唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(73)  第六・ 我執不成証 (⑧) 

2012-05-31 23:26:50 | 心の構造について

 安田先生の講義より、第六・我執不成証を述べます。

 異生はいかなる場合にも(善・染・無記)、我執をもっている。「異生は善・染・無記との心の時に恒に我執を帯す。若し此の識(末那識)無くば彼(我執)有るべからず。」と。

 「異生心というものは、善・染・無記、いずれかの心であるが、染心の場合は我執があるといえても、善や無記の場合には、もし第七識が無いならば、我執が起きているということがいえぬであろう。第六識だけで考えるならば、恒に我執を帯するということがいえない。しかし事実は、異生においては、たとえ善や無記の場合があっても我執を離れられぬ。善心というものによって、例えば布施の行を起こすことがあるが、しかし凡夫が布施の行を起こしても内に我執があるから、六識で起こした布施が、やはり有相の布施になる。善は善でも相をもった善であって、無相の善にならぬ。施というものにおいて、相を否定することができぬ。凡夫に善が無いわけではない。それらがみな染汚であるわけではないが、善であっても我執の支配を脱しえぬ。それで善が有相の善になる。善、染、無記のあらゆる場合に相というものがあるわけで、これは基づくところは第七の我執による。第七を認めないならばこういうことが説明できぬ。善や無記の場合でも我執を帯びている。善にも相がある。そういうことは、末那識を認めなければ成り立たぬ。

 こういうことで 『成唯識論』 で、「相縛」というような問題に触れている。我々の識というものに、相縛というものがある。末那識が滅せぬ場合には、六識に相縛が起こることを免れぬ。相縛というのは、相とは相分で、相分に見分が縛せられることである。我々の意識は自由自在であると思っているが、意識が拘束されている。束縛された意識である。凡夫の状態である場合には、自分の意識に自分が縛られる。人間は自力の意識に拘束されている。それは本来ではないが、自分のもつものに自分が縛られている。」(『選集』第三巻・p202より)


第二能変  第二・ 二教六理証 その(72)  第六・ 我執不成証 (⑦) 

2012-05-30 23:16:53 | 心の構造について

 「問。相分は見の為に縁ぜられて見を縛するをもって相縛を名づけば、見分は自証に縁ぜられて体(自体分)を縛するをもって見縛と名づくべし。証自証を縛するも例するに亦応に然るべし。何が故か名づけて見縛等と為さざるや。

 答。相(現前の境)いい見(能縁の見分)を縛するは体状彰わし易きを以てなり。或は所縛の見は非・比量なること有り。或は能縛の相は内(心法等)・外(五塵)に通ず。此の勝れたる義に従って且く相縛とのみ名づけたり。見分等は体能縛に非ず、自証分等は所縛に非ずと説くには非ず。前の第二に展転相望して互に能・所二の纏縛とすというが如し。

 問。有漏は相(分)有るをもって即ち相縛と名づけば後得も相分有るをもって相縛と為すべきや。

 答。此れ亦然らず、証解を作すが故に。

 問。既に爾らば善心の見は惑に非ざるべきや。

 答。此れ有漏なるが故に、煩悩増する故に。有漏の第八に生ぜらるが故に。有漏の末那に増せらるが故に、後に無漏を得する時に能く此れを断ずるが故に、麤重有るが故に、例と為すべからず。

 即ち三性に通じて皆相縛有り。下の第九(『述記』第九末)に自ら當に解釈するが如し。麤重縛の体も亦有漏に通ずということは後に至って當に知るべし。」

 相分に見分は拘束されてそこから自由になれない、自由になれないから、解脱を得ることが出来ないという構造ですね。対象世界が実在すると思っていますからね、縛られるわけです。思っているということが見分ですね。見分が相分に拘束されて自在を得ることが出来ない、と。これが相縛と述べられていますが、もう一つ麤重縛という言葉が出ています。麤重縛とは自分の心の中にある煩悩に縛られているのです。相縛と麤重縛とが相互に働いて染汚心が生起しているのですね。

 この第六理証については『安田理深選集』第三巻から教えを請いたいと思います。次回に述べます。


第二能変  第二・ 二教六理証 その(71)  第六・ 我執不成証 (⑥) 

2012-05-29 22:40:26 | 心の構造について

 「相縛と言うは、謂く、境相の於に幻事等の如しと了達(りょうだつ)すること能わざるぞ。斯れに由りて、見分いい相分に拘わざれて自在を得ず、故に相縛と名づく。」(『論』第五・十四右)

 (相縛というのは、つまり、境の相に対して幻のようなものであると了達(理解すること・悟り)することができないことである。これによって、(心・心所の)見分は、その認識対象である相分に拘束されて、自在を得ることが出来ないのである。故に相博と名づける。)

 『瑜伽論』の説を解釈する一段です。「相縛」について述べられます。

 「相縛というのは、境の相に対して、依他(依他起性)は縁より生起する縁生法である、幻事や陽炎等のようにと了知することができない」、幻等というのは、縁起による存在であり、縁起による存在とは幻等のようなものである、しかしそれが理解出来ない為に、「能縁の見分の諸の心・心所いい境の相分の為に拘礙せられて自在を得ず」と。幻等は縁生法であるということを理解出来ない為に、認識対象を認識する心・心所の見分が、認識対象を認識して、その認識対象を実体化し拘束されることになるということを相縛、相に拘束されるというのであると説かれています。自分が認識したことに自分が拘束され縛られてくるということです。超魔術をみて幻覚するようなものです。実際には種があるわけでしょう。しかし実体化しますよね。種があるとわかっていても縛られるわけですから、種明かしのない対象は幻のようであると理解することが出来ないということですね。それによって縛られるわけです。

 「論。言縛者至故名相縛 述曰。下釋教也。何謂相縛。謂於境相不能了知依他縁生如幻事・陽焰等。能縁見分諸心・心所。爲境相分之所拘礙不得自在。體便麁重無所明覺。起時硬澁有分別相。相分縛心名相縛也 問相分爲見縁縛見名相縛。見分自證縁縛體名見縛。縛證自證例亦應然。何故不名爲見縛等 答以相縛見體状易彰。或所縛見有非・比量。或能縛相通於内外。從此勝義且名相縛 非見分等體非能縛。自證分等説非所縛。如前第二展轉相望。互爲能所二種縛也。問有漏有相即名相縛。後得有相應爲相縛 答此亦不然。作證解故 既爾自證應非見縛此亦不然體是惑故 若爾善心見應非縛 此有漏故。煩惱増故。有漏第八之所生故。有漏末那之所増故。後得無漏時能斷此故。有麁重故。不可爲例。即通三性皆有相縛。如下第九自當解釋。麁重縛體亦通有漏。至後當知。(『述記』第五末・三十七右・大正43・414b)

 (「述して曰く。下は教を釈すなり。何をか相縛と謂う。謂く境相に於て依他は縁より生ず、幻等陽焰等の如しと了知すること能わず。能縁の見分の諸の心・心所いい境の相分の為に拘礙せられて自在なることを得ず。(見分の)体便ち麤重にして明覚する所無し。(見分の)起こる時、硬澁(こうじゅうーふさがれてとどこおること)にして分別の相有り。(所縁の)相分、心を縛するを以て相縛と名づくべし。」)

 この後、問答によって四分相例の非難を述べます。(つづく)


『下総たより』 第三号 『再会』 その(3) 安田理深述

2012-05-28 00:07:01 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 「歴史意識ということは、再会ということをいったのは、大行といえば実践ですが歴史的実践、我々がこの世に生れて今日まできたが、併し仏法を聞いて感激するということは何所からきたか、手の舞足の踏場もないという感激は何所からきたか、それはわからん。その源泉です、時というものは時の源泉がある。時は時になる、時間の源泉、私が今日感激するということは今日というものの背景がある。私の今日ということは今日迄になった私、私の今日ということを感激する、念仏を聞いて信心歓喜する自分の歴史がそこにある。時というのはただ存在の形式でない。ものを成長させる、ものが成長してゆく、法性が法性に成長してくる、あるものもあることに止まっていればあることもなくなってくる。あることはあること自身が証明することでなければならん。時を超えた真理が真理となる、時をこえたものが時となる。それが歴史的時間、仏法の歴史観というものは本願史観、それはあらん、いつでもあらん、そういうあらんというような深い信仰というもの、一応考えると行という歴史から生れてくる。そうして行を作ってゆく、そういうものを信というのであるが、信というものは行というものを地盤としている。行信という、行信ということが現実ということ、本願成就の現実、つまり宗教的現実、それ以外に何もない。世界も仏法も自己もない。それが実存、行信があるけれども行という場合は身に行ずるということ、実践ということがある。自分自身によって行ずるから実践、我々のところにあるのが行、我々のところにあるというので行という、ところが我々は何所にいるか、信、本願を信ずれば信ずるということを機としてそこに本願が行ずる。本願は法であるが行ずるというところに時、機が熟するとき、機というものを得て法ははたらく、行というのもそういう意味からいうと現行、曽我先生も現行といわれた、これは玄奘三蔵の唯識の翻訳にはみな現行ということがあるが、やはり現実というような意味であるが寧ろ現行というべきである。今日の現実ということが本願の現行であるが故に真実、本願の現行を通して本願に目ざめる、本願の現行を通さずに思索で目ざめるのでない。本願の現行がなければ本願に遇う場所がない。形のない本願の法性が自己を衆生の上に開示する、その唯一の方法が言葉、即ち名号、それによって法は本願の開示を通して衆生を本願に悟入する、名号を通して名号の根元に悟入する。そういう現行ということがある。だからしてこの現行ということから信を立てる、信は信受奉行、奉行するといわず行に仕える、たまわった行信であるから信行といわぬ。たまわった現実、私の存在はたまわった、本願の歴史によってたまわった、私の存在が私でない。そういうことがある。」                    (つづく)


第二能変  第二・ 二教六理証 その(70)  第六・ 我執不成証 (⑤) 

2012-05-26 23:36:50 | 心の構造について

 末那識の存在証明を述べているわけです、その第六は、我執不成証といわれているもので、異生は前六識が善心、あるいは無覆無記心に転じた場合でも我執は尚存在すると説いているわけです。もし染汚の第七識が無かったならば前六識が善心、あるいは無覆無記に転じた場合には我執はないことになります。しかし実際には我執は存在するということは第七識の存在が有るという論証になるのですね。「我執有って恒に我執を起こすに由って、善等の法をして有漏の義を成ぜしむ。此の意若し無くんば彼は定んで有にあらず。故に知りぬ、別に此の第七識有りと云うことを」と述べています。

 教(『瑜伽論』巻第五十一)を引いて論証する。

 「故に瑜伽に説かく、染汚の末那を識が依止と為す、彼未だ滅せざる時には相に了別いい縛せられて解脱することを得ず、末那滅し已るときに、相縛を解脱すという。」(『論』第五・十四右)

 (故に『瑜伽論』巻第五十一に、次のように説かれれている。「染汚の末那識を識の依止とする。彼(末那識)が、未だ滅しない時には、相に了別が縛られて、解脱することが出来ないのである。末那識が滅しおわる時に相縛を解脱するという。)

 相は相分、了別は見分として用いられています。相分が見分に縛られて解脱を得ることができないということを説いています。自分が見ている対象(相分)に見ている自分が縛られているということです。自縄自縛という、自分の思いが作り出した対象に自分が縛られてしまっているわけです。これを相縛と言い表しているのですね。

論。故瑜伽説至相縛解脱 述曰。瑜伽五十一・顯揚十七等。同云染汚末那爲依止等。由第七故餘諸識中相縛不脱。此中通言六識相縛。瑜伽等説第六相縛。彼據親生識語。此約實由爲論 既爾二乘染末那滅。何故五識相縛猶在 答由七中法執。雖非縛體執有相故。是先我執所引生故。令六識等相縛不脱。若斷法執已相縛便脱 或由因類相縛猶在。不爾生空智應亦有相縛 了別者心行相。境相能縛心。名相了別縛。(『述記』第五末・三十七左。大正43・414a

(「述して曰く。瑜伽の五十一、顕揚の十七等に同じく云く。染汚の末那を依止と為す等と云えり。第七に由るが故に、余の諸識の中に相縛脱せず、此の中は通じて六識の相縛を言うと云えり。瑜伽等に第六の相縛を説く。彼(『瑜伽論』・『顕揚論』)は親しく生ずる識なるに拠って語す。此れ(『論』)は実に由るに約して論を為す。

 (問い) 既に而らば二乗は染の末那識なり。何が故に五識に相望猶在るや。

 (答え) 七の中の法執は縛の体に非ずと雖も、相有りと執ずるに由るが故に、是れ先の我執に引生せられたるが故に、六識等をして相縛を脱せざらしむ。若し法執を断じ已るとき相縛いい便ち脱しぬ。或は因の類なるに由って相縛猶在り。爾らずんば、生空智にも応に相縛あるべし。

 了別というは、心の行相なり。境相能く(能縁の)心を縛するを相に了別いい縛せらると名づく。」)

 相縛は、相(相分)に束縛されることです。対象が心を束縛するということではありません。

 


第二能変  第二・ 二教六理証 その(69)  第六・ 我執不成証 (④) 

2012-05-24 23:23:18 | 心の構造について

 『述記』の了解

 「述して曰く。 (文を釈す) 亡というは猶無なり。相というは謂く相状なり、雑染の相状なり、三性に通ずるなり。我執に由るが故に、施等の善法を起こすに、第七有って内に我と執するに由るが故に、外に施等を行ずれども分別して相生ず。若し有漏の三性と倶なる心に我執無くんば、無漏心の如き便ち能く相を亡ずるを以て、無漏と成りぬべし。

 (証を引いて釈す) 故に『摂論』(無性摂論・巻第一)云く。「我能く施等を行ずと謂うと云えり。今二の解有り。一に云く、我と云うは即ち是れ第七の内縁の行相なり。必ずしも外縁には非ず。二に云く。此の我は外縁なり。行相麤猛なれば第七の起すには非ず。第七に由るが故に第六より此れを起こす。七に由って生ずる増明なるを挙げて論を為す。実に之を顕すには非ず。彼れ是の第六識の中の我執は体間断すること有り。三性心に遍じて間雑して生ずるが故に。此の解を勝と為す。是れ根本なるが故に。第七は外境を縁じて生ぜざるが故に。此の義を証すつ為り。」

 相とは相状のことであると解釈しています。相状とは、知覚される事象のありようをいいます。ものそのものは体相です。この相状は三性に遍在し、分別であるので雑染の相状であり、何故ならば、我執に由るからである、といいます。

 「相を亡ずること能わざら令む」

 三輪空寂(三輪清浄)になればいいのですが、そうはならないのですね。第七末那識が阿頼耶識の見分を我と執着することにおいて、たとえ善行ですね。布施等の善法を行っても、そこには分別が生じ、執着が生じて善行を染汚し、善行が有漏善になり、そう相を亡くすことができないようになる、と述べているのです。

 証拠の文献を挙げて解釈するのですが、『摂論』の記述について二つの解釈をめぐるもんだいが提起されています。『摂論』(無性摂論・巻第一)には「施等の善位にも亦我執有りて常に随逐する所となり、自ら謂えらく、「我れ、能く施等を修行す」」と。(我れ、よく布施行を行じる)という我に二解あるということです。

  •  第一解 - 我とは、内縁の我、第七識の内縁の相であるとしています。我執による我です。六識中に末那識の我執による我が顕れるというのです。
  •  第二解 - 我とは、外縁の我、第六意識の我執による我であると解釈され、この説が勝解とされます。「我れ能く施等を修行す」というのは、あくまでも、第六識の我執によって起こる我であるといいます。この第六識の我は、第七識に由って(所依止)存在するわけですが、「七に由って生ずる増明」であると述べられているのです。第七末那識に依って、増明(増強)されるのである、と。つまりですね。第七末那識は阿頼耶識の見分を認識して、実体的な我であると執着することにおいて、第六識の我執が増明され六識中に、「我れ、能く施等を修行す」という認識を生じさせて、善行を実践することが出来ると述べているのです。その理由は、第六識の我執は体が間断することがあり、三性心に遍在して間雑して生ずるからである、といっています。

                                 (つづく)


第二能変  第二・ 二教六理証 その(68)  第六・ 我執不成証 (③) 

2012-05-23 22:14:15 | 心の構造について

 布施行の時にも末那識は存在することを述べる。ただ誤解を防ぐ為に一言しますが、実体的に固定的に善行にも末那識は存在していると断定しているのではないのです。自覚としてですね。末那識が存在しているので有る、と。真宗でいうと機の深信です。

         無慚無愧のこの身にて              
          まことのこころはなけれども            
          弥陀の回向の御名なれば             
          功徳は十方にみちたまう              

         小慈小悲もなき身にて
          有情利益はおもうまじ
          如来の願船いまさずは
          苦海をいかでかわたるべき

         蛇蝎奸詐のこころにて
          自力修善はかなうまじ
          如来の回向をたのまでは
          無慚無愧にてはてぞせん

                                            (『正像末和讃』)

 善行はとても大事なことなのです。善行を否定するものではありません。善行を否定すれば悪行しかありません、それならば世界は成り立ちません。善行は非常に大切なものであり、意義のあることなのです。しかし、その善行の中に染汚心が働いている、というのは自覚からですね。いうなれば、讃嘆の表現になろうかと思います。「如来回向」を身に受けた時に、小さな自らの器を破って、大きな大海にうかぶ世界をいただいた喜びの表現が「無慚無愧」という慚愧心をいただけるのでしょうね。『成唯識論』の記述も自覚の上から述べているものです。「外には諸の業を起こすと雖も、而も内には恒に我と執ず」と。

 「何を以て然ることを知るや」

 「我と執ずるに由るが故に、六識の中に起こす所の施等において、相を亡ずること能わざら令む。」(『論』第五・十四右)

 (我と執着することによって、六識の中で起こす布施等において、その相をなくすことができないようになる。)

 布施行というのは、施しですね。六波羅蜜の最初にいわれる実践の行です。三輪空寂(三輪清浄)でないといけないとされます。三つの輪とは、施す人、施される人、その中に動いていく施物、この三つが相互に空寂でないといけない、分別し執着があってはならないといわれているわけです。しかし、布施行一つをとってもですね。私たちは、それぞれの立場において執着を起こすわけです。その相状を亡くすことが出来ないのです。つまり、布施という行為に対して、分別を生じ、執着を起こしてしまうわけですね。布施等は善行ですが、その善行を染汚してしまう、末那識が阿頼耶識を我と執着することにおいてです。説明すればこのようになりますが、あくまでも自覚の問題です。

 『述記』には次のように説明されています。

  論。由執我故至不能亡相 述曰。亡由無也 相謂相状。雜染相状。通三性也 由我執故起施等善法。由有第七内執我故。外行施等分別相生。若有漏三性倶心無我執者。如無漏心便能亡相應成無漏。故攝論云謂我能行施等。今有二解 一云我者即是第七内縁行相。非必外縁 二云此我外縁。行相麁猛非第七起。由第七故第六起此。擧由七生増明爲論。非實顯之。彼是第六識中我執體有間斷。遍三性心間雜生故。此解爲勝。是根本故。第七不縁外境生故。為証此義。」(『述記』第五末・三十六右。大正43.414a

      (つづく) 『述記』の記述の説明は明日述べます。


第二能変  第二・ 二教六理証 その(67)  第六・ 我執不成証 (②) 

2012-05-22 22:10:50 | 心の構造について

 第二は、論破。これが又三つの部分に分けられ説明される。初は自(法相唯識の説く)我執を顕す。次に他宗(他学派)を論破する。後に有漏について述べる。初がさらに三つに分けられ説明されます。一に、「宗」(法相唯識)を立てる。二に、証を引く。(『瑜伽論』(巻五十一)等)。三に教を解釈する。

 法相唯識の説を述べる。(「内恒執我」を明らかにする)

 「謂く、異生の類は、三性心の時に、外には諸業を起こすと雖も、而も内には恒に我と執ず、」(『論』第五・十四右)

 (つまり、異生の類は、(第六意識が)三性心(善・悪・無記)の時に、自らの外に向かって、いろいろな行為を起こすといっても、自の内(自分の内側)をみると、恒に我である、と執着しつづけている(末那識が阿頼耶識の見分を縁じて自の内我とする。)のである。)

「論。謂異生類至而内恒執我 述曰。下第二文。於中有三。一顯自我執。二破他宗。三成已有漏 初中又三。一立宗。二引證。三釋教。此即初也。其文易了 何以知然。(『述記』第五末・三十五左。大正43・414a)

 (「述して曰く。下は第二の文なり。中に於て三有り。一には自の我執を顕す。二には他宗を破す。三には己が有漏を成ず。初の中に又三あり。一に宗を立つ。二に証を引く。三に教を釈す。此れは即ち初なり。其の文了し易し。

 何を以て然ることを知るや。」)

             「弥陀の名号となえつつ
                信心まことにうるひとは
                憶念の心つねにして
                仏恩報ずるおもいあり」

 「恒審思量」(恒に阿頼耶識の見分を認識して、それを常住不変の我(アートマン)であると執着しつづける)の働きと、「憶念の心つねにして」とは一つのものですね。表裏一体として、私が迷い続けている限り(我執をもちつづけている限り)、迷いと共に歩みつづけ、目覚めを待つ心(仏性=信心仏性)が働いているということ。この働きを『大経』では法蔵願心として表現されているのでしょう。法蔵願心に応答する形として

             「弥陀大悲の誓願を
                ふかく信ぜんひとはみな
                ねてもさめてもへだてなく
                南無阿弥陀仏をとなうべし」

 という恩徳をいただくのですね。


第二能変  第二・ 二教六理証 その(66)  第六・ 我執不成証 (①) 

2012-05-21 21:11:29 | 心の構造について

 次に、第六理証である、我執不成証(有情我不成証・我執不成経証)を述べる。三つの部分から説かれる。初に経典を引用し、次に論破し、最後に総結。これはこの初である。

 「又契経に説かく、異生は善と染と無記との心の時に恒に我執を帯せりという。若し此の識無くんば、彼有るべからず。」(『論』第五・十三左)

 (また、契経に説かれている。「異生は善と染と無記との心の時に恒に我執を帯せり」(異生は、善と染と無記との心の時は、恒に我執を帯びている。)と。もし、この識(末那識)が存在しないならば、彼(我執)も存在しないであろう。)

 経典には、異生(凡夫)は、善と染と無記との心の時と云っています。どのような状態の時に於てもですね。恒に我執を持ち続け、働いていると述べています。凡夫にあっては、たとえ善心であっても、心の中では我執が働いている、と。我執が存在しているということは、末那識が存在していることを証明していることになる、という。

 論。又契經説至彼不應有 述曰。自下第六我執不有失。於中有三。初引經。云異生者不言有學等。以彼無漏善心無我執故。此據全分者故。」(『述記』第五末・三十五左。大正43・414a)

 (「述して曰く。自下の第六に我執有らざる失あり。中に於て三有り。初に経を引く。異生とは、有学等を言わず。彼の無漏善心は我執無きを以ての故に。此れ全分の者(異生)に拠るが故に。)

 


『下総たより』 第三号 『再会』 その(2) 安田理深述

2012-05-20 13:59:04 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 「仏教では偶然に必然であるものを感ずる、因縁、存在のロゴス、本願というものも存在のロゴスというものに裏付けられている。本願というと大願強力というけれども無理にするのでない、如来超世の本願というものがあるのになお我々に無理に自力を捨てさせて引張ってくるというのは強力でなくて暴力、本願を神の力として考えるのは実体化、本願は十分に偶然を媒介として、寧ろ偶然というありかたをもった必然、因は必然、縁は偶然であらわす、その縁が必然の中にある。我々は偶然の縁を通して必然をみる、そういう構造です。やはり一つの仏教の存在論を因縁論、出会いということの基礎づけは実存主義的基礎づけ、仏教では因縁という基礎づけ方がある。本願は因縁の道理にかなった、法性にかなった無理のないということで十分に偶然を媒介にする。

 先に言いました過去とか未来とか時間の配列を通して、そういう永遠の今、永遠の今ということを考えるにしても、仏教の考え方は非常にいろいろ複雑で龍樹と世親とは異う、道元と親鸞の時間と異う、親鸞は後序に 「聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道今盛んなり」 そこに大きな転換期、聖道の転換期、正像末の史観を転機としてそこにこれは危機意識というのですが、同時に危機意識は絶望、実存主義からいうと絶望というのは実存主義的意識、仏教ではそういうものと異う、落ちるところが浮ぶところ、地獄一定の決定がそれが転機、絶望というのは絶望しておらんから、絶望にも絶望する、絶望にも絶望するというのはその根拠が本願、本願をとってしまえば絶望も・・・・・・喜んで絶望したら絶望も超えてしまう、そこに転機、化身土は転機の巻、廻心は転機です。そこに出ているのが主として法然上人との出会いです。事件の一々に詳しい事情を述べて丁卯の歳とか辛酉の歴とか、結局最后のところは知遇です。難行をすてて本願に帰す、非常な感激です。これ専念正業の徳なり、決定往生の徴なり、象徴です。法然上人に出会ったということが私の往生決定の象徴である。法然上人に出会ったということが、私がそこに証明されたいる、歴史にしても転機となる歴史です。浄土の歴史というものが具体的で抽象でない歴史であるが、其歴史は流転の歴史を媒介としている。聖道門の歴史というものを媒介にして転換機、個人の上に歴史的転換機を展開してここに時というものが綿密に何月何日何時、これは暦の時間、哲学の言葉でいえば時間を失った時間、これは親鸞の時間意識というものが顕著であったことを証明している。時間意識に従って歴史意識があった。

 それから総序というものにも前半と後半とがあるがそこに仏法の出会い、親鸞が出会うた仏法。つまり行信の大道、行信という形で本願に目ざめた。その出会ったことの喜びを後半に、「噫、弘誓の強縁は」 噫という感歎がその感激が教行信証を書かしめた、よろこびの高い感激がある。後序の方は法然上人の恩に応える、法然上人が本願というものを具体的の歴史の中で叫ばれた、叫ばれたので迫害された、法然上人の渇仰者も迫害にあうとばらばら散ってしまった。結局法然一人、それをみて親鸞は黙止出来なかった。親鸞は非常な怒りをもっておった、怒りは煩悩、煩悩は転ずれば正義感、正義感が教行信証を編纂せしめた。研究して論文を書くというようなそういう形で出来たものでない。教団の戦い、教行信証の製作は闘い、サンガの実践である。 噫 弘誓の強縁は多生にも値いがたく、出会い、遇うのです。難というのは親鸞の言葉ですが教行信証の前序には多生億劫、後序の方には何月何日という日常的時間、この二つのものが出ている。ここに全然異った時間があるが何れにしても親鸞の時間意識というものが非常にはっきりしておったということがわかる。たまたま親鸞の歴史意識が経典の歴史意識を見出した、だれがみてもそうなっておらん、親鸞がみればそうなっている。こういうところに見えども見えず、読めども読めん、併し読んでみれば始めてそういわれるのであって、其の時にその教に出会う。本には出会うということはない、教には出会う、教に遇うた人はだれでも出会うている。          (つづく)