
有漏縁無漏縁分別門 は、煩悩が無漏法を縁ずる場合についての所論になります。煩悩が有漏法を縁ずる場合については、前科段における縁有事無事門においての所論になります。
煩悩は有漏ですね。煩悩の意味については、以前にも述べましたが、「煩は是れ擾の義(擾とは煩わしい、乱れるという意)、悩とは是れ乱の義、有情を擾乱するが故に煩悩と名づく。」と定義されています。
「彼の親所縁」は、煩悩の親所縁ですが、親所縁は影像相分であり、有漏であるが、この有漏の煩悩が無漏(本質相分)を認識する場合について説明されているわけです。すべての煩悩が本質相分である無漏法を認識するわけではなく、無漏を認識する煩悩は、「疑と邪見と無明(癡)、及び此れに相応する瞋と慢等の法」であるとされます。
ここには深い意味が隠されているように思います。親所縁を認識する見分(能縁)は有漏である煩悩の相分(親所縁)を認識しているわけですから有漏ですね。しかしこの構造が成立する背景には所杖の本質相分は無漏であるとうことなんですね。ですから、「疑と邪見と無明(癡)、及び此れに相応する瞋と慢等の法」は、その所依が無漏という本質相分であること、本質相分がないと煩悩も起こらない、煩悩がないと、いいように思われるかもしれませんが、受の心所が抜けますね。感情が起らないんです。識は情識ともいわれます。つまり感情をもっているのが識なんです。
第八識の所変、能変は識体、識体転じて所変である、能縁の見分と所縁の相分に似て現じているわけです。この第八識の所変を本質というわけですね。そして第八識と第六識の間に介在するのが第七識で、第八識の本質相分を認識する能縁の見分は「恒転如暴流」で一類相続なんですが、これが常・一・主・宰の我そのものであると錯誤して第七識の相分上に影像として浮かべ、浮かべた影像を認識して我執を起こしているのが、私の姿なんです。いうなれば、体に迷っている、体を錯誤している、第八識の所変を本質として第七識の所変に影像を投して、我という色付けをしてあらゆる認識を起こしているということになりましょうか。
疑は疑心という、自分を疑っているわけでしょう、邪見は因果の法則を無視してます、道理の無視ですね。根本は無明なんですが、無明は本来、明かりが指し込まない状況をいうんですが、明かりが無いということで、明かりを想定しているんでsね。明かりを想定していなかったら無明とはいえないんでしょう。暗もそうです。背景に明があって暗といえるわけです。
こういうところも、有漏無漏縁分別門の大事なところだと思いますね。親所縁からは有漏縁であり、疎所縁からは無漏縁であって、私が私として独り歩きが出来るのは、疎所縁の存在なんですね。