安田先生の講義より、第六・我執不成証を述べます。
異生はいかなる場合にも(善・染・無記)、我執をもっている。「異生は善・染・無記との心の時に恒に我執を帯す。若し此の識(末那識)無くば彼(我執)有るべからず。」と。
「異生心というものは、善・染・無記、いずれかの心であるが、染心の場合は我執があるといえても、善や無記の場合には、もし第七識が無いならば、我執が起きているということがいえぬであろう。第六識だけで考えるならば、恒に我執を帯するということがいえない。しかし事実は、異生においては、たとえ善や無記の場合があっても我執を離れられぬ。善心というものによって、例えば布施の行を起こすことがあるが、しかし凡夫が布施の行を起こしても内に我執があるから、六識で起こした布施が、やはり有相の布施になる。善は善でも相をもった善であって、無相の善にならぬ。施というものにおいて、相を否定することができぬ。凡夫に善が無いわけではない。それらがみな染汚であるわけではないが、善であっても我執の支配を脱しえぬ。それで善が有相の善になる。善、染、無記のあらゆる場合に相というものがあるわけで、これは基づくところは第七の我執による。第七を認めないならばこういうことが説明できぬ。善や無記の場合でも我執を帯びている。善にも相がある。そういうことは、末那識を認めなければ成り立たぬ。
こういうことで 『成唯識論』 で、「相縛」というような問題に触れている。我々の識というものに、相縛というものがある。末那識が滅せぬ場合には、六識に相縛が起こることを免れぬ。相縛というのは、相とは相分で、相分に見分が縛せられることである。我々の意識は自由自在であると思っているが、意識が拘束されている。束縛された意識である。凡夫の状態である場合には、自分の意識に自分が縛られる。人間は自力の意識に拘束されている。それは本来ではないが、自分のもつものに自分が縛られている。」(『選集』第三巻・p202より)