おはようございます。
唯識を学ぶ上で、どうしても避けてはならないところがあります。例えば、本識(阿頼耶識)と転識(前七識)との関係、或いは、表層の前六識と深層の二識との関係、表層でも、第六意識と前五識との関係ですね。
そして、何が一番大切なことを教えているのかといいますと、第八阿頼耶識の行相・所縁です。行相は行相見分といわれていますので、阿頼耶識の積極的な動きであり、所縁は対象。阿頼耶識は何を対象としているのか、ここははっきりとしておかなくてはならないところです。
少しづつ説明していかなければなりませんが、その前提となる種子(しゅうじ)。法律の場合は(種子)しゅし、ですが、唯識ではすべては阿頼耶識の中から生み出されてくる因として(種子)しゅうじを考えています。
定義は「本識の中にして親しく自果を生ずる功能(くうのう)差別(しゃべつ)なり。」と。
これは阿頼耶識の自相と関係してくるのですが、すべての経験(遺伝子を含む)を種子(因)として阿頼耶識は無分別に摂持(しょうじ)、すべてを収めとって維持しているのです。そこから果相が生まれてきますから、阿頼耶識は因相と果相を摂持していることになります。自らの因(種子)が自らの果(現在)を引いてくることになります。
阿頼耶識は、「諸法の種子を執持(しっち)し、失わないので一切種と名づける。」と。執持を維持するという意味になります。、定義としては「摂して自体と為して、持して、不壊ならしむ」といわれています。
阿頼耶識の中に蓄えられた種子、一切の経験の果を因として蓄えられた諸法の種子を失わないで持ち続けていく、過去・現在・未来に連続していく過程で、因が果となり、果が因となって現行していく、この面を捉えて因相、一切種子識と名づけられています。
自相・果相・因相という三つの側面は、「今」の自己の存在の在り方を決定してくるという大事なことを教えています。
種子生現行(しゅうじしょうげんぎょう)・現行熏種子(げんぎょうくんじゅうし)、種子が因、現行が果、現行の果が因となり、新たな種子を熏習(くんじゅう)するという構図です。現行の果から、どのような種子を植え付けるのかが問題になってくるのでしょうね。これが因相を説く課題となります。種子を熏習するとはどういうことなのか。これから学んでいこうと思います。
一切ですからね、捨てられるものはないもないのです。すべてが経験されたものとして蓄積され、熏習されます。因は多種多様です。果はすべてを引きうけて現在している。
種子は、熏習と深い関係をもった概念ですね、熏種子という。善悪業果という過去を背景に持って、今新たに種子を熏習して、未来を切り拓いていく。未来をどう開き規定していくのかは、今どのような種子を植え付けていくのか、そういう無限の可能性をもったものが一切種として現されているのではないかと思います。
唯識を学ぶ上で、どうしても避けてはならないところがあります。例えば、本識(阿頼耶識)と転識(前七識)との関係、或いは、表層の前六識と深層の二識との関係、表層でも、第六意識と前五識との関係ですね。
そして、何が一番大切なことを教えているのかといいますと、第八阿頼耶識の行相・所縁です。行相は行相見分といわれていますので、阿頼耶識の積極的な動きであり、所縁は対象。阿頼耶識は何を対象としているのか、ここははっきりとしておかなくてはならないところです。
少しづつ説明していかなければなりませんが、その前提となる種子(しゅうじ)。法律の場合は(種子)しゅし、ですが、唯識ではすべては阿頼耶識の中から生み出されてくる因として(種子)しゅうじを考えています。
定義は「本識の中にして親しく自果を生ずる功能(くうのう)差別(しゃべつ)なり。」と。
これは阿頼耶識の自相と関係してくるのですが、すべての経験(遺伝子を含む)を種子(因)として阿頼耶識は無分別に摂持(しょうじ)、すべてを収めとって維持しているのです。そこから果相が生まれてきますから、阿頼耶識は因相と果相を摂持していることになります。自らの因(種子)が自らの果(現在)を引いてくることになります。
阿頼耶識は、「諸法の種子を執持(しっち)し、失わないので一切種と名づける。」と。執持を維持するという意味になります。、定義としては「摂して自体と為して、持して、不壊ならしむ」といわれています。
阿頼耶識の中に蓄えられた種子、一切の経験の果を因として蓄えられた諸法の種子を失わないで持ち続けていく、過去・現在・未来に連続していく過程で、因が果となり、果が因となって現行していく、この面を捉えて因相、一切種子識と名づけられています。
自相・果相・因相という三つの側面は、「今」の自己の存在の在り方を決定してくるという大事なことを教えています。
種子生現行(しゅうじしょうげんぎょう)・現行熏種子(げんぎょうくんじゅうし)、種子が因、現行が果、現行の果が因となり、新たな種子を熏習(くんじゅう)するという構図です。現行の果から、どのような種子を植え付けるのかが問題になってくるのでしょうね。これが因相を説く課題となります。種子を熏習するとはどういうことなのか。これから学んでいこうと思います。
一切ですからね、捨てられるものはないもないのです。すべてが経験されたものとして蓄積され、熏習されます。因は多種多様です。果はすべてを引きうけて現在している。
種子は、熏習と深い関係をもった概念ですね、熏種子という。善悪業果という過去を背景に持って、今新たに種子を熏習して、未来を切り拓いていく。未来をどう開き規定していくのかは、今どのような種子を植え付けていくのか、そういう無限の可能性をもったものが一切種として現されているのではないかと思います。