唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門  廃立 (13)

2015-03-11 21:22:58 | 古希を祝ってもらう

 明日は大阪教区第16組の同朋大会が八尾別院を会所として開催されます。参加予定でしたが、どうしても抜けられない仕事があり参加できませんが、仕事しながら憶念させていただきたいと思います。 公開ですので、御縁のある方は是非お参りください。 南無阿弥陀仏

 無色界には色法はありません。勝れた禅定によって色法という物質的なものが無い世界だと云われています。心のみから成り立つ世界と云っていいのでしょうね。無色界には業果の色としての肉体は存在しないのです。しかし禅定の力に依って心のみと云う世界は在るということです。それは理に違することはないんだと。こういうように、三界の境は別であることを明らかにしているわけです。
次の科段は「不可知」について述べられます。そこで所縁行相門は閉じられ、心所相応門に入ります。
 今日は、先日の講義に対する感話が寄せられましたので紹介します。皆様方の感想をお願いいたします。
 
 「眼が見ているのではない。心が見ているのである。心が見ているが、自分自身に都合のよいように色をつけているのである。マナシキと言われるものでしょうか。心とはアラヤシキの事を言われるそうですね。アラヤシキは何でも受け入れ、分別しない。人間は分別するから苦しむのでしたね。分別をしなければ苦しむ事はないと。自分と言う言葉があります。自と分と言うより、自他といったところになるのでしょうか。自他分別、初めに言われていた言葉ですね。分別するのは自分自身がいつでも一番だからでしょう。自分自身が無くなるのは恐怖ですね。何故恐怖なのか?死を意味するからでしょうか?僕自身は、死ではないと思います。世間から自分自身の存在が無くなる事の方が恐怖でしょう。死とは何か?今は答は出ません。しかし他人と関わっている以上、世間から自分自身の存在を忘れられるのは恐怖です。その為に人は他人との繋がりを非常に大事にします。派閥が生まれるのはその為かもしれません。しかし派閥は他の派閥の人間を排除したりします。何故でしょうか?意見が違うから?僕自身は本当は自分自身の利益の為に個人個人が動くからではないかと思われます。だから派閥といったものが存在するのですが。自己中心、いつでも。忘れてはいけないでしょう。分別するというのは死ねまで付き合います。分別しているのは自分自身であって他人ではない。自覚する必要性があります。いくら外に問題解決の方法を求めても無駄でしょう。本当に見なければならないのは自分自身であるかと。他人任せにしている事がよくあります。自己保身でしょう。自分自身が見ている世界は自分自身にしか見えない。見ている世界は自分の心となるのではないかと。感情によって見ている物は同じでも意味合いは違ってきます。物は同じでも他人とは違っています。それを同じ物をみていると錯覚し、イザコザが起こるのでしょう。他人とは違って見えている。自覚が必要です。 全く同じ価値観の人間がいるはずがありません。会話では合わしていても、所詮は会話ではなく、自分自身の意見を言っているだけでしょう。訳の解らない文章になってすいません。最近僕自身思うのですが、人間関係には上下関係があります。会社では上司、部下といったように。会社という場所、環境では成立するかもしれません。環境が人間関係を成立させているのです。しかし人間は環境が変われば役割はかわります。会社を出て結婚していれば、家では夫であり、妻である。環境の変化に対応出来るのが人間です。しかし自分自身の変化には気がつかないのも確かでしょう。昔の自慢話をして嫌われるのもその為でしょう。環境が変化したのではなく、自分自身が変化した事を気づかなければなりません。諸行無常、現在は留まっていない。自分自身も留まっていないのでしょう。変化している自分自身に気付く、自問自答しなければならないでしょう。太ったからダイエットをする。体重計にのれば解りますが、変化している自分自身とは、心の変化ということだと。心の変化を測るモノサシ、唯識なのでしょうか?意識と無意識があり、マナシキ、自我が勝手に自分の都合のよいように色をつけて判断を下しており、また心には不可知の層、アラヤシキと呼ばれるものがあり、情報を受け入れるだけで自らは分別しない。心の構造を探求するのが唯識なのでしょうか?今は解りません。ただアラヤシキに色はない。と考えずに黒色だとしたらどうでしょうか?眼から入ってきたもの、赤色だとしたら、アラヤシキに入っても黒色が勝ち、アラヤシキは汚染されません。独立を保てます。何でも受け入れる、しかし自我が勝手に、赤色に色をつけて、朱色になって外に吐き出してしまう。ということなのでしょう。黒色は他の色の影響を一番受けにくい色です。自我は白色で、一番影響を受けやすい色です。何にでも変化してしまう。怖いことですね。何にでも変化するのであれば、良い方向に変化することも可能でしょう。過去の苦い経験を自分自身がどう料理するかによって自分自身の将来は決定されるでしょう。しかしあるのは今、現在だけです。将来と書きましたが、未来はあるかどうか解りません。現在をどう生きるか?を考えなければならないでしょう。その為には過去を振り返らなければならないでしょう。過去を見なければ、現在も盲目となると言った外国の政治家がいます。そのとうりだと思います。過去を冷静に振り返る事、僕自身は情けないと思っている過去を、冷静に振り返って、消す事が出来ない、背負って生きる。と覚悟しなければとおもいます。
 🔪も使い方間違えたら人刺しますね。」
 河内
「世間から自分自身の存在が無くなる事の方が恐怖でしょう。・・・他人と関わっている以上、世間から自分自身の存在を忘れられるのは恐怖です」端的な表現ですね。孤独になってしまうのではないかという不安からくる怖れでしょうね。現代人の多くの人が抱えている問題だと思います。人間はどうやったら幸せになるのかと云う理想郷を追い求めているわけですが、外の世界をいくら改革しても、満足するか、満足しないかの価値判断を下す自分の存在が見えないと孤独という問題はつき纏ってきますね。「纏」ですね。煩悩です。煩悩は煩悩自身を満足させるために外の世界を改革せよと命じているのですね。そのことに疲れ果てて自縄自縛するわけでしょうね。
 曇鸞大師は「三界は是虚僞の相、是輪轉の相、是无窮の相にして、蚇 尺音 蠖 屈まり伸ぶる蟲なり一郭反 循環するが如く、蠶 才含反 繭 蠶衣公殄反 自ら縛わるるが如くなり」と述懐されています。曇鸞大師の機の深信と云われてるところですね。自分を防御する為に為した行為が自分を死に追いやることに成るんだという目覚めの言葉でしょうね。
 いくら理想を説き、仮に理想が実現したとしても、自分が見えなかったら理想は理想でなくなるんですね。これは歴史が証明しているところです。古代人から見れば現代はユートピアでしょうね。それでも不足ですからね。欲には際限がないという事を証明していますね。
 これがね、自分を飾ることに奔走するわけです。飾ることに於いて他人の眼を引き付けようとするわけでしょう。飾りは、学歴であったり、財産であったり、名誉であったりですね。親鸞聖人は生きる生き様の原点を「いしかわらつぶてのごときわれらなり」に見いだされました。しかし、僕のひがみでしょうが、名誉欲に奔走する僧侶をみますとねガッカリしますね。名誉は悪いわけではありませんが、悪いのは「社会の為に尽くしているんだ」という根性ですね。僧侶の方々も、一度は下町の零細中小企業の現場を視察されたらいいと思いますね。或は仏法を聞きたくても聞けない環境のもとでもがいておられる方々の心境を見られたらいいと思います。エリート意識からは何も生み出してきません。もがいて苦しんで、生きることも死することもままならない人々の声を聞く、そこに僧侶の原点があるように思いますね。
 そこから逃げた僧侶のことを、声聞・独覚といわれる存在なのでしょう。「二乗に堕すを菩薩の死と名づく」、心して聞いていかなければならない指摘です。

初能変 第二 所縁行相門  廃立 (8)

2015-03-04 20:58:51 | 古希を祝ってもらう


 私たちは常日頃から、日常の会話の中で「私は」「私が」と、恰も私自身を熟知しているかのような言動に走ってますが、菊池 萌師は『アポロンの雄鳥』で「皆さんは、其の人を知っていますか。 ジブンと云う人のことを。」とボールを投げかけました。受け手である私はどのように答えたらいいのでしょうか。
 私とは投げ出されたもの、対象化されたものということが云えるかと思います。対象化されたものは私ではないということです。しかし、私たちはと云う時の私は対象化された私を対象化して実体化しているわけです。それはね、妄想なんですね。でも、妄想が大切と云うのは、妄想が扉になる入口だからですね。妄想を潜って初めて触れ得る存在が「私」であるわけです。
 『アポロンの雄鳥」を読んでいる自分は、対象化された自分なんですね。「私が読んでいる」という視点です。読んでいる私って?誰?この「誰」を唯識ヨーガ学派が言い当てたのですね。世親菩薩に代表されますが、「第七末那識」の発見です。「我思う」「我」は投げ出された我ですね。思う我がいるわけです。投げ出された我は、我執の我。我執の我を知っている存在がアーラヤ識です。我思うに先立って我がいる、それを世親菩薩は自大語、或は流布語とおさえられたのでしょう。
 ですから、第八識の果相は異熟識と押さえられています。自相は阿頼耶識だと、この阿頼耶識は我愛執蔵現行位という「雑染のために互に縁と為るが故に、有情に執せられて自の内我と為らるるが故に」と云われるところに、末那識の存在を覚知したのでしょうね。純粋無垢の働きを、生起すると同時に汚すものがある、同時ですから任運です。分別はしません。分別せずに染汚してくる、その染汚してくるものが、対象化された我であると云えると思いますね。我と思っているのは無始以来の等流習気ですね。これが種子です。種子から現行が生れてくるのは因縁による。從って、対象化された心を縁ずるということはないと、所縁とすることはないということですね。
 「故に異熟識は心等を縁ぜず。」(『論』第二・三十二右) 
 從って、異熟識は心・心所及び無為法・不相応行法も縁ずることはないんだと。ここまでが有漏位についての所論でしたが、ここから、無漏位について述べられてきます。
 「無漏の位に至ると云うは、勝れたる慧と相応す。無分別と雖も、而も澄浄なるが故に設ひ実用は無けれども亦彼の影を現ず。」(『論』第二・三十二左)
  無漏という、漏れることのない浄らかな世界に至る時には、勝慧と相応すると。
 「述して曰く、無漏の位に於いては、勝れたる慧と相応す。籌度して相を取る分別は無しと雖も、而も澄浄なるが故に。」(『述記』第三本・八十七右)
 勝慧とは大円鏡智のことであると云われています。転識得智ですね。識が、有漏れの識が転じて澄浄の智慧になるということですね。仏教は何が言いたいのかというと、転識をいいたいんですね。迷いの識が転じて大円鏡智になる。
 「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。」(『教行信証』序)
 ここがですね、大乗仏教の醍醐味ですね。真宗のすごさだと思います。 今日は此処までで。

初能変 第二 所縁行相門  廃立 (7)

2015-03-03 20:39:06 | 古希を祝ってもらう


 「須らく彼は実用あるを以て別に此從り生ずべし。」(『論』第二・三十二右) 
 よく使われる方法ですが、彼・此の使い方です。彼が第八識の場合は、此は転識になります。彼が転識の場合は、此は第八識を指します。本科談に於ける彼・此は、彼は転識、即ち第八識以外の識。此は第八識です。
 第八識以外の心は、本当の働きである実の作用をもっている。その働きは阿頼耶識より生ずるものである。対象化された心から生ずるものではない。つまり、種子は、「本識のなかの親しく自果を生ずる功能差別なり」と定義されていました。種子は自らの力(功能)もって、自らの果を引いてくる特別の力(差別)をもったものである。その種子から現行が生起するのであって、それ以外から現行は起こらないのです。
 投げ出された心は影なんですね。私たちは、その影を見て心だと思い込んでします。影は偶像であり、虚像です。大切なのは、影を映じている本体、本体が実際の働きをもったもの、生きた心です。本来現行された心は無分別なんですね。無記と表していますけれども、、阿頼耶識を依り所として生起してきたものなんですね。第七末那識も第八阿頼耶識を依り所として起こってきますので、任運です。法爾自然、これが有漏の識の因縁変なんです。腹が立つときは腹が立つんです。悩みが深い時は、悩みが深いと思って悩みません。思いを超えて腹が立ち、悩みます。それが第七末那識の働きです。
 「無為等を変ぜば亦実用無くなんぬ。」(『論』第二・三十二右)
 無為とは、為作。造作が無いものと定義されます。因縁によって生ずるものでない非現象的存在。非現象的存在とは、真理・空を表す言語です。
 「若し第八無為を縁ぜば、無為は用無し、・・・」(『述記』)
 無為は生滅変化しないもの、不生不滅の真理を表しています。、有為は生滅変化するものです。盛者必衰の理は有為法を表していますし、生は必ず死を待つ、生まれて滅んでいくものです。形あるものは必ず壊れる、作り上げてきた者は崩壊するのが理なんです。ですから有為を依り所にすると人生そのものが空虚に終ってしまう。
 「変ぜば」は「変ずるも」と読んだほうがいいのかも知れません。無為法は対象化とすることはできないと云っているのですね。対象化してしまいますと、有為法になります。仏教を学ぶ、仏法を学ぶ、仏像を学ぶ、写経をするということも無為の世界の事柄ですが、私が学ぶと云った時に、対象化されます。自分の心の影なんです。仏教を学んでいることが、私の心の影を学んでいることになります。外い向いている眼を内に見れば、自ら自分の捉えた仏教を学んでいるkとに気づかされます。しかし、仏教を学ぶことはこの方法しかないんですね。直接触れるわけにはいきません。神秘主義ではないんです。
 自分の心が捉えた無為なんですね。無為を自分の殻に閉じ込めて学ぶんです。よくいうでしょう。「仏教とは」・「南無阿弥陀仏とは」とね。「とは」が付きます。「とは」は自分が立場になっているんです。仏教より、お念仏より、自分の方が偉いんです。これを「識変の無為」と呼んでいます。しかし、仏教に触れるのはこの方法しかないんです。ですから聞くことが大事、聞いて聞いて聞きまくる。聞熏習がやがて転ずる時が来る、その時を以て、「念仏もうさんとおもいたつこころのおこる時、即ち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」。主客が逆転するわけでしょう。南無阿弥陀仏が主になる。法が主になって、初めて仏法が聞こえてるんですね。これを他力というんでしょう。ですからね、自力聖道門といってもですね、他力でないと救済されないんです。主客の逆転に「嗚呼そうだった」と頭が下がる時に廻向が輝くんですね。
 仏教とは修行の是非をいっているのではないと思いますね。紙一重を超えるか超えられないかは「自らの力を頼りとする自力の執心が離れた時」なんでしょう。

古希

2015-02-22 18:02:38 | 古希を祝ってもらう
 古希の祝辞を数多く寄せていただきましてありがとうございました。12日は大坂坊主BARで、14日は千林のカドモツ食堂で、昨日は森小路のMobでそれぞれの趣向を凝らして祝っていただきました、身に余る光栄です。ありがとうございました。また、本日は法友が長年温めてきた連載ものの『アポロンの雄鶏』が刊行する運びとなりました。そんな余韻に浸りながら、二日酔いの身を癒す為にお昼は鴫野の名店仙酔庵でお蕎麦(二八手打ちそば)をいただき、大阪城公園・梅林を散策してまいりました。記念に写真を貼り付けて我愛を満足させたいと思います。お付き合いいただければ幸いです。
 
 
 

 
 

 (『アポロンの雄鶏』FBよりシエアさせていただきます。)
 
 平成27年 2/22 (日)
 
 企画から丸一年、ようやく本日
 
 『アポロンの雄鶏』01刊行です。
 
 心というはたらきについて
唯識の観点から河内勉氏がおはなしをしてくださいます。
ユイシキと言われても、それは聞き馴染みのない言葉かもしれません。
古臭く、しかつめらしい学問のように感じられるかもしれません。
それがどこか遠い別の、わたし以外の心の問題を説くのなら
それはそうかもしれません。

“ちょっと簡単”に、難しい唯識を。
他ならない自己のその難解な心の問題を
氏の紡ぐ連載の中に見つめてゆければとおもっています。

続いて真宗大谷派僧侶の松本曜一氏は看取りの観点からおはなしをされます。
死生観と云うものは様々ですが、氏は看取りから、死から生を眼差して此の課題を観察されます。
看取りと聴くと、死に直結し死に際した態度のように捉えがちですが
死に様から今此処の生き様をさぐり訪ねてゆく、死の行儀と其の死に呼応する行儀の全体性からわたしたちが生を見詰めてゆくと云うのは、実に生気に充るアプローチです。

死に生を教わる、死に問い生に応えていく姿勢を氏の円かな語りに訊ねたいとおもいます。

どうぞお手にとっていただければ幸いです。

お近くの書店、コンビニエンスストアには無いので
お気軽にお問い合わせ下さい。