唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (57) 触等相応門 (39)

2011-11-19 22:38:55 | 心の構造について

 「疑」について (昨日のつづき)

 「疑とは(有無の)二分を猶予して決定せざる心所を性と為す。まさに知るべし、此の疑をば略して五相の差別に由りて建立すと。謂く (1)他世 (2)作用 (3)用果(因果)と (4)諸の諦(四諦) (5)実(三宝)の中に於て心に猶予を懐く等なり。(『瑜伽論』巻第五十八)

 疑う対象として五相が挙げられている。『論』ではそれらをまとめて諸の諦理といい、四諦とそれを貫く事と理があげられる。疑とは、因果の理の存在を疑い猶予する心である。 

 「云何なるをか疑と為す。 諸の諦と・理とに於いて猶予するをもって性と為し。不疑の善品を障ゆるを以って業と為す。謂く猶予の者には善生ぜざるが故に」(『論』第六・十三左)

 「諦」は四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)のこと。「理」はその真理ですね。

 「疑ハ、何事ニモ其ノ理ヲ思ヒ定ムル事アタハズシテ兎角疑フ心也。」(『二巻鈔』)と良遍は簡潔に述べています。この疑う心は事と理にくらい無明から生じ、その結果、不疑の善品を障碍するのです。事と理とを信ずることができず、善を為すことを障えるのですね。

 少し脱線しましたが、「疑」の定義を伺いながら、十遍染説に於る疑と邪勝解の問題を再考します。前科段に於て「若し邪欲と邪勝解無き時には、心いい必ず諸の煩悩を起こすこと能はず」と。煩悩が生起する時には必ず邪欲と邪勝解が存在すると説かれていました。十遍染師は「疑」の煩悩は「理のみを猶予」するといい、遍染の随煩悩である邪勝解は事を印持する随煩悩であるとし、疑と邪勝解は相応するのであると説きます。ここに問題が生じるのです。「諦理等を疑するが如き豈印持有らんや」(諦理等を疑うような場合にどうして事を印持する邪勝解の働きがあるのか?)疑と邪勝解が相応するということであれば、一つの識に同時に二つの心所がばらばらに異なった対象を認識するという、あり得ないことが起こってきます。あり得ないということであるなら、この二つの心所は相応しないということになり、邪勝解は遍染の随煩悩ではないということになります。この問に対して十遍染師が会通しているのがこの科段になり、昨日の記述のような答えを出しています。即ち疑が理を疑う時にも、「色等の事に対し必ず猶予することがない」と邪勝解が生起し印持していることを述べています。それを『演秘』には「疑と勝解は倶時に生ずれども、境は理と事有り。疑は理を縁ず。勝解は事を縁ず。既に同じく取らざるを以て、便ち同一所縁の疑に違しぬ」と述べているのです。疑と邪勝解は相応し得ると十遍染師は主張します。


第二能変 心所相応門 (56) 触等相応門 (38)

2011-11-18 22:19:19 | 心の構造について

 「問う、如(いま)諦理等を疑するに豈印持有らん耶。」(『述記』)

 (問う、いま四諦の理等を疑うような場合にどうして邪勝解の働きがあろうか。)

この問に対しての十遍染師の答えが本科段になります。

 「諸の理を疑うときには色等の事の於には必ず猶予すること無し。故に疑と相応して亦勝解有り。」(『論』第四・三十四左)

 (諸々の理を疑う時には色等の事に対し必ず猶予することがない。よって疑と相応してまた勝解が存在する。)

  •  猶予(猶預) - 疑い。疑惑のこと。

 十遍染師は疑の煩悩に対して、疑は理のみを猶予(疑う)する煩悩であると主張します。従って事に対しては猶予することがない。邪勝解は事を認識し決定(印持)する随煩悩であるので、疑と相応して邪勝解が存在するというのである。(護法は疑の煩悩は理と事を疑うとする。)

 この十遍染師の疑における理と事については「一心に事・理の二境を縁ず」るのであり、「理の於に疑うべきは事の於には必ず印せり。独り理のみを縁じて事の於に印せざることは有ること無きが故に」と。理に対し疑う時にも事に対して印持していると述べています。所縁は同一であるけれども行相は別であると。事と理とは相依関係から述べられているのです。「事と理と別なりと雖も然れども必ず相依す。」(『演秘』)と。また「疑と勝解と倶時に生ずれども、境に理・事有りて、疑は理を縁じ、勝解は事を縁ず」と述べ、疑も邪勝解も同じ体を認識していると会通します。


第二能変 心所相応門 (55) 触等相応門 (37)

2011-11-17 22:16:35 | 心の構造について

 三は理を立てる。邪欲と邪勝解が遍染の随煩悩であることを説明する。

 「若し、邪欲と邪勝解無き時には、心いい必ず諸の煩悩を起こすこと能はず。」(『論』第四・三十四左)

 (もし、邪欲と邪勝解が存在しない時には、心は必ず諸々の煩悩を起こすことはできないであろう。)

 「此れは即ち総じて染心ありと言うなり。」(『述記』第五本・五十八右)

 五遍染師及び六遍染師が染心に遍在しないとする邪欲と邪勝解が染心に遍在する遍染の随煩悩であることの説明がされます。邪欲と邪勝解が存在しないのであれば諸々の煩悩を起こすことはできない、と。諸々の煩悩が生起しているということは、とりもなおさず邪欲と邪勝解が存在するということの証明になる、と主張します。第七識は「恒に四煩悩と倶である」ということは、第七識には邪欲と邪勝解が恒に存在しているということです。

 「何の所以か有る。」(邪欲と邪勝解が存在しなければ煩悩が起こらない理由を問う。)

 「所受の境の於に要ず合離せんと楽い、事相を印持して方に貪等の諸の煩悩をば起こすが故に。」(『論』第四・三十四左)

  •  所受の境 - 認識対象のこと。
  •  事相 - 存在のありよう。
  •  印持 - 決定的に理解すること。印可任持のこと。

 (所受の境に対し必ず合しよう離れようと欲し、事相を印持して、まさに貪などの諸々の煩悩を起こすからである。)

 問に対する答えが示されます。諸々の煩悩が生起することは、所受の境が有為にせよ無為にせよ自分にとって都合のいいもの、都合の悪いものという自己中心という有り様が秤となって生起するものである。都合のいいものに対しては合しようと欲し、都合の悪いものに対しては離れようと欲するために必ず邪欲は存在し、事相を印持しなければならないために邪勝解も存在しなければならないと主張します。

 「述して曰く、何れの世(過去・現在・未来)ぞ有為か無為かということを問はず。法、己に順ぜる者、要ず合せんと楽うが故に、法が己に違せる者、要ず離れんと楽う。故に先には或いは貪を起こし後には或いは恚を起こす。」(有何所以論。於所受境至諸煩惱故 述曰。不問何世有爲無爲。法順己者要樂合故。法違己者要樂離故。先或起貪。後或起恚)

 「若し是れ不愛不憎の境には処中の欲有り。即ち是れ不合・不離の欲なり。(自分に都合のいいことも、よくないこともない、いずれでもない対象に起こす欲も邪欲である、と) 此れが中に摂せらる。・・・・・・若し境界の於に合・離せんと楽はず及び印持せざるときは即ち煩悩なし。煩悩なき時には邪欲と及び邪勝解となかるべし。此の二種は遍行に非ざるに由るが故に、故に染汚心には要ず定んで欲有って所受の境に於てす。・・・・・・既に要ず欲楽し及び印持するが故に方に貪等を起こす。是の故に此の二は染心に無きに非ず。即ち十有りと証す。・・・・・」(『述記』第五本・五十八左)


第二能変 心所相応門 (54) 触等相応門 (36)

2011-11-16 22:03:50 | 心の構造について

 第三、十遍染師の説 

 初に遍染の随煩悩は十有ると主張し、二に証を引き、三に理を立て、四に違を会通する。

 この科段は初である。

 「有義は復た十の随煩悩いい遍く一切の染心と相応すと説くべし。」(『論』第四・三十四左)

 (有義(十遍染師)は、また十の随煩悩が遍く一切の染心と相応する、と説く。)

 第三師の説を述べています。遍染の随煩悩は十有ると主張するところから十遍染師の説といわれます。即ち第七識と相応する遍染の随煩悩は掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知・邪欲・邪勝解の十であるとします。そしてこの十の随煩悩が遍く一切の染心(不善と有覆無記)と相応するのである、と。

 そして、その証拠を挙げて論証します。

 「瑜伽論に、放逸と掉挙と惛沈と不信と懈怠と邪欲と邪勝解と邪念と散乱と不正知の此の十は一切の染心に起こる、一切の処三界繋に通ずと説けるが故に。」(『第四・三十四左)

 (『瑜伽論』巻第五十八に「放逸と掉挙と惛沈と不信と懈怠と邪欲と邪勝解と邪念と散乱と不正知の此の十随煩悩は一切の染汚心に通じて起こり、一切処三界の所繋に通ず。」と説かれている。)

 「述して曰く、下は証を引くなり。五十八巻なり。惛と掉と不信と懈怠と放逸との五種有りと説くは、即ち初の師に同なり。忘念と悪慧と散乱と三種有りと云うことは第二の説に同なり。欲と勝解とを加える故に遍に簡ぶなり。」(『述記』第五本・五十八右)

 (注) 初の師は五遍染師の説。第二の説は六遍染師の説を指します。「欲と勝解とを」は邪欲と邪勝解を加えるということ。尚、『瑜伽論』巻第五十八には随煩悩と名づける理由が示されています.

「云何名隨煩惱。略由四相差別建立。一通一切不善心起。二通一切染汚心起。三於各別不善心起。四善不善無記心起。非一切處非一切時。」

 (云何が随煩悩と名づくるや。略して四相の差別に由りて建立す、一には一切の不善心に通じて起こり、二には一切の染汚心に通じて起こり、三には各別の不善心に於て起こり、四には善・不善・無記心に起こるも、一切処に非ず、一切時に非ざるなり。)

 四相の差別に由って随煩悩と名づけるのである、と。一の不善心に通じて起こるとは、無慚・無愧であり、二の一切の染汚心に通じて起こることは放逸等の十の随煩悩をいい、三の各別に不善心に起こるとは、小の忿等の十の随煩悩であり、「若し一生ずる時は必ず第二無し」と。四には善・不善・無記心に起こる不定の四である。「尋・伺・悪作・睡眠此の四の随煩悩は善・不善・無記の心に通じて起こる」と。

 


第二能変 心所相応門 (53) 触等相応門 (35)

2011-11-15 21:41:14 | 心の構造について

 以下は第七識に存在しない心所について説明します。(「下は無を顕すなり」(『述記』)

 「棹挙無きことは、此と相違せるが故に」(『論』第四・三十四左)

 (第七識に棹挙が存在しないのは、惛沈と相違するからである。)

 「述して曰く、下は無を顕すなり。此の惛沈と性相違せるが故に。雙べて起すべからず。」(『述記』第五本・五十七左)

 第二師(六遍染師)以外の第一師(五遍染師)・第三師(十遍染師)・第四師(八遍染師)は第七識と相応する心所に棹挙は存在すると説いていますが、この六遍染師は存在しないと主張しています。その理由をこの科段において述べています。惛沈が第七識に存在する以上、その性が反対である棹挙は存在しないのであると主張しています。

 しかし、後(『論』第四・三十五右)に護法は棹挙が遍染の随煩悩ではないという主張を論破します。

 その二は他の心所が第七識に存在しないのは、第一師及び第二師の説く通りである。

 「余の心所無きことは上の如く知るべし。」(『論』第四・三十四右)

(他の心所が第七識に存在しないことは上の通り知るべきである。)

 「上の如く」とは、第一師の説(10月6日の項)と五遍染師の説(10月18日の項)を指します。

 「述して曰く、別境の欲と及び勝解との二と、及び染汚の中の邪欲と(邪)勝解と忿等の前の十二と並せて不定の四と無きことは、前の第一・第二師の説くが如し。互に有り無しとは此に略して之を説いて余は上に説けるが如く応に知るべしというなり。」(『述記』第五本・五十七左)

 六遍染師は十九の心所が第七識と相応すると主張しています。そして第七識に存在しないとする棹挙を説き、それ以外の心所(別境の欲と及び勝解との二と、及び染汚の中の邪欲と(邪)勝解と忿等の前の十二と並せて不定の四)が第七識に存在しない理由については、第一師と五遍染師が説いた通りであると説明しています。


第二能変 心所相応門 (52) 触等相応門 (34)

2011-11-14 20:39:18 | 心の構造について

 その二は、定を加える理由を述べる。

 「並に定有ることは、一類の所執の我の境に専注して、曾て捨せざるが故に。」(『論』大師・三十四右)

 (ならびに定が有ることは、一類である所執の我の境に専注して、いまだかって捨したことがないからである。)

 「述して曰く、何の慧を以て定あるや。一類の所の執我の境に専注して暫も捨せざるが故なり。忘念の曾受の境を縁ずるが如く此れは一物を縁ず。故に定あるなり。前の師には同じからず。彼は念無しというが故に新新の現の境を縁ず。故に亦定も無しという。此れが中に之有りということは存せる所別なるが故なり。」(『述記』第五本・五十七右)

 新新(しんしん) - 現象が一刹那一刹那に生滅しながら新たに生じるありさま。新新の現の境は第八識の新新の現在の境のこと。

 第七識と相応するのに定が存在するのは、「一類である所執の境に専注」するからであると説明します。定とは心一境性と言われていますが、これは一類に相続してきた第八識を第七識は我であると錯誤し執着して自の内我として専注する。専注するが故に、「曾て捨せざるが故に」 と。その専注を止めたことがない。このことは定の性である心が散乱することなく静かに定まっている、心が一つの境に止めおかれた状態と同じことである。従って第七識に定は存在する、即ち第七識と定は相応するのであると説明しています。

 その三は、惛沈を加える理由を述べる。

 「惛沈を加うることは、謂く、此の識と倶なる無明いい尤重(ゆうじゅう)にして、心惛沈なるが故に」(『論』第四・三十四右)

 (惛沈を加えることは、、つまり、此の識(第七識)と倶である無明は最も重くして、心が惛沈するからである。)

 尤重 - 罪・過失・煩悩の程度が最も重いこと。

 「述して曰く、無明いい重なるが故に。内に迷執するが故に。外に追はざる故に。故に惛沈有り。」(『述記』第五本・五十七左)

 六遍染師は第七識と相応する心所に惛沈を加えています。惛沈は随煩悩であるが遍染の随煩悩ではないと。しかし第七識とは相応すると主張します。尚、惛沈については2010年2月15日の項を参照してください。)惛沈の存在論については三説が有り、第三説が護法の正義とされます。

 「惛沈は別に自性有り。痴の分と雖も而も是は等流なるを以ってす。不信等の如し。即ち痴に摂めらるるものには非ず。」(第三説)

 いろいろな説が紹介されているのですが、まず第一説は貪りの一分であるというもの(無明の一部であるという説)。第二説は一切の煩悩に於いて共通して有るものという(すべての煩悩の一部であるという説)。そして第三説が本旨です。「惛沈は別に自性有り」といい、独自の心所であるといっています(固有の体を持つという説)。ですから癡の一分とか、一切の煩悩に共通して有るというものではなく、独立して働くというのです。心が高ぶったり、沈んだりするのは癡と共にとか、一切の煩悩と共にということではなく、独自に働いているといわれるのです。

 この護法の正義から『論』を読み解くことは理解しにくい部分がありますが、素直に第一説の無明の一部であるという説に則って理解しますと。惛沈(こんじんー重く沈んだ心)「しずみおぼれたる心なり」(『ニ巻抄』)といわれ、心が重く沈んだ状態をいうのは無明の別用であるわけです。ですから第七識に惛沈は存在するという理解は頷けます。


『自己に背くもの』 安田理深述 (14) 自力の罪 

2011-11-13 16:22:11 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 「観経・涅槃経というものを比較対照することによって本願成就文の、特に誹謗正法というものの意義が明らかにしてきたところに、曇鸞大師のご努力があったのである。たとい五逆は救われても謗法は救われない。仏法を否定するものが仏法に救われるということはあり得ない。本願が本願を排斥するのではない。本願を排斥するものをも包むところに本願はある。自身が自身を除いている自己矛盾である。そういうように特に謗法の重い咎を知らしめる。誹謗正法を自覚せしめる。こういうことが唯除の根本精神である。だからいってみれば、問題は簡潔にいえば、本願においては五逆罪はあある意味では恐るべからず、第一義に立てば五逆罪を恐るべからずということになる。五逆罪を恐るべからずということは、裏からいえば善も欲しからず、善が助けられる益になるのでもなく、悪が障りになるものでもないことをいい得るであろう。ただ本願における、もし罪あらば本願自体が罪だということである。そういうことによって曇鸞大師の唯除は信心為本をあらわし、本願は信心を要とするということになる。涅槃経の説法は意義深い言葉である。信巻きの終わりを読むと、始めは阿闍世王の倫理的な煩悶苦悩を描き、慚愧のいたみ、堕地獄のおののきが、六師外道との対話を通じて述べられている。ところが阿闍世の迴心懺悔を経て述べられる仏陀の説法が後にある。六師外道は詭弁を述べている。罪悪というものはない。貴方の罪でないという。阿闍世の罪悪の意識を否定し、地獄を否定する。 「若し常に愁苦すれば愁い終に増長す、人眠りを好めば眠即滋く多きが如し」(『信巻』真聖p255) といって五逆罪を犯したことにくよくよするな、くよくよすると反って身心を害ねるだけの無駄ごとであると、詭弁を弄して阿闍世の罪を苛責をなぐさめている。ところが阿闍世が罪を懺悔して救われた後、仏陀の説法もこの六師外道とさして変わっていないようなことを述べていられる。罪の固執というものを淳々と述べておられるが、六師外道と同様な詭弁の形をとっている。何も貴方が父を殺したというが、父王も殺される因あって殺されたのである。何も貴方に罪はない、と六師外道と同じことをいっていられる。つまり同じ言葉が迴心を境としてその意義を一変してくる。迴心とは自力心を捨てる。迴心懺悔する。仏智疑惑を懺悔してそれを捨てる。迴心について自らの善しと思う心を捨て、善を頼みにしない。同時に悪しき心を賢く省みず。省みるは善悪のはからいである。それは世間の立場である。五逆の人間は人間の良心の限界内にある。第一義諦に立ってみれば道徳反省は一つの小賢しき分別となる。善を頼みとしないが、悪を見つめるというのは実のところ善を頼む心の裏返しである。それは善を頼みにする心と同じである。善なるが故に救われるというのが傲慢であるならば、悪なるが故に救わるというのも邪見である。ともに人間の理性である。だから論より証拠で悪を省みるということは悪を省みる力を自認している。そこに反省する能力があるということを自認している。そういうことに対して悪を賢しく省みないと自力の配慮を切り捨てるところに仏陀の詭弁と六師外道の詭弁というものの差異がある。

 要するに、本願を疑うということが最高の罪である。自力が最高の罪である。だから唯除五逆誹謗正法が信心為本ということを明らかにしている。曇鸞大師は明らかに五逆罪と謗法罪との質的相違のあることを認められたが、その五逆と謗法との関係はどうであるか、両者は無関係にあるのかということを問題にしていられる。そこに五逆の根底には謗法がある。謗法を根底として五逆が成立するところに、両者の本来的な関係を見出していられる。さすれば五逆罪を犯すところに既に謗法をば前提としている。教行信証にくれば、五逆について三乗の五逆と大乗の五逆罪とを区別しておられる。大乗の立場では誹謗正法が入っている。三乗の立場では謗法はない。親鸞は唯除の内容を信巻の終わりに経文を引いて三乗の五逆と大乗の五逆との別あることをいっていられる。(真聖p277~288)大乗では五逆というところに謗法を包んでいる。五逆と謗法を区別しつつ、主体的に謗法を根底として五逆の成立していること、直接的には五逆罪、間接的には謗法ということを語っていられるように思う。そういうことによって唯除を置かれてあるということは十方衆生の機の自覚というものを明らかにされた。一切の衆生というものの機の自覚として、唯除を置くことによって唯除を自覚せしめる。大乗の五逆からいうと一人も逃れぬ。一人も悪人・凡夫でないものはない。自覚すれば一人も残らず悪人・凡夫である。一切善悪凡夫人である。こういう自覚を通してはじめて十方衆生至心信楽欲生我国の三信、あの三信とは 「他力の信心なり」 といって、自力の迴心懺悔をあらわす。自力の迴心懺悔を通して迴向というものを明らかにするのである。われわれが深く考えてみなければなたぬことは、現代親鸞の精神、即ち真宗の信仰の不透明になった一番の原因は信仰の決断を喪失していることである。今日の真宗は天下りな直接的信仰に転落している。他力中毒にかかっている。決断がない。信仰が死んでいる。それは実に懺悔を通さないからである。決断は懺悔の精神にある。今日真宗の教学も布教も生気がない。法文いじりになっている。それは懺悔が失われたからである。親鸞聖人によって開顕された教行信証の精神というものは、信仰の自覚、それを他力迴向の信心というが、信仰というものは陰気なものではない。信仰の超越性であり、今日の言葉でいえば他力迴向の信心の自覚とは、人間の根源的自覚という。人間の根源的自覚にたつ、それは内に入ることではなくして却って外に出ることによって自己の根元に立つのである。そこに信仰の超越性がある。その必然的関門は懺悔である。その懺悔がない、それを失ったところに今日の真宗のふるわない原因がある。親鸞は涅槃経の言葉を以て無根の信といっている。信仰の超越性である。生まるべからざるものが生まれた。私の上に、信仰は私の上に君臨した。カール・バルトは信仰というものがわれわれの上に現臨(ゲーデンバルト)したといっている。無根の信とはそういうものである。信仰は私のうちにおける一つの体験ではない。私はそれに召され、それに立って私自身が変革されるようなものである。だから親鸞は信仰を海という。だから私が反って自己から出ることによって達する自覚である。だから私に君臨してくるものは名号である。名号の外に信心はない。名号が信心である。名号に信心をプラスするのではない。名号を意識することではない。名号のなかにわれわれが生まれる新たな事実に目をさますのである。そこに信仰の絶対客観性が明らかにされる。絶対批判、人間の根源に対する絶対批判というものがなければならない。唯除が置かれていることはそこに帰着する。不可能だということに達する信心である。   (つづく)

          次回は 「業道の超越」 を配信します。


第二能変 心所相応門 (51) 触等相応門 (33)

2011-11-12 16:47:59 | 心の構造について

 昨日は、六遍染説により第七識と相応する心所は合計十九であることを述べました。所謂、根本煩悩の四と遍行の五と遍染の随煩悩の六と別境の三と随煩悩の一です。しかし念と定と惛沈を加える理由が示されたいませんでした。以下の科段に於いて順次、「念」と「定」と「惛沈」が第七識と相応する理由を説明しています。

 「此に別に念を説くことは、前の慧に准じて釈せよ。」(『論』第四・三十四右)

 (ここに別して念を説いている理由は、前の慧に准じて理解せよ。)

 「述して曰く、此に別に念を説くことは、次前の師の慧の所以即ち我見なりと説くが如き故と云う。即ち念数なるが故に。此の不正知は亦即ち慧なるが故に。義を以て説いて二と為り。邪に簡択するが故に名づけて悪慧と為す。我と執するが故に我見と名づく。或いは是れ癡の分なり。即ち我見に非ず。或いは義別なるを以て之を説いて二と為す可しと云う。能く悪業を発す者は是れ第六識と五識との中において語り、第七に約するには非ず。故に此の識と倶にも不正知有り。前の慧に説きつるが如くなれば更に之を問はず。」(『述記』第五本・五十七右)

 「疏に能発悪者等」 是とは前の師の難を釈するなり。前師の難じて云く、不正知と云うは、謂く外門に起って能く悪業を発す。豈に第七識いい能く此の事有って不正知と倶なるや。故に今会して云く。彼は六識に約すと云う、第七に拠るに非ず。」(『演秘』第四末・二十左)

 「念を説くこと」というのは、十九の心所の中に遍染の随煩悩の失念と別境の念が相応し、遍染の失念は別境の念の一分であるとされますから、第七識に二つの念が相応することになります。しかし同一識において複数の心所が同時に並び立つことはあり得ませんから、このことをどのように理解したらいいのかが問われています。答えとしては「前の慧に准じよ」といわれていますから、我見と慧が並び立つ理由に由りなさいといっているのです。(詳細は10月29日の項を参照してください)

 「我見は是れ、別境の慧に摂められると雖も、而も五十一の心所法の中に、義いい差別なること有り、故に開いて二と為せり。」(『論』第四・三十三右)

 (我見は、其の体は別境の慧に摂められるとはいっても、しかるに五十一の心所法の中では義に差別が有るので、開いて悪見の慧の二つとしている。)

 義に差別があるということになります。我見の体は慧であるが、我見と別境の慧とは、その心所の行相が別である、異なるということです。慧には悪慧と善慧との二種があり、悪慧は「諸の諦のうえに顚倒に推度する染の慧を以て性と為し、善の見を障へ苦を招くを業と為す」(『論』第六・十四右)と。「之に准じて」ということは失念と念は義が別であるから並び立ち得るという。別境の念・定・慧の慧については『論』に「云何なるか慧とする。所観の境のうえに簡択するを以て性と為し、疑を断ずるを以て業と為す」と。『二巻鈔』に「慧ノ心所ト云ハ、万ヅノ知ラント思フ事ノ徳失ヲヨク簡ビ弁ヘテ疑ヲ除ク心ナリ。是則チ智也。」といわれて、染の慧と別境の慧とは行相が異なり、慧の二つが並存するという意味ではないといわれているのです。又、念においても、随煩悩の失念は、対象をはっきりと記憶しつづけることができない心作用をいいますね。ですから善の心所である念を妨げ、心を散乱せしめる働きがあるために忘念ともいわれます。『論』に「云何なるか失念。諸の所縁の於に明記すること能はざるを以て性と為し、能く正念を障へて散乱が所依たると以て業と為す。謂く失念の者は心散乱なるが故に」(『論』第六・三十右) と。『瑜伽論』(巻第六十二)に「謂く補特伽羅(ふとがらー凡夫のこと)は随煩悩多く染汚相続して正しく心一境性を証すると能はず、云何が名づけて随煩悩多しと為すや。謂く諂と誑と憍と詐と無慙と無愧と不信と懈怠と忘念と不定と悪慧と慢緩(まんかん)と猥雑(わいざつ)と趣向前行(しゅこうぜんぎょう)と遠離することを捨つる軛(やく)と、所学処に於いて甚だ恭敬せざると、沙門を顧みざると、唯だ活命のみを希ひ涅槃の為に出家を求めざるとあり。・・・・・云何が忘念なりや。謂く久遠より作せる所、説ける所に於て随念すること能はず、随憶せしめず、根門を守らず、正知にして住せざるなり。・・・・・」と。つまり失念と念はともに念といえるが、義が別であるということに由って並び立つことができるのであるといいます。


第二能変 心所相応門 (50) 触等相応門 (32)

2011-11-11 23:26:34 | 心の構造について

 「何の義を以てか十と説く」(『述記』)

 十遍染を会通する。

 「十遍という言を説けることは、義いい前に説くが如し。」(『論』第四・三十四右)

 (十遍染という言葉が文献に説かれている、その意味は前に説かれていた通りである。)

 「述して曰く、初の家の説くが如し。二義に遍せるが故に」(『述記』第五本・五十六左)

 十遍染を説く文献は『瑜伽論』巻第五十八を指します。巻第五十八に「随煩悩の放逸、掉挙、惛沈、不信、懈怠、邪欲、邪勝解、邪念、散乱、不正知此の十随煩悩は一切の染汚心に通じて起こり、一切処三界の所繋に通ず」と。

 (10月24日の項を参照して下さい。)十遍染との会通は五遍染師が会通した通りである。その意味は二義に遍在することから会通される、と説明されます。二義とは四義中の第三義の「解が麤と細に通じること」と第四義の「二性に通じること」という二つの条件を満たしていることから十遍染が説かれているということになります。

 六遍染師の結論は

 「然も此の意と倶なる心所は十九なり、謂く、前の九の法と、六の随煩悩と、並に念と定と慧と、及び惛沈を加うるとぞ。」(『論』第四・三十四右)

 (以上述べてきたように、この第七識と倶なる心所は十九である。十九とは、前の九つの法と、六つの遍染の随煩悩と、念と定と慧と、そして惛沈を加えたものである。)

  •  九つの法 - 四煩悩と五遍行
  •  六つの遍染の随煩悩 - 不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知
  •  別境の念と定と慧
  •  随煩悩の惛沈 を加えた十九が第七識と倶であるという。

 九つの法と六つの遍染の随煩悩については既に説かれており、又慧については五遍染師も第七識と相応すると認めており、既に説かれている通りである(10月11日の項を参照)。まだ説明がされていないのは、念と定と惛沈であり、次の科段で説明がされます。


第二能変 心所相応門 (49) 触等相応門 (31)

2011-11-10 22:03:37 | 心の構造について

 「若し爾らば何が故に『対法』等に五のみ説いて遍と為る。」(『述記』)

 (若しそうであるならば、どうして『対法論』(『雑集論』巻第六)等に五のみ(掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸)染心に遍在すると説かれているのであろうか。)

 この問に対して六遍染師が答えます。六遍染師の主張は遍染の随煩悩は不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知の六つであるとする。若しこの六遍染師の主張が正しいのであれば、『対法論』等に五のみ染心に遍在すると説かれているのか、という問題です。

 10月18日の項に五遍染師の論拠として『大乗阿毘達磨集論』巻第四・『雑集論』巻第六の記述が『論』に述べられています。

 「集論に説くが如し。惛沈と掉挙と不信と懈怠と放逸とは一切の染汚品の中に於て、恒に共に相応す。」(『論』第四・三十二右)と。

 (『大乗阿毘達磨集論』巻第四に説かれている通りである。「惛沈と掉挙と不信と懈怠と放逸とは一切の染汚品の中に於て、恒に共に相応す」)

 五の随煩悩は遍く諸の染心と倶である。その証として『大乗阿毘達磨集論』巻第四及び『雑集論』巻第六には「惛沈と掉挙乃至恒に共に相応す」と本文と同様の文が出ている。

         ― 五遍染を説く文献を会通する ―

 「論に、五の法染心に遍すと説けるは、解麤細に通ずると、唯善の法に違せると、純の随煩悩なると、二性に通ずるとの故なり。」(『論』第四・三十四右)

 (『論』に「五つの法が染心に遍在する」と説かれていることは。行相が麤と細に通じることと、善の法に相違することと、純随煩悩であることと、二性(無記・不善)に通じることの義に依ってである。)

 『対法論』巻第六に四義をもって遍染の別義をあげて説明されています。今は『述記』の記述より説明しますと、

 「述して曰く、彼の論に遍と言うは四義に遍ずるを以てなり。      (1) 一には麤・細に通ず。忿等の十を簡ぶ。唯麤事なるが故に。     (2) 二には唯善法に違せり。即ち不信は信に翻じ懈怠は精進に翻じ惛沈は軽安に翻じ掉挙は捨に返じ放逸は不放逸に翻じ来るということを明して、即ち散乱の定の数より来るを簡ぶ。設い別に体有るにも、所障の定は三性に通ずるが故に唯善に違するのみならず。忘念・悪慧・邪欲勝解も彼の所翻に随って理いい亦然るべし。並に別境の数に翻じて来るが故に。

(3) 三には純随煩悩とは根本の惑と及び不定の四とを簡ぶ。彼をも亦通じて随煩悩と名づくる故に。貪等は唯善の中の無貪等のみに違すれども、然も純の随に非ざるが故に今簡ぶなり。

(4) 四には二性に通ずとは無慚と愧とを簡ぶ。

 斯の四義に由っての故に 『対法』 には五は染心に遍ずと説く。但染心には即ち皆有るには非ず。」(『述記』第五本・五十六右)

 というものです。四義の別義に由って「五つの法が染心に偏在する」と説かれているのであって、「染心には即ち皆有るには非ず」と。実際の遍染の随煩悩を挙げているものではないといいます。別義とは遍染の随煩悩の条件ですね。それに四つあるということです。

 一番目は「解(行相・見分の働き)が麤と細に通じること。これによって行相が麤のみである忿等の十が遍染から除かれる。細に通じないからである。

 二番目は「ただ善の法に相反すること」。随煩悩が善法を正反対にしたものでなければならない。不信ー信、懈怠ー精進、惛沈ー軽安、掉挙ー行捨、放逸ー不放逸とそれぞれ善の心所を翻じたもの。しかしその対象が三性に通じて善法を翻じたものといえない心所がある。従って三性に通じるものを除くという条件がつきます。散乱は定を翻じたものではあるが、所障の定は三性に通じる為に散乱は除かれる。同様に忘念・悪慧(不正知)・邪欲・邪勝解も染汚性であるが除外される。

 翻 - 正反対にしたもの。ひるがえすこと。

 三番目は「純随煩悩であること」。純随煩悩とは純然たる随煩悩であり、護法の正義である二十の随煩悩を指します。「唯二十の随煩悩のみと説けることは、謂く、煩悩に非ず、唯染なり、麤なるが故なり。」(『論』第六・三十二右))。二十の随煩悩の条件は一に根本煩悩ではないこと。二には、唯染であること。三には、行相が麤であること。詳しくは2010年3月1日の項を参照してください。「根本の惑と及び不定の四とを簡ぶ」

 四番目は「二性に通じること」。無記と不善(悪)に通じることによって、無慚と無愧が除外される。(10月25日の項を参照してください。)

 五遍染を説く文献は以上述べてきた通り、別義によって選び出されたものであって、実際に染心に遍在することを述べているものではなく、実際の六つを説く随煩悩と矛盾しないと会通しています。