唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

東高野街道を歩く (1)

2015-05-04 09:21:18 | 東高野街道を歩く
   大阪府歴史街道ウオーキングマップを添付します。拡大してお使い下さい。今回は八幡八幡・石清水八幡宮から洞ヶ峠までの、東高野街道の散策でした。次回は、京阪交野線・郡津駅から、学研都市線・野崎まで散策したいと思います。
 写真掲載は、昨日のFBと重なりましがご容赦願います。
 
東高野街道の基点となる橋。   > 新しい道標と旧の道標。
 空海は平安初期、高野山に金剛峰寺を建て、のち
11~2世紀ごろから、弘法大師空海を尊崇する人々は、高野詣をするようになった。京都の貴族たちが高野山に詣でるルートは、東高野街道、西高野街道、中高野街道と下高野街道で大山崎からの道は東高野街道とよばれ、生駒山地西麓を経て河内長野方面に向かう旧国道170号線ルート。堺方面からは三国丘の方違神社の南を通る西高野街道の国道310号線に沿った道。この東・西高野街道にはさまれる中高野街道と下高野街道とよばれる古道が通っている。
 
 道標にある、巡検道(巡見道)とは
 巡見道は、江戸時代に幕府の巡見使(江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使のこと。)の通った道のことである。
 今回の終着点は、洞ヶ峠。 
 
 洞ヶ峠の真実をお伝えし、昨日のFB共々お読みいただいて、一度歩いて見られてはいかがでしょうか。 

  洞ヶ峠の真実
 天正10年6月2日、「本能寺の変」で織田信長を討った明智光秀は、
「中国大返し」で帰京した羽柴秀吉と天下をかけて、山城国山崎で激突した。
世に言う「山崎合戦」である。
光秀は、郡山城主の盟友筒井順慶に出兵の要請をするが、順慶はなかなか出兵せず、
兵を淀川を挟んだ洞ヶ峠に登り戦況を伺い、秀吉軍が有利とみるや、光秀を裏切り
秀吉側についたといわれる。
 この伝説から、「どちらが有利か形勢を見守る」ことを「洞ヶ峠」と呼ぶようになり
筒井順慶は「日和見男」とか「友人を見捨てた男」というありがたくないレッテルを貼られることとなった。しかしこの「洞ヶ峠」のエピソード、事実無根なんだそうだ。
 史実では、当日筒井順慶は郡山城から一歩も出ず、当然「洞ヶ峠」にも行っていない。
しかも、合戦が始まる前にすでに秀吉側に付くことを決め、その内容を手紙で秀吉に伝えていたという「日和見男」ではないのだ。
 ただし、盟友明智光秀を裏切ることには相当逡巡したようだ。
松永弾正との長年の抗争の際、和睦のために光秀が信長を引き合わせてくて以来の友人同志である。
結局順慶が秀吉側に出兵したのは、山崎合戦の翌々日ですでに勝敗も決まっていた。
「あまりにも見合わせすぎだ」と秀吉に怒られたそうだ。
しかし、順慶の判断が筒井家を守ることとなった。
光秀の死後、秀吉の家臣となり大和国を安堵されたことで、家や家臣団の命を守ったのだ
さすが、島左近の元上司だけのことはある。
 ところでこの「洞ヶ峠」に登ったのは実は明智光秀だった。
洞ヶ峠で筒井順慶の兵を待っていたが一向に現れず、空しく京に帰ったそうだ。  (以上マップ説明より一部抜粋)