唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(13)

2020-01-26 09:30:09 | 唯識入門
 おはようございます。
 唯識を学ぶ上で、どうしても避けてはならないところがあります。例えば、本識(阿頼耶識)と転識(前七識)との関係、或いは、表層の前六識と深層の二識との関係、表層でも、第六意識と前五識との関係ですね。
 そして、何が一番大切なことを教えているのかといいますと、第八阿頼耶識の行相・所縁です。行相は行相見分といわれていますので、阿頼耶識の積極的な動きであり、所縁は対象。阿頼耶識は何を対象としているのか、ここははっきりとしておかなくてはならないところです。
 少しづつ説明していかなければなりませんが、その前提となる種子(しゅうじ)。法律の場合は(種子)しゅし、ですが、唯識ではすべては阿頼耶識の中から生み出されてくる因として(種子)しゅうじを考えています。
 定義は「本識の中にして親しく自果を生ずる功能(くうのう)差別(しゃべつ)なり。」と。
 これは阿頼耶識の自相と関係してくるのですが、すべての経験(遺伝子を含む)を種子(因)として阿頼耶識は無分別に摂持(しょうじ)、すべてを収めとって維持しているのです。そこから果相が生まれてきますから、阿頼耶識は因相と果相を摂持していることになります。自らの因(種子)が自らの果(現在)を引いてくることになります。
 阿頼耶識は、「諸法の種子を執持(しっち)し、失わないので一切種と名づける。」と。執持を維持するという意味になります。、定義としては「摂して自体と為して、持して、不壊ならしむ」といわれています。
 阿頼耶識の中に蓄えられた種子、一切の経験の果を因として蓄えられた諸法の種子を失わないで持ち続けていく、過去・現在・未来に連続していく過程で、因が果となり、果が因となって現行していく、この面を捉えて因相、一切種子識と名づけられています。
 自相・果相・因相という三つの側面は、「今」の自己の存在の在り方を決定してくるという大事なことを教えています。
 種子生現行(しゅうじしょうげんぎょう)・現行熏種子(げんぎょうくんじゅうし)、種子が因、現行が果、現行の果が因となり、新たな種子を熏習(くんじゅう)するという構図です。現行の果から、どのような種子を植え付けるのかが問題になってくるのでしょうね。これが因相を説く課題となります。種子を熏習するとはどういうことなのか。これから学んでいこうと思います。
 一切ですからね、捨てられるものはないもないのです。すべてが経験されたものとして蓄積され、熏習されます。因は多種多様です。果はすべてを引きうけて現在している。
 種子は、熏習と深い関係をもった概念ですね、熏種子という。善悪業果という過去を背景に持って、今新たに種子を熏習して、未来を切り拓いていく。未来をどう開き規定していくのかは、今どのような種子を植え付けていくのか、そういう無限の可能性をもったものが一切種として現されているのではないかと思います。
 

唯識入門(12)

2020-01-19 22:43:05 | 唯識入門
 今日はもう一題投稿します。
 この種子―薫習-現行は同時に起こってきます(三法転展同時因果といいます。)現行されたものが種子となり薫習され、薫習されたものが縁にふれ現行されてくることから、三法は同時に起こっているのです。私たちは本当に一期一会の時間を与えられていることがよくわかりますね。
 末那識とは、manasuマナスの音写なんです。定義としては、「思量するをもって性とも、相ともなす。」といわれています。
 何を思量するのかといえば、我を思いつづける、我の思いどうりにしたいと寝てもさめても思い続けるということを本質としているということなんです。この思量されたものが、阿頼耶識に蓄えられて、意識に上り現実の行動となって現れてくるのです。人間にとって一番大切なことはこの末那識の転換ですね。転換とは、知ることなんですね。自我意識を知るのは、教えに触れないと自覚はできませんから、自我意識が転ずるのは、偏に教えに依るわけです。教えに身を任せるところから、自我意識が智慧に転ずるのです。末那識転じて平等性智になるのです。自分のことしか思わなかった識(はたらき)がすべて差別なく平等にみる智恵に転換するのですね。なんとも素晴らしいことではないでしょうか。
 私たちが求めているのは智慧なんですね。

唯識入門(11)

2020-01-19 11:26:25 | 唯識入門
 おはようございます。気持ちの良い朝ですね。来週は雨の日が続く予報がでていますが、暖かいみたいです。
 「ただ識のみあり」と断定しますと、何もないのかという疑問が出てくると思います。外界にはいろんなものが存在するではないか、それを「無」というのには合点がいかない。僕もそう思っていました。
 言葉を足しますと、外界は確かに存在する。しかし実体的、固定的に存在するのではなく、私が認識しているような外界は存在しないと教えているんだろうと思います。
 意識はどのような動きをしているのかといいますと、表層の前五識に影響を与え、深層意識に経験値として蓄積する働きを持っています。つまり、外界が問題ではなく、意識の本質と動きが私という存在を生み出しているといっていいんではないかと思います。
 難しい言葉でいいますと、「了境為性相」(りょうきょういしょうそう)「境を了するを性とも相ともなす」と。
 意識は外界を了別(区別)することを本質とし、外界を区別することが働きであるということです。
 問題は外界ではなく、意識にあるということになります。そこで、この唯識という言葉の背景ですが、
 唯識という言葉が初めて出てくるのは、唯識の根本経典である『解深密経』(げじんみっきょう)です。この中の、分別瑜伽品(ふんべつゆがほん)に唯識の言葉が見出せます。
 「識の所縁(しょえん)は唯識の所現(しょげん)なり」。(識の対象は、ただ識が表現した所のものである。)
 実は意識が起こってくるには意識をコントロールする深い自我意識が働いているのですね。意識は隋眠(ずいめん)、眠っている時は働いていません。しかし、眠っている時でも恒(つね)に働き、自身を執着している意識が有ると唯識は教えています。マナ識(末那識)といいます。このマナ識によってコントロ-ルされた意識が深層の根本識(阿頼耶識・あらやしき)に蓄えられていくのです。意識-マナ識-阿頼耶識という図式が成り立ちます。表に表れたのが意識になります。この表層の識に6つあります。すなわち眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識です。前六識といいます。これに深層の意識であるマナ識、阿頼耶識を加えて八識といいます。三層八識によって私たちの意識が構成されているのです。すべての見聞きした事はは自分のよしあしにかかわらず、阿頼耶識に蓄えられ、そして折に触れ意識の上に現れてきます。現在は過去の蓄積されていたものが縁に触れて現れてきたものだと教えています。現行(げんぎょう)といわれています。阿頼耶識は蓄える所という意味で蔵識ともいわれています。世界の最高峰ヒマラヤ、雪山ともいいますが、つねに雪を頂いている、蓄えているところから音写をして阿頼耶識といい、その意味から蔵識というのだと教えていただいています。すべての経験された意識は阿頼耶識に種子として蓄えられ、熟成(熏習・くんじゅう)されます。意識は深層意識から縁に触れて現行されたものなんですよ。
 又来週に。

唯識入門(10)

2020-01-14 11:00:33 | 唯識入門
 唯識入門も10回目の投稿となります。安田先生は、「分からなくなったらはじめにかえる」、と教えてくださいました。
 少し戻って唯識の全体像を見ていきたいと思います。
 唯識は、2000年以上も前から仏教の世界では連綿として伝わってきた思想です。
 唯識とは、「ただ識のみあり」、私たちが認識を起こし感情を持つのは、認識作用である自分の心だけであるということを教えています。
 対象に触れる作用です。触れるとそこに心が揺り動かされ、自分という認識のフィルターを通して、自分の心にインプットしていきます。この作用が自分という一個の人間の人格を形成していくのです。
 「ただ心のみがある」とはどういうことでしょうか。私たちは私と周りの外界(環境)、あるいは私と私とは無関係に存在すると考えている外界の二つがあると考えています。所謂、主客二元論です。具体的には私が意識してもしなくても山があり、川があると思っています。唯識はそれを誤りだと指摘するのです。では何があるのかといいますと、「私の心が作り出したもの」、という厳密な回答です。
 一つの絵画を鑑賞しても私の捉え方とあなたの捉え方は違います。山を見ても、川のせせらぎを聴いても人それぞれの捉え方があります。それは絵画があり、山があり、川があるから見ているのではありません。見ている私が作り出した映像なのです。そこにポイントをあて、心のあり方を追求してきたのが唯識といえます。
 中国、唐代、孫悟空でお馴染みの三蔵法師=玄奘三蔵によって天竺、今のインド、カシミール地方からもたらされたました。
 玄奘は『唯識三十頌』を解釈した十大論師の説を、一つ一つ翻訳したのですが、それでは非常に煩雑になる為に、弟子の慈恩大師基ととも共に天竺より持ち帰った経、論を整理して『成唯識論』を編纂しました。これを糅訳といいます。また慈恩大師基を第一祖として法相宗が開かれました。日本には遣唐使の道昭(どうしょう)によって661年頃持ち帰られ、奈良の元興寺、法隆寺、薬師寺に伝えられました。それから717年には玄肪(げんぼう)が入唐して智周に学び734年、奈良、興福寺に法相唯識を伝えました。
 以来仏教徒は仏教の基礎学として、「倶舎論」(くしゃろん)とともに唯識を研鑽しました。学ぶといいましても学問として学ぶわけではありません。あくまでも学仏道として、佛になる道を学ぶのです。道元禅師も「仏道をならうとは自己をならうなり。自己をならうとは自己を忘るるなり」とお教えくださっています。親鸞聖人は「念仏成仏是真宗」と、仏教を学ぶということは佛になる道を学ぶのです。佛とは「本当の自己に目覚め、その目覚めの道をお教えくださった人」と私は理解をしています。それでは私たちは、なぜ本当の自己に目覚めることができないのでしょうか。何が障害になっているのでしょうか。それを唯識を学ぶことによって明らかにしていこうとしているわけです。

唯識入門

2020-01-12 09:28:48 | 唯識入門

 おはようございます。
 昨日は、僕の一言で大切な人の心を傷つけてしまいました。後悔先に立たずですが、思考と意思決定は、過去に自分が何を考え、どのような行動をとってきたかに由るわけです。
 現在の行動は、自分はこのようなことを考えていたんだなと、教えられるのですね。こうのように書いている瞬間もうすでに過去の出来事なんです。何回も同じことを言いますが、現在は過去の集大成であり、未来は現在の集大成であるわけです。同じことの繰り返し、同じことの過ちを犯してしまうのは、何を基準として日暮をしているのかに関わってきます。金子大栄師は「人生をはやり直しはできないが、見つめ直すことはできる。」と教えてくださいました。
 これは、自分の依り所、自分の立ち位置を確認しなさいということなのですね。
 ここで云えることは、人生には師が必要であるということです。貴方の師は誰ですかと問われたときに、私の師は誰それですと答えられるのか。
 しかし、ここにも問題はあるのですよ。何を以て師とするのか、師と仰ぐことが出来るのか。
 自分の功利心に迎合するような発言をする人は師とはいえません。
 また、慚愧心の無い人も師とはいえません。慚愧心が無いと、傲慢にならざるを得ないからです。
 それは何故かといいますと、迎合する発言を繰り返す人や、慚愧心の無い人の発言には永遠性がなく、いつ崩れ去るかもわからないからです。そのようなものを自分の立脚地とはできないからですし、立脚地としてはならないからです。
 私たちは知らず知らずの間に、自分の都合のいいような生き方を選んでいるのですが、今一歩退いて「これでいいのか」という問いを持たなければなりませんね。永遠性に触れなければ、必ず壊れます。それは何時壊れるのかは分かりませんが、はっきりしているのは、僕はですよ、昨日の発言でも知らされるように、すでに壊れているんです。それに気づくことが無かったわけですが、それで、その事実に対して修復はできないかもしれませんが、ただひたすら頭を下げるしかありません。自分の問題なのですね。貴方の依り所が間違っているよと指摘されたのです。
 人生という大舞台で、貴方は主役です。これは間違いのないところです。しかし、主役は脇役が輝いて、主役として花が咲くわけです。その脇役を輝かせるのは主役である貴方の仕事です。
 今日は雑感になってしまいました。

日曜雑感

2020-01-05 10:28:36 | 雑感
 おはようございます。お正月休みもほとんどの方が今日までですね。土日が重なったこともあり、長い連休になりました。お疲れ様です。さあ、一年の始まりです。ある人のブログを拝見させていただきまして、感じさせられたことは、お仕事に取り組まれる姿勢が素晴らしいんです。考え方や、人と接するときの気遣い等、お若いとは思えないほどしっかりされています。これからも頑張ってほしいです。
 私たちが日常、良いこと、悪いことの判断として、他人に迷惑をかけることが悪、他人に良い影響を与えることが悪と、大雑把にいえばこういうことになるんだ労を思います。ところが、仏教では善・悪は他に対してではないのですね。簡単違説明しますと、
 『善は私たちにとって大切な行為ですが、本来、自身が涅槃に向かう道なんです。それと共に他を利する道でもあるんですね。涅槃はニルバーナといい煩悩が滅した状態を指します。煩悩は私たちを悩ませ苦しめると思いがちですが、煩悩は自身の中から湧き出てくるものなんです。自身が自身の煩悩に纏われつかれている状態を苦悩というのですね。、ですから、涅槃は私たちが本来求めている世界なのだと思います。その世界を彼岸ともいいます。彼岸を拠り所にした生活が一番望ましい在り方なのではないでしょうか。ではどのようにしたら彼岸を拠り所に出来るのでしょう。それが『善』なのです。善は浄らかな心です。善の心に付随する法(心所有法)の一番最初に「信」が挙げられています。『正信偈』に「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり」(源空章・真聖P207)と述べておいでになります。「信」の定義は龍樹菩薩の『大智度論』に「仏法の大海は信をもって能入と為し、智を態度と為す」と記されています。信は智と密接不可分の関係で捉えられています。親鸞聖人ははっきりと生死輪転の家は、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界と押さえておいでになります。これは仏法に疑いを持っていることから引き起こされる世界であるということです。そして涅槃を寂静無為の楽と、心澄浄の世界であると云われています。『歎異抄』に「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに(機の深信)、ただ念仏のみぞまことにておわします(法の深信)」と真実信心のみが「生死いづべき道」として指し示しておられます。唯識では第七末那識が我執(自我意識)として第八阿頼耶識に執着すると言われているのですが、その末那識に出世の末那といわれる働きがあるといわれています。無染汚の末那・已転依の末那ともいわれます。「審らかに無我の相を思量す」と、末那識は自分だけのことを思量するといわれているなかで、それだけではない無我という真理を認めているのです。これによって末那識が転依することが可能となるのです。そして「信」は「心をして浄ならしむを以って性と為し、不信を対治して善を楽ふを以って業と為す」といわれ、信によって心が浄くなることをいわれているのです。こころが浄くなるということは無我・無漏の智慧ですから自分のことがはっきりと見えるのです。「自己とは何ぞや」に答えてあるのですね。自覚・自らに覚めることを以って信を語らなければ、何を信ずるのかがはっきりしなくなります。信は不信というエゴイズムを払拭するものなのです。」

唯識入門

2020-01-03 17:58:46 | 唯識入門
 今晩は、箱根駅伝興奮しましたね。東海大の二連覇ならず、青学が制しました。前評判はあまり高くなかったけれども、チャレンジャーの気持ちが前面に出ていましたね。創価大も初シードおめでとう。熾烈な戦いでしたが、選手も、スタッフも、応援団も、地域のボランティアの方々も、人と人とのつながりの大切さを学びました。
 この学びが、人生を生きぬく上で大きな役割を果たしてくるのですね。このような活動の積み重ねが大輪の花を咲かせます。
 『大乗阿毘達磨経』にですね、「無始時来界」(始めなき時よりこの方界たり)と説かれています。界は「因の義、種子なり」と説明がありますが、今、私は何を成しているのかが、それが将来の結果を引き起こしてくると教えているのですね。
 仏教では、善の方向、悪の方向に分かれて説かれます。善は、心の平安が保たれ、空しく過ぎることの無い人生が約束される方向です。悪は自分を立てて、他を悪者とし、排斥し、心の平安が保てない状態をいいます。いつでも他者に怯え、怯えを隠すために他者を威嚇する方向なんですね。熟語では輪廻という言い方をします。落ち着く場所がないわけです。ここではだめだ、ここでは駄目だと地に足を付けて生きておれない状態ですね。俺が、俺がが自己を苦しめるのです。
 この自己の中にある苦の原因を知ることが人生に大きな転換点を与えるのですね。
 もうすぐ成人式ですが、親の庇護から離れて、独り立ちする出発点になるわけです。人と成る、人と成ることは、人は人とのつながりの中で生かされていることを知ることですね。
 今は、過去の結果であり、どのようにもがいても過去に戻ることはできません。しかし、過去の結果を引き受け、見つめ直すことはできます。自分はどこに向かって歩いているのかがはっきりすれば、今からの歩みが自ずとして決められてくるのではないですか。
 正月三が日も過ぎようとしています。此れからは週一の割合で投稿したいと思います。

唯識入門

2020-01-02 09:19:00 | 唯識入門
 
 皆さんこんにちは、今日はお正月の風物詩、箱根駅伝が始まっています。さて往路優勝はどこの大学が制するのでしょうか。興味津々です。
 唯識(ゆいしき)というと、何か雲を掴むような話ですが、皆さん、いろは歌をご存知ですね。「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす」。漢字を添えますと、
  色は匂えど 散りぬるを (諸行無常)
  わが世誰ぞ 常ならむ  (是生滅法)
  有為の奥山 今日越えて (生滅滅已)
  浅き夢見じ 酔いもせず (寂滅為楽)
 となります。すべてのものは、縁によって生じ、縁によって去っていく。すべてのものは移りお変わっていき、ひとつとして実体的に存在するものは無い。自分という存在を考えてみよう。自分という存在が一人で存在することは不可能である。関係的存在として、関わり合いの中で助けたり、助けられたりして、自分のいのちが保たれている。また、自分のところまで伝わってきたいのちの歴史が自分の背中を押し出してくれている。どれほどの歴史か。本当の自分に出会う旅の終着点として、私という存在が選ばれた。
 ではなぜ、自分という存在に執着するのでしょうね。それさえ理解できない私がいます。おそらく、私がという執着を離れたら、自分が無くなってしまうという恐れがあるからだと思うんですね。自分が無くなったら、すべてを失ってしまうのではないのかという怖れです。
 上のいろは歌が真理を表しているのですが、これが理解できませんと、真理に迷うことが起こってきます。どのように迷うのかですが、亦明日にします。考えてみてください。
 さあ、箱根駅伝を応援しましょう。

唯識入門

2020-01-01 09:59:49 | 唯識入門

 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
 私たちは、生まれてからこの方、私と、私を取り巻く環境と、私のものという存在が有ると信じて疑いません。論者は問いを提起します。
 「もし、私(我)と、私を取り巻く環境と、私のもの(法)という認識と存在が、ただ、心の働きだというのであれば、どうして世間や経・論・釈の聖教に我・法が存在すると説かれているのか」と。
 慈恩大師は「唯(ただ・ゆい)は境(対象・相分・ノエマ)の有(実体的存在)を遮す(否定する)。有に執(執着)するものはその真(本当の在り方)を喪う(そこなう。失う)。」と解釈されています。
 世親菩薩は「仮の存在・仮の認識に基づいて。我・法があると説く」と答えられます。
 仮の存在、仮の認識という、「仮」が大事な意味をもってきます。すべての存在は一瞬たりともとどまることなく、例えばナイアガラの爆布のように、常に新しいしぶきを立てているのであって、流れを固定的に、実体的に執すれば、尽日を見失うと教えているのですね。でもね、真実に触れる機縁は、固定的、実体的にすべてものは存在するとする認識から始まるのです。
 お正月三が日は、神社・仏閣は初詣でにぎわいますね。貴方はお参りに行かれましたか。お賽銭を手向けられて、その時の心の情景を思い浮かべてください。私は、私の幸福をお願いしているのですが、他者も亦自身の幸福を願っておられるのですね。そうすれば他者は非常に身近な存在に感じます。それが私という仮の存在を通して、つながりを生き、つながりに生かされている存在へと目が開かれていくのではないでしょうか。
 また。