唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第四 五受分別門 第二釈不與余心所相応所以 (5)

2015-10-22 21:41:06 | 初能変 第四 五受分別門
 

 次に他の心所とも相応しない理由を述べます。他の心所とは、善・煩悩・随煩悩・不定の心所です。
 「此の識は唯だ是れ異熟性なるが故に、善と染汚との等きとも亦相応せず。悪作(オサ)等の四において無記性成る者あれども、間断有るがゆえに定んで異熟に非ず。」(『論』第三・五右
 「此の識(第八識)は唯だ是れ異熟性なるが故に」。種子生現行、阿頼耶識の種子(有漏種子)が現行する時の果相は異熟と云われています。異熟は「無覆無記なり」、異熟無記の識、これが第八識です。常に触と作意と受と想と思と相応するが、感受作用としての「受」は捨受であり、触等の五遍行も無覆無記であることを明らかにしています。
 受は捨受
 三性(善・悪・無記)の中では、無覆無記性である。「異熟は必ず善・染に通ずるに非ざるが故に、(善の心所の)十一と、(根本煩悩の)六と、(随煩悩の)二十とも亦定んで相応せず。」(『述記』第三末・二十八左)
 善の心所は、唯だ善性であり、煩悩・随煩悩は唯だ悪性でありますから、第八識とは相応しないのです。
 悪作等の四の不定の場合についてですが、
 『述記』に問いが出されています。「不定の中の無記成るは名にぞ。第八識の無覆無記と並ぶに非ずと云うや?此の問を答せんが為に、「悪作等」が説かれてきます。
 悪作は悔(ケ)ともいいます。・睡眠(スイメン)・尋(ジン)・伺(シ)の心所です。これらの心所は、第八識と同じく無記性の場合もありますが、「一切時に常に相続するものではない」という理由から、相応することはない、と説かれているのです。
 以上で第四の五受分別門が閉じられます。次に第五の三性分別門が開示されます。
 

 FBの「唯識に自己を学ぶ」の投稿もお読みいただけら幸いです。

初能変 第四 五受分別門 第二釈不與余心所相応所以 (4)

2015-10-21 21:54:19 | 初能変 第四 五受分別門
 

 私たちは、何かを願うとか、何かを欲することを以て生活の基盤としています。しかし、そのことに於いて私たちは悩んだり、苦しんだりしている。非常に矛盾するわけですが、願いとか、欲求そのものは本来、純粋なんでしょうね。ただ煩悩に覆われて不純粋にしています。願いそのものまでも不純粋ということではないと思います。願いは純粋。ここが大事な所です。何故不純粋にしてしまうのかですね。ここに如来のお仕事が有るように思います。不純粋にするのは煩悩だと、煩悩は分別意識ですね。我執です。我が身可愛いということ、自分が一番という自我意識ですね。その煩悩が意識の底深くに流れている。第八阿頼耶識の所縁である種子の中の、染汚を生み出してくる種子が現行する時、心は染汚されたものとして現行してくるのですが、現行そのものは純粋意識なんですね。純粋意識が、染汚された煩悩を縁として煩悩だと知らしめ、本来の願いに呼び覚ます働きをもってくる。
 「如来が人間に成るところに如来の願いが出てくる。それで因位、因位法蔵という。だから如来の願いということになると、如来が衆生となる。衆生の立場となって願いというものがある。人類を背負うて立つという願いになる。」と安田理深先生は教えてくださっています。煩悩を呼び覚まし見失ってしまっている道を本来のあり方に方向転換させていただく。それが如来のお仕事であるということなのでしょう。
 「親鸞聖人は“ちからなくしておわるときに、彼の土へはまいるべきなり”といわれるわけです。・・・これは命終わって浄土に生れる、そいうことではなくて、分別に死ぬということです。また分別が無くなることをいっているものでもありません。分別を当てにすることに死ぬ。分別を頼りとする立場の死、ということです。」と、高柳正裕師は教えてくださっています。
 分別を当てにするのが煩悩ですね。どこまでいっても分別を当てにするのです。そういう構造になっているのですね。その立場の死です。これが如来のお仕事なのでしょう。そのことに目覚めることを、分別を頼りとする立場の死というのでしょうね。前念命終です。同時に願生です。願に生きる生活が始まるのですね。大切なことをお教えいただきました。
 別境の定と慧について概略しますと、
 「定」といいますと、禅定という精神統一を思いますね。ある対象に向かって心を専注して乱れないということです。ここでも何をもって定というのか。それに対し「所観の境に於いて。心を専注して不散ならしむるを以って性と為し。智の依たるを以って業と為す」といわれています。観は観察・境は対象、所観の境は観察しようとする対象・それに於いて心を留める、不散ということ、散乱しないことを本質とするということです。念を受けるかたちで、定がもたらされます。定は智慧の所依となること。智慧は真理を知るはたらきですね。智慧が生まれるのには念・定の心所が大切なのです。定に於いて心が浄化されるのです。浄化ということには本来に帰るという意味が込められています。「自性清浄心」といわれ、本来は清浄心なのですが、煩悩によって覆われているのですね。私の経験したことのすべてが今を生み出している、そのすべてが煩悩によって覆われているというわけです。「覆」ということに菩提心をおこすのです。煩悩と対峙するということです。そして心を浄化するということにつながっていくのですね。煩悩という心所はまた詳しく述べてまいりますが、例えば貪欲です。自分の欲望を満足させたいがために執念を燃やすということがありますね。目標一直線に心を集中させるということなのですが、これは定とはいわないのです。定に似て非なるものです。煩悩を翻すということに於いて真実を知る智が生まれるということなのです。「智の依」というのが「定」であるということ、大事に聞いていきたい心所です。「定」は心をひとつに留めて悪を作らない、浄を妨げる貪欲・慈悲を妨げる瞋恚・因縁を妨げる愚痴の煩悩を止となす、といわれています。大乗仏教では修行の階位としての止観行が最も大事なこととされているのです。「所観の境に於いて、心を専注する」ということですね。修行することによって柔軟心を成り立たせるということがいわれるのです。自己に執着する心が翻されて柔らかな、何事にも対応できるような心に転ずるというのです。
 「慧の心所と云は、万ずの知らんと思う事の徳失をよく簡び弁えて疑を除く心なり。是則ち智なり。別境の五と申は是なり。」(慧の心所というのは、すべての知ろうと思うことが正しいか、正しくないかを選び、弁えて疑いを除く心である。)智慧の慧は聞慧・思慧・修慧といわれますように正しく聞き・思惟し修行することによって得られるものです。何が真実か不真実を選択して疑いを断ずる心なのです。その真実は清浄の業より起こり、そして仏事を荘厳するわけです。何が真実かということですが、私は答えはないと思うのです。「往生極楽の道を問う」ことが真実につながるのではないかと思います。私たちの知恵は疑心をもっているのですね。二心(ふたごころ)です。一心ではないのです。この知は愚痴の痴で病にかかっているのですね。我執と云う病です。私が一番で二番三番は無いのです。此れが私たちの知恵の本質です。「所観の境に於いて簡択(けんじゃく)するを以って性と為し。疑を断ずるを以って業と為す。」のが慧であるといわれているのです。過去のすべての経験を忘れていないというのが「念」でした。この念が定の依り処となり、その対象にむかって心を一つに集中していくのが「定」です。定が智の依り処となるのです。そしてどの方向に向いて歩みを進めているのか、善か悪かを択びわける働きが慧というわけです。これが煩悩を断じていくのであるといわれているのです。過去の経験を忘れていないということは何を意味するのかということです。その中に「生きていくことの意味」のヒントが隠されているということだと思います。過去の経験のなかを吟味して択ぶ、仏道の方向に向いているのかどうかを択ぶわけです。何故なら、私たちの目的は悔いのない生き方・空しく過ぎ行くことの無い人生・幸福な生き方を願っているわけでしょう。願いの彼岸が私たちの故郷になるわけです。故郷を持たないと帰る場所が無いわけです。故郷喪失症に陥ります。故郷を回復する運動が念・定・慧という一連の流れに成るのではないでしょうか。
 欲・勝解・念・定・慧という別境の心所は働く対象が異なるのですね。欲は所楽の境に於いて・勝解は決定の境に於いて・念は曾習の境に於いて・定・慧は所観の境に於いてというように異なる対象に於いては異なる心所が働いているわけです。ここで大事なことは欲から慧へと心の深まりがあります。はじめは漠然として欲の心所がいわれています。その欲にもいろいろあります。欲楽といい、欲望という違いもありますが、慧の心所から窺えますことは、慧は真実を知る智慧ですね。そうしますと別境の心所は仏道に向かわしめるということを主題としているということがわかります。私たちは自ずと仏道的生き方をしているわけです。そして別境はどの心に働くのかという問題になります。「第七・八識には」と、この別境は位(有漏・無漏)に随って有無があるというのです。有漏の阿頼耶識には別境は働かない・偏行だけが働きます。阿頼耶識は純粋ですから何事にも分別しないのですね。阿頼耶識が転依(大円鏡智に)しての無漏位には別境の全てが働くのです。これは願生という欲生心から無分別智まで一筋の道なのですね。第七末那識は転依(平等性智に)しての無漏位にはすべての別境は働きますが、有漏位では慧の心所だけが働くのです。何故かと言いますと末那識は我執ですから自他を簡びわけるのですね。自分の損得だけを思いつづけていますから、自分にとって損をしないように簡択(選ぶ)するわけです。その心所が慧です。仏道に方向が定まっていてもですね、最後の関門があるわけです。エゴイズムです。利己的に物事を変えていくわけですね。ここをどのようにして突破するかが仏道の課題として残るのですね。前五識は感覚器官ですが第六意識に左右されます・影響を受けますから六識には五つの心所が働くのです。この様に見ていきますと第六意識ですね。この作用がいかに大切なことかがはっきりと見えてくるわけです。欲を起こす、それはどの方向を向いているのか、優れた理解を以って確認をするわけです。方向を見極めるのです。そしてはっきりと記憶して忘れることがないのです。そして忘れることのない対象に精神を集中していく、そのことによって真実の智慧が獲得されるという流れになるわけですね。このような心の構造をしっかりと把握して聞法に励み、聞薫習することが大切な生き方ではないでしょうか。
 以上の別境の五(欲・勝解・念・定・慧)は第八識と相応しないということなのですが、その理由がですが、欲・勝解・念につきましては説明しましたので今日は定と慧について説明をします。
 先ず、定が第八識と相応しない理由です。
 「定は能く心をして一境に専注(センシュ)なら令む。此の識は任運にして刹那に別縁す。」(『論』第三・四左)
 この第八識は業に任せて任運に転じているので、定まった心ではないのですね、かといって散心でもありません。任運とは業に随って転ずることをいいますが、意志を用いないで自然に法爾に、縁に随って転じている、業縁存在と云われる所以です。
 『述記』には「定の行相は一々の刹那に深く取って専注して所縁に趣向す。此の識は浮疎にして行相爾らず、故に定と倶なるに非ず。」と。
 次に、慧が第八識と相応しない理由ですが、
 「慧は唯だ徳等の事を簡擇(ケンチャク)して転ず。此の識は微昧(ミマイ)にして簡擇すること能わず。」(『論』第三・四左) 
 「徳」はサンスクリット語ではグナguṇa。性質・特性・固有性と訳されます。また功徳とも訳されます。ものそのものの性質・特性・固有性を簡び分けるのが慧の心所です。この第八識は働きが弱い(微昧)ですから、簡び分けるということをしません。
 「故に此れは別境と相応せず。(『論』第三・五右)
 以上のような理由をもって、五別境の心所いずれとも相応しないのです。五別境と相応しないというところに、すごく深い意味があるように思います。これは無覆無記と関係してくるところなのでしょうが、私たちの心は業縁のままに分別を起こさない、分別を頼りとしないことを以て本質としているということなのでしょう。だから私たちは変わることができる。本来変わることの必要のない私に出遇うことが出来るのでしょう。

初能変 第四 五受分別門 第二釈不與余心所相応所以 (3)

2015-10-20 21:56:12 | 初能変 第四 五受分別門
 

 「勝解は決定の事を印持して転ず。此の識は瞢昧(ムマイ)にして印持(インジ)する所無し。」(『論』第三・四左) 勝解は、対象を確認し勝れた理解をする心の作用をいいます。「何事もひしと思ひ定むる心なり」(『法相二巻抄』)「ひしと」はしっかりと・思ひ定むるは決定的に理解する心と云う意味です。「決定の境に於いて印持するを以って性と為し。引転すべからざるを以って業と為す。」対象を決定的に理解していることを心に刻み込むことを以って本質とする心所です。それに対して、第八識の行相は、明らかならざること闇昧である。はっきりしていないということです。つまり、「決定の事を印持して転ず」という働きを持ちません。従って、この識には勝解は無いということなのです。
 瞢はボウと漢音では読み、呉音でムと読みますが、くらいという意味のことです。

 「念は唯だ曾習(ソジュウ)の事を明記して転ず。此の識は昧劣(マイレツ)にして明記すること能わず。」(『論』第三・四左)
 「念」という心所は「勝解」を受けるというかたちです。境(対象)に対し善悪を明確に(はっきりと)確認し、認識をして決定する。それに応じて、「念」は認識されたものを明らかにして(記憶して)忘れない。(明認不忘)ということになります。「曾習(ぞうじゅ)の境に於いて。心をして明記して不忘ならしむるを以って性と為し。定の依たるを以って業と為す。」といわれています。曾はかって・以前にということで、過去のことです。習は経験です。よって過去に経験したことを確認し認識をして忘れないことが性質であるということになります。ここに「念」という心がはたらくのですね。はたらくことが定の依り処になる。私の経験したことのすべてが今を生み出しているということですね。それを私は忘れてはいないことに心が定まるということです。そうしますとそこに私の行き先・方向が決まってくるということになります。業は行為ですから過去の経験のすべてを依り処として明日の行動が決まるということなのですね。ですから方向転換ということはものすごいエネルギーを要するのです。しかしね。今、決定(けつじょう)することが大事なのです。なぜならこの念は善悪のどちらにもはたらきますから、選びがないのです。今が未来を決定するのです。忘れてはなりませんね。『法相二巻抄』には「経て過にし事を心のうちに明に記して忘れざる心なり」(過去に経験した事を心の中に明らかに、はっきりと記憶して忘れない心を念という)とより具体的に述べられています。この念が定をおこす因となるということなのです。欲望のままにということになりますと欲念ということになりましょうし、怨みを抱いてということですと怨念ということになりますね。仏を念ずることは念仏ということになりましょう。問題は私は何処に向かって歩いているのかということです。生きる方向です。それがはっきりしているのかが問われている、こういう意味を持っているのが念の心所なのですが、この第八識は、昧劣にして明記することがありませんから、念のような働きは持ちません。従って相応しないということになります。
 「此の識は昧にして且つ劣、恒に任運に現在の境を縁ず。明に曾所受の境を記すること能わず。故に念有ること無し。」(『述記』)
 曾所受の境(曾習)は、過去に経験したことを云います。


 明日は、定と慧が第八識と相応しない理由を述べます。

初能変 第四 五受分別門 第二釈不與余心所相応所以 (2)

2015-10-19 21:33:21 | 初能変 第四 五受分別門
  

第八識は五遍行と相応し、他の心所とは相応しないと云われていますが、何故相応しないのかですね。他の心所とは、別境・善・煩悩・随煩悩・不定です。この中で不定が解りにくいのですが、不定とは『三十頌』では「不定というは、謂く悔(ケ)・眠(メン)と尋(ジン)・伺(シ)とぞ」。二に各二有り。」と説かれています。
 「已に二十の随煩悩の相を説けり。不定に四有り。其の相如何。」(『論』)
 「頌に曰く。不定とは謂わく悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)とのニに各々ニあり」(『論』)
 「ニ各ニ」(ニに各々ニあり)は不定の意義を顕わしています。
 「論に曰く。悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)とは善・染等に於いて皆不定なるが故に。」(『論』)
 善・染等皆不定」といいますのは、此の三界と性と識は皆、不定であるからと云われています。善・悪・無記の三性において、染は不善と有覆無記を表しますが、それが定まっていないということになります。不定の四は三性を通じて性格が定まっていないのです。「信等」は善の心所ですから、いつも善です。また「貪等」の煩悩は染の心所ですから、いつも染です。しかしここでいわれる不定の四はどちらにも動くのです。どのようにでも変わり得る性格をもっているのが、悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)の不定の心所であるといっているのです。善につけば善になり、染につけば染になるという性格です。詳しくは、2010年3月20日以降の投稿を参照してください。
 先ず別境の心所について、第八識と相応しないことを説き明かします。
 五別境とは、欲・勝解(ショウゲ)・念・定・慧の五つですが、これらは三性(善・悪・無記)に通ずる心所です。
 「謂く、欲は所楽(ショギョウ)の事を希望(ケモウ)して転ず。此の識は業の任(ママ)にして希望するところ無し。」(『論』第三・四左)
 所楽とは、「所楽とは、謂く欲観の境なり。但、彼(一切の事)のうえに、若しは合し、若しは離せんと求むるのみにあらず。ただ欲、作意の何の識に随っても、観察せんと欲するものには、みな欲の生ずることあり。ただ前六識なり。あるいはただ第六識なり。第七識、第八識は因中には作意して観ぜんと欲することなし。任運に起こる故に。七・八二識の全と、および六識の異熟心等の一分との、ただ因(第八と異熟の六)と境(第七識)との勢力に随って任運に縁ずるものには、全く欲の起こることなし。余はみな欲が生ずるなり。」(『述記」)と説かれていますように、第八識には希望がありません。第八識は任運に法爾に、ただ業に任せて転じているのです。ですから、第八識には「欲有ること無し」と云われるわけです。ここから推測しても、五別境は第六意識に於いて働く心所であることが解ります。意識がどこに向かっているのか、どこに向かうのかに大きく関わってくる心所なのです。
 遍行は、私の行動がどのようにして動くのかを示していることに対して、別境は私がどこに向かって歩みを進めているのかを問うている心所になろうかと思います。それはまた、如来の欲でもあるわけです。如来の欲生心に於いて、衆生の願生心が生まれてくるわけですね。それは、第八識が無覆無記だから成り立つことなんです。

初能変 第四 五受分別門 第二釈不與余心所相応所以 (1)

2015-10-18 14:51:29 | 初能変 第四 五受分別門
 

 本科段より、余の心所と相応せざる所以を釈す一段になります。つまり、五遍行以外の余の心所とは相応しないことを述べているのです。
 第八識は、五の遍行(触・作意・受・想・思)と相応することが心所相応門で明らかにされましたが、それでは、五遍行以外の余の心所とは相応しないのかという問題が残ります。その問題に答えているわけです。余の心所とは、別境・善・煩悩・随煩悩・不定の五位になります。
 先ず、問いが出されます。(「外人難ず」)
 「如何ぞ、此の識が別境等の心所と相応するに非ざる。」(『論』第三・四左)
 此の識が別境等の心所と相応しないのは、いかなる理由なのか?
 論主の答えは、
 「互いに相違するが故に。」(『論』第三・四左)
 「述して曰く、此れは論主の答え。別境と善等との行相は識(第八識)と互いに相違せり。故に倶ならざるなり。此れ総じて之を答す。」(『述記』第三末・二十七右)
 遍行以外の心所はそれぞれに第八識と相違するからである、と答えています。何故相違するのかについて、個別に答えられます。
 先ず、別境の心所についてですが、別境の心所については第三能変の心所相応門で説かれてきます。
 概略しますと、
 別境について その概略(列名釈義門)
 『唯識三十頌』 第十頌
 「初遍行触等 次別境謂欲 勝解念定慧 所縁事不同」
 この第十頌は第九頌を受けて述べられていますが、遍行については初能変に詳しく述べているので、ここでは省略し、別境について述べられます。ただ別境についても初能変 巻三にて述べられていますが簡略されていて、第三能変に至って詳しく述べられるているのです。
 別境という意味は、「論」と『述記』」から考えてみたいと思います。
 「次に別境とは、謂く、欲より慧に至るまでなり。所縁の境の事。多分不同にして、六位の中に於いて、初めに次いで説くが故に」 (『論』)第五・二十八右)
 「述して曰く、第一に名を列して別境の義を釈す。第二句の上の三字(次別境)を解す。以下の二字(謂欲)と第三句の全(勝解念定慧)は文に別に解するが如し。第四句(所縁事不同)を釈し、および次の言を解す。別境の名を釈すなり。一一に知るべし。五十五に、所楽(ショギョウ)と決定(ケツジョウ)と串習(ゲンジュウ)と観察(カンザツ)との四境の別なりといえり。つぎに別に五を解す第二に出体なり。体のうちに二あり、初めに別を出す。後に総じて遍行に非ざることをいう。」(『述記』)
 『論』では所縁(認識対象)となる境の体は、それぞれがそれぞれの認識対象が異っているといい、その境は四境の別であると釈しています。所楽・決定・串習を曾習(ゾウジュウ)・観察を所観の境と記されています。この境が五の別境に配されて述べられます。欲は所楽の境に対し、勝解は決定の境に対し、念は曾習の境に対し、定と慧は所観の境に対して活動するといわれています。 次の別境とは、つまり、欲から慧に至るまでである。(別境の)認識対象となる境の体は、その多くが同じではなく、認識対象が異っているので別境という。六位の心所の中で、初めの遍行の次に述べられるから次別境といわれるのである。 (詳細については、2013年2月19日以降の投稿を参照にしてください)
 

初能変 第四 五受分別門 唯捨受相応 (8)

2015-10-17 15:51:21 | 初能変 第四 五受分別門
 

 外の妨難を釈す。
 説一切有部からの論難を釈していきます。
 有部の教学は、捨受をいいません。有部は五蘊・十二処・十八界という分類から、六識のみを説いて、六識でもって心の体系を立てていきます。当然、第七識・第八識は説きませんから、現行の果は、善悪業の異熟果にあり、善因善果・悪因悪果という等流因・等流果で、総報の果を捨受とは説かないのです。
 それに反して、唯識は、八識を説きますから、総報の果としての第八異熟識は捨受(真異熟)であり、苦・楽の果は異熟生で、六識で受けると説きます。
 真異熟(第八識の受)は捨受。
 異熟生は、苦・楽・捨の三受と説いています。

 このように、有部からみれば、唯識の説く第八異熟識は捨受で有るということは許すわけにはいかないのですね。論難の主旨は、捨受というのであれば、禅定の世界のことであろう。善業の果として受ける世界は、寂静であるから捨受(色界第四禅天に生まれた場合)といえなくもない。しかし、悪業の果報としての捨受はないであろう。悪業の異熟であるならば、それは苦受であろう。悪業を以て寂静の果を招来すると、どうしていえようか、ということです。
 「若し爾らば、如何ぞ、此の識亦是れ悪業が異熟なる。」(『論』第三・四右) 「述して曰く、薩婆多等此の難を為すなり。彼の部の難じて云く。捨受は寂静なるを以て善業の調順(チョウジュン)なるのみ、能く之を招くべし。如何ぞ逼迫の業を以て亦寂静の果を招くと云うや。此れは彼(有部)の宗に依って、故に以て難を為す。」(『述記』第三末・二十五左)
 調順とは、九種の心住(シンジュウ)を説く中の一つ。心住は、奢摩他(止)を修することによって寂静となった心の在りようをいいますが、その中で、調順とは、外的な感覚の対象や、内的な煩悩の為に流散する心を制御・抑制して心を平静ならしめる作用をもつ。
 
 有部の考え方は、私たちの考え方と類似していますね。良いことをすれば、良い結果が生まれる。悪いことをすれば悪い報いを受けることになる。そんなことをしていたら地獄に堕ちるぞ、と。その地獄は苦の世界ですね。この論法を以て論難してくるわけです。
 因は善か悪であって、その当体の異熟は楽か、苦であろう、善因楽果・悪因苦果が大前提ですから、悪業の果報としての第八識は、当然苦受でなければならないはずです。苦受でなければならない第八識の果報が捨受とするなら、第八識は異熟果の識とすることはできないであろう。そして、異熟果としての第八識であるならば、第八識の受は捨受であってはならないのである、と批判してくるのです。
 の批判に対して、論主は有部の教説から翻って質問を提起し答えられます。これを「返質(ヘンゼツ)して答す」と云われています。
 答えは、悪業も又捨受として許されるべきである、と。
 それは善業が捨受を招くと有部も認めているのではないのか、悪業の果法は苦受であるというのであれば、返って質問をするが、悪業の果も又捨受を招くと許すべきであって、その逆はないであろう。
 「既に善業いい能く捨受を招くと許さば、此も亦然りうべし。捨受は苦・楽品に違せざるが故に。無記法の善・悪倶に招かるるが如し。」(『論』第三・四左) 「述して曰く、即返質して答す。既に善業能く捨受を招くと許さば、此の不善業も類するに亦然るべく能く捨受を招くべし。」(『述記』)
 ここまでは、有部の教説から、悪業も亦捨受であると反論しているわけですが、捨受であることの理由は、
 「捨受は苦・楽品に違せざるが故に。無記法の善・悪倶に招かるるが如し。」
 で、異熟識が捨受であるから、六識の受が苦であることも、楽であることもできるのである。つまり、阿頼耶識の捨受が根拠となって、第六識は苦・楽を受けることが出来るといっているのです。
 もし、捨受でなく、果法が苦であれば、楽をうけることはないわけです。苦からの解放はありえないということになってしまうわけです。「捨受は苦に違せず。捨受は楽に違せず」ということなのです。
 現行識は七転識ですが、第八識で受ける果報は捨受であり、無覆無記なんです。過去の業を引きずってはいますが、生きるということで、過去の業を清算しているのです。過去の業の結果として、今・現に、ここに存在していることは間違いのないところですが、今、何処に向かって歩みを進めるのかが問われているのですね。問題は第七末那識ということになりますね。
 第七末那識は、遍行の五と別境の慧(悪慧)と四煩悩と随煩悩の不信と懈怠と放逸と惛沈(コンジン)掉挙(ジョウコ)と失念と不正知と散乱という十八の心所と相応して働く、自己執われる心ですから、現行する時に、受は愛(渇愛)の依り所となるのです。捨受が第七識に色付けされ、第六識によって苦・楽を感受されることになるのですね。第七識は「恒に審に思量を以て性と為す」といいますから、恒に自分を意識し、自分の思うような生き方をしたいと思っている自分に出遇うことが出来るのが、異熟識が捨受であるということなんでしょうね。
 善業・悪業によって招ねかれる異熟識は無覆無記なんですね。第八識が無覆無記ですから、善にも、悪にも相違せず、第六識が善にも悪にもなり得るわけです。この善にも、悪にもなり得るところに、大事な意味が隠されています。
 「無記法をば、(善業と悪業)の二号を以て倶に感ずるが如し。二に違せざるが故に。寂静を以てのみ捨を解さず。亦悪業に通じて感ずるものなり。中容の行を名づけて捨とするが故に不善にも通じても招くを以てなり。」(『述記』)
 深い意味が込められています。
 捨受は、六識で感ずる、善悪業の果である、楽果・苦果を通してしか触れていくことが出来ないことなんですね。触れた世界は無覆無記である。無覆無記の世界に触れて、「我が身は」という自覚が生まれてくることになるのでしょう。この自覚が、往生浄土の道を歩ませることになるのですね。
 

初能変 第四 五受分別門 唯捨受相応 (7)

2015-10-16 21:51:50 | 初能変 第四 五受分別門
 

 「若し苦・楽の二受と相応せば、便ち転変は有りぬ。寧ぞ執して我と為む。故に此ば但だ捨受とのみ相応す。」
 もし、第八識に苦楽が相応するならば、転変することがあるであろう。どうして転変し、常でないものを「我」と執着することができようか。我は不変のことに対して執着を起こすのである。よって第八識は捨受とのみ相応すると説かれている。
 つまり、我は苦楽の二受を縁ずることはないのです。それは苦楽は一類ではなく変化するものであるからです。私が、という時の私は一類であるという思いいがありますから、一類相続する第八識を依り所として、無我であり、無常である在り方を、有我であり、有常であると執しているわけです。

 我の定義は、「主宰」であること。アートマンが有する二つの属性の一つですが、常一・主宰が有るもので、私たちは、常一・主宰が有るものとして執着を起こしている。主とは自在、宰は割断(カツダン。判断すること)我とは自在(思うままに)で、に判断を下すことができる存在で、恰も、第八識はその条件に合うものとして、第七識に執せられるわけです。ここに第八阿頼耶識には執蔵という自相のあり方の一つがあるということになります。
 転変するようなものには執着を起こさないのですね。本能です。本来的に備わっている機能といってもいいのではないでしょうか。自分という者が有為転変すると認めてしまえば不安でたまらなくなる。私たちは、本能的に安心しておられる居場所を決めつけているんですね。それが変化しない性質のあるものとして第八識を選んでくる。第八識は「恒転如暴流」にも関わらず、常一・主宰であると錯誤して、無常であり、無我であることに目覚めることなく、自分は存在すると執着して安心を得ようとするわけです。自分は自分のことを一番理解し、自分を大切にしているという妄執ですね。この妄執は外敵を作るのです。自分を脅かすものは自分の取り巻く環境である、と。自分を脅かすものは自分であることに気づきを得ないのですね。
 第八識は捨受であるという所に執着を起こすのです。有情の第七識が、第八識は常であって、転変なきものとして恒に我の相に似ていることから執着を起こすことになるわけです。
 「「常」とは相続の義、「転変すること無きは」一類の義。我は一常なるが故に、此れを以て我に似たり。第七識は恒に縁じて我を執するということを顕す。」(『述記』)
 第八識は受でいえば、捨受であることの理由を三つの方面から解き明かしてきたわけです。
 私の日常の行動から振り返りますと、我は捨受なんですね。捨受を依り所として我を成り立たせています。我を脅かすものは悪なんです。自分の気に入らないことを言われると、瞬間に心穏やかにならずです。そして悶々とします。自分は善という立場にいるわけですね。捨を執して我を立てている。何もないところに我を立てているのではないのです。ちゃんと立脚地はあるのです。本来は苦でもなく、憂でもなく、楽でもなく、喜でもない阿頼耶識の捨受を執するという、奇想天外なことを起こしているのですね。それが私の姿なんです。苦楽を自分で作り出している。目覚めも、迷悶も、本当は紙一重のところにあるのですね。気づきを得るのか、得ないのか、ただそれだけです。
 次科段は、説一切有部の教説から論難されることを予想して釈していきます。(自下は義に依りて外の妨難を釈す)善悪の角度から見ていけばどうなるのかが説かれてきます。有部の考え方は、よくわかるのです。自分の考え方に近いからですね。読んでみると、その通りやと思います。 (つづく)

初能変 第四 五受分別門 唯捨受相応 (6)

2015-10-14 23:50:59 | 初能変 第四 五受分別門
スッタニパータ第68章

 第三の復次
 「又、此の識は、常なり転変すること無きに由りて、有情いい恒に執して自の内我と為す。若し苦・楽の二受と相応せば、便ち転変すること有りぬ。寧ぞ執して我と為(セ)む。故に此は但だ捨受とのみ相応す。」(『論』第三・四右)
 「述して曰く、常と云うは相続の義なり。無転と云うは一類の義なり。我は是れ一なり常なるが故に。此れを以て我に似たり。第七識は恒に縁じて我と執すということを顕す。」(『述記』第三末・二十五右)
 第七識は恒に(第八識)を縁じて我と執することを明らかにする。この一文より、第七末那識を学ぶという意味合いから、唯識に自己を学ぶ会を立ち上げました。公開グループですので、大いに参加してください。また閲覧も自由です。
 「自の内我」につきましては、阿頼耶識の自相門の三義を釈する中の執蔵という義に於いて説かれていました。阿頼耶識の能蔵・所蔵は「雑染のために互いに縁となるが故に。」阿執蔵は「有情に執せられて自の内我とせらるるが故に」と。阿頼耶識は一類相続していますから、非常に我に似ています。有情が妄執するんですね。妄はあやまりという意味がありますから、常を一を主宰を妄って、変わらない我があるように執着を起こすのです。
 「私が」「私の」という、我執・我所執を起こします。その根本は第七識が第八識の見分を「我」と妄執していることにあるのです。それが「自の内我」ですね。しかし、昨日の私と、今日の私は違うのです。連続しているように錯覚を起こしているのですが、このような連続体を我と執して生きているのが私という存在ですね。第七末那識が第八阿頼耶識を縁じて執着を起こしているのです。何故なら、阿頼耶識は一類相続しているからです。変化のあることに対して第七末那識は執着を起こしません。
 つまり、私という存在は、私という変化をしない私の中にどっぷりと浸っていたいのですね。恰も胎児が母親の体内で抱かれて安心して育てられているように。それが瑞々しい阿頼耶識を固定化するわけです。固定化しないと不安なんですね。不安には耐えられませんから、我執で阿頼耶識を覆っていくわけです。
 後半の部分は明日にします。

初能変 第四 五受分別門 唯捨受相応 (5)

2015-10-13 22:14:07 | 初能変 第四 五受分別門
  ダンマパダ第六品第二章より

 五受分別門、唯捨受と倶なることを釈す、三の復次(三の理由)を以て釈す一段の第一の復次(第一の理由)を釈しました。
 今日は、第二の復次(第二の理由)を説明します。この科段も大変大事なことを教えてくれます。第八識と相応する受は、現縁を待たず、過去の業の果(善悪業の果)を引いて、引き受けて現在只今の生がある、これを異熟と表しています。命そのものの歩みは無記性なんです。阿頼耶識は善悪いずれでもないということなんです。本文をみてみましょう。
 「又此と相応する受は、唯だ是れ異熟(イジュク)なり。先の引業(インゴウ)に随って転じて現縁(ゲンエン)を待たず。善・悪の業の勢力(セイリキ)の任(ママ)に転ずるが故に。唯だ是れ捨受のみなり。苦と楽との二の受は是れ異熟生(イジュクショウ)なり。真異熟(シンイジュク)には非ず。現縁を待つが故に、此と相応するに非ず。」(『論』第三・四右)
 第八識と相応する受は、ただ異熟である。過去の業の果としての生であるから、現在の縁に左右されることは無い。過去の善悪業の異熟の総報として転じている。故に、第八識の受は捨受である。
 過去の結果としての自己が今の私の姿なんです。ここには善悪の価値判断は有りません。善悪を超えて過去の業を引いている、これが異熟ですね。阿頼耶識の三相の中で果相は異熟だと云われていました。三位からみると、異熟は善悪業果位になります。善悪の業果としての現在である。現在の縁によって動いているのではないと教えているんですね。本当は、苦楽のない世界を生かされているんですね。生存の在り方は五悪趣といわれているでしょう。地獄・餓鬼・畜生・人・天ですね。羅列しますと、あたかもこのような生存の主体があるように思いますが、そうではないんです。私が地獄を生み、餓鬼を生み、畜生を生み出している。それは人としての悼みだと思います。人としての自覚が、地獄の住人であるという自覚を生み出してくるのでしょう。それは阿頼耶識に出会えた証拠なんですね。たとえ地獄の住人であったとしても、苦受は無いのですね。
 では何故、苦楽の感情があるのかです。ここに真異熟と異熟生で説明されます。
 真異熟は異熟のことですが、詳しく言うと、阿頼耶識は真異熟です。真異熟の上に分別を立てて生じてくるのが異熟生。たとえば、貴賤・苦楽・賢愚・美醜などを異熟生と呼びます。苦楽等は阿頼耶識では起こりませんが、阿頼耶識の上に分別を立てていく第七末那識以上で生じてくるのです。此処が本識と転識との関係ですね。後に説明されますが、本識は無覆無記性であり、転識は有覆無記性、無記を覆っているのが執という問題です。この執を問題にしているのが仏教ですね。執が寂静無為の楽、大般涅槃界を覆っている因になるわけです。
 執から無覆無記にいこうとする方向性をもつのが聖道という在り方です。逆に、無覆無記に逆らって生きていいる在り方は、無覆無記に触れている証拠だと気づきを得て、無覆無記の動きに順ずる、「ああそうだったんだ」という在り方が浄土という在り方でしょう。
 一切皆苦は一切皆空に於いて生じてくる。仏陀が三宝印の中で、一切皆苦と教えられたのは、一切皆空の上に立てた我執を依り所にする限り、苦は必然するものである、そこを依り所にしては駄目だと教えられているのではないでしょうか。
 いのちそのものに事実に目を覚ませと促しておられるのではと思いますね。いのちそのものの事実を無量壽・無量光で指し示しておいでなっているのではないでしょうか。それは、いのちの根源からの働きに気づきを得た者の獅子吼だといえるのではないでしょうか。
 親鸞聖人は、この感慨を『教行信証』真実証文類に於いて
 「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。必ず滅度に至るは、すなわちこれ常楽なり。常楽はすなわちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなわちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなわちこれ無為法身なり。無為法身はすなわちこれ実相なり。実相はすなわちこれ法性なり。法性はすなわちこれ真如なり。真如はすなわちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化種種の身を示し現わしたまうなり。」
 と教えてくださいました。
 私は、往相回向の心行とは、いのちそのものの働きである阿頼耶識であると頂いています。

初能変 第四 五受分別門 唯捨受相応 (4)

2015-10-12 22:07:37 | 初能変 第四 五受分別門
  

 阿頼耶識は何故、「捨」なのか。
 「此の識の行相極めて明了ならず。違と順との境相を分別(フンベツ)すること能わず。微細(ミサイ)に一類に相続して転ず。是の故に唯捨受とのみ相応す。」(『論』第三・三左)
 第八識の働きは明らかではない。自分の思いに違うこと、自分の思いに適うことの相を分別する、そういう働きは持たない。この識は、入ってくるものはすべて受け入れてしまうからである。微細であり、一類であり、相続して、寝ても覚めても阿頼耶識の中で働いている。このような理由から阿頼耶識は捨受である。
 三受門に約して五つの理由を示しています。『述記』によりますと、
  一には極めて明了ならずば是れ捨受の相なり。若し苦楽受ならば必ず明了なるが故に。此れが中に憂と喜とは苦・楽の中に入りたり。三受門に依るを以て憂・喜を言はず。
  二には違(苦境)と順(楽境)との境相を分別すること能はず。中容の境を取る。是れ捨受の相なり。若し是れ余の受ならば順と違との境を取るが故に。
  三には微細に由る。若し是れ余の受ならば行相必ず麁なり。
  四には一類に由る。若し是れ余の受ならば必ず易脱しなむ。此れ(第八識)が行相は定まれり。故に一類を成じぬ。
  五には相続して転ずと云う。若し是れ余の受ならば必ず間断有りなむ。此れは恒に相続す、故に唯捨受とのみなり。
 と。
 
 説明しますと、
 第一の理由は「此の識は行相極めて明了ならず」。つまり、行相は能縁の見分のことです。『本頌』第三頌の一頌半の「不可知執受 処了」。「執受」と「処」が所縁の相分ですね。そして「了」が能縁の見分、これが行相です。そしてですね、執受と処と了は不可知である。まず初めに能縁の行相の働きは極めて明らかではない。浅い心ではないといっているのですね。私たちが観察できるようなものではなく、極めて深い心であるから、はっきりと阿頼耶識の働きを見ることは出来ない。
 第二の理由は「違と順との境相を分別すること能わず」。ここは、所縁の境、相分について、第八識の見分は、所縁の違・順を分別しないことをはっきりさせているわけです。つまり、違は自分の思いに違うこと、順は自分の思いに適うことですが、阿頼耶識は、違・順の境の相を分別することはしない。阿頼耶識はそのような力を持っていないのです。すべてを受け入れてしまう。私の行為のすべてを阿頼耶識は受け止めている、為したこと、思っただけのこと等を取捨選択することなく、みんな受け止めているのですね。阿頼耶識はただ縁じているだけで、善悪の分別とか、苦楽の分別をするのは第六意識なんですね。
 第三の理由は「微細(ミサイ)に由る」。非常に細やかな心であるということ。若 し苦楽があれば、行相は麁(ソ。あらい)である。阿頼耶識は微細な心である。
 第四の理由は「一類に由る」。一類は、同じ性質のものは性質を変えることなく続いていく。若し性質が変わるのであれば一類ではない。阿頼耶識は捨と云う性質を変えることなく、行相は定まっている。
 第五の理由は「相続して転ず」。阿頼耶識は持続している。間断することがない。一類と関係しますが、一類相続なんです。苦楽があれば、変化しますから、間断があって相続を保つことはできません。
 第七末那識のことは今は伏せておきますが、第八阿頼耶識には間断がない、恒相続である。第六意識には間断がある。間断があっても阿頼耶識は恒に相続して動いている。ですから眠っているときも、目覚めている時も阿頼耶識は動きつづけて、私の一挙手一投足をすべて引き受けているのです。
 このような理由から、「唯だ捨受とのみ相応す」。と云われています。阿頼耶識の性質は変化しない。私を私の根底から支えつづけているのは一類相続している静寂の感情である捨受とのみ相応するのである。
 苦楽を超えて、苦楽の感情を「捨」として受けてめている阿頼耶識が私を支えているということは大変大事なことを教えていると思います。