例を示して説明する。
「眠と悔と三性心に遍ずと雖も、而も癡の位に増せるを以て但説いて癡の分と為すが如し。」(「論」第四・三十二左)
(睡眠と悔とは三性心に偏在するものであるといっても、癡の位には睡眠と悔の働きは増大し活発化することからただ癡の一分と説いているのであるようなものである。)
『瑜伽論』巻第五十五に「睡眠、悪作は一切の善、不善、無記と相応すと。・・・・・・睡眠、悪作は是れ癡の分なるが故に世俗有なり。・・・・・・」
睡眠(すいめん)、悪作(おさ)は三性心に偏在すると述べられているところですが、また癡の分でもあると述べられているのですね。「三性心に遍じて起り体是れ実有なり」と。ここに問題点があるのです。三性心に偏在するということは、善心・無記心にも癡が偏在するということになり、有り得ないことが述べられていることになります。この反対もありえますね。善心、無記心には癡が偏在しないということになりますと、睡眠、悪作は三性心に偏在するという説は誤りとなります。そうしますと、ここは何を伝えているのかということになりますが「睡眠と悔とは三性心に偏在するものである」という一文は睡眠と悔は癡の一部ではないということを述べているのです。そして「癡の位には睡眠と悔の働きは増大し活発化することからただ癡の一分と説いているのであるようなものである。」ということになります。
この例が示すように前科段に於て「掉挙はすべての染心に遍在するのであるが、特に貪の位には掉挙の働きが増すのである。これによって掉挙をただ貪の一分であると説いている。」と説明していることが誤りではないということになる、と説明しています。
睡眠・悔については2010年3月20日~3月29日の項を参照して下さい。
「問、若し此の五の文(五遍染師の文)を以て正と為せば、何が故に『瑜伽』五十五には六法の染に遍ずと説き(六遍染を説く文献)、五十八には十の染心に遍ずと説ける(十遍染を説く文献)や。」(『述記』第五本・四十八左)
次の科段は六と十の遍染を会通します。初めは総じて会通します。
「余の処に、随煩悩いい或は六或は十有って、諸の染心に遍ずと説くと雖も、而も彼は倶に別義に依って遍ずと説けり、彼れ実に一切の染心に遍するものには非ず。」(『論』第四・三十二左)
(他の処に遍染の随煩悩は六つ、或は十有って諸々の染心に遍在すると説かれているといっても、彼は倶に別義によって遍在すると説かれているのである。これら六・十の遍染の随煩悩は実際にすべての染心に遍在するものではない。)
五遍染師の説は、遍染の随煩悩は「惛沈と掉挙と不信と懈怠と放逸とは一切の染汚品中において恒に共に相応する」(『阿毘達磨集論』巻第四)という文献的証拠を持って五つとするのです。しかし他の文献には遍染の随煩悩は六つ、或は十と説かれていて、五遍染の説は誤りであるとする根拠になっているのです。そこでこれら六・十の遍染の随煩悩は実際にすべての染心に遍在するものではない、と会通するのです。
他の文献とは『瑜伽論』巻第五十五と第五十八を指します。
巻第五十五、第三門随煩悩の相応を示す文に「復次に、随煩悩は云何が展転して相応するや。まさに知るべし、無慚、無愧は一切の不善と相応し、不信、懈怠、放逸、妄念、散乱、悪慧は一切の染汚心と相応し、睡眠、悪作は一切の善、不善、無記と相応すと。所余はまさに知るべし互に相応せずと。」
巻第五十八に「随煩悩の放逸、掉挙、惛沈、不信、懈怠、邪欲、邪勝解、邪念、散乱、不正知此の十随煩悩は一切の染汚心に通じて起こり、一切処三界の所繋に通ず」と。
「彼の二文は倶に別義に依って之を説いて遍と為せり。実に遍ずるものには非ざるなり。」(『述記』)
六乃至十を説く文献はともに別義による記述であって実際に遍在するものではない、といい、五遍染説と矛盾しないと、まとめて会通しています。尚、これらの別義については後に明らかにされます。
少し脱線しますが、先日「なんだかんだ亭」主宰の松村さんから『解深密経講義録・四』(高柳正祐師講述)が届きました。その講義録の中で「恒」という意義について次のように述べられています。
「そしてこの世親の『唯識三十頌』の中で一番よく知られた言葉が「恒 転如暴流」という言葉です。「恒に転ずること暴流の如し」、ですが、これは私たちの心、意識の事を言っているんですね。心です。私たちの心は、恒に転ずるのだと。この転ずるというのは、よく波に譬えられます。波が起こる。安田先生がよく言っておられましたが、海があってその上に波が現れる。濤波ですね。波が恒に起こって、それが絶えることがない、これを暴流のようだとですね。ここに流れという事があるんですけども、これが「恒」(ごう)という字で、なかなか面白い字ですね。「恒」と「常」というのは意味が少し違いまして、「常」というのは、途切れることなくずっと続いている状態の事を言います。それでこの「恒」というのは、これは不思議な言葉ですね、微妙ではありますが、「恒に新しい」ということです。言葉で言えば刹那滅ということですが。同じ「つね」と言っても、同じものはない、いつも新しいという事を「恒」といえると思うのです。 これは考えてつけたのではないかも知れませんが、太陽も恒星と言いますね。あれも恒に核融合反応が起こっているわけですよ。恒に新しく核分裂の反対の核融合反応が、つまり変化が起こっていて、水素爆発の状態がずっと持続しているわけです。そういう「恒」なんです。それで、その流れの当体は一体何なのか、これを『解深密経』は言おうとしたのです。その体が阿頼耶識だと。」
漢語辞典で調べてみますと、「常」は巾+尚の組み合わせの字で、尚は長に通じ、ながいの意味を表し、長い布の意味から転じて長く変わらないもので、つねの意味を表す、とでています。「恒」は忄+亙の組み合わせの字で、音符の亘(亙)は、一方から他方へとつねにわたるの意味で、いつも変わらない心の意味や、わたるの意味を表す、とでていました。常と恒の表す意味は微妙に違うのですね。末那識が「恒審思量」といわれる意味も 、いつも変わらない我を思う、ということではなく、いつも再生される、我から我へわたるという、刹那滅の新たな我を思うということになり、相続されるという意味になるのではないでしょうか。