唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(2) 伏断分位

2011-12-31 11:59:28 | 心の構造について

 答。(伏断分位(ぶくだんぶんい)について説明される。)

 「阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し。」(『論』第五・二右)

 2010年12月1日~12月23日の項を参照、または、カテゴリの五位無心の項を参照してください。第三能変の起滅分位門と重複することがたびたびありますが、重ねて学んでいこうと思います。

 「述して曰く、此れより下は随って答す。文の中に二有り。一に正しく本文の伏し断ずる分位を解し、二に傍に義に乗じて行相の分位を解す。初の中に二有り。初に頌を挙げて答し、後に広く争って答す。初の中に二有り、初には頌を挙げ、後には別して釈す。此れは即ち初なり。」

 本頌の第七頌第三句(第二能変第十句)を挙げて答えられます。「文の中に二有り」と、二つの部分から成り立ちます。一は、末那識を伏断する分位についての説明。二は、分位の行相を説明です。その一がさらに二つの部分から述べられます。初めは、本頌を挙げて説明され、後に異説との論争を通じて答えます。この初がまた二つの部分から述べられます。初めに本頌を挙げ、後に個別に説明がなされます。この科段はその初であります。

 (阿羅漢と滅定と出世道とには、末那識は無いのである、と。) 概略を説明しますと、

 「此の染汚の意は無始より相続す。何の位にか永に断じあるいは暫く断するや。阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し。阿羅漢とは、総じて三乗の無学果の位を顕す。此の位には、染の意の種と及び現行と倶に永に断滅せり。故に有ること無しと説く。学位の滅定と出世道との中には、倶に暫に伏滅せり、故に有ること無しと説く。謂く、染汙の意は、無始の時より来、微細に一類に任運にして転ず、諸の有漏道をもっては伏滅すること能わず、三乗の聖道のみをもって伏し滅する義有り、真無我の解いい我執に違えるが故に。後得無漏の現在前する時にも、是は彼の等流なるをもって、亦此の意に違えり。真無我の解と及び後所得とは倶に無漏なるが故に、出世道と名づく。滅定は既に是れ、聖道の等流にも極めて寂静にもあるが故に、此れにも亦有るに非ず。未だ永に此の種子を断ぜざるに由るが故に、滅尽定と聖道とより起こしおわんぬる時に、此復現行す、乃未滅に至るまでなり」 (『論』第五・三右~左・新導本p197~198)

 「阿羅漢とは、総じて三乗無学果の位を顕す」と。この位には染の意の種と現行と倶に永に断滅する。初能変の第八・伏断位次門に「阿羅漢の位に捨す」と。この位は我愛執蔵現行位ですね。阿頼耶識の名を断捨する位次を明らかにする段がここになります。応供ともいわれます。仏の十号の名の一つですね(釈尊伝・仏の十号についての項を参照してください)。ただですね。初能変においては、阿羅漢位の中に第八地以上の不退の菩薩をも摂めたが、末那識の断滅位においては、不退の菩薩は除く、それは第八識は我愛執蔵によって阿頼耶識の名を得るので、これを永捨するのは第八地以上の菩薩なのですね。末那識を染汚と名づけるのは、我執の染汚と法執の染汚が問題となるわけです。「第六識が単に生空無漏観にある時には、この識なお法執を起こして染汚を永捨せず、第六識が法空無漏観に入るに及んで始めてこの識の法執は除かれる。」(『唯識学研究』p291~p295)といわれています。したがって八地以上の不退の菩薩には染汚の末那が残るので永捨できないところから、阿羅漢の中に不退の菩薩は入れないといわれます。

 出世道とは、「染汚の意は無始の時よりこのかた微細に一類に任運にして転ず。諸の有漏道を以っては伏し・滅すること能わず。三乗の聖道のみ伏し・滅する義あり。真無我の解は我執に違せるが故に。後得無漏の現在前する時にも、是れ彼(無分別智)の等流なれば亦此の意(末那識)に違う。真無我の解(無分別智)と及び後所得(後得智)は倶に無漏なるが故に出世道と名く。」

 人法二執という、この識の煩悩は微細にして、任運一類に転ずるものであるから、諸の有漏智をもってしては伏することができない。即ち、人法観の無分別智に違するので、その無分別智等流の後得智が現前する時も亦違すると。三乗の無漏智にてのみよく伏し、滅することが出来るのであるという。

 法執は法の体に迷い、生執(人執)は法の用に迷うものである。法執ありといえども必ずしも生執ありとは限りないが、生執ある時には必ず法執あるわけです。

 (用語解説)

 人執 - 生執ともいう。生命的存在が実体として存在すると執着すること。また人を構成する要素(法)も実体として存在すると執着する法執と合わせて二執という。それに対して、

 人空 - 生空ともいう。生命的存在が実体として存在しないこと。また生命的存在を構成する諸要素は存在しないことを、法空といい、生空とあわせて二空という。 玄奘は諸経論の訳で人空・我空という訳を否定して生空という訳を用いている。人空といえば人のみに限られ、我空といえば我は法にも通じるから、いずれの表現も問題があり、生空という表現が適切であるとされた。

 末那識が、滅尽定では起こらない理由は、『論』に「滅定は、すでに是れ、聖道の等流にも極めて寂静にもあるが故に、此にも亦有るに非ず」と。

 滅尽定は、聖道の後得智の無漏観の等流のものであるから、染汚意である末那識とは性格を異にするので、この位には末那識は起こらない、という。また、極寂静であり、涅槃のようなものであるので、ここにも、末那識は起こらない。しかし、涅槃ではないので有漏の定である。六識と第七識は滅するけれども、第八・阿頼耶識は滅していないのである、と。

 阿羅漢と滅定と出世道をまとめて三位といいならわしています。この三位には染汚の末那識は存在しない、と。厳密には暫断と永断を含んで述べられているのです。「「無有」と言うは、永と暫との義有り」(『述記』第五本・七十六右)

 以上で本年度の書き込みは終了とさせていただきます。一年間おつきあいをいただきまして有難うございました。来年度はなお一層の研鑽をしまして第二能変から初能変へと考察を進めてまいりたいと思っています。『大無量寿経』本願成就文を通して『唯識論』を学んでいまして気づかされることがありました。本年度は、私事ながら五月に父が天寿をまっとうし法性無為の都に還っていかれました。父が残した遺教は「闇が晴れるのは、闇の正体が知れることだ」ということでした。闇の正体が知れると、闇が消えなくても闇が邪魔になりません。雲霧に覆われていても一筋の白道がはっきりとしていることでした。「何故自分はこんなに苦しまなくては成らないのか」・「我慢に我慢を重ねてきたがもう限界だ」等々、自分が見えずに悶々としている日々がつづきましたが、いつの頃からか、悶々とする心が邪魔にならなくなるようになっていました。それよりも悶々とする日々が有り難く頂ける様になっているのです。今を生きる力を与えられていたのですね。今までは、自力迷執の我執によって晴れ間を閉ざしていたのですね。齢・六十五にしてなお、無明の闇は深いものであります。 南無阿弥陀仏   合掌


第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(1)

2011-12-30 16:50:03 | 心の構造について

 昨日は仕事納め、年内納期が差し迫ってのあわただしい一日が過ぎました。経済状況は非常に不透明ですし、来年度の予定も立たないような状況ですが、不安定だからこそ大切な事も見えてくるのではないでしょうか。今年も後二日間になりましたが、特に意味のある二日間ですね。一年間を振り返ると共に、新しい年を迎えるについての抱負など、様々なことを考えられる、又考えてみなければならない二日間です。

 第二能変も残り、第八段第十門と二教六理証を説くのみになってきました。

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 深浦正文師、『唯識学研究』(巻下・P294)より、「繋」についての注を紹介しておきます。

 「繋」には繋属・繋縛の二義がある。繋属とは属従することで、第七が第八の所生に属従すること。例えば、第八もし欲界の生ならば、従って第七も欲界に属するがようである。繋縛とは、所生の四煩悩に縛せられることで、、例えば、第八もし色界初地の生ならば、第七が同地の四煩悩に縛せられるがようである。けだし、この第七は恒に自地の第八を縁じて我執を起し、決して他地のものを縁じて計執せぬから、所生の第八に繋属し、第八所生の煩悩にに繋縛されるものである。」

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            第八段第十門 ・ 起滅分位門

 (いかなる位によって末那識を断ずることができるのかを問う。)

 「此の染汚(ぜんま)の意は無始より相続す。何(いずれ)の位にか永(とこしえ)に断じ或は暫く断ずるや。」(『論』第五・二右)

 (この染汚の意は、無始より相続して働きつづけている。しかしどのような位に至ってこの末那識は永遠に断じられ、あるいは、暫く断じられるのであろうか。)

 (注) 「此の染汚の意は、疏と燈との意は若しは人執、若しは法執なり。要集は唯だ人執に局す。」(『新導本』p197)

  •  疏(第五本・七十六左) ・ 「今名染汚亦通法執・・・・・・一染三乗。即謂人執。在無学倶不行。二謂法執。不染二乗。但染菩薩。唯如来捨。・・・・・・」(「今染汚と名くるは、亦法執にも通ず。・・・・・・一に三乗を染するに、即ち謂く人執なり。無学に在って倶に行ぜず。二に法執を謂う。二乗をば染ぜず。但だ菩薩のみを染ず。唯だ如来のみを捨す。・・・・・・」)
  •  『了義燈』(第五本・三左) ・ 「論此位染汚意。疏云通二執説。要集等説。唯説人執。不説法執。」(「論に此の染汚の意と云うは、疏に云く、二執に通じて説く。要集等の説かく、唯だ人執を説く、法執をば説かず。」)

 初めに問が出され、後に答えられます。 「頌を挙げんと欲するに因るが故に、先ず徴起(ちょうき - 反論を起こすこと)す。」(『述記』第五本・七十五左)

 答えであるところの頌(『三十頌』本文)を挙げる為に、最初に問が出されています。

 「染汚の意」(末那識)は人執と法執の二執を含めて述べられ、また、断に永断(ようだん)と暫断(ざんだん)とがあることが以下に述べられます。


第二能変 界繋分別門 (第七段第九門) その(5)

2011-12-28 23:24:22 | 心の構造について

 (つづき)

 「「任運恒縁乃至名彼所繋」(任運に恒に、縁じてと云うより乃至、彼に繋せらると名づく)、と云う以来は、此れが中の意の説く、能縁の心を彼の所縁の地に属して繋せらると以て、相従して繋と名づく。中を橛(くい)に属すと云うが如し。

 「任運恒縁至非他地故」(任運に恒に、縁じと云うより他地には非ざるが故に)、と云う以来は、能縁の心を所縁に属する義を釈す。下は正しく解するなり。先には所由を顕し、後には属することを解するが故に。

 「或為彼地乃至名彼所繋」(或いは彼の地の為にと云うより乃至、彼に繋せらると名づく)、という以来は、此れが中の意の説く、心王を彼に属す、第八識所生の地の(第七の)煩悩に繋せらる。王を以て臣に属して相応縛に属するなり。

 此の義有りと雖も、前解(二段科の義)を勝とす。」(『述記』第五本・七十四左)

 第一の意義は阿頼耶識と末那識の関係で述べられていました。即ち所属と能属の関係です。所属は第八識であり、能属は第七識であると。そして第二の意義は繋縛ということですね。縛られるということ、縛られるという意味は、

                 ―  ・  ―

 「この場合は、阿頼耶識を縁じて自の内我となすという場合に、そういう煩悩は第八阿頼耶識の在るところの地に属する煩悩である。阿頼耶識を縁じて自の内我となす煩悩は、どこまでも縁ずる阿頼耶識の在る地の煩悩である。欲界の煩悩で色界の阿頼耶識を我とするのではない。どこまでも、末那識の煩悩は、阿頼耶識の在るところに属する煩悩である。我執は第八の在るところの我執、色界なら色界の我執、欲界なら欲界にある我執であるという意味である。」(『安田理深選集』第三巻・p100~101)

 心王は所繋・心所の四の煩悩は能繋であり、縛という場合には所縛・能縛ということになります。「第八識の所生の地の煩悩の為に繋縛せらるるをもって」ですね。「彼」(煩悩)に末那識が縛せられるということです。阿頼耶識の在るところの煩悩(界地の煩悩)によって、心王が心王に相応する心所に縛せられるということで相応縛という。「王を以て臣に属して相応縛に属するなり」と。

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 「「界繋」は、阿頼耶の界をもって自己の界とする。「随所生」といわれているのは、阿頼耶の界に随うということをあらわす。末那識の所縁である阿頼耶識の界繋に、末那識も属し、またその界繋に煩悩も繋せられる。随という字が語るように、自己自身で界繋を決定しえないということである。阿頼耶識が欲界であるなら末那識も欲界、またそれに相応する煩悩も欲界の煩悩というように、自分で決めるわけにはゆかぬということが、随ということである。阿頼耶識は無覆、末那識は有覆である。転依されぬ限り末那識は有覆で一貫し、それに対して界繋は、阿頼耶に従う。転依の末那は、善性である。また、非繋である。未転依である限り、末那の心所は一貫して有覆無記である。有覆という点で初能変と異なり、無記というところに第三能変と異なる。性格はどこまでも自己自身をもつが、界繋は阿頼耶識に随って、自己をもたぬ、そういう点で、界繋分別が置かれている。界繋分別は思想の連関としては、所依所縁に次いで考えられるべき問題であろう。所依、所縁、所繋、これは皆 「彼」 である。彼を縁ずる末那が、縁ぜられる彼の界繋に属し、末那の心所もそれに属する。末那は所縁の阿頼耶に属し、所縁の阿頼耶の界の煩悩に、末那は繋せられる。所依所縁門に所繋がつながるが、それがここに置かれるのは、三性分別に対して界繋分別するという意義がある。」(『安田理深選集』第三巻・P103)

  「若し已転依ならば、即ち所繋には非ず」(『論』第五・二左)

 (もし已転依ならば、所繋ではない。)

 「述して曰く、此れは因の中の初地已去の已転依の位に在って所繋に非ず、是れ無漏なること有り。故に前の所繋という言は亦法執にも通ず。是れ(法執)彼(我執)に類なるが故に。」(『述記』第五本・七十五右)

 初地以上の已転依の位に在るならば、この時に繋せられる末那識は無漏であり、界、地に属さない為に末那識は繋せられることはないという。

 「自下は第八段に第十の門の起滅分位に依っていう」(『述記』)

 以上で界繋分別門 (第七段第九門)の説明はおわります。次科段からは第八段第十門・起滅分位門が述べられます。


第二能変 界繋分別門 (第七段第九門) その(4)

2011-12-27 23:42:56 | 心の構造について

 第二解、繋縛について。

 「或は彼の地の諸煩悩等の為に繋縛せらるるを以て、彼に繋せらると名く。」(『論』第五・二左)

 (或いは、阿頼耶識の現行した地の諸煩悩の為に末那識が繋縛されることから、彼(阿頼耶識)に繋せられると名づけられる。)

 第一解の意義は阿頼耶識と末那識との関係から所属・能属というグループを以て繋属ということを述べていましたが、第二解は末那識と末那識相応の四煩悩との関係で説明されます。末那識は第八識所生の煩悩の為に繋縛されるという点から述べられます。

 「述して曰く、此れは第二解なり。此の識と倶なる惑を生処に随って是れ何の地にも即ち此の地に摂す。此の第七の意は自(第七識)と倶時の四の惑の為に繋せられるを以て彼を所繋と名く。識(第七心王)は是れ所繋なり、(第七の)煩悩は能繋なり。何をか所生と名づくるならば、第八識の所生の地の煩悩の為に繋縛せらるるを以て彼を所繋と名づけ、又解す此の文に三の釈あり。

  • 一に云く、「謂生欲界乃至応知亦爾」(謂く欲界に生じたるときというより、乃至応に知るべし亦爾と云う」以来は、此れが中の意の説く、若し欲界に生じたるひとの現行の末那と其れと相応する心所とは彼の心王に随って即ち欲界繋なり。繋と云うは是れ属の義なり。

   (夜も大分更けてまいりました。このつづきは明日考察します。)


第二能変 界繋分別門 (第七段第九門) その(3)

2011-12-26 23:29:43 | 心の構造について

 「任運に恒に自地の蔵識を縁じ、執して内我と為す。」これが私たちの迷いの根本ですね。自らが自らの阿頼耶識を対象とし認識して自我意識を自らが作りあげているのです。それも意識してではなく、自然に、自ずから、生まれたところに随って、生まれた自分の阿頼耶識を対象として自我意識を起こしていると教えています。

 そしてさらに詳細に個別に説明されます。第一解は繋属(けぞく)について、第二解は繋縛(けばく)についてです。

 「若し彼の地の異熟の蔵識を起こして現在前せしむるをば、彼の地に生じたりと名く。染汚の末那は、彼を縁じて我と執じ、即ち彼に繋属す、彼に繋せらると名く。」(『論』第五・二左)

 (彼の地の異熟の蔵識を起こして(阿頼耶識の現行)、現在前させるのを彼の地に生じたという。染汚の末那識は、阿頼耶識の現行を縁じて、我であると執着し、阿頼耶識に繋属する。すなわち、阿頼耶識に繋せられるという。)

  •  繋属 - 関係する。所属する。内在すること。
  •  繋縛 - 心を内につなぎ止めること。

 「彼の地の蔵識を起こす」というのは阿頼耶識の現行をいい、種子ではないと。末那識はそのような阿頼耶識の現行を縁じて、我であると執着を起すのですが、このことを阿頼耶識に繋属するという、と。阿頼耶識と末那識は所属と能属という関係になります。阿頼耶識は末那識の対象であり、末那識から属される側をいい、末那識は阿頼耶識に属していく側という。

 「述して曰く、若し彼の地の蔵識を起こすとは現行なり。種子を除いて彼の地に生じたりと名づくとは、種子を簡ばんが為の故に。論に説きて異熟蔵識と言うは、因の中の染汚の第七の末那は彼を縁じて我と執するを以てなり。第八に繋属するを以て彼の所繋と名け、八は能繋に非ず。七は所繋に非ざれども相従いて繋と名け、相応と所縁との二の縛を以て繋と名くとは難ずべからず。相い従え相い属する。是れ此の繋の義なり。第八は是れ所属なり、第七は能属と為す。即ち是れ彼の所縁を以て所属となす。第七を彼に属するなり。王とば所属と為し、臣等を能属と為す。王に随って国に繋すと云うが如し」(『述記』第五本・七十四右)


第二能変 界繋分別門 (第七段第九門) その(2)

2011-12-25 17:58:54 | 心の構造について

 末那識が阿頼耶識と同地に繋せられる根拠を明らかにする。

 「任運に恒に自地の蔵識を縁じて、執じて内我と為す、他地には非ざるが故に。」(『論』第五・二左)

 (末那識は任運に恒に自地の阿頼耶識を縁じて、執着して内我とするからであり、この阿頼耶識は他地のものではないからである。)

 「此の識は恒に自地の蔵識を執して内我と為すが故に、我見は唯だ自地を縁じて起こる。世間に倶生なるは別に他地の法を縁じて我等と為すということをば見ざるが故に。」」(『述記』第五本・七十三左)

 自地の阿頼耶識を縁じてという、(阿頼耶識の何を縁じるのかというと))阿頼耶識の見分とするのが護法正義である。末那識は自然に恒に(一刹那一刹那に)阿頼耶識と同じ地に、阿頼耶識の見分に働き続けて、恒に阿頼耶識の見分を我となして執着し続ける識である。この時の阿頼耶識は、末那識と同地であって、他地のもではないところから、末那識が、阿頼耶識と同地に繋せられるという。

 安慧・火弁の説を破斥する。

 「『対法』の第六に他界縁において云く、世間に他地の法を縁じて計して我と為すと見ざるが故に。我見は境に随って自地に繋せらる。他地の諸法は我の境に非ざるが故に。此れは倶生の別縁の我見の行相に依って説くなり。此れに由ってゆえに知りぬ。第七は(安慧を破す一文)本識の種子を縁ぜず、種子をば他地に通ずる法と許すが故に、(火弁を破す一文)亦色等を縁ぜず色等も亦通ずるが故に。第八の異熟心は通じて自・他地を縁ずれども自他の解を作さず。第七は我の解を作す、故に他地を縁ぜず。

 若し爾らば命終心は何を縁じて以て我と為るや。未来生を縁ずるは即ち是れ自地を縁ずるなり、所生の処なるが故に。此れ(第七識)は別縁の我なり。故に自地のみなり。若し総縁の我ならば之れ他を縁ずと許すべし。下(述記第六末)に自ら解すが如し。即ち是れは正義の第七は唯だ第八識のみを縁ずという家なり。此の上の文は総なり。已下は別に解す。」(『述記』第五本・七十三左)

 他地(三界九地に通じて)の法という色法や種子ですね。色法や種子は三界に通じるから、色法や種子を縁じるということなるのならば、とりもなおさず他地をも縁じているということになる、しかし末那識は、阿頼耶識に蔵されている種子や、色法は縁じないのであるというのです。他地の諸法は我の境ではないと。そしてこの理由によって、安慧及び火弁の説をも論破するわけです。(安慧の説及び火弁の説は、「末那識の所縁」、2011年8月13日~17日の項を参照して下さい。)今少し説明しますと、安慧の説は、第七末那識は第八識の現行及び種子を所縁とするという。現行を縁じて我とし、種子を縁じて我所とするというものです。火弁等の説は、第七識の所縁は第八識の見分と相分とであると主張する。見分を我と執し、相分を我所と執すという。この説を破斥しているのが『述記』の所論になるわけですね。末那識は、阿頼耶識に蔵されている種子や、色法は縁じないと。

    (次週の日曜日は1月1日になりますが、次週より毎週日曜日は安田理深先生の『下総便り』をお届けします。第一回は『曽我量深先生追弔会講和』です。味読されまして感想等をお聞かせいただきましたら光栄です。


第二能変 界繋分別門 (第七段第九門) その(1)

2011-12-24 18:10:04 | 心の構造について

 八段十義中の第七段第九門・界繋分別門が説明されます。

 「中に於て二有り。初に染を弁じ、次に浄を明かす。染の中に二有り。初は問、次は答。」(『述記』第五本・七十二左)

 (第七段第九に界繋の別なることを明らかにする。初めに染の場合(未転依の位)をのべる。次に浄の場合(已転依の位)を述べる。染の場合について二つの部分から述べられ、初は問いであり、後にその答えが述べられる。)

 「末那と心所は何の地にか繋せらるる耶。」(『論』第五・二右 ・ 新導本p196)

 この私たちが住んでいる場所を地というのですが、大地ですね。私たちが生きていると云うことは大地性を持って生きている。それぞれが別々の大地に立っている、その大地に三界九地という区別があるのです。

 欲界・色界・無色界という三界を、欲界を一つの地として、色界を第一静慮地~第四静慮地の四つとし、無色界を空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処の四つとし、合わせて九地とするわけです。その九地全部を一切地という。 「地とは謂く、九地は即ち欲界を一(地)とし、静慮・無色の八と為す。」(『倶舎論』巻第六)と。

 (先ず末那識と、その心所は三界九地の内、どの階層に繋ぎとめられるのであろうか、という問が出されます。)

 その答えが素晴らしいですね。本頌では第七頌第二句 「随所生所繋」(所生に随って繋せらる)になります。

 「彼の所生に随って、彼の地に繋せらる。」(『論』第五・二左)

 (「彼(阿頼耶識)が生まれたところ(所生=界)に随って、その生まれたところ(阿頼耶識の生じたところ)に繋ぎとめられるのである。)

 阿頼耶識の所生に随って、末那識も、末那識の心所も、その阿頼耶識の生じた三界九地のいずれかに限定され繋せられるという。第六意識のように身は欲界に在って意識は無色界に遊ぶということはないことを峻別しています。何故なら末那識も、末那識の心所も阿頼耶識を縁じて我と執するので、阿頼耶識の生じた地を縁じて、阿頼耶識のある所に繋せられるのである、と。

 二は『本頌』を釈して答える。初めに総じて説明され、後に個別に説明される。此れは初めである。別して解する中に二義あることを述べる。

 「謂く、欲界に生じぬるとき、現行の末那と相応の心所とは、即ち欲界繋なり、乃し有頂に至るまで応に知るべし亦然なり。」(『論』第五・二左)

 (つまり、阿頼耶識が欲界に生じた時は、現行している末那識と、末那識相応の心所とは、欲界繋のものとなる。このことは欲界から無色界の有頂に至るまで同様であることを知るべきである。)

 意味は、現行している末那識と、その心所は、阿頼耶識が生じた地・界と同じ地・界に繋せられるということを述べています。現行の末那識というのは、種子の状態である末那識を除いているのですが、阿頼耶識に所蔵された種子としては三界九地に通じるが、現行した場合は三界九地のいずれかという限定をもちます。異熟果としてですね。

 「述して曰く、下は頌を釈して答するが中に二有り。初に且く総じて解し、後に別して之を顕す。此れは初なり。乃し有頂に至るとは、九地は皆然なり。即ち彼の地に繋す。若し第八識彼の欲界乃至有頂に生ずるときは、現の染の末那と相応の心所とも、即ち欲界繋なり。余地も亦爾なり。六十三等と同なり。然るに顕揚の十九は界に約して論を為せり。地において分別すること無し。」と。

 『瑜伽論』巻第六十三の染浄の建立を明かす文(正蔵30-651c-15~24) 「復次阿頼耶識無有煩惱而共相應。末那恒與四種任運煩惱相應。於一切時倶起不絶。謂我我所行薩迦耶見我慢我愛不共無5明。是諸煩惱與善不善無記識倶而不相違。其性唯是隱沒無記任運而起。當知諸餘分別所起。隨衆縁力差別而轉。又與末那相應倶有遍行任運四種煩惱。世間治道尚不能爲損伏對治。何以故。已離欲者猶現行故。隨所生處是諸煩惱即此地攝。」(復次に阿頼耶識は煩悩と而も共に相応することあることなし。末那は恒に四種の任運なる煩悩と相応し、一切時に於いて倶に起こって絶えざるなり。謂く我・我所に行ずる薩伽耶見、我慢、我愛、不共無明なり。是の諸の煩悩は善・不善・無記の識と倶にして相違せず、其の性唯だ是れ隠没無記(有覆無記)にして任運にして起こる。まさに知るべし、諸余の煩悩は分別して起こす所にして、衆(もろもろ)の縁力に随って差別して転ずと。又末那と相応し、倶有し、遍行する任運なる四種煩悩は、世間の治道尚損伏対治(そんぶくたいじ)を為すこと能はざるなり、何となれば、已に欲を離れたる者すら、猶、現行するが故なり。所生の処に随って是の諸の煩悩即ち此の地の摂なり。」

 「釈すらく、第七識の所生の処に随って、彼と相応する惑も亦同地に摂む。」

 「又顕揚(『顕揚論』巻第十九・正蔵31-573)十九に、若し此の界の中に生ずる補特伽羅(ぷとから=衆生)は当に知るべし。此の意と相応する煩悩は即ち是れ此の会の体性に摂せらると云えり。釈すらく、瑜伽は地に約し、顕揚は界に拠る。麤細少し差いども大意は一種なり。」(『演秘』第四末・二十四右)

 


第二能変 三性分別門 第六段第八門 その(4)

2011-12-23 22:17:19 | 心の構造について

 「上は本頌に依りて因にて有覆なりと云うことを解しつ、」

 三性分別門の初は本頌に依って因位(仏位未満)の場合は有覆無記であることを解し、後に果位(仏位)の場合について説明される。

 「若し已転依ならば、、唯だ是れ善性なり。」(『論』第五・二右)

 (もし、已転依ならば、ただ善性である。)

 「今は果の位にして唯だ善性なることを顕す。理に順ずるに以て、寂静なるを以ての故に。」(『述記』第五本・七十二左)

 已転依・仏位を顕すことにおいて因の相(迷いの構造)が明らかになるのですね。因から果に向かうということではなく、果において因が明らかになることを示唆しています。有覆無記の末那識が転依した時は、末那識は平等性智という智慧に転じて、唯だ善性になるということです。善性であるということは、寂静であるということ理に順じるということですね。

 以上で八段十義中の第六段第八門・三性分別門が述べ終わります。次の科段は第七段第九の界繋分別門が述べられます。


第二能変 三性分別門 第六段第八門 その(3)

2011-12-21 23:25:16 | 心の構造について

 「此れと倶なる染法も、所依細なるが故に、任運に転ずるが故に、亦無記に摂めらる。」(『論』第五・二右

 (此れ(末那識)と倶である染法も、所依が細であるから、また任運に転じるから、また有覆無記である。)

 第七末那識と相応する四煩悩は三性では不善か有覆無記であるが、四煩悩が所依となる第七末那識と四つの理由によって有覆無記になるという。

  • (1) 「所依の識の行微細なるを以ての故に」。末那識が微細であるから、四煩悩は不善ではなく、有覆無記であるという。
  • (2) 「任運に転ずるが故に」。末那識は任運に活動するから、四煩悩も、また有覆無記となるという。
  • (3) 「善(善位の十一・本頌では第十一頌)、を障えざるが故に」。善の十一の心所を障碍しないkら、四煩悩は有覆無記となるという。
  • (4) 「三性に遍ぜるが故に」。前六識が三性を起こす時に、同時に活動している末那識は、恒に現行して、この前六識と倶起することを、三性に遍するといい、三性に遍するから、四煩悩は有覆無記となるという。「六識相応の煩悩は所依心王麤なるが故に三性に通ず。・・・・・第七は諸識の染浄依なり。」と。

 この四つの理由を以て(末那識の性格から)、四煩悩が有覆無記となることを述べています。またこの四つの理由、(1)・(2)は『論』に述べられている。「此倶染法。所依細故。任運転故。亦無記摂」の文。(3)は下第六巻に「明倶生身辺二見唯無記故。雖数現行。不障善故」の文により、(4)は『瑜伽論』巻第五十三の「明第七惑是諸煩悩。與善不善無記識倶而不相違」の文に由ると、『同学鈔』(第一・大佛全p611)にはその根拠を提示されています。

 「「微細の言」は摂論の二本に皆第一と説くとは、無性論(『無性摂論』巻第一)を按ずるに、本論を牒して、此の意は染汚なるが故に有覆無記性なり。四煩悩と常に共に相応す。色と無色の二纏の煩悩の如く、是れ其の有覆無記性の摂なり。色と無色との纏は奢摩多の摂蔵する所と為るが故に、此の意は一切時に微細に随逐するが故にと云えり。三界は有情の帰する所、集する所の所なり。猶し彼の市廛の如し。梵に阿縛遮羅と云う。」(『演秘』第四末・二十四右)

 『無性摂論』巻第一に「此の意は染汚なるが故に。是れ障碍無記なり。恒に四煩悩と相応す。色・無色界の煩悩の如し。是れ障碍無記なり。色・無色界は奢摩多所蔵と為る。此の意は一切時に於て染著す。」と。

 市廛(してん) - 「まち」・「まちや」(町、町の中の店)


第二能変 三性分別門 第六段第八門 その(2)

2011-12-20 23:07:09 | 心の構造について

 「述して曰く、今は相応を以て心は是れ染と云うことを顕す。性は染に非ざるが故に。初に有覆の名を釈することは第八識の中に解するが如し。梵に胒佛栗多と云う。此には有覆と云う。(旧訳に)隠没と言うは言に善からざるが故に余の文は知る可し。」(『述記』第五本・七十一左)

               ―      ・      ―

 「上二界の諸の煩悩等の、定力に摂蔵せらるるをもって、是れ無記に摂めらるるが如し、」(『論』第五・二右)

 (三界の上二界(色界・無色界)の諸々の煩悩等が、定力に摂蔵されることにより、無記となるようなものである。)

 定力(じょうりき) - 「静慮を修する時、定力所生の定境界色は眼根の境に非ざるが故に無見と名づく」と。禅定の力のこと。

 上界の定力を以て惑も有覆と成ることを述べます。上二界には煩悩は定力を以て摂蔵され有覆無記として存在し、ただ不善(悪)である煩悩は存在しない、ということを例を挙げて説明する科段です。

 「上界は定力を以て惑は有覆に成りぬ。問、上界の煩悩は定力に由るが故に有覆と名づく可けれども、此の識は何すれぞ名づけて無記と為るや。 (答)、此の識と相応する四の煩悩の等きは定力無しと雖も、(第一因) 所依の識(第七心王)の行相微細なるを以ての故に、(第二因) 任運に転ずるが故に、(第三因) 善を障へざるが故に、(第四因) 三性に遍ぜるが故に、亦(四因の故に) 無記に摂めらる。」(『述記』第五本・七十一左)と。