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蓬茨祖運述 『釈尊伝』 より、誕生の意味を考える。
「― 尊いねうち ― そこにわれわれの人生は道をもとめている意味があるのです。そのもとめた道が得られて、本当にこの道を自分のものとして成就する。そういう意味をもって生まれてきたのだと、こういうふうに大体、人間の誕生ということについて、そういう意味の深さと、たとえどのような不幸せがありましても、自分をすてないで、他とくらべて自分をおとしめないで、それ自身尊いねうちがあるのだという意味をあらわしたのが、仏陀の誕生についての教えであります。 ですから、生まれながら七歩あるいて「天上天下唯我独尊」といったという経文を除いてしまいますと、釈尊という方は人間の一人にすぎず、人間のうちでも名高い思想家、あるいは哲学者、あるいは宗教家とでもいう意味に考えられてしまいます。そうするとわれわれから非常に遠い人になります。遠い人でありますけれども、われわれが考えもしなかった自分が生まれていたということは、本当に尊いものがあるのだ。そしてかならず道を成就できる。本当に満足できるというものが自分のうまれてきたという上にはあるのだ。そのために一歩一歩とあるいていくのが、生まれてきてからのわれわれの営みなのだ、という意味をのべられたのが経典の記述であります。
― 近い関係 ― こういう意味があるので、ある人の伝記としてみれば単純なものですんでしまうのがわが身にあてて照らしてみると、今までわれわれが考えないでところに一つの光があたって、なにか煩悶していることがあっても、そこにはっきりしなくても、なにか一つの手がかり、煩悶しながらもなをそれをのり超えていかれるような心境がえられる、ということになれば、仏陀と言う意味が、われわれに非常に近い関係だということになるわけでございます。近い関係であった仏を遠ざけてしまったものは、むろん今日までのわれわれのいたらぬところであったということはいわねばならぬでしょう。お寺の方にしても、お寺にまいってきた人になに一つ教えることなく、長い間遠ざけてしまったということがあります。人々の生活のもっとも基礎となるべきものを形式的なものにしてしまったことは、われわれの過去におかしてきたまちがいであります。 しかし、本来の意味は仏陀とわれわれの関係は遠ければ遠いほど、それだけに近い関係があって、今まで自分では考えもつかなかったところに一つの光があたって、そこに新しい道を見出してゆけるというのが、仏陀の本当の教えであります。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
見断等門が終わりまして、次に随煩悩が本質相分(ほんぜつそうぶん)を持つのか、持たないのかを論じてきます。
「然も忿等の十は但有事を縁ず。要ず本質に託して方(まさ)に生ずることを得るが故に。」(『論』第六・三十五左)
「下は第十二に、有事等門なり。忿等は但有事のみ縁じて、我見とは倶ならず。我見と倶なる心等は無事(むじ)を縁ずと名づく。本質の我なきが故に。此れは人執心の本質によって、無事を縁ずと名づく。准じて知る。後の十はニの所縁に通ず。」(『述記』第六末・百三左)
煩悩の項にも「有事等門」が述べられていました。その項を参考に考えます。
「諸々の煩悩は皆、相分は有りと雖も、而も所杖(しょじょう)の質(ぜつ)いい、或いは有り・或いは無きなり。有事・無事を縁ずるを煩悩と名づく。」と。
本質相分の有無ですね。本質相分を持つ煩悩を有事を縁ずる煩悩といい、本質相分を持たない煩悩を無事を縁ずる煩悩というと説かれています。
薩迦耶見(有身見)が我執を起こす場合は無事を縁ずる煩悩といわれます。何故なら本質の我(影像相分)とは関係がないからであると。本来無我ですから我を対象とすることは無いのですね。これは我執を起こす有身見は無事の煩悩と名づくといわれるのです。本質は影像相分(心。心所が心のうちにもろもろの対象を変現すること)の拠り所となるものですから、事物自体を本質といいます。「諸々の煩悩は皆、相分を持つとはいえ、所杖(影像相分の拠り所)いわゆる本質相分である。有身見の我執を起こすものと相応する煩悩は本質相分を持たない無事の煩悩といわれ、相応しない煩悩を有事の煩悩といわれるわけです。
小随煩悩の場合ですが、ただ有事を縁ずるといわれますね。有身見が我執を起こす場合は無事でありますが、小随煩悩は本質相分に託して生じるので、無事を縁ずる有身見とは相応しないわけです。それで有事といわれるのです。有事といいますのは因を伴っているものと云うことになります。本質相分を因とするという事なのです。事は因の意味で、根拠を具するものと云うことになります。無事を縁ずるということは根拠が無いということになり、我執を起こすと云う場合は無我であるのに(五蘊仮和合であるにもかかわらず)、五蘊が有ると誤って(我が有ると)執するのです。
「有漏等を縁ずる上(かみ)に准じて応に知るべし。」(『論』第六・三十五左)
「ただ有無漏の所起の事、所起の名を上の煩悩に准じて説くべし。或いは、この上来所明の義は、その嫉等を無漏所起の名等を縁ずと名づけ、忿等を有漏所起の事を縁ずと名づくと説けるが故に。」(『述記』第六末・百三左)
本科段は、小随煩悩が有無漏を縁ずるのか、否かを論じているところです。「等」は「有異熟等門と、九品の潤生発業ありという門等を等取す。」(『述記』)『論』に「余門を分別することは、理の如く思う応し」と云われているところです。「上に准じて」とはこのことです。随煩悩の二門は漏無漏縁分別門と名境事境門を指します。所起の事(起こること)は漏無漏縁分別門・所起の名を名境事境門と云われています。
一応、随煩悩の諸門分別の考察を終える事が出来ました。
見所断・修所断という見道・修道という修行の階位については、唯識では実践問題として五位の階位をあげています。『三十頌』第二十六項から述べられています。求道の一つの段階として最初の過程は理解から始まるのです。そして深まっていくのですね。五位を挙げてみますと。資糧位(聞)・加行位(思惟)・通達位(見道通達位)・修習位(修道位から本当の意味の求道が始まるのです。菩薩十地の修道になります。)・究竟位(妙覚一仏)になります。これまで問題になってきましたのは、倶生起の煩悩と分別起の煩悩、いわゆる修惑・見惑の問題でした。分別起の煩悩は後天的な見惑ですが、見惑の我執は非常に固いのですが、脆いのです。脆いものですから見道で完全に破れるといわれます。無分別の智慧をいただきますと、分別起の我執は音をたてて壊れるのです。真実信心を獲た時、「念仏もうさんと、おもいたつこころのおこるとき」(『歎異抄』)に邪見・見取見・戒禁取見という我見は見事に壊れるのです。問題は倶生起の煩悩です。十地を通して、はじめて一つ一つ解決していくようなものと云われます。その長さは三大阿僧祇劫かかるといわれ、修行の内容は十波羅蜜、其れに依り取り除かれるのは十の重障で十の真如が得られると云われます。究竟位に於いて自己の依る根拠が転換するのです(転依)。獲た所の智慧(無分別智)は自己の根拠となるのです。真宗の信心はこの位になりますね。獲得した信心が根拠となり、そこから逆に、私自身が「汝」と呼ばれる存在になるのです。得た智慧が我となり、得た我がかえって「汝」となるのです。そういう意味で、智慧というものは本当に人間を解放してくるのですね。人間に真の意味の独立を与えるのが智慧の働きに成るのでしょう。そして真に智慧を頂いた時、人間は独立して歩むことが出来るのではないのか、そんなことを思うことです。
「世間は愍傷 すべし。常に皆自利に於いて
一心に富樂を求め、邪見の網に堕し
常に死の畏れを懐きて、六道の中に流転す。
大悲の諸の菩薩も、能く拯ふこと希有なり。
衆生、死の至る時、能く救護する者なく、
深黒闇に 沒在して、煩悩の網に纏はる)
若し能く大悲の心を、発行する者あらば)
衆生を 荷負するが故に、之が為に重任と作る。
若し人決定の心をもって、獨り諸の勤苦を受け、
獲る所の安穏の果を而も一切と共にせんに
諸佛の稱歎する所にして、第一最上の人なり。
亦、是れ希有の者なり。功徳の大蔵なり、
世間に常に言う事有り、家、悪子を生まざれば
但能く己の利を成すも、人を利すること能はず。
若し善子を生めば、能く人を利する者なり)
是れ則ち満月の如く、其の家を照明す。
諸の福徳有るの人、種々の因縁を以って
饒益すること大海の如し。又亦大地の如し。
世間に求むる事なく、慈愍を以ての故に住す。
此の人は生まれながら貴しと為す、壽命第一最なり。」
(『十住毘婆沙論』序品第一の偈)