安慧等の主張であるならば、四智の内、平等性智のみが所依の識を持たないと云うことになり、四智内での矛盾が生じるというというものです。
 「彼は六転識に依るとは説くべからず。仏には恒に行ずること鏡智の如しと許せる故に。」(『論』第五・五右)
 (彼(平等性智)は六転識に依るとは説くことはできない。何故なら、仏が恒に行ずることは、大円鏡智のようであると承認されていることだからである。)
仏の平等性智は恒行であり、あたかも大円鏡智のようであると承認されていることから、六転識に依るとは説くことはできない。六転識は恒行ではなく、間断し転易することがあるからである。恒行であるということは、間断・転易がある六転識であってはならないのです。恒行であるということから、第七末那識が、平等性智の依り所となるということを明らかにしています。
尚、この科段は「転救を難ず」(「転救を破す」)という一段になります。
• 転救(てんぐ) - 論敵の非難に対して別の角度から自説が正しいことを述べること。
 安慧等の反論(を想定して)、再度論破する一段です。安慧等の反論は『論』に記述はなく、『述記』に記述されています。
 「述して曰く、また彼若し経に平等智と言へるは、第八と倶には非ず。第八と倶なる者を鏡智と名ける故に。即ち第六にのみ依る。此れが中には唯だ第六識のみを取るなり。」
 (経典に平等性智といえるのは、第八識と倶に働くものではない。第八識と倶に働くのを大円鏡智と名づけるのである、と。
 (第一釈) 第六識のみに依る。この中には、ただ第六識のみを取って、平等性智の依り所となる。
 (第二釈) 「又六識の中に随って一識による能依の智なり」(第六識か前六識のいずれか一つの識による能依の智である。第六識か前六識のいずれかの一つの識が平等性智の依り所となるということ。) 
 従って、護法の論法は成立しないと反論します。それに対して護法は 「然らず」、そうではない、と。『仏地経』巻第三(『仏地経論』巻第三・大正26-302a19)に、
 「平等性智者。謂觀自他一切平等大慈大悲恒共相應。常無間斷。建立佛地無住涅槃隨諸有情所樂。示現受用身土種種影像。妙觀察智不共所依。如是名爲平等性智。」 (平等性智というは、謂く、(1)自他の一切平等を観ず。 (2)大慈大悲、恒に共に相応し常に間断無し。 (3)仏地無住涅槃を建立す。 (4)諸の有情の所楽に随って受用身土の種々影像を示現す。 (5)妙観察智と不共所依なり。)と。
 「『仏地経』の中に此の智品は仏位に恒に行ずと説けることをば、即ち汝共に許せり、仏には恒に転異無く、行ずること鏡智の如しと許すが故に。六識の智に非ず。六識の智は転異すること有って恒ならざるが故に。又間断するを不行と名づく。此れは間断するに非ざるを以て恒行と名づく。下の(『述記』第十末)の平等智の処に説くが如し。」(『述記』第五本・八十五左)
 『仏地経』に説かれていることは安慧も認めていることである。仏は恒に転異することがなく、その行は大円鏡智のようである。それは前六識のいずれかの智慧ではない。前六識の智慧は転異することがあり間断がある。間断があることを不行といい、間断のないことを恒行と名づけ、平等性智は間断がないので、恒行である。六識或いは前六識のいずれかの識を以て平等性智の依り所となるという安慧等の説は誤りであるということを明らかにしています。
 第七は、第八無依の失(第八は依無きの失)
 第七の過失は、第七末那識が無学位(阿羅漢)において存在しないとするのであれば、第八阿頼耶識は存在の根拠(所依)をもたないという過失があると述べています。
 「又無学の位に若し第七識無くんば、彼の第八識は、倶有依無かるべし、然も必ず此の依有るべし、余の如く、識の性なるが故に。(『論』第五・五左)
 (また、無学の位に、もし第七識が存在しないというのであるならば、彼の第八識は、倶有依がないことになってしまう。しかし、第八識には、必ずこの倶有依はあるはずである。何故ならば、他(第八識以外の七識)のように、識の性だからである。)
 「識の性なるが故に」とは、識が識である限り倶有依、存在する為の依り所があるはずである、ということ。
 「述して曰く、無学に此の識無くば、第八はまさに依無かるべし。若し八は依無しと許さば比量に違する過あり。汝が無学の位の第八は必ず現行の倶有依有るべし。是れ識の性なるが故に。余の七識の如し。彼の師も第七は第八を以て依と為すと許すが故に。」(『述記』第五本・八十六右)
 第七識と第八識とは不可分の関係であるということ。染識であれ、浄識であれ、第七識は第八識を所依とし、第八識は第七識を所依としている。もし、阿羅漢位において我執は永断しているとはいえ、第八識が働く為には、第七識がなければならない。第七識がないならば、第八識は働けないということです。第七識が染識の場合には、我執の心が第八識を支え、浄識に転じた場合、第八識も転じて大円鏡智という清浄心になる。安慧等の主張であるならば、この第七と第八の関係が壊れてしまい、第八識には所依となるべき識がないことになり、第八識は働くことが出来ないという過失がある、と護法は答えます。
 第八は、二執不均の失(人・法二執が均しくならない過失)
 「又未だ補特伽羅無我(ふとがらむが)を証せざる者(ひと)は彼の我執恒に行ずるが如し。亦未だ法無我を証せざる者にも、法我執恒に行ずべし。此の識若し無くんば彼は何の識にか依らん。」(『論』第五・五左)
 (また、未だ 補特伽羅無我を証しない者は、末那識の我執が恒に起こるように、未だ法無我を証しない者にも、法我執が恒に起こるのである。この末那識がもし存在しなかったならば、彼(法執)はいずれの識によって起こすのであろうか。)
 (注) 二無我 - 「諸の菩薩は実の如く有為・無為の一切諸法の二無我の性を了知す。一には補特伽羅無我性、二には法無我性なり。諸法の中に於ける補特伽羅無我性とは、謂く有法に即して是れ真実に補特伽羅あるに非ず、亦た有法を離れて別に真実の補特伽羅あるに非ざるなり。諸法の中に於ける法無我性とは、一切の言説の事の中に於て、一切の言説の自性の諸法都べて所有無きなり。是の如き菩薩は実の如く「一切の諸法には皆な我有ること無し」と了知す。(『瑜伽論』巻第四十六)
 (補特伽羅(生命的存在=我)は固定的・実体的な存在ではないという理と、法(存在の構成要素)は固定的・実体的な存在ではないという理であり、言葉を関係づけて、法とは、言葉で語られ実体として存在すると考えられたものであり、法無我は、そのような法は固定的・実体的な存在ではないという。)

                ―      ・      ―

 「述して曰く、又難ずらく、凡夫等の未だ人空を証せざるを以て(第七)人執恒に行ずるが如し。二乗の人等も未だ法空を証せざるを以て(第七)法執も亦まさに現前すること有るべし。例と為ること均しきが故に。若し此の識無くば法執の恒に行ずるは(第七識を除いて)何の識にか依る。二乗には定んで有るが故に。」(『述記』第五本・八十六右)
 補特伽羅無我を証していない者は、恒に人執(我執)を起こしている。法無我を証しないで阿羅漢となった二乗の無学位では、人執を断じているが法執は存在しているのである。このため、第七末那識の我執が恒に起こっているのと同じように、二乗の無学位や菩薩には未だ法空を証しないことを以て、法執が恒に起こるものである。このため、第七識が存在しなかったならば、どの識に依って法執が起こるのか、二乗や菩薩には必ず法執は存在する、と述べられています。
 「恒に法執を起こすと云うは、量(西明量)に云く。法執未だ法空を証ぜざる位には、応に恒に行ずべし。二執随一に摂するが故に生執の如し」(『樞要』巻下本・二十二右)
 これに対し、次科段で述べられるように、法執は、第七末那識を依り所とするのではなく、第八阿頼耶識を依り所とするという反論を予想して、この主張を破斥しています。
 「第八には依るに非ず。彼は慧無きが故に。」(『論』第五・五左)と。
 「第八に依るに非ず。彼は慧無きが故に」(『論』第五・五左)

 (法執は第八阿頼耶識に依るのではない。何故なら第八阿頼耶識には慧が無いからである。)
 安慧は八識すべてに執着の働きが有ると主張し、阿頼耶識にも法執は有るという説を立てている。しかし執着は第八阿頼耶識に依るとは説かれていない。慧の心所がない阿頼耶識には執着は無いことから法執は無いと護法は論破しています。
 「彼が慧無きが故に」という「慧」は別境の心所の中の慧を示しています。
 有漏の阿頼耶識には別境は働かない・偏行だけが働きます。阿頼耶識は純粋ですから何事にも分別しないのですね。阿頼耶識が転依(大円鏡智に)しての無漏位には別境の全てが働くのです。これは願生という欲生心から無分別智まで一筋の道なのですね。第七末那識は転依(平等性智に)しての無漏位にはすべての別境は働きますが、有漏位では慧の心所だけが働くのです。何故かと言いますと末那識は我執ですから自他を簡びわけるのですね。自分の損得だけを思いつづけていますから、自分にとって損をしないように簡択(選ぶ)するわけです。その心所が慧です。」
 「述して曰く、彼(安慧)は、八識に皆執有りと説くが故に。執は第八識に依るとは説く可からず。第八識と倶には慧として執すること無きが故に、八と倶なるに非ざるなり。」(『述記』第五本・八十六右)
 安慧は八識すべてに執着の働きが有ると説いているのですね。ですから当然に第八阿頼耶識に法執は存在するという説を立てているわけです。第七末那識が存在しなくても法執は存在すると、安慧は主張して、護法の論破を再論破しているのです。それに対して護法は阿頼耶識には慧が存在しない、即ち第八阿頼耶識には執着は存在することはなく、従って法執は存在しないと。法執は第八識に依って起こるとは説くべきではない、第八識に依って起こるのではないのだから。
「此れに由って、応に二乗の聖道と滅定と無学とには、此の識恒に行ずと信ずべし。彼いい未だ法無我を証得せざるが故に。」(『論』第五・五左)
 此れに由って、二乗の聖道と滅定と無学の位には法執が有る、即ちこの第七末那識が恒に起こると信ずべきである。彼(二乗の聖道と滅定と無学位)は、未だ法無我を証得していないからである。)
 二乗の聖道と滅定の位には法執が残るわけです。未だ法空を証得していないからですね。従って二乗の聖道と滅定と無学位であっても、法執の依り所となる第七末那識が働き、恒に活動しているのであるといい、二乗の聖道と滅定と無学位には第七末那識は無いとする安慧の主張は誤りであると破斥しています。「二執均しからざるの失」(二執不均失)といわれています。
 第九の失は、「五と六と同に非ざる失」(五・六非同失)
 又諸の論の中に五を以て同法として、第七有って第六が依と為ると証せり。」(『論』第五・五左)
(また諸の論の中では、五識(前五識)を以て同法として、第七末那識が第六意識の所依となることを証明している。)
 諸の論とは、『瑜伽論』巻第五十一(大正30・580b)と『摂大乗論』(無性摂論、巻第一(大正31・384b)を指す。
 「又由有阿頼耶識故得有末那。由此末那爲依止故意識得轉。譬如依止眼等五根五識身轉。非無五根。意識亦爾非無意根。」(『瑜伽論』巻第五十一)
 (又阿頼耶識有るに由るが故に末那(識)有ることを得。此の末那(識)を依止と為る由るが故に意識転ずることを得。譬へば眼等の五根に依止して五識身転じて五根無きに非ず、意識も亦爾なり意根無きに非ざるが如し。)
 又五同法亦不得有成過失者。此破唯立從六二縁六識轉義。眼等五識與彼意識有同法性。」(『無性摂論』巻第一)
 五識は同じ識であるように、第七末那識が有って第六意識の所依となると述べています。第六意識の所依が第七識であって、第七識を所依として第六意識は働いていると云うことです。前五識の所依は第六識であるように、第七識があって始めて第六識が働くのであり、前五識と第六識は同法であって、安慧の主張では前五識と第六識の間には矛盾が生じ、相違が出てくる過失があると論破します。
 『唯識論講義』(花田凌雲著)に 「五識を以て同法(同喩)として、第六識の倶有所依である第七識のあることを証している。即ち第七識が第六識のために所依となるのは、恰も五根が五識のために所依となるが如きであると。ところが安慧論師の云うように、若し三位に第七識が無いとすれば、その位の第六識には所依がないこととなり、五識を以て同喩となうことは出来ないこととなる。従って若し安慧論師の説に拠れば、彼の二論所立の論理に過失を生ずることとなる。このように第七の識体を否定することになれば、諸の過失あることを免れない。故に護法論師の主張するように、三位には染汚の末那はないけれども、無染汚の第七識な恒にあって現行することを知るべきである。」 と述べられています。
 「聖道の起こる時と及び無学の位とには、若し第七は第六が依と為ること無くば、所立の宗と因とに便ち倶に失有りぬ。」(『論』第五・五左)
 (聖道の起こる時の有学位と無学の位とにおいて、若し第七末那識が第六意識の所依となることがないのであれば、所立の宗と因とに、倶に過失が有ることになる。)
 所立 - 立てられたもの。証明されるべきもの。
『述記』第五本・八十六左の記述より
「若し聖道起こって有学と及び無学とに在るとき、第七、六が依と為ること無くば、彼の二論の所立の宗と因とに応に倶に過有るべし。」(聖道の起こる時の有学位と無学の位とにおいて、若し第七末那識が第六意識の所依となることがないのであれば、先に挙げた二論の立てる主張の宗と因とに過失が起こることになる。)
 別して過失を顕す。 総じて宗に違する過失を述べる。 「謂く、若し総じて第六意識には必ず倶生の不共の増上の別依有り。即ち自宗一分の宗に違する過有り。
 (宗) 第六意識には必ず倶生の不共の増上の別依有り、
 (因) 六識を摂むる故に、
 (喩) 五識の如し。
 「自ら聖道と及び無学との意は所依無しと計するが故に。若し聖道と及び無学の意識を除き、余の意識は必ず此の依有りぬと言はば、即ち比量相違の過有り。此の一分の意識の依無きを以て余の依有ら令むる者の與には、比量と為すが故に。
 比量相違の過失とは、
 (宗) 聖道と及び無学の意識を除き、余の意識は必ず此の依有り、
 (因) 三位を除いて六識を摂むる故に、
 (喩) 五識の如し。
 因の過失 「六識を摂するが故に」
 「若し六識に摂むる故を以て因と為して前の総宗を成ぜば、此の因に即ち自不定の過有り。五識の如く六識に摂するが故に、意識が依有りとせんや。汝が聖道と無学との意識の如きや、六識に摂むるが故に。意識が依無しとせんや。若し六識に摂むるが故の因を以て後の宗を成ぜば、便ち自の法自相相違と決定相違との過失有り。
 謂く、彼の一分の意は定んで依無かるべし。六識に摂むるが故に。汝が聖道と無学の意識の如し。故に第七無くば摂論と大論との比量の宗・因に皆此の失有り。因明を善くする者、応に乃ち之を知るべし」(『述記』)
 「言く、「所立の宗と因とに便ち倶に失有り」と。疏に云く、自法自相相違決定有りとは、彼の因を改めて云く、聖道等を除いて意識倶有依無るべし。是れ意識なるが故に。三の位の意識の如し。因は前を改む。前因を亦応に三の位を除いて摂するが故にと云うべし。不定に過無し。樞要に云く。又因に自の法自相相違有り。無学の定にあらざる意を以て、同法と為すが故に。此の量意の云く、無学の人には恒に第七無きを定にあらずと言うは、滅定に在って第六識無からんを除いて滅に入らざる時の第六意識を取って同法と為すが故に。然るに理を以て論ぜば、此れが中の宗に二あり。一には総じて第六意識を立つ。二に三の位を簡去して余の第六を取る。因に亦二有り。一に総じて因の六識に摂するが故にと云う。二に別の因亦三の位を簡んで三の位を非す。余の六識に摂すと云う。其の所応に随って、二の因を以て各々二宗を成ず。過思知るべし。」(『了義燈』第五本・五右、大正43・746a)
 阿羅漢位に第七末那識が永断すると説かれていることは、
「染の末那を断すと云う中に、唯だ説きて畢竟いい染を断するを捨と名づくと云う。畢竟じて伏するを捨と名づくとは説かざるが故に。」(『樞要』巻下本・二十二右)
「三位に末那無し」ということは、染汚の末那識について述べられているのです。四位(三乗の無学位と不退の菩薩)に阿頼耶識は無いといっても、第八識そのものがないわけではない、というのと同じであると論じています。三位に末那無しと説かれていても、末那識の体そのものが無くなるというものではない、と。安慧の主張のように、若し三位に第七末那識が無いとすれば、その位の第六識には所依がないことになり、、五識を以て同法とすることは出来ないことになるのですね。安慧の主張であれば、『瑜伽論』や『無性摂論』に説かれる所立の論理に過失が有るといはざるを得ないのです。しかし第七識の識体を否定することになれば、諸の過失が生じるのです。五根が五識の所依となるように、第七識が第六識のために所依となると知るべきである、といいます。
「或は五識も亦依無きとき有るべし。五いい恒に依有らば、六も亦爾るべし。」(『論』第五・六右)
 (あるいは、前五識もまた所依が無いときが有ることになる。また前五識に恒に所依が有るならば、第六意識にも恒に所依が有ることになるであろう。)
 前五識の所依について説明される。前節で述べられた二の論書の記述が正しく、また安慧等の主張(聖道や無学位においては、末那識が存在しない)が正しいというのであれば、前五識にもまた所依がないことになる。
「汝が五識も亦依無き時有りと許すべし。六識に摂するが故に。」と。若し三位に第七識が無いとすれば、その三位の第六識には所依がないことなり、第六意識と同様に前六識の所依も無いことになる。第六識も前六識の範疇だからである。
「汝が意識の如し。此れは自宗相違の過失有りとも他宗に就くというを以てなり。然るに返難を成ぜり。
 五識は恒に依有らば、意識も亦爾るべし。前難を結成するなり」(『述記』第五本・八十七左)
「他宗に就く」ということは、論証論拠が違う、或いは認めていない他宗には主張の正当性を論証する根拠とはならない。
 安慧等の説では前五識には所依があると認めている。第六意識もまた同様である。護法も安慧も、第六意識は、いかなる時にあっても、第六意識が存在する為には、阿頼耶識と末那識を所依とする必要としていることは、共に認めているところである。特に末那識を第六意識の不共依とし、第六意識が存在する為には、不共依である末那識が存在しているはずである。五識も第六意識も前六識の範疇に有り、五識に恒に所依が有ると承認するのであれば、第六意識にも亦恒に所依が有ると承認されなければならないはずである。そして第六意識の所依となるのは第七末那識であることになり、聖道等に第七末那識が存在しないとする安慧等の主張は誤りであり、また自説との矛盾をきたすことになる。というのである。
 第二の違量の失に於いて、「無染の意識は、有染の時の如く、定んで倶生なり不共なる依(第七識)有るべきが故に」と説かれていました。これは護法論師も安慧論師も共に認めていることなのです。相手を理解させる為に用いられる論理に宗・因・喩の三支作用を以て、自説の論理の正当性を論証しているのです。護法が安慧の主張を誤りであるとする主張命題は、次のようになります。
(宗) 「有学の出世道の現前する時と、無学の位の有漏・無漏の意識には、不共なる依有り。
(因) 「何故なら意識には違いがないからである。」
(喩) 「有染の時の意識の如し」
 従って、聖道にある時などに、恒に第六意識の所依となるのは、恒に活動しつづける第七末那識であり、安慧等が主張する「三位に末那無し」と、末那識の体も無くなるという安慧説の矛盾を突き論破しています。
 尚、安慧等の説を論破する為に、現量・比量という因明学(論理学)をもって論書では説明されています。
 総じて第九全体の過失を結び、会通の解釈を行う一段。
「是の故に定めて無染汚の意有って、上の三の位に於て恒に起こりて現前す。彼こに無しと言うは、染の意に依りて説けり。四の位に阿頼耶識無しと説けども第八無きには非ざるが如し。此れも亦爾るべし。」(『論』第五・六右) 
(この故に、必ず無染汚の末那識が存在し、先に述べた三の位に於て恒に起って現前するのである。論書等に末那識が無いといっているのは、染の意(染の末那識)に依って説いているのである。四の位に、阿頼耶識は無いと説かれているけれども、第八識の体が無いというわけではないようなものである。この場合も同様である。)
『論』第五三右に「阿羅漢と滅定と出世道とには(末那識は)有ること無し。」と説かれ、又『雑集論』等に於て、三位に於て末那識が存在しないと説かれていることを以て、安慧等は三位には末那識そのものが存在しないと主張しているのです。しかし護法は先に述べてきたように、安慧等の主張の九つの過失を挙げ論破し破斥しているのです。そして全体を結釈し、染汚の末那識は永断するが、末那識の体は残り、浄の末那識(無染汚の末那識)は存在し、活動する(現在前する)と述べています。
 そして注意点として『述記』には、無染汚の末那識について二乗と菩薩の位における差異を記しています。
 「述して曰く、故に無染の意有り。上の三の位に於て亦現前す。二乗の三の位には法執の無染有り。菩薩の三の位には或は浄無漏の無染心起こる。是れ所応に随って之が差別を思う。廻心向大せるも其の理皆然り。」と。
 二乗(声聞・独覚)の三の位では、我執は滅しているが法執は残るといわれるのですが、二乗の阿羅漢の智慧は得ているので法執が有っても悟りの智慧は妨げないことから、無染汚の末那識といえると述べています。しかし大乗菩薩道の立場からは、悟りの智慧は仏のみが有し、仏に在って浄無漏の無染汚の末那識があるといえるのです。従って我執は滅していてもなお法執が残る大乗の立場からは完全な無染汚の末那識とはいえないということになります。
 「論に三の位に末那無しと説けるは、何の乗に随うにも染汚の意無しと説くなり。第七識の体無きに非ず。」              つづきは明日この蘭に記します。
 『論』や諸の論書(『瑜伽論』・『顕揚論』等)に、三位において末那無しと説かれているのは、染汚の末那識が無いと説かれているのであって、末那識の体そのものが無いと云うことではない、と。即ち、浄の末那識(出世の末那)は存在すると云うことを述べています。
 染汚の末那と浄(無染汚)の末那と二つあるということではないのですね。どうしても二つならべて比較するという思考方法が身についているものですから、染の末那を断じて浄の末那を獲得するというように思われるのですが、染汚の末那の自覚が自ずから無染の末那を証明しているのです。いうなれば、迷いは迷いの道理によって迷っているわけです。悟りは悟りの道理によって悟っているわけですから、迷いの道理を自覚することが、迷いを翻した真理の働きによって迷いを知らされているのですね。しかし、知らされても"迷い・苦しいという思い〟は捨て切れません。何故かという問題です。自分の思いを捨てきれない、どこまでも自己愛を満足させたいという思いです。これが邪魔をします。それで苦しいのですね。それほど我に対する執着は強いのですが、自己を思いやる執着の強さを私は知る由もないのですね。それが末那識の正体でしょうね。ですから、どうしても私の思いからは末那識を断絶して安楽を求めたいのではないでしょうか。煩悩を断じて阿羅漢果を得て末那識を捨す、というのが理想となるのでしょう。私の思いからは安慧の主張は当然のことのように思われます。理想論ですね。しかしそうではないと、護法は教えてくれます。仏教は理想論ではないのだと。現実の問題を引き受けることの出来る眼を開いてくれる自覚道である、と。染と浄は一つのものだと。浄に依って染が明らかになる。「煩悩に眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり」と明らかにされますように、明るさを閉ざしているのは自分の内面に問題があって、明るさがないのではない、と教えられているのですね。
 「四(三乗と八地以上の菩薩)の位の不退の菩薩の等に阿頼耶無しと説けるとも、第八識の体無きには非ざるが如し。染の名を捨つるが故にと云うが故に。人執と倶には定んで法執有り。下に自ら更に無漏に亦浄の第七識有りと云うことを解せり。一々皆『仏地論』(巻第三)に説くが如し。及び『樞要』にも説けり。諸門分別することは(『述記』第十末)第十に解するが如し。下は唯だ正義なり。」
 「成唯識論述記』巻第五本終」 (『述記』第五本・八十八右)
 又、『樞要』(巻下本・二十三右)に「護法、末那法執に通ずと立て、諍が中に十有り。」と安慧の説に対しての批判を十に配当して説明しています。「十に総結、会するなり。或いは総じて三に分かつ。一に立理引証(理を立てて証を引く)・二に総結(総じて結す)・三に会違(違いを会す)。初の中に九有り。即ち前の九是れなり。「是の故に定んで有」と云うより下は結なり。言彼無者(彼に無しと言うは)と云うより下は違いを会するなり。」と。
 

第三能変 第九 起滅分位門 (15) 五位無心 (13) 護法正義

2017-01-03 10:21:34 | 第三能変 第九・起滅...
  

 九の過失について、
 第一、経に違う失
 護法の説は、安慧の説に対して、九の過失を挙げて批判します。「彼が説は教と理とに相違せり。出世の末那をば、経に有りと説けるが故に」(護法は安慧の説は教と理に相違する、出世間(無漏)にも末那識は存在すると経(『解脱経』)に説かれているからである。)これが第一の失で経に違う失といわれています。
 第二の失は量に違う失
 「無染の意識は有染の時の如く定めて倶生なり、不共なる依有るべきが故に」(無染の第六意識は、有染の時のように、必ず倶生である。それは不共なる所依(第七識)があるはずだからである。)
 対象を認識し論証することに相違する過失(量)といわれています。ここは因明の論式(宗・因・喩)をもって説明されています。
 「無染の意識は有染の時の如く、定んで倶生なり、不共なる依有るべきが故に」(『論』第五・四右)
 「述曰。彼れ有学の出世道の現前と及び無学の位との有漏・無漏の第六意識は皆第七の依無しといわば、此れ等の無染の意は定んで倶生なり。不共なる所依有るべし。次第に逆に第八と及び無間縁と種子との等を簡ぶ。宗なり。是れ意識なるが故に、有染の時の意識の如くと。論には因を闕きたり。下の六の証の中に自ら具に量を作れり。故に此には言略せり。」(『述記』第五本・八十三左)

 量とは判断・認識の根拠ですね。自らの主張や命題が正当であるとする根拠です。因明では立量といい、「自ら(護法)が量を作る」と記され、「論には因を闕きたり」と。因が記されていないと明記しています。

 宗 - 「有学の出世道の現前と及び無学の位との有漏・無漏の第六意識」(有法)には、不共依(第七識)が有る(法)。

 因 - 「是れ意識なるが故に」

 喩 - 「有染の時の意識の如く」

 この量によって安慧が主張する聖道及び無漏の時にも末那識が存在しないという説は誤りである、という。第六意識は有漏・無漏と問わず第六意識の存在は根本識に依止しているわけです。阿頼耶識を所依とし、末那識を不共依としているわけですから、第六意識が存在している以上、末那識は存在しているはずであるから、安慧の説である、聖道・無漏には末那識は存在しないというのは過失であると批判しているのです。これが違量の失といわれています。
 安慧の説に対して、九の過失を挙げて護法が批判しています。第三は違瑜伽の失・第四は違顕揚の失・第五は違七八相例の失・第六は四智不斉の失・第七は第八無依の失・第八は二執不均の失・第九は五六非同の失・第十は総結として会通されています。今日は、第十の全体をまとめての会通を読んでみます。

 「是の故に、定んで無染汙(むぜんま)の意有って、上の三の位に於て恒に起こって現前す。彼には無しと言うは、染の意に依って説けり」(『論』第五・六右)
 (意訳) 以上九の過失を以て安慧の説を批判してきた。この故に、必ず無染汚の末那識が存在し、先に述べた三位(滅尽定・聖道・無漏)において、恒に起こって現前する。論等に末那識が無いというのは、染の意が三位に存在しないということに依って説かれているのである。

 護法は安慧の説を論破して、三位には染汚性が無くなるのであって、末那識の体そのものは残るのである、と。そして無染汚の末那識は存在するという。法執の残っている末那識は存在するというこなのですね。

 「安慧の解釈では、末那は人執に限られている。したがって、凡夫にはむろんあるが、聖者には否定される。しかし護法では、末那にも法執があるというのである。人執の末那は否定しても、法執の末那は存在するというのである。二乗の無学にも法執が存在するというのである。人執ということは、法執を前提として成り立つのである。人執は必ず法執によるものである。法執は必ずしも人執ではないが、人執は必ず法執を前提とする。護法は、そのように徹底せしめたのであろう。」(『唯識三十頌』聴記・三 p34 安田理深述)

 二乗(声聞・縁覚)は人執は滅しているけれども、法執が残っている末那識が存在する。しかし法執は有っても、二乗の阿羅漢果は得ているので、悟りの智慧は妨げないという、これを無染汚の末那識という。
 「四の位に阿頼耶識無しと説けども、第八無きに非ざるが如し、此も亦爾る応し」(『論』第五・六右)

 (意訳) 三乗の無学位と不退の菩薩(四の位)に阿頼耶識は無いと説かれているけれども、阿頼耶識の体が存在しなくなるわけではないようなものである。したがって此処に説かれていることも亦同様のことである。つまり三位に末那識が無いと説かれている場合も、末那識の体が無くなるのではない、と説かれているのである。

 『樞要』(巻下本・二十三右)に「護法、末那法執に通ずと立て、諍が中に十有り。」と安慧の説に対しての批判を十に配当して説明しています。「十に総結、会するなり。或いは総じて三に分かつ。一に立理引証(理を立てて証を引く)・二に総結(総じて結す)・三に会違(違いを会す)。初の中に九有り。即ち前の九是れなり。「是の故に定んで有」と云うより下は結なり。言彼無者(彼に無しと言うは)と云うより下は違いを会するなり。」と。

 『述記』には九の過失と、「是の故に、定んで無染汚の意有って」と云うより「此れも亦爾なり」を全体をまとめて会通の解釈をおこなっています。

 「述曰。故に無染の意あり。上の三の意に於いて亦、恒に現前す。二乗の三の位には、法執の無染あり。菩薩の三の位には、或いは浄無漏の無染心起こる。是れ所応に随って之が差別を思う。迴心向大せるも其の理然なり。

 論に三の位に末那無しと説けるは、三乗中何れの乗に随うも染汚の意無しと説くなり。第七識の体無きには非ず。

 四の位の不退の菩薩の等に阿頼耶識無しと説くとも、第八識の体無きには非ず。染の名を捨つるが故にというが如し。

 故に人執には倶に定んで法執有り。下に自ら更に無漏に亦浄の第七識有りということを解せり。一々、皆『仏地論』(巻第三)に説くが如し。及び『樞要』にも説けり。

 諸門分別することは第十(『述記』第十末)に解するが如し。下は唯正義なり」(『述記』第五本・八十八右)と。
 次科段からは、末那識の分位行相について述べられます。 

第三能変 第九 起滅分位門 (14) 五位無心 (12) 護法正義

2017-01-02 10:03:30 | 第三能変 第九・起滅...
  
  おはようございます。本日もよろしくお願いいたします。
 初能変・第二能変・第三能変における能変別・段別を表記しますと、下段のようになります。初能変における第一段・本識三相は自相・因相・果相に分けられます。         
      第三能変    第二能変     初能変                                                                                                                            
 •一段  六識得名   末那出体・名義  本識三相
 •二段  自性・行相    所依       行相・所縁
 •三段  三性分別     所縁       心所相応
 •四段  心所相応    末那性相     五受分別
 •五段  三受相応    心所相応     三性分別
 •六段  心所広説    五受分別     心所例同
 •七段  六識所依    三性分別     因果法喩
 •八段 六識・倶・不倶  界繋分別     伏断位次
 •九段  六識起滅    伏断分位 
 『論』における、能変別の構成は上のようになっています。
  
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
「阿羅漢とは、総じて三乗無学果の位を顕す」と。この位には染の意の種と現行と倶に永に断滅する。初能変の第八・伏断位次門に「阿羅漢の位に捨す」と。この位は我愛執蔵現行位ですね。阿頼耶識の名を断捨する位次を明らかにする段がここになります。応供ともいわれます。仏の十号の名の一つですね(釈尊伝・仏の十号についての項を参照してください)。ただですね。初能変においては、阿羅漢位の中に第八地以上の不退の菩薩をも摂めたが、末那識の断滅位においては、不退の菩薩は除く、それは第八識は我愛執蔵によって阿頼耶識の名を得るので、これを永捨するのは第八地以上の菩薩なのですね。末那識を染汚と名づけるのは、我執の染汚と法執の染汚が問題となるわけです。「第六識が単に生空無漏観にある時には、この識なお法執を起こして染汚を永捨せず、第六識が法空無漏観に入るに及んで始めてこの識の法執は除かれる。」(『唯識学研究』p291~p295)といわれています。したがって八地以上の不退の菩薩には染汚の末那が残るので永捨できないところから、阿羅漢の中に不退の菩薩は入らないのです。
 今日は滅尽定について、第二能変の最後に「末那は・・・三の位に無しと言えるが故に」というところから、安慧と護法の対論を通して、末那識の独立性を護法教学において明らかにしているところを読ませていただきます。
 先ず初めに、安慧の主張が述べられます。
 「此の中に有義(安慧等)は、末那は唯煩悩障とのみ倶なること有り。聖教に皆、三の位無しと言えるが故に」
 末那識は、ただ煩悩障とのみ倶にある、と主張しています。その証として『対法論』巻第ニ(大乗阿毘達磨雑集論)をあげて論証します。三の位、即ち滅尽定・聖道・無漏には末那識の体が無い、と説かれている文を引用しています。このことから安慧の立場は三位に末那識の体自体が滅して無くなる、ということになります。安慧の解釈では、末那は人執(我執)に限られているわけです。法執はないという立場です。「唯煩悩障とのみ倶なること有り」ということです。これに対し護法は人執とともに法執があるといいます。また体が無いのではない、義が無いのであると主張します。また安慧は『顕揚聖教論』・『摂大乗論』を引用して論証しています。 
 
   ― 滅尽定における安慧と護法の対論・護法の正義を述べる ―
 三位において末那識の体自体が断じられ無くなるというのが安慧の立場でした。「煩悩障のみと倶なり」と、末那識と倶にあるのは人執のみであり、法執は無いと主張しています。これに対して護法は、そうではない、体は有る、義が無くなるのであると(「三の位には染の義なし、体も亦無と云うにあらず)末那識の染汚性がなくなり、無執の末那を考えるのですね。平等性智に転ずる末那(転識得智)です。末那識が無くなるのではなく、智慧に転ずると主張しています。
 そして、護法は、安慧の説に対して、九の過失を挙げて批判します。「彼が説は教と理とに相違せり。」と。九の過失については又にします。

 
 

第三能変 第九 起滅分位門 (13) 五位無心 (11)

2017-01-01 11:17:24 | 第三能変 第九・起滅...
  

 皆さま、明けましてあめでとうございます。先年は何かにつけご指導ご鞭撻をいただきましてありがとうございました。本年度も相変わりませず、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。
 
 滅尽定について概略しますと
 『瑜伽論』巻第五十三の記述に基づき概略を述べます。別名、滅受想定(受と想を滅した定)といわれます。不恒行と恒行の染汚との心・心所を滅し、無色界の第三処である無所有処の貪欲をすでに離れた有学の聖者あるいは阿羅漢が、有頂天である非想非非想処において寂静の心境になろうという思い(止息想)によって心の働きを滅して入る定、七転識が滅するだけで第八阿頼耶識は滅していないといわれています。
 『論』では無想定の定義と同じく六段十一義を以て解説しています。
 「滅尽定とは、謂く有る無学・或いは有学の聖の。無所有までの貪を已に伏し或いは離れて上の貪不定なるは、止息想の作意を先と為るに由って、不恒行と恒行の染汚との心・心所を滅せしむるに滅尽と云う名を立つ。身を安和にならしむ故に亦定と名づく。偏に受と想とを厭にし亦彼(受・想)を滅する定と名づく。」(『論』第七・十三右)
 (意訳) 初めに第一段五義が示されます。 (1) 得する人(倶解脱)を云う。- 三乗の無学(倶解脱の阿羅漢) (2) 得する所依と伏段の差別を云う。 - この定は、非想定によって起こるもの。非想定より前の無所有処までの貪欲は、或いは伏し、或いは離れなければ、この定は得られないことを顕す。上の貪とは有頂天の貪欲のことであり、この貪欲は、定の障りになるものと、そうでないものとがあって不定という。 (3) 前の出離想と別を云う。 - この定に入るきっかけは止息想であることを述べる。(後に詳説す) (4) 識を滅する多少を云う。 - 不恒行と恒行の染汚との心・心所を滅することにより、身を安和にならしめる。 (5) 名を釈す。 - 受と想を厭うので彼を滅する定という。 
 無想定と同じく初の一段五義をもって滅尽定の要点は述べられています。
 六識と第七識が滅するのは滅尽定においてである。無想定に於いては六識はなくなるけれども、第七・第八識はなくならない。「不恒行と恒行の染汚との心・心所を滅す」といわれています。そして「身を安和にならしめる」作用がある、といわれますね。滅定は完全に六識は滅せられている定ですが、身を持っていることが大事です。それは六識は滅せられても生きているということです。
 (注) 無想定 - 想を離れるが染汚意は残る。
 (注) 滅尽定 - 受と想を離れる。染汚意はなくなる。染汚の末那が滅せられる。「阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し」とは第二能変の結びの言葉ですね。
 滅尽定を求める人は三乗の無学すなわち解脱の阿羅漢そして滅定・出世道は有学(なお学び修すべきことがある人、四向の聖者と三果の聖者)である。ここに有学の聖というのは、有学のうちに異生も存在するので聖という言葉をもって簡ぶのである。これが一番目にいわれています。
 二番目は、得する所以と伏断の差別が述べられます。この定は非想定によって起こるもの、「これは初修の二乗のものが離するによる。菩薩は貪を伏離せず」と。非想定より前の無所有処までの貪は伏し、或いは離れなければ、この定は得られないという。「六行をもって亦伏す」と六行智をもって伏すといわれています。
 三番目に、出離想と別なることを顕し、所滅の識をいいます。「止息想とは、謂く二乗の者は六識の有漏の労慮(ろうりょ - 疲労)を厭患(おんげん - 苦や苦の因となるものを観察することによって、それらを嫌悪し、それらから離れようと欲すること)し、或いは無漏心の麤動(そどう - 心が定まらずに動揺していること)なるを観ず。もし菩薩ならば、また無心の寂静の涅槃に似るの功徳を発生(ホッショウ - 起こすこと)せんと欲するが故に起こす。」
 四番目に、滅識の多少。『述記』には、「「令不恒行と及び恒行の染」とは、謂く、もし二乗ならば、即ち人空の染(我執)を除く。菩薩はまた法空の染(法執)をも除く。各自乗に望めて説いて染となすが故に。対法の第二と五蘊論には、恒行の一分のみをいえり。もし第七はただ有漏にして、ただ人執のみなりと説く者(安慧)は、即ち第七は全に行ぜず、第八に望めて是れ一分なり。故に即ちこの文を以て証として、ただ有漏のみなりという。もし法執もありと説く者(護法)ならば、二乗は人空の一分のみを除く。菩薩は雙て除く。全に第七なきにあらず。定という名は前に同なり。第五に釈名なり。」と。
 阿羅漢・滅定・出世道の三つの状態に末那そのものがない、末那は人執に限られているというのが安慧の立場です。護法の言い分はもっと徹底して吟味しています。法執の末那は存在する。人執の末那は否定しても、法執の末那は存在する、即ち二乗の無学にも法執の末那は存在するのであると。(第二能変・第九、伏断分位門・三位に末那無きことを明かす。体か・義か二師の諍あり。安慧と護法の対論を通して明らかにしている。『論』第五・選註p97、新導本p198に詳説されています。)
 「此の染汚の意は無始より相続す。何の位にか永く断じ、暫らく断ずるや。阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し」
 永断は阿羅漢を指し、暫断は滅定・出世道を指す。「此の中、有義は末那は唯、煩悩障とのみ倶なること有り。聖教に三位に無しと言えるが故に。・・・有義は彼の説は教と理とに相違せり。出世の末那をば経に有りと説ける故に。・・・」
 我と思量することが染汚ですね。執着せしめるものは煩悩です。人執の末那は滅しても法執の末那は存在する。第七識が滅するのではない。無想定は六識を滅して無想果を得るが、滅尽定は六識と、染汚の末那を滅して無心であるといわれているのです。
 滅尽定について述べているわけですが、第二能変・伏断分位に、「三位に末那無し」と記述されていることに関して重複しますが考えてみたいと思います。三位とは阿羅漢と滅定と出世道で、この位に無始より相続していた染汚の意が永断し暫断することが述べられていました。次回にします。

第三能変 第九 起滅分位門 (12) 五位無心 (10)

2016-12-31 09:28:15 | 第三能変 第九・起滅...
 
 大晦日、皆様方には大変おせわになりました。ありがとうございます。ブログは、多分僕の好き放題で綴っていると思います。そのことが自分への問いと為って、また学ばせていただいております。パソコンも、一方的な発信ということになりましょうが、思惟をすることに於いては有意義なものであるようにも思われます。
 年明けも、こつこつ発信して行けたらと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。m(__)m

 本年度最後の投稿になります。「無想定を修して無想天に生まれる」一段を読ませていただいております。 
 投稿は重複するかもしれませんが、無想状についての記述を読ませていただきます。
 
無想定は、謂く有る異生の、遍浄までの貪をば伏するも上の染をば伏せずして、出離想の作意を先と為すに由って、不恒行の心・心所をして滅せしむ。想を滅するを首と為すに無想と云う名を立つ。身を安和ならしむるが故に亦定と名く」(『論』第七・十一左) 
 (意訳) 第一段五義がだされます。(1) 異生 (2) 遍浄(3) 出離想 (4) 不恒行 (5) 想滅為首 
 をもって無想定を解釈しています。概略はこの一段で云い尽されています。
 無想定という定は聖者の厭うものでであり、凡夫の類は第三禅天の遍浄天までの貪欲を滅することはできても、第四禅天の染汚を滅することが出来ずに、無想天を想い出離涅槃の想を作してこの定を修して不恒行(前六識)の心・心所を滅すると云われています。しかし想を滅することを首(主題)とするので無想という名が与えられているわけです。「入定前の定力に依って身をして安和ならしめられること有心定の如く」であるので、また定という名を与えた。ということになります
出離想作意(シュッリソウサイ)に基づいて、不恒行(六識)の心・心所を滅した定で、解脱を求めるのではなく、今の境遇を受け入れられずに、その場所から逃避するために意識活動を停止する。無心といわずに、無想というところに、此の定の意味があります。
 想は遍行(触・作意・受・想・思)の心所一つですが、想は知的な束縛をもたらす働きがあるといわれます。
 「想とは境のうえに像をとるを以て性と為し、種々の名言を施設するを以て業と為す」と。言葉による束縛から離れて身を安和ならしめることが無心であるといい、この状態を解脱と考えているのですね。「身を安和ならしむるが故に亦定と名く」といわれていますが、定は心の状態ですね。「心を専注して散ぜらしむる」、心一境性と定義されていますが、定の世界は身を安和ならしめるのですね。身が安らかに和むと。こいうところに誤解が生まれてくるのでしょうね。無想定を修して得られた果が解脱であるという謬りです。ここを明らかにするのが『論』の役割なのでしょう。私たちの聞法も同じことだと思います。造論の主旨に「二空の於に迷・謬すること有る者に正と解とを生ぜしめんが為の故なり」と。        
          
          「仏智不思議をうたがいて
            善本徳本たのむひと
            辺地懈慢にうまるれば
            大慈大悲はえざりけり」 (正像末和讃)

 参考文献 『述記』
 
 「述曰。 この下は別解なり。文は六に分かつといえども、義に十一有り。
 (異生)とは一に得する人を顕す。聖はこれを厭うが故に。
 (遍浄)とは謂く第三禅天なり。第四禅以上の貪を猶未だ伏せず。二に離欲を顕す。
 (出離想)とは三に行相を顕す。即ち涅槃の想を作すなり。
 (不恒行)等、滅とは四に所滅の識の多少を顕す。
 (想滅為首)等とは五に定の名を釈するなり。
 謂く有心定は身心ともに平等ならしむるを安と名づく。怡悦(いえつ)するを和と名づく。いま無心定は定前の心力によって身をして、平等和悦ならしめること有心定の如くなれば、また名づけて定と為す。義が彼と等し。この体は前の第一巻に説けるが如し。二十二法(心王・五遍行・五別境・善十一)の滅する上に依って仮立す。以上、総じてこれ第一段の文なり。五義あるなり。
 何を作し染を伏して定に入るとならば、瑜伽の第十二に説く、 問、 何の方便をもってこの等至に入るや。 答、 想は病の如し、癰(ヨウーはれもの)の如し、箭(ヤ)の如しと観じ、第四定に入り、想を厭背(おんはいー忌み嫌うこと)する作意を修し、生起するところの種々の想の中において、厭背して住す。ただ無想のみ寂静微妙なりとおもい、無想の中において心を持して住す。かくの如く漸次に諸の所縁を離れて、心は便ち寂滅すといえり。・・・」(『述記』第七本・六十三右)

 無想定の六段十一義の要である第一段五義の説明をしました。まとめますと、(1)得する人を顕す。 (2)離欲を顕す。 (3)行相を顕す。 (4)所滅の識を顕す。 (5)定の名を釈す。どのような人が、どのような欲を離れ、どのような認識のあり方をし、そしてどのような識を滅するのか、それは何と名づけられる定なのか、ということを述べられています。次に第二段・第六の義から第六段・第十一の義が解釈されます。概略を述べまして、滅尽定の説明に移ります。
 • 第二段の文・第六の義。三品修(上品・中品・下品)を云う。「此の定を修習するに品の別なること三あり。」
 • 第三段の文・第七の義。地繋を云う。 「此の定はただ第四静慮のみに属す。」
 • 第三段の文のうち第八の義。三性分別。 「又ただ是れ善なり。」
 • 第四段の文・第九の義。四業に於て分別する。 「四の業於ては三に通ず。順現受をば除く。」
 • 第五段の文・第十の義。起界地を云う。二義が述べられ、第ニ義を勝と為す。 「欲界に先に修し、色界において受果の処を除き、余の下の一切地(下三禅)・或いは一切処(下三禅と第四禅の下三天)において、みなよく重ねて引いて現前せしむ。」
 • 第六段の文・第十一の義。漏無漏を云う。 「此れは想を厭いて彼の果を欣って入するに由って、故にただ有漏なり。聖の起こる所には非ず。」
 以上が無想定の説明になります。無想定は有漏の定なのです。
 それに対して、次に述べられます滅尽定は無漏の定であると説明されます。
 第六段・第十一義の『述記』の解釈を見てみましょう。
 「述曰。下は第六の文、第十一の漏無漏なり。凡聖をいうといえども、初の文にすでに異生と説くをもって、さらに別の門なし。 (何故、ただ有漏であって無漏に通じないのか、という問いに対して) 想を厭い、かの無想の果を欣い、この定に入るが故なり。 (教証をもって答える) 『瑜伽論』五十三に説く。「無想定には無漏の慧が現行することなし。此れより上には勝れたる住(滅尽定)と及び生(五浄居・無色界)とあるを以ての故に、未だ証得せざるところの諸の勝れたる善法を、証得する能わず。これに由って稽留誑横(ケイルオウオウーあざむきとどまってまげる)の処なるが故に、聖の所入にあらずといえり。・・・」(『述記』第七本・六十七左)
 次科段より滅尽定について説明されます。