次は経量部、仮説の救(補足説明を想定して)を論破する。
「若し謂く、仮りて説くといはば、理いい亦然らず、正(まさ)しく思量すること無し、仮を何に依ってが立てん。」(『論』第五・十二左)
(もし、仮に説くというのであれば、理はそうではない、何故ならば、正しく思量することが無い、仮を何によって立てるのか。)
経量部の仮説の救とは、仮説する、仮に意の名を立てるという。無いものに対して仮説する、と。無いものとは、前滅の識です。過去の識は現在に於ては無いわけですが、過去に存在していた時には思量する用があったわけです。その用があった時を所依として現在の識が現行しているのであるから、当然その識には思量するようがあると仮説しているわけですが、『述記』に「過去は体無し、仮て用を説くといはば、難じて云はく」と過去に過ぎ去ったものは無体であり、体が無いものに、思量する用はないのであるから、仮説ということも成り立たないと論破しています。
「論。若謂假説至假依何立 述曰。經部宗言過去無體假説用者。難云。汝之現在無正思量。假法何立。假法必有法可似故。無有現在實正思量。假依何立。大乘前破衞世外道假依眞事。如此理難乖前義者不然。據理而説。不依於眞方有似轉。經部所計。現在正思。過去似此。假名爲意。就彼宗難。無違教失。故前所説存自就他難。今者癈已從他難 又前約勝義難。眞實義中不依於眞而辨假故。今依世俗難。世俗之中有眞・似故。」(『述記』第五末・三十右。大正43・412c)
(「述して曰く。経部宗の言はく過去は体無し、仮て用を説くと云はば、難じて云はく。汝が現在には正思量無しという仮法を何によってか立てん。仮法は必ず法として似るべきこと有るが故に。現在に実に正しく思量するするもの有ること無し。仮は何に依ってか立つる、大乗は前に衛世外道の仮(仮我)は真事(真我)に依るというを破しき。此の如く理を以て難ずるに前の義に乖くと云うは、然らず。理に拠って説かば、真に依って方に似転ずること有るものにあらず。経部の所計は現在は正しく思し、過去は此れに似たり。仮に名けて意と為すと云う。彼が宗に就いて難ず、違教の失無きが故に。前の所説は自を存して他に就いて難ず。今は己を廃して他に従って難ず。又前には勝義に約して難じき、真実義の中には真に依って仮を弁ぜざるが故に。今は世俗に依って難ず、世俗の中には真と似と有るが故に。」)
仮というのは必ず実に依るわけです。体が無ければならないのですが、経量部はすでに前滅の識には実は無いと主張していました。「過未無体」と。ここには当然「何に依って立てられた仮であるのか、という問いが出てきますが。経量部の主張には矛盾が生じてくるわけです。経量部が無体法に意を仮説するのには思量するという意義がないということですね。