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『論』に説かれます「趣」の意味がつづきます。
「或は、諸趣と云う言は能・所趣に通ず。(『論』第三・十七左)
能趣(趣かせるもの) = 業と惑と中有
諸趣 〈
所趣(趣く所) =五趣の苦果
中有は次の生を牽いてきます(生有)から因になるわけです。能趣は因、所趣は果です。つまり惑・業を因として、果である苦を牽いてくるわけです。
この具体性が次の科段における「資具」になります。
「諸趣の資具も亦趣と云う名を得。」(『論』第三・十七左)
器世間
資具 { } 趣
惑と業
(第一義) 器世間は五趣の赴く所です。器世間において五趣は動いているわけです。これは所趣になります。
(第二義) 惑と業を携えてという意味になりましょうか。
趣は、ただ果を云うのではなく、果を生み出す因の能(業・惑)と器世間(苦果)を包み込んでいる、ですから唯だ所趣だけを云うのではないということになります。
総結
「諸の惑と業と生(苦)とは皆此の識(第八識)に依る。是れ流転がために依持とる用なり。」(『論』第三十七左)
流転を生み出してくる働きは第八識に依るのであると結んでいます。
第八識があることに由って煩悩・雑染を生じて苦界を現成してくる、その依持が第八識であることを明らかにしているのですね。
ここで問いが出されます。
「還・滅等の為に依持たる用とは、その義如何。」(『述記』第四本・十右)
「及涅槃証得と云うは、」以下になります。またにします。