唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (118) 開導依 その(23) 安慧等の説 (18)

2011-06-27 23:26:07 | 心の構造について

 余談になりますが、昨日、父の四十九日のお勤めをさせていただきました。通常世間でいう満中陰の法事です。中陰が満ちて無事浄土の門が開くまでの期間を、中陰、中有ともいいますね。死有と生有の間を中陰と、その期間が最大で四十九日だそうです。そして浄土の門が開いてそこの住人になるわけですね。その中陰の期間ですが、普段はめったに顔を合わせない親類の人たちや従兄弟連中ですね。父の死を縁として毎週日曜日に顔を遇わせて仏法に遇う縁をいただくことができました。しかし、せっかく仏法に遇う縁をいただいているにもかかわらず、私自身、仏法から遠い存在であると痛感させられるわけです。それは、世間に振り回されていることに妥協して自己主張をしている自分がはっきりとするからですね。

        -   ・   -

 「平等性智と相応する末那識」といわれているわけですが、安慧等の論旨はこの時には第七識は平等性智によって断じられ消滅しているといわれ、末那識の体は無し、と。「六識に即すると雖も末那を転じて得たるを以て名づけて第七と為す。」と。そして「我無我に由って平・不平有り、故に七の我亡する時平等方に立つ。」と。安慧は染汚の末那識を我と名づけ、我、無我に由って平等と不平等が生じると考えるので我が消滅することにより平等が成り立つと考えます。「染汚の末那を転去するに由る。此の智を方に得る故に、所転の第七に従って名と為す。」と。染汚の末那識が消滅したところに第六識の上の無漏智が生起していることになるので第七識が消滅しても、この無漏智を平等性智と名づける、と述べているのです。すなわち安慧の論旨は平等性智とはあくまでの第六識相応の智であって、第七識相応の智ではないことになります。しかし、第六識中のこの無漏智が自他を平等に観じるということに於て「平等性智と相応する末那識」と説いています。ここにはいろいろな問題を孕んでいますが略します。


『唯信鈔文意』に聞く (39) 金剛の信心

2011-06-26 14:07:53 | 信心について

        『唯信鈔文意』に聞く (39)

                蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

  「この信心をうれば、等正覚にいたりて、補処の弥勒におなじくて、無上覚をなるべしといえり。」

 「等正覚」ともうしますのは、この場合は正定聚のことでございます。正定聚を等正覚ともうされる。もう仏になるということに一念もうたがうことがないという立場ですから、妙覚、仏の位を妙覚というなら、妙覚の前の等正覚です。等正覚ということには、仏のさとり、成等正覚という無上覚と同じ意味で等正覚という言葉が使われる場合がありますけれども、ここでは正定聚と同じ意味で用いられるのであります。「補処の弥勒に同じくて」と。釈尊のあとを必ず補なわれるという意味で、弥勒菩薩のことが伝わっておるわけでございますから、それで弥勒菩薩を出されて、必ず無上覚に成るのだといわれるのであります。ですから次に、

  「すなわち正定聚のくらいにさだまるなり。」

ということなのだ、といわれております。

  「このゆえに信心やぶれず、かたぶかず、みだれむこと、金剛のごとくなり、」

 「金剛のごとく」というのは、弥勒菩薩の等覚の金剛心ともうします。弥勒菩薩のさとりのことを金剛心というのでありますが、いまは真実信心は、いかなるさわりにも、いかなるさまたげにもやぶれず、また、かたぶきもしない、また、みだれもしないということを「金剛のごとく」といわれるのであります。

  「しかれば、金剛の信心というなり。」

 「金剛の信心」という言葉は、もとは善導に「金剛心」という言葉がありまして、『玄義分』のはじめに「正受金剛心」とあるんです。「まさしく金剛心を受け」と。「正受金剛心」という言葉があります。

  「証智未証智 妙覚及等覚 正受金剛心 相応一念後 果徳涅槃者」

とあります。それと『三心釈』の「回向発願心釈」です。

  「この心深信せること、金剛のごとくなるに由りて、」

とあります。「作得生想」とありまして、その「得生の想を作せ」という言葉について、「この心深信せること、金剛のごとく」とあります。ですから、「やぶれず、かたぶらず、みだれぬ」ということには、いわゆる深信ですね。深信という、深く信ずるということです。いかなる人がやぶっても、それにやぶられない。それからまた『二河白道』譬喩などのありますように、群賊悪獣によってもやぶれず、みだれないという意味です。そういうものが背景となっております。

  「『大経』には、『願生彼国 即得往生 住不退転』とのたまえり。」

 これは、本願成就の文をお引きになりまして、

  「『願生彼国』は、かのくににうまれんとねがえとなり。『即得往生』は、信心をうればすなわち往生すという。すなわち往生すというは、不退転に住するをいう。不退転に住すというは、すなわち正定聚のくらいにさだまるなり。」

 これは証文として出されるのでございます。

  「成等正覚ともいえり。」

 これは異訳でございます。「成等正覚」という言葉が『如来会』にありますので、それを指されるのであります。

  「これを『即得往生』というなり。『即』は、すなわちという。すなわちというは、ときをへず、日をへだてぬをいうなり。」

  「ときをへず、日をへだてぬ」ということは、本願の名号を引いて、そして「本願を信ずる」そのときということです。その「ときをへず」、また、それから「日をへだてぬ」ということをいうのだと。「即」というところに一念ということ、「乃至一念」ということがあるのを略されております。

  「おおよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八の大願の中に、第十七の願に、十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となえられんとちかいたまえる、一乗大海の誓願を成就したまえるによりてなり。」

 言葉の説明は別にもうしあげるまでもありませんが、特に「一乗大海の誓願」ということですね、これはまあ一応説明の必要な言葉と存じます。」

  「『阿弥陀経』の証誠護念のありさまにて、あきらかなり。証誠護念の御こころは、『大経』にもあらわれたり。すでに称名の本願は、選択の正因たること、悲願にあらわれたり。この文のこころは、おもうほどはもうさず。これにておしはからせたまうべし。」

 「この文のこころは」ともうしますのは、十七願のことでございます。

 一段おわりまして、それからこのあとの「この文は」というのは、偈文であります。『法事讃』の偈を指されて、「この偈文は」という意味です。

  「この文は、後善導法照禅師ともうす聖人の御釈なり。この和尚をば法道和尚と、慈覚大師はのたまえり。」

 法道和尚と慈覚大師はお伝えになったというのであります。別人らしいのでありますけれども、そういうふうに伝えられとことを述べられるので、歴史的に法道和尚はどうのこうのといろいろありますけれども、そういうふうに伝え「られたわけであります。

  「また『伝』には、廬山の弥陀和尚とももうす。浄業和尚とももうす。唐朝の光明寺の善導和尚の化身なり、このゆえに後善導ともうすなり。」

 伝説は、これは確定的な史料ではありませんので、ただこういうふうにいい伝え、いい伝えして、法照禅師という方はいろいろに伝えられておるようであります。このいい伝えの方を大切にすべきでありました、歴史学的にこうであったということの方は参考にすべきだと思います。伝えられてきたものの方が生きておるのでありました、調べてこうだったというのは、いわゆるほじくってですね、もうこういう偈文の意味などとは無関係に人間というものが、どうだこうだということでありますから、いわゆる全く物質的立場からの見方になりますので、注意を要するのでございます。物質的にどうであったというてもそういうものは何の力もありません。それよりも伝説的に伝えられたということが大切に受け取らねばならん問題を含んでおります。

                  第四講 完了。 


第二能変 所依門 (117) 開導依 その(22) 安慧等の説 (17)

2011-06-25 22:40:42 | 心の構造について

 その三は、第六識を以て第七識が開導依とすべしという難である。難陀等は先に第七識及び第八識は各自をもって縁とすると説いているからである。

 (各自)自類を開導依とし他を開導依とすることはないと述べていました。要するに第七識は前念の自類を開導依とし他を開導依とすることはないということを説いているのですが、安慧等は難陀等の説を論破し自説を立てています。第七識の開導依は前念の自識と前念の第六識であるというのです。これが安慧等の説になります。

 「平等性智と相応する末那の初に起こる時には、必ず第六意識に由る、亦彼を用っても開導依と為すべし。」(『論』第四・二十三左)

 (平等性智と相応する末那識が初めて生起する時には必ず第六意識に由っている。故に第六意識も亦第七識の開導依とすべきである。)

 「述して曰く、即ち末那という名は無漏にも通ずということを顕す。(安慧の意は)第六識に即すと雖も末那を転じて得たるを以て名づけて第七と為す。実には第七には非ず。浄に通ぜざるが故に。爾らずんば経に違す。初地の初心(入見道)の第七識と倶なる平等性智は先念の心の世第一法の二空観の有漏心に由って引生せり。故に七は第六を以ても依と為すべし。唯此の時に於てのみ要ず第六の引に由って方に生ずるが故に。即ち準ずるに余の時に起こる平等智も義いい亦爾るべし。」(『述記』第五本・九右)

 そして『演秘』(第四末・四右)には、次のように述べられています。

 「平等智の体は是れ第六と雖も、彼の染汚の末那を転去するに由る。此の智を方に得る故に。所転の第七に従って名と為す。

 問、何ぞ為して七無きを以て智を平等と名づくるや。

 答、我無我に由って平不平有り。故に七の我亡するとき平等方に立つ。」と。

 安慧の言う平等性智は第六識の上に立てられる智であって、世第一法の有漏の二空観(生空・法空)に入り後念の平等性智を第六識に生起させるという。ただ、安慧は、無漏の第七識を認めていないので、平等性智とは第六識の上に立てられた智であるわけです。要するに第六識相応の智であるというわけですが、ここで問いが出されてくる背景があります。この問題は次回に譲ります。


第二能変 所依門 (116) 開導依 その(21) 安慧等の説 (16)

2011-06-24 21:51:21 | 心の構造について

 第二は前師(難陀等)の説を論難する。

 「若し彼いい前の自類を用って開導すといはば、五識の自類をも何ぞ然りということを許さざりぬる。此既に然らず、彼云何ぞ爾らぬ。」(『論』第四・二十三左)

 「彼の滅定等をば『対法』第五に先に滅せし心を以て無間縁と為す。中間に都て自心の隔ること無しといえるが故に。唯自類を以て依と為す。他の七・八を仮らずといはば、五識の体も断じぬと雖も一の自心隔ること無きが故に、応に彼の意の如く意を以て縁と為さざるべし。其の五識は此れ既に然ぞと許さず、先の意識を以てのみ無間縁として自類の五識を以て縁と為さず。彼の滅定等の第六識は何が故ぞ即ち爾らむ。

 是れ即ち意識は五識を仮らず、亦是の六は七・八を以ても縁とすというて、五識は悲を用て依とすというに例同しつ。」(『述記』第五本・八左)

 (もし滅尽定に於いて第六識は先に滅する前の第六識(自類)が開導するというのであれば、五識の自類(五識)もどうしてそうであることを認めないのか。(五識は先に滅する前の五識(自類)が後の自類を開導すること)、此れ(五識)は既にそうではない。従って彼(第六識)もどうしてそうであろうか。第六識も先に滅する前の自類に依って開導されることはないはずである。しかし、難陀等の主張は第六識は先に滅する前の第六識を後の第六識の開導依としている。これは開導依とはならないはずである。)

 難陀等の主張を論破する主旨は滅尽定で滅する前の第六識が出定時に生起する第六識の開導依となるというのであれば、五識に関しても同様に滅する前の五識を後の五識の開導依とすべきである、しかし難陀等はそのようには主張していない、開導依とはならないと主張しているのは矛盾である。

 安慧等は滅尽定において滅する第六識は出定後の開導依になることはなく、滅尽定においても滅することのない第七識・第八識が出定時に生起する第六識の開導になるという自説を述べようとしています。


第二能変 所依門 (115) 開導依 その(20) 安慧等の説 (15)

2011-06-22 21:39:44 | 心の構造について

 第二に第六の意を難じて七・八二識を以て依と為ら令む。

 後は、第六識は第七識と第八識を開導依と為すことを説く。初は第六識は第七識と第八識を開導依と為すことを説き、後に難陀等の説を論破する。初は、

 「無心の睡眠と悶絶との等き位には、意識断じ已んぬ、後に復起こる時には、蔵識と末那との、既に恒に相続せるをもって、亦彼が与に開導依と為る。」(『論』第四・二十三右)

 (無心の睡眠と悶絶等の位においては意識は断絶してします。後に復起こる時には、すでに第八識と第七識とが恒に相続しているので、これらが亦新たに生起してくる第六識の開導依となる。)

 「無心睡眠と悶絶との等き位」とは五位無心のことであり、「等」は滅尽定と無想定と無想天を指します。これは五位無心で第六識が断絶した後に再び第六識が起こってくるのは、五位無心の状態であっても活動しつづけている第七識(末那識)と第八識(蔵識)が第六識の開導依となるからであるという。

 「五位の無心には第六(識)断じぬ。此の滅定等に第七無きこと有り。常徒の説の如し。此れ等の五の位には唯七・八二識のみ有って相続せり。後に無心上より出る時には第七・八識を以て、応に第六意識が與に依と為るべし。」(『述記』第五本・八右)

 (五位無心の項を参照)で述べていますが、安慧等は「阿羅漢と滅定と出世道の三位には末那無し」と説かれているは、三位に於いては第七識の識体そのものが存在しないと理解しています。しかし護法の正義においては三位では第七識の染汚性がなくなると意味であって第七識の識体は存在していると理解しています。護法の正義が前提として、この科段は第七識と第八識が第六識の開導依となるという主張をしています。しかしここに問題がでてきます。それは安慧等は三位においては第七識そのものが存在しないといっているからです。これを伝統的な法相唯識の理解は、安慧自身が述べているものではなく、後の安慧学派の人々の説く、滅定においても第七識は存在するという立場を採用しています。

 第六識は前念の第六識の他に前念の第七識と前念の第八識とが開導依となるという。


第二能変 所依門 (114) 開導依 その(19) 安慧等の説 (14)

2011-06-21 23:45:12 | 心の構造について

 第二に第六意識は前の五識を以ても七と八を以て開導依と為るに非ずというを破す。

 これが二つに分けられ説明される。

 初は、第六識は五識を開導依とするということを論破する。(難陀等の第六識の開導依説を論破す。)

 「五識の起こる時には必ず意識有って、能く後念の意識を引いて起ら令む、何ぞ五識を仮って開導依と為るや。」(『論』第四・二十三右)

 (五識の起こる時には必ず意識が存在してよく後念の意識を引いて生起させるのである。どうして五識を借りて開導依とするのか。)

 この科段より安慧等の主張が述べられます。まず初めに難陀等の第六識の開導依説を論破し、自らの第六識の開導依説を説きます。その要旨は五識は第六識の開導依とはならないことを主張します。

 五識と第六識が同時に活動するということでは安慧等も難陀等も承認していることなのですが、安慧等は難陀等と異なり五識は第六識の開導依とはならないと主張します。その理由は、「勢力の勝れた第六識が勢力の劣った五識を借りることはありえない」、というものです。

 「謂わく、『瑜伽』の第三に五識身は意識に随って転ずと説く。及び七十六と『集量論』等には、五識と倶なる時には必ず意識有りと云えり。即ち此の意識いい第二の尋求に意識を引いて生ぜしむ。即ち前念の自類の意識を以て無間縁と為す。何ぞ五識を仮らん。

 若し前の一念には独り五識のみを起こして、後に方に意識の尋求心生ずるならば、所説の如く五を意が縁と為すべし。既にくの如くならず、故に知んぬ意識は五識を以て開導依とは為さず。五識は自ら勝れたる勢力無きが故に。第一に意は五を用いても依となすということを破しつ。」(『述記』第五本・七左)


第二能変 所依門 (113) 開導依 その(18) 安慧等の説 (13)

2011-06-20 21:02:45 | 心の構造について

 三は理を以て主張を成立させる。(下理成)

 「若し五識の前後には、定んで唯意識のみ有りといはば、彼の論に、若し此の一の識を彼の六識の等無間縁と為すと言うべし、或いは彼に、若し此の六識を彼の一の識の等無間縁と為すと言うべし。」(『論』第四・二十三右)

 (若し、難陀等の主張するように、五識の前後には必ず第六識のみが存在するというのであれば、『瑜伽論』には次のように説かれているはずである。「この一つの識を彼の六識の等無間縁とする」と。或いは、「この六識を彼の一つの識の等無間縁とする」と。)

 難陀等の主張は五識の前後には必ず第六識のみが存在するから、第六識が五識の開導依となると。これに対して安慧等は反論するわけです。そうではなく、非勝の境に遇う位ではそうであるが、それを翻じた位では五識が多念相続するために、後念の五識の開導依は前念の五識となると。このことを理をも以て自らの主張を成立させています。

 「若し五識は間断するが故に前後に定んで唯意識のみ有り。彼の第三に眼識の卒爾心の後に定んで意識の尋求有り。此れより後に或るときには是れの耳等の識生ずと説けるが故に眼識の後に耳識生ずとは許すに非ず。此れが中には眼識の後には唯意識のみありと言うて、五識生ずと言はざるを以ての故にといはば、即ち五十二に若し此の一の意識を彼の六識が縁と所す、乃至此の六識を彼の一の意識が縁と為すと云うべし。前後に定んで唯意識のみ有りというを以ての故に。」(『述記』第五本・七右)

 もし、難陀等の主張が正しければ、『瑜伽論』には「この六識をかの六識の等無間縁とする」とは説かれていないはずである。もし説かれているとすれば、「この一つの識を彼の六識の等無間縁とする」と。或いは、「この六識を彼の一つの識の等無間縁とする。」と述べられているであろう、と。このように述べているのは、「第一に五識身相続に非らずという義の、自他の五識は等無間縁なしというを破す」ためである。

 「既に是の如くならず、故に知る、五識は相続する義有ることを。」(『論』第四・二十三右)

 (すでに難陀等が主張するようなものではなく、上来述べてきたように知られるべきである。五識は相続するということを。)

 安慧等は前念の六識が五識の開導依となるということを説いているのです。


『唯信鈔文意』に聞く (38) 普賢の徳に帰す 

2011-06-19 17:39:26 | 信心について

        『唯信鈔文意』に聞く (38

                    蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より 

   「無上覚にいたるとももうすなり。」

 無上覚、この上なしのさとりというのは、通りいっぺんなのですけれども、無上に人を利益するさとりです。「天上天下唯我独尊」というて、一番てっぺんまで行ったようなことを思うのですけれども、この上なく衆生を済度するところのさとり、衆生を教化利益するさとりです。常楽も、衆生教化の常楽であります。たのしむ世界です。そして無上に利益する苦悩の衆生がおらなくなったら尽きてしまうのです。さとりも尽きてしまうのです。衆生は無限である。衆生が無限であるが故に、さとりもまた無限であるというのです。そういう意味で「無上覚にいたる」と。一面においては、この上なし、一面においては尽きることなし。そういう意味で無上覚ともいうのであります。ですから、

  「このさとりをうれば、すなわち大慈大悲きわまりて、生死海にかえりいりて」

 生死海は迷いの衆生の尽きない世界です。そこへかえり入る、と。先には「来」が「かえる」という意味であったのですが、こんどは、「かえりいりて」と。「かえりいりて」というのは、こんどは「きたる」んでしょう。こんどは生死海に「きたる」わけです。「かえりいりて」は「生死海にきたって」ということになります。

  「よろずの有情をたすくるを、普賢の徳に帰せしむというなり。」

 このままが法性の常楽の中から出てくるという。法性の常楽そのものが出てくる。出てくるままが何も特別に出てくるんじゃないんです。法性常楽のままなんです。出てくるままが法性常楽なんであります。

 「普賢の徳」は文字通り、あらゆる衆生に応じて教化し、利益を与えることでございます。ですから、通りいっぺんの一律の教えじゃないわけです。釈迦は先ほど申しましたように、縁起を説かれた、八正道を説かれたんだと、一律のですね、一律の教えを説かれたようにみな思うております。一律のように考えてしまいます。しかし、普賢の徳に帰して、衆生を教化利益せられたということになれば、一律じゃないわけでしょう。あらゆる変化に応じ、あらゆる衆生に応じ、あらゆるところに応じて教化し、利益せられるという、それが「普賢の徳」でございます。

  「この利益におもむくを、『来』という。」

と。これはもとへ戻ったわけです。先程「来」とありましたが、はじめは「法性のみやこにかえる」のを「来」という。今度は衆生利益におもむくを「来」という、と。

  「これを法性のみやこへかえるというなり。」

と。おもむくままが「来」で、かえるわけです。「法性のみやこへかえる」という意味になるわけです。なぜかというたら、「来」というのは、衆生を法性のみやこへかえらしめることで、衆生をかえらしめるというときにはかえらしめる、と。かえらしめられる衆生と、しめる仏と別々におるわけじゃありません。一つでありますから、法性のみやこへかえるということと、くるということとが別ものでない、一つであるという意味から出るのであります。これを、「法性のみやこへかえるというなり。」とおっしゃるのであります。

  「『迎』というは、むかえたまうという、まつというこころなり。選択本願の尊号・無上智慧の信心をききて、一念もうたがうこころなければ、真実信心という。」

 むかえるということです。「むかえたまうという、まつというこころ」だと。これは「選択不思議の本願の尊号」です。「選択本願の尊号」というところが、別の版では「選択不思議の本願」とあります。「選択」は本願の尊号を一切衆生の根機にあうように、特に一切衆生の根機のうちで標準は下根の凡夫、悪人です。愚かな、無知な、罪の深いものを標準にして一切衆生を平等にさとりにいたらしめるというのを「不思議」というのでございます。その悪人が無上のさとりを得るということを「不思議」というのでございます。

 その「本願の尊号」、それから「無上智慧の信心をききて」ですね、「無上智慧」は「選択不思議の本願」を「無上智慧」というのでございます。「無上智慧」という、「無上智慧」によって選択せられたわけでありますから、選択せられたものがまた「無上智慧」であります。無上の智慧の信心と選択不思議の本願の尊号というものとは一つでありますので、「無上智慧の信心をききて」とおっしゃるわけです。

  「一念もうたがうこころなければ、真実信心という。」

 一念もうたがうこころがないからです。「なければ」というのは、「なければこそ」という意味でみてよいかと存じます。しかし、条件的にみてもいいような気もいたします。「一念もうたがうこころがなかったならば、真実信心という。」という両面がある。しかし、本質はうたがうこころがなければこそというのが本質なのです。真実信心というのだと。「なかったならば」では、あるわけですからですね、真実信心といわれませんが、なければこそ「真実信心」というと。

                     (つづく)


第二能変 所依門 (112) 開導依 その(17) 安慧等の説 (12)

2011-06-18 23:49:34 | 心の構造について

 非勝の境に遇う位を翻じた位における五識の相続についての証拠を挙げる。

 「故に瑜伽に言く、若し此の六識を彼の六識の等無間縁と為す。即ち此れを施設して名づけて意根と為すという。」(『論』第四・二十三右)

 (故に『瑜伽論』巻第五十二(大正30・584b~c)に、次のように説かれている。「この六識(前念の六識)は彼の六識(後念の六識)の等無間縁とする。すなわちこれを施設して意根と名づける」と。)

 この科段は、安慧等が主張する説の証拠を挙げて説明します。その証拠が『瑜伽論』の一文になります。前念の六識を後念の六識の等無間縁とするならば、その前念の六識を意根と為すという意味になります。


第二能変 所依門 (111) 開導依 その(16) 安慧等の説 (11)

2011-06-16 22:56:36 | 心の構造について

 昨日からのつづきになります。

勝境に於いては身心を逼奪して、暫くもやむことがない、と。それは恰も熱地獄と戯忘天のような状況である、と。未自在位においてですね。苦の代表として熱地獄を挙げています。「火増盛なるが故に」と。火が増盛であり身心を逼奪し続ける世界であり苦の「増盛の境」です。また、楽の代表として戯忘天を挙げて説明しています。「憤恚天を等ず」と。これは六欲天の上の四天を指します。夜摩天・兜率天・楽変化点・他化自在天です。等は等取(とうしゅ)する。憤恚天を代表させています。「総じていはば即ち是れは上の四の天なり。別処の所は無し。但楽と憎との者なり。

 六欲天 - 欲界に属する六重の天。(1)四天王衆天(四天王は増上天・広目天・持国天・毘沙門天)・(2)三十三天(八のヴアス神と二のアシュヴイン神と十一のルドラ神と十二のアーデイテイア神)・(3)夜摩天・(4)兜率天(覩史多天)・(5)楽変化化天・(6)他化自在天

 戯忘天等は楽が増盛で身心を逼奪し続ける世界であり楽の「増盛の境」です。

 私たちが生計を営んでいる世界は「楽と苦」が増盛の世界ですね。この世界は身心をして逼奪して非常に強い影響を与えているわけです。その増盛の境が一定期間相続していると、その間その増盛の境を認識している五識も増盛の境の相続に伴って同じく必ず相続するというのが安慧等の主張です。

 戯妄と憤恚について『演秘』(第四末・三右)を読んで見ます。

 「戯妄天等とは、瑜伽を按ずるに、謂わく欲界の諸天有り、遊戯妄天と名づく。彼の諸の天衆、或る時には種々の戯楽に沈著し、久しく相続して住す。久住に由るがゆえに正念を忘失す。失念に由るが故に彼の天より没す。或は復天有り、名づけて意憤と曰う。彼の諸の天衆、有る時に展転して眼を角(そばだ)て相い視る。相い視るに由るが故に意憤転た増す。意憤増すが故に彼の処よりて没すと云えり。・・・」

 「久住に由るがゆえに正念を忘失す。」

 「眼を角(そばだ)て相い視る。相い視るに由るが故に意憤転た増す。」

 「如熱地獄戯忘天等」という喩から「ただ戯と恚というは是れ自害なるに」といわれている世界が見えてきます。