十一の善の心所について『成唯識論』にしたがってまとめて見たいと思います。少し長いですが『論』から引用します。
「此の十一種は。前に已に具に第七・八識に位に随って有・無なるを説けり。第六識の中において定の位ならば皆具す。若し定に非ざる位ならば唯軽安(きょうあん)のみを欠く。有義は。五識には唯十種のみ有り。自性散動にして軽安無きが故にと云う。有義は。五識にも亦軽安有り。定所引の善なる者も亦調暢(じょうちょう)有るが故に。成所作智(じょうしょさち)と倶なるには必ず軽安有るが故にと云う。」(『選註 成唯識論』p129)
私たちの心は前五識(眼・耳・鼻・舌・身識)・第六識・第七識・第八識の四つの心をもっているのですが、善の心所はどこに働くのかと云う問題があるのですね。それに答えているのです。第七識・第八識は位に随って有る場合とない場合が有るということです。位というのは有漏位(煩悩の有る位)・無漏位(煩悩の穢れがない位)のことです。根本煩悩は我執ですから、ここは我執が有る場合は善の心所は働かないというのです。そして無我の境地になりますと十一の心所はすべて働くといっています。第七識も第八識にも我執が働いているときは善の心所は働かないといっているのです。働いているのは善でも悪でもない無記の心は働いているというのです。命は善でも悪でもなく無記(善とも悪ともきめることができないこと)なのです。ですから我執も無記になります。しかし我執そのものは無記なのですが、我執が起こっている時は煩悩が働いていますから、善の心は起きないのです。「法」を立場とする無漏位の境地に立ちますと善の心所はすべて働くことになるのですね。そして意識ですね。第六識が働くときは十一の心所すべてが働くといわれているのです。こうして仏教の勉強をし、また聞法をするということには善の心所が働いていることになりますね。聞法をしようという意思決定が私の上に善の心が自ずとして働いてくるのですね。前五識はどうかといいますと、護法唯識では共に働くといわれるのです。善の心所すべてが働き動くというわけです。是はどのようなことであるのかといいますと、前五識そのものは感覚作用ですが、第六識の影響下にあるわけです、第六識に支えられて前五識は働いているという関係になります。「成所作智(じょうしょさち)」とありますが、この智慧は前五識が転じたものなのです。(前五識が転じて仏智として顕れたものー仏の四智の一つ)表層の意識から深層の意識へと自分を見つめる眼差しが深まっていくのですが、深層の意識では善の心所は働かないというのです。これは何故かといいますと、命の根源は善悪を超えた平等の世界を戴いているのですね。しかし第六意識は善悪の判断を常にしているわけです。ですから第六識ですね。ここに心所として善が置かれているのですね。この表層の意識なのですが、これは第八阿頼耶識を根本識として影響を受けているのです。「五識は縁に随って現じ」・「意識は常に現起す」といわれています。深層の阿頼耶識を因とし、さまざまな縁を補助因として五識は表面に現れてくることになるのです。これを転識といいます。意識は自ずから分別を起こすことが出来、「内外門に転じ」といわれ、自己の内と外を対象とすることが出来るので有るといわれているのです。ですから「多くの縁を籍りず」と意識が生ずるためにには多くの縁を必要としないといわれているのです。阿頼耶識を根本原因とはするのですが、意識の働きは私の精神生活にとっては大変重要な役割を持っているのです。表層から深層へという流れは第六識がキーポイントになり、第七識で我執として色づけされ、第八識に種子として薫習されるのです。聞法するという行為も意識から生まれてくるということが大変意義の有ることだと思います。