FBの「唯識に自己を学ぶ」において『成唯識論』第二能変を解読してきましたが、先般終了させていただきました。次回より第三能変を解読できればと思っています。ブログでは初能変を解読しております。阿頼耶識の存在論証の第九滅定証の第三まで読ませていただきました。今後は滅定証のつづきと、第十理証である染浄証を解読していければいいなと思っています。その後は、もう一度初能変をまとめるという形で復習をさせていただきたいと思います。
今後はブログも週一の予定で更新したいと思います。よろしくお願いいたします。
根寿無持難
本文
「又異熟識いい此の位に若し無くんば、誰か能く諸根と寿と煖とを執持すべき。執持するもの無きが故に、皆壊滅しぬ応し、猶し死屍の如し。便ち寿等無かるべし。」(『論』第四・四左)
意訳
また異熟識が此の位(滅尽定中)に、もし存在していないのであれば、何がよくこの滅尽定中の有情の寿と煖とを執持するのであろうか。つまり、滅尽定中の有情に異熟識が無いのであれば、皆(諸根・寿・煖)執持するものが無いためにこれらの諸根と寿と煖は壊滅するであろう。恰も死屍のようなものである。すなわち寿等は無いであろう。)
参考文献(『述記』)
「述して曰く、第四なり。此の位の中に在るときは誰か能く寿と煖とを執持する。前に三法の互に相持すと言うが故に。応に此の位には寿・煖等の法いい皆壊滅すべしと言うべし、執持する識無きが故に、猶し死屍の如くと。又此の位の中には応に寿等無かるべし、能く執持する識無きが故に、死屍等の如くと。」
『述記』の解釈からまず問が出されて、滅尽定中では何が諸根と寿と煖とを執持(保つという意味。保持)するのか?それが異熟識であると証明しているのです。そしてですね、もし異熟識が無かったならば皆壊滅し、屍と同じになってしまう。しかし現実には滅尽定中でも諸根と寿と煖とは保持しつづけているわけです。この作用が異熟識であると論証しています。
「三法の互に相持す」は、第五理証・寿煖識証において論証されました。
また「死屍の如く」は、第六理証・生死証を受けています。
今後はブログも週一の予定で更新したいと思います。よろしくお願いいたします。
根寿無持難
本文
「又異熟識いい此の位に若し無くんば、誰か能く諸根と寿と煖とを執持すべき。執持するもの無きが故に、皆壊滅しぬ応し、猶し死屍の如し。便ち寿等無かるべし。」(『論』第四・四左)
意訳
また異熟識が此の位(滅尽定中)に、もし存在していないのであれば、何がよくこの滅尽定中の有情の寿と煖とを執持するのであろうか。つまり、滅尽定中の有情に異熟識が無いのであれば、皆(諸根・寿・煖)執持するものが無いためにこれらの諸根と寿と煖は壊滅するであろう。恰も死屍のようなものである。すなわち寿等は無いであろう。)
参考文献(『述記』)
「述して曰く、第四なり。此の位の中に在るときは誰か能く寿と煖とを執持する。前に三法の互に相持すと言うが故に。応に此の位には寿・煖等の法いい皆壊滅すべしと言うべし、執持する識無きが故に、猶し死屍の如くと。又此の位の中には応に寿等無かるべし、能く執持する識無きが故に、死屍等の如くと。」
『述記』の解釈からまず問が出されて、滅尽定中では何が諸根と寿と煖とを執持(保つという意味。保持)するのか?それが異熟識であると証明しているのです。そしてですね、もし異熟識が無かったならば皆壊滅し、屍と同じになってしまう。しかし現実には滅尽定中でも諸根と寿と煖とは保持しつづけているわけです。この作用が異熟識であると論証しています。
「三法の互に相持す」は、第五理証・寿煖識証において論証されました。
また「死屍の如く」は、第六理証・生死証を受けています。