唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(49) 第三、意名不成証 (③)

2012-04-30 22:29:26 | 心の構造について

 次は経量部、仮説の救(補足説明を想定して)を論破する。

 「若し謂く、仮りて説くといはば、理いい亦然らず、正(まさ)しく思量すること無し、仮を何に依ってが立てん。」(『論』第五・十二左)

 (もし、仮に説くというのであれば、理はそうではない、何故ならば、正しく思量することが無い、仮を何によって立てるのか。)

 経量部の仮説の救とは、仮説する、仮に意の名を立てるという。無いものに対して仮説する、と。無いものとは、前滅の識です。過去の識は現在に於ては無いわけですが、過去に存在していた時には思量する用があったわけです。その用があった時を所依として現在の識が現行しているのであるから、当然その識には思量するようがあると仮説しているわけですが、『述記』に「過去は体無し、仮て用を説くといはば、難じて云はく」と過去に過ぎ去ったものは無体であり、体が無いものに、思量する用はないのであるから、仮説ということも成り立たないと論破しています。

論。若謂假説至假依何立 述曰。經部宗言過去無體假説用者。難云。汝之現在無正思量。假法何立。假法必有法可似故。無有現在實正思量。假依何立。大乘前破衞世外道假依眞事。如此理難乖前義者不然。據理而説。不依於眞方有似轉。經部所計。現在正思。過去似此。假名爲意。就彼宗難。無違教失。故前所説存自就他難。今者癈已從他難 又前約勝義難。眞實義中不依於眞而辨假故。今依世俗難。世俗之中有眞・似故。」(『述記』第五末・三十右。大正43・412c) 

 (「述して曰く。経部宗の言はく過去は体無し、仮て用を説くと云はば、難じて云はく。汝が現在には正思量無しという仮法を何によってか立てん。仮法は必ず法として似るべきこと有るが故に。現在に実に正しく思量するするもの有ること無し。仮は何に依ってか立つる、大乗は前に衛世外道の仮(仮我)は真事(真我)に依るというを破しき。此の如く理を以て難ずるに前の義に乖くと云うは、然らず。理に拠って説かば、真に依って方に似転ずること有るものにあらず。経部の所計は現在は正しく思し、過去は此れに似たり。仮に名けて意と為すと云う。彼が宗に就いて難ず、違教の失無きが故に。前の所説は自を存して他に就いて難ず。今は己を廃して他に従って難ず。又前には勝義に約して難じき、真実義の中には真に依って仮を弁ぜざるが故に。今は世俗に依って難ず、世俗の中には真と似と有るが故に。」)

 仮というのは必ず実に依るわけです。体が無ければならないのですが、経量部はすでに前滅の識には実は無いと主張していました。「過未無体」と。ここには当然「何に依って立てられた仮であるのか、という問いが出てきますが。経量部の主張には矛盾が生じてくるわけです。経量部が無体法に意を仮説するのには思量するという意義がないということですね。


「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (10) 

2012-04-29 19:34:36 | 『感の教学』 安田理深述

 「法性というのみでは如であっても来ということは出来ない、純粋意欲こそ従如来生である。静止的なる一如の法性は初めて如来如去の動的な原理となる。意欲の存在論的意義は、単に静止的なる一如の真理と区別される動的原理ということである。意欲ははたらく真理である。そしてその用きの他に実在はないのである。宿業を通して衆生を目さまし、その衆生を契機として無生の法性を、衆生のそこに生れそこに死することを得る国土として具体化する、超世界的な用らきが欲生我国と言いあらわされているのである。欲生こそ意欲する意欲であり、本願する本願である。この用らきが方便といわれるのであって、衆生がその内なる自性清浄の法性をもちつつ、しかもそれに帰ることを得ずして外に出ていたのは、その内なる自性の門を開く方法が見つからなかったためである。法性を無くしていたためではない、無となるのは法性とも自性とも言い得ぬからである。無性或いは不生の法性に生の門を開く方法がなかった、衆生の側から見つけることが出来なかったのである。門は外から開くこと出来ないからである。ここに法性の無性は衆生の生を契機として、自らを方法として限定してきたのが欲生我国であったのである。欲生が衆生をして我国なる無生の故郷に目ざましめたのである。この無生の門たる欲生が宗教そのもののはたらきをなすのである。即ち衆生を宗教的自覚として成就するのである。実は自覚存在としての衆生は、欲生我国の用らきによって本願内存在となったのである。宿業の衆生それ自身で既に感覚という機能を与えられているといえるのであるが、本より与えられているものが欲生によって自覚的に成就するということが出来る。自覚ということ無かったものが有るようになることではなくして、忘却していたものが再確認されることである。

 めざめるのは夢からめざめるのである、死から目ざめるのではないであろう。宿業によって生きている実存が、自覚的実存になったのである。その時その自覚存在は、目ざめしめた本願の内なる存在となったということが出来る。呼びかける本願の呼びかけによって、呼びかける本願の内におかれたのである。欲生によって宿業の衆生は、自らを如来の内に見出したことになる。これが自覚的に成就するの意義である。純粋なる感覚的自覚というものは、本願の内にあって本願を感覚的に自覚するのである。本願を外感するのでない。況や理知的に表象するのではない。欲生我国の呼びかけは、即ち衆生を宗教的自覚として成就したのである。あくまでも機能の成就である。ここに宿業の完成、本能の純化ということが出来る。宿業本能が消えたのでもなく、またもとのままというわけでもない、純化され完成されたのである。自己の内面の用らきによって内面に目ざめる感覚的自覚として完成されたのである。衆生がなくなっったのではなくて、衆生が純粋なる衆生となったのである。別言すれば宗教的自覚たる新人となったのである。智慧となったのである。世界内存在といわれる実存が、如来内存在の覚存となったのである。これが実存の廃棄でなくしてその成就ということが出来ると思うのであります。

 感覚という機能を逆転すれば機感である。衆生を成就するという意義は、この点からいえば機を成就するということである。機とは能力である。感知するという能力である。そして感は応と結びつけられる概念である、感応という、機は感知し法は応ずるというわけである。今日の言葉では呼応というところかと思います。われら衆生には本より感ずる能力が本能として与えられている、いのちあってのものだねとはこの感の能力である。いかに迷いによって苦悩している衆生であっても、そこに感知の能力が賦与されている、それが迷いの苦悩を脱する唯一の通路となるのである。ただ問題はその機能を純粋化するということである。折角与えられている感覚が雑染されている、理知の固執によって汚染されているのである。論理の道でなくして内観の道とは、即ち感の機能を快復することである。  (つづく) 

 お詫び、十回で配信する予定でしたが、来週が最終章になります。申し訳ありません。


第二能変  第二・ 二教六理証 その(48) 第三、意名不成証 (②)

2012-04-28 20:22:43 | 心の構造について

 第二に、有部等の諸部派の説を論破する。これが三つに分けられる。初は有部の説を論破し、次は経量部の説を論破し、さらにまとめて論破する。初がさらに二つに分けられ、初めにまためて論破され、後に過去と未来は実存在するという有部の説を論破する。その第一が、

 「謂く、若し意識の現在前する時には、等無間の意は已に滅し有るに非ざるをや。」(『論』第五・十二左)

 (つまり、第六意識の現前する時には、等無間の意はすでに滅しており、存在していないからである。)

 有部等の主張は、思量することを意と名づけ、この意は過去の心であるという。過去の心、即ち前滅の識をもって意根とすることについて、そうではない、と。識が生起する時には、過去の意は已に滅しているので、識が生起する時には思量することの働きが無い、何故に過去の心を意と名づけられようか、と有部等の説の誤りを指摘しているのです。

「論。謂若意識至已滅非有 述曰。第二破薩婆多等。彼小乘言。思量名意。過去心是。今破不然。識現生時意已謝滅。現無思量之用。過去之心如何名意。」(『述記』第五末・二十九左。大正43・412b) 

 (「述して曰く。第二に、薩婆多等を破す。彼の小乗の言はく、思量するを意と名くるは、過去心是れなり。今破す、然らず。識が現に生ずる時には、意は已に謝滅しぬ。現に思量するの用無し。過去の心を如何ぞ意と名くる。」)

 小乗側からいうとですね、前滅の識を所依として意識が生起するというのですね。前滅は過去のものですが、過去のものを以て意根とすると主張しているのです。これは有部は三世実有法体恒有という立場ですから、過去は過ぎ去ったものではないという立場ですね。しかし、過去に滅したものに思量するという働きはありませんし、用きのなくなったものに思量という名は立てられないというのが護法の言い分になります。

 「過去・未来は理いい有に非ざるが故に、彼の思量の用は定んで成ずることを得ずなんぬ。既に爾らば如何ぞ説いて名けて意と為すと云う。」(『論』第五十二左)

 (過去・未来は道理からいえば、存在しないものである。彼の思量の用は必ず成立することは出来ない。すでにそうであるならば、どうして、意と名づけると云うのであろうか。)

 有部及び経量部の説を論破する一段です。有部等が過去・未来は存在すると主張するのは道理から推すと言えない。存在しないものに思量する用はないはありませんから、そのような前滅の識を以て第六意識の意根とするわけにはいかない、というのです。経量部等の主張は、過去・未来には体は無いと説いています。現在有体、過未無体というのですね。まあ無体だと、そのような無体のものに、どうして思量するような用が有るといえるのか、と。仮説だというのですが、用の無いものに仮説は成り立たないですね。つぎの科段で詳しく述べられます。

「論。過去未來至説名爲意 述曰。彼言去・來有者。不然。去・來理無故。如薩婆多等前已破訖 經部等義。去・來無體。若過・未無體。如何言思量 雙問二家。如何思量 設前有體亦已無用。後無體故其用理無。用體既無。如何名意。」(『述記』第五末・二十九左。大正43・412c)

 (「述して曰く。彼が去来有と言うは、然らず。去来は理無なるが故に。薩婆多等をば前に已に破し訖んぬ。経部等の義は、去来は体無し、若し過未は体無くば如何ぞ思量と言う。雙べて二家に問う、如何ぞ思量と云う。設い前は体有りとも亦已に用無し。後は体無しと云うが故に、其の用も理いい無し。用も体も既に無し、如何ぞ意と名くる。」)

 余談になりますが、三世実有論について、『倶舎論』には「三世の有は、説と二と境と果とを有するとに由るが故なり。三世有と説くが故に、説一切有と許す。」(「三世有由説 に有境果故 説三世有故 許説一切有」)と述べられています。経証と理証を以て三世の法は実有であると論証しているのです。経証は『雑阿含経』です。その中に、過去の色が実有でないならば、過去の色に於て、厭捨を勤修することができない、これは過去の色が実有だからこそ厭捨を勤修することができるのである、と。又ですね。未来に於いてもです。未来の色が実有でないならば、未来の色に於て貪求を勤捨することはできない。未来の色に於て貪求を勤捨することができるのは、未来の色が実有だからである。そして識は二縁に依って生ずる、と。二縁とは根と境である。若し過去・未来が実有でないならば、能縁の意識は根・境を欠くことになる、根は過去に有り、境には過去・未来が有ると。理証は、識が起こる時は必ず境に依る。過去・未来に境が無かったならば、所縁の無い識が起こることになる。又、已謝の業(すでに滅し去ったこと)には未来の果を有する、と。過去の体が無いならば、善悪の二業に未来の果が無いことになってしまうと、このように三世の実有を説くので説一切有部と称しているのである。これが有部の主張です。このことをふまえて護法は論破しているのです。


第二能変  第二・ 二教六理証 その(47) 第三、意名不成証 (①)

2012-04-27 22:48:31 | 心の構造について

 第七末那識の存在証明について、二教六理証の中の第三の意名不成証を述べる。概略を述べますと、第六識を意識と名けるのは所依の意の名を能依の上に立てるのであって、これは大・小乗共に承認しているところである。しかし、第七末那識を承認しないのであれば、第六識の所依の意根は名のみ有って義が無いことになる。第六識という場合は、意による識であり(眼識という場合は眼による識と同じように)、その意が末那である。第七末那識が存在することに於て意の名が立てられるのです。但し、有部が前滅の意を以て思量の意根とすること、経量部が無体法に意を仮説することは、何れも思量の義が無い、と説明されています。以後詳細を述べます。

 「又契経に説かく、思量するを意と名くと云う。若し此の識無くんば彼いい応に有るに非ざるべし。」(『論』第五・十二右)

 (また『契経』に説かれている。「思量するを意と名く」と。もしこの末那識が存在しないのであれば、彼(思量するもの)も存在しないであろう。)

 第三理証の意名不成証とは、末那識が存在しなかったならば、それを所依とする第六意識の意識という名が成立しないということから、末那識の存在を証明しようとするものです。意識とは、意根を所依としている識であるということ。これは大・小乗共に承認しているところです。但し、大乗と小乗とでは、意根とは、何を指すのかについての見解が違うのです。

 経典には、意とは「思量するもの」と説かれている。「思量するもの」とは末那識のみです。末那識は「恒審思量」という語によって、その特徴を示しています。

 先に述べてきましたように、意根は先ず上座部に於て、胸中の色法(心臓)を以て、第六意識の所依となる意根と主張しました。さらに部派仏教に於て、有部は「前滅の意」を意根と考えたのです。しかし、大乗に於て、識と根とは同時的存在であることから、意識と意根とは異時ではなく、同時に存在しなければならないとして、末那識を意根と考えたのです。これが末那識の発見です。

 論。又契經説至彼應非有 述曰。自下第三意名不成經。文中有三。初文可解。」(『述記』第五末・二重苦左。大正43・412b)

 (「述して曰く。自下は第三に意の名成るぜずと。経文の中に三あり。初の文解すべし。」)


第二能変  第二・ 二教六理証 その(46) 第二、六二縁証 (⑮)

2012-04-26 23:26:09 | 心の構造について

「疏。生所依者。親能發起名之爲生。非同種子辨體生果名爲生也。」(『演秘』第四末・三十五右。大正43・904b)

 (「疏に生所依とは、親しく能く発起するを、之を名けて生と為す。種子の体を弁じ果を生ずるを名けて生と為るには同に非ざるなり。」)

『演秘』には「生所依」とは、「親能発起」と、密接な関係を以て生起することを生所依という、と。これは種子が、識体を生起させるようなものではなく、それ(末那識)が有ることに於て、初めて識(第六意識)が生起するような依り所を生所依というと述べられています。

 『述記』に戻ります。

 「此の中に問うて曰く、五根(五識の所依)は別に体有るを以て、意(意識の所依)と云うも別に第七を立てば、五塵(五識の所縁)は体実有なるを以て法(第六識の所縁)も亦実有と云う耶。 (注、五塵とは、五識の対象である五境で、欲望の対象となって心を汚すから塵に喩られる。)

 答、経には六二の縁に従うとのみ云うて、有体・無体とは言はざるが故に。

 問、法は無体なりと雖も亦意(第六意識)生ずることを得、例と為することを成ぜずと云はば、亦二の縁に従って生ずと云うを以て根(所依の意根)も現に体無けれども亦成ずることを得べし。過去の意を以て意と為るが故に。

 答、然らず。根(所依)は能く順生(識に順生)するを以て同世一処にして(意根に)力有るが故に、現に体無かいが故に、即ち成ぜず。法は但だ境と為るにても即ち心を生ずるが故に。法が無き時あり、五に例せず。此れは五十二(『瑜伽論』巻第五十二)の中に説くが如し。問難せること大に好し。」

 「法は但だ境と為る」とは、

 疏。法但爲境等者。即五十二明彼無法得爲意境。是此證也。彼文廣辨。今略引之論云。問如世尊説過・未諸行爲縁生意。過・未非有何故説彼爲縁生意。若意亦縁非有事境。云何佛説由二種縁諸識得生。答由執持諸五識身所不行義。故佛世尊假説名法。是故説言縁意・及法意識得生釋曰。持自無體令五識不行令意識轉。故假名法。非言爲法即有實體 論云。又有性者安立有義能持有義。若無性者安立無義能持無義故皆名法。由彼意識於有性義。若由此義而得安立。即以此義起識了別。若於二種不由二義起了別者。不應説意縁一切義取一切義 釋曰。相分雖有。據本質説得言縁無。」(『演秘』第四末・三十五右。大正43・904b)

 (「即ち五十二(「過去諸行為縁生意。未来諸行為縁生意」大正30・584c)に、彼の無法を意の境と為すことを得と明かせり、是れ此の証なり。彼の文に広く弁ず、今は略してこれを引く。

 論(『瑜伽論』巻第五十二)に云く、「問う、世尊の説くが如きは、過(過去)・未(未来)の諸行を縁と為して意を生ずと。過・未は有に非ず。何んが故に彼を縁と為して意を生ずと説けるや。若し意も亦事境あるに日ざるを縁ずといわば、云何が仏二種の縁に由るが故に、仏世尊仮に説いて法と名く。是の故に説いて意と及び法とを縁として、意識生ずることを得と言う。

 釈(『瑜伽師地論略纂』巻十三)して曰く、自の無体を持して五識をして行ぜざらしむ、意識をして転ぜしめるが故に仮に法と名く。法と為すと言うも即ち実体有るものには非ず。

 論に、又有性とは有の義を安立し、能く有の義を持す。若し無性とは無の義を安立し、能くむの義を持するが故に皆法と名く。彼の意識に由りて、有性の義に於て若し此の義に由りて安立することを得るといわば、即ち此の義を以て識の了別を起こし、若し二種(有と無)に於て、二義に由らずして了別を起こさば、応に意は一切の義を縁じ、一切の義を取ると説くべからずと云えり。

 釈して曰く、相分は有と雖も本質に拠りて説いて無を縁ずと言うことを得。」

   


第二能変  第二・ 二教六理証 その(45) 第二、六二縁証 (⑭)

2012-04-25 23:05:50 | 心の構造について

 「「増上」と云うは、因縁を簡ぶ。即ち種子依なり。若し、余宗に対せば便ち所立に非ず。若し経部に対すれば便ち立已成あり。若し五識を挙げて以て同喩と為せば(有部に対して)所立不成なり。」

 増上とは増上縁依(倶有依)のことであって、因縁依(種子依)を簡ぶことを述べています。因縁依は直接的に識を生じる種子のことであって、第六意識を生じさせるのは、間接的に力を与える増上縁依であることから、因縁依を除くことを示しています。

 「「生所依」とは、第七識の八・五識の與に依と為るを簡ぶ。是れは八が染浄依なり。親しく生ずるに非ざるが故に、相い近きに非ざるが故に、是れ五が染浄依なり。生依に摂むるには非ず。今は第七の六が生依と為すと云うことを顕す。近く勝れたるを以ての故に。又倶時の心所にも亦た第六識が依と云うことを簡ぶが故に。前に同喩無き過、後は立已成の過あり。又所依と云う言は余の依たる法を簡ぶ。彼は但だ是れ依にして所依に非ざるが故に立已成の過あり。此の中一一互いに相い簡略す。然るに思うて知る可し。」

 生所依というのは、第七識が、第八阿頼耶識や前五識のために所依となっていることを簡んでいるのです。第七末那識は、第八阿頼耶識や前五識の所依となっているが、それは染浄依としてである。親生・相近ではない。生所依ということは、近く勝れた関係でなければならない。このような関係は、その存在に依って、初めて識が生起するような依り所であって、第六識の所依は末那識であることを明らかにしているのです。

 立因・同喩を解釈する。

 「因に云う、「極成の六識に摂むるが故に」と云う、此れは簡ぶこと前の如し。極成の眼等の識の如しとは喩なり。此れより上の宗の中の極成と云う言は下の喩にも通ずるが故に。」

 『論』に「この理趣に由って」と云うすべての条件を満たしているのが、第六意識です。五識と同じ条件を満たす所依をもつものであることを通して、第六識の意根に答えているのです。小乗では答えることの出来ない問題が、大乗において末那識として答えられているのです。

 次に問答を通して、諸部派を論破しています。  (つづく)


第二能変  第二・ 二教六理証 その(44) 第二、六二縁証 (⑬)

2012-04-24 22:20:55 | 心の構造について

 「次の論に「必ず不共なり自の名処を顕す等無間み摂められず増上の生所依と云うは有るべし」と言うは、是れ法なり。不共とは現の第八識を簡ぶ、是れ共依なるを以ての故に。親しく生ずるに非ざるが故に、相近きに非ざるが故に、今は五転識の生ずる所依に対して説くが故に但不共とのみ言う。若し之を簡ばざれば便ち共依有ることを成ずるをもって、共依有るべし。所立不成の過あり。又同喩無しと。他は五も第八に依ることを許さざるが故に。設い五の喩を許すとも所立不成あり。」

 不共とは、現行の阿頼耶識を簡ぶのである。現行の阿頼耶識は共依であるから。これによって、第六意識には不共の所依が有ることが述べられています。その不共の所依は末那識である、と。そうでなければ、論証されるべき主張が成立しないのである。

 「「自の名処を顕す」とは、此れ即ち是れ十二処の中の意処に摂め所ると云うことを顕して、上座部の胸中の色物を以て意根と為すと云うを簡ぶ。彼は是れ法処なり。意処に非ざるが故に。唯第六識のみ得る。微細の色は法処に収むる所なり。此の理は爾らず。外処(法処)に摂むべし。外処を簡ばん為の故に。自名処に所摂の意を顕す言を置く。是れ意処に摂め所と云うことを顕すと。同喩無きかと恐る。但だ総じて自名処を顕すと説くべし。彼(胸中の色物)は(大乗の)所立に非ず。(大乗の)自宗に違するが故に。上座部に対するときに立つ已に成ずるゆえに。」

 上座部は、胸中の色物を、第六意識の所依となる意根とする、と主張し、色法を以て所依とすると述べているのです。論破する主旨は、意根は色法ではない、と。十二処の中の意処に摂められるのである。この意を以て、上座部が主張する胸中の色物を第六意識の所依とするという説を除くということが述べられます。

 「「等無間に摂められざる」とは、次第滅の意の等無間縁を簡ぶ。今は、倶有依を成ず。若し簡ばずんば便ち所立には非ず。立已成の過あり。過去の意とは一切の小乗皆有りと許すが故に。」

 経量部の説を論破しています。経量部は五識には、同時に存在する倶有依はなく、次第滅の五根が五識を生ずる所依となると主張しているのです。しかし、五根と五識は同時因果であることを以て、倶有依が必要である、と論破して、等無間縁を除いているのです。即ち第六意識もまた五識と同じように、第六意識と同時に存在する所依(倶有依)が必要であると説きます。それは末那識である、と。  (つづく)

 


第二能変  第二・ 二教六理証 その(43) 第二、六二縁証 (⑫)

2012-04-23 22:15:55 | 心の構造について

 第四に、総じて前後の説を論破する。

 「此の理趣に由って、極成の意識は、眼等の識の如く、必ず不共なり、自の名処を顕し等無間に摂められず、増上なる生所依有るべし、極成の六識に随一に摂めらるるが故に。」(『論』第五・十二右)

 (この理趣(道理)によって、第六意識は、眼等の識のように、必ず不共であり、自の名処を顕して、等無間には摂められず、増上である生所依があるであろう。極成の六識の随一に摂められるからである。)

 この科段は先に論破してきた三説を、まとめて論破します。極成とは、一般に承認されていることをいいます。小乗と大乗ともに承認している事柄です。第六意識は小乗も大乗も承認しているという意味です。この一文は『国訳』では「三支を釈す」と注釈がされています。『述記』本文から、所別不極成の過失が述べられています。第六意識が大・小乗共に承認されていることから、第六意識も他の五識と同じように、「不共」・「等無間には、摂められず」・「生所依が有る」という条件を満たしているので、第六意識の根、所依は末那識であることを論証しているのです。従って小乗諸部派の説は誤りであるとして論破しています。

  • 第六意識には不共の所依がある。(共依である阿頼耶識を除く)
  • 第六意識の所依が、「自の名処をあらわして」という。十二処中の意処に属することを指す。
  • 第六意識は、「等無間には摂められず」、等無間縁を除く。
  • 第六意識は、「増上である」、増上縁依を示し、因縁依を除く。
  • 「生所依である」、染浄依としての末那識ではなく、もっとも密接な関係での所依で、第六意識に対しては末那識が生所依である。

 『述記』の注釈を見てみましょう。少し長いですが記述します。

自下第四爲總破前・後説量云 論。由此理趣至隨一攝故 述曰。極成意識。是有法。言極成者。簡諸部計最後身菩薩有漏不善意識。及他簡自他方佛意。若倶立此一切意。宗便有他・自所別不成過。故今簡之 次論復言必有不共顯自名處等無間不攝増上生所依是法。不共者簡現第八識。以是共依故。非親生故。非相近故。今對五轉識生所依説故。但言不共。若不簡之。便成有共依。所立不成過。又無同喩。他不許五依第八故。設許五喩。所立不成 顯自名處者。此即顯是十二處中意處所攝。簡上座部胸中色物以爲意根。彼是法處。非意處故。唯第六識得*微細之色。法處所收。此理不爾應外處攝。爲簡外處故置。顯自名處所攝。意言顯是意處所攝。恐無同喩但可總説顯自名處。彼非所立。違自宗故。對上座師立已成故 等無間不攝。簡次第滅意等無間縁。今成倶有依。若不簡者便非所立。立已成過。過去之意一切小乘皆許有故。増上者簡因縁即種子依。若對餘宗便非所立。若對經部便立已成。若擧五識以爲同喩。所立不成 生所依者。簡第七識與八・五識爲依。是八染淨依。非親生故。非相近故。是五染淨依。非生依攝。今顯第七爲六生依。以近勝故。又簡倶時心所亦第六識依故。前無同喩過。後立已成過又所依言。簡餘依法。彼但是依非所依故。立已成過。此中一一互相簡略然思可知。故不可説 因云極成六識隨一攝故。此簡如前。如極成眼等識喩。此上宗中極成之言通下喩故 此中問曰。五根別有體。意別立第七。五塵體實有。法亦實有耶 答經云從六二縁。不言有體無體故 問法雖無體亦意得生。爲例不成者。亦應從二縁生。根現無體亦得成。以過去意而爲意故答不然。根能順生。同世一處有力故現。無體故即不成。法但爲境即生心故。法無時不例五。此如五十二中説。問難大好。」(『述記』第五末・二十七右。大正43・412a~b)

 (「述して曰く。極成の意識と云うは、是れ有法なり。極成と言うは、諸部の最後身の菩薩の有漏の不善の意識を計するを簡ぶ。及び他においては自の他方の仏意を簡ぶ。若し倶に此の一切の意を立てば、宗に便ち他と自との所別不成の過有り。故に今は之を簡ぶ。」)

 何故、極成の意識というのか。有法についての大乗側からの問いです。一切の意識と限定するならば、大乗側と小乗側の解釈が違うのです。これを所別不成の失という。極成というのは、最後身の菩薩の有漏の不善の第六意識は大乗側は承認していないので除外し、他方世界の仏土の仏の第六意識は小乗側は承認していないので除外することを意味しているのです。意味するところが違うので、一切の意識というのであれば、自(大乗側、主張を立てた側)からは自所別不成となり、他(小乗側、相手)からは他所別不成となる。宗について、「意識は」というのは極成の意識を指し、一切の意識という意味ではないことをあらわしています。       (つづく)

 


「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (9)

2012-04-22 17:18:23 | 『感の教学』 安田理深述

 宿業を運命的と考え、本能を盲目的と考える理性能力の否定である。否定されるのは自由を自負するところの理性である。自負は自我の固執に他ならない。主観の自由をもってどうすることも出来ない、というところに理性は現実というものに初めて触れるのである。

 理性にとって現実存在は不可知の壁であるのだが、しかしそれは絶望的結論というようなものではない、絶望的結論も一つの理知の判断であり、運命観的なる一つの解釈に他ならない。むしろそれはわれわれの生の方向を変革する一つの転機を与えるものである。思い上がった自由という思いが思い知らされることは、そこにそれを転機として思いのままにならぬ存在の深みに目ざめる自覚を開くという意義をもつのである。生の深みの内面に眼を開いてくる転回点という意義をもつのである。宿業を運命の偶然と思い、また本能を盲目的衝動と思うことそれ自身、理性を自我として固執する固執の主観的解釈であり、固執の影である。理性は自己の影によって自己の無能を知らされるという、自己矛盾に帰着せざるを得ぬ。理性は宿業本能にぶつかって、自らの妄想であることを承認せしめられるのである。かく理性が否定されるならば、従ってまた絶望的な宿業も盲目的な本能も同時に否定されて。そこに思いを突破した現実に目ざめるのである。宿業本能には、理性によって自己の脚下を忘れていたところの人間が、その現実の大地に帰らしめられるという重要な意義があるのである。本能の世界こそ思いならぬ人間の現実の大地であり、立脚地である。そこに身体をもち、また環境をもって生きているところの実存の大地がある。現実の大地は大地という観念ではなくして、一つの感覚である。即ちこれが凡夫的人間の自覚である。理性の自由をもって生きていると考えるところには凡夫はいない。宿業の因縁によって生きているのが凡夫という存在者のありかたである。その時その時の業縁によって、思い設けぬそれぞれの出来事に出会って生きているのである。世界の一点一点も思いで決めることの出来ない、論理的厳密性よりも厳密な存在の秩序に生かされているのが、凡夫的人間というものである。それは論理的厳密であるよりも実存的厳粛性である。宿業の自覚はこういうわけで、理知の立場を回転して理知よりも深く、理知よりも根本的な感覚の機能を回復せしめられ、また回復したことである。理性の固執によって閉ざされていた感覚の根本能力、一切衆生に本より廻向され賦与されていたところの、本質の機能の回復ということだと思います。

 さきにいった如く業道自然の自然というところに、意志をもってはどうすることも出来ぬという、意志を破った現実というものの感覚があるということが重要なことである。感覚にのみ現行の事実があるのである。それはいかに業道であっても、所謂依他起自性なる事実であって主観を破ったものである。これに反して理性の意志するところは、むしろ所謂遍計所執性の妄想に他ならない。感覚に於てわれわれは始めて現行の事実たる現実というものに触れるのである。自然は必然である、絶対的必然が宿業の自然である。しかも同時にこの絶対必然に於て、その宿業の内面にそれを貫いて流れている宿業の魂に触れるのである。宿業の内に宿業を超え、宿業を荷負しているところの願心に目ざめるのである。逆説的であるが、この荷負というところに絶対自由があるのである。宿業に反抗し宿業を拒否するところの理性に自由があるのでなく、逆に宿業の必然に随順し、必然に帰するところに、法爾自然なる絶対の自由があるのである。自然は必然であるが、そこにまた自然の自由があるのである。この法爾自然なる自由は、宿業からの自由であるよりも、宿業への自由として下降的意志の自由である。悲願的意志である。悲願は宿業をもって自身の内面的契機として、宿業に苦悩する衆生に呼びかけ、この呼びかけによって衆生は宿業の内面に流れる、この純粋なる祈りともいうべき悲願的意志の心に目ざめるのである。宿業の内面に触れて初めて真の意味の宿業の自覚ということが出来る。この宿業の自覚は、宿業の内面たる願心の呼びかけそのものである。呼びかけが目覚めである、めざめをたまわるのである。呼びかけとして衆生は自己をもったのである。宿業に荷負するところの自己をもったのである。宿業に動かされて生きていたことの超越的意味が初めて自覚されたのである。宿業に動かされるということは、理知よりも深い根底からの招喚であったのである。この自覚によって、宿業の必然によって苦悩せしめられていた衆生は、苦悩する理性的意志の固執を破られ、その理知の苦悩から解かれ、却って明るく宿業に順ずることの出来る衆生となったのである。本能に苦悩せしめられるのは理知であって、理知がその妄想に目ざめれば、本能は光をもつものである。それはどこ迄も宿業の内面に等流する悲願の意志の呼びかけに触れてのことである。宿業の内に流れているということの意味に於て、悲願はどこまでも内在的であるが、他面どこまでも宿業の雑染を超えて自性清浄である。即ち超越的なるその法爾自然の本質を失わぬのである。この二面の意義から悲願は超越的にして内在的、内在的にして超越的である。或は二重の超越といってよいかと思う、宿業からの超越と、宿業への超越である。前者の意義に於てこの清浄意欲は法爾意志である。また後者の意義に於てこの清浄意欲は下降意志である。下降意志として悲願というのであるが、しかしその悲しみと痛みは、人間的な感傷であるのでなく、むしろ人間を超えた意味の悲痛は却って無心というべきである。悲痛といっても平等一味ということの他にないのである。このような意義から純粋清浄なる意欲たる願は、法爾自然の法性と業道自然の衆生とを総合統一するところの、具体的実存であるということが出来る。最も具体的なる実在は意欲である。意欲こそ主体的実在である、われ意欲す、故にわれ存在す、の自覚的実在である。これがわれよりも近きわれである。如来という存在の意味がここに成立するといえる。  (つづく)


第二能変  第二・ 二教六理証 その(42) 第二、六二縁証 (⑪)

2012-04-21 22:58:36 | 心の構造について

 叔母がですね、危篤状態から奇跡的に回復し、意識も取り戻してくれました。寝たきりで、食事もままならないのですが、生きることの尊さ、大切さを身をもって示してくれています。それに引き換え、私の心の貧しさ、貧困さが露呈しています。叔母の命の輝きとは裏腹に、命の輝きを聞き取れない、自分勝手な解釈が先にたっています。また父の一回忌が目前に迫っていますが、果たしてこの一年、父の命の叫びを聞いてきたのであろうか、という問いが身を震わせます。若し真宗の教えに出遇うことができなかったら、自分の思いの中に閉じこもって他のことを思い計らうことが出来なかったでしょう。改めて教えに出遇うことの大切さを痛感します。

            「如来大悲の恩徳は
               身を粉にしても報ずべし
                 師主知識の恩徳も
                   ほねをくだきても謝すべし」

            ―      ・      ―

 後は、同時因果について述べる。(証成の道理を以て経量部の説を論破する。)

 「又、識と根とは既に必ず同境なるをもって、心・心所の如く決定して倶時なるべし。」(『論』第五・十二右)

 (また、識と根とは、すでに必ず同じ認識対象をもつのである。それは心・心所のように必ず倶時(同時)に存在するであろう。)

 経量部は、心・心所は同境(心は所依・心所は能依)であり、倶時であることは承認していることから、経量部の矛盾を指摘して論破しているのですね。

「論。又識與根至決定倶時 述曰。若説芽・影必異時有非同喩者。心・心所法同縁一境。應計異時心・心所法同縁一境。如思受等與所依心説是因果。既許同時故。五識・根同取一境。亦許同時。因果義立。然彼愛等心所之法。雖前後起。今以爲宗。以思等爲難令同時已。方爲同喩例於根・識。不爾便有他不定過。量思可解。由此同時五根生識 自下第四爲總破前・後説量云。」(『述記』第五末・二十六左、大正43・412a)

 (「述して曰く。若し、芽と影と必ず異時に有るを以て同喩に非ずとは、心・心所法の同じく一境を縁ずるも、応に異時の心・心所法は、同じく一境を縁ずべしと計すべし。思・受等と所依の心と、是れ因果と説くに、既に同時と許すが如し。故に五識と根とも同じく一の境を取るを以て、亦同時と許す。因果の義立ちぬ。然るに彼の愛等の心所の法は前後に起こると雖も、、今は以て宗と為して、思等を以て難を為して、同時なら令め已って方に同喩と為して根と識とに例す。爾らずんば、便ち他不定の過有り。量は思うて解すべし。此れに由りて同時の五根は識を生ず。

 自下は第四に総じて前後と説くを破せんが為に量して云く、」)

 芽と影のようなものである、と。芽があって影が出来るというのは説明ですね。実際には同時です。異時ではないですね。これを批判しているわけです。異時ではない、同時であるうと。そうすれば意根は六識の範囲内では解けないのです。ここに大乗興起の理由があります。小乗では解けない問題が孕んでいるわけですから。六識を超えた、六識を成り立たせる識があることの問題を提起したのが意根という問題ですね。ここに末那識というものを見出して根拠があるわけです。末那識を見出してきて意根の問題に答えているのです。