唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (17) 因縁依 護法の正義を述べる (1)

2011-01-31 22:01:38 | 心の構造について

   第二能変  所依門 (17) 因縁依(正義を述べる)
二は、護法等の説を述べる。(1)護法の正義を説く。(2)論拠をもって証明する。これはその初である。(理を立つ・宗を標す)
 「然も種の自類の因と果とは、倶に非ず、種と現との相生は、決定して倶有なり。」(『論』)第四・十四右)

(種子の自類相生の因と果とは倶に存在しない。しかし種子と現行の相生の因と果は必ず倶に存在する。)
 これから勝義の因果関係が述べられます。三法展転因果同時(さんぽうちんでんいんがどうじ)の法門については既に述べましたので省略します。
   前半は因果異時の関係である種子生種子について説き、後半は因果同時の関係である種子生現行について説かれています。
  「種の自類の因と果とは、倶に非ず」とは種子生種子の自類相生の因果関係について説かれている。これは前念の種子が後念の種子を生ずる因果関係を述べたものであり、これは二刹那にわたるので因果異時であると説くのです。同一刹那で同じ存在が同時に並び存在することはないからである。
 後半の 種と現との相生は、決定して倶有なり というのは種子生現行と現行薫種子の因果関係を述べているのです。種と現・現と種の因果関係で、これは倶有であると。即ち、同時因果の関係を述べているのです。

 (語注)

 自類 - 自らと同じ種類。自類相生(じるいそうしょう)という。阿頼耶識のなかの種子は一刹那に生じては滅し(刹那生滅)、滅した次の刹那に自らとおなじ種類の種子を生じるというありようが不断につづく、そのような常に非ず、断に非ずという連続体であるから、外道のいう「常一なる我」ではない、という見解のなかで自類という概念を用いる。自類因果は同類因と等流果をいう。前時の自分の同類因によって後時の自分の等流果を受けることをいう。

 『述記』の記述

 「二に理を立つるに二有り。初に宗を標し、後に証を引く。実種の自類相生するは倶ならず。若し現行の生ずるは決定して倶有なり。」(『述記』第四末・六十四右)

 「知ることを得る所以は」(どうして知ることができるのであろうか) 『論』に次に証を引く文として述べられます。


因縁依のまとめ ・ 『唯信鈔文意』に聞く (18) 観音の智慧

2011-01-30 16:43:32 | 唯信抄文意に聞く

      ー 因縁依(種子依)のまとめ ー
 因縁依は種子生現行・現行薫種子・種子生種子の各種相望の因縁に通じるのですが、種子依という場合、現行薫種子には通じないのです。今は三類の因縁に通じるので因縁依と云うのですね。
そして種子生現行を生ずる因果について因果異時・同時の両説があるといわれていました。難陀・最勝子の因果異時の説を挙げて護法が論破しています。因果異時とは、種子が滅して始めて現果を生ずるのであるとする説で、難陀等が教証・理証を以て主張しています。教証として、『雑集論』に説かれている「種なくして已に生ず」という言を挙げています。最後蘊をもって種子生現行の異時であることの教証としているのですね。二乗無学の最後の五蘊は前刹那の種子から生じ、その種子はすでに滅して、現在の五蘊のみが已に生ずることを顕す、というわけです。理証として種と芽の喩えを以て因としての種と果としての芽は同時ではなく、種が滅して後、その芽が生ずるのであると主張しています。この教証と理証を以て種子生現行の因果もまた異時であるというのです。それに対して、護法は、そうではないのだ、因果には同時と異時の二種がある、因果異時というのは、種子の自類が相続する時のみに云われることである、種子生種子という、前念の種が滅して後念の種が生ずるということのみである、ということであって、種子生現行の因果は必ず同時因果である、と云います。例として、焔と炷とのように互いに因となることを挙げ、また青蓮根等のように種と芽が同時に存在する植物もあることを以て、難陀等の説は能立法不成の過失・所立法不成の過失・不定の過失を以て、理に合わないと論破しているのですね。

        『唯信鈔文意』に聞く (18)

          蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

  「観音・勢至は、かならずかげのかたちにそえるがごとくなり。」
 観音・勢至と申しましても、いずれも一方は差別の智恵、観音は差別の世界を照らす智恵であり、勢至は平等の世界を照らす智恵です。差別の世界を照らすという意味で慈悲という意味になるでしょうね。

 差別ですから、貧乏なものもあれば金持ちもある。健康なものもおれば病にかかったものもおる。そうすると、貧乏なものは苦しみ、病のものは悩んでおるわけですね。その悩んでおるということは、本当に悩んでおるかと申しますと、差別で悩んでおるですね。金持ちのものをみて悩むいうのが、貧乏人の悩みでございます。金持ちがおらなければ、貧乏人もまたないわけなんですね。金持ちが世の中におりますから、それをみて貧乏人というて見下げもしましゅし、また見下げられて、自分と自分を見下げて、また悩むということでしょうね。病人は病人で健康なものをみて悩む。外に健康な人がおらなければ、なにも悩むということはないですね。けれども、外に健康に人がおるから悩むのであります。でも一人だって、腹がいたかったり、頭がいたかったりすれば悩むにちがいないといいますけれど、それはもう健康なものと比較しての話であって、腹がいたくなってきたということだけであれば、なにも驚かんですよ。痛いのは、じっと我慢するよりしかたないものですから、我慢するのは荷物かついでいるようなものです。荷物かついだら重いですからね。かついだ荷物の重さを我慢するよりほかありません。汽車に乗って立っているのと同じことです。立っているのはいらいですけれど、腰かけがあるからえらいのであって、腰かけもなければ立っておることはあたりまえ、我慢するのはあたりまえのことです。それこそ生きている証拠といってもいいのです。

 ですから、その点を見てみるというと、動物たちは病気になって苦しまんですよ。だまって静かにしております。まあうめきますけれど、あれは歌みたいなものです。人間は七転八倒する。虚空をつかんで苦しむという。なぜかというと、「たすけてくれ」というわけなんですね。やはり、それで悩むのです。あるいは死にはせぬかと思ったりします。動物は死にはせぬかという思いもおこらんです。だから、じっとしておる。それで人間より早く治ってしまう。死ぬときも苦しまないで早く死んでしまう。人間は死ぬのにしても長くかかって死ぬ。ゆっくり苦しんで、注射じゃ、切開じゃと、体をおもちゃにされて、そのあげく、さらに強心剤うたれて、最後に「どうも」と医者から頭を下げられておしまいですわね。まったく、人とくらべての悩みです。その差別を照らす智慧ですね。

 観音さまというのは、平生、そういう医者をたのんだり、金をたのんだり、薬をたのみにしたり、そういうようなことがつまり観音さまの御利益だというふうになっていったのですね。ところが、観音さま自身が差別を照らす智慧であって、我々の悩みというものがただ単に病なら病、食物の不足とか、寒さとか住まいのこととかで悩むのではない。差別の念によって悩む、差別のおもいによって悩んでおるのだということを知らせるのが、観音の慈悲なんですね。

 それが常識的に観音さまの御利益は病気を治す、災難を救うて下さるというようなことになって、それで『壷坂霊験記』などができるわけですね。盲目の人の目があいた、観音さまのご利益だというのですね。そうすると、みんながありがたいというておるんですがね、おかしなもんです。それよりか、自分の目の開いていることを喜ぶかというと、ちっとも喜ばん。当たり前にしています。目のわるい人に対して気の毒だと思うだけのことです。しかし、気の毒だと見ておる方も気の毒な存在でありまして、その目で何が見えておるかといったら、まともなものは何一つ見えない。そういうようなことがあるんですね。

 観音は差別、勢至は平等、これは裏表なんです。平等を照らす智慧ということは、つまりすべてのものは、みなあるがままにして空であるという、あるがままが空であるということです。空のままが諸法として存在するのだ。存在する面からいえば観音ですね。存在するままが空だという面からいえば、これが勢至なんです。仏教のいわゆる智慧の両面でございますね。したがって、

 「不可思議の智慧光仏の御なを信受して、憶念すれば、観音・勢至は、かならずかげのかたちにそえるがごとくなり」ということもまた当然のことでございます。不可思議の智慧ですから、不可思議の智慧が憶念せられるときには、観音・勢至がかげのかたちにそえるがごとくであるということです。これは、きわめてそうなくてはならん。こういう意味になります。  (つづく)

          ー  雑感  ー

 息子のそれからのことですが、何かいってくるかなと思いつつ見守っていました。昨日のことですが、「お父さん、アルバイト復帰する」といってきました。「どうかしたのか」と問うてみましたら「みんなのお陰かな」というのです。日ごろからアルバイト止めたのは僕の我が儘だといっていましたが、僕の我が儘では済まされない問題に気づかされたみたいです。友達とか、アルバイト先の従業員の方々の支えがあって今の自分が生かされているんだ、ということを身で感じたみたいです。特に我が儘の要因であった店長が影からアルバイト復帰に向けて会社に働きかけをしていてくれたことをしって、自分の怠かさを痛感したのでしょう。またしばらくしたら問題を起こすでしょうが、見守っていこうと思います。

 一週間、唯識と蓬茨先生の講義を書き込ませていただいていますが、唯識を背景に蓬茨先生のお言葉が身に響いてきます。また蓬茨先生のお言葉から唯識を学ぶという循環がたいへん大切なことではないかと思っています。


第二能変 所依門 (16) 因縁依 難陀等の説を論破する

2011-01-29 23:46:21 | 心の構造について

A_001 『歎異抄』

   端坊旧蔵 永正本

                第二能変 所依門 (16) 因縁依

     

      ー 能立不成の義 ー

 「此より下は比量等とは、前師量して云わく、種が果を生ずるは必定して前後なるべし(宗)、因果なるを以ての故に(因)、麦種等の如し(喩)。彼の過を出さば麦種等の喩に能立不成あり。麦等は勝義の因果に非ざるをもって」(『演秘』)第四本・二十五右)

 能立不成の義(のうりゅうふじょうのぎ) - 能立は能成立(のうじょうりゅう)といい、自らの主張や命題の正しさを他者に論証する論理において、論証を成立せしめるもので、立宗・立因・立喩の三要素(因明の論証式)を以て論証するのです。難陀等が自らの主張を因明の論証式にあてはめますと、次のようになります。

  • 宗 - 種が果を生じるのは必ず前後する。
  • 因 - 因果だからである。
  • 喩 - 麦種等のように。

この難陀等の主張は理に合わないということで不成であるというわけです。(喩)は難陀等の理証で、(因果)は勝義の因果を表しているのですが、護法の正義に於いては昨日の記述のように、勝義の因果は種子生現行・現行薫種子・種子生種子の因果しかないのです。ですから「麦種等のように」という難陀等の理証は世俗の因果関係であって、擬似的因果であり、命題の論証としては成立しないものである、ということですね。

 『述記』には「比量をもって」説明すると述べられていますが、「世俗の因果は復た然るに似ると雖も」(擬似的因果関係)「勝義に非ざるが故に」(勝義の因果関係ではない)から例として理証できるものではない。勝義の因果関係ではないから勝義の種子生現行を以て例とは出来ない、と述べています。

 次は第二の過失(所立不成)を論破します。(能立の対で所立は論証されるべきものという意味です。)

ー 所立不成(しょりゅうふじょう)の義 ー

 「種滅して芽生ずというは、極成(ごくじょう)せるに非ざるが故に。」(『論』第四・十四右)

 (種が滅して芽が生まれるということは、一般に認められていることではないからである。)

 「又、種と芽とは初の時は倶有なり、後には漸く増長して相生ずるをもって、展転して異時と為す可けれども、初に生ずる時には同念に転ずるが故に。又青蓮根の芽を生ずるが如きは必ず倶なるが故に。又影の生ずる等が如し。又汝が説く所の種滅して芽生ずる是れ因縁なりとは、此れは極成せるに非ず。」(『述記』第四末・六十三左)

 「論に種滅して芽生ずることは、極成せるに非ず等とは、彼の量は前に同じ。実に拠りていわば、芽と種とは而も異時に非ず、喩に所立を闕きたり。若し我許と云わば即ち喩に所立の他随一の過あり。又因に不定あり、焔と燈と荷根(かこん)とは倶時なるが故に。」(『演秘』第四本・二十五左)

 『述記』によりますと、難陀等は種と芽は異時であると主張するが、発芽の最初期は種と芽は同時に存在している、また青蓮根などの植物は種と芽が同時に存在しているものがある。従って難陀等が主張している種と芽の関係は異時とはいえず、例とする事は出来ないと論破しています。

 『演秘』では先の能立と同じように因明の量をもって所立不成の過失があると述べています。

 第三は共不定(ぐふりょう)の過失を挙げる

     ー 不定(ふりょう)の失を顕す ー

 「焔と炷(しゅ)とは同時にして互いに因となる故に』(『論』第四・十四右)

 (焔と炷とは同時に存在して相互に因となるからである。)

 その三において不定の失をあげて難陀等の主張を論破します。その根拠が「焔と炷とは同時に存在して相互に因となるからである。」ということですね。これは世俗においても同時因果を示す例として述べられています。焔と炷の喩が引かれますね。ローソクの炎と灯心の関係です。線香や灯明等も同時因果の関係ですね。

 以上三つの過失を挙げて難陀・最勝子の説を論破しています。

 

 


第二能変 所依門 (15) 因縁依 難陀等の理証を論破する。

2011-01-28 23:16:10 | 心の構造について

    第二能変 所依門 (15) 因縁依について

     ―  難陀・最勝子の理証を論破する ー

 難陀・最勝子の理証を論破する科段に入ります。比量を以て難陀・最勝子に対して説かれます。三つの過失を以て、論破します。ここはその初めになります。

 能立不成の過失(『演秘』による)

 「種が芽等を生ずるは、勝義に非ざるが故に。」(『論』第四・十四右)

 (種が芽等を生ずるのは、種子生現行の因果関係のような勝義の因果関係ではないのである。)

 よって勝義の因果関係の例として「種が芽を生ずる」ということを用いる事はできないのである。

 「世俗の因果は復た然るに似たりと雖も、勝義に非ざるが故に。勝義の種と現とを以て例と為すべからず。或いは彼は因縁に非ず。此れは是れ因縁なり。我は彼を説かざる故に、勝義に非ず。又汝の所言は種は滅して芽生ずと云う。」(『述記』(第四本・六十三左)

 護法が種が発芽するという現象を以て例とすることは誤りであると論破します。唯識で述べる「種」は種子生現行などの種子であって植物の種は実の種子ではない。植物の種は種子が現行として現れた存在(種も芽も現行した存在)であって、仮に種という名をつけているに過ぎないのです。植物の種は阿頼耶識のなかの種子の喩えとして用いているのです。阿頼耶識の種子を内種子というのに対して外種・外種子というのですね。内種子は存在を生じる阿頼耶識のなかの可能力で、植物の種子に喩えて種子というのです。「種子は本識のなかの親しく自らの果を生じる功能(力)差別(特別の)なり」と定義されています。功能差別とは直接、自らの結果を生じる力をいう。植物の種子は外種といわれますように、実の因果関係ではなく、擬似的な因果関係であって、勝義の因果関係ではないと護法は説きます。護法は内種による種子生現行・現行薫種子・種子生種子の三つに収められて語られます。(未完)


第二能変 所依門 (14) 因縁門 護法正義 『演秘』の記述

2011-01-27 22:43:09 | 心の構造について

 本願を信受するは、前念命終なり「すなわち正定聚の数に入る。」(論註)
                「即の時必定に入る」(十住論)
                「また必定の菩薩と名づくるなり」(十住論意)

即得往生は、後念即生なり。

他力金剛心なり、知るべし。 (『愚禿鈔』真聖p「430)

 信心を獲得(ぎゃくとく)するその時に(即時)往生を得る身と定まる、信心と往生の関係ですが、信心が因・往生が果であるわけです。しかしこの関係は同時因果ですね。「往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」・「すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」(『歎異抄』真聖p626)と。往生を得る身と定まるということは、「願に生きる」身をいただくということでしょうね。「信に死し、願に生きよ」とは曽我先生の遺教ですが、本願を信受するその生涯は、「あなたとともに念仏もうす人となりましょう」という願いに生きるのですね。唯識でいうとことの最後蘊だと思うのです。信心という種子が往生という現行を生んでくるのですね。種子生現行の同時因果の関係になるのではないでしょうか。

 『演秘』の記述

 「此の時に縁を闕く等とは、縁として更に後念の種を生ずること無きを名けて無種と為す。(問い)若し爾らば云何んぞ名けて巳生と為すや。(答え・正義)而も能く彼の倶時の現を生じ訖る名けて巳生と為す。(第二釈)或いは種は現在なり。彼の未来(未生の現行)を簡びて、名けて巳生と為す。前を取りて正と為す。(種子生種子釈)有義は弾じて云わく、若し此の解を作さば彼論は応に種(後念の種)無くして巳に生ずと言うべし。此の論は応に彼は後種を引生せざるに依って説くが故にと言うべし。(つづく)


第二能変 所依門 (13) 因縁依 正義を述べる

2011-01-26 22:31:26 | 心の構造について

 第二能変 所依門 (13) 因縁依

   ー 護法等の説 (正義を述べる) ー

 第二説、この説に四有り。(第二説、これが四つに分けられる)

  • (1) 前を破す。(難陀・最勝子の説を論破する。)
  • (2) 理を立てる。(護法正義を説明する。)
  • (3) 違を破す。(異説を会通する。)
  • (4) 正に結す。(正義を結ぶ。)

 此れは即ち初なり。

 「有義は、彼が説くこと、証と為るに成ぜず、彼には後の種を引生(いんしょう)するに依って説けるが故に」(『論』第四・十四右)

 (有義(護法等の説)は、彼(難陀・最勝子)が証(『集論』の解釈)として説いていることは、教証とすることは出来ない、という。その理由は『集論』には「後の種子を引生しないということによって説いている」ものである。種子生種子において説かれているのであって、種子生現行において説かれているものではないからである。)

 「護法等の釈すらく、彼の『集論』の中には、無学末心位の種子は更に後の種を生ずること能はざるによって説くが故に、謂く此の時に縁いい闕くをもって、現在の種子更に後念の種を引生すること能はざるをもってなり。此の念の現行、種無し、種は過去に在るをもって名づけて無種と為すと謂うには非ず。『対法』には解すること無し。此れは略して教を解しつ。『瑜伽』は準じて知れ。」(『述記』第四末・六十三右)

 護法の理解は二乗が無余依涅槃に入る直前に種子が最後蘊を生じるという。つまりその時には種子生現行は因果同時の関係にあって、『集論』には「すでに現行が生じる」と述べている、と。しかし、最後蘊の現行を生じた因果同時の果の種子が後の種子を生じることはない、そのことを『集論』には「無種」と述べているのである。『集論』に述べられている「種子が無くすでに現行が生じる」という一文は種子生現行とは関係が無く、種子生現行の因果異時を根拠づける一文にはなり得ないのである。

 尚、『演秘』に詳細が示されていますので、明日、検証してみます。

 


第二能変 所依門 (12) 因縁依 理証

2011-01-25 22:32:01 | 心の構造について

   第二能変 所依門 (12) 因縁依

 昨日の教証に『集論』・『雑集論』が挙げられていましたが、『集論』という場合は『大乗阿毘達磨集論』(玄奘訳)を指し、これに獅子覚が注釈を加えたのです。これを安慧が『集論』と『注釈書』を合糅したのが『大乗阿毘達磨雑集論』(玄奘訳)、通称『雑集論』といわれ、ともに『対法論』としてよばれています。教証を引くときに『述記』には「『対法』第三を引き証して云く」と述べられています。この場合は『雑集論』巻第三(大正31・707c)を指します。

        ー 理証 ー

 「種と芽等とは、倶有に非ざるが故にという。」(『論』第四・十三左)

 (種と芽等とは、倶有ではないからである。)

 教証に続いて、難陀・最勝子が理証を上げて論証します。種は因・芽は果という例をあげ論証します。倶有は同時因果のことで、倶有ではないということは、種と芽とは、因である種と発芽した果である芽は倶有ではないということを主張しています。種子生現行は同時因果ではなく、異時であると。

 参考文献 (『了義燈』)

 「難陀・勝子等は種が現を生ずること前後異時なりと立つ。雑集等を引きて云く、有るは眼にして眼界に非ず等。又瑜伽に云く、無常の法は他性の與に因と為る。亦後念の自性が與めに因と為る。即ち此の刹那には非ずと云う。即ち此の刹那に非ずと云う。即ち此の刹那に非ずと云う長く前の他性因の中に貫するを以ての故に。因と果とは倶にあらず。(『了義燈』第四末・十二右)


第二能変 所依門 (11) 因縁依 引証

2011-01-24 22:42:55 | 心の構造について

 第二能変 所依門(11) 因縁依 引証

 初は文証(教証)・後は理証を述べる。

 「種無くして巳に生ぜりと集論に説けるが故に。」(『論』第四・十三左)

 種子生現行の因果異時説を立てる難陀・最勝子が文証(教証)と理証を以て自説の正当性を論証する一段です。

 (種子がなく、すでに現行が生ずる、と『大乗阿毘達磨集論』巻二に説かれているからである。)

 『大乗阿毘達磨集論』巻二(大正31・668b)を以て因果異時説の教証としているのです。『述記』によりますと、

 「謂はく、無学最後の蘊なり。此の時に種は過去に入りぬ。過去は是れ無なり、當果生ぜず、現の種は巳に滅して唯現行の蘊のみ在ること有るを以て、種無くして巳に生ぜりと名づく。此の中に文略せり。『集論』の本には但、種無くして巳に生ぜり、の言有り、今釈家は取って以て証と為せり。『瑜伽』五十六に云く、或は有るは眼にして眼界に非ずといふも爾なり。此れは則ち教を引くなり。」(『述記』第四末・六十二左)

 最後蘊とは二乗の無学が無余依涅槃に入る直前の心で、集論に述べられている状況は、この直前の状況を示しているのです。この時には種子は無く(現行を生じさせた種子は過去のものとなり、その種子はすでに無いものである。)あるのは現行だけである、と難陀・最勝子は主張するのです。即ち、最後蘊を生起させた種子はすでに過去のものとして滅し、現行である最後蘊は現在に存在しているので、種子と現行の間には時の経過があることから因果異時説の教証とするのです。

 参考文献  『演秘』第四本・二十三左)

 「論に、種無くして巳に生ずと集論に説くゆえとは、対法(『雑集論』巻三・大正31・707c)を按ずるに云わく、無種巳生とは謂わく最後の蘊なりと。釈すらく、無種巳生とは是れ本論なり。謂わく最後の蘊とは是れ釈論なり。今難陀師は彼の論の意を取りて之れを以て証と為す。彼の意は云何ぞ。難陀釈して云わく、二乗の無学の無余に隣る心を最後の蘊と名く。此の蘊を生ずる種は巳に過去に入るを名けて無種と為す。所生の法は在るを名けて巳生と為す。既に因は巳滅にして果は現在なり。明らかに知りぬ、因果は時必ず同じからざることを。

 疏に、此の中に文略せりとは、彼の釈の最後の蘊の文を引かざる故に略と称するなり。

 疏に、今釈家は取りて以て証と為すとは、即ち難陀師を名けて釈家となす。彼の論を取りて以て証と為すなり。・・・」と。


『唯信鈔文意』に聞く (17) 憶念の世界

2011-01-23 19:06:08 | 唯信抄文意に聞く

20081004_02 蓮如上人筆 『歎異抄』

 『唯信鈔文意』に聞く (17)

           蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

 「観音勢至自来迎」(憶念の世界)

 「それから次に、「観音勢至自来迎」と出てきます。「自来迎」、ここから出てくる問題が、なかなか、これからなごうございます。

  「『観音勢至自来迎』というは、この不可思義の智慧光仏の御なを信受して、憶念すれば、観音・勢至はかならずかげのかたちにそえるがごとくなり」

 ここのところは、別の版では、「南無阿弥陀仏は智慧の名号なれば」とあります。この「智慧の名号」といわれておりますままが信心の意義をもっております。他力信心の意義をもっております。「智慧の名号」とどうしていえるかといえば、南無阿弥陀仏は真実の信心という智慧を衆生にあらえるといういわれのもとに成就した、と。なぜかなれば、如来の智願海というものによるからであると。それですから、「この不可思義の智慧光仏の御なを信受して」とありますね。「この不可思義の智慧光仏の御な」ということは、南無阿弥陀仏ということでございますね。南無阿弥陀仏と信受してと、「信受して」ということがあるから、南無阿弥陀仏は不可思義の智慧光仏の御なといえるのでございますね。信受できなければ、南無阿弥陀仏は、やはり口にとなえておる南無阿弥陀仏ということでありまして、称えておる人と称えられておる南無阿弥陀仏とは別なものである。

 しかし、南無阿弥陀仏という御なによって信心をえた人は、また「憶念」ですね。憶念ともうしますのは、その信受したこころが続くわけであります。たえず憶念せられる。おもいだされるわけですね。一貫して信じたままが続くのじゃなく、それなら憶念とはいわれないのですけれども、そこには我々の常識的な生活というもの、生活というものがわが身にあるわけでございますね。したがっていろいろな問題にたずさわらなくてはならぬ。一人ぼう然とおるわけじゃなくて、社会とか職場とか、兄弟とか、友人とか、いろいろなものの中におるのでありますから、往生をえたというても、それは信心をえたことであって、その信心のままに固定しておるということは不可能である。また固定しておるようなものであるならば、信心ではないわけです。ただちに現実の普通の人間生活というものにかえる。そうすれば、ものごとにたずさわるときには、それに心をくばらねばなりませんので、そんなときに、心をそこに向けなければ、かえって智慧がないことになります。まあ酔っ払い運転になってしまいますですね。心に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏といって本願のことばかり思って運転しておったら、酔っ払い運転になってどうなるかわりませんですね。酒飲んでそんなふうになったのも同じことです。本人のことはそれでよかろうけれど、あとは迷惑ですね。

 そういうときに、やはり車の方に心を向けて、前方によく注意をしませんと、信心持ったわが身がどこかへとんでいってしまいますからね。信心だけがどこかへ行くわけないですから。体はばらばらになって、信心だけふらふらと泳いでまわるわけにはいきません。ですから、やはり社会生活にかえるわけですね。そこに安住できなくて悩んでおった者が真実信心をえたといたしますというと、得たならば現実生活にかえることができる。そして、ものごとに雑念を持たないでぶつかって行くことができる。時に雑念もおこってくるであろう。いろいろなことに思いあぐねる。人間同士のことですから、いろいろなことが出てまいります。けれども、その中から思い出される。憶念とはそういうことですね。思いだされるのです。なくなってしまわないで、思い出される。思いだされて念ぜられるのだ、と。思い出されて念ぜられるのです。わかりやすくいうと、三昧、三昧境ですね。いわゆる念仏の三昧境みたいなものです。心が統一せられるわけですから、ことごとに心がひろがって、統一せられるような状況になります。

 憶念せられてくる。憶念ということは、忘れないという意味になりますが、忘れないということは、思い出すということで、昔はこういうことはよく逆に言った。「思い出さねばこそ忘れない」などと。思い出さんからからこそ忘れない。これはまちがいです。思い出さねばこそ忘れないということは、はじめからないということです。それこそ思い出すことはないから、忘れることはないですね。はじめから覚えがないんですから。それはもう絶対に忘れません。そうでしょう。大体財布など持っておらんものが忘れることないでしょう。持っておればこそ、おいてきたというんです。時計持たぬものが、時計忘れたということはないですわね。思い出さねばこそ忘れないというのは、早くいえば、ないということです。昔の人はよくそういうことをいうたが、それはまちがいであって忘れるんですよ。けれども思い出す。忘れたから思い出す。

 それからふつうなら思い出してあわてるのですね。「取りに帰る」とか、「よわった」とか。「帰るまでに誰か取ってしまいはしないか」とかいうのです。この場合、思い出すというのは念ずるの念ですね。念はいわゆる一念です。一念ですから一種の三昧ということにもなりますけれども、三昧ということでは似合わない言葉ですけど、説明のために申しますと、心がはじめの安心の状態にたちかえるわけですね。そうすると、今まで自分の行き悩んでおったことについても明らかにそれを見ることができるようになる。こういうことが憶念の意味でございますね。それを「ねてもさめても」ということで、忘れるということがよく問題になりますですね。

 そういうことを問われたことがありました。長浜別院夏期講習会の時でしたか、その別院のお同行さんの方から質問があって、「ねてもさめてもへだてなく南無阿弥陀仏をとなうべし」という御和讃があるが、どうも分からないというのですね。「分からんとおっしゃいますけど、ようわかった御和讃ではですか」というと、「いやわからんのだ」と。「分かっているでしょう。ねてもさめても、となえよということが分からんのですか」と。「いやその言葉のわけは分かっとるんだ」と。「言葉のわけは分かって、まだ何か分からねばならんことがあるのですか」といいますと、それが「ねておるとき、どうしてとなえられるのか」と、こういう質問でした。「なるほど」と思いました。そういわれてみkればそうだ。ねているときも称えよというんだと。ねたらとなえられん。ぐっと、ねてしまったらね。それで私、「じゃ、ねてはとなえられん、たしかにとなえられませんか」と。「はい、となえられません」というのですね。「それじゃ、しかたがない。御開山にかわって、ねたときだけはよろしゅうございます。許してあげます。おきているときだけでよろしい。おきている間だけとなえなさい。それでいいでしょう」といいましたら、「それならいい」、というんです。

 それから私は、「本当によろしいか」というたんですね。「はぁ、おきている間だけはとなえられますから」と。「それは、たしかか」と問いますと、「たしかです」と。それで、「それじゃ、ご飯たべておるときに、どうしてとなえられる?」。「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏というて食べられますか。咬む時は南無阿弥陀仏というておったら咬めないでしょう。かまずに飲んでしまうかもしらんけれども、飲むときは念仏やめんならんが、どうしますか」。そんなこと申しましたら、「はぁ、そういわれればご飯たべておるときもとなえられん」と。「そうだろう。おきているときでもこまる。じゃあ、まぁ、ご飯たべるときだけはしかたがない。これは命にかかわるから。これも堪忍してあげます」というて、そのあとで、「ものいうときは、どうするか」。人としゃべっておるときにですね。しゃべりながら南無阿弥陀仏いわれぬ。しゃべるのをやめてとなえねばならん。南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・では人にわからん。「どうするか」。「それもこまる」。「じゃ、ものいうときもよろしい」と。こういうふうにいうていったら「となえるときは、ろくにないではないか」ということになる。「そこまで考えてのことか」といったら、「考えたことなかった」という。

 「ねてもさめてもへだてなく」ということは、これはそのお同行さんが考えているような意味とはちがうんですね。もって楽なんです。それは、ぐっとねてしまったときは、称えようと思っても称えられんし、ご飯たべるときも、ものいうてるときも称えられん。そのほか、称えられんときばかりで、称えられるときなんか、めったにあるものんでない。我々一体、一日にどれだけ称えるか。朝と晩、必ず称えるか、朝と晩すら称えておらんものが多いでないか。称えんものを見て、なげかわしさのあまりに称えるのでないか。そんなこと話してたら、「そうじゃ」、というとったです。理屈というものはおもしろいものですね。おしてゆくというと、つまってしまいます。

 ですから、これは忘れていたことを思いだすということなんだ。「ねてもさめても」というときは、ねるときも、目をさましたときも思い出してとなえよということなんだ。夜ねておって、目がさめたら思い出して称える。「へだてなく」とは、何も口がへだてなくじゃないですね。そうじゃない。「へだてなく」というのは、念仏によって、我々が憶念する。憶念の世界には、忘れたときも、思い出したときも、かわりがない。そういう世界が憶念という世界である。ま、そんな話をしたことがございます。ですから、この「憶念」ということは、非常に大事なことでございまして、そこに、この観音・勢至という意味が、次に出てくるようでございますね。 (つづく)

 参考文献 (親鸞仏教センター 『唯信鈔文意』試訳 (4) を参照してください。) HPは http://shinran-bc.higashihonganji.or.jp  です。 

 「『観音勢至自来迎』というは、南無阿弥陀仏は智慧の名号なれば、この不可思議光仏の御なを信受して、憶念すれば、観音・勢至は、かならずかげのかたちにそえるがごとくなり。」(真聖p548)

 (『観音・勢至自来迎』というのは、南無阿弥陀仏は智慧の名号であるから、不可思議光仏(阿弥陀如来)の御名を信じて、憶念ずるならば、観音菩薩と勢至菩薩は、影が必ず形に添うように、その信ずる人にはたらいてくるのである。)

 

 

 

 

第二能変 所依門 (10) ( 因縁依) 別して異計を検討する

2011-01-22 22:41:40 | 心の構造について

 第二能変 所依門 (10) 因縁依

 「第二には広く争う。 三の依同じからざれば即ち三段と為る。」(三所依についての異説を検討する。これが三段に分かれて説明する。)

     ー  因縁依(種子依)  ー

 「初の種子依において、有るいい是の説を作さく、要ず種いい滅し巳って現の果方に生ず。」(『論』第四・十三左)

 (初めの種子依について有る人(難陀・最勝子)がこのような説を立てている。必ず種子が滅しおわってから現行の果が生起するのであると。)

 「此れに二説有り。初説に二有り、一に宗を標し、二に証を引く。今は即ち初なり。」(『述記』第四末・五十九左)

 二説有り、というのは第一説は難陀・最勝子の説。第二説は護法等の説(正義)そして第一説が二つに分けられ、初に難陀・最勝子の説を挙げ、後にその証拠を引証する。今はその初である。『論』において、ここからは種子依について難陀・最勝子の説と護法等の説を挙げて論じられます。対論を通して護法の説の正当性を明らかにしていくのです。その最初に異説として難陀・最勝子の説が述べられます。

 種子依という場合の、種子生現行における種子と現行が異時であるのか、同時であるのかという問題です。異説は因果異時説で、難陀・最勝子、経量部の説なのです。「要ず種いい滅し巳って現の果方に生ず。」と。これは種子生現行の因果関係において因である種子(所依)と果である現行(能依)が時を異にすることを述べています。これに対して護法は因果同時説を主張します。