唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

善の心所ーまとめ(1)

2009-11-30 20:19:11 | 心の構造について

十一の善の心所について『成唯識論』にしたがってまとめて見たいと思います。少し長いですが『論』から引用します。

「此の十一種は。前に已に具に第七・八識に位に随って有・無なるを説けり。第六識の中において定の位ならば皆具す。若し定に非ざる位ならば唯軽安(きょうあん)のみを欠く。有義は。五識には唯十種のみ有り。自性散動にして軽安無きが故にと云う。有義は。五識にも亦軽安有り。定所引の善なる者も亦調暢(じょうちょう)有るが故に。成所作智(じょうしょさち)と倶なるには必ず軽安有るが故にと云う。」(『選註 成唯識論』p129)

 私たちの心は前五識(眼・耳・鼻・舌・身識)・第六識・第七識・第八識の四つの心をもっているのですが、善の心所はどこに働くのかと云う問題があるのですね。それに答えているのです。第七識・第八識は位に随って有る場合とない場合が有るということです。位というのは有漏位(煩悩の有る位)・無漏位(煩悩の穢れがない位)のことです。根本煩悩は我執ですから、ここは我執が有る場合は善の心所は働かないというのです。そして無我の境地になりますと十一の心所はすべて働くといっています。第七識も第八識にも我執が働いているときは善の心所は働かないといっているのです。働いているのは善でも悪でもない無記の心は働いているというのです。命は善でも悪でもなく無記(善とも悪ともきめることができないこと)なのです。ですから我執も無記になります。しかし我執そのものは無記なのですが、我執が起こっている時は煩悩が働いていますから、善の心は起きないのです。「法」を立場とする無漏位の境地に立ちますと善の心所はすべて働くことになるのですね。そして意識ですね。第六識が働くときは十一の心所すべてが働くといわれているのです。こうして仏教の勉強をし、また聞法をするということには善の心所が働いていることになりますね。聞法をしようという意思決定が私の上に善の心が自ずとして働いてくるのですね。前五識はどうかといいますと、護法唯識では共に働くといわれるのです。善の心所すべてが働き動くというわけです。是はどのようなことであるのかといいますと、前五識そのものは感覚作用ですが、第六識の影響下にあるわけです、第六識に支えられて前五識は働いているという関係になります。「成所作智(じょうしょさち)」とありますが、この智慧は前五識が転じたものなのです。(前五識が転じて仏智として顕れたものー仏の四智の一つ)表層の意識から深層の意識へと自分を見つめる眼差しが深まっていくのですが、深層の意識では善の心所は働かないというのです。これは何故かといいますと、命の根源は善悪を超えた平等の世界を戴いているのですね。しかし第六意識は善悪の判断を常にしているわけです。ですから第六識ですね。ここに心所として善が置かれているのですね。この表層の意識なのですが、これは第八阿頼耶識を根本識として影響を受けているのです。「五識は縁に随って現じ」・「意識は常に現起す」といわれています。深層の阿頼耶識を因とし、さまざまな縁を補助因として五識は表面に現れてくることになるのです。これを転識といいます。意識は自ずから分別を起こすことが出来、「内外門に転じ」といわれ、自己の内と外を対象とすることが出来るので有るといわれているのです。ですから「多くの縁を籍りず」と意識が生ずるためにには多くの縁を必要としないといわれているのです。阿頼耶識を根本原因とはするのですが、意識の働きは私の精神生活にとっては大変重要な役割を持っているのです。表層から深層へという流れは第六識がキーポイントになり、第七識で我執として色づけされ、第八識に種子として薫習されるのです。聞法するという行為も意識から生まれてくるということが大変意義の有ることだと思います。


、善の心所ー行捨・不害その(2)

2009-11-29 20:11:24 | 心の構造について

行捨を整理しますと、精進と三善根(諸の善を生み出す根本と成る、無貪・無瞋・無痴を三善根といいます。善を生み出す業因となるものです)との上に心を平等・正直・無功用ならしめる作用が行捨なのです。行は作用、捨は惛沈(こんじん)・掉挙(じょうこ)ではないということをあらわしています。惛沈は重く沈んだ心であり、掉挙は高ぶり騒ぐ心のことを言います。惛沈にも偏らず、掉挙にも偏らない、陥らない状態が「捨」と云う心なのですね。「静に住せしむるをもって業となす」といわれているのです。心を常に平静に保つことが行捨といわれる善の心所になるのです。そして最後に挙げられているのが「不害」という心所です。「諸の有情に於いて損悩を為さず瞋無きを以って性と為し。能く害を対冶して悲愍するを以って業と為す」といわれています。無瞋の心所が諸の生きとし生けるものを損なわない、傷つけないということを性としているということになります。能く害を対治して悲愍(慈悲を以って)することを業と為すのであるといわれているのです。『成唯識論』の造論の意趣、帰敬頌に「利楽諸有情」(諸々の有情を利楽せん)とありますが、仏教の導師は常に「下化衆生」の願いに生きるということをいいたいのではないかと思うのです。曽我先生は「信に死し願に生きよ」と教えてくださっていますが、仏教の大前提は「大菩提心」一つなのです。法然上人は菩提心無用といわれたがためにあらぬ誤解を受けられましたが、法然上人の言いたかったことは、「人間の立場からは、菩提心はでてこないのであると」信知していることだと思います。親鸞聖人は法然上人の教えを賜り、聖道の菩提心を浄土の大菩提心として、その意義を明らかにしてくださいました。そして浄土の大菩提心の中に善の心所である「信・慚愧・無貪等三根・勤・安・不放逸・行捨・不害」が法蔵菩薩の願心として成就されているのであると思わずにはおれません。唯識の教学から言いますと道は外れているのですが、善の心はすでに回向として与えられているのであって、その呼応として私たちの願生道が成り立つのではないかと思うのです。唯識教学にあってはこの善の心所はどのように捉えているのか、まとめるような形で次回、書き込みたいと思います。


善の心所ー行捨(ぎょうしゃ)・不害(ふがい)について

2009-11-28 22:47:38 | 心の構造について

善の心所ー行捨・不害に入る前に、平和・平等について補足というか、今感じていることを少し述べてみたいと思います。私たちが普通、平和・平等を考えるときは相対的平和・相対的平等なのです。対比する考え方で、絶対的とはいえないのではないかと思うのです。それは自分にとっての平和であり、自分にとっての平等であるということになるのではないかと思います。自分にとってと云うことで、他を切り捨てるという行為が為されるのではないでしょうか。私はここに差別の構造が隠されているのだと思うのです。差別は差別をされる側に問題が有るのではなく、差別する側に問題が有るのではないですか。要するに私の中に差別を生んでくる質が隠されているということなのではないでしょうか。その質を白日の下にさらさなければ親鸞聖人が開かれた御同朋・御同行の地平に立つことができないのではないかと思うのです。蓮如上人は御文において「故聖人のおおせには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ、おおせられ候いつれ。「そのゆえは、如来の教法を、十方衆生にとききかしむるときは、ただ如来の御代官をもうしつるばかりなり。さらに親鸞めずらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもおしえきかしむるばかりなり。そのほかは、なにをおしえて弟子といわんぞ」とおおせられつるなり。されば、とも同行なるべきものなり。これによりて、聖人は御同朋・御同行とこそかしずきておおせられけり」(『御文』第一帖 真聖p760)と教えてくださいました。「かしずきておおせられけり」というところに命有るものの尊厳を見つめておられたのではないでしょうか。私は本当に命の地平に立って命の尊厳を見つめているのか、私の中に差別を生んでくる質はないのか、問われて見れば、私の中に命の地平を見つめる眼差しはないという他なく、常に差別を生み出してくる自尊損他の姿をしか見出せないでいるのです。広大無辺の世界にいながら世界を狭小し、閉鎖された自分の世界を住処としているのです。浄土は「三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとく、広大にして辺際為し』(『浄土論』)といわれていますが、三界は迷いの世界ですね、迷いの転じた世界が浄土ですから、遠くにある実体的な世界ではないということは明らかです。自分の中に問われた問題から閉鎖された世界からは差別しか出てきません。そして開かれた世界から御同朋・御同行の平等の大地がしっかりと根付いているのではないでしょうか。そして「行捨」なのですが「心を平等に正直に無功用(むくゆう)に住せしむるをもって性となす」といわれているのです。無功用は意図的な心の働きがない状態ですから、行捨は心があるがままに、意図的に働かないということなのです。大田久紀師は「極めて平凡な日常生活の中に真理がある。そこに人生の極致がある。毎日毎日をいい日であったといって過ごせるような生き方、それを唯識では平等・正直・無功用というのです」と述べられています。(『成唯識論要講』巻二p346)


善の心所ー不放逸(ふほういつ)

2009-11-27 23:33:53 | 心の構造について

放逸とはなまけ心ですから、不放逸はなまけない心ということになります。なまけ心とは要するに我がままなのですね。何に対してなまけるのかといいますと悪を防ぎ、善を修することにおいて怠ることをいっているのです。ですからここで言う不放逸は悪を防ぎ善を修することに於いて怠らない、なまけないという心の在り方です。「不放逸と云うは。精進と三根となり。」といわれています。なまけない心とは懸命に努力すること、そして三根(無貪・無瞋・無癡)が働くことなのです。「別に体有るに非ず」といわれていますから、不放逸というものが単独であるわけではないのです。精進と三根から成り立っていることをまとめていっているのです。「悪を防ぎ」ということが大事ですね。悪を断ずるということではなく、いつでもなまけたい心との葛藤の中で善を修することを怠らないことが悪を防ぐのです。悪を防ぐためになまけないのではないのです。なまけない心が悪を防ぐのです。仕事を終え帰宅し、ホッとしてビールを軽くいただきますと何もしたくなりますね。不放逸にはいつでも落とし穴が仕掛けられているのです。この落とし穴が煩悩といわれるものでしょうね。なまけ心も「煩悩の所為なり」と決着がつきますと、煩悩が退散していくのですね。不放逸という心を保つことは容易ではありませんが、「煩悩の所為なり」ということに於いて自然に不放逸という心が現れてくるのです。煩悩から逃げまくるのではなく煩悩と向き合うということが大事なことであるということをここでは教えているのではないかと思います。


意識の罠ーそして自己にこだわる心

2009-11-25 23:50:05 | 生きることの意味

差別と平等・平和と戦争など意識の上では差別を悪・平等を善とし、平和を善・戦争を悪として理性的に判断を下していくことができますが、いったん自分の身の上の話になりますとこの善悪の判断が曖昧になってきます。それほど意識することは自分で判断を下してくることに無力なのです。私の意識は私の思うようにはコントロールできないのです。何故なのでしょうか。自分の損得に関わらないところでは平等論、平和論を戦わすことについてやぶさかではありません。このやぶさかではないというところにも自己にこだわる心が働いているのです。自己にこだわる心は自分のことであるにも拘わらず、自分には全く関知できない心の領域なのです。「恒審思量」といわれ、恒に審らかに我を思い量る心なのです。意識の意は思量、思い量るということなのです。そして思量は自分のことだけを間断なく考え続けるのです。私たちがよく「自己中」と言いますが、そんな生半可な自己中心的なものではないのです。この生半可なというところで誤魔化されるのです。自分の都合のよいところで誤魔化してきますから自分で自分が騙されてしまって、自己にこだわる心の正体を見破ることができなくなっているのです。私には見破ることができない心の領域が私の中で深く渦巻いているのです。しかしこの心の領域を知るということが本当の平等性を生み出す原点になるのです。平和の問題も、核廃絶の問題も、CO2削減の問題もこの心を知ることなくして論じ得るものではないのです。我執といいますと、自己中心で、利己的で暗いイメージしか抱くことはできませんが、そうではないのですね。平等の大地に立つ大きなステップになる心の領域なのですね。そのように思いますと限りなく素晴らしい心の領域にもなるのではないでしょうか。自己にこだわる心の自覚は、共存・共命の心へと転換していく明鏡になるのではないでしょうか。親鸞聖人は自己のこだわる心の自覚には徹底したものがあります。「悪性さらにやめがたし/こころは蛇蠍のごとくなり/修善も雑毒なるゆえに/虚仮の行とぞなづけたる」といわれ、善を修することにも自分の利己性が混じり、損得勘定が入り混じっているから、善の行とは言えないのだ、と述懐されているのです。そして次の和讃が大事ですね。「無慚無愧のこの身にて/まことのこころはなけれども/弥陀の回向の御名なれば/功徳は十方にみちたまう」と。「弥陀の回向の御名なれば」というところにおおきな転回がみうけられます。これは「法」に依るということでしょう。法に依るあるがままの人生が開かれるということなのですね。我が計らいではないのです。「わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。」ことであり、「念仏には無義をもって義とす」といわれる所以なのです。計らいのないことを計らいとするのです。これがあるがままの人生ということになりましょうか。ですから自信をもって「さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし」と言えるのではないでしょうか。すべてを引き受けることのできる人生がここに開かれることになるのです。


意識の罠ー(2)

2009-11-24 23:06:51 | 生きることの意味

意識の罠という問題は、意識の上で善をなし、悪を排除するということが如何にあやふやなものであるのかということなのです。「末とうらない」という問題を抱えているわけです。イデオロギーの違いによって、同じ平和を考えても武力衝突することもあるわけです。平和という言葉に隠された差別が潜んでいることを見逃しては成らないと思うのです。そこに核が平和への抑止力をもつという誤った考え方が横行するわけです。平和を願いつつ平和への実現に向かっての歩みが始まらない背景には仏教で言う法執があるわけです。根本我執といわれますが、自分が一番というところに問題の根があるように思われます。意識の上ではみんな仲良くといっている直後に喧嘩を始めていますからね。自分のことになると前が見えなくなるのですね。平和・平和といって排除し、差別を生んでくる背景にはセクト優位の論理が働くのですね。個人的に考えますと、親切心ということがあります。今年一月に叔父が亡くなり、病弱であった奥さんの介護に家内が一生懸命に尽くしていました。はじめは非常にありがたく思われていたようですが、時間が立つにつれ介護が当たり前になってきたり、家内のほうもだんだん最初の意気込みから疲れが見えはじめて愚痴が出始めてきたのです。親切心にもこんな問題が隠されているのです。差別と平等も問題を抱えます。「差別をしてはいけません」といいつつ自他の差別はなくなりません。平等といいつつ無条件平等というわけにはいかないようです。無条件ではないということは、排除をする、差別を図るという構図が潜んでいます。意識と紙一重に意識に反する罠が潜んでいるのです。親鸞聖人が「御同朋・御同行」と示してくださいました無条件平等はどこから生み出されてきたのでしょうか。私たちは謙虚に親鸞聖人のお言葉に耳を傾けるべきではないでしょうか。「同一に念仏して別の道なきが故に。遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり。眷族無量なり。」(真聖p282)そして私の心根は「わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむ」以外なにものもないのです。


意識の罠

2009-11-23 23:09:42 | 生きることの意味
日常の生活を振り返って観ますと、いろいろ考えさせられることがあります。家庭のことから政治のこと、世界情勢まで幅広く、なんとなく考えています。もう評論家以上のコメントも飛び出してきます。そして一番の関心事は自分の考えが一番だということです。自分の考えているようになったらすべてがうまくいくと思っているわけです。平和の問題を考えてみましても平和を望まない人はいませんね。みんな平和を望んでいますでしょう。極論になるかもしれませんがアフガニスタンのテロリストも平和を望んでいるのではないでしょうか。私の職場の近くに北朝鮮系の学校があるわけですが、スローガンは世界平和ですよ。また身近かな家庭の事にしましても、夫婦円満に親子関係も適度の緊張をもって仲良くしたいと思っていませんか。善と思われる事は進んで行い、悪と思われる事は廃したいと思っているのではないですか。命の大切さ、生かされている命の尊さも知っているわけです。にもかかわらず命の軽視は日常茶飯事に起こっていますでしょう。平和の問題にしても国家間の都合によって左右されます。戦争のない世界を構築することが人類の永遠の課題だとしますと、身近な家庭のことも円満にということが永遠の課題ではないでしょうか。永遠の課題だという問題提起は有史以来の課題だからです。では皆んなが望んでいることが「何故」実現できないのでしょうか。意識のレベルでは幸せを望まない人は一人もいらっしゃらないでしょう。ここに意識の罠が潜んでいるわけです。何故望んでいることが実現できないのか考えてみてください。


その(4)-阿頼耶識の三位について

2009-11-22 18:38:01 | 心の構造について

少し煩雑になりますが阿頼耶識の三位についてまとめたいと思います。

  1. 我愛執蔵現行位ー菩薩の七地以前と二乗の有学、及び一切の異生にして第七識我執の現行する間を指します。この我執の現行する位にとりきめて第八識を阿頼耶と名づけるのです。
  2. 善悪業果位ー菩薩の第十地までと二乗の無学果の聖者と一切の異生との善悪業の果報としての第八識の相続する間をいいます。この位にとりきめて第八識をビパーカ(毘播迦)といい、異熟と名づけられます。佛果に至ればこの識は善無漏となり業所感の無記でありませんからこの名を失います。
  3. 相続執持位ーこれは一切の異生及び佛果に至るまで第八識中に種子を執受任持して失わず相続する位をいいます。因位にあっては漏・無漏の種子を執持し、果位にあっては無漏の種子を執持す。この位にとりきめてアーダーナ(阿陀那)と名づけられ、執持と訳されます。

阿頼耶を以って主として第八識を呼びこの識の自体とするのは、それが初位の名であると共に我愛執蔵の過ちを明らかにすることにあります。聖道仏教の目的はこの我執の断除にありますから阿頼耶と名づけるのです。「この識の自相は分位多なりと雖も、蔵と云うは初めにして過重し、是の故に偏に説けり」(『成唯識論』ー『選註成唯識論』p30)、第八識は善または悪の業種子によりそって熟したものであり、我執の現行する位にとりきめて阿頼耶と名づけられるのです。第八識は唯所薫であって能薫ではないというところが大事ですね。阿頼耶識の三義に於ける執蔵ということは、末那識によって執着されることを(蔵する)という意味で分別をしないのが阿頼耶識であるということ。阿頼耶と云う意味はアーラヤ(経験のすべてを蓄える蔵)ということ。蔵するということを持って阿頼耶といい、阿頼耶は執着は起こさないということです、また執着と言う意味もないということになります。執着を起こすのは末那識ですね。「第七末那識というものがありまして、それによって意識全体がさまざまに汚されておるんだけれども、それに対して苦い顔をしないで、いつでもほがらかな心をもって、それを受け取っていく。これを阿頼耶識と言うんでしょう」(曽我量深述)「執を蓄えている」といっても、阿頼耶識そのものは末那識によって愛着処となり、我愛をいう種子を薫習しているわけで、これは純粋意識であると思うのです。「是無覆無記」であり「恒転如暴流」といわれているわけです。因縁正起です。法ですね。法は融通無碍でしょう。とどまることがないわけです。瞬時瞬時が新たなのです。末那識は固定してとどまるのです。いうなれば法に違反しているわけです。違反するとトラブルをおこしますね。そして違反しないように努力しますでしょう。このトラブルが私にとっては苦悩を生んでくるのです。我愛によって執着され現行している我が身に共に流転してくださる、それが法蔵菩薩ですね。「私と共に」と言うことにはどのような意味が有るのでしょうか。末那識は微細に働くと言われていますね。知らず知らずのうちに汚していくと言うことです。これは自分と他人とをはっきり簡びわけ、自分の得を簡びとるということが私の感知されないように水面下で働いているというのです。私は、「我が身は現に」という二種深信においてしか末那識は浮かび上がってこないと思うのです。「無有出離之縁」の自覚に於いてですね。「もう助かる縁がない」ところに法蔵菩薩出現の意味が有るのではないかと思うのです。「二河喩」における三定死ですね。「汝一心に正念にして直ちに来たれ」という分水嶺に法蔵菩薩は立っておられるのではないでしょうか。私と共に安危を共同する主体ではありませんか。私にとっては家内が法蔵菩薩かもしれませんし、あなたにとっては、あなたのよき伴侶が法蔵菩薩ではありませんか。私の我執に気づかしめる働きを持ったのが法蔵菩薩だとすると、法蔵菩薩も我執に気づかれた一人と言うことになるのかもしれません。

  • 参考文献 『法蔵菩薩』 曽我量深述(曽我量深米寿記念出版)同朋社刊・昭和38年4月刊行
  • 『二河白道の譬』 寺川俊昭編 東本願寺出版部発行  
  • 『唯識論講義』 花田凌雲著 仏教聖典講義刊行会
  • 『唯識三十頌聴記』 安田理深述 文栄堂刊 

その(3)ー一切種について

2009-11-20 23:30:52 | 心の構造について

阿頼耶識の三相といっても、阿頼耶識に異熟という面と一切種という面があるということです。異熟は過去の善悪の業果であり、今が因となるということですね。そして善悪の業果が種子となり阿頼耶識に蓄えられることになります。「一切種子識」といわれるのですね。種子は「本識中の親しく自果を生ずる功能差別(くうのうしゃべつ)」といわれるのです。何のことかといいますと、心の領域に於いて、心の特別(差別)な作用力(功能)を指し示しているのです。そして「親しく自果を生ずる」、根本に於いて自らが因果を生ずるということなのです。「唯識無境」といわれる様に認識の対象は自己の中にあるということを教えているのです。外界に原因があるわけではないということです。阿頼耶識の中の種子が因となり私を形成しているのです。「まず一切の法は、皆我が心に離れず。・・・心外に有りと思わば迷乱なり。これ迷乱に依る故に、無始より以来、生死に輪廻する身となれり」(『法相二巻鈔』)すべては私が作りだしている世界であるということなのです。「自業自得」というお尋ねがありましたが、選択肢は無数にあるわけですが、私たちは一瞬にして一つを選び取っているのです。いわゆる選択摂取です。ここに責任が生まれてきますね。選びは自由ですが、結果は自らが背負っていかなければなりません。自由と責任の問題になります。ここに責任が持てないという問題が生じてきますでしょう。なぜかということですね。なぜ責任をもてないかと云う問題なのですが、これも解決しているのですよ。「身」が一身に責任を背負っているのです。「身」が大事なキーワードになりますね。「わが身は罪悪生死の凡夫」というときの「わが身」です。「身」は縁起するものすべてを引き受けて現在しているのです。この身の事実に立ち返るのが信心の内実ではないでしょうか。「にぐるをおわえとる」摂取の事実は本願の働き、法蔵菩薩の願心ではないでしょうか。そして「身」は阿頼耶識の所縁になりますでしょう。生きているということは身をもっているということですね。身は外に環境をもち内に種子を宿していますから、無始以来「身の事実」に帰れと催促を促す働きをダルマ・法というのでしょう。この法を法蔵菩薩五功思惟の願心と表現したほうが具体性を持つのではないでしょうか。根本は阿頼耶識ですね。迷っているから真実に出遇えるのですよ。迷いが有り難いのです。迷わなかったら私は腑抜けです


その(2)ー異熟について

2009-11-20 00:17:08 | 心の構造について

「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」と『歎異抄』にしるされていますが、摂取不捨に親鸞聖人は「にぐるをおわえとるなり」と左訓をほどこされています。これは窺うことはできませんが聖人の体験による本願の「すえとうりたる慈悲」を身に受けられたことによるのであろうと思うのです。本願が私とともに歩みを続け、本願が私の上に成就しているということを、親鸞一人の身に証明をされたのであると思うのです。親鸞は自然法爾に於いて「自然というは、自はおのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむということばなり。然というは、しからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。法爾というは、如来の御ちかいなるがゆえに、しからしむを法爾という。」とのべられ、本願を信受するのはおのずから、しからしむということであるといっておられます。摂取不捨は自然であるということですね。私が逃げても逃げても、同体になって「おわえとる」のです。ここに本願の有機性が生き生きとのべられています。本願は私の上に生きて働いているのです。その本願文は「たとい我、仏を得んに、もし生まれずは、正覚を取らじ」という誓願なのです。これが法蔵菩薩なのですね。経文の上では神話的に述べられていますが、私の迷いとともに流転しながら「おわえとる」働きをしているのです。私が「今現在」しているのは善悪業の結果なのですね。自覚としてです。自覚を外してしまいますと運命論になります。父母を縁として生まれ、そしていま現に生きているということは、過去を背負っている存在ということになります。これを第八識では果相といい、異熟果です。それを善悪業果位と位置づけています。異熟という目覚めがありますから、身と処(環境)の問題は解決されるわけです。阿頼耶という意味がなくなった位になります。我執が意味を持たなくなりますから、菩薩位になります。次に因相なのですが三世でいうところの現在が因ということになります。未来をはらんだ現在ということです。「あまねく諸々の衆生とともに安楽国に往生せん」という、一切衆生とともにというスタンスが取られます。これを相続執持位といいます。如来の位になります。信心の問題で言いますと、信心は私の上に起こった出来事なのですが私が起こしたものではありませんね。信心は相続執持位と思うのですがね。信心は三世にまたがるわけでしょう。無始無終ですね。私にとっては信心を覆っている雲霧があるということになるわけでしょう。我執によって覆われているのというところに、二十願が見出されてきたと思うのです。これを第八識で言うと阿頼耶識といい、我愛現行執蔵位といっていいと思うのです。