答。(伏断分位(ぶくだんぶんい)について説明される。)
「阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し。」(『論』第五・二右)
2010年12月1日~12月23日の項を参照、または、カテゴリの五位無心の項を参照してください。第三能変の起滅分位門と重複することがたびたびありますが、重ねて学んでいこうと思います。
「述して曰く、此れより下は随って答す。文の中に二有り。一に正しく本文の伏し断ずる分位を解し、二に傍に義に乗じて行相の分位を解す。初の中に二有り。初に頌を挙げて答し、後に広く争って答す。初の中に二有り、初には頌を挙げ、後には別して釈す。此れは即ち初なり。」
本頌の第七頌第三句(第二能変第十句)を挙げて答えられます。「文の中に二有り」と、二つの部分から成り立ちます。一は、末那識を伏断する分位についての説明。二は、分位の行相を説明です。その一がさらに二つの部分から述べられます。初めは、本頌を挙げて説明され、後に異説との論争を通じて答えます。この初がまた二つの部分から述べられます。初めに本頌を挙げ、後に個別に説明がなされます。この科段はその初であります。
(阿羅漢と滅定と出世道とには、末那識は無いのである、と。) 概略を説明しますと、
「此の染汚の意は無始より相続す。何の位にか永に断じあるいは暫く断するや。阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し。阿羅漢とは、総じて三乗の無学果の位を顕す。此の位には、染の意の種と及び現行と倶に永に断滅せり。故に有ること無しと説く。学位の滅定と出世道との中には、倶に暫に伏滅せり、故に有ること無しと説く。謂く、染汙の意は、無始の時より来、微細に一類に任運にして転ず、諸の有漏道をもっては伏滅すること能わず、三乗の聖道のみをもって伏し滅する義有り、真無我の解いい我執に違えるが故に。後得無漏の現在前する時にも、是は彼の等流なるをもって、亦此の意に違えり。真無我の解と及び後所得とは倶に無漏なるが故に、出世道と名づく。滅定は既に是れ、聖道の等流にも極めて寂静にもあるが故に、此れにも亦有るに非ず。未だ永に此の種子を断ぜざるに由るが故に、滅尽定と聖道とより起こしおわんぬる時に、此復現行す、乃未滅に至るまでなり」 (『論』第五・三右~左・新導本p197~198)
「阿羅漢とは、総じて三乗無学果の位を顕す」と。この位には染の意の種と現行と倶に永に断滅する。初能変の第八・伏断位次門に「阿羅漢の位に捨す」と。この位は我愛執蔵現行位ですね。阿頼耶識の名を断捨する位次を明らかにする段がここになります。応供ともいわれます。仏の十号の名の一つですね(釈尊伝・仏の十号についての項を参照してください)。ただですね。初能変においては、阿羅漢位の中に第八地以上の不退の菩薩をも摂めたが、末那識の断滅位においては、不退の菩薩は除く、それは第八識は我愛執蔵によって阿頼耶識の名を得るので、これを永捨するのは第八地以上の菩薩なのですね。末那識を染汚と名づけるのは、我執の染汚と法執の染汚が問題となるわけです。「第六識が単に生空無漏観にある時には、この識なお法執を起こして染汚を永捨せず、第六識が法空無漏観に入るに及んで始めてこの識の法執は除かれる。」(『唯識学研究』p291~p295)といわれています。したがって八地以上の不退の菩薩には染汚の末那が残るので永捨できないところから、阿羅漢の中に不退の菩薩は入れないといわれます。
出世道とは、「染汚の意は無始の時よりこのかた微細に一類に任運にして転ず。諸の有漏道を以っては伏し・滅すること能わず。三乗の聖道のみ伏し・滅する義あり。真無我の解は我執に違せるが故に。後得無漏の現在前する時にも、是れ彼(無分別智)の等流なれば亦此の意(末那識)に違う。真無我の解(無分別智)と及び後所得(後得智)は倶に無漏なるが故に出世道と名く。」
人法二執という、この識の煩悩は微細にして、任運一類に転ずるものであるから、諸の有漏智をもってしては伏することができない。即ち、人法観の無分別智に違するので、その無分別智等流の後得智が現前する時も亦違すると。三乗の無漏智にてのみよく伏し、滅することが出来るのであるという。
法執は法の体に迷い、生執(人執)は法の用に迷うものである。法執ありといえども必ずしも生執ありとは限りないが、生執ある時には必ず法執あるわけです。
(用語解説)
人執 - 生執ともいう。生命的存在が実体として存在すると執着すること。また人を構成する要素(法)も実体として存在すると執着する法執と合わせて二執という。それに対して、
人空 - 生空ともいう。生命的存在が実体として存在しないこと。また生命的存在を構成する諸要素は存在しないことを、法空といい、生空とあわせて二空という。 玄奘は諸経論の訳で人空・我空という訳を否定して生空という訳を用いている。人空といえば人のみに限られ、我空といえば我は法にも通じるから、いずれの表現も問題があり、生空という表現が適切であるとされた。
末那識が、滅尽定では起こらない理由は、『論』に「滅定は、すでに是れ、聖道の等流にも極めて寂静にもあるが故に、此にも亦有るに非ず」と。
滅尽定は、聖道の後得智の無漏観の等流のものであるから、染汚意である末那識とは性格を異にするので、この位には末那識は起こらない、という。また、極寂静であり、涅槃のようなものであるので、ここにも、末那識は起こらない。しかし、涅槃ではないので有漏の定である。六識と第七識は滅するけれども、第八・阿頼耶識は滅していないのである、と。
阿羅漢と滅定と出世道をまとめて三位といいならわしています。この三位には染汚の末那識は存在しない、と。厳密には暫断と永断を含んで述べられているのです。「「無有」と言うは、永と暫との義有り」(『述記』第五本・七十六右)
以上で本年度の書き込みは終了とさせていただきます。一年間おつきあいをいただきまして有難うございました。来年度はなお一層の研鑽をしまして第二能変から初能変へと考察を進めてまいりたいと思っています。『大無量寿経』本願成就文を通して『唯識論』を学んでいまして気づかされることがありました。本年度は、私事ながら五月に父が天寿をまっとうし法性無為の都に還っていかれました。父が残した遺教は「闇が晴れるのは、闇の正体が知れることだ」ということでした。闇の正体が知れると、闇が消えなくても闇が邪魔になりません。雲霧に覆われていても一筋の白道がはっきりとしていることでした。「何故自分はこんなに苦しまなくては成らないのか」・「我慢に我慢を重ねてきたがもう限界だ」等々、自分が見えずに悶々としている日々がつづきましたが、いつの頃からか、悶々とする心が邪魔にならなくなるようになっていました。それよりも悶々とする日々が有り難く頂ける様になっているのです。今を生きる力を与えられていたのですね。今までは、自力迷執の我執によって晴れ間を閉ざしていたのですね。齢・六十五にしてなお、無明の闇は深いものであります。 南無阿弥陀仏 合掌