唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (15) 廃立門 (5)

2011-09-30 22:38:06 | 心の構造について

 問い、四煩悩同士が相応しえるのは何故か、その理由を述べる。

 「見と慢と愛との三いい如何ぞ倶起する。」(『論』第四・三十右)

 (見と慢と愛(我見と我慢と我愛)との三つはどうして相応することができるのか。)

 「述して曰く、自下は第二に自の妨難を釈す。外の小乗等の諸の異計の問なり。見と二の法とは如何ぞ倶起する。此れは各自力をもって生ずと許すを以ての故に。」(『述記』第五本・三十七右)

  •  「自の妨難」 - 自類相応の妨難のことで、四煩悩という煩悩の自類同士が相応し得るか否かという問題。「妨難」は、ある主張・教理に対する敵対者の反論・非難をいう。

 第七末那識と相応する煩悩は、すでに四煩悩であることを明らかにし、その他の六つの煩悩は不相応であることを明らかにしてきましたが、では、四煩悩同士が常に倶起し得るのは何故であるのかと問いただしています。「見と慢と愛との三いい如何ぞ倶起する」と。四煩悩の中、我癡(無明)はすべての煩悩と相応しますから、この科段においてはその他の三の煩悩の相応について問うのです。

 答え、「行相同なるを以て」(『述記』)という。

 「行相違すること無し、倶起すというに何の失かあらむ。」(『論』第四・三十右)

 (見と慢と愛の行相が相違しないからである。従って、見と慢と愛が倶起するということに、何の過失があるのであろうか、ないはずである。)

 この科段は我見と我慢と我愛はそれぞれ行相が相違しないために倶起することを明らかにしています。これは護法の答えなのですね。「論主の答なり。」と。そして教証として『対法』巻第六と『瑜伽論』第五十五の記述を挙げています。

 『瑜伽論』巻第五十五に「煩悩の自性に幾種ありや。六種あり、一には貪、二には瞋、三には無明、四には慢、五には悪見、六には疑なり。

  •  問、何れの煩悩と何れの煩悩と相するや。
  •  答、無明は一切と與なり、疑は都べて所有無く、貪、瞋は互に相い無く、此れ或は慢見と與なり、謂く染愛する時或は高挙し、或は推求す、染愛の如く憎恚も亦爾なり。慢と見とは或は更に相応す、謂く高挙する時復た邪に推搆するなり。」

 貪(愛)と瞋は互に相応することはなく、貪(愛)は慢と見と與である、と述べられています。しかし一方では貪と慢とは行相が相反するから相応しないとも述べられているのです。この矛盾に対して次の科段において貪と慢は相応する場合と、相応しない場合があることを明らかにします。

 『瑜伽論』巻第五十八に「貪染は心をして卑下せしめ、憍慢は心をして高挙せしむ、是の故に貪、慢は更互(たがい)に相違す。」と述べられています。従って、次の科段において、貪と慢は相応する場合と相応しない場合があることを説明します。


第二能変 心所相応門 (14) 廃立門 (4)

2011-09-29 21:12:27 | 心の構造について

 では何が故に「疑」等を起こさないのであろうか。

 「見いい審に決するに由って疑起る容きこと無し。愛いい我に著するが故に瞋生ずることを得ず。故に此の識と倶なる煩悩は唯四のみなり。」(『論』第四・三十右)

 (我見は認識対象が何であるのかを審らかに決するものであるから、我見と倶に疑は起こることはない。疑の行は猶予(因果の理の存在を疑い猶予する心をいう。決断できずあれこれとまようこと)であるから相応しないのである。愛(貪)は我に執着するものであるから愛(貪)と倶に瞋は生じることは出来ない。この故に第七末那識と倶である煩悩はただ四のみである。)

 前科段においては十(或いは我所見を加えて十一)の根本煩悩の内、四見(辺執見・邪見・見取見・戒禁取見)と我所見は何故第七末那識と相応しないのかを述べてきました。残る二つの「疑」と「瞋」について、何故、疑と瞋が第七末那識と相応しないのかを説明します。

 「疑」は疑いです。末那識相応ということから、自分に対して疑をもつということはありません。任運にひたすら自己を愛しつづける働きですから、自己に対して疑いをもつということは末那識にはないのですね。そして我見は第八阿頼耶識の見分を縁じると決定しているのですから疑いが起こることはないのです。同様に自分に対して怒りをもたないのです。自分の都合のいいように貪っていくのが末那識なのです。「愛」とは我愛のことです。我愛とはひたすら自己を貪り執着するものであるから、認識対象を憎悪し怨恨する瞋とは相応することはない、と述べています。

 以上の理由により第七末那識と相応する煩悩は四煩悩のみであるというわけです。

 「述して曰く、此れが中に身見は能く審決するが故に、疑の行は猶予なるが故に相応せず。『対法』(第六巻)等に云く、疑は都て所有なしと云へり。此の愛と見とは我に順著せるを以ての故に、憎背の瞋無し。故に此れと倶には唯四のみなり。行相は不同なるが故に要ず唯四のみなり。無明等の中の迷事理においては唯是れ迷理なり。相応と不共とにおいて分別することは下に説くが如し。四種の愛を以て、以て集諦と為す。此れは何の愛にか摂する。七慢等において分別することは別章に抄するが如し。」(『述記』第五本・三十六左)

 「疏に四種愛というより七慢分別というに至るは、相摂すること燈の如し。具に四愛を明かすことは法華摂釈の第三と第四の如し。」(『演秘』第四末・十八右)

 「燈の如し」は『了義燈』四末(大正43・743c)下の文を指す。

 「問う、四惑倶なると言う。我癡我見は論に自ら弁するが如し。愛に四種有り。慢は七九種なり。是れ何の愛慢ぞ。答う、是れ総の愛なり。我を縁ずるを以ての故に。余の行相には非ず。七慢の中には是れ我慢に摂む。我慢は恒に起こるを以てなり。九慢の類には非ず。」(『了義燈』第四末・二十九右)

 第七識は恒審思量で、相応する煩悩は四煩悩のみであるわけです。それに対して「疑」はあれかこれかと疑い猶予し戸惑う心なのです。「諸の諦理のうえに猶予するを以て性と為し、能く不疑の善品を障うるを以て業と為す」と。また『二巻抄』では「疑ハ、何事ニモ其の理ヲ思ヒ定ムル事アタハズシテ兎角疑フ心也。」と定義されます。この疑は事と理にくらい無明から生ずるのです。見は認識対象を何であるかを審らかに決定するものであるから見と倶に疑は起こることはない、と述べられています。 なお「慢」・「疑」については2010/1/16~17日の項を、「四愛」については2011/9/21日の項を参照して下さい。

 


第二能変 心所相応門 (13) 廃立門 (3)

2011-09-28 21:34:18 | 心の構造について

 辺執見と我所見が第七末那識相応の煩悩でないことを説明する。

 「我所と辺見とは我見に依って生ず。此れと相応する見は彼に依って起こらず、恒に内に我有りと執す。故に要ず我見あり。」(『論』第四・三十右)

 (我所(見)と辺見とは我見に依って生じる。しかし第七末那識と相応する見は我見に依って起こるものではない。何故ならば第七末那識と相応する見は恒に内に我が有ると執着するからである。その為に第七末那識にはかならず我見が有る

のである。)

 我所とは我所見のことです。我所とは自分の所有物のことで、我所に執着することを我所見といいます。薩伽耶見を開くと我見と我所見に分かれますが、我見といった場合は我所見は含まないのです。

 そして、我所見と辺見(断見と常見)は我見に依って生じる見であると述べています。

 「此れと相応する見は彼に依って起こらず」という意味は、第七末那識と相応する見は我所見や辺見といった我見に依って起こるものではなく、第八阿頼耶識の見分を縁じて自の内我とする我見であると説明しています。それは我所見や辺見は第八阿頼耶識の見分を縁じるのではなく、我見に依って起こるものであるということをいい、当然に第七末那識相応の煩悩ではないということです。「恒に内に我有りと執す。故に要ず我見あり」と。我見は恒に内を縁じて我であると誤って執着する煩悩であるから、第七末那識にはかならず我見が相応するのであると述べています。

 「述して曰く、我所と及び辺見とは我見に依って後に生ず。此の識と相応するは彼に依って起こらず。任運に内を縁じて相続して生ず。他に仮って後に起こらざるが故に我所と及び辺見とをば起こさざるなり。

 (我所と辺見とは我見に依って生起する。第七末那識と相応する見の煩悩は、任運に内の第八阿頼耶識の見分を縁じて恒に相続し続けるものである。従って他に依存して生起するような煩悩ではない。そうであるので、我見に依って生起する我所見と辺見は第七末那識と相応する煩悩ではないのである。)

 問う、其の我所見は何の見にか摂せらるるや。 答う、此れは我見には非ず。我見は局(しき)るが故に、薩伽耶見に摂めたり、名通ぜるを以ての故に。

 問う、若し爾らば何が故に我所と辺見との二種と互に相続して生ぜざるや。(もしそうであるならばどうして我所見と辺見の二種が我見と交互に相続して生じないのか。)

 答う、(1)恒に内に執して間断すること有ること無きを以て、余の見と互に相続して起こる容からず。故に論に説いて「恒に内に我有りと執す」と言へり。 (我見は恒に内に執着して間断がないことから、他の見である我所見と辺見と交互に相続して生起することが出来ない。その為に『論』には「恒に内に我有りと執す」と述べられているのである。) (2)又前の二の見は通じて内外を縁ず。此れはただ恒に内に我有りと執するが故に要ず我見有り。而も余の四の見は此れと相応するに非ず。(また我所見と辺見とは内外を通じて縁じるが、第七末那識相応の我見は恒に内に我があると執着する。そのために第七末那識には我見のみが有り、我見と他の四の見である辺執見・邪見・見取見・戒禁取見は相応しないと述べています。相応しないということは、我所見と辺見と我見とが交互に生起することはないと説明しているのです。

  •  (1)は、「恒」の義を解釈する。
  •  (2)は、「内」の義を解釈する、といわれています。

 何が故に疑等を起こさざる。」(『述記』第五本・三十六右)

ではどうして第七末那識は疑等と相応しないのであろうか、という問いが出され、それに対して答えが出されます。   


第二能変 心所相応門 (12) 廃立門 (2)

2011-09-27 20:55:58 | 心の構造について

              ― 我見相応の理由を述べる。 ―

 「如何ぞ此の識に要ず我見しも有る。」(『論』第四・二十九左)

 (どうしてこの識にはかならず我見が存在するのか。)

 「述して曰く、此れは外人の問いなり。五見の中に於て何ぞ余の見を起こさずして要ず我見を起こすや。」(『述記』第五本・三十五左)

 答

 「二取と邪見とは但分別生なり、唯見所断なり。此れと倶なる煩悩は唯是れ倶生なり、修所断なるが故に。」(『論』第四・二十九左)

 (二取(見取見・戒禁取見)と邪見とはただ分別生、分別起の煩悩であり、ただ見所断の煩悩である。しかし第七末那識と倶である煩悩はただ倶生起のものである。何故ならば第七末那識と相応する煩悩は修所断の煩悩であるからである。だから見取見・戒禁取見・邪見は第七末那識と相応する煩悩ではない。)

 見所断 - 見道所断ともいい、見道において断じられるものをいう。分別起の煩悩は真理を見ることに於て断じられるものである。見取見と戒禁取見と邪見とは見所断の煩悩である。

 修所断(しゅしょだん) - 修道所断ともいい、修道に於て断じられるものをいう。倶生起の煩悩は修道で断じられる。第七末那識と相応する煩悩は修所断の煩悩である。「金剛喩定に方に能く断ずといえるが故に」と。第七末那識相応の煩悩は「無始より未転依に至るまで此の意は任運に恒に蔵識と縁じて四つの根本煩悩と相応する」と述べられていますように、未転依である間は金剛喩定までは四煩悩と相応しているといわれています。

 この科段は「此れと倶なる煩悩は唯是倶生なり」と述べられるように、第七末那識と相応する煩悩はただ倶生起のものであることを明らかにして、分別起の煩悩は第七末那識相応の煩悩ではないことを明らかにしています。分別起の煩悩は見道において断じられるものであるが、倶生起の煩悩は金剛定において断じられるものであるから、分別起の煩悩が断じられたとしても、なおかつ倶生起の煩悩は用きつづけているために分別起の煩悩は第七末那識相応の煩悩とはいえないのです。

 「述して曰く、此れが中に三の見は倶に分別起なり。唯見所断なり。『瑜伽』五十八と『対法』と等に皆是の説を作さく、此れと倶なる煩悩は唯是れ倶生なり。修道所断なり。故に相応せず。何を以てか知るならば、下に引ける文の如く金剛喩定に方に能く断ずといえるが故に。『対法』第四に任運起の者ならば修道にして断ずと云うが故に。」(『述記』第五本・三十五左) 

 『瑜伽論』巻第五十八の記述(取意)は「邪見・見取見・戒禁取見は四諦に迷う、四諦に迷うが故に、四諦を見て断ずる所である、」と。ここに「薩伽耶見と辺執見を除く」と記述されているのです。「辺執見」は「五取蘊に於て、薩伽耶見の増上力の故に、心執増益し我の断・常を見るを辺執見と名づく」と。次の科段に於て論議されます。

 金剛喩定(こんごうゆじょう) - 一切を粉砕するダイヤモンドのような力強い禅定。長い修行の末、最後まで残った微細な煩悩を断じて次の瞬間に仏陀になる禅定をいう。金剛心・金剛定ともいう。


第二能変 心所相応門 (11) 廃立門 (1)

2011-09-26 20:15:43 | 心の構造について

 「彼れに十種有り、此れには何ぞ唯四のみある。」(『論』第四・二十九左)

 (彼(根本煩悩)には十種ある。此れ(第七末那識)にはどうしてただ四つの煩悩のみがあるのか?)

 「述して曰く、自下は第二に廃立する門なり。中に於て二有り。初は根本の自類を廃立す。後は自ら妨を釈す。根本煩悩に十有り。此れが中に何故に唯四のみ有るや。」(『述記』第五本・三十五右)

 第七識と相応する煩悩は、すでに述べてきましたように、我癡・我見・我慢・我愛の四種であるが、根本煩悩といわれるものには十種ある。何故に第七識相応の煩悩はただ四種のみであるといい得るのか、という問いを立てています。

 煩悩 - 第三能変に於て煩悩は根本煩悩と随煩悩に分けられる。根本煩悩には貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の六つが数えられますが、さらに悪見を開いて薩伽耶見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見と分けられ、総じて十種の煩悩を根本煩悩という。ではここに何故に第七識と相応するものは四種であるのかと問いただしているのです。

 随煩悩 - 根本煩悩より生じる付随的な煩悩。二十種立てられる。詳細は「煩悩」の項を参照して下さい。(2010年1月7日より2010年6月5日の項)

 「我見有るが故に余の見生ぜず、一心の中には二の慧有ること無きが故に。」(『論』第四・二十九左)

 (我見があるために、他の見は生じないのである。一心の中、即ち一つの識の中に二つの慧が生起することはないからである。)

  第七末那識は第八阿頼耶識の見分を縁じて自の内我と為す。我そのものとなす。我所を許さないのが護法の見解です。そして四種を除いた「瞋」・「疑」は他に対するもので、自に対するものではありません。第七末那識は自分に対して瞋りを持つことはあません。自分に対する深い愛着が性ですから、同時に自分を憎むということは成り立たないのです。ですから自分に対して疑いを持つこともありません。これが問題ですね。反省という言葉がありますが、我見によって執着された我をたのみ、愛着するところには反省は成り立たないのです。また自分から出る一切の出来事は我執に色づけされているのですから正見というわけにはいきません。あとは悪見の中の辺執見・邪見・見取見・戒禁取見です。薩伽耶見(我見)は倶生起の煩悩で、邪見・見取見・戒禁取見は分別起の煩悩ですね。「取」が特徴です。認識したり、考えたりするひとつの見解です。偏った見解ですね。邪見は因果の道理を否定するわけです。空を否定しようとする見方です。見取見は自分の見解が正しいと思い込んでいる見方です。戒禁取見は戒律のみが正しい生き方と思い込んでしまう見方ですね。いずれも我見から生じた分別起の煩悩です。我見から生じたものであるから簡ばれるのですが、辺執見と我所見はどうなのでしょうか。この二つの見は分別起の場合もあるが、倶生起の場合もあるのです。しかしこの場合は我見を前提として成り立っているので簡ばれるのです。また辺執見は極端に考える見解ですから、有る場合(常見)と無い場合(断見)とがあるという見方になります。我所見が成り立つのは我そのものが前提となります。我がなければ我所は成り立たないのです。我に対して対象化されたものが我所です。従って、我見を前提として他の見が成り立つわけですから、「我見あるが故に余の見生ぜず」と。我見の中に他の四つの煩悩、辺執見・邪見・見取見・戒禁取見は含まれるので、今は第七末那識に働く根本煩悩は四つ、我癡・我見・我慢・我愛であり、「無始よりこのかた未転依に至るまでこの第七末那識は任運に第八阿頼耶識を縁じて四の煩悩と相応する」といわれているわけです。

 「一心の中には二の慧有ること無きが故に」 というのは、「見」は慧の一種であるといわれます。智と対比される見です。五種の見の体は慧です。『述記』には「行相別なるが故に」と。五種の見は体は慧で作用は別であるということです。ですから同時に二つの慧の用きが起こるものではないといっているのです。我見が用くと、他の見は用かない。辺執見でいうと、断見が用いているときは、同時に常見は用かないということです。


自己に背くもの』 安田理深述 (7) 救いの断絶 (1)

2011-09-25 12:57:26 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 三願転入において親鸞は、二十願の機にあっては念仏しながら本願を疑惑する。それについてこういう悲嘆を述べてある。

 悲哉垢障凡愚、自従無際已来、助正間雑定散心雑故出離無其期 自度流転輪廻 超過微塵劫 叵帰仏願力 叵入大信海 良可悲嘆

 (「悲しきかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定散心雑するがゆえに、出離その期なし。自ら流転輪回を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深く悲歎すべし。」 化身土文類・本、真聖p356)

 実に痛切を極めた悲嘆であり、懺悔である。この二十願にひびいているものこそ意義深いものである。親鸞聖人が機の問題を二十願の自覚即三願転入を以て解釈しておられることが解ると思う。龍樹菩薩にあっては、堕地獄は菩薩にとって必ずしも苦しみではない。二乗におちいることがその死であり、致命傷であるといっておられる。出離その期なしとは、致命傷であることを明らかにしておる。そこに教証を挙げて、たとえ五逆の人には救いの縁はある。地獄に堕ちてもまだ手がかりがあるが、しかし謗法になると手がかりというものがない。更にこの謗法の罪を道理を以て次にあらわしている。

 又正法者仏法 此愚痴人既生誹謗 安有願生仏土之理 仮使但貪彼生安楽而願生者 亦如求非水之氷無烟之火 崇有得理

 (「また正法はすなわちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず。いずくんぞ仏土に願生するの理あらんや。たといただかの安楽に生まるることを貪して生を願ぜんは、また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし、あに得る理あらんや。」(信文類、真聖p273)

 既に仏法を誹謗しているものが仏法を聞こうとしていることは明らかな矛盾である。本願を踏みにじっているものが本願に救われようというている。それでも更にそれを一応許そう。本願を踏みにじっていてもなお仏法を聞こうという願だけは許そう。認めよう。たといその願を起こしたとしても往生を得るということはできぬではないか。仏法を求めるに非仏法的動機で求めるものがいる。仏法は仏法の心でないと求められぬ。人間の心は仏法を求めることはできぬ。仮令(たとい)といってあるが、大部分がそれである。人間の欲望を以て仏法を求めている。人間的な欲望を以て仏法を求むるも、与えられるという必然性はない。全く偶然的に何か人間的欲望が否定されて、そこにはかならず仏法に遇うということはあっても仏法を得るの必然的証明がない。われわれは安楽浄土を聞いて願生する。そういう願生から往生の確証をにぎる必然性がないではないか。曇鸞大師ご自身がこういう問題を持っておられた。これは曇鸞大師ご自身の自己批判である。親鸞聖人も自己自身の上にこれを読まれた。浄土を求めるといいつつ現世の幸福から一歩もでない。これは余談にわたるが、今日仏法がふるわない。ふるわぬ証拠が一つある。それは現生というものと離れたところにある。何も親鸞の教えが時代おくれだからというわけではない。にもかかわらず一向に人間の眼でみると判らぬが、歴史的社会的力を持たぬ、リアルになっておらぬ。今日仏法は一つの教理になってしまっているところに現実、現在、現行、即ち現というものを離れている。今日雨後の筍の如く新興宗教が勃興し、それらは一貫して現在の利益というものを掲げている。ところが真宗の教えは現在を離れている。現実生活を遊離している。新しい生活がそこに創られてゆく、それが本来の仏法である。それが単なる教理になっている。生きた歴史的社会的現実生活のうちにない。龍宮に入ってしまっている。私が思うにはそれはそうとしておいて、日本に世界的宗教といわれ得るものは、キリスト教はそれと一応認知するが、それと合せて仏法も世界的宗教であることをキリスト教徒も暗黙のうちに承認していると思う。真に危機に立つものは仏法であると思う。いかにキリスト教といえども、親鸞の教学を大本教などと一緒にしてみているわけのものではないと思う。キリスト教は簡単にいえば、どこか人間の否定、人間否定というところに一点にかかわっている。更にキリスト教と仏教とは人間に対する絶対批判というものが一貫している。そういうところに仏教というものが、そのままの相を以てしては民衆に橋渡しができないものがある。親鸞の教行信証に触れれば人間はそこで絶望しなければならぬ。人を救ってくれるという仏法が蓋を開けば救いのないことを語っている。日本人のような功利主義者、現世主義者のなかに親鸞聖人を生んだということは鳶の子が鷹であったことになる。日本人が親鸞聖人をもったということは実に驚嘆すべきことである。それは世界的なできごとである。こういうことはいくら気焔をあげてみてもあまりひびいてこないかもしれぬが、ふつう親鸞聖人といえば坊さんのもののように思っているが、事実は世界的意義において生きていられるのである。親鸞には人間に対する一点の妥協がない。甘さというものがない。くもりがない。真に親鸞を生かしているものは底なき深い懺悔である。そういうものが教行信証の教学というものえお生み出している基底である。自己存在の根源的懺悔である。そこに永遠に現実肯定の宗教から一線を劃している。今日の新興宗教というようなものは総じていえば地獄からの恐ろしい宗教である。人間欲望の延長である。地獄の恐ろしいところから出発している宗教である。

 地獄の恐ろしいところに宗教はない。私が面白いと思うことは観経に五逆を説いている。それを親鸞聖人は涅槃経を以て明らかにされている。そこに五逆も謗法も闡提もそろっている。観経はもっぱら韋提希夫人について述べられてあるが、韋提希は凡夫人であるがそのなかの善人である。涅槃経では同じ凡夫人であるがその子阿闍世という悪人が出ている。提婆も出ているが、そこでは阿闍世の廻心、阿闍世の信仰告白の記録というもんが出ている。その相当に長い阿闍世の信仰記録を教行信証に引用になっている。そこには阿闍世が五逆罪を犯した呵責のために堕地獄の不安におののくところの相が躍動している。犯罪者の心理が描写されている。この阿闍世の物語は五逆罪を犯した罪をば六師外道がそれぞれの教説に立って弁明し、阿闍世を苦悶より解放しようとするが、しかし彼等が弁解しようとすればするほど、逆に罪を犯したということがはっきりしてくる。いよいよ打ち消すことができない。その阿闍世の心を抜きがたくきりもむ苦悶が説かれているが、ここでいいたいことは阿闍世が釈尊の教化に救われ廻心して述べている言葉である。

 「(王、仏に白さく)世尊、我世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず、伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。我今始めて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。「伊蘭子」は、我が身これなり。「栴檀樹」は、すなわちこれ我が心、無根の信なり。・・・・・・」(『信文類』真聖p265)

 伊蘭とは非常に悪臭を放つので嫌われている草である。その伊蘭のなかから芳香を放つ栴檀樹が生じたということは、いまだかってないことである。「伊蘭子とは我身是なり」 人に憎まれ全世界から嫌われていた伊蘭から栴檀が生じた。生ずべからざるものが生じたのである。根のない信、無根の信、他力廻向の信、この伊蘭の身から信の一念が栴檀樹のように生まれた。全く奇跡的事件である。      (つづく) 次回は「救いの断絶」後半です。

 


第二能変 心所相応門 (10) 煩悩の名について説明する (2)

2011-09-24 13:10:23 | 心の構造について

 悩の字について説明する。

 「有情いい此れに由って生死に輪廻して、出離すること能わず、故に煩悩と名づく。」(『第四・二十九左)

 (有情は(「此れに由って」)四煩悩に由って生死に輪廻して出離することができない。その故に煩悩と名づけるのである。)

 「述して曰く、有情は此の四煩悩に由るが故に、恒に我等を執し、生死に淪廻す。此れが中に淪の字は謂く淪没なり。廻とは転なり。車輪の廻りて休息(くそく)すること有ること無きが如し。生死に淪没して出離して聖道等を得ること能わず。此れは煩悩の字を解するなり、故に煩悩と名づく。行者を悩乱し身心を煩籍するが故に。」(『述記』第五本・三十五右)

 輪廻は淪廻であると説明されています。淪は淪没(りんもつ)であるといいます。しずむという意味です。生死の海に沈み没することですね。

 「しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して」(『信文類』真聖p232)と教えられていますように、輪廻とは「煩悩海に流転し、生死海に漂没」することなのです。『述記』には輪廻の廻を車の車輪に喩えています。廻とは転のことで車輪が廻りて休息することがない様であり、三界の有情は車輪が廻り休息がないように、生死海に漂い沈み没した状態がつづき、生死海を出離することが出来ないのでるといいます。このような様子を「悩」という字で示しているのです。そして煩悩は「行者を悩乱し身心を煩籍する」ということであると述べています。

 安田理深師は次のように述べられています。

 「第八識を擾濁することによって、外なる前六識、転識を有漏にする。転識の中には善の経験があっても、有漏にする。末那識に相応するところの煩悩が、末那識をして本識を自の内我として愛着させ、内なる本識を擾濁することによって、転識をして有漏雑染ならしめる。主体を実体化することによって、一切の経験を有漏雑染ならしめる。こういうことによって、衆生をして生死に輪廻して出離をえざらしめる。衆生の流転は悩ということ、擾というのが煩、それで煩悩という。悩といは悩乱である。内には本識を我愛することによって、転識を擾濁せしめる。それが煩。それによって衆生が流転せしめられる。それが悩である。」(『選集』第三巻p72)

 主体を実体化するという問題ですね。我でないものを我とすることに於て苦しむという構造です。「人間は自己を実体化することによって自己の奴隷になるのである。自分の心理の奴隷になることである。・・・・これを仏教では我執という。」と教えておられます。


第二能変 心所相応門 (9) 煩悩の名について説明する (1)

2011-09-23 22:08:48 | 心の構造について

 煩悩の名について説明する、その内の「煩」の字を説明する。

 「此の四ついい常に起こって内心を擾濁(じょうじょく)し、外の転識を恒に雑染成ら令む。」(『論』第四・二十九左)

 「擾」は乱れる、わずらわしいという意で、「擾濁」(じょうじょく)はみだしよごすこと。『述記』には「擾とは渾(こん)なり」と。「渾」も濁っているという意味です。雑染は三性の有漏に通ずる。

 (この四煩悩は常に生起し、内心を乱し、よごして、外の転識を恒に雑染にならしめるのである。)

 煩悩の煩については「内心を擾濁する」と、そしてそのことが外に六転識を恒に雑染するのであると。

 「述して曰く、自下は却って煩悩の名を解す。先に名を列し及び体を出し已るに因みて方に煩悩ということを解す。此れ文の勢なり。今は煩の字を解す。擾とは乱なり、濁とは渾なり。此の四常に起こって内心を擾濁す。所余の六識の中の惑の他人の等を擾濁するが故に。体は是れ不善なるが如きには非ず。今は内(第八識)を縁ずるが故に外の六転識をして恒に雑染に成らしむ。雑染の言は三性の有漏に通ず。」(『述記』第五本・三十四左)

 (四つの煩悩はただ内心のみを擾濁し他者を擾濁するものではない。六識と相応する煩悩は他者をも擾濁するのでその性は不善であるけれども、第七識相応の四煩悩は内心のみを擾濁するのでその性は不善ではなく有覆無記である。)

 「『論』に「此四常起擾濁内心」とは、内心の義は伝に両釈有り。一に云く、内心というは体は即ち第八なり。第七識と相応する四の惑は第八識を縁じて有漏と成ら令むるに由って、故に擾濁と名づく。二に云く、内心というは即ち第七識なり。相応の惑に由って而して染汚に成る。名づけて擾濁と為すという。詳にして曰く、今は後釈に同なり。所以は何ん。答、内心を擾して外の転識をして恒に雑染に成ら令むと言う。雑染とは第八に由って、第七の能なるが故なり。また別釈せば、内心というは通じて七八二識を取る。第八は之れに由って有漏と成るが故に。」(『演秘』第四末・十七左)

 内心の意味について『演秘』には二つの意義と別釈としての意義と、合わせて三釈を挙げています。そして「後釈に同なり」として第二義を内心の意味として採用しています。「内心というは即ち第七識なり。相応の惑に由って而して染汚に成る。名づけて擾濁と為す」と。この四つの煩悩は常に生起し、相応する第七識を擾濁して染汚(有漏)とし、これに由って六転識を恒に雑染としていくのであるといわれています。

 親鸞聖人は自身を鋭くみつめられて『「教行信証』の信巻やその他で次のように述べておられます。

 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり、と。」(『信文類』真聖p215)

 「一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて「雑毒・雑修の善」と名づく。また「虚仮・諂偽の行」と名づく。「真実の業」と名づけざるなり。この虚仮・雑毒の善をもって、無量光明土に生まれんと欲する、これ必ず不可なり。」(『信文類』真聖p228)

 「愛心常に起こりてよく善心を汚す、瞋嫌の心よく法財を焼く。身心を苦励して、日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を炙うがごとくすれども、すべて雑毒の善と名づく、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。この雑毒の善をもってかの浄土に回向する、これ必ず不可なり。」(『浄土文類聚鈔』真聖p416)

 「『経』に云わく、「一者至誠心」。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生身口意業に修するところの解行、必ず真実心の中に作したまえるを須いんことを明かさんと欲う。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚仮を懐きて、貪瞋邪偽奸詐百端にして悪性侵めがたし、事蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心起行を作すは、たとい身心を苦励して日夜十二時、急に走め急に作すこと、頭燃を炙うがごとくするは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲うは、これ必ず不可なり。何をもっての故に、正しくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も三業の所修、みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なりと。」(『愚禿鈔』真聖p436)

 真実とは何であるかを明らかにして、自身の内面を照らし、四煩悩を契機として私たちの全ての行為は雑染であるとはっきりさせられたのですね。これは阿弥陀仏の本願に出遇われて、鶴田師のお言葉では「愚痴るもよし、苦悩するのもよし、背くのもよし、欺くもよし、」という世界に遊べるのでしょうね。「妄念はもとより凡夫の地体なり」と。私たちは凡夫に出遇っていないのですね。凡夫とは思っていません。都合の悪いときにだけ凡夫ですからと言い訳の言葉としては使いますけれどもですね。凡夫であると決断できた時、即ち「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」、罪悪深重煩悩熾盛の衆生の大地に立つことができるのです。四煩悩の教説は私たちの行為が何によって成立しているのかを明らかにしています。


第二能変 心所相応門 (8) 并(びょう)とはを述べる

2011-09-22 22:51:07 | 心の構造について

 并の字について説明する。

 「并(びょう)というは慢と愛といい見と慢と倶なること有りということを表して、余部の相応する義無しと執ずるを遮す。」(『論』第四・二十九左)

 (并という字は慢と愛とが見と、そして愛は慢と相応することを表し、余部(他の部派)が慢と愛とが見と、そして愛が慢と相応する義はないということを否定する。)

 『泉鈔』に「私に云う、癡・見の下、慢・愛の上に并の字を置く事は、并の下なる慢・愛が并の上なる見と相応し、又并の下に二ある慢・愛の二も互に相応すということを顕すなり。肝要は見と難と愛との三互に相応すと顕さんが為に、并の字を置くなり。薩婆多(有部)は無明をば相応と習うが故に、四種の中に無明を釈せざるなり。肝要は薩婆多を遮せんがためなり云々。一私に云う、上の四煩悩常倶の倶の言は第七識の四惑と相応する義を顕し、下の并の言は四惑と倶なるはいざ前後にや相応するらむ、復四惑一時に相応するらむ、此の義顕れず、故に并の字にて顕すなり。」と説明されています。

 「謂我癡我見并我慢我愛」(謂く、我癡と我見と并に我慢と我愛となり)とある中の「并」の字が表す意味を説明しています。

 「并」という字は慢と愛との二法は見と倶起する。愛は慢と倶起するということを表すのである。慢と見・愛と見、愛と慢とが倶に生起する、あるいは並存することを表し、慢と愛と見との三が互いに相応するということを表しているのです。「慢と愛とは見と慢と倶なること有りということを表すといえり。」(『述記』第五本・三十四右)と。

 何故このようなことを述べるのか、その意は「薩婆多等の相応する義無しというを遮す。彼は相応と許さず各自力をもって起こすというをもって。大乗は相応すという。(『瑜伽論』巻第五十五)下に当に解すが如し。」(『述記』)

 有部の学説は「慢と愛とが見と、そして愛が慢と相応する義はない」と主張しているのですね。このことを否定しているわけです。慢と愛と見の三者は互いに相応し、あるいは不相応の場合もあるけれども、今は有部の学説を否定する為に三者は互いに相応するのであると説くのである。又、四煩悩の中、我癡が述べられていないのは、癡はすべての煩悩と相応し、根本であるからです。癡を大前提にして他の煩悩が起こってくるわけですから、ここでは見が中心となります。(我)見によって慢・愛(貪)が加わるのです。我癡を前提として慢・愛の所依となるのが見であり、我執の心理なのですね。ただ第七末那識相応の四煩悩は同時に相応して生起するのです。」

 相応ということは後の諸門分別の中、自類相応門等に於て詳しく述べられますが、「大乗は相応す」ということについて『瑜伽論』巻第五十五に「問う、何れの煩悩と何れの煩悩と相応するや」という設問がだされ、その中で相応する義があることが述べられています。「答う、無明は一切と與なり、疑は都べて所有無く、貪・瞋は互いに相い無く、此れ或いは慢・見と與なり、謂く染愛する時、或いは高挙し、或いは推求す、染愛の如く憎恚も亦爾なり。慢と見とは或いは相応す、謂く高挙する時復邪に推搆(すいこう)するなり。」と記述されています。

 推搆(すいこう) - おしはかること。

 


第二能変 心所相応門 (7) 我慢と我愛について

2011-09-21 23:19:13 | 心の構造について

 我愛について

 「我愛とは我貪ぞ。所執の我の於に深く耽著を生ず、故に我愛と名づく」と。我愛とは我貪であると。自己へのむさぼりで、貪の煩悩のことです。第七識相応の貪を我愛というのですね。愛とは愛執です。自己執着愛で、私たちの境界はそれぞれの行為において、その行為は染汚であり、染汚のまま欲求され、此れに由って苦果を生みだしてくるのです。では愛著にはどのような種類があるのでしょうか。始めは自体愛です。自己自身への執着で、「結生の時に於て自体愛と父母愛とを起こすが故に染心あり」といわれています。二番目は後有愛で再び生まれることへの愛着です。「後有愛に由るが故に、能く当来の生などの衆苦を感ず」と。当来の自体を愛するのが後有愛、または有愛といわれるものです。三番目は喜貪と倶行の愛で、すでに得ている対象を愛するものです。「衆の苦の根本」であるといわれています。そして最後は希楽愛で「過去を顧恋(これん)し、未来を希楽(けぎょう)し、現在に執着す」と。

 顧恋(これん) - ふりかえって思うこと。関心を示して執着すること。

 『正信偈』では「貪愛」といわれています。「已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」と。無明の闇を破ったけれども貪愛瞋憎の雲霧が常に信心の天を覆っている、と。これは無明の闇を破ったことに於て貪愛瞋憎の雲霧が常に信心の天を覆いつくしていることがはっきりしたということでしょうね。無明の闇を破らないと貪愛瞋憎の雲霧がみえてこないのです。信心において我貪という我愛の正体が見破ることができるのです。