唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (51) 触等相応門 (33)

2011-11-12 16:47:59 | 心の構造について

 昨日は、六遍染説により第七識と相応する心所は合計十九であることを述べました。所謂、根本煩悩の四と遍行の五と遍染の随煩悩の六と別境の三と随煩悩の一です。しかし念と定と惛沈を加える理由が示されたいませんでした。以下の科段に於いて順次、「念」と「定」と「惛沈」が第七識と相応する理由を説明しています。

 「此に別に念を説くことは、前の慧に准じて釈せよ。」(『論』第四・三十四右)

 (ここに別して念を説いている理由は、前の慧に准じて理解せよ。)

 「述して曰く、此に別に念を説くことは、次前の師の慧の所以即ち我見なりと説くが如き故と云う。即ち念数なるが故に。此の不正知は亦即ち慧なるが故に。義を以て説いて二と為り。邪に簡択するが故に名づけて悪慧と為す。我と執するが故に我見と名づく。或いは是れ癡の分なり。即ち我見に非ず。或いは義別なるを以て之を説いて二と為す可しと云う。能く悪業を発す者は是れ第六識と五識との中において語り、第七に約するには非ず。故に此の識と倶にも不正知有り。前の慧に説きつるが如くなれば更に之を問はず。」(『述記』第五本・五十七右)

 「疏に能発悪者等」 是とは前の師の難を釈するなり。前師の難じて云く、不正知と云うは、謂く外門に起って能く悪業を発す。豈に第七識いい能く此の事有って不正知と倶なるや。故に今会して云く。彼は六識に約すと云う、第七に拠るに非ず。」(『演秘』第四末・二十左)

 「念を説くこと」というのは、十九の心所の中に遍染の随煩悩の失念と別境の念が相応し、遍染の失念は別境の念の一分であるとされますから、第七識に二つの念が相応することになります。しかし同一識において複数の心所が同時に並び立つことはあり得ませんから、このことをどのように理解したらいいのかが問われています。答えとしては「前の慧に准じよ」といわれていますから、我見と慧が並び立つ理由に由りなさいといっているのです。(詳細は10月29日の項を参照してください)

 「我見は是れ、別境の慧に摂められると雖も、而も五十一の心所法の中に、義いい差別なること有り、故に開いて二と為せり。」(『論』第四・三十三右)

 (我見は、其の体は別境の慧に摂められるとはいっても、しかるに五十一の心所法の中では義に差別が有るので、開いて悪見の慧の二つとしている。)

 義に差別があるということになります。我見の体は慧であるが、我見と別境の慧とは、その心所の行相が別である、異なるということです。慧には悪慧と善慧との二種があり、悪慧は「諸の諦のうえに顚倒に推度する染の慧を以て性と為し、善の見を障へ苦を招くを業と為す」(『論』第六・十四右)と。「之に准じて」ということは失念と念は義が別であるから並び立ち得るという。別境の念・定・慧の慧については『論』に「云何なるか慧とする。所観の境のうえに簡択するを以て性と為し、疑を断ずるを以て業と為す」と。『二巻鈔』に「慧ノ心所ト云ハ、万ヅノ知ラント思フ事ノ徳失ヲヨク簡ビ弁ヘテ疑ヲ除ク心ナリ。是則チ智也。」といわれて、染の慧と別境の慧とは行相が異なり、慧の二つが並存するという意味ではないといわれているのです。又、念においても、随煩悩の失念は、対象をはっきりと記憶しつづけることができない心作用をいいますね。ですから善の心所である念を妨げ、心を散乱せしめる働きがあるために忘念ともいわれます。『論』に「云何なるか失念。諸の所縁の於に明記すること能はざるを以て性と為し、能く正念を障へて散乱が所依たると以て業と為す。謂く失念の者は心散乱なるが故に」(『論』第六・三十右) と。『瑜伽論』(巻第六十二)に「謂く補特伽羅(ふとがらー凡夫のこと)は随煩悩多く染汚相続して正しく心一境性を証すると能はず、云何が名づけて随煩悩多しと為すや。謂く諂と誑と憍と詐と無慙と無愧と不信と懈怠と忘念と不定と悪慧と慢緩(まんかん)と猥雑(わいざつ)と趣向前行(しゅこうぜんぎょう)と遠離することを捨つる軛(やく)と、所学処に於いて甚だ恭敬せざると、沙門を顧みざると、唯だ活命のみを希ひ涅槃の為に出家を求めざるとあり。・・・・・云何が忘念なりや。謂く久遠より作せる所、説ける所に於て随念すること能はず、随憶せしめず、根門を守らず、正知にして住せざるなり。・・・・・」と。つまり失念と念はともに念といえるが、義が別であるということに由って並び立つことができるのであるといいます。