唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (78)

2017-05-30 21:10:48 | 阿頼耶識の存在論証
  
 滅定証という禅定は大きな課題であるわけですが、真宗では禅定は説きませんが、禅定はないのでしょうか。読経でも、法話でも、聴聞でも心が散乱麤動していては身につかないですね。
 「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。」(『化身土巻・本』真聖p340)
化身土巻で述べられている宗祖の、「修しがたし・行じがたし」という慚愧心は、観念ではないですね。人間からいえば、どこまでも修し、行じていかなければならない課題を背負っているのでしょう。宗祖は『大経』との邂逅において、人間の計らにおける自力の浅心に触れられてのでしょうね。
 僕は、唯識は特別な教えではないと思うんですよ。
 私に与えられた時は果相ですね。因の結果として縁起されてきた時なのでしょう。そこには善悪の分別は働いていません。ただ自然法爾です。「おまかせ」は分別を超えて与えられた時に頭が下がった姿なのでしょう。でもね、私たちは「おまかせ」に逆らうのですね、ここに慚愧心が生じてくるのではありませんか。どこまでも、異熟果の身を生きている、自然法爾として与えられていると云うべきでしょうね。種子・現行・熏種子は回向の教学であると思うんですよ。ここは詳細に詰めて考えなければと思っています。
 とにかくですね、仏教徒にとって禅定は大きな問題であるわけです。
 十理証が述べ終ってから、「定」について考えたいと思っています。
 また、最後の心染浄証(シンゼンジョウショウ)も大切な論証になります。第八識が無かったならば、心雑染・心清浄が成り立たないと、「染・浄の法は心を以て本と為す」と。又にします。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (77)

2017-05-29 21:13:34 | 阿頼耶識の存在論証

 第九理証に入ります。
 滅定証(メツジョウショウ)
      滅尽定
 定 〈       〉 無心定
      無想定
 「又、契経に説かく、滅定に住せる者は、身(シン)と語(ゴ)と心(シン)との行を皆滅せずということ無し。而も寿は滅せず、亦は煖(ナン)を離れず、根(コン)は変壊(ヘンネ)すること無く、識は身に離れずと云う。若し此の識無くば滅定に住せる者の、身に離せある識有る可からざるが故に。」(『論』第四・四右) この滅定に入った者は、身行の入出息(ニュウシュツソク)を、語行は尋・伺、心行は受・想を滅すると云われています。行は因の意味であるとされます。
 寿は命根、つまり生命ですね。
 滅尽定に入ると、身行・語行・心行は滅するが、寿は滅しない、また煖を離れない、根は変壊しない、識は身を離れないのである、と。寿と煖と識は生命を維持する三要素で、煖は身体の温かさを云います。この条件を満たすのが第八識であるという論証です。
 滅尽定は第七識まで無くなるのですが、これは転識がすべて消滅する位になります。でも定に入っている位ですが、身命は滅していなく、維持し続けていけるのは何故かという問いが有るわけですね。諸経典に「身は識を離れない」と説かれていることに由ります。
 「若し此の識無くんば、滅定に住する者、身に離れざる識というもの有る可からざるが故に」
 「此の識」は第八識を指します。この第八識が存在しなかったならば、「身に離れない識」は存在しないことになる、と云います。
 結びは、
 「故に識も、寿・煖等の如く、実に身に離れずと許す応し。」(『論』第四・四左)
 第八識も、寿・煖等と同じく身を離れずに滅尽定の中でも存在していると(許すべし)認めるべきである、というのが護法の正義になります。
 本科段は初能変が終わり次第、もう少し詳しく論考したいと思います。
 

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (76)

2017-05-27 21:36:25 | 阿頼耶識の存在論証
  
  四食証 (第八識の存在証明。五教十理の第八の証)
   「契経に説かく。一切の有情は皆食に依って住すと云う。・・・謂く契経に説けるに食(じき)に四種有り。一には段食(だんじき)。…二には触食(そくじき)。・・・三には意思食(いしじき)。・・・四には識食(しきじき)。・・・此の四は能く有情の身命を持して壊断(えだん)せざらしむが故に名けて食(じき)と為す。」)(『論』第四・初右)
 食に四つあげられています。この四つは、有情の身命を保って、身命を養い壊断(断ち切ること)することがない、それが食であるということ、つまり私たちの命を支えてくものであるということです。また食の根底には「愛楽仏法味 禅三昧為食」という、命をいただいているんだという恩徳がはたらいているのですね。
 養っていく働きのあるものが食であると『述記』は釈しています。「資養し生長す」と。
 初めに、段食が挙げられます。
 「変壊するを以って相と為す。」 段食とは、私たちの食べ物のことを云っています。私たちの食べ物は変化し壊れていくもの、つまり魚や野菜は口の中に入り、噛み砕いて胃の中にはいり、そこで胃の中で分化され、いろんなものに変化する。食べたものは栄養分となって私たちの身体を養うのですね。これが一つ。
 私たちは、身を養うために食事をしますから、誰にでもあてはまることです。
 次からの三つが大変重要な食物になります。
 ・ 第一が触食です。
 「境に触するを以って相と為す。」
 触るというのは、単に対象に触れるということではなく、六触ということが云われていましたように、眼で触れる、耳で触れる、鼻で触れる、舌で触れる、身で触れる、意で触れる、あらゆるものと触れることにおいて私たちは成長していくのですね。成長とは、やはり身が養われていくということでしょうね。
 ・ 第二が意思食、思食とも云います。
 「希望(けもう)するを以って相と為す。」
 思とは、希い望むことである。自分の意志の力で、何かを求め、何かを望んでいくことなんですが、自分の意志の力が身を養っていくことになるんですね。
 聖書に、有名な「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉が言われていますが、まさに、仏教もまた、パンのみにて生きるにあらずと、パンのみではなく、もっと大切な食があるということを教えているんですね。
 ・ 第三、最後に識食が挙げられます。
 「執持(しょうじ)するを以って相と為す。」
 命を執持するのは阿頼耶識であることをはっきりさせているわけです。私の命を根底から支え、養っているのが阿頼耶識である。ここは本当に大事なところです。私のいのちはを育て育んでくるのは、阿頼耶識である、と。
『論』には、
 「謂く有漏の識は段と触と思との勢力(せいりき)に由って増長し能く食と為る。此の識は諸識の自体に通ずと雖も、而も第八識は、食の義偏に勝れ、一類に相続して執持すること勝るるが故に。」
 と説いています。
 私たち日頃の食事が身につくかつかないかは、どんなものを食べたかに依るのではないということなんです。本当に感謝の気持ちをもって、手を合わせ、いただきます、ありがとうございましたという心の働きが、身をやしない、成長させていく糧になると教えています。

 大谷大学教員エッセイ 2001年7月の言葉より
        「一切の有情はみな食によりて住す。」『成唯識論』(じょうゆいしきろん)
 『成唯識論』は、「三蔵法師」として有名な玄奘(げんじょう)によって7世紀の後半に翻訳された論書です。日本にも早くから伝えられて奈良時代以来多くの人々に読まれてきました。それは『成唯識論』が、仏教の多くの論書の中でも、苦悩する人間存在をもっとも深く解明したものだったからです。つまり、先人達はこの論書を通して、私たち人間とは一体どのような存在なのかということを深く学んできたのです。
 上に掲げた文章は、「すべての人間は常に何かを食べることによって生きている」という意味です。言うまでもなく、私たち人間は、様々なものを外から取り入れて生きています。ここではそれを「食」と言っているのです。「食」と言うと私たちはすぐに「食料」を想像しますが、『成唯識論』によれば、私たちを支えている「食」には四つの種類があると説いています。
 第一は、「段食」と言います。これは先に述べたような「食料」、つまり食べ物のことです。私たちがいろいろなものを食べてそれを消化したとき「食」になると言うのです。第二は、「触食」(そくじき)と言います。「触」とは、あるものと他のものとが接触することです。ここでは、私たちがいつも心に喜びを得るために何かと接触することを求めているという意味です。現代の言葉で言うなら「刺激」ということ に相当するでしょう。第三は、「意志食」と言います。これはいつも自分にとって都合の良いものを求め続けることという意味です。だから「欲望」といったことに相当します。第四は、「識食」と言います。これは今挙げた三つの食がより多く手にはいるようにと望むことです。つまり、私たち人間は、食べ物だけでなく心地よい刺激と自分の都合をどんどん拡大していくことを支えとして生きているのです。しかし、「食」の無限の拡大は私たちを迷わす原因ともなります。
 それ故、ブッダは、かつて迷いのもとを断とうして極端な断食修行を実行されました。ところが、それを放棄してスジャータの捧げた乳粥(ちちがゆ)を食べたのち、正覚を得られたのです。つまり、正覚とは、私たち人間を支えているものを否定したところに成り立つのではないのです。だからといってそれを全面的に肯定しているわけでもありません。ブッダの正覚が、両極端を廃した「中道」と呼ばれるのはこのようなことを指しているのです。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (75)

2017-05-25 21:00:43 | 阿頼耶識の存在論証
 
 『倶舎論』の記述によりますと、命終の時は何の識が最後に滅するのかという問いに、頓死と漸死が説かれ、頓死の場合は意識と身根とが突然に滅すると言われ、漸死の場合、地獄・餓鬼・畜生の生を引く者は足から、人間に生まれたる者は臍から、天に生まれたる者は心臓の処で意識が滅すると説明されています。
 この漸死の者は、命終の時に断末魔の苦しみがあるとされます。最後の意識が滅する時に、断末魔の苦しみに悩まされる、何故かといいますと、四大(地・水・火・風)の和合が取れなくなり、四大不調になって病気に成ると云います、これが総相ですが、個別には水大が増盛すれば疫病、火大が増盛すれば熱病、風大が増盛すれば風邪を引き起こす、と。四大種のバランスが取れなくなった時に病を発症するのですね。そして末魔(急所)に触れると強い苦しみを受け、やがて死に至るとされます。
 二十二根を説く中で、女根・男根として命の根幹が説かれますが、その根が断たれると云う表現を以て命終を表しています。急所を断たれるのです。
 これは何を意味するのか、死んでいくときの様子を説き記しているわけではないのですね。人の死はこのような断末魔の叫びをもって閉じられるのは、過去の我欲の精算だと思うんです。仏教の学びは、何があってもですね、「これでよかった」と云い切れるかですね。
 ヘドロ(煩悩。纏いつくもの)は初めから存在しません。清流は清らかな流れですが、堰を作ると流れが止められ不純物が堆積され、やがてヘドロと化します。
 鉄は鉄より錆びるのです。様々な条件はありますが、錆びる直接の条件ではありません。水等は外的要因に過ぎませんね。
 世の中ドロドロやといいますが、ドロドロした世間はどこにもないのです。
   
 「罪業もとよりかたちなし
   妄想顛倒のなせるなり
   心性もとよりきよけれど
   この世はまことのひとぞなき」(『愚禿悲歎述懐』)

 深く味わっていかなければならない和讃ですね。南無

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (74)

2017-05-24 22:37:26 | 阿頼耶識の存在論証
  
 意味深いですね。大事なものは、仏法、真実の法です。現実的な表現ですと、支えられて生かされているいのちへの眼差しでしょうか。その眼差しが持ちえないのは、自分だけの世界に閉じこもっているからでしょう。禅では「父母未生以前の我」に帰れと言われますが、分別以前、言葉以前の我ですね。
 そうしますとね、言葉を発する以前の我は、無分別の世界に遊んでいる。胎内での五位は有為法です。有為転変しながら無分別なんですね。園林遊戯地はこのような状態を云うのではないでしょうか。しかし、言葉を憶えて自他分別を重ねながら死地に向かっていることも事実です。
 転依することが無かったら、死地は断末魔の叫びになるのでしょう。死にたくないけれども、いのちのもとを断たれることになる。
 『倶舎論』43頌・44頌の記述です。
 四有と四食の説明があって、命終の時にはどのような状態であるのかが説かれている。
 「非定無心二 二無記涅槃 漸死足臍心 最後意識滅」(43頌) (定と無心との二に非ず。二無記に涅槃す。漸死は足と臍と心とに、)
 「下人天不生 断末魔水等 正邪不定聚 聖造無間余」(44頌) (下と人と展と不生となり、断末魔は水等なり。」
 有情の死を説く記述ですが、命終の時には、何の識が最後に滅するのかを説いているのです。頓死と漸死に分けて説かれています。 (つづく) 

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (73)

2017-05-22 21:58:51 | 阿頼耶識の存在論証

名色互縁証の理由について説明がされます。少し読んでみます。
 「謂く彼の経の中に自ら是の釈を作(ナ)さく、名(ミョウ)と云うは謂く非色の四蘊なり。」(『論』第三・三十四右)
 非色は色蘊を除いた他の四蘊である、受・想・行・識で非色蘊と云う。
 「名」とは非色の四蘊である、と。
 「色」とは何であるかと云いますと、
 「色とは謂く羯邏藍(コンララン)等なり。」カラランとも読みます。Kalalaの音写。胎内の五段階の所説になります。詳細は『倶舎論』及び『瑜伽論』巻第二に説明がされています。
 五段階説は『倶舎論』の所説です。
 第一段階が、受胎です。精子と卵子が結合した直後の液状体の胎児のの状態で、最初の七日間を指します。この状態を羯邏藍(コンララン)と云います。
 第二段階が、第二週目の七日間で、額部曇(アブドン)と云います。
 第三段階が、第三週目の七日間で、閉戸(ヘイシ)、「若已成肉仍極柔軟、名閉戸」(『瑜伽論』巻第二)この段階での胎児は、体内に於いて肉は出来ているが、いろんな機能が定まっていなく、柔らかくしなやかな状態の胎児のことですね。
 第四段階が、第四週目の七日間で、健南(ケンナン)、肉が堅く厚くなり、手でこすっても耐えることが出来るようになった胎児の状態。
 第五段階が、第五週目の七日以降の、出までの三十四の七日を鉢羅奢佉(ハラシャキャ)とされます。この第五段階を更に三段階に分けて説いているのが『『瑜伽論』巻第二の所説です。
 この第五の段階に於いて、諸の器官が形成される初期の段階とされます。
 第六段階が、髪毛爪(ハツモウソウ)で、髪や毛や爪が出来始めてきた状態ですね。
 第七段階が、根(コンイ)、眼根などの器官が形成された状態、
 第八段階が、形(ケイ)、人間としての諸機能が整って出産される胎児のことで、ここで命の誕生となります。
 ここまでが胎内の五位、或は八位になり、出産されて以降を胎外の五位として説明されます。ここで阿頼耶識の存在証明がなされるのです。 又。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (73)

2017-05-21 10:15:01 | 阿頼耶識の存在論証
  
 『成唯識論』巻第八(『選注』p196)にですね、「三性と五事と相摂云何ぞ」と、問いが提起されています。この問いは、初能変で行相・所縁が明らかにされる中で、所縁の種子は「諸の相と名と分別との習気なり」を受けていると思うのですが、中心課題は第六意識ですね。現行識は意識されてあるもの、実有を顕しているわけですね。つまり、依他起として有るものです。
 依他起は、阿頼耶識の所縁の種子から現行されてくるわけですね。唯識教学の中で、一番大事なものが、存在するものの場所を明らかにしたのが阿頼耶識縁起、場所とあり方なんです。ものがどこにおいて存在するのか、その場所は阿頼耶識にあると同時に三種の自性として、そのものの在り方は、どういう在り方をしているのかを説き明かしているのですね。
 私は何に迷っているのか、そして何を欲しているのか、迷いの糸を諄々に説き明かしているのが唯識の特色ですなんですね。
 迷いは遍計所執と現わしていますが、これは相分と見分との間に形成される固定化・固執化・凍結化なんです。「識体転じて二分に似る」を分断してしまうのが妄想と言われる計度分別なのです。
 すべては依他起であって、遍計所執は非なる在り方なんですね。私たちは、関わり合い、支え合う縁起の世界を生かされている存在であることが、「三性と五事と相摂云何ぞ」の中で明らかにされたことなんです。
 五事とは、相と名と分別と正智と如如なのですが、三性との関わりでは、種子である相・名・分別、聞法に於いて得られる正しい智慧が依他起性として、如如は真如、大円鏡智ですが、私たちの生の事実は依他起なのです。依他起の於に分別を起すのが遍計所執ですが、実体として有るわけではありません。無を有と執しているに過ぎないのです。
 ちょっと飛躍しますが、
 龍樹菩薩は真実を空と表されました。実体化・固定化の否定ですが、唯識は実体化・固定化の否定を、すべては縁に依って現われてくるものとして、有情の存在を業縁存在として捉え直したんだと思います。 
 浄土教に於いて、業縁存在とはどういうことなのかを、善導大師は六字釈をもって、空・依他起は如来回向であると論証されたのではないかと内心思っています。宗祖はご自身の身の上で二種深真として、生きていることは業縁存在として生かされたいることをはっきりとされた上で、人間存在を、真実の働きの中で、我執を立ててしか生きていることが出来ない存在の悲しみを二回向四法、『教行信証」として開顕されたように思うのです。
 迷いは分別、我執ですが、依他起の中で我が計らいとして妄執している人間存在の悲しみですね。

 今日は「名色互縁証」です。
 「又契経に説かく、識は名色(ミョウシキ)に縁たり。名色は識に縁たり。是の如き二法は展転して相依ること、譬は束蘆(ソクロ)の倶時にして転ずるが如しと云う。若し此の識無くば彼の識に自体有るべからざるが故に。」(『論』第三・三十四右)
 『摂論』の第三にも同じことが説かれています。
 名と色。色は物資、名は心的なもの。色蘊が色、他の四蘊が名になります。名色で五蘊、身体を表しています、識は心。身と心の問題に答えています。身体は識を縁とし、識は身体を縁としている、そして展転して相続している、お互いに寄り添い支えあっているのです。ここで譬が出されますが、三法展転因果同時の譬として、所熏の四義、能熏の四義のまとめとして束蘆の譬が出されています。
 「三法展転して因果同時なること、炷の焔を生じ、焔生じて炷を燋(ショウ)するが如く、亦束蘆の更互に相い依るが如し、因果倶時なりと云うう理傾動せず。」と。束蘆の譬はよく出されます。支え合っているから立っていられるのです、支えが無くなったら、一秒たりとも立っておれません。
 この譬と同じように、第八識が無かったなら、身体を支えていく心が無くなってしまうであろう、と。いのちの世界は身と心が支え合って持続している、この根幹をなすのが第八識であると論証します。
 次科段では名と色の説明が出されます。次回にします。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (72)

2017-05-16 21:07:51 | 阿頼耶識の存在論証
 
 今日は、第六の生死証の概略になります。
 第六・生死証
 「又契経に説かく、諸の有情類の受生(ジュショウ)し命終(ミョウジュウ)するは必ず散(サン)と心(シン)とに住して無心と乗とには非ずと云う。」
 「若し此の識無くば生じ死する時の心有るべからざるが故に。」(『論』第三・三十二右)
 受生とは、母親の胎内の中に生命を受けること(いのちの誕生)
 命終はいのちが終わるときです。
 ですから、生まれるとき、死するときには「散(サン)と心(シン)とに住して無心と定とには非ず」と云われている。
 散は散心、こころが散漫に動いている状態です。散心――(対)――定心
 心は有心――(対)――無心
 ここで言われていることは、生まれる時と死する時は心は散漫であり、明瞭な意識はない。身心惛昧(シンジンコンマイ)であるからと云われます。いうなれば、昏睡状態です。そうですね、生まれる時は極睡眠ですし、死する時は、眠るようにして亡くなっていきます。はっきりとした意識は働いていません。ですから「明了の転識は必ず現起せざるべし」六識は働いていないということでしょうが、それならば、生まれる時、死する時は何もないのかと云うと、そうではなく、小さな小さな生命が宿って、日々成長していくのですし、死んでいく時も、意識は朦朧として、もはや分別は働きませんが、やはり生きている。
 六識は働いていないが、生死の六識の働いていない時にいのちを相続しているのは何故なのかということなんですね。
 生命の誕生と倶に阿頼耶識が動き、臨終と言われても尚且つ阿頼耶識は死んでいない、生きているということなのです。
 「阿頼耶識は常に非ず、断に非ず」ですね。
 そしてですね、死に関してですが、生きている間の善悪業が関係すると説いているのです。死に望んで、業果です。どういうことになるのか、『論』の記述は、
 「又死せんと将(ス)る時には、善・悪業に由って下(ゲ)・上(ジョウ)の身分に冷(リョウ)の触漸(ソクヨウヤ)く起る。若し此の識無くば彼の事成ぜずなりなん。」(『論』第三・三十三左)
 厳しいですね、私の業に由って業果としての死に「下・上の身分」として「冷の触」が現われると。
 善を積み重ねてきた人は、足の方から冷たくなる。
 悪を積み重ねてきた人は、頭の方から冷たくなる、と云っているんです。
 でもね、死んでいくときは手足から冷たくなるんです、何を言おうとしているんでしょうね。この事も、第八阿頼耶識がなければ言えないことなんです。
 阿頼耶識が存在して、初めて生死が意味を持つということを論証したのです。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (71)

2017-05-15 22:32:26 | 阿頼耶識の存在論証
 
 第五番目の壽煗識証(ジュナンシキショウ)についてです。
 「又、契経に説かく。壽と煗と識との三、更互に依持して相続して住することを得と云う。」(『論』第三・三十一右)
 壽と煗と識は生命を維持する三要素で、寿は持続している心、煗は身体のあたたかさ、体温。識は寿と煗を維持するはたらきを意味し、壽と煗と識との三法が互いに依持し相続して人間としての相を持つのですね。それを成りたたしめているのは間断が有ってはならないわけですから、そこには第八阿頼耶識の存在が必要になるのですね。
 つまり、諸の転識には間断があって持続する働きは有りませんので、壽と煗を相続することは出来ません。このような理由から、壽と煗を恒に維持する働きを持つ識は第八識を除いてはないということになります。
 「若し此の識無くんば能く寿と煗とを持して、久しく住せしむる識有るべからず」(『論』第三・三十一右)と。