唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (12)

2017-01-30 21:18:08 | 阿頼耶識の存在論証
  

 『論』に説かれます「趣」の意味がつづきます。
 「或は、諸趣と云う言は能・所趣に通ず。(『論』第三・十七左)
       能趣(趣かせるもの) = 業と惑と中有
 諸趣 〈
       所趣(趣く所) =五趣の苦果

 中有は次の生を牽いてきます(生有)から因になるわけです。能趣は因、所趣は果です。つまり惑・業を因として、果である苦を牽いてくるわけです。
 この具体性が次の科段における「資具」になります。
 「諸趣の資具も亦趣と云う名を得。」(『論』第三・十七左)
       器世間
 資具 {       } 趣
       惑と業

 (第一義) 器世間は五趣の赴く所です。器世間において五趣は動いているわけです。これは所趣になります。
 (第二義) 惑と業を携えてという意味になりましょうか。
 趣は、ただ果を云うのではなく、果を生み出す因の能(業・惑)と器世間(苦果)を包み込んでいる、ですから唯だ所趣だけを云うのではないということになります。
 総結
 「諸の惑と業と生(苦)とは皆此の識(第八識)に依る。是れ流転がために依持とる用なり。」(『論』第三十七左)
 流転を生み出してくる働きは第八識に依るのであると結んでいます。
 第八識があることに由って煩悩・雑染を生じて苦界を現成してくる、その依持が第八識であることを明らかにしているのですね。
 ここで問いが出されます。
 「還・滅等の為に依持たる用とは、その義如何。」(『述記』第四本・十右)
 「及涅槃証得と云うは、」以下になります。またにします。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (11)

2017-01-29 18:56:08 | 阿頼耶識の存在論証


 前回の投稿で、梶原先生より二点ご指摘がありました。ご指摘については真摯に受け止め、真仏土は「大悲の誓願に酬報するがゆえに、真の報仏土と曰うなり」(『真仏土巻』)と明らかにしてくださいました宗祖の視点は、その用に有ると思います。
 ここに釈迦・弥陀二尊の教説が具体性をもって語られている、其の場所が化土と云われている娑婆世界(堪忍土)、娑婆世界と云う目覚めが(目覚めて見れば。すでにして開かれてあった)「ここをもって釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して郡生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまう。すでにして悲願います。」(『化身土巻)という、娑婆世界は「化される場所」として意味を持つことを明らかにしてくださったと思うことです。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「惑と業と生と皆是れ流転なりと雖も、而も趣は是れ果として勝るが故偏に説けり。」(『論』第三・十七左)
 「惑と業と生との有漏の集・苦は皆是れ流転なり。皆生死の法なりと雖も、然も五趣是れ生死の苦果にして勝れたるが故に偏に説けり。果は正しく生死なり、是れ所順の法なり。業と惑とは能く生死の果に順ぜる性なり。故に偏に果を挙ぐ。」(『述記』第四本・八左)
 本科段は問をうけて答えています。
 有漏の苦・集はすべて流転というべきだろう。頌(『大乗阿毘達磨経』)の中では何故諸趣のみを流転の法と説いているのか、ですね。
 五趣である境涯が、流転なのだということなんですね。
 「惑」は無常である自分が受けてれないということですね。僕は僕自身は有ると思っています。いくら無我だと云われても、無我になりきれません。言葉を変えれば「空」ですね。縁起的存在ということでしょう。
 なにかしらですよ、動きは「空」だと思うんです。そこに解釈をしている自分が居る、後からですね、そこで縛られているのではないのかなと。「空」という仮説されたものは、一瞬の動きの中で表現されているのではないですか。僕は、意識を介在して自分は動いているように思っているんですが、そうではありませんね。無意識の中でデーター化されたシグナルが意識を動かしているのではないですか。
 現在している(現行)のは果ですね。因が種子です。因である種子が五趣という果を引生してくるのですね。五趣という生き様は、人として地獄の生き方、餓鬼の生き方、畜生の生き方をしている、どこでかというと、「今、現に」ですね。そういう揺さぶりが種子から生まれてきている。だから、今どのような種子を心に植え付けていくのかが問題とされるのでしょう。
 すべては第八識の中に蓄えられた種子が生起の因となることを論証していると思うのです。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (10)

2017-01-26 21:23:20 | 阿頼耶識の存在論証
  

 昨日の補足になりますが、異熟についてですが、阿頼耶識の果相が異熟である。つまり過去の行為の結果として、「今、現に」人としての生を生きているということなんです。これは真異熟といいます。業果位ですが、業果はまた因なのですね。異熟因です。現行は異熟生になります。
 私たちは、目覚めを求めるのですが、仮に目覚めたとしても、そこが終着点ではないのです。果は因なのです。いのちは相続しているわけですね。相続は無量寿でしょう。相続している目覚めの内容が無量寿でなければならないのです。
 自力の目覚めは、明日につながらないですね。今が終着点。目が覚めたら元の木阿弥。こいういうのが、意識は断絶する時がある。「没」という一字で押さえられますが、一陣の風が吹けば吹っ飛ぶようなものなんです。
 それと所縁のことなんです。所縁を種・根・器で明らかにされたのですが、大事なことは、種子生現行の種子ですね。種子は身においてあるものでしょう。そして大地性をもっているということですね。無漏種子は大地から身を通して生まれてくるものでしょうね。『法華経』で説かれる地涌の菩薩とはこういう意味なのではないのかなと思います。それは恰も、大地を突き破って「若不爾者、不取正覚」という名告りをあげられた、法蔵菩薩と重なるものがあるようです。そして法蔵菩薩は大地から名告りをあげられた無漏種子だと思いますね。
 意識された種子は染汚性をもちますから、すべてを闇の中に葬ってしまいます。有漏種子のなせる業です。

 「有諸趣者 有善悪趣」は有漏種子の現行なのですね。生まれた、生をうけたということは、有漏種子を引きずって生まれたということなのでしょう。でも、この有漏種子が転依の機縁となるのですね。無漏種子は仏果ですから、流転はしません。阿頼耶識の所縁は流転しないのです。「いつでもここに帰れ」というシグナルを送っているのですね。帰ってみれば、依他起性です。縁起ですね。依他起性において円成実性・大円鏡智に触れて、我執の愚かさに気づきを得ることができるのでしょうね。「愚かさ」が大事なのですね。天狗の鼻はへし折られないと、天狗であったことが分からないのです。私たちもおなじですね。天狗です。何も鞍馬山においでになるのと違いますよ。 
 阿頼耶識の所縁が「覚」のキーワードになるように思いますが、どうでしょうか。

                         迷(果)
  識体(因)。種子・有根身・器(縁) {        } 認識
                         覚(果)


 「謂く此の第八識が有るに由るが故に。一切流転に順ずる法を執持して諸の有情をして生死に流転令むと云うなり。」(『論』第三・十七左) 
 つまり、善悪業によって善悪趣に生ずるわけです。善悪趣に生ずるのは流転ですね。生死流転です。生死流転は、暴流のようなものですから、水面下での激し心の動きが生死流転しているわけです。「一切流転に順ずる法」は種子です。雑染種子を持ち続けて、この種子が現行を引き起こし、諸の有情をして流転せしめるのです。種子の染法を流転に順ずると名づけると云っているのです。有漏法もすべて流転の法になります。
 教証としては『対法論』巻第四にですね、
 「何者が是れ流転と云う。謂く一切生死ぞと云えり。即ち前後順じ、其の体は用に順ず。若し爾らば即ち有漏の苦集、皆な流転と名づくべし。何が故か頌の中に偏に諸趣と言う。」
 一切生死の身を生きておりますから、流転の身なのですね。流転は有漏ですから苦集の依り所となります。
 ですから、苦を超えるのは、有漏をご縁として無漏に触れなければならないということになりますね。ここが聞法の課題になりますね。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (9)

2017-01-25 22:06:34 | 阿頼耶識の存在論証
  

  本科段は、『論』巻第三の第五段三性分別門を受けて説かれています。(『新導』本p101.『選注』本p48)
少し振れかえりますと、『論』の記述は、
 
 「下、第五の段は即ち是れ第八に何れの性とか倶なりと云う門なり。」(『述記』)と、問いが設けられまして、
 第五 三性分別門が説かれてきます。
 「法に四種有り。謂く、善と不善と有覆無記と無覆無記となり。阿頼耶識をば何の法にか摂むるや。」(『論』第三・五右)
 「此の識は唯だ是れ無覆無記なり。異熟性なるが故に。」(『論』第三・五右)
 第一の因(理由)
 「異熟いい若し是れ善と染汚とならば、流転と還滅と成ずることを得ざるべし。」(『論』第三・五右) 第二の因
 「又た此の識は是れ善と染との依なるが故に、若し善と染とならば互に相い違へるが故に、二が與に倶に所依と作らざる応し。」(『論』第三・五右)
 第三の因
 「又此の識は是れ所熏性なるが故に、若し善と染とならば、極めて香と臭との如く、熏を受けざるべし。」(『論』第三・五右)
 
 本科段の初は「趣」について述べられていますが、ここも、因果法喩門を見ていただきますと、私たちは、何を以て、何の所に趣いていくのかが解き明かされています。(『新導』本p104.『選注』本p49)
「謂く此の識は無始の時よりこのかた、一類相続して常に間段すること無く、是れ界と趣と生とを施設する本なるが故に」(『論』第三・七左)
 ここは、趣の説明がされていますが、
 自らの行為が、自らの結果を引き出してきたということなのですね。私にとっては、人間として生をうけたということが大切なことなのです。ここから、第八識の存在論証が述べられます。
 善悪業の結果として人間として生まれた。それは善悪業果位としての異熟。無覆無記としての存在、そこに、流転と還滅の法が説かれてくるのですね。
  また明日にします。おやすみなさい。

  尚、三性分別門の詳細は、2015.10/23~11/4に述べています。参考にしてください

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (8)

2017-01-23 22:51:19 | 阿頼耶識の存在論証
  

 昨日の『論』の記述の読み方なのですが、もう少し丁寧に読んでみたいと思います。
  
 「謂く能く諸の種子を執持するが故に。現行法のために所依となるが故に。即ち彼を変為し応び彼が為に依たるを以て。彼を変為すれば、謂く器及び有根身とを変為す。彼が為に依たりと云うは、謂く転識がために所依止と作る。能く五色根を執受するを以ての故に、眼等の五識之に依って転ず。又末那がために依止めたるが故に。第六意識之に依って転ず。末那と意識とは転識に摂めたるが有ゆえに。眼等の識の如く倶有根に依る。第八理いい応に是識性なるが故に亦第七を以て倶有依をなすべし。」(『論』第三・十七右)
 「依」を解釈する段になります。総・別に分けられて説明されます。
 つまりですね、第八識は諸々の種子を持続して一切の現行の為に所依(依り所)となる。もし、種子を熏ずる所がなかったなら、現行は何を依り所として起こってくるのか、或は過去のことを思い出すのは、どこからでてくるのであろうか、という問いが生れます。
 第八識は五根等を変為し(第八識は五根等に変化させる働きを持つ)また、七識(眼・耳・鼻・舌・身・意・末那識の七転識)が現行するための依り所となる。
 (別釈)
 第八識を変為するというのは、第八識は能変の識体です。能変の識体が所変の相・見分を変為するわけです。第八識の具体性になります。では第八識は何を所縁とするのかといいますと、種子と有根身の二の執受と器世間なのです。これを見分が認識をしているのです。身と処の問題ですが、身と処以外に認識の起る所は無いといっているのですね。
 総結として、
 「是を此の識(第八識)が因縁と為る用(ユウ・働き)を云うのである、と。全ては第八識の中に所蔵された種子と、種子を依り所とする因縁によって現行が生ずるのである。

 今日は下の二句について考えたいと思います。
 「此れに由って諸趣と、及び涅槃の証得(ショウトク)と有りと」
 
 「由此有者由有此識」(『論』第三・十七右)
 (此の識有るに由って云うなり)を釈していきます。此の識は第八識です。「有と云うは」は「有諸趣」を指します。「有諸趣」とは何か?です。
 「此の識有に由ってと云はむとぞ。」
 「諸趣有と云うは、善・悪趣有と云はんとぞ」(『論』第三・十七右)
 趣は趣向、趣くことで、生き物の生存のあり方を云いますが、これを能趣と所趣と趣資具の三つに分けて考えています。
 過去の業果としての生存に五趣有りと(或は六趣)云うわけです。地獄・餓鬼・畜生の在りかたを三悪趣と。人・天は善趣と云われておりますから、過去の業が人・天の境涯を持つような業を積み重ねてきたのでしょう。しかし、この境涯は生死流転を漂っていますから、人としての身として、五道を経めぐりする生存になりましょうね。こういう所に「問い」が与えられているのだと思います。流転と還滅の法は一息一息の中に動いているといってよいのでしょう。
 この流転と還滅の法の依り所が第八識である、と。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (7)

2017-01-22 21:32:17 | 阿頼耶識の存在論証
  

 <strong> 依止、依り所ですが、第八識が依り所となる、第八識の種子が因で、現行の依り所(縁)が第八識なのです
 第八識に保たれている、つまり、種子が保たれている、持ち続けていることを縁とするわけです。種子は因でもあり、縁でもあるのですね。種子がなかったなら現行は起こりません。現行が起こっているのは、種子が縁に触れて花を咲かせているということなのです。
 阿頼耶識は七転識の種子の受熏処であり、蓄積する場所(持種)でもあるのです。
 私が生れたのは、種子が花を開いたということですね。このことが、「無始時来界」という眼差しに自己を開放してくるのでしょう。第八識は現行法を変為し、現行法の為に依り所と成るということなのです。そうしますと、m何が現行法を変為するのかといいますと、阿頼耶識の所縁である二の執受と器なのです。
 二の執受は、身体(五色根)と種子と及び器世間です。此の二の執受と器が転識の為の依り所と成るのです。つまり、現行法は、自らが自らの種子から現わしているのです。自らのと云うのが我執ですね。つまり末那識の現行です。そして第六意識が現行しているのです。具体的には、末ん名識と第六意識が前五識の倶有依となるということです。
 『論』には
 「謂く能く諸の種子を執持するが故に。現行法のために所依となるが故に。即ち彼を変為し応び彼が為に依たるを以て。彼を変為すれば、謂く器及び有根身とを変為す。彼が為に依たりと云うは、謂く転識がために所依止と作る。能く五色根を執受するを以ての故に、眼等の五識之に依って転ず。又末那がために依止めたるが故に。第六意識之に依って転ず。末那と意識とは転識に摂めたるが有ゆえに。眼等の識の如く倶有根に依る。第八理いい応に是識性なるが故に亦第七を以て倶有依をなすべし。」(『論』第三・十七右)
 このように述べられています。意味深いですね。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (6)

2017-01-19 20:51:27 | 阿頼耶識の存在論証
  

 第一教証は、「界」と「依」でもって、流転と還滅を表しています。
 第二教証に至って、界と依と云われていたのが、阿頼耶識であることが明らかにされます。
 阿頼耶識はどうして知ることが出来るのか、阿頼耶識の具体相は見・相二分なのですが、「不可知の執受と処と了となり」といわれていますように、自性微細(ジショウミサイ)なんですね。ですから、ここでは作用(サユウ)、働きをもって自体をあらわすんだ、と「故に作用を以て之を顕示す」と。顕示は証明すると云うことになりましょうね。
 ここからですね、『大乗阿毘達磨経』に説かれている四句を、初の二句は因縁となる用を顕し、後の二句は依止(エジ)となる用を顕すというように広釈をしています。
 そして初の二句について、「第八識因縁と為る用を顕し」と、因と縁とに分けて説明されるのです。それが「界」(因の義)と依(縁の義)の働きであると精密な解釈がされているのです。
 因の義とは何であるのか、それは種子識であると。第八識は種子識であると。一切の経験を納め取っている蔵である、貯蔵庫であると明らかにしている。逆から見ますと、今の私は、過去の集大成であるということですね。肯定とか否定とかではないんです。事実として有る。種子が花を咲かせている。現在は果相ですね。引き出してきたのが因相です。其の因を種子と押さえているのですね。これが道理になります。
 種子が縁に触れて現行する、種子生現行です。種子が因、(待衆縁)、現行が果、異熟と、法爾自然です。
 種子は本有種子・新熏種子という議論がありました。そこで、本有種子は「本(モト)より性有り。熏するに従(ヨ)りて生ずるものにはあらず。」と。そして「界と云うは即ち種子の差別(シャベツ)の名なるが故に。」或は「無始の時より来た界たり。一切法の等しき依たりと云う。界と云うは是れ因の義なり。」と(『選注』p31・p32)
 本有種子(ホンヌシュウジ)ですが、本来的に備わった無漏種子で本性住種と云われています。阿頼耶識の中にある先天的に有る種子で、備わっているところから、「悉有」です。悉有と云われているところに、超えてあるもの。有漏の阿頼耶識、無漏の阿頼耶識と説明されていましたが、並行するのではなく、有漏の基礎になるようなものとして無漏が云われているのではないのかと思うのです。
 いうなれば、「無始時来界」の無始は超えてあるもの。超えて有るものが形を持った時に染汚される。染汚されたものが種子として蔵されてくる。法爾自然なるものが形を取るところに私有化を生ずるのであろうと思いますね。私有化とは、法の自己限定であって、阿弥陀の自己限定が法蔵菩薩であり、法蔵菩薩が私有化と同体の大悲として流転と還滅の願いとして働いているのが「この身」なのではないのかな。
 「身」と押さえた時には超えている。「この」という時に限定される。「身」が法性であれば、「この」は染汚性でしょう。
 因の義、因とは種子であるというところに、有漏・無漏が語られているように思います。
 身を持つというのが、善悪の業果が「界・趣・生を引く」わけでしょう。生まれたということが善悪業果位なんです。異熟と押さえられます。依他起ですね。縁起です。縁起というところに、染汚性を転ずる機縁が与えられているようですね。
 こういうところに、一切法の因としての種子の意味の深さ、大きさがあるように思います。界とは種子である、と。
 私たちは、世界・世界といいますが、世界は種子が作り出したものなんですね。世界という実体はどこにもない。種子が作り出した所縁なのです。こういうところに、一切諸法の依であると云えるのでしょう。すべては阿頼耶識が顕現した相である、と。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (5)

2017-01-18 21:27:08 | 阿頼耶識の存在論証
  

 本日より阿頼耶識の存在論証に入ります。何故阿頼耶識の存在を証明しなければならないのかは、論を読むに従って明らかにされます。
 ブログでは2016年12月18日~19日に投稿していますが、再録をします。
 先ず概略を述べます。第八識の異名をあげ、其の位には有漏位と無漏位があることが明らかにされました。
 私たちの意識の上では「受」の心所が大切な役割をもっているのですが、無意識と云われる領域では、受は捨受なのです。苦でもなく楽でもない、不苦不楽受である。此れは有漏位における性質なのです。
 何を意味しているのか、迷いの境涯であっても、命を支えている働きは無覆無記であり、捨受であるということなのです。此れに由って、何時でも、どこでも、どのような境遇であっても、いろいろな条件そのものが御縁となって、本来の自己に戻ることが出来ることを教えているのであろうと思います。
 有漏位の阿頼耶識は何を対象としているのか、阿頼耶識の具体性ですが、すべては阿頼耶識の変現した世界に身を置いているということなのです。それを二の執受(種子と有根身)と処(環境世界)が所縁になります。
 有漏位の性質が無記であるというのは、経験そのものは色付けをされない無記である性質を持って、そこに善・悪の色付けをして一喜一憂しているのが私たちの現実相なのです。
 これではどこまでいっても有漏位からの解放はありませんね。我欲を自らの生活の起点としておりますから、我を離れて、客観的に自らを観察することはまず不可能であると思います。
 「人の批判はするけれど、我が身はどうかと尋ぬれば」、この尋ねるということが大事なことなのです。仏教は尋求(ジング)と押さえていますが、追及する、自らが作り出した世界を外界において批判をしているのですが、批判そのものが自分の心の影像であるということなのです。
 迷いという流転はどのような構造になっているのか、「我が心の影像」が、外界に存在するという見方であり、事実は「唯だ我が心が作り出した世界である」ことを知り得ないということなのです。これを「一切不離識」といっています。
 「すべての現象は識(阿頼耶識のはたらき)に離れてあるものではない、すべては識が作り出した世界である。」
 此れに由って、流転の法が明らかにされるのです。流転は、「識が織りなす現象である」ということなのですね。
 ここに無漏位との関係がみてとれます。無漏位は不可知ですが、有漏の元を尋ぬれば、無漏位という世界に支えられて成り立っていることが教えられます。無漏位が還滅の法になります。
 迷いを超えるということは、どういうことなのか。親鸞聖人は、大菩提心・大般涅槃ということに、(浄土の)信心の内実を明らかにされたのでしょう。
 有漏から無漏へは成り立たないのです。無漏に触れることに於いて超証される世界なのですね。
 学びは我見ではないということなのです。ものを言うには、言い得る根拠がなければなりません、私が勝手に押し付けているのではありませんよ、という論証になります。
 
 「云何が応に知るべし。此の第八識は眼等の識に離れて別の自体有りと云うことを。」(『論』第三・十六右)
 (眼識等の六識以外に、第八識が有るということを)どうして知り得ることができるのか。
 ここに五教証・十理証が挙げられて存在の証明がなされます。
 「聖教と正理とを以て定量と為すが故に。」
 聖教が五教証・正理が十理証。これを以て、決定的な判断の基準(定量)とします。釈尊の教えに違することはありませんと宣言するのです。
 第一教証(選注p56) 『大乗阿毘達磨契経』、三師の説が出されます。
 第二教証(選注p58) 『大乗阿毘達磨契経』
 第三教証(選注p58) 『解深密経』
 第四教証(選注p59) 『入楞伽経』
 第五教証(選注p60) 『余部の経』、大衆部・上座部・化地部・有部。
 十理証は、選注p62~p77に記載されています。ここを以て初能変が閉じられます。
 では第一教証を読んでいきたいと思います。
 先ず教証ですが、五教証の中で、初めの四つは大乗の教証(『大乗阿毘達磨経』から二つ、『解深密経』・『入楞伽経』)と後の一つが小乗の教証になります。
 この教証・理証については無著菩薩が『摂大乗論』のなかで阿頼耶識の存在論証を挙げられています。それを受けて『成唯識論』が五教十理を以て阿頼耶識の存在論証をしているのです。
 六識を離れて末那識・阿頼耶識が有るということを論証しなければならないのですね。
 「離眼等識有別自体」(眼等の識を離れて別の自体有ることを)
 これが護法菩薩のお仕事になります。
 宗前敬叙分にですね、「種々の異執を遮せんが為に、唯識の深妙の理の中に於て、実の如く解を得せ令めんとして此の論を作れり。」の一文に表れています。
 護法の論拠は、用が体で体が有って用くのではなく、表層から深層に向かって八つの重層的構造をもつものとして、八識別体を明らかにされたのです。つまり、三能変は、心が三層をなして、深層から表層に向かって能動的に対象に働きかける面を捉えています。
 第一教証
 「謂く『大乗阿毘達磨契経』の中に説く有り。
 無始の時より来(コノカ)た界(カイ)たり
 一切法に於て等しく依(エ)たり
 此に由って諸趣(ショシュ)と
 及び涅槃の証得(ショウトク)と有りと。」(『論』第三・十六右)

 六識以外にもう一つ識が有ることが説かれているという論証として引用されています。この文章だけでは、第八阿頼耶識の言葉が見えませんが、この説に対して三人の論者の主張が述べられます。そこではっきりするのです。
 ・阿頼耶識がどこに説かれているのか。
 ・何故阿頼耶識と名づけられるのか。
 読み方なのですが、重層的に読まれているようです。「有」を二度読んでいます。新導本では「有の字を二度読め」と注意書きが記されています。
 「此れが有なることに由って、諸趣と及び涅槃の証得と有り」
 この「此」が第八識を指しています。第八識が有ることによってという意味になります。
 主題は「界」と「依」です。因と縁の問題です。因と縁をはっきりさせるのです。
第一解です。
 「此の第八識は自性微細(ジショウミサイ)なるが故に作用(サユウ)を以て之を顕示(ケンジ)す。」(『論』第三・十六左)
 「頌中(ジュチュウ)の初の半は、第八識因縁と為る用を顕し、後の半は流転と還滅(ルテントゲンメツ)とのために依持(エジ)と作(ナ)る用を顕す。」(『論』第三・十六左)


 ここまでが全体の解釈になります。後半に上二句と下二句の解釈が述べられます。
 分解しますと、
 ・第八識は自性微細である。
 ・作用を以て之を顕示する。
 頌中の初の半は、
 ・「無始の時より来(コノカ)た界(カイ)たり 一切法に於て等しく依(エ)たり」の二句。此れに対して「第八識因縁と為る用を顕す」で相応します。因縁となる働きを顕す。
 後の半は、
 ・「此に由って諸趣(ショシュ)と及び涅槃の証得(ショウトク)と有りと。」の二句で、此れに対して「流転と還滅(ルテントゲンメツ)とのために依持(エジ)と作(ナ)る用を顕す。」ことが相応します。生死流転の根拠と涅槃の根拠が明らかにされます。還滅といいますが、帰るのではないのですね、帰るは自分の足で行くことを表しますが、「還」は行くのではないのです。還るのです。
 善導大師は「(法事讃)また云わく、帰去来、他郷には停まるべからず。仏に従いて、本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願自然に成ず。」(『化身土』本p355)と。
 滅、寂滅です。ここが本国になります。ですから娑婆を他郷と。ですから娑婆から滅度に行くのではないのです。還るんです、滅度に還っていくのですね。この依持と為る作用が第八識であると証明しているのです。
 第八識が因縁となり、此の身を引き受けているのですが、此の身が流転と還滅の依り所となることをはっきりさせたのです。
 次に上二句を釈します。
 ・「界」は因の義、つまり種子識である。
 ・「依」は縁の義、つまり執持識である。
 これ等のことを細かく釈してまいります。
 頌は『摂論』の所知依分第二の一・衆名章第三に、
 「世尊は何れの処にか阿頼耶識を説いて阿頼耶識と名けしや。謂く、薄伽梵は阿毘達磨大乗経の伽陀の中に於て説けり」と。
 ここを背景に成り立っているのですね。そして、無性の釈には、「界とは因なり。即ち種子なり。是れ誰が因種なりや。謂く一切法なり。此れ唯だ雑染のみ、是れ清浄に非ざるが故に。」と。
 界とは因の義である、と。真諦訳では、性の義と。
 『選注』p56を参考に読ませていただきますが、「無始の時より」とは「初際無きが故」である。
 「界と云うは是れ因の義、即ち種子識にして」
   界というのは因という意味だと。原因です。第八識が原因となってという意味ですね。では第八識の用は何かといいますと、所縁ですね、五色根と種子と処である、種・根・器が因となって、四生の在り方が決定されてきた、それが異熟として過去を引き受けた身である、或は過去を牽きづっている身であるともいえるのでしょう。
 この因のことを、
 「無始の時より来た展転相続(チンデンソウゾク)して親しく諸法を生ず。故に名けて因と為す。」と説明されます。
 「本識の中にして親しく自果を生ずる功能(クウノウ)差別(シャベツ)なり」と種子が説明されていましたが、この種子に本有(ホンヌ)と新熏(シンクン)の問題もあるわけですね。
 ここに『阿毘達磨経』が引用されて、
 「諸法をば識に於て、識を法に於ても亦爾なり。更互(タガイ)に果性と為り、亦常に因性と為ると。」
 阿頼耶識と雑染法とは互いに因縁と為る、と。これも『摂論』によるわけです。
 ここを読んでいきますと、種子とは、現行を生み出す力である。其の力が第八阿頼耶識に蓄積されている。それが縁を伴って「親しく諸法を生ず」るのですね。このことは講義の中で幾度となくお話をさせていただきました。
 大事なことは、現行は種子より生み出される、阿頼耶識の発露であるということです。自分がどのように生きているのかは、どのような種子を蓄積しているのかと密接に関係してきます。
 ここまでが「因」の義です。
 次に「依」の義について述べられます。
 「依と云うは是れ縁の義、即ち執持識にして、無始の時より来た一切法の為に等しく依止と為る。故に名けて縁と為す。」(『論』第三十六左)
 と定義されています。「来」は本来、元よりと云う意味になります。依止は依り所、これに依って保たれているという意味です。
 その理由が述べられます。
 「謂く能く諸の種子を執持するが故に、現行法の與(タメ)に所依と為るが故に、即ち彼を変為し、及び彼の依と為る。」
 ここは種子の特性ですね。因は種子識であるが、種子は縁に触れて現行する働きをもっている、このことが縁の義と云われることなのでしょう。これを現行の側面からみますと、成した行為は成す種子から出てくるわけです。種子無きところからは現行しないということなのです。
 因は阿頼耶識の中に蓄積された種子なのでしょうが、種子が種子のままであるなら、現行はしません。適切な喩ではありませんが、園芸店にいって、花の種を買ってきてもですね、蒔かなければ芽はでませんね。蒔くと云うのが縁です。直接的な増上縁です。水とか日差しは間接的な助縁になるのでしょう。
 阿頼耶識が何かに触れた時に、種子が動くわけです。私たちの生活はここを依り所として動いているのでしょうね。
 すごく厳しいですよね。一点の妥協も許さない厳しさを生きているのですね。生まれてからの一生涯、種子を執持していくのです。種子を離れての生活はないというわけです。このときの執は、共に有るという意味になります。身と共にあるもの、阿頼耶識と共にあるものです。それが種子だと。
 本識を依止として七転識が現行するのです。
 本識が因として、所縁は種子・有根身・器(種・根・器)これが七転識の為に依となると教えているのですね。

お知らせ

2017-01-17 22:33:17 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 昨日のブログで一応第三能変を閉じさせていただきます。概略ですが、略説唯識から始まり、第十六頌までを概観いたしました。第十七頌は中途半端でおわっていますが、いずれ続きは読みたいと思います。
 明日からは、初能変の阿頼耶識の存在証明である五教十理証を読み解きたいと考えています。
 第二能変はブログで一応読み終えていますが、「唯識に自己を学ぶ」で加筆訂正を加えて再録をさせていただいています。
 後半は第十七頌から第二十五頌までを概観し、修道である五位について読み解いていければと思っています。
 尚、聞成坊様での唯識講義は、来る20日(金曜日)依所を八尾別院で午後二時からの開講となっています。20日は雪マークが付いておりますので、天候次第では延期となるかもしれません。その折はブログ及びFBでお伝えします。
 唯識は迷いの構造を明らかにしましたが、親鸞聖人は迷いが如来回向を引き出す原動力であることを明らかにされたと思っています。そこに信心のダイナミズムが生み出されているのであろうと感じています。
 今日はブログはお休みとさせていただきます。いつもお読みいただきましてありがとうございます。南無阿弥陀仏

第三能変 第九 起滅分位門 (20) 八識一異について (まとめ)

2017-01-16 20:52:58 | 第三能変 第九・起滅...
  

 極睡眠というのは、私たちが日頃、夢を見たりするような睡眠を指すのではなく、夢も見ない、起こらない極重の睡眠を指し亦た悶絶も極重の悶絶を指すのです。
 「疲極(ヒゴク、つかれきっていること「身疲労し疲極す」と。)等の縁あって睡をして有ることを得しむ。有心のときを名づけて睡眠となす。これを無心ならしむるが故に極重の睡と名づく。」(『述記』第七・八十六左)
 と云われますように、疲労ということが縁となっているのです。「身疲労し」といわれていますね。心が疲労し、とはいわれていません。心が疲労しているときは、睡眠も、うとうとだったり、夢心地だったりするわけです。「心が」という場合は不定の心所の一つで、眠(めん)といわれています。「眠とは、謂く心をして昧略ならしむを以て性と為す。」と。この時は、煩悩が種子として潜在している状態で、眠っている心ですね。ですから、無心の睡眠には不定の心所である眠の心所はないのです。身の分位であると。ただ眠に似たものであるので、仮に立てたといわれています。『述記』に問いを立てて答えています。
 「此の睡眠の時には、彼の体なしと雖も而も彼に由って、彼に似る、故に仮に彼の名を説く」(『論』第七・十五左)
 「問う、此に既に心所の眠なし。何を名づけて眠となし、而も論の中と大論の無心地等に説いて眠となすや、
 「(答え)これに二解あり。一に由、二に似なり。この眠の時には彼の心所の眠の体は無しと雖も、而も彼の加行の眠の引くに由る。あるいは沈重にして不自在なることは、彼の眠の心所ある時に似る。二義を以っての故に、無心なる身の分位を仮説して眠と名づく。実に眠にあらざるなり。」(『述記』第七本・八十八右)
 次に悶絶ですが、これも睡眠と同じように、身の分位になります。
 「大論の第一に、悶絶はこれ意の不共業なりと説けり。即ち悶の時に、ただ意識のみあるによる。悶は心所法にあらず。末摩(マツマ・marmanの音写で死穴、死節ともいう。)に触するを以って悶が生ずること有るが故に。悶は即ち触処の悶なり。」
 「末摩というは梵言なり。此には死穴と云い、或いは死節と云う。順正理論の第三十に云わく、末摩は別物無し。身に異の支節ありて触する時は便ち死を致すといえり。」(『演秘』第六本・十九右)
 断末の叫びですね。悶絶とはそのような身の上に起こることなのです。風熱等の縁なくして、悶絶を起こすならば、これは心所であるけれども、風熱等の縁によって、身の分位を引くのである、と云われています。
 「二無心定と無想天と及び睡と悶との二と、この五の時と除き、第六の意は恒に起こる。縁が恒に具せるが故に。」(『述記』第七本・八十九右)
 (意訳)無想定と滅尽定と生無想天と睡眠と悶絶の五位を除いては第六意識は恒に起こるのである、何故ならば、第六意識が起こる縁が恒に起こっているからである。
 「是の故に八識は一切の有情に於て心と末那と二は恒に倶転す。若し第六起るときには則ち三いい倶転す。余は縁の合するに随て一より五に至るまでを起すときには則ち四いい倶転し乃至八いい倶なり。是を略して識の倶転する義を説くと謂う。」(『論』第七・十六左)
 (意訳) このようなわけで、八識はすべての有情にに於いて倶に動いている。阿頼耶識と末那識は恒に倶転する。マナーという我執の心は、ときどき動くのではなく、恒に動いている。阿頼耶識を依り所として動いていく。若し第六意識が起こる時には、阿頼耶識と末那識とが一緒に動く。余(前五識)は縁に依り一つが動くときも有り、全部が動くときもある。それは縁によって違う。そして阿頼耶識と末那識の二つはいつも有る。則ち阿頼耶識と末那識と第六意識と前五識のいずれかが、起きている時には動いているわけですから、四つは必ず動いていることになります。それが倶に動いていく。これを略して識の倶転する意義を説くのである。
 ここが、八識倶転 ・ 八識一異 について述べられる一段になります。
 初能変・第二能変・第三能変を結ぶにあたって八識倶転・八識一異が述べられます。「こころは一つか」という問いに答えているわけです。八識はどのように動くのか、一つの識なのか、八識は別体なのかという問いが先ずあるわけです。この問題については概略を示して、初能変・第二能変を学びおえてから再考したいと思います。『成唯識論』の立場は八識別体・八識は、別々の識体を持つということです。八識倶転を受けて八識一異が述べられます。
 「八識の自性は、定めて一とは言うべからず。行相と所依と縁と相応と異なるが故に。又一の滅する時に余滅するものにしもあらざるが故に。能 ・ 所薫等の相各異なるが故に。亦定めて異なるにも非ず。経に八識は水波等の如く差別無しと説くけるが故に。定めて異ならば因果の性に非ざるべきが故に。幻事等の如く定性無きが故に。前所説の如き識差別の相は、理世俗に依る。真勝義には非ず。真勝義の中には心言絶するが故に。伽陀に説くが如し。
 心と意と識との八種は  俗の故には相別なること有り
 真の故には相別なること無し  相と所相と無きが故にと。」(『論』第七・十八右)

(解説) 
 第一説 ・ ここは三義を以て「定めて一とは言うべからず」を釈します。その第一行相とは見分である。識の自性(存在のありよう)はいつでも一つだとは言えない。それは、「行相と所依と縁と相応と異なるが故」だからである。行相は心の働き、所依は依り所となるもの、根。縁は対象、所縁。相応は心所で、多少の別ある、と。。「眼識は色を見るを行相と為す」。眼識は色を見る働きを持ち、眼根を依り所とする。耳識は聞く働きを持ち、耳根を依り所として動くわけです。このように「第八は色等を変ずるをもって行相となす等の如し」と、八識はいつも一つだとは言えないということです。
 第二は「又もし一の識が滅するとき、余の七等は必ずしも滅するものではない」ということ。八の心は働き・依所も違うのであるから一体だとは言えない。その理由が「能・所薫等の相各異なるが故に」と、働きがみんな違う。これが第三の義です。前七識が能薫・第八識が所薫で、また前七識は因、第八識は果であると、『楞伽経』第七に説かれている。また、三性・異熟生・真異熟等、種々の相が異なるからである。 能薫 - 薫とは薫習のこと。現行・転識(顕在的な心)が潜在的な根本心・阿頼耶識にその種子(影響)を薫じること。薫じる七転識を能薫・薫じられる阿頼耶識を所薫という。 第二説 ・ 「亦定めて異なるにも非ず」を釈しています。ここも三義を以てとかれます。 第一の義は、必ずしも異なるものではないということ。『楞伽経』の第九巻の頌に 「八識は大海の水と波と  差別の相あること無きが如し」 と説かれている。また大海と鏡面とによって、多くの波をおこすようなものであり、そこには大海と鏡面と差別はない。それは一つの水と波のようなものである。 第二の義は、定めて異というならば、因果が成立しない。更互に因果となるからであり、法爾の因果は必ずしも別なるものではない。 第三の義は、一切法は幻事・陽炎・夢影のようなもので、必ずしも別の性があるわけではない。この三義で、八識は一つのものではないし、また別なるものではないといっているのですね。これが私の心の構造なのです。AかBではないのですね、またAかBかのどちらでもないということでもない、と。概念的には絶対矛盾しているわけですが、そこに同時に存在しているのが私の生命体なのです。八識は一なるものでもないし、別なるものではない、と教えられています。 「此の一異に非ずは、四勝義に依りて四の世俗に対して皆得たり」(『述記』)と。『瑜伽論』巻六十四に四重二諦について説かれています。要約しますと、世俗諦と勝義諦とを世間・道理・証得・勝義の四つに分けてそれぞれの四つがどのように相応するかを説いているのです。世俗の真理を世間世俗諦・道理世俗諦・証得世俗諦・勝義世俗諦とにわけ、それぞれ、道理世俗諦が世間勝義諦・証得世俗諦が道理勝義諦・勝義世俗諦が証得勝義諦に相応し、勝義諦の勝義は勝義勝義として、非安立一真法界(言葉で語られない真実の世界)を立て、真実とは何かを説き明かしています。 まとめとして、  「前所説の如き識差別の相は、理世俗に依る。真勝義には非ず。真勝義の中には心言絶するが故に」と。八識五十一の心所の総まとめです。八識五十一の心所の違いの相は道理世俗に依る。道理に依ってものを見る、という立場です。迷いは何故起こるのかということを分析的に明らかにしているわけです。勝義勝義という空の立場に立って、すべては無自性なるが故に空であるとはいわないのです。何故かといいますと、造論の意のなかで、「二空の於に迷・謬すること有る者の為に、生と解とを生ぜしめむが故なり」と述べられていました。勝義勝義を理解した上で、勝義勝義に迷い、謬っているのは何故かを明らかにして、生と解を生じせしめるのである、ということを忘れてはならないところです。 『述記』(第七本・九十八左)の記述を示しますと、  「もし爾らば、前来、所説の三能変の相は、これ何ぞ。これは四の俗諦のうち第二の道理世俗に依って、八等ありと説く。事に随って差別す。四重の真諦のうち第四の真勝義諦に非らず。勝義諦のうちに八識の理を窮めるに、分別の心と言と、みな絶するが故に。非一非異なり。四句分別等を離れたり。前の心所を心に望めて一異なること、第二の俗諦を以て第二・第三・第四の真諦に相対するなり。今は第二の俗諦を以て第四の真諦に対して論を為す。」 大乗仏教の真理を弁えた上で、迷いの構造を明らかにしているのが唯識なのですね。煩悩即菩提・生死即涅槃と一言でいってしまえば誤解が生まれます。生死は涅槃なのだから、迷う必要は無いわけです。しかし現実には迷い苦しんでいるのが私の姿です。それは何故かと疑問を呈しているわけですね。真勝義の立場に立ってしまいますと「心・言絶する」と。非一非異として八識を重層的に説明をし、「唯識無境」を明らかにしているのですね。 明日は最後の詩句について述べてみたいと思います。
  参考文献 『瑜伽論』巻六十四より・第一真義理門を説く。
 「真義に略して六種ありと。謂く世間成真実乃至(道理真実・煩悩障行智所行真実)所知障浄智所行真実、安立真実、非安立真実なり。前の四真実は應に知るべし前の菩薩地の中にすでに広く分別せるが如しと。
 云何が安立真実なる、謂く四聖諦なり、苦は苦に由るが故に、乃至道は道に由るが故なり。
 所以は何ん、略を以て三種の世俗を安立す。一には世間世俗、二には道理世俗、三には證得世俗なり。
 世間世俗とは、所謂宅舎・瓶盆(ビョウボン)・軍・林・数(シュ)等を安立し、又復た我・有情等を安立し、道理世俗とは、所謂蘊界処等を安立し、證得世俗とは、所謂預流果等の彼の所依処たる四諦を安立するなり。又復安立に略して四種あり、謂く前に説けるが如き三種の世俗及び勝義世俗を安立す、即ち勝義諦なり。此の諦義は安立すべからざる内の所証なるに由るが故に、但だ随順して此の智を発生(ホッショウ)せんが為めに、の故に仮立す。云何が非安立真実なる。謂く諸法の真如なり。」と。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「心と意と識との八種は、 俗の故には、 別なること有り。 真の故には相別なること無し。 相と所相と無きが故にと」
 (意訳) 心・意・識という八種の識は世俗諦(道理世俗諦)でいうならば、八識は別体である。しかし勝義の立場(二空)からは相は別であることはない。それは相と所相との差別が無いからである。
 真実は 「相と所相となきが故」 なのです。勝義の於に立ってしまえば、すべては無自性空になり、解脱していない者にとってはニヒリズムに陥ってしまいますね。『解深密経』に「我凡と愚とに於ては開演せず」という意味は、このことなのです。人間の心の中に大晦日を迎えるというのは、一年を振り返り、自分の姿を見つめ直すという機会を与えることなのでしょうし、節目を立てて、新たな視線に立って人生を見つめ直すスタートを切る、という意味があるのでしょう。そこに自分のこころの状態を知るという大切な意味が含まれているのではないでしょうか。迷っていることを知る、迷わせているのは何、を知ることが非常に大切なことなのです。意識起滅の分位の締めくくりに、安田理深先生のお言葉を記します。
 「迷っているという上に悟りの智慧がある。生命つまり、何か生きたもの、生きる用き、生きた生命というものは、固定されたような生命ではない。物質的生命でない。原始の生命。本能。これは無限の創造力をもつ。裸となった創造力理知とか文明とかを捨てて、そういうものに帰らんとする叫びがある。」(『選集』第四巻p43)