唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (59) 別境相応門 (3)

2014-09-23 16:25:51 | 第三能変 諸門分別 別境相応門
 

その余の六法についての説明です。

 「疑と及び五見とは各々四と倶なる容し。疑には勝解を除く、決定せざるが故に、見は慧と倶なるには非ず、慧に異らざるが故に。」(『論』第六・十九左)

 疑及び五見と別境の相応について説明される科段になりますが、
 (1) 「疑と及び五見とは各々四と倶なる容し。」
 (2ーa) 「疑には勝解を除く、決定せざるが故に、」
 (2ーb) 「は慧と倶なるには非ず、慧に異らざるが故に。」

 疑と五見とは各々四と倶である。即ち、疑は欲・念・定・慧と倶起し、勝解とは倶起しないのである。また五見を欲・勝解・念・定と倶起し、慧とは倶起しないのである。

 (その理由が示されます。)

 疑と倶である別境は勝解を除いたものである。何故ならば、決定しないからである。疑は不決定の境を縁ずるが、勝解は「決定の境に於て印持するを以て性と為す」心所であるからである。
 五見と倶である別境は慧を除いたものである。何故ならば、慧と異なることがないからである。

 疑と勝解とは、境と行相とが相違するから、疑と勝解とは倶起しないのである。

 次に、見は慧と倶ではないことが説明されています。五見の体は慧であることは既に述べられてありますが、「諸々の諦理に於て、顚倒に推度する染の慧を以て性と為し、能く善の見を障え、苦を招くを以て業と為す」心所で、別境の慧の心所が、悪しく働いた悪しき見解のことで、慧を以て体とするということは、五見の体は、別境の慧と同じである。しかし、「一心中に多の慧有るに非ず」と言われていますから、五見相互は不倶起であり、五見と慧は相応しないことになります。

 尚、ここに一つの問題が提起されます。『了義燈』(第五末・二十一左。)

 巻第四に於て末那識では、十八の心所が倶であると云われ、そこに我見と慧が倶であることが説かれていた。これは慧が複数並び立つことであり、護法がいう「一心中に多の慧有るに非ず」と矛盾をきたすのではないか、という疑問です。

 『了義燈』を読んでみますと、

 「論に『見は慧と倶に非ず、慧に異ならざるが故に』と云うは、問う、五見は慧に異ならず、慧と倶なることを得ずと云はば、何が故ぞ、前第四巻に第七も慧と倶なりと説くや、我見恒に行じて慧と異ならざるが故に。」

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 (2011年10月11日の投稿を参考にしていただければと思います。)

 慧について説明する。

 「慧は即ち我見なり、故に別に説かず。」(『論』第四・三十一右)

 (慧の心所は我見である。故に別に説かない。)

 「慧ノ心所ト云ハ、万ヅノ知ラント思フ事ノ徳失ヲヨク簡ビ弁ヘテ疑ヲ除ク心ナリ。是則チ智也。」(『二巻鈔』)

 我見は慧である。一識中に複数の慧が並存することはないので、第七識に我見が存在する以上、第七識に慧は存在しないのである、と。

 ただし、護法は第七識に慧は存在するという立場を採る。この意味は我見の体が慧であるとして第七識に慧は存在するというのであって、並存するということではない。

 「述して曰く、慧と我見とは二つ並ぶに非ざるが故に、五十五に説かく、見は世俗有なり。即ち慧の分なるが故に。余は別に性有りといへり。」(『述記』第五本・四十二左)

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 答う。二解有り。一に云く、一に倶有を以て倶と名づく。二に相応するを以て倶と名づく。前は倶有に拠っていい、此は相応に約していう。他性と相応す。自性に非ざるが故に。」

 (1) 倶有の意味である。相応の意味ではないから矛盾はしない。

 (2) 倶は相応の意味であるが心所の内容の相違で述べられているので並び立つと言えるのである。体が並ぶと云う意味ではない、という解釈になりますが、前者が正とされます。

 (雑感)

 中東地域は今無法地帯となっていますね、痛ましいことですが、世界のなかで、あるいはイスラム文化圏と西欧文化圏の狭間でテロを生み出す環境はないのでしょうか。なかったとしたら、無いにも拘らずテロが横行したら、テロは極悪非道になります。しかしテロを生み出す環境があったとしたら、それは私たち一人一人の問題になります。私は私のなかにある闇が、テロを生み出す必然性があると感じています。その心の闇を鋭く抉り出して智慧を導き出しているのが唯識の教えなのですが、その根本にある言葉に耳を傾けたいのです。それは法然上人の父、時国の臨終間際の遺言です。法然上人が九歳のとき、父は事件に巻き込まれて夜襲を受け殺害されました。その場に居合わせた法然に父は「汝、さらに会稽の恥をおもひ、敵人をうらむ事なかれ、これ偏に先世の宿業なり。もし遺恨をむすばは、そのあだ世々につきがたかるべし。」(法然よ、敗戦の屈辱を思い、敵を恨んではなりません。今回のことは、私自身の宿業によるものだからです。もし遺恨をもって仇討ちをすれば、怨みが怨みを呼んで、世々にうけつがれていくことになります。)この言葉の重みを世界の識者の方々は受け止めていただきたいのです。事件は起こってしまったのです。またいつ事件は起こるかは予測がつきません。敵と味方に反目している以上いつかまた忌まわしい事件は起こることでしょう。法然の父、時国は起こってしまったことは「先世の宿業なり」と受け止め「敵人をうらむことなかれ」と遺言しました。それは怨みは怨みを生み出すからであり、その怨みは世々に受け継がれ、暗黒の世界をつくりだすであろう、というものです。仏教は存在を衆生とも、有情とも呼び、菩薩の誓願は「諸の有情と共に」というものです。この誓願に生きるものが仏教の人間像です。一人として抹殺してよい命はないのです。すべて尊い命を宿しているのです。対立する組織ではあっても、その対立は私が生み出している闇なのだと自覚するべきでしょう。「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟」なのです。これらのお言葉に耳を傾ける時、道はすでに開かれているのではないでしょうか。
もう一つ問題提起させていただきます。
 我癡とは無明である。そして我見とは我執であると述べられてありました。第八阿頼耶識の見分を妄計して我とするのは、無我の理に迷っている無明が横たわっているからですね。親鸞聖人は「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」と。南無阿弥陀仏は我癡という無明を破ってくる働きがあるのだと教えられています。私たちの上に具体的に表れてくる我執は本願に背いている姿ですね。本願に背いているのは仏智疑惑です。仏の智慧より我の心のほうが偉くて仏をも裁く心をもっているのですね。ですから元は無明です。「此には無明を以て本と為せり」と。無明が因となり、我見・我慢・我愛は果となって現れてくるのであると説かれています。その元の無明を破る働きが念仏であると言うことですね。具体的には信心です。信心において無明を破る智慧をいただくのですね。智慧をいただいてみれば、迷妄多き、というより、迷妄しかない娑婆といわれる世界も生きうるに値する世界なのですね。もう一つ気になる出来事がありました。それは脱原発の集会です。何故脱原発なのかという議論は有無の見だと思うのです。生命の危機を晒す原発はもういらないという主張と、電気需要を多量に必要とする産業界からの、より安全な原発を推進するという主張がぶつかり合います。私にとって何が利益をもたらすのかという、私の立場から賛成か反対かを主張しているわけです。原発のある環境を推進するのか、それとも原発のない環境を推進するのか。環境を変えることにおいて私たちの生活環境をより安全により快適に暮らせるようにしようという議論が、原発推進か、それとも脱原発かということになります。しかしですね。この議論には、人間そのものを問う姿勢を伺うことが出来ませんね。快適な生活を要求する為に私たちが原発を推進してきたのです。「豊かな生活」を目指して自然を破壊してきたのも私たちです。その為に生態系が破壊され、地球全体が温暖化になり、CO2によってオゾン層が破壊されて、私たちの取り巻く生活環境は著しく悪化しているのです。これも私たちがもたらして来たものです。「人間そのものを問う」・「私を問う」という姿勢が微塵もないことから起こってきた現況ですね。ですから脱原発か、それとも原発依存かの議論は共に我見です。無明より起こってくる見解ですね。私たち一人一人は有情なのです。人間だけが尊いのではないのですね。命有るともがらの中にいながら、私たち一人一人が傲慢になっているのではないでしょうかね。人間だけ、いや私だけが偉いのだと。「自己とは何ぞや」という宿題が突きつけられているように思います。

 

 

 

 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (58) 別境相応門 (2)

2014-09-21 00:20:30 | 第三能変 諸門分別 別境相応門

 貪等の四法は五別境と倶起することを明かす。

 「貪と瞋と癡と慢とは五と倶起す容し。」(『論』第六・十九左)

 貪と瞋と癡と慢とは、五(欲・勝解・念・定・慧)と相応する。

 「一境に專注(センシュ)するときに定有ることを得(ウ)るが故に。」(『論』第六・十九左)

 (何故ならば)此の四が一境に專注するときには定があるからである。

  •  一境(イッキョウ) - 一つの対象。
  •  專注(センシュ) - 心を一つのことに注ぎ込むこと。

 本科段は『述記』によりますと、「難を逐って之を解す」と述べられています。即ち何故、定のみを取り上げて説かれているのかですね。初に、四法は五別境と相応するといいながら、理由を述べるときには、「定有ること得るが故に」と、定のみが取り上げられているからですね。

 これについては、煩悩が定と相応することが理解しがたいから、特に定を以て五別境と相応するのであると解しています。

 この問題は後ほど出されてきますが、定と散乱の問題です。定と散乱は対の問題ですから、定と散乱とは相応しえるはずがないという問題です。

 後に説かれます随煩悩・別境相応門では二十の随煩悩は別境の五とはすべて倶起することが明らかにされているのです。

 その中の、散乱と定が相応し得ることの説明には

 「染定の起る時には、心亦躁擾(ソウニョウ)なり、故に乱は定と相応すというに失無し。」

  •  躁擾 - 心がさわがしく乱れる、動揺のこと。

 散乱と別境の定が相応することについて、染の定が起る時には心心所もまた心がさわがしく、乱れ動揺している。この心躁擾は散乱の別相でもありますから、その為に散乱は定と相応するということに過失は無い、というんですね。

 染の定というのが理解しがたいところですね。染の定も定に違いないのだからというのですがね。

 散乱とはどういう心所なのか尋ねてみますと、

 「云何なるか散乱。諸の所縁に於いて心をして流蕩(るとう・ほったらかしにすること)ならしむるを以って性と為し、能く正定を障えて悪慧の所依たるを以って業と為す」といわれます。失念は意識の対象に於いて不能明記であると、記憶できずに正念を障えてしまうと言われていましたが、散乱は正念をもてないことから意識の対象に於いて心が散乱するのです。散乱した心をほったらかしにして正定を障えるのです。正定を障えることに於いて悪の知恵の依処となるのですね。正念を障えて失念し、失念することに於いて散乱を招き正定を障えるのですが、そのことにより悪の知恵の依り処となるといわれるのです。

  •  流蕩とは「流は馳流(ちる)なり。即ち是れ散の功能の義なり。蕩とは蕩逸(とういつ)。即ち是れ乱の功能の義なり。」

 心が川の流れのように、流れる様子を散といい、蕩はとろける・とろかすという意味があります。水がゆらゆら揺れ動く様子を言い、心がだらしなく、しまりがない状態を乱というのです。「散乱は、あまたの事に心の兎角(とかく)うつりてみだれたるなり」(『ニ巻抄』)

 「散乱は別に自体有り。三の分と説けるは。是れ彼の等流なればなり。無慚等の如し。即ち彼に摂むるに非ず。他の相に随って説いて世俗有と名づけたり。」と、散乱と云う煩悩は独立して有ると言われます。三の分とは貪・瞋・癡の事ですが、この中に「散乱は有る」という説を退けるのです。「別に自体有り」と。

 散乱の別相について「散乱の別相とは。謂く躁擾なり。」(「躁とは散を謂う。擾とは乱を謂う。倶生の法をして流蕩ならしむ」)軽躁という言葉がありますね。こころが落ち着かずそわそわしているのです。あるいは軽佻浮薄(けいちょうふはくー心がうわついて軽薄であるという意ー軽佻の佻は跳ね上がりで落ち着かない意)ともいわれます。

 この散乱の義である躁擾が染の定が生起する時には心・心所もまた躁擾であるということから、散乱と定とは相応する、といわれているのです。

 この説明から何が窺われるのかですね。染の定は正定ではないですから、散乱の定というのも、染に対しては、一境に專注することに変わりはない、ということでしょうか。染に対して心が集中しているから散乱するのであると理解をしますと、四法が一境に專注する時には定が有るといえるのでしょうかね。

 この説明を伺ってみますと、私たちの固定概念が覆されます。定というのは禅定、心を研ぎ澄まして一境に專注することのように思いますが、反対に正定ではなく、染の定の場合にも、煩悩に心を研ぎ澄まして一境に專注するといえる、と。私たちは日常ですね、自分を立てて、自分の思い通りになるように心を研ぎ澄ましているのかもしれませんね。その時に起こってくるのが、貪・瞋・癡・慢という心所である、染の定に於いて生起するものであって、一境に專注する定と違背するものではないということになるのでしょうね。

 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (57) 別境相応門 (1)

2014-09-17 21:56:17 | 第三能変 諸門分別 別境相応門

 第五は、別境相応門。 本科段は問起。

 「此は別境とは幾くとか互に相応する。」(『論』第六・十九右)

 これらの十の煩悩は、別境(欲・勝解・念・定・慧)とは幾つが互いに相応するのであろうか。

 別境の視点から十の煩悩を見つめ、分析する科段になります。

 尚、別境については 2009年12月の投稿を参照してください。まとめについては再録させていただきます。

 学ぶことは、幾度となく繰り返し繰返しという積み重ねになります。煩雑かもしれませんが、少し元に戻って考えたいと思います。

 別境のまとめ

 「欲・勝解・念・定・慧という別境の心所は働く対象が異なるのですね。欲は所楽の境に於いて・勝解は決定の境に於いて・念は曾習の境に於いて・定・慧は所観の境に於いてというように異なる対象に於いては異なる心所が働いているわけです。ここで大事なことは欲から慧へと心の深まりがあります。はじめは漠然として欲の心所がいわれています。その欲にもいろいろあります。欲楽といい、欲望という違いもありますが、慧の心所から窺えますことは、慧は真実を知る智慧ですね。そうしますと別境の心所は仏道に向かわしめるということを主題としているということがわかります。私たちは自ずと仏道的生き方をしているわけです。そして別境はどの心に働くのかという問題になります。「第七・八識には」と、この別境は位(有漏・無漏)に随って有無があるというのです。有漏の阿頼耶識には別境は働かない・偏行だけが働きます。阿頼耶識は純粋ですから何事にも分別しないのですね。阿頼耶識が転依(大円鏡智に)しての無漏位には別境の全てが働くのです。これは願生という欲生心から無分別智まで一筋の道なのですね。第七末那識は転依(平等性智に)しての無漏位にはすべての別境は働きますが、有漏位では慧の心所だけが働くのです。何故かと言いますと末那識は我執ですから自他を簡びわけるのですね。自分の損得だけを思いつづけていますから、自分にとって損をしないように簡択(選ぶ)するわけです。その心所が慧です。仏道に方向が定まっていてもですね、最後の関門があるわけです。エゴイズムです。利己的に物事を変えていくわけですね。ここをどのようにして突破するかが仏道の課題として残るのですね。前五識は感覚器官ですが第六意識に左右されます・影響を受けますから六識には五つの心所が働くのです。この様に見ていきますと第六意識ですね。この作用がいかに大切なことかがはっきりと見えてくるわけです。欲を起こす、それはどの方向を向いているのか、優れた理解を以って確認をするわけです。方向を見極めるのです。そしてはっきりと記憶して忘れることがないのです。そして忘れることのない対象に精神を集中していく、そのことによって真実の智慧が獲得されるという流れになるわけですね。このような心の構造をしっかりと把握して聞法に励み、聞薫習することが大切な生き方ではないでしょうか。

 

 

 識の織り成す世界

 

 識(自体分・自証分)体は、八識によって織りなされているわけです。つまり、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識ですが、本識は阿頼耶識、本識が転じて七転識、或は、「第七有って第六の依と為る」といわれていますように、六転識として、識の織りなす世界が説かれてきます。
 略していいますと、第八識の上に末那識が働き、第六意識はそれらを依所として動いているということなのです。
 第二能変・末那識の存在証明である第一教証には、心・意・識の意義が説かれています。
 「集起するをば心と名づけ、思量するをば意と名づけ、了別するをば識と名づく。是れ三の別義なり。是の如く三義は八識に通ずと雖も、而も勝れて顕なるに随って、第八を心と名づく。諸法の種を集め諸法を起こすが故に、第七を意と名づく。蔵識等を縁じて恒・審思量して我等と為すが故に。余の六を識と名づく。麤動に間断師了別して転ずるが故に。」
 これは、第七識は第八識を依所として動いているということなのです。第七識の依所は第八識・第八識の依所は第七識という関係ですね。第八阿頼耶識は第七末那識を依所として動いていく。ここに、認識の重層性が語られているんです。第七末那識がキーポイントになります。第七末那識がなかったなら、迷いがなくなります。迷わないですむわけです。しかし、曠劫以来任運に恒に審に阿頼耶識を縁じて自の内我とする働きがありますから、命の誕生と共に我の意識、自他分別の意識が無意識の領域で動いているのですね。阿頼耶識を縁じて我見を起こしているのです。
 この構造が、本質(ホンゼツ)と影像で説かれるのです。本質と影像の間に介在し影響を与えているのが第七末那識である染汚識なのです。本質を疎所縁として、転識されている識の見分が染汚性をもって親所縁として相分を描きだし、固定化し、実体化して執着を起こし、本質である阿頼耶識そのものを染汚してくるという働きをもつのです。ここに宗教的問題が隠されてるようです。阿頼耶識は自己の生命の存在証明ですが、第七末那識によって染汚されるということに於て、転依しなければ、涅槃と菩提という勝果を得ることはできないのですね。阿頼耶識を本来の自己というなら、本来の自己はすでに与えられているのでしょう。本来の自己を覆っているのが第七末那識、第七末那識は我執の心、有我の心、我に執着している心ですから、本来性から顛倒しているわけですね。
 振り返りますとね、涅槃と菩提も既に与えられているというべきでしょう。しかし、本来に返れないと云う所に深い闇が自己の中を覆っている、それは何んだと。
 ここで末那識の存在証明が出されてくるのです。教証は『楞伽経』と『解脱経』です。そして六理証が存在証明として述べられます。こういう形で、末那識が、第二能変として位置付けをされたのです。
 聞法もですね、聞いているのは私なのですね。私が聞いている。しかし仏法は聴聞だと、聞くのではなく聴くんだと。私が聞くということは、末那識相応の我見によって私の都合に合わせて聞くということになります。ここが破られてこないと聞法にはなりません。
 仏法は無我にて候。
 常なるものは何一つない。
 この道理に反逆し苦悩しているのが私の姿、一生懸命私を掴まえてもがいている。私が描いたもののようにあるわけではないと教えられている。影像を影像と知った時、本質には触れ得ることはできないが、本質が働いているということは知り得る。それが「涅槃の一分を得る」ということなのでしょう。
 末那識は「異熟生の摂なり。異熟識に従いて恒時に生ずるが故に異熟生と名づく。異熟果には非ず。」
 (第七識は異熟生におさめる。異熟識に従って恒に生じるので異熟生と名づける。異熟果ではない。)
 認識は「識体転じて二分に似る」という構造で知られるわけですが、第八阿頼耶識の見分を縁じて我と為す第七末那識の存在が大きく横たわっていることが解ります。外境は無いということははっきりしたが、内に於いても、内なる外としての末那識の存在が迷妄と苦悩を生み出してくるのですね。我執・法執が覆っているということを唯識は教えています。
末那識の存在証明ですが、二経六理証を以て末那識の存在を証明されるわけですね。
 六理証は『摂大乗論』に依って証明されるのですが、最初に、不共無明を以て説き明かされていますね。
 「不共無明は微細にして恒行し真実を覆蔽すと云う。若し此の識無くば当に有に非ざるべし。謂く諸の異生は、一切の分に於て恒に迷理の不共無明を起こして真実の義を覆い聖慧眼を障う。・・・・・異生の類は恒に長夜に処して無明に盲いられて、昏睡して心を纏はして曽って醒覚すること無しと云う。」
 どうしても、六識だけでは説明のつかないところです。末那識が有るのか無いのかという問題ではなく、末那識が無かったならば説明がつかないということです。
「云何が知るべし。此の第七識は眼等の識に離れて別の自体有りと云うことを。」(『論』第五・八右)
(どのように知られるのであろうか。この第七識は、眼等の識を離れて、別の自体が有るということを。)
『成唯識論』は『唯識三十頌』本頌と長行によって成り立っています。第二能変は長行が大きく二段に分かれ、第一段は八段十義で説明され、前科段ですでに述べおわっています。これからの科段は、第二の二教六理証が述べられます。教と理を以て、第二能変の存在を証明する科段です。
「述して曰く、文の中に三有り。初には問。次には答。後には疑を釈す。下に唯だ六識と立つるを会するなり。小乗は此れは即ち是れ六識が過去に入る者なりと執す。故に此の問を為す。答の中に二有り。初には総じて教・理を以て量と為し、二には別して教・理を以て量と為す。」(『述記』第五末・十二右)
小乗(部派仏教)では第七末那識は説いていないのですね。第七末那識を認めていないのです。ですから、第六識まで説かれていない部派仏教に対して、第七末那識の存在を証明する必要があるのです。部派仏教では、この第七識に相当するのは、「小乗は此れは即ち是れ六識が過去に入る者なり」と云われ、生滅する六識が過去になったもので、これを意根というとする立場に立ちます。
 六識と離れて別の自体が有ることが、何故に解るのか、という問が先ず設けられ、それに答える形で以下二教六理証を以て、第七末那識の存在を論証していきます。尚、教・理証については第八阿頼耶識(五教十理証)と第七末那識の存在を証明する為に論証されます。第六識に対しては、部派仏教も承認している事柄になり、証明する必要はないからですね。
 教証とは、仏・菩薩の教えを以て証明するということになります。理証は、道理ですね。道理を以て証明していく。 「眼等の識に離れて」と。眼等の六識は部派仏教でも説かれていたということです。しかし、従来説かれていた六識を離れて別の自体が有るということをどのように証明するのかが問われているのです。八識別体が護法の立場ですね。
「聖教と正理とを以て、定量と為るが故に。」(『論』第五・八右)
(第七末那識の存在が知られるのは、聖教と正理(しょうり)とを以て定量(じょうりょう)とするからである。)
 定量 - ある認識や判断の正当性を裏付ける根拠。文献的根拠と、理論上から知られる根拠をいう。
 別して答える。(教と理から個別に答える。)
 「述して曰く、自下は別に答す。中に於て二有り。初には顕なる経に依って、教を以て有と証す。次に隠なる経に依って、理を以て有と証す。初の中に二有り。初には不共許(ふぐうご)の経、二には共許(ぐうご)の経。此れ等の経は大小に通じて有と云うを明かす。然るに七十六解深蜜経及び楞伽に大に文有り。小乗の謂く未来をば心と名づく。過去は是れ意なり。現在は是れ識なり等種々に分別して然も別体無しと云う。今は顕に経に於て別に体有りと言うことを。上には証じて解し已りぬ。」(『述記』第五末・十二左)
 教と理から個別に答えられるのですが、これが大きく二つに分けれるのです。第一は、二教証です。これは「顕なる経」(顕なる経典)に依って、教を以て第七末那識が存在することを証明します。第二は、六理証です。これは「隠なる経」(隠なる経典)に依って、理を以て第七末那識が存在することを証明します。
 初の二教証について、さらに二つに分けられて説明されます。第一の教証は、不共許の経典(大乗の経典)を引用します。小乗仏教では大乗経典は仏説ではないとして不共許の経典とされます。第二の教証は、共許の経典を引用します。大・小乗共に承認されている経典を以て論証します。
 小乗仏教においては、六識と別の体をもった末那識の存在を承認していなく、未来の心を心といい、過去の心を意といい、現在の心は識と名づけれられるのであって、同一の体であるとする。しかし、大乗仏教では、六識とは別の体をもった識が存在するという。その証拠が下に述べられる『論』の一文である。
 「謂く、薄伽梵(ばぎゃぼん)の処々の経の中に、心と意と識との三種の別義を説きたまえり。集起(じゅうき)するをば心と名づけ、思量するをば意と名づけ、了別するをば識と名づく。是れ三が別義なり。」(『論』第五・八右)
 (つまり、薄伽梵(仏の別名)が処々の経の中に於て、心・意・識との三種の別義を説かれているからである。集起(あつまること。業果である種子を集める阿頼耶識が心であると解釈する。)するものを心と名づけ、思量するものを意と名づけ、了別するものを識と名づけるのである。これが三つの別義である。)
 先ず第一教証が説かれます。大乗経典の引用です。不共許の経典といわれます。これは小乗仏教からの大乗仏教への批判です。仏説ではないと。しかし、ここでは先ず不共許の経典を挙げ、大乗経典に於て第七末那識の存在が証明されていると述べています。大乗経典においては、心・意・識は小乗のいうような働きではなく、集起するものを心と名づけ、思量するものを意と名づけ、了別するものを識と名づけ、それぞれ別個の存在であることが示されていることを明らかにし、即ち阿頼耶識は集起する心であり、第六意識は了別する心であり、思量する心は、末那識に他ならないとして、第七末那識の存在を証明しているのです。
「是の如きの三の義は、八識に通ずと雖も、而も勝れて顕わなるに随って、第八をば心と名づく。諸法の種を集す、諸法を起こすが故に。第七をば意と名づく。蔵識等を縁じて、恒に審らかに思量して我等と為るが故に。余の六をば識と名づく。六の別境の於には麤動に間断し了別して転ずるが故に。」(『論』第五・八右)
(このような三つの義(集起・思量・了別)は、八識に通じて認められているとはいえ、勝れて顕著であることによって、第八識を心と名づける。何故ならば、諸法の種子を集め、諸法を起こすからである。そして第七識を意と名づくのである。何故ならば、第八阿頼耶識を縁じて、恒に審らかに思量して我等とするからである。他の六つ(眼・耳・鼻・舌・身・意識)を識と名づくのである。何故ならば、六つの別々の境に対して、麤動に間断し、了別して転じるからである。)
「諸法の種を集す」とは「一切の現行の為に熏ぜらる。是れ諸法の種を集むるなり。」と、現行熏種子のことですね。そして「諸法を起こす」とは、「現行を依と為し、種子識を因と為して能く一切の法を生ず。故に是れ諸法を起こすなり。」と、種子生現行のことを表しています。
『瑜伽論』巻第六十三に「心等に具に此の通・別の名有り。」と述べられ、心・意・識の三つの言葉は八識に通じて呼ばれることもありますが、特徴的な性質という時には、心・意・識という三義を以て説かれています。通とは、従来説かれていた心です。小乗では六識のみ(六識体一説)を説いていました。別とは(八識別体説)勝義の道理に由る、と。勝義とは阿頼耶識と転識です。所依・能依の関係です。転識とは、眼識乃至意識の前七識です。第七意識は第七末那識の訳名であって、第六意識ではないということですね。ここに素晴らしい譬が出されています。「譬へば水浪の瀑流に依止するが如く、或は影像の明鏡に依止するが如し。」と。
 第七末那識を意と名づけるのは、蔵識等を認識して、恒に審らかに思量して我とするからである、と述べられているのですが、「等」と云うことは、有漏の末那識はただ我の対象である阿頼耶識のみを認識するわけですね。しかし、無漏でありながら、因位の末那識は第八阿頼耶識と真如とを認識対象とするのです。そして、果上の仏果を得た後は一切の法を認識対象とするから、『論』に「等」の字がおかれているのです。詳しくは等取といいますね。
 他の六識は別々の対象を認識するのですが、認識される六境の体は麤動であり間断するために、これに対する了別作用も麤動であり、また間断するものとなる為に識と名づける、と云われます。
 「余の六識をば識と名づく。六の別境の体は是れ麤動にして間断有る法に於て、了別して転ずるが故に。了し易きを以て麤転易するを以て動と名づけ、続かざるを間と名づく。各々此の勝れたること有って、各別に名を得たり。何を以て心等は是れ第八等と知るや。」(『述記』第五末・十二左)

 

 末那識は、阿頼耶識に関係する自我愛の契機であるといえる。自我として愛着されているものは阿頼耶識、愛しているのは末那識、従ってノエシス・ノエマの関係である。」(安田理深師)は述べておられます。
 「謂く、契経に説けり。不共無明は微細に恒に行じ、真実を覆蔽すという。若し此の識無くんば、彼有るに非ざるべし。」(『論』第五・九左)
(つまり、契経(『分別縁起初勝法門経』・『分別縁起経』という。巻下)に説かれている。「不共無明は微細であって、恒に活動し、真実を覆蔽する」(取意)と。もし、この末那識が存在しなかったならば、彼(不共無明)も存在しないであろう。)
 不共無明(ふぐうむみょう) - 二種の無明(相応無明・不共無明)の一つ。独行無明ともいう。貪・瞋などの煩悩と相応して共に働くことなく、ただ四諦の真理を知らない暗い心のありようをいう。これがさらに二つに分けられる。恒行不共無明と独行不共無明である。恒行不共無明は末那識と相応して働く無明をいう。恒行とは、無始よりこのかた、恒に働きつづけているから恒行という。独行不共無明は意識と相応して働く無明をいう。貪・瞋などの煩悩と相応せず、ただ独り働く無明をいう。 相応無明は、前六識における貪・瞋などの煩悩と相応して起こる無明である。
 第一理証で述べられている無明は、恒行不共無明です。恒行不共無明の依り所は第七末な識なのです。第六意識は間断することが有り、恒行ではなく、第八阿頼耶識は煩悩と相応しないという論証から、もし末那識が存在しないならば、恒行不共無明もまた存在しないことになる。しかし恒行不共無明が存在する限り、末那識は存在すると論証しています。「真実」に二つの意味が施されています。無我の理と無漏の智慧です。無我の理と無漏の智慧を覆い隠し、それがまた虚妄を顕すことになるというのです。
 真実ということなのですが、『正信偈』に「無明の闇を破すと雖も、貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり」と、親鸞聖人は語られています。「無明の闇を破す」ということについては、「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」(『総序』)と。無明の闇はすでにして破られている、「しかし」、貪愛・瞋憎の雲霧が真実信心の天を覆っていると、我が身の現実を見据えられておられますね。真実とは、『唯識』では無我の理と無漏の智慧のことであると教えられています。諸法実相です。『唯識』では円成実性といいます。「覆眞實相顯虚妄相」と、覆っているものですから、現実は虚妄の相を現しているのです。『歎異抄』では「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と語られています。念仏は真実功徳相ですね。真実功徳相によって明らかにされた世界が、火宅無常の世界であり、我が身は煩悩具足の凡夫であることが一点の疑いもなくはっきりとしたということですね。闇は破られていることに於て雲であり、霧であることが見えたということです。見えてみれば、雲、霧は邪魔にならないというですね。無明の闇が破られて、「微細に、恒に行じ、真実を覆蔽」している末那識の存在が白日の下に晒されるのです。恒行不共無明が本性である、と。 
 「謂く、諸の異生は、一切の分に於て、恒に迷理の不共無明を起こして、真実義を覆い、聖の慧眼を障う。」(『論』第五・九左)
 (つまり、諸の異生は、一切の分(善・悪・無記のすべて)において、恒に迷理の不共無明を起こして、真実の義を覆い、聖の慧眼を障碍するのである。)
 諸の異生と述べて、聖者を除いています。理由は聖者は無漏智が現行する時、恒行不共無明が存在しなくなるからです。(煩悩具足の凡夫は)一切の分に於て、善も悪も無記の行為であっても、恒に迷理の不共無明を起こして、真実義を覆い、聖の慧眼である無漏智を障碍しているのである、と。  
(経と論を引用して恒行を証明しています。初に無着の『摂大乗論』巻第一を挙げる。)
 「伽陀に説けるが如し。「真義の心のみ当に生ずべきを、 常に能く為に障礙して、 一切の分に倶行す、 謂く不共無明ぞという。」(『論』第五・九左)
 (伽陀に説かれる通りである。「真義の心のみ、まさに生ずべきを、常に能く障礙して、一切の分に倶行する。つまり、不共無明である。)
 「頌曰 若不共無明 及與五同法 訓詞二定別 無皆成過失 無想生應無 我執轉成過 我執恒隨逐 一切種無有 離染意無有 二三成相違 無此一切處 我執不應有 眞義心當生 常能爲障礙 倶行一切分 謂不共無明此意染汚故。有覆無記性。與四煩惱常共相應」(『摂大乗論』本・巻上、大正31・133c~134a)
(「若し不共無明と 及び五同法と 訓詞と二定の別と 無ければ皆過失を成ず、 無想の生は応に 我執の転ずること無ければ過を成ずべし 我執は恒に随逐して 一切種に有ること無からん、 染の意を離れては 二有ること無く、三は相違を成ず、此れ無ければ一切処に 我執は応に有るべからず、真義の心の当に生ずべきに 常に能く障碍となり 一切分に倶行するを 不共無明と謂う。此の意は染汚の故に、有覆無記なり。四煩悩と常に共に相応す。色無色の二纏の煩悩の如く、是れ其の有覆無記性の摂なり。色無色の纏は奢摩他の摂蔵する所と為るが故に、此の意は一切時に微細に随逐するが故に。」)
 訓詞(くんし) - 言葉の語源や意味を解釈すること。 
(「なぜ、汚染された心が存在すると知ることができるのか。もし、この心がないとすれば、独立して働く無明が存在すると言えなくなるからである。・・・これについて詩句を説く。独立して働く無明がないことになり、同質の五識がないことになり、二つの禅定の区別がないことになり、意という言葉の意味がなくなり、たんなる無想情態の生命に我執がないことになり、その一生に煩悩の流失がないことになり、その善悪無記の中には、我執は起こらないことになる。しかし、汚染された心なしには涅槃も無い。汚染とそれから離れるということや、存在認識の三性質の事実に反する。それがなければ、一切のところに我執は発生することはできない。真理を覚ろうとするに際して、障害となって発生させない。つねに一切のところで働いているもの、これを独立して働く無明と名ける。この心は汚染されているので、有覆無記である。常に四つの惑いを伴っている。』コスモスライブラリー『摂大乗論』現代語訳より。)
 真義 - 真実義のこと。究極的な真実・真理(真如)をいう。真実義については『瑜伽論』巻第36(大正30・486b)に四種の真実義が説かれ、巻第64(大正30・653c)に六種の真実義が説かれる。『述記』には無漏の真智である、と説かれています。
 真義の心というのは、真如を縁じる心なのです。この真義の心は、無始よりこのかた有情に具備されているといわれています。しかし、末那識相応の恒行不共無明もまた無始よりこのかた間断することなく、恒に現行し、真義の心を障礙して、真義の心を現行させないのです。「倶行一切分」です。「此の無明は三性心に通じて、恒に與に倶起す。」と。三性すべてにですね。善も悪も無記の行に於て、この無明は起こるのです。すべての経験においてですね、この無明が相応して働いていると教えています。善を為して誇り、悪を為して嘆くのは、この無明が相応しているからであると教えられています。
 「是の故に契経に説かく。異生の類は、恒に長夜に処して、無明に盲(めし)いられ、惛酔して心を纏(まとわ)れ、曾って醒覚(せいかく)すること無しと云う。」(『論』第五・九左)
 醒覚(せいかく) - 迷いからさめること。
 惛酔(こんすい) - ねむく心が沈んでいる様子をいう。
(このために経典に説かれる。「異生の類は、恒に長い夜に身を処して、真実を明らかにする眼(慧眼)は恒行不共無明によって閉ざされ、惛酔して心をまとわれ、曾って迷いから醒めることは無かったという。)
 このような理由によって末那識の存在が証明されるということを表しています。不共無明は「行相微細にして知り難し」(微細常行行相難知覆無我理蔽無漏智)といわれていますように、恒時に行じて無我の理を覆い、無漏の智を蔽っているわけです。またこの不共無明は心所有法ですから、心王がなければないません。恒時というところから、前六識には間断があり、第八識は無覆無記であって、煩悩と相応するものではありませんから、いずれも不共無明と相応するものではないのですね。よって恒時に相応する第七識の存在が証明されるわけです。  何故、このようなことを言いますかとういうことですが、末那識は「恒審思量」といわれています。これは、我の自覚に於て、その自覚の底に末那識が働いているということなのです。「いたらぬ私です」という底に「いたる私が」潜んでいるのです。「僕が悪かったです」という見えない部分で「僕は悪くない」という自分が存在する。悪い・悪くないというところで自他分別が働いている、自他分別のところで妄執が働いているのですね。自他は縁起生ですからね。縁起に於て自であり、他であるわけです。分別されるものではないことが教えられている、それを出世の末那といわれているのでしょう。