疑の体について、大乗の異師の説(不正義)と護法の説(正義)を挙げる。初は大乗の異師の説を挙げ、後に訓釈によって論じる。
「有義は、此の疑は慧を以て体と為す、猶予して簡択(ケンチャク)するを説いて疑と為せるが故に。」(『論』第六・十三左)
大乗の異師は、この疑は慧をもって体とすると主張する、何故ならば『瑜伽論』に、猶予して簡択することを説いて疑としているからである(説猶予簡択説為疑也)。
大乗の異師の論証は『瑜伽論』巻第五十八に説かれる「猶予して簡択(ケンチャク)することを疑とする」と説かれているからであり、また、『瑜伽論』巻第八に「疑とは異の覚を体と為す。覚は即ち是れ慧なり、決断するを慧と名づく」という一文をもって大乗の異師の疑の心所は慧の一部である根拠としています。「異覚」とは、「覚」は慧を表し、その異(翻対にあるもの。所対治)であるものが「疑」であるから、疑は慧の分位仮立法であると主張し、論証しています。
しかし、疑は慧の分位仮立法であるという主張は誤り(不正義)である。
後は、疑は慧の分位仮法なのかどうか、大乗の異論と比較検討する。(訓釈)
「毘(vi)を以て末底(mati。マチ)を助けたる、是れ疑の義なるが故に、末底と般若とは異ること無きが故に。」(『論』第六・十三左)
大乗の異師の説を挙げています。疑は慧の一部であることを論証しようとする試みです。即ち、末底は慧の異名であって般若と別体ではなく、慧の上に毘の字を加えて末底を助けて毘末底(vimati)となると疑の意味になる、といいます。末底と般若とは倶に慧の異名であって疑の体は慧なのであると主張します。
「論。有義此疑至説爲疑故 述曰。疑以慧爲體。何以故。大論五十八説猶豫簡擇説爲疑也。大論第八異覺爲體。覺即是慧。決斷名慧。然簡擇猶豫異。決斷覺説爲疑故。此以文證 又訓釋中論。毘助末底至義無異故 述曰。所謂末底是慧異名。與般若無別體。於慧上加毘字助之。毘是種種義。即種種慧也。大論言異慧疑。異者是種種義。故知疑體即慧。以末底・般若倶慧異名。以毘助之。豈別有體。此是大乘異師。非是別部。」(『述記』第六末・七右。大正43・445a)
(「述して曰く。疑は慧を以て体と為す。何を以ての故に。『大論』に「猶予して簡択するを説いて疑と為す」と説くなり。『大論』の第八に異覚を体と為す。覚は即ち是れ慧なり。決断するを慧と名づく。然るに簡択は猶予して決断する覚に異なるを以て、説いて疑と為す故に。此れは文を以て証するが有ゆえに。又訓釈の中に、
所謂末底とは是れ慧の異名なり。般若と別の体無し。慧の上に毘の字を加えて之を助る。毘是れ種々の義、即ち種々の慧なり。『大論』に異慧は疑と言う。異とは是れ種々の義なり。故に知る、疑の体は即ち慧なることを。末底と般若とは倶に慧の異名なるを以て、毘を以て之を助く。豈に別に体有らんや。此は是れ大乗の異師なり。是れは別部に非ず。」)
不疑は正慧の分位仮立法であることは善の心所で説かれていました。能対治が不疑、対治される所対治は疑であるわけですが、不疑は仮法であり、疑は実法であるということから、疑を慧の分位とすることは間違いである、不正義であるということ。疑は慧ではなく、個別の自体が有る心所であるというのが護法の正義になります。 次科段より順次、正義が説かれます。 (つづく)