唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (40) 触等相応門 (22)

2011-10-31 22:28:55 | 心の構造について

 二は「無」(第七識に存在しない心所)を顕す。

 「何に縁ってか此の意に余の心所無しという。」(『論』第四・三十三右)

 (何故に、第七識には十五の心所以外の他の心所は存在しないといえるのか。)

 十五以外の他の心所は第七識に存在しないということを説明します。前科段までに第七識に存在しない心所について説明がなされていましたので整理をしますと、

  •  (1) 第七識には十煩悩中四煩悩しか存在しない。(四煩悩以外の他の煩悩(六、開いて十種)は第七識には存在しない。)
  •  (2) 四煩悩と五遍行以外の心所、慧を除いた別境(欲・勝解・念・定)・善(十一)・不定(四)は第七識に存在しない。
  •  (3) 遍染の随煩悩(掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸)以外の随煩悩(十五)は第七識に存在しない。
  •  (4) 随煩悩の二十の中には邪欲・邪勝解は含まれない。
  •  (5) 失念の体となる欲・勝解・念が第七識に存在しないので、邪欲・邪勝解・失念も第七識に存在しない。

 尚、五十一の心所としてまとめ上げられたのが世親の『大乗百法明門論』(大正31、855b~c)である。 

 五遍染師が述べる第七識に存在しない(相応しない)心所について説明しなければならないのは、五十一の心所中、随煩悩の忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍・無慚・無愧・散乱・不正知になり、次の科段より随時説明されます。 


『自己に背くもの』 安田理深述 (12) 本願の正機

2011-10-30 20:01:50 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 「さて前に述べてきたことを繰り返すことになるが、浄土論註上巻の解釈を終わって曇鸞大師は、天親菩薩の浄土論の流通文の普共諸衆生往生安楽国というお言葉の衆生というものをおさえて、衆生とは何ぞやという問題を提起された。そこに浄土論の願生の機というものに触れてきた。天親菩薩が自らいかなる立場に身を置いて普共諸衆生往生安楽国といわれたかということは、直ちに天親菩薩が浄土論を製作された立場の問題であるのみならず、それは本願の正機という問題である。本願の正機とは何か。天親菩薩が始めに 「我一心・・・・・」 と願生されたのは単に個人の問題でなく、一切衆生と共にと人類の問題において自己の問題を解決された言葉である。自己の問題を人類の問題とし、人類の問題を自己の問題として解決された問題というものこそ阿弥陀の四十八願である。一心とはその解決である。普共諸衆生とは願成就文では諸有衆生である。これはお話してきたところであるが、こういう問題からやがて唯除の問題に触れてくる。曇鸞大師はかくして問題を展開してきておられるが、これが善導大師を通し更に親鸞の教行信証を通してきた歴史的問題の先尖端を切られたというところに大きな意義がある。教行信証を通してみると、本願文では謗法を善導大師の謗法闡提迴心皆往のご指南を通し、更に涅槃経を以て唯除五逆誹謗正法の問題を解決しておられる。それは経典を以て経典を解釈するという形であるが、涅槃経は仏陀最後の説法である。如来去って後涅槃に入るべし、三ヶ月後には涅槃に入るだろうといわれている。仏陀最後の旅行記を主題にして経典であり、仏陀入滅を機縁としてそこに不生不滅の大涅槃というものを開顕しようとした経典である。そしてこの涅槃経は、我、阿闍世のために涅槃に入らずと悪逆の阿闍世を待って入涅槃を前にせられた釈尊の大慈悲に阿闍世が遂に救済されるという劇的な物語が説かれてある。観経の機であった韋提希は凡夫の善人であり、そこに説かれる未来世の悪人の代表たる阿闍世は凡夫の悪人であり、ここに一切善悪の凡夫人を憐愍する釈尊の悲心がある。大涅槃とは大慈悲である。 「阿闍世の為に涅槃に入らず」 阿闍世が救われなければ自分も涅槃に入ることができぬ。こういうことが唯除のかくれた問題をあらわしている。阿闍世のために涅槃に入らずとは一つの密義即秘儀を有している。阿闍世のために 「為に」 というのは何かというに一切衆生ということである。阿闍世は五逆罪である。五逆罪を犯したものを阿闍世という。 「為に」 は一切の凡夫人である。観経の為未来世の衆生と同様である。未来世の衆生の為にという。それは韋提希が自分だけの救いのために仏陀の十六観の説法を請うたように見えるが、そうではない。韋提希は自分の救いを請うたのであろうけれどもその奥には密義をあらわしている。それを別選所求といっている。つまり韋提希が諸仏浄土のなかから特に阿弥陀仏のお浄土に往生したいといっている。そこに法蔵菩薩の体験がある。選択本願の体験がある。未来世の衆生の為にというあの一句に、善導大師は感激され、あそこに人類の問題が開かれた。あそこに 広開浄土門 の讃嘆のお言葉を放っておられる。そこに韋提希の志願によって永遠の人類の問題を開顕されたのである。そこに韋提希の意識を超えた意識がある。人類の問題がある。われわれが人類の問題を救うと意識しているようなものでない。未来世の衆生のためにというそれと相応して阿闍世のためにといってある。 「為に」 とは一切凡夫人である。凡夫といっても善人悪人があるが、阿闍世は悪逆の凡夫人である。悪凡夫のために涅槃に入らずということは一切の凡夫人のために涅槃に入らずということである。天親菩薩が普共諸衆生といわれた衆生ということは悪人の凡夫というところに立場をおかれた、そういう意義を曇鸞大師が開顕されたのである。

 天親菩薩が、世尊我一心と願生を述べられた 「我一心」 は個人の我ではなく、一切人類の苦悩の問題を自己の問題として開顕されたのである。阿弥陀仏の本願の上に自己の問題を見出すと共に、人類の問題をそこに見出されたのである。願生道というものは単なる個人の問題ではないということを語っている。我一心ということを普共諸衆生は偈の両端に相照している。ここに衆生という言葉を手がかりとして曇鸞大師は願生の機を定義されたのである。そして本願成就文と観経下々品との二経を以て曇鸞大師が衆生というものを明らかにせられたことは前述の通りである。それは単なる私見ではなく経典に照らして衆生というものを明らかにせられたのである。

 が、そこにいろいろ考えられることもないではないが、その範囲を出ないので今少し練らないとお話できないように思う。ただ経文を拝読したと一応の解釈に終わっておく。曇鸞大師は大経と観経との比較を以て、そういう形を通して問題を明らかにせられた。経典を離れて自分勝手なことをいっているのではない。経典に即して問題を明らかにしてゆく、こういうところから大経の唯除と観経の下々品の五逆とを通してそれらを対照してみると、五逆と謗法、大経では五逆を除くと、観経では五逆も救われると、ああいう径路というものはなかなかない。つくりとつくる悪業煩悩も間に合わぬ。転教口称といって念仏の教えを聴聞する余裕もなく、ただ南無阿弥陀仏を称えよというところまでいっている。そういう非常な場合を挙げている。それが涅槃経には具体的に出てくる。下品下生を代表しているのが阿闍世である。親鸞はその涅槃経を照らして更に唯除の問題を明らかにせられた。観経では五逆罪を犯したものも救われるとある。大経では十杷一からげにいってあるが、観経・涅槃経を通してみると、五逆が始めて救われている。そこに大経・観経の矛盾がある。謗法は程度が悪いというようなものではなく、五逆が救われても謗法は救われぬということが明らかになってくる。

 五逆がわれわれの反省の内容である。人間理性の限界内にある。曇鸞大師は明瞭に二つの質的相違を明らかにされた。五逆罪は世間的、謗法罪は出世間的罪である。曇鸞大師もその当時の思想に応じて仁義礼智信を掲げておられる。人権の尊重というようなものかもしれぬ。五逆は人間と人間との関係における問題である。人と人との間柄に関係するものが社会であり、倫理的な問題である。それに対して第一義は人と神、人と仏に対する関係である。それが出世間の問題である。人が仏に関係するものとは何かというに、人が人に関係するところに世間道があるが、そこには大きな根源的関係を前提としている。人がそのものがどういうものか、人間が人間として措定されている関係がある。人間の絶対関係がある。そこにおいて初めて人間が人として成り立つ関係である。だからわれわれの理性とか実践理性とか良心とか、そういうものの対象となる。だから誰でも人間であればわかる。阿闍世が五逆罪を犯したときに六師外道がなだめた。なだめればなだめるほど、問題になる。六師外道は皆五逆罪を犯したことを欺瞞する方法を与えた。耆婆だけが阿闍世の懺悔というものを称讃している。悔いていることを称讃している。そこに起きた阿闍世の懺悔を手がかりとしている。六師外道は懺悔させない。懺悔は罪を肯定する。罪を己に引受け荷負する。そこにはじめて懺悔がある。そのとき即ち懺悔というところに人がいる。慚愧なきものを畜生というといってある。人と動物との区別される一点は懺悔にある。責任とは自由意志である。他より強制をまつことなく自由意思を以て引受ける。そこに懺悔があり、人が成立する。そういうように五逆罪は道徳的意識、人間意識の内容と成る。五逆というものを反省し得るところに人が成り立っている。しかし人間というものは反省を超えたものである。人間そのものというものは反省内容にならない。五逆罪というものは人間の反省の内容になってくれる。そういう点が曇鸞大師の問答により明らかにされるところである。本当に人間の、むしろ人間のこの意識を超えた自己自身に触れる問題、ここに誹謗正法があり、それを深めて求めてゆけば無明ということである。不了仏智、仏智疑惑である。             (つづく)

   次回は11月6日(日) 「仏智疑惑」 を配信します。


第二能変 心所相応門 (39) 触等相応門 (21)

2011-10-29 19:43:00 | 心の構造について

 「述して曰く、下は此の識と倶なるを解すが中に、初に有を顕し、後に無を弁ず。此れは有を顕すなり。」

(下は第七識と倶なる心所を説明する中に、初めは、第七識と倶なる心所を明らかにし、後に第七識と倶ではない心所を明らかにする。)

 「然も此の意と倶なる心所は十五なり。謂く、前の九法と、五の随煩悩と、並びに別境の慧とぞ。」(『論』第四・三十二左)

 (しかれば、この意と倶なる心所は十五である。それは前の九(四煩悩と五遍行)と五の遍染の随煩悩と別境の慧である。)

 「述して曰く、此に十五有りというは前の九と五の随と別境の慧となり。是の見を以ての故に十五を成ずることを得。

 問、豈この慧倶なることを得るや。」(『述記』第五本・五十一右)

 (どうして別境の慧と倶なることを得るのか。)

 この問題は四煩悩の中の我見の体は慧(「諸の諦理の於に顚倒に推度する染の慧を以て性と為す。能く善の見を障へ苦を招くを業と為す。」)であり、別境の慧と二つの慧が第七識の中に存在することになる。このことは一識中に同一種類の心所が複数存在することは認められないという理と矛盾するのではないか、という問題に五遍染師が答えます。

 「我見は是れ、別境の慧に摂められると雖も、而も五十一の心所法の中に、義いい差別なること有り、故に開いて二と為せり。」(『論』第四・三十三右)

 (我見は、其の体は別境の慧に摂められるとはいっても、しかるに五十一の心所法の中では義に差別が有るので、開いて悪見の慧の二つとしている。)

 「述して曰く、我見は即ち是れ別境に摂められるとも、五十一の心所の中に義別なるを以て説いて二と為せり。

  •  一には慧は是れ別境なり。三性と九地とに通ずるが故に。
  •  二には見は唯だ染汚なり、九地等に通ずるが故に。既に寛狭有るを以て別に説くこと不同なり。故に開いて二と為せり。見を以て慧の体に即せざるが故に別に見を説くが如く、今も亦慧を以て見に即せざるが故に別に慧を説くなり。」(『述記』第五本・五十一左)

 五位百法中の五十一の心所をみると、我見(悪見)の体は慧であると共に別境の慧が別のものとして挙げられている。このようなことが何故に起こるのかというと、義が別であるからであるという。義が別であるととは、行相が別であるということなのです。我見の慧と別境の慧とでは見分の働きが異なるということになります。これと同様に第七識相応の心所に我見と別境の慧を挙げているのである、と。

                                            


第二能変 心所相応門 (38) 触等相応門 (20)

2011-10-28 21:57:34 | 心の構造について

 「問、論に違を会して云く。二十二の随煩悩に依って説くと云うは、百法論に准ぜば、二十の随惑と云う、百法に成る。瑜伽論の中には惑は二十二と二十四と二十六と説けり。まさに唯だ百法のみにはあらざるべし。答、大論の中には、別境と及び四の不定との是れ染性なるを取るによって、煩悩等流の品類不同なるを以て説くこと多少別なり。彼二の位に離れて更に別法無し。百法論等は其の体性差別有るものによって但だ百法を説く。亦相違せず。」(『了義燈』第四末・三十左)

 四義(遍染の随煩悩を十と説く文献は四つの条件によって選び出している、という義を示す。)

  •  第一義 - 「二十二」、これは『百法論』の説く二十の随煩悩に邪欲と邪勝解を加えたものである。
  •  第二義 - 「随煩悩」、根本煩悩を簡ぶ。
  •  第三義 - 「解が麤と細に通じること」、二十の随煩悩から忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍の十の随煩悩を簡ぶ。
  •  第四義 - 「無記と不善に通じること」、無慚と無愧を簡ぶ。

 これら四義が揃うことで十の遍染の随煩悩があることを示しています。そしてこの十の随煩悩は別義に依って選び出されたものであり、五遍染説と相違しないというのである。

 「故此彼説非互相違」(故に此れは彼の説と互に相違するには非ず)と。此れ(『大乗阿毘達磨集論』巻第四)の記述は彼(『瑜伽論』巻第五十八)が説いている記述と相違するものではない、と五遍染師は十遍染説及びその証拠となる文献を会通しています。

 『大乗阿毘達磨集論』巻第四の記述

 「惛沈と掉挙と不信と懈怠と放逸とは一切の染汚品中において恒に共に相応す。」

 『瑜伽論』巻第五十八の記述

 「放逸・掉挙・惛沈・不信・懈怠・邪欲・邪勝解・邪念・散乱・不正知此の十随煩悩は一切の染汚心に通じて起り、一切処三界の所繋に通ず。」

 無慚と無愧は一切の不善心に通じて名づけられる。

 忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍の十の随煩悩は各別の不善心に起こる、若し一生ずる時は必ず第二無し」と。


第二能変 心所相応門 (37) 触等相応門 (19)

2011-10-27 23:11:36 | 心の構造について

 十遍染を説く文献を会通する。

 「二十二の随煩悩の中に、解いい麤・細に通ずると、二性なるとに依って、十と説けり。故に此れは彼の説と互に相違するには非ず。」(『論』第四・三十二左)

 (二十二の随煩悩の中に、解(行相)が麤と細に通じること、二性(無記・不善)に通じることによって、遍染の随煩悩は十あると説くのである。故にこれと彼との説は互に相違しない。)

 遍染の随煩悩を十と説く文献は四つの条件(四義)をもって遍染の随煩悩であると説いているのであり、実際に染心に遍在する遍染の随煩悩が十あるという意味ではない。

 遍染の随煩悩の十とは、掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知・邪欲・邪勝解を指す。二十四の心所と相応するというのは根本の四惑と遍行の五と別境の五と遍染の十の随煩悩であり、十というのは別義に依って説くといわれています。

 「述して曰く、十遍の文を解す。二十二とは邪欲と勝解と中に摂在すということを明かす。亦不定を簡ぶ。随というは根本を簡ぶ。「解いい麤・細に通ず」というは忿等十を簡ぶ。二性というは無慚・無愧を簡別す。後の二義に通ずるを通と言うて十と摂けり。所余の法には非ず。二十二等というも他の法を簡ぶと雖も所遍の義には非ず。故に論の三の文も亦理に違すこと無し。」(『述記』第五本・五十一右)  明日につづきます。


第二能変 心所相応門 (36) 触等相応門 (18)

2011-10-26 22:16:24 | 心の構造について

  第七識と相応する心所について

 「余」という字は触等の余即ち随煩悩を顕すのですが、しかしその随煩悩を解釈するのに五種とし、或いは六種とし、或いは十種とし、或いは八種となすという異説があります。何故このような相違があるのかは、染汚心に遍在する煩悩を解釈するのに相違があるからです。ここにその異説を述べてみますと、

  •  第一師(五遍染師) - 根本の四惑・五遍行・別境の慧と遍染の随煩悩である掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸の五を合わせた十五の心所と相応する。
  •  第二師(六遍染師) - 根本の四惑・五遍行・別境の念・定・慧と遍染の随煩悩である不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知の六とその他の随煩悩である惛沈を合わせた十九の心所と相応する。
  •  第三師(十遍染師) - 根本の四惑・五遍行・別境の五・遍染の随煩悩である掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知・邪欲・邪勝解の十を合わせた二十四の心所と相応する。
  •  第四師(八遍染師)これが護法正義になります。 - 根本の四惑・五遍行・別境の慧と遍染の随煩悩である掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸・失念・不正知の八を合わせた十八の心所と相応する。

 そして今は六遍染は何を以て遍染の随煩悩といえるのかということが述べられており、五つの条件を満たすものが遍染の随煩悩であると述べられたいるのです。その根拠になるのが『瑜伽論』巻第五十五の記述なのですが、それは何も五遍染を否定するものではなく別義に依って説かれているものであり五遍染説と矛盾するものではないといいます。


第二能変 心所相応門 (35) 触等相応門 (17)

2011-10-25 22:33:18 | 心の構造について

 六遍染を説く文献を会通する。

 「謂く、二十の随煩悩の中に、解いい麤・細に通ずると、無記・不善なると、通じて定・慧を障ふる相顕はなるとに依って六と説けり。」(『論』第四・三十二左)

 前科段に於て六・十遍染は別義に依って説かれていると説明がなされていましたが、この科段に於ては六遍染は五義によって遍染と説かれることが述べられています。

 (つまり、二十の随煩悩の中から、解(行相)が麤と細に通じること、無記と不善に通じること、定と慧を障碍する相が顕わであること、という五義によって六つあると説くのである。)

 五義について(六遍染の随煩悩を選ぶ五つの条件)

  •  (1) 二十 「今二十と言うは、欲と勝解との二法及び不定の四を簡ぶなり。『瑜伽』には此の四を説いて随煩悩と名づけたり。今は二十と云うに約して説く故に之を簡別す。」
  •  (2) 随煩悩 「随煩悩というは前の根本の十法を簡去す。彼をも亦随と名づくれども根本を名づけて遍とすと説かざるが故に。」
  •  (3) 解通麤細 「解いい麤と細に通ずというは、此れが行相いい麤と細の位に通ずということを顕して、前の忿等の十の法を簡ぶ。彼は解いい唯麤なるが故に。」
  •  (4) 無記・不善 「無記・不善というは、二性に通ずとということを顕して、無慚・無愧二の法を簡ぶ。彼は亦麤と細の解に通ずれども然も唯不善なり。
  •  (5) 通障定慧相顕 「通じて定と慧を障ふる相顕というは、此の六の法は定と及び慧との二を障ふるに倶に相顕なりということを顕して、惛沈・掉挙の二の法を簡ぶ。」(『述記』第五本・四十九右)

 第一義(第一の条件)について

 欲と勝解と不定の四つを除くと。遍染の随煩悩でないものを除く。

 第二義

 根本煩悩を除く。根本煩悩もまた随煩悩と名づけるけれども根本煩悩は遍染ではないので除かれる。根本煩悩が随煩悩というのは心王に随うことから名づけられるのである。

 第三義

 前の忿等の十の随煩悩(忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍)を除く。これらの随煩悩はその行相はただ麤のみであるから遍染とはならない。六遍染(不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知)の行相は麤・細に通じるものである。

 第四義

 無記と不善の二性に通じることが条件になり、無慚・無愧の二法が除かれます。無慚・無愧の二法は第三義の麤・細に通じるものであるが、ただ不善であるから遍染の随煩悩とはなり得ないとして除かれます。

 第五義

 惛沈・掉挙の二の法を除く。定と慧を通じて障碍するのを以て遍染とするが、惛沈・掉挙の二の法はいずれかを障碍するもので両方を障碍するものではないので除かれる、といわれています。

                   (つづく)


第二能変 心所相応門 (34) 触等相応門 (16)

2011-10-24 21:31:56 | 心の構造について

 例を示して説明する。

 「眠と悔と三性心に遍ずと雖も、而も癡の位に増せるを以て但説いて癡の分と為すが如し。」(「論」第四・三十二左)

 (睡眠と悔とは三性心に偏在するものであるといっても、癡の位には睡眠と悔の働きは増大し活発化することからただ癡の一分と説いているのであるようなものである。)

 『瑜伽論』巻第五十五に「睡眠、悪作は一切の善、不善、無記と相応すと。・・・・・・睡眠、悪作は是れ癡の分なるが故に世俗有なり。・・・・・・」

 睡眠(すいめん)、悪作(おさ)は三性心に偏在すると述べられているところですが、また癡の分でもあると述べられているのですね。「三性心に遍じて起り体是れ実有なり」と。ここに問題点があるのです。三性心に偏在するということは、善心・無記心にも癡が偏在するということになり、有り得ないことが述べられていることになります。この反対もありえますね。善心、無記心には癡が偏在しないということになりますと、睡眠、悪作は三性心に偏在するという説は誤りとなります。そうしますと、ここは何を伝えているのかということになりますが「睡眠と悔とは三性心に偏在するものである」という一文は睡眠と悔は癡の一部ではないということを述べているのです。そして「癡の位には睡眠と悔の働きは増大し活発化することからただ癡の一分と説いているのであるようなものである。」ということになります。

 この例が示すように前科段に於て「掉挙はすべての染心に遍在するのであるが、特に貪の位には掉挙の働きが増すのである。これによって掉挙をただ貪の一分であると説いている。」と説明していることが誤りではないということになる、と説明しています。

  睡眠・悔については2010年3月20日~3月29日の項を参照して下さい。

 「問、若し此の五の文(五遍染師の文)を以て正と為せば、何が故に『瑜伽』五十五には六法の染に遍ずと説き(六遍染を説く文献)、五十八には十の染心に遍ずと説ける(十遍染を説く文献)や。」(『述記』第五本・四十八左)

 次の科段は六と十の遍染を会通します。初めは総じて会通します。

 「余の処に、随煩悩いい或は六或は十有って、諸の染心に遍ずと説くと雖も、而も彼は倶に別義に依って遍ずと説けり、彼れ実に一切の染心に遍するものには非ず。」(『論』第四・三十二左)

 (他の処に遍染の随煩悩は六つ、或は十有って諸々の染心に遍在すると説かれているといっても、彼は倶に別義によって遍在すると説かれているのである。これら六・十の遍染の随煩悩は実際にすべての染心に遍在するものではない。)

 五遍染師の説は、遍染の随煩悩は「惛沈と掉挙と不信と懈怠と放逸とは一切の染汚品中において恒に共に相応する」(『阿毘達磨集論』巻第四)という文献的証拠を持って五つとするのです。しかし他の文献には遍染の随煩悩は六つ、或は十と説かれていて、五遍染の説は誤りであるとする根拠になっているのです。そこでこれら六・十の遍染の随煩悩は実際にすべての染心に遍在するものではない、と会通するのです。

 他の文献とは『瑜伽論』巻第五十五と第五十八を指します。

 巻第五十五、第三門随煩悩の相応を示す文に「復次に、随煩悩は云何が展転して相応するや。まさに知るべし、無慚、無愧は一切の不善と相応し、不信、懈怠、放逸、妄念、散乱、悪慧は一切の染汚心と相応し、睡眠、悪作は一切の善、不善、無記と相応すと。所余はまさに知るべし互に相応せずと。」

 巻第五十八に「随煩悩の放逸、掉挙、惛沈、不信、懈怠、邪欲、邪勝解、邪念、散乱、不正知此の十随煩悩は一切の染汚心に通じて起こり、一切処三界の所繋に通ず」と。

 「彼の二文は倶に別義に依って之を説いて遍と為せり。実に遍ずるものには非ざるなり。」(『述記』)

 六乃至十を説く文献はともに別義による記述であって実際に遍在するものではない、といい、五遍染説と矛盾しないと、まとめて会通しています。尚、これらの別義については後に明らかにされます。

 少し脱線しますが、先日「なんだかんだ亭」主宰の松村さんから『解深密経講義録・四』(高柳正祐師講述)が届きました。その講義録の中で「恒」という意義について次のように述べられています。

 「そしてこの世親の『唯識三十頌』の中で一番よく知られた言葉が「恒 転如暴流」という言葉です。「恒に転ずること暴流の如し」、ですが、これは私たちの心、意識の事を言っているんですね。心です。私たちの心は、恒に転ずるのだと。この転ずるというのは、よく波に譬えられます。波が起こる。安田先生がよく言っておられましたが、海があってその上に波が現れる。濤波ですね。波が恒に起こって、それが絶えることがない、これを暴流のようだとですね。ここに流れという事があるんですけども、これが「恒」(ごう)という字で、なかなか面白い字ですね。「恒」と「常」というのは意味が少し違いまして、「常」というのは、途切れることなくずっと続いている状態の事を言います。それでこの「恒」というのは、これは不思議な言葉ですね、微妙ではありますが、「恒に新しい」ということです。言葉で言えば刹那滅ということですが。同じ「つね」と言っても、同じものはない、いつも新しいという事を「恒」といえると思うのです。  これは考えてつけたのではないかも知れませんが、太陽も恒星と言いますね。あれも恒に核融合反応が起こっているわけですよ。恒に新しく核分裂の反対の核融合反応が、つまり変化が起こっていて、水素爆発の状態がずっと持続しているわけです。そういう「恒」なんです。それで、その流れの当体は一体何なのか、これを『解深密経』は言おうとしたのです。その体が阿頼耶識だと。」

 漢語辞典で調べてみますと、「常」は巾+尚の組み合わせの字で、尚は長に通じ、ながいの意味を表し、長い布の意味から転じて長く変わらないもので、つねの意味を表す、とでています。「恒」は忄+亙の組み合わせの字で、音符の亘(亙)は、一方から他方へとつねにわたるの意味で、いつも変わらない心の意味や、わたるの意味を表す、とでていました。常と恒の表す意味は微妙に違うのですね。末那識が「恒審思量」といわれる意味も 、いつも変わらない我を思う、ということではなく、いつも再生される、我から我へわたるという、刹那滅の新たな我を思うということになり、相続されるという意味になるのではないでしょうか。


『自己に背くもの』 安田理深述 (11)  唯除の自覚、その(2)

2011-10-23 16:03:11 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 よく真宗の人で罪悪をみとめるというが、罪悪を認めるということではない。罪悪を認めるのを邪見という。善も肯定しないが悪も肯定しない。親鸞聖人は「五逆の罪人を嫌い謗法の重き咎を知らせんとなり、この二つの罪の重きことを示して十方一切の衆生皆漏れず往生すべしと知らせんとなり」といって唯除は二つの罪を知らせんためと申されている。それはいかにも簡単に述べてあるが廻心皆往ということである。廻向というは謗法の罪の重大なるの警告である。われわれについては本願を疑う。本願に洩れている。そういうことによって三信は根の信であると誹謗正法を否定媒介として廻向の信に触れる。『涅槃経』の文を結んで親鸞はこのようにいっておられる。

 「ここをもって、今大聖の真説に拠るに、難化の三機・難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、 これを憐憫して療したまう。たとえば醍醐の妙薬の一切の病を療するがごとし。濁世の庶類・穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと。知るべし。」(真聖p271)

 この親鸞聖人のお言葉は非常にデリケートである。第一の本願を憑む、利他の信海に帰せよ。われらは本願を信ずるということである。信海に帰せよと、帰せよの呼びかけを受けているものは難治の三機である。信海に帰せよ、海に入れよと、それは意識ではない。帰入せよというのは信ずる意識ではない。信ずる意識というようなものは帰してみようがない。信海に帰命せよ。帰命するとは頂いたことである。無根の信である。勿体ないと頂いた。それに自力の信心が批判されている。自力の信心を否定媒介として大きな信海に目覚める(意識的にではない)本願の海に目覚める外に意識はない。桶の底が抜けた。抜けた底に意識があったわけではない。だから信心というも超越的である。こういう信心を明らかにするにはどうしても仏智疑惑を否定する関門を透過しなければならない。

              次週は 「本願の正機」 を配信します。


第二能変 心所相応門 (33) 触等相応門 (15)

2011-10-22 22:48:02 | 心の構造について

 掉挙における問題点を会通する。

 『述記』に問を以て掉挙の問題点を示しています。

 「問、不信と懈怠と惛沈とは然もある可し。或いは体実有なりといい、或いは惛沈は是れ仮有にして或いは通じて諸惑の一分なりといい、或いは是れ愚癡の分なりといい、此れが中に掉挙は既に是れ貪が分なり。貪・瞋倶起せざるが故に如何ぞ瞋の時にも有らん。而も染心に遍ずというや。此の師解して云く、」(『述記』)

 問題点は貪と瞋とは相反する心所であるから両者は並存することはない。『瑜伽論』巻第五十五に「掉挙は是れ貪の分なるが故に世俗有なり。」と説かれ、掉挙は貪の別用を体としている、といわれています。別の言い方をしますと、掉挙は貪の一部ということになります。この第一師(五遍染師)の煩悩が生起する時には必ず五つの遍染の随煩悩が存在する、という主張には問題があると指摘されます。すでに掉挙が貪の別用であることは瞋の時には掉挙は生起することはあり得ないのです。それならば、どうして瞋の時にも染心に遍在するといえるのか。染心に掉挙が遍在するという主張は誤りということになる。これに対して答えているのが次の科段になります。

 「掉挙は一切の染心に遍ぜりと雖も而も貪の位には増せり。但貪が分と説けり。」(『論』第四・三十二右)

 (掉挙はすべての染心に遍在するのであるが、特に貪の位には掉挙の働きが増すのである。これによって掉挙をただ貪の一分であると説いている。)

 「述して曰く、・・・・一切の染心にあるをもって即ち瞋の起こる時にも而も定んで掉挙の自性有り。而も貪の起こる位には即ち掉挙は増せり。多く貪に順ぜるが故に。而も実に体あり。故に染心に遍ぜり。五十五に是れ仮有と説くは別体無し。是れ実有なりとは即ち別体有りといはむとぞ。世俗有とは或いは別に体有り、或いは体無しといはむとぞ。下(『論』巻第六)に自ら此の世俗有ということを解するが如し。故に是れ実有り。此れが中に弁ずる所の実に体有り等というは或いは文外の意なり。諸論には多く貪が上に依って立つるに約して、故に貪が分といへり。世俗有の中に実を尅して体を出すは、即ち別に有なり。」(『述記』第五本・四十七左)

 五遍染師の主張は「掉挙はすべての染心に遍在する(実物有)」ことから問題はない、という。『瑜伽論』巻第五十五に説かれていることは、貪の位、即ち貪が活動している時には、掉挙の活動も増大するということを説いているのであって、掉挙が貪の一部であると説かれているものではない、掉挙は固有の体を持つ実有の法であるから瞋が存在しても生起するのであって、染心に掉挙が偏在することに問題は無い、と会通しています。