唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (61) 触等相応門 (43) 護法正義を述べる (Ⅱ)

2011-11-24 23:14:21 | 心の構造について

 護法は上来述べてきた第一説、第一師及び第二説、第一師(五遍染説)・第二師(六遍染説)・第三師(十遍染説)の説は理にかなわないことを述べる。

 「有義は前の説は皆未だ理を尽くさず。」(『論』第四・三十五右)

 (有義(護法)は、前の説はみな未だ理を尽くしたものではない、と主張する。)

 「述して曰く、護法菩薩なり。第四の説と為す。中に於いて三有り。初は総じて非す。次は理を申ぶ。後は総じて結す。此れは初なり。」(『述記』第五本・六十二右)

 (初にすでに述べられた第二説三師の説は理を尽くしたものではないと述べる。次には護法の正義である八遍染説を説明する。後はまとめて結ぶのである。これは初である。)

 正義である八遍染説を述べる前に、何故に五・六・十遍染説は理を尽くしたものではないのかを述べ、論破します。すべてを否定するのではなく、遍染と認められない心所を破斥します。

 次は八遍染説を説明する。(「下は理を申ぶ。中に二有り。初は遍の随を顕す。後は此の識と倶なるを云う。初の中に二有り。初は前を破し、後は遍を顕す。此れは前の説を破す。」(『述記』第五本・六十二左)

 第三師を破斥する。

 「且く他世は有りとせんか無しとせんかと疑える彼に於て、何の欲と勝解との相か有る。」(『論』第四・三十五右)

 (他世(現在の世界以外の他の世界である来世のこと)が有るのか無いのかと疑う他世に対して、何の邪欲と邪勝解の相があるのであろうか。)

 十遍染説の中の邪欲と邪勝解は遍染の随煩悩ではないと破斥し、その他の遍染の随煩悩は承認するという論法を用いて説明しています。

 十遍染師が主張する邪欲と邪勝解が遍染の随煩悩である説明は既に述べてきましたが、疑の煩悩は理のみを疑うという立場にありました。問題は理と事は別であるのか(「何故か理に疑し事に印することを須いる」)、に答えて事と理は認識対象は別ではあるけれども、事と理は相依相関関係にあるのであって、疑が理を認識し疑ったときにはそこには事が必ず相応する。認識対象に理と事が有って、疑は理を認識し、(邪)勝解は事を認識するのであって、理を疑う時にも事に於て印持する(邪)勝解は存在し、疑と(邪)勝解は相応するといい、事にも又疑は有るけれども、その作用は微隠であり(邪)勝解は遍染の随煩悩であると主張していました。邪欲も同様の説明がされていました。

 理と事が相依(不一不異)であるならば、疑は理のみを疑うということであっても、事もまた疑うことになる。理と事に於て疑うということがあれば、(邪)勝解は存在しないことになり、十遍染師の説は成り立たないことになるのではないか、という問題が生じてきます。

 論破の第一解のⅠ(教を引いて論難する。)

 「汝は理に於て疑を生ずるに、必ず事印を帯せりと言うといはば、五十八等に説けるが如し。疑は五相に由る。謂く他世と作用と因果と諸諦と実との中に於て、心に猶予を懐けり。即ち事に於て生ずる疑も亦是れ煩悩なり。汝何故か事に於て疑うは煩悩に非ずと言う。既に事に於て疑も是れ疑惑ならば、如何ぞ欲と勝解と二の数有らん。・・・・・・」(『述記』第五本・六十二左)

 「他世(現在の世界以外の他の世界である来世のこと)が有るのか無いのかと疑う他世に対して」というのは、疑の五相に由るわけです。煩悩の働きです。煩悩の働きによって、有るのか、無いのか不確定な他世(事)に対して邪欲・邪勝解は存在せず、従ってこの二は遍染に随煩悩ではないことが明らかにされるわけです。

 論破の第一解のⅡ(救(くー 救済)を挙げて論難する。)

 「若し彼しこにのたまう、他世の於に疑するときには、必ず現在の於には印可を生ず。未来世の中にして希望を生じて、無きか或いは有るかとする。故に現在に於て罪を為ると福と為ると差別有るが故に、他世を疑するが中に於ても亦理に迷へり。(未来世の)理に迷はずして而も(未来の)事に迷うのみには非ず。故に現(在の事)の於に印するときにも亦勝解有りといはば、難じて言く、」

 十遍染師の説を一応認めたとして、三世を考える時には、必ず現在の上に於いて確定をするわけです。この時、現在の事には邪欲も邪勝解も存在し、疑と邪欲・邪勝解は相応するから邪欲・邪勝解は遍染の随煩悩であると、十遍染師の説を救済しつつ、論難します。   (つづく)          論難については明日、伺っていきます。


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