唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

日曜雑感

2020-01-05 10:28:36 | 雑感
 おはようございます。お正月休みもほとんどの方が今日までですね。土日が重なったこともあり、長い連休になりました。お疲れ様です。さあ、一年の始まりです。ある人のブログを拝見させていただきまして、感じさせられたことは、お仕事に取り組まれる姿勢が素晴らしいんです。考え方や、人と接するときの気遣い等、お若いとは思えないほどしっかりされています。これからも頑張ってほしいです。
 私たちが日常、良いこと、悪いことの判断として、他人に迷惑をかけることが悪、他人に良い影響を与えることが悪と、大雑把にいえばこういうことになるんだ労を思います。ところが、仏教では善・悪は他に対してではないのですね。簡単違説明しますと、
 『善は私たちにとって大切な行為ですが、本来、自身が涅槃に向かう道なんです。それと共に他を利する道でもあるんですね。涅槃はニルバーナといい煩悩が滅した状態を指します。煩悩は私たちを悩ませ苦しめると思いがちですが、煩悩は自身の中から湧き出てくるものなんです。自身が自身の煩悩に纏われつかれている状態を苦悩というのですね。、ですから、涅槃は私たちが本来求めている世界なのだと思います。その世界を彼岸ともいいます。彼岸を拠り所にした生活が一番望ましい在り方なのではないでしょうか。ではどのようにしたら彼岸を拠り所に出来るのでしょう。それが『善』なのです。善は浄らかな心です。善の心に付随する法(心所有法)の一番最初に「信」が挙げられています。『正信偈』に「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり」(源空章・真聖P207)と述べておいでになります。「信」の定義は龍樹菩薩の『大智度論』に「仏法の大海は信をもって能入と為し、智を態度と為す」と記されています。信は智と密接不可分の関係で捉えられています。親鸞聖人ははっきりと生死輪転の家は、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界と押さえておいでになります。これは仏法に疑いを持っていることから引き起こされる世界であるということです。そして涅槃を寂静無為の楽と、心澄浄の世界であると云われています。『歎異抄』に「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに(機の深信)、ただ念仏のみぞまことにておわします(法の深信)」と真実信心のみが「生死いづべき道」として指し示しておられます。唯識では第七末那識が我執(自我意識)として第八阿頼耶識に執着すると言われているのですが、その末那識に出世の末那といわれる働きがあるといわれています。無染汚の末那・已転依の末那ともいわれます。「審らかに無我の相を思量す」と、末那識は自分だけのことを思量するといわれているなかで、それだけではない無我という真理を認めているのです。これによって末那識が転依することが可能となるのです。そして「信」は「心をして浄ならしむを以って性と為し、不信を対治して善を楽ふを以って業と為す」といわれ、信によって心が浄くなることをいわれているのです。こころが浄くなるということは無我・無漏の智慧ですから自分のことがはっきりと見えるのです。「自己とは何ぞや」に答えてあるのですね。自覚・自らに覚めることを以って信を語らなければ、何を信ずるのかがはっきりしなくなります。信は不信というエゴイズムを払拭するものなのです。」

雑感

2018-01-07 17:58:02 | 雑感

 友に、唯識の誤解を解くために敢てメッセージを送ります。
 最近彼を通して自分は本当に正しい道を歩んでいるのだろうかと教えられています。教義依存症という目的喪失症に陥っていないのか。自分は正しいという自己埋没の闇の中を彷徨っているのではないのかという声が聞こえてきます。
 それは存在と実体についてですが、唯識無境という命題に対して、唯識を読み解いていないという問題と、無境という無に囚われて、存在が何も無いという虚無の思いに陥っているのではないのかという問題です。
 唯識は非常に際どいところを誤解を恐れずに「ただ識のみ有って、境(対象)は無い」と教えています。
 実体としての対象は何もなく、それは我が心が捉えた映像に過ぎないと教えているわけですね。
 存在そのもが無いとは云っていないのです。存在は有る、しかし存在そのものを認識はしていない。認識は心の映像にしか過ぎないのです。
 他者との関係においても、自分が認識している他者は何処にも存在しない、存在していると思っているのは、自分の思いを映像化した実体に過ぎない。この実体化が迷いなのだと教えているわけです。
 あいつは駄目だ、あいつはあかんという存在は何処にもいない。存在そのものは無記なる者、有漏にする主体の染汚性が他者を抹殺する原動力になっているのですね。
 何を思ってもいいですが、その思いは自分の心の影だと頷けるのかということなんでしょう。
 過去の集大成としての現在。現在を出発点としての未来。誤魔化さない生き方が未来への展望を開かせてくれるのですね。
 誤魔化すな。すり替えるな。どんなに他を恨んでも、それはまやかしだと。南無

日曜雑感

2017-06-25 12:03:49 | 雑感
 
 朝からあいにくの雨模様です。梅雨前線北上で梅雨空が続きそうですね。
 今朝中部地方を中心に震度五強の地震がありました。被災地の皆様にはお見舞い申し上げます。
 今日の雑感は、読者の方からの投稿を紹介します。在家の方ですが、よく学ばれている、本当に刺激を与えてくださっている方です。
 この投稿は妄想ですと仰られたのですが、妄想では書けないと思います。若し妄想であれば、妄想であると知り得る自分に出遇れたということでしょうね。投稿していることが我見であると知り得ておられるのかどうかは聞いてみなければ判りませんが、深い眼差しをもって書いておられます。
 どうぞ、最後まで読んであげてください。

 「人生ただの死ぬまでの暇潰しか?と思ってましたが、最近は多くの縁があり、そうでもないのか?と思うようになりました。独りでは生きられないし、死ぬことすら出来ないのか。と最近は感じています。
他者との縁、ご縁は自分自身が招いているのだと感じています。
生きていく上で最大の悩みは人間関係でしょうか。最近特に感じます。自分自身が招いていて、それで苦しんでいる。おかしな話です。しかし、今見ている世界は自分自身が作った世界、とすれば、他者も自分自身が作っているものなのでしょうね。
自分自身が今見ている世界は自分自身しか見えない、他者と同じ景色を見ていても異質なものとして捉えている。
 私は、他者と世界を共有する事は出来ないのか、という問いを持ち考えています。
 例えば、お酒を飲める人であれば、お酒は自分自身の世界の中にありますが、飲めない人にとってはその世界の中にはありません。下手をすると毒にしかお酒は感じられません。僕自身飲めないから本当にそう感じています。
 ではどうすれば、他者と世界を共有する事が出きるのでしょう。
 他者すら自身の作っているものと理解し、また他者の全てを知る事が不可能だと、理解しなければならないのでしょうか。あいつはあんな奴だ、彼は、彼女は本当はあんな奴だ、と決めつけない事が重要だと思っています。
他者を自身の決めつけによって作る。これはどういった感情から生まれてくるのでしょうか?
自身を守るといった感情からだとおもいますが、他者の性格を決めつける事によって、自分自身の考えは正しい。としていると思われます。自分自身の考えだけに囚われているだけかもしれませんね。そうしなければ、自分自身が無くなるといった恐怖心にかられるのかもしれません。
他者との関係は非常に難しく、しかし生きていく上では絶対的に必要なものです。関わっていないつもりでも、電車に乗れば、車両を作った他者がいるわけで、関わっていると考えられるのではないかと。生きていくとは、他者との関わりを遮断することは不可能ということになるのでしょうね。
他者との関係は非常に難しく、いざこざも起こる。しかし他者との関わりを完全に遮断する事は不可能。ということは、人生は苦痛だけしかないのでしょうか?そうではないでしょうね。全ての問題を外の責任とするからでしょうね。自分自身は悪くない、下手をすれば悪くない、ではなく全く悪くないと決めつけている自分がいます。ここに苦しみの原因があるのでしょうね。
結局は自分自身だけの考えに囚われていないか?と問われているのでしょうね。僕自身も過去の経験から自身の考えに囚われていました。他者が僕自身を教えてくれていたのにそれを否定し、自身の考えに囚われていました。反省すべき事です。
人はどうしても過去に囚われてしまうのではないかと。過去の経験からしか物事は判断出来ないと思われます。知らないものは判断のしようがありません。
過去の経験から判断する。これが物であればまだ良いのかもしれません。しかしこれが他者を判断する場合、自身の過去の経験から他者の性格を作ってしまうのは危険な事でしょう。他者を自身の都合の良いように作ってしまい、自身の作った他者との違いがいざこざを起こすのでしょうね。
自身と他者だけの問題でおさまっていればまだよいのかもしれません。周囲の他者が入って来るとまた問題は大きくなるでしょう。何故ならいる人間の数だけ他者が作くられてしまうからです。しかし多数人間がいても二つの意見になります。善か悪か。です。中間は存在しないと思います。誰かを悪としなければならないのが自分の正体なのかもしれません。では誰が悪になるのか?です。
 自分自身を見ようとしない人間は、他者のせいにして、自身の全てを正当化します。少しでも批判されれば、他者を攻撃します。これは臆病という感情から起こってくるのではないかと思います。私自身がそうですが。
自分自身を見ようとしている人間は、外に原因があるのではなく、自分自身に原因があったのではないか?と考えると思われます。しかしこの考えも両刃の剣で、いつも他者のせいだった。と考える危険性があると思われます。自分自身を責めすぎると、自身に閉じ籠ってしまう危険性もあり、非常に難しい事と思われます。
最後に、人のご縁とは何か?自分自身を知らせてくれるのは他者しかいない、しかし他者すら自身の都合のよいように作っている。また、過去に拘りすぎて他者の言葉をちゃんと聞いているのか?また自分自身を守る為に、他者を犠牲にしてはいないか?を自分自身に問いたいと思います。
 他者を助けたい、悩んでいる人にサポートの手を差し伸べたい、この思いは、一番の自分勝手な感情なのかもしれないと感じます。助けて頂いてるのは自分自身なのに。です。」

 長文読ませていただきました。ありがとうございます。
 この文章は聞法の積み重ねの上での素直な気持ちを表現しているものと思いました。
 倫理的な側面が前面に出ていますが、大切なのは!何を鏡として自分を写し出しているのかです。
 唯識を学んでいただいて、具体的には他者が鏡になるということですね。
 例えば、他者を攻撃する、その気持ちはわかりますが、貴方の言われるように、他者は自分が作った影です。他者を見ているわけではありません。自分自身の心の影を見ているにすぎないのです。他者を攻撃しても、ブーメラン現象、自分が傷つくだけです。自傷行為ともいえます。
 自傷行為は、自分の都合が物差しになっています。なかなか見えてこないのですが、貴方の考え方の中にすり替えが伺えます。
それは、貴方自身がもうすでに気づいておられることかもしれません。私は、「あなた方のお陰で目が覚めました」という視線が必要だと思っています。それがほんとうの我愛ではないでしょうか。
又の投稿お待ちいたしております。南無阿弥陀仏

雑感

2017-04-04 23:35:50 | 雑感

 ブログに、にしはら君が貴重なコメントをくれました。国土はfieldと翻訳されている文献があります、と。国・国土のことですが、僕たちのイメージとしてはどうでしょうか。僕は、日本国・米国・英国等の国家を思い浮かべてしまうのですが。国家は国土の上に立っているわけでしょう。counntry或はlandと翻訳されます。浄土はcountryなのでしょうか。本願文でも先ず国土荘厳が説かれます。「たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」。そして国中人天に対して願いがかけられますね。依正二報は相離れずことを以て国土が語られているわけですが、土は本来無分別ですね。そこに国家を形成するのは人間の分別の上に立っている事柄でしょう。歴史的にみても国家は流動的です。分別起のものですね。有漏の種子に依って共依されている環境であるわけです。
 有漏の種子に依って覆われてしまっている環境も、fieldとしては無分別であるわけです。野原とか地面と翻訳されますが、国土荘厳は、野原とか地面が持っている無分別性を明らかにしようとしたのではないのかなと思っているんですが。そこに還れば平等の大地、水平の地平が存在する。それは存在性を超えた無為無漏の真如法性の世界であるわけでしょう。清浄仏国、つまり浄土と翻訳されていることなのでしょう。浄土はcountryではなくfieldだと。土の叫び、それが本願なのかも知れませんね。
 そしてそこに還れば、還った功徳として、土の叫びが与えられるのではと思うわけですが、国中人天から十方衆生に呼びかけられ、二十二願を境に菩薩衆へ、そして国土清浄にして、やがて国中人天へ願いがかけられる、これらは、counntry或はlandの出来事ではなく、fieldとして人天としては還っていくべく場所であり、菩薩としてはそこから願いをかけ得られる場所として、国土はfieldと翻訳されたのではないのかな、と。にしはら君のコメントから伺いました。
 国土荘厳が問題なのではなく、人間の分別心が領土の奪い合いになり、政争の具になり、境界のいざこざになる愚かさを、国土荘厳をあらわすことにおいて彼岸は此岸の問題であることをはっきりさせたのではないでしょうか。

初年度講義概要 第二能変 初講

2017-01-08 11:23:18 | 雑感
  

  本年度正厳寺作までの講義は、第二能変からになります。第二能変は幾度となく読ませていただいておりますので、今回は少し丁寧に読みこなせたらと思います。「唯識に自己を学ぶ」或はブログにも投稿しておりますが、幾度となく読むことが大切な作業となります。またか、と思われるかもしれませんが、読んでも分からないところが多々あります。繰り返しの作業の中から、何か得られるところがありますならば幸いです。
  第二能変については、2011年1月1日より、ブログで更新しています。
 第二能変を釈す ・ 八段十義について
是の如く已に初の能変の相をば説く。第二の能変の其の相云何。」
(第五頌~第七頌)
 頌曰     次第二能変  是識名末那
        依彼転縁彼  思量為性相  第五頌
        四煩悩常倶  謂我癡我見
        并我慢我愛  及余触等倶
        有覆無記摂  随所生所繋  第六頌
        阿羅漢滅定  出世道無有  第七頌
 「頌に曰く、次は第二の能変なり。是識をば末那(まな)と名けたり。 彼(第八識)に依て転じて彼(第八識)を縁ず。思量するをもって、性とも相とも為す四の煩悩と常に倶なり。謂く我癡と我見と、並びに我慢と我愛となり。及び余と触等と倶なり。有覆無記(うぶくむき)に摂む。所生(しょしょう)に随って繋(けい)せらる。阿羅漢(あらかん)と滅定と、出世道とには有ること無し。」
 

 初能変・五教十理証を結んで、第二能変が述べられます。 初能変の結文は、
 「別に此の識有りという教と理顕然(けんぜん)たり、諸の有智の人、応に深く信ずべし。」
 (眼等の六識とは別にこの、第八識が存在するという教と理も明らかである。由って諸々の有智の人は心にしっかりと深く第八識が存在することを信受すべきであろう。)
 第八識の存在証明を受け、第二能変のその相はどうであろうか。 「其の相云何」で始まる。第二能変は『三十頌』では第五頌・第六頌・第七頌の三頌で、『成唯識論』では八段十義(十門)・二教六理証によって論じられている。
 初に相を十門に分け、その視点で第二能変が論じられるわけです。
 「述して曰く、下は問いに依って辨ず。此れは三の頌に依って其の第七識を十の門をもって分別するなり。初に第二能変を挙げて末那の名を出し、二に所依を釈し、三に所縁を解し、四に体を出し義を釈し、五に行相を釈し、六に染と倶ということを顕し、七に触等と相応すといえり、八に三性において分別し、九に界地において分別し、十に隠顕において分別す。即ち是れは伏断する位次なり。」(『述記』)
 『論』の長行釈の論述から「八段を以て十門を釈」されています。八段は、一に能変の体を出し名義を釈し、二に所依を明かし、三に所縁を解し、四に自性・行相門。五に染倶・触等門、六に三性門、七に界繋門、八に起滅分位門の八段を以て第七識を明らかにしている。次に第七識の存在証明として二教六理証が論じられます。二教六理証として、第七識の存在証明が必要なのか、という問いが出てきます。部派仏教から大乗仏教への大きな転換期に、部派仏教で詳細に解明されてきた六識の存在証明は必要とせず、その深層にある第八識(と第七識)の存在を証明する必要があったのですね。部派仏教ではその存在は認められていない為、論証し、部派の教説を論破する必要があったのです。その為、第三能変においては六識の存在証明は必要とされなかったのですね。
 十門が八段になる理由
 十門中の第四の自性門と第五の行相門が一つになって、第四段の自性・行相門に配当されている。自性門においては識の体、即ち自体分(自証分)を述べ、その働きである見分に関する論述であるので、一つにまとめられて、第四段の自性・行相門として述べられている。そして、第六門の染倶門と第七の相応門が一つにまとめられ、第五段・心所相応門として述べられる。第六門と第七門は識と相応する心所について論じられているので、一つにまとめ得られることから、第五段として述べられ、八段十門として分類されているわけです。
 • 第一段・出能変体釈其名義 ― 第二能変 是識名末那 ―(第五頌)1、標名門
 • 第二段・所依門 ― 依彼転 ―(第五頌)2、所依門
 • 第三段・所縁門 ― 縁彼 ―(第五頌)3、所縁門
 • 第四段・自性行相門 ―思量為 { 性 - (第五頌)4、自性門               相 - (第五頌)5、行相門
 • 第五段・心所相応門 ― 四煩悩常倶 我癡我見 并我慢我愛 ― (第六頌)6、染倶門  
 及余触等倶 ― (第六頌)7、心所相応門
 • 第六段・三性分別門 ― 有覆無記摂 ― (第七頌)8、三性門
 • 第七段・界繋分別門 ― 随所生所繋 ― (第七頌)9、界繋分別門
 • 第八段・起滅分位門 ― 阿羅漢滅定 出世道無有 ― (第七頌)10、隠顕門(起滅分位門・隠顕分別門)
 以上が八段十門の科文になります。この科文に随って『論』を読んでいこうと思います。
 「論に曰く、初の異熟能変の識に次いで、後に思量能変の識の相を弁ずべし」(『論』第四・十二右)
 長行により説明する。 (下に二文有り) 
 一に八段を以て十門を依釈する。
 二に二教六理を以て此の識有りと証する。
 初の段に二有り(初がさらに二つに分かれる)。一に、頌を解釈し、ニに問答(第七識を意と名づけた場合に起きる問題を検討する)
 本頌を解釈するのにまた二つに分かれる。一に、第七識の能変の体について説き、二に第七識が末那、意と名づけられる理由について説かれる。これは一である。
 「是の識をば聖教に別に末那と名けたり、恒に審に思量すること、余識に勝れたるが故に。」
 (この第七識は聖教において他の識とは別に末那と名づけられる、何故なら恒に審に思量すること、他の識に比べて勝れているからである。)
 本科段は名義を釈し、別名末那を釈す。
 一に「総じては識と名づける。」、末那というは意であると。阿頼耶識は心といわれ、六識は識という意義がある。総じて識と名づけられるのは、『楞伽経』に「識に八種有り」と云うをもって、識といえば通名である。『瑜伽論』巻六十三に「諸識を皆、心・意・識と名づくと雖も、義の勝れたるに随って説かば第八を心と名づけ、第七をば意と名づけ、余識をば識と名づくといえり。」というのが、聖教に説かれている証になるわけです。諸識をすべて心・意・識と名づけるのは通名である。しかしそれぞれの勝れたる特性をもって説くならば、第八識は心といい、第七識は意といい、その他の識は識と名づけられる、という証文を以て「是の識をば聖教に別に末那と名けたり」と述べられているわけです。
 二に「又、諸識をば皆、意となすと雖も、これが為に意を標して余識は然んばあらずといはぬとぞ。総称を標すと雖も即ち別名なり」と、諸識は皆「意」と名づけられるが、その働きから、第七識が意というにふさわしく、諸識に別して特に意と名づけるのである。何故ならば、「恒に審らかに思量すること」が他の識より勝れているからである。「何が故に諸識を別に意と名づけずとならば、恒・審に思量すること余識に勝れたるが故なり」(『述記』)どのように勝れているのかは、次のようである。
 • 恒 ― 第六識・前五識は恒ではない。不恒である。第六識は審らかではあるが、恒ではない。
 • 審 ― 第八識・前五識は審らかではない。第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない。前五識は縁に依って生起するので、恒でもなく、審らかでもない。
 恒に審らかに思量するのは第七識のみであるので、第七識の特性である思量をもって末那と称し、マナス=意、と名づけるという。
 出世の末那といわれることもありますが、その場合は自在位によって名づけられ、そこには未自在位の末那は転依して平等性智と名づけられ、末那とは名づけないのであって、即ち有漏にのみ名づけられ、無漏には存在しないのである、といわれます。又「顚倒の思量を遠離して正思量有るが故に」、無漏にも通じて末那と名づけるのである、と。正思量の義をもって末那ということもあるのである。
 「此の名、何んぞ第六意識に異なる」(『論』第四・十二左)
 (意を以て此の識の得名とするならば、どうして第六意識と異なるというのであろうか。)
 意を以て第七識の名とするならば、第七意識といってもいい、そうならば、第六意識と異なるというのはどういうことなのか、又第七識を意といい、意識と云わないのは何故か、という疑問がでてきます。『述記』によれば、「問いの中に二有り」、二つの問いの意味があるといっています。
 「述曰。 問うて曰く、八識と言うときの如き此れも亦識と名づく。末那を意と名づけ、総と別と合論して即ち意識と名づけたり。又、『瑜伽論』六十三に云く、識に二種有り、一には阿頼耶識、二には転識、此れに復七種あり、謂はゆる眼識乃至意識といえり。即ち是れ第七を名づけて意識とす。此の名何ぞ第六意識に異なるや。一のは則ち総と別とを合して名づけたるを以て理と為して難じ、二のは論文を以て例と為して難ず。」(『述記』第四末・五十右)
 『述記』によれば、
 (1)総と別があり、総じては八識はすべて識と名づけられる。別としては第七識は意と名づける。しかし総・別を合わせると第七識を意識と名づけ得られるという。ここに第七識を意識というのと、第六識を意識というのには、どこが違うのかとう問いが生まれます。
 (2)『瑜伽論』六十三の記述から「転識に七種あり」と説かれている。この七番目の転識を意識という。そうとするならば、第六番目も意識であり、第七番目も意識であるということになり、どこにその違いがみられるのかという問いが生まれます。  
 この二つの問いから『論』に答えられているのです。簡単に説明しますと、
 (1) 第六意識は、第七識である意を所依として起こる識である。依主釈である。第七識は持業釈である。識の体、そのものが意であるということ。意即ち識である。
 (2) 恒審思量の故に意の義は、特に第七識に親しい。
 (3) 第七識は、第六識のために近所依となるということを顕さんとして、第七識を意と名づけるのである。
  「意」という名の由来
 「此れは持業釈なり、蔵識という名の如し、識即ち意なるが故に。彼は依主釈なり、眼識等という如し、識いい意に異るが故に」(『論』第四・十二左)
 この段は問いに対する答えになります。 (此の第七識を意識と称する場合は、持業釈(じごっしゃく)である。これは第八識を蔵識と名づけるのと同じであり、識即ち意である。彼(第六意識)を意識と称する場合は依主釈(えしゅしゃく)であり、これは眼根等に依る識を眼識等と名づけるのと同じである。第七識を意識という場合は識と意は同じものを指すが、第六識を意識という場合は、識と意とは異なるものである、という。)
 • 第七識は、意=識で、意が識自体を指す。(持業釈・二つ或は二つ以上の単語から成る合成語の単語間の関係についての一つの解釈の方法)
 • 第六識は、意根による識(意根を所依とする識)、即ち、意根(第七識)を所依とする識であるという意味で意識と名づけられる。(依主釈)
 総じて意識の二字を釈す。
 「意というは、是れ自体なり。識というは即ち意なり。六釈(六合釈・りくがっしゃく)の中に於いて是れ持業釈なり。・・・阿頼耶識を蔵識と名づくるが如し。識の体即蔵にして亦是れ此の釈なり。此れは彼と同なり。故に指して喩と為す。いかんぞ此の釈を為るとならば、識体即意なるが故なり。其の第六識は体是れ識なりと雖も、而も是れ意には非ず。恒・審するものに非ざるが故なり。

識等というが如し、というは眼は是れ所依なり。而も体是れ識なり。眼に依るの識なり。故に眼識と名づく。何んぞ此の釈を為るとならば、識いい意に異なるが故なり。能・所依別なり、依に従って名を得たり。」(『述記』第四末・五十左)
 意と意識の相違とは?
 第七識を意と名づけ、第六識を意識と名づける理由
 三釈挙げられています。
 第一の釈は 「然も諸の聖教には、此れが彼に濫ぜんかと恐るるが故に、第七の於には但意という名のみを立てたり。」(『論』第四・十二左)
 (第七識を意と名づけ、第六識を意識と名づける理由について、『述記』に問いが設定されています。護法の答えにたいして、護法が問いを立て、答えているのです。
 「問う、今は名を得ること既に各不同なり、何が故に六と七と並に意識とは名づけずして、而も第七の於には但意という名のみを立てるや。若し意識と名づけば是れ持業をもって名を得と顕はしつ。但名づけて意と為ること竟に何の理有るや。」 と記されています。 即ち、第七識も第六識も意識と名づけてもよいはずなのに、第六識を意識と名づけ、第七識を意という名のみを立てるのか、それにはどのような道理があるのか、という問いですね。)
 第一の釈の説明は、第六も第七も意識と称するならば混乱が起きる恐れがあるので、諸の聖教には第七識には意という名をたてるのである、という。そしてその反対の問いも立てられるのですね。第六識を意といい、第七識を意識と名づけてもいいのではないか、というものです。にもかかわらず、第七識を意というのは何故なのであろうか。前項でも説明されていましたが、意は持業釈で、意=識であり、意で第七識を説明しているわけです。意識は依主釈であって、第七識を所依として成り立っている識を意識というのですけら、これは第六識に限るわけです。いうなれば、理が成り立たないわけですね。意識という場合は「意根に依る識」なので、第七識を意識とはいわず、意と名づけるのです。
 『樞要』二「第七は持業、・・・第六は依主・・・若し第六に一の意を標して識と言はざれば、自を顕すあたわず。第七に識を加えば、依主に濫ぜんかと恐る。故に第七には但意の名を標す。・・・第六に識を加えることは他に依るが故に名を得るを顕すが故に。」と述べられています。
 
 次は第二の釈なり。
 「又意という名のみを標せることは、心と識とに簡ばんが為なり。積集し了別すること、余の識より劣れるが故に。」(『論』第四・十二左)
 (また第七識について意という名のみを標示しているのは、第七識を心(第八識)と識(前六識)から区別するためである。その理由は第七識は積集し、了別することは他の識より劣っているからである。)
 八識はすべて心・意・識と名づけることができるけれども、増勝の義によって第七識を意と名づけるのである、と。
 「積集の心の義と了別の識の義とは余の識より劣るが故に、後の心(第八識)と、前の識(前六識)とに簡ばんとして但意という名を立てたり。恒・審するが故に。」(『述記』第四末・五十一左)
 積集(しゃくじゅう) - 蓄積すること。こころを心・意・識とに分類するとき、心の堆積する働きを積集という。深層の根源的な心である阿頼耶識が表層の業の結果である種子を堆積する働きをいう。又、業の結果である種子を集起する阿頼耶識が心であると解釈する。この場合には集起(じゅうき)といい、「集起の故に心と名づけ、思量の故に意と名づけ、了別の故に識と名づく。」といわれている。
 以上のように第七識を「意」というのは、第八識の積集(種子集起)の心と前六識の了別の識とを簡ぶためである。それは、第七識は積集と了別とにおいては劣っているが、恒審思量の働きに於いては増勝の義、すぐれた特徴があるから、第七識を意と表現するのである。
 
 次に第三に云く、
 「或いは此れいい、彼の意識の與(ため)に近き所依たりということを顕さんと欲して、故(かれ)但意とのみ名づけたり。」(『論』第四・十二左)
 (或いは第七識は、第六識のために近所依となるということを顕そうとして、ただ意とのみ名づけたのである。)
 近所依の三条件について、
 • 相順すること。 - 第六識と第七識は行相相順ずるからである。
 • 計度すること。 - 第六識と第七識は計度分別すること同じである。過去・現在・未来に対して思い計り推量し執着を起こすことをいう。
 •與力 - 第六識が認識対象を認識する時は第七識が力を与えるのである。
 「七が境を縁ずる時に第六いい力を与えるに非ざるなり。故に六には識有り七は但意と名づけたり。第八も亦ぢ六に力を与えることを簡ばんとして、故に復近と言う。彼をば、遠き所依と為すべきが故に。五十一に第八有るに由るが故に末那有り、末那を依として意識転ずることを得と云へり。故に彼の第八をば遠き所依と為し、此れをば近き依と為す。」(『述記』第四末・五十一右)という。
 以上で第一段 標名門(出能変体釈其名義)の説明が終わります。次からは第二段 所依門が説明されます。

蓬茨祖運師 『唯信鈔文意』講義より。空に沈むとは?

2017-01-08 10:37:47 | 雑感
   蓮如上人自筆 本願寺蔵

 しとしとと雨の休日になりました。屋根瓦を見つめておりますと、何故か、瓦が雨に濡れている風情はいいものですね。今日は午後三時より、旭区正厳寺様で、唯識のお話をさせていただきます。風邪が猛威をふるっておりまして、欠席のご連絡をいただいておいます。年初でもありますので、昨年の復習も兼ねて、唯識が現実の生活の中で、何を訴えてきたのかを学び得ることが出来たらと思います。
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 蓬茨先生の講義より、
 「なぜかというたら、生まれて死ぬるものばかりですから、生まれて死ぬるものが、生まれて死ぬものがないんだということをつきつめてゆきますと、空。空という表現になりますでしょう。空であると。あるがままが空であると。いまわれわれがここにあると申しているが、実はないんだと。空なのだと。個々の存在、空なのだと。自分がおると思っているのが空なのだと、こういえるんですね。これもまた空に堕すんだと。空なのだというと、その空に沈んでしまう。空に沈んでしまうとどうなるか、困ることができてくる。沈むということは、息ができんことになるんです。

 なぜだというと、腹がへってくるとどうする。 「俺」 がおらんのに腹がへってくる。困りますね。 「ほっておけ、実はないんだから、そんなもの、かまうこといるものか」。 死んでしまいます。 「どうせなくなるんだから。ないものがなくなっても、もとどおりだ」 ということは、これは空見。空に堕する、という。自分だけはそれで、やせ我慢でおれるんです。自分だけ、やせ我慢しとおせるのです。つまり、おるから苦しむんです。この世におるからで、おらなくなればもう何も苦にやむことはいらん、と。これでは、 「空に沈む」 というんです。わたくしども、しばしばこの手つかうんです。わざと使うんです。人が何か苦情をもってきたりなんかする。よく聞いてあげる。 「もうしばらく待ってみたらどうだ」 というてやるんです。 「もうしばらく待ったってどうかなるか」。 「いやいや、もうしばらく待てば、どうかなるんだ」。 「どうなる?」。 「相手が死ぬだろう。あるいは君が先かもしれん。それまで待て」。 これにはよわってしまいますね。 「そういうことをいうから話にならん」 と。 「しかし、そうでないか。むこうが死んでしまえば、それでよいのだろう。問題はそれで解決。君が死んでしまったら、やはり問題はそれで解決。どっちでもよい、死ぬまで待てば、そう、青筋立てなくてもすむんだから」 と。そういうと、もういやな顔をして、それで 「私」 の問題は解決するですわね。厄介払いできます。いやな問題もってきたときには、よく聞いてやったあげくそういうのです。それで、もうあきれはてて行ってしまいます。

 「空に沈む」 ということはそういうことになるのですね。そういうことにこだわっておってはだめですね。問題がおこったらそんな、むこうが死ぬまで待っておるというようなこと、智慧のない話ですね。

 それで方便法身ということは利他、利他ということの意義なのですね。利他のために方便法身というのをもうけられるのである。そこに誓願というものが出てくるわけです。誓願というものをもうけてそこに方便法身というものを成就せられる。その方便法身がつまり智慧のかたちですね。智慧のかたち。つまり智慧のかたちは光明のかたちですから、ここに無碍光仏とか、あるいは無量光仏とか出てくるわけです。かたちはかたちだけれども、しかしかたちに即して無限ということが語られるのです。

 「御かたち」 とあります。 「御かたち」 は、荘厳という意味になりますね。このかたちはそのまま利他でありますし、したがって慈悲でありますね。利他ということは、つまり慈悲であります。大慈大悲であります。慈悲でありますからして、こんどは方便であります。慈悲によってもうけられたかたちである。方便である。ですから、智慧と慈悲と方便という。こういう意義が出てまいります。その意義をもっておるのが、この如来の尊号でありますから、したがってこの如来の尊号は、如来の誓願ですね。

 如来の尊号は、そのまま如来の誓願でありますから、それで、 「この如来の智願海にすすめいれたまうなり」 と結ばれてあります。 「智願海」 というこらどういうものかと想像すると、なにか太陽の光っておる大海原でも頭に思い浮かべねばならぬようですけれども、そう思い浮べたってさしつかえはないのですが、それよりも尊号ですね。尊号の誓願を指されるのでございますね。誓願海、智願海と申しましても、名号をもって一切衆生をことごとく無上涅槃にいたらしめんという誓願ですね。その誓願の尊号、具体的には尊号ですね。その誓願の世界、その西岸は、すなわち智慧の世界です。如来の智慧の世界でございます。その誓願海、つまり如来の智願海にすすめえええええええいれたまうのである。その智願海にすすめいれられて、智願海に入ったという自覚が、自力の智慧をもっては大涅槃にいたることなしということになるわけですね。 「自力の智慧をもっては、大涅槃にいたることなければ」 とありますが、むしろ、これは自覚でございます。如来の智願海に入ったという自覚でございますね。」
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雑感 大掃除に感じた事

2016-12-28 20:40:21 | 雑感
  

  大掃除に感じた事。
 お釈迦様のお弟子に周利槃特(梵語:Cūḍpanthaka)英語ではCuuda-pantaka (チューダ・パンタカ)という方がおられました。皆さんもよくご存じだと思います。
 レレレノレのおじいちゃんですね。このお方は、修行が出来きず、阿羅漢になることが出来ずにおりました。ある時、お釈迦様が「塵や垢を除け」と唱えなさい、そして精舎を払浄せしめるように勧められたのです。彼はそれにより、汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟り、ついに仏の教えを理解して、阿羅漢果を得たとされています。
 普段の掃除とは違い年末の大掃除はほんとに大変です。見えないところや、普段は掃除をしないところは垢がこびりついています。掃いても、拭き掃除をしても落ちません。マジックリンしか有りませんね。
 逸話から思えることは、塵や垢は煩悩でしょう。見えるような塵・垢は問題ではないんですね。普段から掃除をしていますからね。しかし塵・垢を放置しておきますと、溜まります。溜まって、下の方はこびりついて落ちません。
 これはね、日常の生活の中でいろいろと起こってきます悩みや迷いは見えてるものなんですね。これはたいしたことないんです。仏教では分別起の煩悩と言っていますが、私たちがよく耳にする言葉では、我執です。我に執われている自分が居て、その上に生活をしているということになりましょう。ですから、眼が外に向いているのと同じように、自分に離れて有るものによって自分の心が乱されると思っています。
 少し戻りますが、掃除と云う一つの行為も大切なことに違いは無いのですが、いくら掃除をしても目覚めは生まれてきません。何故なんでしょう。
 僕の経験の中で思い出すことがありました。茶道の稽古に通っていたのですが、いつの頃からかお稽古場の御庭の掃除をするようになり、お稽古がはじまる前に、打ち水をしてお迎えをするようになりました。
 その当時は禅宗の論書である『碧巌録』や『正法眼蔵』なども読んでおりましたが、茶道に関する本もよく読みました。
 有る時、利休の修行時代の逸話ですが、綺麗に掃き清められ、打ち水もされたその時にですね、一本の樹の枝を揺り動かした打ち水の上に枯れ葉が舞い落ちる風情を演出されたのですね。見事な光景だと思うのですが、それをまねするんですわ。
 それはね、形だけです。何の意味もありませんでした。背景がないからですね。
 周利槃特は釈迦のお弟子の中で、もっとも愚かで頭の悪い人だったと伝えられていますが、本当にそうだったのでしょうか。僕は聡明な人だったと思うのです。お釈迦様猶ご説法を身で聴いておられたんだと思います。それが掃除をされることの異於いて、説法が聞こえたんですね。
 このことは、私の人生に大きなインパクトを与えているように思います。
 「私は何を依りところとして生きているのか」という問いに繋がるんだと思います。
 善導大師は「曠劫以来常に没し、恒に流転して」この身をいただいたと表白されていますが、仏教の覚りは「無始以来ずっと流転してきた」という目覚めが、新たな生の誕生になると教えていたんだろうと思うのです。
 流転は迷いですが、迷いは自己中心の考え方から漏れ出しているものです。それは塵や垢のようなものではなく、掃いても掃いても掃ききれない、頑固な汚れなんですね。
 この汚れは、教えに遇うことに於いてしか拭い去ることはできないのでしょう。ここに、僕は宗教の役割が有ると思うのです。
 例えば、「何々を信ずる」という行為は、「信ずる」主体は「私」ですね。この「私」が問題になったところから開かれてくる世界が「信」の世界でしょうね。
 曠劫以来流転してきたこたが「私」に出遇えた御縁であったという感動だと思います。私たちは、「自分」に出遇いたいんですよ。求めているんです。それが間違った方向に進んでトラブルを起こしてしまうのですね。間違いをを起してしまうほど煩悩がこびりついているんです。
 煩悩はお客様、人間本来のこころは「澄み切った清らかな水のようである」とする学派もあるのですが、いかがなものでしょうか。
 親鸞聖人は『正像末和讃』で「罪業もとよりかたちなし/妄想顛倒のなせるなり/心性もとよりきよけれど/この世はまことのひとぞなき」とうたわれておられますが、この「心性もとよりきよけれど」は無漏の種子を言っておられるのですね。「妄想顛倒のなせるなり」は有漏の種子を言っておられるのだと思います。無漏は有漏を包んで、超えている性ですね。如来の分限です。不可知の世界で、僕たちには手も足も出ないわけです。
 僕たちは「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という上杉鷹山の名言ですが、川は縦に超えることは出来ないのですね。縦は努力の積み重ねです。此れを否定しているのではありません。縦の努力を積み重ねながら、無漏法に遇うことが求められているんです。それが横超につながるんだと思います。
 何を言いたいのか、はっきりしませんが、大掃除をしての感想を綴ってみました。

雑感

2016-07-20 23:22:36 | 雑感
  

 過去の投稿より
 「浄土真宗の正依の経典は『無量寿経』ですね。正しく依るということは、私の生活全体を『無量寿経』に問い、おまかせするということなのでしょう。「本願を説くを経の宗致とす」る『無量寿経』の根幹は第十八願です。そこに唯だ除くとしての、唯除の文が記されています。「唯除五逆誹謗正法」ですね。五逆罪と正法を誹謗する人を唯だ除く、と。この唯除の文は、一体誰を指しているんでしょうか。五逆の本質的問題は誹謗正法というてあるんでしょう。正面から言うと、誹謗正法なんですが、そこに隠されている問題は、私は何を依り所として生きているのかという問いかけであると思います。私の依り所は、三毒の煩悩といわれる貪・瞋・癡であると教えられているのでしょう。この煩悩を依り所としてしか生きていけないんですよ、ということを教えているんでしょう。貪・瞋・癡の根底に働いているのは我見ですね。我見がすべてなんでしょう。我見が五逆を生み出してくる根本の問題であることを、唯除の文は教えていると思いますね。どうあがいても我見しかないということです。そこに見出されてきた自身の姿が「無慚愧の我」でしょう。無慚愧に於いて我見が見出されてくることを唯除の文が教えている、他者の問題ではなく、自身の問題である訳です。社会を覆っている諸問題は何が問題なのか。日常茶飯事に起こってくる事件は何を起因としているのか。それを「誹謗正法」として押さえている『無量寿経』を大乗至極の教えとし、正依の経典としている浄土真宗が、正・像・末を貫いている本願一仏乗とし開顕されていることに有り難さを感ずるわけです。助かりたい、救われたいと思っていることが我見であった。どこまでいっても助からん身であった、私はあなたのこと何一つわかっていません、すべては私が作り上げた影でありました、影を見てあなたを判断している私に気づかされました、気づかされましたが、あなた自身を見ることは出来ませんということを知らされました、無慚無愧の我が身であります。私から出てくる自覚は「唯除」そのものなのではないでしょうか。「唯除」の自覚にのみ、人間性回復の道が開かれているのでしょう。

 いのちの営みは、
  はるか彼方の、いつとも知れず、あらゆる‟えにし(縁)〟のつながりにおいて、私にまで届いた。
  届いたいのちは、またはるか彼方の、いつとも知れず、あらゆる‟えにし〟のつながりにおいて受け繋がれていくのであろう。

 別境に「念」の心所がある。念の熟語には、念仏、憶念、信念etc、「念」は何を意味するのでしょう。
 念の心所は無記の性格?
 『成唯識論』巻第三に、「恒とは謂く此の識は無始の時より来た一類に相続して常に間断なくして、是れ界と趣と生とを施設する本なるが故に。」と。阿頼耶識の性格を明らかにしていますが、この一類・相続・無間断が念の性格でもあるんですね。
 念、曾習(ゾウジュウ)の境、即ち「無始の時より来た一類に相続して常に間断なく」、はっきりと記憶して忘れない性格なんですね。明記不忘だと。これが私のところまで届いている、業果ですね。欲界・人間趣・胎生という在り方を決定してきたのですね。
 人間界にのみ与えられた方向性。求める存在だということでしょう。何かを求めている。漠然としていても、不安を取り除きたい、歩む方向性を見出したい。私はどうなれば一番幸せになれるのかですね。
 仏教は大きく二つの方向性だと教えたのです。涅槃と菩提です。涅槃と菩提に背く在り方を謗法と押さえたのですね。どんなに自分の理想を描いたとしても、絵に描いた餅のようなものである、それではお腹は膨れませんよ、と。
 飛躍しますけれども、人間として生をうけたのは、涅槃と菩提を求める証として念ぜられている、憶念されているということなんでしょう。無始以来、念ぜられてきた歴史が、私を通して具体化しているのですね。生まれてからの歴史ではないということでしょう。
 人間に生まれるには、人間に生まれるだけの業を積んできたという背景があるわけです。そこには、生まれたら、人間に成れという願いがかけられているんですね。「成れ」とは「気づけ」ということと一体ですね。
 気づかなければ、「染の依他」を所依とし、染とは我執ですが、我執を所依として生きていかざるを得ないのですが、その背景に「浄分の依他」が支えている。
 僕は全くの依存症ですから、我執を所依として苦しむより、すべてを丸投げして、好きなように調理してくださいとお任せすることが楽なように思うんですがね。思いがある中はあきませんね。思いとの戦いかもしれません。今日もまた悪戦苦闘しましょう、悶々として。
 

お詫び

2016-06-24 20:06:35 | 雑感
  

 例年、年に二回ほど予告もなく、下痢嘔吐を伴う体調不良をいただきます。今年も昨日からやってきました。日頃の不摂生が大方の因に間違いのないところではありますが、(僕の勝手な思い込みですが)ブログを待っていてくださいます読者の皆様には大変ご迷惑をおかけいたします。大変申し訳ございません。m(__)m
 昨日と、今日と、明日は掲載休止とさせていただきます。ご理解のほどよろしくお願いいたします。

雑感 講義補足内容

2015-11-26 23:47:28 | 雑感
  

 今日は、聞成坊様で、唯識の講義をさせていただきましたが、最後はすごくはっしょってしまいました。遠方よりお越しいただきましたのに申し訳なく思っています。経量部の主張からの一段になりますが、来月の講義までに整理をさせていただきたいと思っています。
 一応の論旨を述べさせていただきますと次のようになるかと思います。ご拝受ねがえたら幸いです。
 「次科段は、経量部の説を破斥します。
 「然るに今大乗は一切有部に同じく触の体は是れ実なりと云う(『倶舎論』第十巻に説かれる)唯、経部の一師は三和して触を成ずと云う者、大乗を難じて(大乗を批判して)曰く、触は是れ三和と説かば、何が実体有ることを得んやと。彼が計を破さんとして、故に説いて云く。」(『述記』
 大乗の論破の要旨は、
 「然るに触の自性は是れ実にして仮に非ざるべし」(『論』第三・二右) と。
 経量部の主張は、三和の他に触はないんだと、いうわけですね。三和の他に触という実体は無いわけですから、触は仮ということになります。大乗は、触は仮ではなく、触の自性は実のものであると主張します。ここに三つの証拠を挙げて論証してきます。
 触は仮のものではなく、触の自性は実であることを、三因を以て証明します。第一が、六の六法の中の心所に摂められる。
 「六の六法の中に心所の性なるが故に」(『論』第三・二右)
 ここでいう、六の六法は、『界身足論』の説です。『界身足論』は、説一切有部における六つの論書の中の一つで、六つ合わせて、『六足論』と呼ばれています。足は各論という意味ですね。『界身足論』は、『(阿毘達磨)界身足論』(あびだつま かいしんそくろん、Abhidharma-dhātukāya-pāda-śāstra, アビダルマ・ダートゥカーヤ・パーダ・シャーストラ)と呼ばれているものです。
 『倶舎論』や『阿毘達磨順正理論』等で言うところの、六内処・六外処・六識身・六愛身・六触身・六受身とでは少し違って説かれています。
 『界身足論』には、六識・六触・六受・六想・六思・六愛の六の六法を表しています。
 六識は、六識身のことで、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つの集まり。
 六触は、六触身のことで、眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触の六つの集まり。
  触とは、根(感覚器官)と境(認識対象)と識(認識する心)との三つが和合したところに生じ、生じたところから逆に和合せしめる心所をいい、根・境・識とのそれぞれ六つあ  り、三者の結合から生じる触にも六つあることになります。
 六受とは、六触から生じる六つの受の集まりことで、まとめて六受身と云う。
 六想とは、六触から生じる六つの想の集まりことで、まとめて六想身と云う。
 六思とは、六触から生じる六つの思の集まりことで、まとめて六思身と云う。
 六愛とは、六触から生じる六つの貪愛の集まりのことで、まとめて六愛身と云う。
 この場合の身とは、触所生の受身・想身・思身・愛身のことですが、すべて触から生じるということで、これが触れが自性あるという根拠になるわけです。個の根拠を以て、経量部の仮法であるという主張を論破してきます。
 「触は別に体有るべし。六の六法の中に心所の性なるが故に」(『述記』)が結論として説かれてきます。
 第二の因は、食(じき)に関してです。 
 「是れ食に摂むるが故に。」(『論』第三・二右)
 食は四食を指しますが、食が体を支えている。つまり、身を養う段食・触食・意思食・識食の食事をいいますが、この四つは身体を維持する支えとなる食なんですね。例えば触食ですが、触れるという食事という意味なのですが、私はあなたとの触れ合いの中で私の身を養っているし、養われていることなんですね。触ることにおいて身体を作っていることは、仮のものではないという証明になるわけです。
 段食(だんじき)は、食べ物一般のことですが、私と関係する時には、口の中に入れて噛み砕き、段々と食べることから段食といわれます。これも私の身体、命を支えているものですから仮のものではありませんね。
 意思食(いしじき)とは、意志と云う食事。意思を食事に喩というわけですが、浄土に生まれようと意欲を起こし希望することが心によい影響を与え、それが身体を養うことにつながるのですね。
 識食(しきじき)とは、心の深層識である阿頼耶識によって身体が生理的に維持され、寿命全うするまで腐食することなく存続されていることから、識を食に喩て識食といっているわけです。
 『成唯識論』では巻第四冒頭に、四食の証明が引かれてあります。『選注』ではp69~p71になります。
 「この四は能く有情の身命を持して壊断せざらしむるが故に名けて食と為す。」と説明されています、つまり、有情の身命を保って、身命を壊さないで保持していく働きを持つのが食だというわけです。
 冒頭の文章は、
 「契経に説かく。一切の有情は皆食に依って住すと云う。若しこの識無くば彼の識食の体有るべからざるが故に。謂く契経に説ける食に四種あり。」ここから説かれるわけです。
 触の心所は実で有ることの証明をしているところですが、十二支縁起をみましても、「触を縁として受あり、受を縁として愛あり」といわれていますように、触は直接受の基礎になっている、受の所依は触であることを語っています。このことは、五遍行においても、触が、受・想・思の所依であることを明かししているものと思います。
 『論』の「能く縁となるが故に」ということは、触が実有であり、受・想・思の所依と為ることを明らかにしているわけですね。
 『述記』にも、
 「縁起支の中の心所に摂むるが故に。愛は取に縁たるが如し。愛は思の分位なるが故に彼も亦実なりと許す。諸の心所の支は皆是れ実有なるを以てなり。・・・」と。
 受(感受作用・感情)は触が元になっており、触は処が元になっているわけです。処は根・境・識ですね。つまり、十二処・十八界が触の背景になっている。六根・六境と六識の三和から触が生起してくることが解ります。しかし、触ということが、すでにして三和しているということなのです。三和が因として、果は触。触を因として三和が果という構図になります。
 ここも、因縁変として説かれ、分別変ではないということです。考えられたものではなく、事実を事実たらしめているもの、それが触であるということ。三和して触が生まれると云うけれども、触という事実が、三和しているという事実になるわけです。説明すれば、交互因果関係になります。
 種子としてあるときは、三は和合していないのですが、種子が縁に触れて現行する時に、変異して分別(ぶんべつ)
するわけです。もの柄が違ってきます。種子が相をもつわけです。それが三和生触ということなのですね。
 安田先生は、 
 「かくのごとく、三和の用きを触が分別しているから、心心所を境に触れしめる。それが自性になる。一切の心心所を和合して、一つのグループとして境に触れしめる。つまり、眼識が起こるなら、眼識は色の知覚であるが、そうすれば、そこに色についての感情が起こる。声として境に触れれば、声というものについての感情が起こる。
 かくのごとく、触が一切の心心所を境に触れしめるのが自性であるから、他に対してはそれをもって受・想・思の根拠になるのである。」(『選集』巻第二、p211)
 と教えてくださっています。
 触は仮有のものではなく、実有であることの第三の証明として、十二支縁起で説かれている、触・受・愛を出していました。「縁起支の中の心所に摂むるが故に。愛(欲望・渇愛)の、取(執着行動)に縁ぜるが如し」(『述記』)と。
 行相所縁門をうけて、心所相応門が展開されているわけですが、種子から現行を生起する時に、根・境・識が三和合し、境に触れしめる心所として、触が語られるわけです。触れたら、そこに新たな実種を生みます。それが「異熟識が持する所の一切の有漏法の種なり、この識の性に摂めらるるが故に、是れ所縁なり。」と説かれていることなのですが、これに先立って『唯識二十論』には、次のような記述があります。
 「識は自の種従り生じ、境の相に似て転ず。内・外の処を成ぜんが為に、仏は彼を説きて十と為す。(第八頌)
 「論じて曰く、此れは何の義を説くや。色に似て現ずる識は自の種子の縁が合し転変差別すること従りして生ず。・・・」
 つまり、阿頼耶識は阿頼耶識の中にインプットされた種子より生じ、外境に似て、似た相を顕現しているわけです。
 「仮に由って我・法と説く。種々の相転ずること有り。彼は識が所変に依る。」と、識の所現は、識の所変に依ることを明らかにしたわけです。
 「識体転じて二分に似るを倶に自証に依っておこるが故に」と。
 種子から現行が生じてくるのは、種子が自己内容となることなんです。ですから、いかなる種子を植え付けるかが問題となりますが、ここで問題となることは、縁生なんです。阿頼耶識の種子より現行を生じてくるのは、縁起されたものなんですね。
 「任運に法爾にこの現前の境遇に落在せるもの」が自己存在なんですね。ここには分別の入り込む余地はないんですね。蓮如上人は「仏教は無我にて候」と教えてくださっていますが、本来、似我・似法であって、実我・実法は存在しないのです。執して、謬って錯誤しているにすぎないのですが、私たちは、無常の風に流されながらも、生まれて死ぬまで、一貫して変わらない自分が存在していると思い込んで、自分に執着を起こして暮らしています。
 ヒントになるのが、
 「阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り。心(第八識)と及び意(第七識)とに依止して、余の転識(六識)生ずることを得と云う。阿頼耶識の倶有所依も亦但一種なり。謂く第七識ぞ。彼の識無くば定めて転ぜざるが故に。論に蔵識は恒に末那と倶時に転ずと説くが故に。・・・」(『論』巻第四)
 ここはしっかりと学ばなくてはいけないところです。課題として提起しておきます。
 そこで問題提起されているのが、第四頌第三句です。
   「恒転如暴流」(恒に転ずること暴流のごとし)
 第八識は、間断することなく、恒に(無始以来・未来永劫に亘って)転じている。あたかも、ナイアガラの大瀑布のようにです。この科段は後に詳細を述べますが、第七・因果法喩門と呼ばれています。「相続」と「因・果」が課題として提起されています。
 先ず、断見・常見の問題です。
 「阿頼耶識をば、断と為すや、常と為すや。」
 輪廻と我の問題です。十二支縁起も、無我の道理を理解できませんと、「我」が存在して、それが輪廻するということになってしまいます。しかし、私たちは我を依り所として生命活動を起こしています。
 自業自得という言葉がありますが。自らの造った種は自らが摘み取らなければならないということなんです。道理なんですね。縁起されたものなんですが、自らが引き受けることができないという問題が起きてきます。縁起に逆らうわけですね。本来は縁起されたものなんです。
 「阿頼耶識は断にも非ず常にも非ず。」と。
 ここで、一類相続という、無覆無記性として恒相続しているが明らかにされます。
  「受等の性の如く即三和に非ざるべし」(『論』第三・二右)
 「触」は仮のものではなく、実の用きがあるものであることの結論を述べます。
 経量部の一師は「三和成触」という、触は即ち三和のことであって、触は仮に説かれたもので実のものだはないという主張します。。それが先に述べました、三因に由って実であることの証明をしてきたわけです。
 また経量部の一師は、三和して触を生ず(「三和生触」)と主張する。三和して触を生ずる触は三和ではないと説いているわけです。
 また説一切有部の主張は、触の体は実であるけれども、変異に分別して心心所等を生ずることはなく、ただ受等の所依になることを業とするものであると説きます。
 これらの主張を、前段では、三因を以て論破したわけです。結論の言葉が「如受等性非三和」という本科段になります。本科段の意味するところは、受等が実であるように、経量部の一師が主張する「三和が即ち触であり、三和以外に触というものはないから、三和=触であり、触という実はなく、三和そのものが触であるから、触は仮のものである。」ということはないんだと云っているわけですね。
 三和と触との関係は大変難しいところではありますが、大乗は「触の自性は是れ実にして仮に非ざるべし」と説きます。そして有部との違いは「三和して変異に分別す。心心所を境に触れしむるを以て性と為す」と。
 触は実のものであり、境に触れしめる作用があるんだと主張しています。触・受・愛ですね。触れたその時は、受の所依となることはあっても、それほどの執着はみられないのですが、触・受となりますと、受は愛着の所依となりますから執着が深くなってくるわけですね。五受相応とみましても、迷いがだんだんと深くなってきます。
 触・受は実の作用あるものですから、十二縁起の中に入っているわけですし、遍行の心所にも入っているということになります。仮に説かれたものではないということなんですね。
 やっぱり、触は因縁変なんでしょうね。考えて触れることはないんでしょう。触れた瞬間に、同時にバラバラであった根・境・識が三和して認識が起こる、触れても、認識が起こらない場合がある、その時は三和していないということであって、三和していないと対象を認識しませんから、触の心所は動いていないということになるのでしょう。