唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (107) 第十一 有漏縁無漏縁分別門 (2)

2015-05-18 20:37:33 | 第三能変 諸門分別 有漏無漏分別門
 

有漏縁無漏縁分別門 は、煩悩が無漏法を縁ずる場合についての所論になります。煩悩が有漏法を縁ずる場合については、前科段における縁有事無事門においての所論になります。
 煩悩は有漏ですね。煩悩の意味については、以前にも述べましたが、「煩は是れ擾の義(擾とは煩わしい、乱れるという意)、悩とは是れ乱の義、有情を擾乱するが故に煩悩と名づく。」と定義されています。
 「彼の親所縁」は、煩悩の親所縁ですが、親所縁は影像相分であり、有漏であるが、この有漏の煩悩が無漏(本質相分)を認識する場合について説明されているわけです。すべての煩悩が本質相分である無漏法を認識するわけではなく、無漏を認識する煩悩は、「疑と邪見と無明(癡)、及び此れに相応する瞋と慢等の法」であるとされます。
 ここには深い意味が隠されているように思います。親所縁を認識する見分(能縁)は有漏である煩悩の相分(親所縁)を認識しているわけですから有漏ですね。しかしこの構造が成立する背景には所杖の本質相分は無漏であるとうことなんですね。ですから、「疑と邪見と無明(癡)、及び此れに相応する瞋と慢等の法」は、その所依が無漏という本質相分であること、本質相分がないと煩悩も起こらない、煩悩がないと、いいように思われるかもしれませんが、受の心所が抜けますね。感情が起らないんです。識は情識ともいわれます。つまり感情をもっているのが識なんです。
 第八識の所変、能変は識体、識体転じて所変である、能縁の見分と所縁の相分に似て現じているわけです。この第八識の所変を本質というわけですね。そして第八識と第六識の間に介在するのが第七識で、第八識の本質相分を認識する能縁の見分は「恒転如暴流」で一類相続なんですが、これが常・一・主・宰の我そのものであると錯誤して第七識の相分上に影像として浮かべ、浮かべた影像を認識して我執を起こしているのが、私の姿なんです。いうなれば、体に迷っている、体を錯誤している、第八識の所変を本質として第七識の所変に影像を投して、我という色付けをしてあらゆる認識を起こしているということになりましょうか。
 疑は疑心という、自分を疑っているわけでしょう、邪見は因果の法則を無視してます、道理の無視ですね。根本は無明なんですが、無明は本来、明かりが指し込まない状況をいうんですが、明かりが無いということで、明かりを想定しているんでsね。明かりを想定していなかったら無明とはいえないんでしょう。暗もそうです。背景に明があって暗といえるわけです。
 こういうところも、有漏無漏縁分別門の大事なところだと思いますね。親所縁からは有漏縁であり、疎所縁からは無漏縁であって、私が私として独り歩きが出来るのは、疎所縁の存在なんですね。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (106) 第十一 有漏縁無漏縁分別門 (1)

2015-05-16 23:35:38 | 第三能変 諸門分別 有漏無漏分別門
  善と不善との、益し損する義の中に於いて、記別(きべつー来世についての仏の予言・一つ一つ分別して予言するので「別」の字を加える。)す可からざるを、故(かれ)無記と名づく。」(『論』)

 善と不善というように、順益したり、あるいは違損したりすることの意味の中に於いて、順益や違損とは記別できないものを無記という。善でもなく、悪でもない性格を無記というのです。

 昨日の最後のところで「問題あり」と述べました。その問題とは「人・天の楽果」とありました。人として生を受けたという事は今一度涅槃に向かう人生を送りなさいと云う機会を与えられたという事なのですね。それと人・天の界は苦界なのです。「今一度」というのはその意味になります。人として生を受けたということは悪業の結果なのです。地獄・餓鬼・畜生の在り方を三悪趣といい、人・天を加えて五悪趣といいます。修羅をくわえて六道といわれますね。人として生を受けたという事は楽果でもあり、また悪趣の苦果でもあるわけです。ここに願いが隠されているのです。悪趣の果報をニ度と受ける事のない生き方が、人間として求められていることになるのです。それが善の在り方になります。「得あり・証あり・涅槃に由ってニ世の益を獲」る在り方が生まれると同時に私たちに求められているのです。ここをはき違えてしまいますと造悪無碍という異端が生まれてくるのですね。いわゆる「本願ぼこり」です。

 「弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ。この条、本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざるなり」(『歎異抄』十三条 真聖p633)

 此処に見え隠れすることは自己中心の傲慢性です。「本願を信じて助けられるのだから何をしてもかまわない」という詭弁であり、傲慢性です。唯識によって教えられることは私の深層の阿頼耶識から自己中心の末那識が生み出され、その末那識が阿頼耶識を対象として自己を汚していくという循環性が教えられているのですね。「依彼転縁彼」(彼に依って転じて彼を縁ず)と端的に述べられていますが、私の中に潜んでいるエゴイズムは外から入ってきたのではなく内的な、自己の中から出てくるのだと教えているわけです。ここをきっちりと押さえて聞法する姿勢が大切であると思います。

 
 煩悩が無漏を縁ずる場合を述べる
 煩悩が無漏を縁ずる場合は、本質相分及び影像相分という二境を縁じて説明されます。
「彼の親所縁は皆有漏なりと雖も、而も所杖(ショジョウ)の質(ゼツ)は亦無漏にも通ず、有漏無漏を縁ずる煩悩と名づく。」(『論』第六・二十二左)
・ 所杖は、影像相分の依り所で、本質相分を指す。
 煩悩の親所縁(影像相分)は、すべて有漏であるとはいえ、有漏の本質相分である所杖は、また無漏にも通ずる。その為に有漏無漏を縁ずる煩悩と名づけるのである。
 「疑と邪見と無明と及び此に相応する瞋と慢等の法の如き、無漏を縁ずるものは、親所縁は皆有漏なrと雖も、而も所杖の本質は亦無漏にも通ず。ただ影像の相のみ是れ有漏なるが故に。今、此こには但だ本影の二境を取って漏無漏を縁ずる煩悩と名く。有無事に准じて、但だ本質のみを取るに非ず。有無事縁と別なり。例とすべからず。」(『述記』第六末・六十六左)
 煩悩は有漏なんですが、煩悩の背後には、本質相分が動いていると教えてているんですね。其の本質相分は無漏である、ということです。無為無漏という真如法性が煩悩の背景に働いていて、有漏を成り立たせている、此処に大悲心がはたらいているということなのでしょうね。
 『述記』の所論から、無漏を縁ずる煩悩は、疑と邪見と無明と、これらと相応する瞋と疑と慢等であると述べています。そして、前科段の縁有事無事門とは異なるとしています。
 もう少し補足します。時間がきましたので、正厳寺様の永代経法要に参ります。