唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(27)二部を破す。

2017-08-31 20:13:56 | 阿頼耶識の存在論証
  
 前段で護法は経量部の本計を論破しましたが、経量部はこの論破に対して、さらに論陣を張って自らの主張の正当性をアピールしますが、再度護法はこの主張をも論破することになります。
 経量部の再度の説明は、「身と命根が相互に保たれ(相持)互いに保持して食となる」と主張するのです。
 「彼の上界に在りて無漏を起せる時には、有情の身と命と既に互いに相持して即ち互いに食と為す」(経量部の主張)「と言わば、此れ亦然らず。」と。
 論破の要旨は、
 「四食に彼の身と命とを摂せざるが故に、彼の身命は定んで是れ食に非ざるべし。四食に摂せざるが故に。生・住等の如し。」(『述記』第四末・十一右)
 身とは、有根身(五根)、色法
 命とは、命根、心不相応行法。
 経量部は、上二界にあっては、身にとっては命根が食となり、命根にとっては身が食と為るとといているのですが、護法は、このようには説いてはならないと云うのです。
 「復、上界の有情は、身と命と相持して即ち互いに食と為るとも説くべからず。四食には、彼の身と命とを摂せざるが故に。」(『論』第四・三右)
  詳細は次科段で述べられます。
 語句説明
 生・住等とは生・住・異・滅のこと。現象的存在が生じることと、存続すること。変化して異なることと、滅してなくなることの有様。有部は実有の法と主張し、唯識は仮有の法と説きます。
 上記の『述記』の説明から、
 〔宗〕 四食に彼の身と命とを摂せざるが故に。
 〔因〕 彼の身命は定んで是れ食に非ざるべし。四食に摂せざるが故に。
 〔喩〕 生・住等の如し。
 となります。
 つまり、無色界には色法は存在しないのですから、本科段は、上二界の色界においても、色界の身は命根の依り所とはならないし、命根は心不相応行法ですから、食の體とはならないのです。 

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(26)経量部の主張を論破(2)

2017-08-30 20:32:10 | 阿頼耶識の存在論証
   南御堂掲示板より
 経量部の本計を破す。
 〔宗〕 無漏の識等きは、食と為ること能はざるべし。
 〔因〕 有漏の種を執持すること能はざるが故に。
 〔喩〕 涅槃等の如し。
 つまり、護法の論破の主旨は、識食の体が六識が説明すると、有漏から無漏に転じた、上二界に居る有情には食が無いことになり、生存が不可能であることになる。しかし、上二界に生まれた有情が生存しつづけられるのは、転識でなく、有間断ではなく。恒相続する第八識のみが識食の体となり得ると論破と、存在証明を同時に行っていると読めます。
 しかし、逆に一度考えてみますと、経量部の主張のように、六識で説明しますと、上二界に居る無漏心の有情には四食が存在しないことになり、無漏心の有情は生存し得なくなります。しかし、上二界に上まれた有情はなお生存し続けています。ではこれ等の有情が生存し得るのは、何の食を持って生存を可能としているのか、これが第八識であると言えば、第八識は有漏ではないということになります。
          有漏に覆われた無漏 (現実相)
 いのちの方向性〈
          純粋意識である無漏 (本来相)
 いのちは平等に与えられたものです。「老少善悪をえらばず」です。しかし、この本来相を自分であると錯覚を起こし、執着する心が働くのですね。そこが現実相になりますが、差別意識です。自分は善で他は悪だと。でもね、このような考え方を善導大師は「自損損他」と、他を損なうことは、自らを損なうんだと教えられています。この差別意識が見えてこないですね。自分は正しいとふんぞり返っています。この態度がどんなに他を傷つけているのでしょう。
 このような構図が世間なのですね。娑婆といわれ、貧富の差の下に、或は格差社会の中で辛抱を余儀なくされる堪忍土なのでしょう。
 法は持業釈と云われていますが、仏が見出された法、無為無漏のダルマです。永遠不滅の常楽我浄の、いろもなくかたちもましまさぬ当体です。
 法は依主釈と云われます。仏陀が説かれた教えです。
 仏陀が説かれて仏法が起ったのですが、法は仏陀以前です。お釈迦様が出現されなくても、永遠不滅の真理として働いてあるものといえます。
 そして仏と法を依り所として学んでいる人々を有財釈といい、サンガのことですね。
 このように整理をしますと、私たちの生活の上に仏・法・僧が生きて働いているでしょうか。仏・法・僧の三宝を覆ってしまっているのが世間といい、世俗という相ではないのですか。つまり、根っこのない林の中で暮らしているようなものですね。或は三車火宅の様相です。
 今月も講義の中で、少し触れさせていただいとのですが、能対治・所対治という問題なのです。能は対治するもの、所は対治されるもの。対治されるものは煩悩です。煩悩は身を煩わし、心を悩ますものですから煩悩と云われますが、諸悪の根源です。この根源が大事なキーワードになると思います。
 そhして能なのですが、有為有漏からは出てきません。どんなに頑張っても不可能なのです。我執が微細に働いているのです。親鸞聖人はここを見据えられました。
 すべての行為は、雑毒の善・虚仮不実の行というと。能は法性のみです。仏身では法性法身です。この法に触れた時に、能所同時因果をもって、煩悩が菩提の水に変化するのですね。
 仏法に遇うことが大事なことなのです。遇ってみれば、遇わずにはいられない人間としての身をいただいたことに手が合わさるのですね。報恩謝徳のお念仏なんですね。いただいた仏法が世間を照らし出すのでしょう。自分の持ち物、所有物にしてはいけませね。所有物にしますと、勝他の心が動きます。僕らの戦いはこの一点に尽きると思いますが、いかがなものでしょうか。
参考文献 銀杏通信より、
 「仏教では仏さまについて、「仏の三身(さんしん)」ということを教えます。「法身仏(ほっしんぶつ)」と「報身仏(ほうじんぶつ)」と「応身仏(おうじんぶつ)」の三身です。
「法身仏」とは「法性法身(ほうしょうほっしん)」とも言われ、色も形もない、形相を超えた真如(しんにょ)そのものとしての仏さまです。姿形のない、言葉にもならない真如そのものを人間が知ることはできません。
 そこで「報身仏」としての仏さまが教えられるのです。曽我量深(そが・りょうじん)先生は「仏さまとはどんな人であるか」と自問し、「我は南無阿弥陀仏であると名のっておいでになります」と自答しておられます。「報身仏」とは報いて現れた仏という意味で、人間の思いを超えた深い願い、本願に報いて現れた仏ということで、阿弥陀仏を指します。阿弥陀仏は、本願に報いて、形の無い世界から形を現し、「南無阿弥陀仏」と名のり出て一切衆生(いっさいしゅじょう)を救おうと働かれる報身仏の仏さまです。
「応身仏」とは、人間に応じて現れた仏、具体的に人間の姿形をした仏さまで、お釈迦さま(釈迦牟尼如来)で代表される仏身です。
 人間はもちろんのこと、一切衆生(生きとし生けるもの)、さらには世に存在する全てのものは、真如の道理の中にかけがえのない存在意味を持って生きているのです。しかしその存在意味がはっきりしないままに喜怒哀楽して、最期は空しい思いで終わっていくのが人間であります。
 その人間の空しさ、苦悩に答えてお釈迦さまはこの世に誕生され、人間の言葉で人類始まって以来初めて阿弥陀仏の本願を説いてくださったのです。お釈迦さまが阿弥陀仏の本願を説いてくださらなかったならば、私たちはほんとうに意義ある生活はできなかったでしょう。
 そういう意味で、お釈迦さまを教主(きょうしゅ)、阿弥陀さまを救主(きゅうしゅ)といってお敬いするのです。お釈迦さまは阿弥陀仏の本願(お意(こころ))を聞けと勧めてくださる教え主であり、阿弥陀仏の本願の中に生かされていることにほんとうにうなずくとき、私たちは救われるのです。
 親鸞聖人は法然上人との出遇いを、「曠劫多生(こうごうたしょう)のあいだにも 出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)知らざりき 本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし」と述懐しておられます。法然上人の仰せを聞くことによって、お釈迦さまは阿弥陀仏の本願を説くためにこの人間界に生まれられ、その本願に遇って初めて空しくない人生に目覚められたと喜ばれているのであります。(本多惠/教化センター通信No.70)

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(25)経量部の主張を論破

2017-08-26 15:51:06 | 阿頼耶識の存在論証
  
 今回は、経量部の根本の主張(本計)のみを論破する科段になります。
 「亦、無漏の識の中に有漏の種有って、能く彼の食と為るに執すべからず。無漏の識等は、猶涅槃の如し、有漏の種を執持すること能わざる故に。」(『論』第四・三右)
 前段に於いて、無漏の識等は有漏を破壊するものであるから、彼(上二界に生まれて無漏心になっている有情)の身命に対する食とはならない。そして六識の中で前五識は上二界には存在しない。欲界の第六意識が、上二界に転ずると、無漏の識になり、無漏は有漏を破壊しますので、無漏になった第六意識は、有漏の身を持つ有情のための食とはならないと論破しているのですが、経量部はこの主張に対して、種子説をもって、上二界においても食となり得ると主張してくるわけです。
 簡単にいいますと、無漏に転じても、前滅の種子の習気が食となるというのですね。
 (また、無漏の識の中に有漏の種子が習気として残っていて彼(上二界に生まれた無漏心である有情)の食と為ると執着すべきものではない。何故ならば、無漏の識などは涅槃のようなものであるので、有漏の種子を執持することはできないからである。と論破します。
 「経量部の主張である、無漏識の中に有漏種が有って、それが無漏を以て彼の識の体となるんだというのならば、これも亦間違いである。無漏の識等は食と成ることはできないのである。無漏の識等は有漏の種子を執持することができないからであって、是は無漏であるから、涅槃等のようなものである。」(『述記』取意)
 〔宗〕 無漏の識は、有漏の種子を執持することができない。
 〔因〕 無漏であるから、
 〔喩〕 涅槃等のようなものである。
 なお、本有種子の依附という問題がありますが、論題は、現行に対して答えているので、未だ現行していない時の依附については問題はないとされています。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(24)経量部&有部の説を論破

2017-08-23 21:29:26 | 阿頼耶識の存在論証
  昨日FB友のKさんが、源信展を観、その中で當麻曼荼羅に圧倒されたコメントを投稿されていましたので、Gooから画像を拝借しました。 
 唯識の解説書はたくさん出版されていますが、基本図書は一冊でいいと思います。専門書になると思いますが、体系的に読まれるには安田理深先生の『唯識三十頌』(選集二~四巻)を推奨します。そして手許に『成唯識論述記』は必読書です。
 今日は、前段からのつづきになります。
 第四です。経量部及び有部の主張を論破します。
 「又、彼に説く応し、上二界に生じて無漏心なる時には、何を以てが食と為す、無漏の識等は有を破壊(ハエ)するが故に。彼の身命に於て食と為る可からず。」(『論』第四・三右)
 上座部の説を論破し、また経量部と有部の説に対して説く。有情が上二界(色界・無色界)に生まれて無漏心である時には、何を以て食とするのであろうか。
 (無漏は、有漏を見出し、観察して)無漏の識等は有漏を破壊するものであるから、彼(上二界に生まれて無漏心になっている有情)の身命に対する食とはならない。
 下界(欲界)には段食があるんですが、上二界に生まれますと、段食はないのですね。そうしますと、上二界に生まれた有情は何を以て食とするのかが問われているのです。それは、上二界に生まれて、有漏が無漏に転依しても、身は有漏だからです。
 無漏の識等は、有漏の身を持つ有情の食とはならない、と、その理由は有漏を破壊するものだからである。あたかも涅槃等のように、上二界に於ては無漏は食ではない。
 このように説いているのですが、部派仏教の場合には、思考方法が六識体系なのですね。そして六識の中で前五識は上二界には存在しないのです。欲界の第六意識が、上二界に転じますと、無漏の識になるのです。
 そして、無漏は有漏を破壊しますので、無漏になった第六意識は、有漏の身を持つ有情のための食とはならないのですね。そうしますと、部派の説明がつじつまがあわなくなります。上二界に生まれた有情は生存ができないことになるからです。そしたら、上二界に生まれて生存が可能なのはどうしてなのかという問いが出てきます。それが第八識の存在証明になるのですね。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(23)上座部等を破す。

2017-08-21 21:27:16 | 阿頼耶識の存在論証
  
 第三は、上座部等の説を論破します。
 「有るが執すらく、滅定等には、猶第六識有るを以て、彼の有情に於て能く食事と為ると云う。彼が執ずること理に非ず、後に當に広く破すべし。」(『論』第四・三右)
 初めには、上座部の説を論破し、後に経量部及び有部の説く所を論破します。
 注意するところは「猶第六識有るを」です。「猶有」は細を表しますから、ここは細意識ということになります。微細な意識で、行相・所縁に覚知されない細やかな意識で、生死の間ずっと保ち続けているから細意識というのですが、これは上座部の説で、後にこの説を踏襲して唯識は阿頼耶識を立てることになります。
 この上座部の主張は後の滅定証に於て論破すると言っているのです。
 概説としては、細意識が滅尽定に入っている行者の識食の体となると主張しているのですが、唯識派それは理にかなわないと破斥するのです。
 意訳としては、上座部や経量部の論者は執着して、滅尽定等にはなお第六意識という細意識が存在するので、この細意識が行者の食の事になると主張している。しかし、彼が執着していることは理にかなわない。このことについては後の滅定証に於て詳しく説き、論破するであろう。今日はここまでにします。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(22)

2017-08-20 20:59:03 | 阿頼耶識の存在論証
    心豊かな人とは、合掌礼拝の出来る人なんでしょうね。そして、心貧しき人とは、合掌礼拝の出来ない人なんではと思います。合掌に始まり、合掌で終える。人として最低限の行為だと思いますが、そこには、如来は大悲を以て、寝ても覚めても四六時中、合掌礼拝してくださっているのですね。合掌礼拝は、如来のご苦労に報いる、御恩報謝になるんでしょうね。
 「段等の四食に摂めざる所なるが故に。」(『論』第四・二左)
 「述して曰く、声等の法の如く定んで是れ食に非ざるべし。此れは(不相応行法に)體有りというを縦(ユル)して難ずるなり。」(『述記』第四末・十右)
 「縦」(ジュウ)と読む場合は、仮定の意味で使われますが、本科段での「縦」は許してという意味で使われています。仮定と承認の二つの意味が合わさっているようです。つまり、一応は有部の主張を承認して、そして論破するという方法です。
 『論』の記述ではなかなか意味がつかめないのですが、『述記』の釈によって、「声などの法のように必ずこれは食ではない。これは體があるということを一応承認して論破するのである」という意味になろうかと思います。
 有部の主張を一応承認してというのは、前科段でも述べられていましたように、有部の主張は不相応行法を実有であると主張しているのですね。此れに対して大乗は実有ではない仮法であるという立場をとりますから、一旦ですね、有部の主張を承認したうえで、有部の主張を論破するという方法を取っているのです。
 〔宗〕 無想定などの不相応行法はその体ではない。 (不相応行く法は食の体ではない)
 〔因〕 段食の四食に摂められないからである。     (実有ではないからである)
 〔喩〕 声等の法の如く。                   (瓶などのようなものである)             

 「不相応法は、実有に非ざるが故に。」(『論』第四・二左)
 本科段は、無想定などの不相応行法は実有ではないと説明し、有部の主張を退けます。
 また、仮法であるというのは、前回に説明した通りです。仮法は識食の体とはならないということを論証し、識
 食の体と成るのは第八識であると押さえているのです。
 次科段は、上座部の主張を論破します。
 

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(21)心不相応行法について

2017-08-19 09:42:08 | 阿頼耶識の存在論証
  基本図書としてお薦めです。
 前回は心不相応行法について概略を述べていましたが、参考文献として良遍著『法相二巻鈔』を引用させていただきます。いきなり原文で申し訳ありません。
 「不相應二十四ト云ハ。又百法論ニ列タル二十四ナリ。是皆假法也。此二十四ヲ名不相應事ハ。五蘊ト申ス法門アリ。色・受・相・行・識是也。此五ガ中ノ第四ノ行蘊ニハ。諸ノ心所并得・命根・衆同分等ノ法ヲ攝タリ。其中ニ。心所ハ心王ト相應スト云ハ。其ト親ク相ヒ共ニ並ブ義也。此得等ノ二十四ハ。心王ト不相應故ニ。不相應ト名ク。サレバ具ニハ心不相應行法ト名ク。此二十四ハ。心ニモ非ズ。色ニモ非ズ。色法心法ガ上ニ所ノ有義分也。更ニ別ノ體ナシ。故ニ二十四ナガラ皆假法也。」(『二巻鈔』大正続諸宗部71・112c18~c29)
 各論について以下に述べられます。
 「暫ク得ト云ハ。人ノ物ヲ得タルト云ハ。其得ラレタル金銀等ノ物モ正キニ非ズ。能得ル人モ正キ得ニ非ズ。又取ラスル人モ得ニ非ズ。能得ル人モ得ラルル物モ。元ヨリ有時。ソノ中ニ得タリト云事ハ候ゾカシ。サレバ是ハ假法也。命根ト云ハ。命也。命ト云物ハ。別ノ體ナシ。只生タル間。一期ノ身心ヲタモテル用也。殘ノ三衆同分・異生性ナレドモ。皆カ樣ノ事也。人ノ身人ノ心ヲ初トシテ。馬牛蟻蝳。食物着物。舍宅田園。山河石瓦金銀。日月星宿。雲霧雨土。是ニ不限。一切ノ諸ノ物ノ體ヲ案ルニ。八識心王・五十一ノ心所・十一ノ色法ニ離タル物ハ一モナシ。二十四ノ不相應ハ。是ガ上ニ立タル也。物ニサマノ名アリ。物ニクサノ數アリ。其モ此不相應ナリ。四方四角四季十二時モ。皆此ノ不相應ナリ。更ニ別ノ體有ル事ナシ。能々案ジトカセマシマスベシ。」(『二巻鈔』大正続諸宗部71・112c29~113a19)
 解説は、横山絋一著『唯識とは何か』P235~244)を参考にしてください。
 不相応行は詳しくは心不相応行法というのですが、これに二十四数えられます。出典は『大乗百法明門論』になります。
 『成唯識論』では破不相応行として「不相応行も亦実有に非ず。所以はいかんぞ」として(『選注』ではP18~20)説かれています。
 「破」というのは、有部が実有の法として説く五位七十五法を。実有ではないと破斥している科段になります。そしてその二に「心不相応行法を破す」一段があります。この中の第四に「二無心定及び果を破す」一段が述べられ、ここが「不相応行は食に非ず」と結びついてくるのですね。
 二無心定は無想定と滅尽定ですが、無想定は凡夫の無心定なのです。第七末那識が相応しています。滅尽定は第八地以上の聖者ですから、第七識は滅しています。「果」とは無想定を修して無想果、つまり無想天に生まれるということ、無想定が因として生無想天が果で、無想異熟といいます。
 この二無心定及び果においては意識は現起しません。いうなれば、意識を現起させないのがこの二無心定及び果なのですね。ですからこれらを心不相応行法としてたてられるのです。
 結論としては、心不相応行法の二十四は心でもなく色でもなく、色法と心法の上に立てられた仮法なのです。大事なのは、色法と心法の上に立てられた仮法であるということです。色と心と無関係に不相応行が立てられているのではないということに留意が必要だと思います。
 本論に戻りますと、
 「段等の四食に摂めざる所なるが故に、」(『論』第四・二左)
 段等の四食の前に(~)をいれなければなりませんね。(~)に入るのは、「二無心定及び果」の不相応行法は、段食などの四食には収めないものだから、という説明です。
 本科段はもう少し説明を要しますので、また後日にしたいと思います。
 

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(20)論破

2017-08-16 20:26:07 | 阿頼耶識の存在論証
   東寺
 今日は、不相応行法という、五位の中の一つですが、詳しくは、心不相応行法といい、唯識は24に分けて説明しています。行のうちで心とも色とも相応しない法という意味になります。
 本科段はすでに有部の本計(ホンケ・根本の主張)を論破し終って、「救して言うならば」という、救は救済措置といってよいのでしょうか、一旦有部の主張を認めて、再度論破するという方法です。
 「又、無想定の等きと不相応行とを、即ち彼が食と為すと説く可からず、」(『論』第四・二左)
 また、無想定と滅尽定の二無心定そのものと、心不相応行法が、定に入っている人の食の体とすることも出来ない。
 つまり、本科段は護法さんの論破を主題としていますが、有部の主張は、無想定と滅尽定の二無心定そのものと、心不相応行法が、定に入っている人の食の体とすることが出来るということなのですね。具体的理由については、次科段で説明されます。
 『述記』の釈は、
 「述して曰く、本計を難じ已る。彼、設として救して言く、無想定の等きは體即是れ食なり。及び定中に在る命根と同分との不相応行といい、正しく是れ食の性なりという。いま言く、爾らず。」(『述記』第四末・九左)
 心不相応行法は食の体とはならないと論破しているわけです。
 尚、『倶舎論』では、心不相応行法は十四数えますが、大乗唯識は二十四かぞえています。
 無想定(むそうじょう、梵: asaṃjñisamāpatti、アサンジュニサマーパッティ)とは、無意識にまで至るほどな極度の精神集中。無想天に生まれることを真の解脱と誤解してそれを求める者が修する。
 無想(むそう、梵: āsaṃjñika、アーサンジュニカ)とは、無想天に生まれた者のみが獲得する無意識な状態。無想果(むそうか)とも呼ぶ。
 滅尽定(めつじんじょう、梵: nirodhasamāpatti、ニローダサマーパッティ)とは、心のはたらきが消滅した状態にある精神集中。聖者が寂静の境地を楽しもうとして修する。
 同分(どうぶん、梵: sabhāgatā、サバーガター)とは、有情の各類に共通な同類性。たとえば、それぞれの人にはすべて人として共通の、それぞれの牛にはすべて牛として共通の同類性があると考えられている。衆同分ともいう。
 命根(みょうこん、梵: jīvita-indriya、ジーヴィタ・インドリヤ)とは、生命機能。体温と心のはたらきとを維持する生命力を法の一要素として見たもの。
 などは心不相応行法に摂められます。
 詳しくは、吉元信行先生が『心不相応行の大乗アビダルマ的分析』の論文を『大谷学報・第68巻』に書かれています。是非お読みください。ネット検索できます。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(19)論破

2017-08-14 16:21:15 | 阿頼耶識の存在論証
   僕は、家庭でも食事を頂く所に、このように手を合わすことが出来たら十分、僧堂・食堂という意味をもつのだと思います。ただ単に食事をとるところではなく、身心を養い育て、そして生きていく上で何が大切なのか、日頃からあらゆる命を頂いて、我が身を育てて頂いていることへの眼差しが育てられてくるのだと思います。できれば家にはお内仏を、食堂には、食前の言葉、食後の言葉を掲げ、手を合わせていけるようにしてゆきたいものです。
 前段は有部の主張を挙げましたが、本科段においては、有部の主張が破斥される理由を述べます。
 「無心に住せる時には、彼いい已に滅しぬる故に。過去は食に非ずということは、已に極成してしが故に。」(『論』第四・二左)
 有部の主張が否定される理由は、無心定に住している時には、無心定に入る直前の心(六識)はすでに滅しているからである。過去の心(六識)が食の体とはならないことはすでに自他ともに認められていることである。
 『述記』の釈がいいですね。
 「然らずんば無心に住せる時には已に滅して無くなりぬるが故に、現在に食無かるべし。過去は食に非ずろいうことは已に極成せるが故に。現と常とに非ざるを以て空華の如しと説きつるが故に。要ず現在の識をのみ方に食と名づくべきが故に。此れは無性の釈なり。余は世親の釈なり。」と。
 無性の釈は、無性摂論第三巻
 世親の釈は、世親摂論第三巻
 高野山奥の院で800年以上前に入定された弘法大師様はいまも五十六億七千万の暁を待って定に入っておられますが、そうしますと、どうして身を保っておられるのかということなのですが、過去の心を食とされているのかと言いますと、そうではありませんね。現在を食とされているのですね。僧侶の方々が御給仕をされているでしょう。過去は現在に属するのではなく、常という無為法であることではない、有為の世界の出来事なんですね。そういう意味では、弘法大師様は今も奥の院で今現在説法をされているのでしょう。
 入定直前の心(六識)が入定中の識食の体と成るという有部の主張は間違っていると護法さんは否定されるのです。
 現在を食とされている、過去、未来が識食の体ではなく、現在であるということは、六識を成り立たしめている根本の識が識食の体である、それが第八識なのですね。常でもなく断でもない第八識が身心を養い育てていることになるのだと教えているようです。


食堂(ジキドウ)と食堂(ショクドウ)の違い

2017-08-13 18:16:15 | 阿頼耶識の存在論証
  永平寺僧堂。参拝者や参禅者は中には入れません。修行僧のみの結界です。
 食堂(ジキドウ)の意味。
 大谷大学教員エッセイより転載しました。
  沙加戸 弘(さかど ひろむ)(国文学 教授)
 「学生食堂は、学食と略称され、大衆食堂は、やゝ古色を帯び、食堂車は運行時間の短縮によって姿を消したが、「しょくどう」とよめばこれはたしかに現代日常用語である。
 「しょくどう」のよみは明治以後のことになる。学校教育制度の充実に伴い、青雲の志を立てた若者が、故郷を出て各地の高等学校・大学に学んだ。遊学の若者に寄宿舎・学寮は必須のものであったが、この寄宿舎における食事室を食堂と称した。後、邸宅の食事室や食事を供する店をも呼んだが、特に関東大震災以後、東京では比較的安価に食事を提供する店が急激に増加し、これを大衆食堂と称した、とものの本にある。
 明治以後のことはともかく、食堂はもと「じきどう」とよみ、寺院において修行する大衆( たいしゅ) の食事を行う堂宇( どうう)をさすことばであった。
 古くインドにおいても、中国においても、食堂は僧衆の威儀を整すところとされ、食堂における行状は、僧衆風儀の一切全てを表する、とされた、まことに重い意味を持つ場であったのである。
 日本においては、奈良朝の東大寺・興福寺・薬師寺等にこの堂があったと記録に見えるが、平安朝中期以降は食堂の制度が改められて徐々に廃され、鎌倉時代に渡来した禅宗においてのみ、食堂は「僧堂」と呼ばれてそのはたらきと意味を現代に伝えている。
 「食堂( じきどう) 」と「食堂( しょくどう) 」の違いはまことに歴然としたもので、食堂( じきどう) には本尊を安置する。中国では、賓頭盧尊者( びんずるそんじゃ) あるいは僧形文殊の像を安置し、南都興福寺では丈六の千手観音を本尊とした、とある。
 これは、仏教は生活そのものである、食事はいのちの場である、という認識を仏教が持っていることを意味する。我々は一分一秒たりとも、他のものの命を奪うことなしに生存することはできない。「いくら動物性のものを使わなくとも、播いて芽の出るものを使うなら、それは厳密な意味では精進料理とは言えない」という説を聞いたことがある。
 今の世、今の時、日常生活の中においても、食事はいのちの場であると再認識したいものである。」
href="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/63/6fb130e050b0e0735d15874fc1e25c9c.jpg" border="0"> 僧堂内部Googleより