唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (103) 開導依 その(6) 安慧等の説 (1)

2011-05-31 22:17:03 | 心の構造について

 第二説は、安慧等の説を述べる。

 初めに難陀等の説を論破し、後に自説を述べる。

 「有義は、前の説は未だ理を究むと為さず。」(『論』第四・ニ十三右)

 (有義は安慧等の説です。安慧等は、前の難陀等の主張は未だ理を究めたものではないと否定する。)

 「述して曰く。安慧等の解なり。文に其のニ有り。一に破斥し、ニに正義を申ぶ。破の中に三有り。一に総じて非し、ニに別して破し、三に結す。此れは即ち第一なり。前のは全非なりと撥するが故に未だ究めずと言う。」(『述記』第五本・ニ左)

 安慧等の説は『述記』によります。「未だ理を究めたものではない」と第一師の説を破斥します。


第二能変 所依門 (102) 開導依 その(5) 難陀等の説

2011-05-30 22:17:25 | 心の構造について

 『成唯識論』では開導依について三師の説が紹介され、護法の説をもって正義とされることは論をまちません。第一師は、今まで紹介してきました難陀等の説です。第二師は安慧等の説になり、第三師が護法の説になります。

 前五識の開導依 

   難陀等 - 第六識

   安慧等 - 自類と第六識

   護法等 - 自類

 第六識の開導依

   難陀等 - 前五識と自類

   安慧等 - 自類と第七識と第八識

   護法等 - 自類

 第七識の開導依

   難陀等 - 自類

   安慧等 - 自類と第六識

   護法等 - 自類

 第八識の開導依

   難陀等 ー 自類

   安慧等 - 自類と第六識と第七識

   護法等 - 自類

 自類というのは、眼識は眼識を耳識は耳識を開導依としていることを意味します。

 難陀等の説をまとめますと、難陀等の主張は、前五識の開導依は第六識、第六識の開導依は前五識と自類、第七識・第八識の開導依はそれぞれ自類とするという。第七識及び第八識は「第七・八識は自ら相続するが故に他の識に引生せらるることを仮らず。」ということが根拠になります。難陀等の説の特徴は他の師にはみられない前五識の開導依に自類が入っていないことです。その理由として「五識は、自と他との前後に相続せざるが故に」といい、「必ず第六識に引生されるが故に」と述べています。

 即ち、五識は五識同士が連続して相続することがなく、必ず第六識が介在すると主張し、また、五識は二刹那にわたって相続することはなく、必ず第六識に引生されて生起するというのです。五識と第六識が交互に生起するという説です。「・・・第六識ー眼識・・・第六識ー耳識・・・第六識ー鼻識・・・」というように。従って難陀等の主張は五識の開導依はその前念に存在する第六識のみとなる、ということになります。

    


『唯信鈔文意』に聞く (34)

2011-05-29 17:20:27 | 信心について

          『唯信鈔文意』に聞く (34)

                蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』 より

 「空というのは如実の観察です。それが法性なんです。法性という意味ございます。すべての存在の根本が空である。根本ということは、もとということになると、あるがままですね。あるがままが空である。やがてなくなる意味で空というわけでもないんです。それは断空というんです。辺空というんです。いずれ無くなるんだというんです。あるがままに空である。あるがままを、煩悩の観察で我々は有と見ておるが、そのまま空なのだ、と。それをありのままに知ったというのです。

 法性という意味には、こういう意味がございますから、ですから「法性のみやこ」です。法性はそのまま「みやこ」なのです。あらゆる存在の本性、性、これは根本と。ですから、松の木の本性へかえれば一切万物の本性へかえったことになるわけです。

 「法性のみやこへかえるともうすなり。法性のみやこというは、法身ともうす如来の、さとりを自然にひらくなり。」

 いわゆるさとりを自然に開くのである。如来のさとりを法身というわけです。つまり法性というものを身とせられるのが如来。なぜかというたら如来の智慧は、一切万物の本性をさとる智慧、さとったらその智慧の中に一切万物がみな摂まるわけです。空ですから、空なるが故に一切万法ことごとくその身におさまる。したがって如来のさとりを法身というのでございます。法身という如来のさとりです。つまりあらゆる存在が如来の身となるわけです。つまり我々のからだと一緒です。我々が頭の髪の毛まで自分の体のうちだといえるのは、ひっぱると痛いからです。ひっぱっても痛くなければ病気になったんでしょう。爪でもやっぱり切り違うと痛いですからね。掻き傷が出来ても血が出るという。そういう意味で法身というのであります。法性を法身ともいう。あわせて「法性法身」ともうします。法性というのは万法について名を立てる。法身というたら仏について名を立てるわけです。一緒にして「法性法身」というのは仏のさとりをあらわすことになります。

 そういうわけで、「さとりをひらくときを、法性のみやこへかえるともうすなり」と。「さとりをひらく」ということは、つまり一切の万法の根本の性をさとるわけです。したがって、その智慧は空智ともうしまして、あらゆるものを入れるわけです。どんなものをも入れられる。空でありますから。空でなければ、はまりませんけれども、空であるからどのようなものでも、栗のいがらであろうと、それから刃であろうとも、槍であろうとも、入れられる。それが空です。

 それから「みやこ」というときには、一切の万物のあつまるところでしょう。「みやこ」というのは、国中の人間なり、文化なり、あらゆる富なりがあつまるところです。一切万物の功徳、利益、値打ちのことごとくがあつまるところ、そういう意味で「みやこ」というのでございます。人間世界の「みやこ」というのでございます。人間世界の「みやこ」は一国に一箇所しかありませんけれども「法性のみやこ」ともうしますのは、さとりのところに、人がさとりをひらいたらそこに「みやこ」というものがある。この「みやこ」という意味をあらわしたものが極楽浄土です。その意味で極楽浄土というのは、「法性のみやこ」という意味をあらわし、あらゆる功徳がことごとく満足して一つも欠け目のないという意味を説かれるわけも、こういう仏法の道理からもうして当然のことでございます。しかしこの場合は、何も往生浄土だけでありません。この世においてさとってもそうなのです。どこでさとりましても、さとった世界は極楽浄土だと、こういえるのであります。

 そういう意味で、いま念仏の往生が真のさとりであるということを示されるのですが、その真のさとりであるという意義をことごとくそなえておる意味において、こういうふうに、法性とか、法身とかいうような意義をもって説明せられておるわけです。法性のさとり、法身のさとりというものをひらくということが大乗仏教です。つまり聖道門のさとりの究極の目標であります。あおのために極楽に生まれたいと願うわけでありますから、したがって真実のさとりであるということをそれによって説明せられるというわけであります。

    (法性ということ、その(1) 完 ・つづく)


第二能変 所依門 (101) 開導依 その(4) 難陀等の説

2011-05-28 23:34:53 | 心の構造について

 パソコンがフリーズつづきで迷惑をかけています。ストップエラーらしいのですが、実はハードデスクの損傷です。今日は息子のパソコンを使って書き込みをします。暫らくは飛び飛びになるかもしれませんがお許しください。

   - 難陀等の第七識と第八識の開導依について  -

 「第七・八識は、自ら相続するが故に、他の識に引生せらるるを仮らざるが故に、但自類を以てのみ開導依と為すという。」(『論』第四・二十二右)

 (第七識と第八識は自ら相続し生起する識であるから、他の識の力を借りることなく、但だ自類を以てのみ開導依とする、という。)

  •  自類 - 第七識では前念の第七識、第八識では前念の第八識を指す。「但以自類為開導依」というのは、第七識は前念の第七識のみ、第八識は前念の第八識にみがそれぞれ開導依となるという意味になります。

 「述して曰く。自ら相続するが故に、他の力に引生せらるることを仮らざるが故に、但自類を以てのみ依と為す。

 問うて曰く、平等智の起るが等きの時に何ぞ(第六)は此れ(第七)が(開導)依に非ざるや。

 答う、彼(第七)れは先より自ら生ぜり。但だ第六識の由っては、其れ(第七)をして転変せしむるのみ。今の(六の)引くに由って方に始めて起らしむるには非ず。故に(六)は此れ(第七)が依に非ず。彼(第六)は力疎遠なるを以てなり。此れは常徒の義なり。」(『述記』第五本・ニ右)

 この問答は、平等性智の起こる時の問題を尋ねているのですね。第六識が無漏になった時、その時には第七識も無漏となって平等性智と相応するけれども、その場合、無漏の第六識は無漏の第七識の開導依となるのではないのか、という問題です。その答えが、第七識はもとより自ら生じているものであり、無漏の第六識は無漏の第七識を転変させただけであって、第七識は第六識の引生に由って起こるものではない。このように無漏の第六識も無漏の第七識の開導依ではないのである、という。第六識は力疎遠なるを以てである、これは常徒の主張である、という。

 以上が難陀等長徒の開導依に対する主張である。

 


第二能変 所依門 (100) 開導依 その(3)

2011-05-24 22:49:48 | 心の構造について

 難陀等長徒の第六識の開導依についての主張

 「第六意識は、自ら相続するが故に、亦五識に引生せらるるに由るが故に、前の六識を以て開導依と為す。」(『論』第四・二十一左)

 「述して曰く。或いは五識に引生せらるるに由るが故に。彼の第三に五識の無間に必ず意識生ずと云へり。故に是れが証なり。即ち明了心の後に意識を生ずるを以て、即ち自(第六識)と及び五識とを以てす。合して八識の中には前六識を以て開導依と為す。」(『述記』第五本・二右)

 難陀等の主張は、前五識は、ただ一刹那に生起して、二刹那以上に必ず相続しないから、自類を以て開導依とはせず、又五識は他識に続いて生ずるものではないから、余の四識をも開導依とはしない。しかし、一刹那の五識生じ已われば、無間に必ず意識が生じ、これから無間に、或る時には散乱し、或る時には耳識生ずる等、意識に随って転ずと説く。次に、第六識は自類相続するから、前念の自識を以て開導依と為し、また意識の前念には、必ず五識が起こるから、五識をも開導依と為す、と。これは第六識が五境を縁じる時、第六識は五識を認識する箇所として五境を認識するので五識を開導依とするという説を立てています。


第二能変 所依門 (99) 開導依 その(2)

2011-05-23 21:58:35 | 心の構造について

 難陀等長徒の説を述べる。

 「必ず第六識に引生せらるるが故に、唯第六識のみを開導依と為す。」(『論』第四・二十一左)

 (五識は必ず第六識に引生(いんしょう)されるのでただ第六識のみを開導依とする、という。)

 難陀等長徒の主張は「五識は、自と他との前後に相続せざるが故に」と述べられていました。即ち、五識は二刹那にわたって相続することはなく、必ず第六識に引生されて生起するというのです。五識と第六識が交互に生起するという説です。「・・・第六識ー眼識・・・第六識ー耳識・・・第六識ー鼻識・・・」というように。従って難陀等の主張は五識の開導依はその前念に存在する第六識のみとなる、という。その論証として、『瑜伽論』巻第三を挙げ、その証としています。

 「前に縷々引くが如し。自力を以て生ずるものには非ず。彼の第三に又眼識等は意識に随って転ずと説くと云へり。亦是れは唯第六意識を以てのみ無間依と為す。第七・八識は此に於て力無きを以て此れを引いて生ぜしめざれば此れが開導には非ず。故に前五識は各唯六にのみ依れり。」(『述記』第五本・初左)

 「第一は難陀等なり。瑜伽の第三に云く、又五識身は二の刹那有りて相随って倶生するにも非ず。亦展転して無間に更に互いに生ずること無し。又一刹那の五識生じ已って此れに従って無間に、或る時は散乱し、或ときは耳識生ず。或いは五識身の中に随一の識生ずと云へり。此の師は文に准じて、五識は倶生すと許さず、亦二の刹那続する無し、亦更に互いに生ずるにも非ず。若しは後に必ず意識起こる。是の故に五識は必ず第六を用いて開導依と為すと云う。」(『了義燈』第四末・十九右)

 上記が『述記』及び『義燈』の中に述べられている『瑜伽論』巻第三の記述です。

 (1) 眼等の五識は無分別であるから、眼識等の識は第六識に従って活動する。

 (2) 五識身は二刹那存在し交互に生ずることはない。又展転して無間に交互に生ずることもない。亦一刹那の五識身が生じ已ってから無間に必ず意識が生ずる。

 という諸文から、五識の開導依は第六識であり、五識身は二刹那存在し交互に生ずることはなく、また展転して無間に交互に生ずることもない、という説を立てる。


『唯信鈔文意』に聞く (33)

2011-05-22 17:37:03 | 信心について

           『唯信鈔文意』に聞く (33)

                 蓬茨祖運述 『『唯信鈔文意講義』より

  「そういうことで人間が考えますというと、発展説になるわけです。ところが、いま諸法を物などといわないで、物という考えもふくめるんです。こころもふくめる。人間の考えですからすべてはこころになるわけです。ものというものも人間の考えですからね。ものなんだ、物質なんだという考えですからですね。物質という証拠には、触れるとこに在るでないかと思う。人間がそう思うだけのことです。

 諸法、よろずの存在するもの。ものと思うておるものであれ、こころと思うておるものであれ、すべてのものは根本は何かというと、これは簡単なんです。これは分かりやすくもうしますと、縁起です。諸法の根本は縁起である。なんでもない話です。仏教からもうしますれば当たり前なんです。諸法の根本は縁起である。縁起の理というものをさとったのが仏なのです。縁起の理をさとったら、すなわちこれ一切万法をさとったのです。一切万法というものが明瞭になったということです。

 では、縁起ということはどういうことかともうしますと、あらゆる存在はみな相互関係よりほかないんだということです。陰子とか、陽子とか、中性子とかいうのは相互関係だけです。ですから中間子というのはどういうものか。ちょっと見せてくださいといって、顕微鏡でみれるものでないんです。あれ、なんにも見られないのです。ちかよると害になるだけです。ですから結局鉛の箱へ包んでおくのでしょう。重水素というようなものです。ウラニュウムから抜け出した、そういう物質ですね。それで鉛の箱に入れておくんです。そうすれば、相互関係のもとに存在するものです。それを取ってしもうたら駄目なんです。散らばってしまいましてですね。ですから、相互関係のもとに存在するものばかりである。その他にないんだということをさとったのが仏なんだ、と。そういうことなんですね。

 ところが、分かるのとさとるのとは違うんです。「なるほどそうか」では「さとった」にならんのです。なぜかというたら、腹が減ってきたというのは相互関係です。縁起です。そこを、さとればいいんでしょう。さとれんからまた食べるんです。それはさとっておらん証拠です。ですから、さとってしまえば、腹が減ってきたら減ってきたで、別に苦しまんでいいんです。それからまたよけいに食べんでもいいんです。よけい食べれば、相互関係がバランスを失って苦しむんです。どれくらいのものを摂っておれば、きょう一日、適当な状態でおれるかということになるのです。縁起の理をさとっておればですよ。けれどもそううまくできないのです。

 諸法は縁起である。もう一つは、ここに来るんです。それは空ということです。この二つを考えなければ法性はわかりません。諸法は何であるか。縁起である。縁起なるが故うに空である。ここにその法性が出てくる。法性という概念の意味なんです。諸法という存在の性は空なのだ。こればっかりいうからわからんのです。もろもろの存在は縁起のほかない。縁起の理によって生じたものだと。その縁起の理をさとったのが、すなわちさとり、法身なのです。その縁起の理をさとったというが、縁起の理とは何かというと、空なのだ。諸法は空である。この三段階で理解をする必要がありますけれども、普通はあまりこれを理解しないので「法性」という意味がわからないないのです。

 ここに松の木がある、という。松の木が空だというんです。松の木は空なのだ。でも、ぶつかったら、こぶが出来るでないか。そうだ、と。それは相互関係で、こぶが出来た。空であるが故に、こぶが出来たのである。それは、空であるが故にまたひっこむ。そういうわけです。松の木だって、いまに枯れたり、切られたりして、無くなる。あるがままに空であるという智慧なのです。あるものを消してしまって空ではない。自分達の狭い煩悩の観察というものを破って、あるがままに空であるという。そういう如実の観察、如実の観察の内容が縁起である。如実の観察の縁起の状態ほど微妙なものはないんです。実にこの死せるものまでが生きておるという。死んで、我々からいうと命のない、なんの価値もないというものまでが、やはり渾然とした生命をもっておるというふうに見えるわけです。

 したがって煩悩の立場から見たところの存在、我々の煩悩の立場から見たら固定して見える。松の木というものがあるんだ、と。あそこに、いつまでもあるんだ、と。もとからあるんだと思うておるんです。小さいのから大きくなったということがありながら、我々はもとからあるんだという意識なんです。ですから、枝が出てくるでしょう。そらが邪魔になりますから、はしごを出して切ります。折りますでしょう。場合によっては、「人の松の木をことわりもせんと、なんだ」と、どなられるんですね。なんでか。もとからあると思うておるからです。もとは無かった。もとは地面だったのでしょう。いつのまにか、そこに生えたのですからしかたないです。ところが、そういうことは見て知っておりながら、「おれんとこの松の木を切ってなんだあー」と、怒りに来るんです。こちらのほうも、のびてしまわないさきに枝を切っとけばよいのです。前に出てくるぞと思うたら、ぷちんとハサミをかけて切っとけばいいんです。    (つづく)

 前回からの配信が私事の為に随分遅れましたことをお詫びいたします。「唯識に学ぶ」書き込みも開導依の入り口で停滞しておりますが明日から再開したいと思いますのでよろしくお願いいたします。


2011-05-19 23:06:19

2011-05-19 23:06:19 | インポート

ブログの更新が遅れています。申し訳ありません。出来るだけ早く再開したいと思っています。予定では、今週の日曜日を再開の日とさせていただきます。それと、この一週間の間にいろいろなことを考えさせられました。そのこともあわせて報告させていただきたいと思います。


第二能変 所依門 (98) 開導依 その(1)

2011-05-15 16:19:01 | 心の構造について

 等無間縁依(開導依)について

 『論』第四・二十四右(大正31・21b-12)に護法の正義が記されています。その文章をみてみます。

 「開導依というは、謂く有縁の法たり、主と為り能く等無間縁と作る。此れ後に生ずる心・心所法に於て開避し引導するを以て開導依と名づく。此れは但心のみに属す。心所等には非ず。」

 一刹那前に滅した心を開導依というのです。前念の一刹那を開避し、後念の心・心所を引導して障りなく生起させる前滅の心・意根をいう。即ち諸の心・心所は、この開導依なくしては生起することが不可能であり、すべての心・心所は開導依(等無間縁依)に託して生起するのです。

 しかし、この開導依に難陀・安慧・護法の異説があり、初に難陀等の説が述べられ、つぎに安慧等の説が述べられ、そして最後に護法の正義が示されます。

      -  難陀等長徒の説 -

 「後の開導依において、有義は、五識は、自と他との前後に相続せざるが故に、」(『論』第四・二十一左)

 (後の開導依について、有義(難陀等長徒の説)は、五識は自類の五識と異類の五識との前後に相続しない、という。)

 『述記』はここから、巻第五本に入ります。

「述して曰く、即ち是れは難陀等長徒の義なり。文は分けて三と為す。一に五識を弁じ、二に第六を弁じ、三に七・八を弁ず。此れらは即ち初なり。此の依は即ち初なり。此の依は末に居せるが故に復後と言う。開導依の名は前にすでに釈せるが如し。」(『述記』第五本初)

 等無間縁依(開導依)についての異説を述べ、最後に護法の正義を示します。

 第一説、難陀等長徒の説が述べられます。これが三つに分けられて説明されます。

 (1) 五識の開導依について説明され、

 (2) 第六識の開導依について説明され、

 (3) 第七・八識の開導依について説明されます。

 「五識は、自と他との前後に相続せざるが故に」というのは、五識は五識同士が連続して相続することがなく、必ず第六識が介在する、という意味になります。

 随って、難陀等の五識の相続に関する立場は、「『瑜伽』等第一に五識に六業有りと云う中の第四の業に、唯一刹那のみ了別すと云い、彼に第三に又五識身には二の刹那有って倶生するものに非ず、亦展転して無間に生ずるものにも非ずと云えるが如し。

 故に大乗の中に於いて五識は唯一刹那にして必ず相続すということ、始終必然せり。又彼の第三には、又一刹那の五識生じ已って此れより無間に必ず意識生じ、此れより無間に或時には散乱し、或ときには耳識生じ、余の五識の中の随一いい生ず等と云えり。故に知んぬ五識は自類の前後にも及び他の前後にも相続せずということを。」(『述記』第五本初)

 眼識ー耳識ー鼻識(異類の相続)という生起の有り方、或いは二刹那にわたっての相続(自類の相続)、眼識ー眼識という生起の有り方はないという。五識は必ず一刹那に滅し、次の刹那には必ず第六意識が介在し、連続して五識が相続することはないと、難陀等は主張する。

 尚、護法正義においては三性倶起説を立てる。難陀等の主張するような五識が一刹那で滅してしまう(「有義は、六識は三性倶に非らず。」)のではなく、多刹那にわたっても存在するという。

 「卒爾(そつに)と等流(とうる)との眼等の五識は、或いは多にも或いは少にも倶起す容きが故に」と。

 2010年4月29日~5月15日の項を参考にして下さい。

 難陀等長徒の説は六識における三性同時の倶起はないという立場に立ちます。

 お詫び 今週の『唯信鈔文意に聞く』は明日に記載します。あしからずご了承お願いいたします。


第二能変 所依門 (98)

2011-05-13 22:52:19 | 心の構造について

 私事ながら、病気療養中の父が、5月10日午後6時48分、大きな波が押し寄せ、やがて中波になり、濤波の水に依るがごとく静かに息を引き取りました。私は今まで父からは何も学ぶことがないとばかり思っていましたが、大変な過ちをおかしていたようです。父は無言のまま 私に生きることの意味と命の意味を教えてくれていました.。私は何となく明日もあり、明後日もあり、限りなく死する命はないと思って生きていました。しかし、父の生き方はそうではなかったのです。死を直前にして、大きく吸い込む息、そして吐き出す息、刹那刹那に輝きを放つ生命の息吹が父にはあったのです。私にとっては如来の叫びそのものに外なりませんでした。命は一瞬一瞬輝きを放っているのですね。その輝きを曇らせているのは私自身に外ならなかったのです。「譬如日光覆雲霧 雲霧之下無闇」 たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし、と。

 唯識はその三、等無間縁依(開導依)に入ります。明日より再開しますので、ご指導のほどよろしくお願いいたします。