等無間縁依(開導依)について
『論』第四・二十四右(大正31・21b-12)に護法の正義が記されています。その文章をみてみます。
「開導依というは、謂く有縁の法たり、主と為り能く等無間縁と作る。此れ後に生ずる心・心所法に於て開避し引導するを以て開導依と名づく。此れは但心のみに属す。心所等には非ず。」
一刹那前に滅した心を開導依というのです。前念の一刹那を開避し、後念の心・心所を引導して障りなく生起させる前滅の心・意根をいう。即ち諸の心・心所は、この開導依なくしては生起することが不可能であり、すべての心・心所は開導依(等無間縁依)に託して生起するのです。
しかし、この開導依に難陀・安慧・護法の異説があり、初に難陀等の説が述べられ、つぎに安慧等の説が述べられ、そして最後に護法の正義が示されます。
- 難陀等長徒の説 -
「後の開導依において、有義は、五識は、自と他との前後に相続せざるが故に、」(『論』第四・二十一左)
(後の開導依について、有義(難陀等長徒の説)は、五識は自類の五識と異類の五識との前後に相続しない、という。)
『述記』はここから、巻第五本に入ります。
「述して曰く、即ち是れは難陀等長徒の義なり。文は分けて三と為す。一に五識を弁じ、二に第六を弁じ、三に七・八を弁ず。此れらは即ち初なり。此の依は即ち初なり。此の依は末に居せるが故に復後と言う。開導依の名は前にすでに釈せるが如し。」(『述記』第五本初)
等無間縁依(開導依)についての異説を述べ、最後に護法の正義を示します。
第一説、難陀等長徒の説が述べられます。これが三つに分けられて説明されます。
(1) 五識の開導依について説明され、
(2) 第六識の開導依について説明され、
(3) 第七・八識の開導依について説明されます。
「五識は、自と他との前後に相続せざるが故に」というのは、五識は五識同士が連続して相続することがなく、必ず第六識が介在する、という意味になります。
随って、難陀等の五識の相続に関する立場は、「『瑜伽』等第一に五識に六業有りと云う中の第四の業に、唯一刹那のみ了別すと云い、彼に第三に又五識身には二の刹那有って倶生するものに非ず、亦展転して無間に生ずるものにも非ずと云えるが如し。
故に大乗の中に於いて五識は唯一刹那にして必ず相続すということ、始終必然せり。又彼の第三には、又一刹那の五識生じ已って此れより無間に必ず意識生じ、此れより無間に或時には散乱し、或ときには耳識生じ、余の五識の中の随一いい生ず等と云えり。故に知んぬ五識は自類の前後にも及び他の前後にも相続せずということを。」(『述記』第五本初)
眼識ー耳識ー鼻識(異類の相続)という生起の有り方、或いは二刹那にわたっての相続(自類の相続)、眼識ー眼識という生起の有り方はないという。五識は必ず一刹那に滅し、次の刹那には必ず第六意識が介在し、連続して五識が相続することはないと、難陀等は主張する。
尚、護法正義においては三性倶起説を立てる。難陀等の主張するような五識が一刹那で滅してしまう(「有義は、六識は三性倶に非らず。」)のではなく、多刹那にわたっても存在するという。
「卒爾(そつに)と等流(とうる)との眼等の五識は、或いは多にも或いは少にも倶起す容きが故に」と。
2010年4月29日~5月15日の項を参考にして下さい。
難陀等長徒の説は六識における三性同時の倶起はないという立場に立ちます。
お詫び 今週の『唯信鈔文意に聞く』は明日に記載します。あしからずご了承お願いいたします。