煩悩の名について説明する、その内の「煩」の字を説明する。
「此の四ついい常に起こって内心を擾濁(じょうじょく)し、外の転識を恒に雑染成ら令む。」(『論』第四・二十九左)
「擾」は乱れる、わずらわしいという意で、「擾濁」(じょうじょく)はみだしよごすこと。『述記』には「擾とは渾(こん)なり」と。「渾」も濁っているという意味です。雑染は三性の有漏に通ずる。
(この四煩悩は常に生起し、内心を乱し、よごして、外の転識を恒に雑染にならしめるのである。)
煩悩の煩については「内心を擾濁する」と、そしてそのことが外に六転識を恒に雑染するのであると。
「述して曰く、自下は却って煩悩の名を解す。先に名を列し及び体を出し已るに因みて方に煩悩ということを解す。此れ文の勢なり。今は煩の字を解す。擾とは乱なり、濁とは渾なり。此の四常に起こって内心を擾濁す。所余の六識の中の惑の他人の等を擾濁するが故に。体は是れ不善なるが如きには非ず。今は内(第八識)を縁ずるが故に外の六転識をして恒に雑染に成らしむ。雑染の言は三性の有漏に通ず。」(『述記』第五本・三十四左)
(四つの煩悩はただ内心のみを擾濁し他者を擾濁するものではない。六識と相応する煩悩は他者をも擾濁するのでその性は不善であるけれども、第七識相応の四煩悩は内心のみを擾濁するのでその性は不善ではなく有覆無記である。)
「『論』に「此四常起擾濁内心」とは、内心の義は伝に両釈有り。一に云く、内心というは体は即ち第八なり。第七識と相応する四の惑は第八識を縁じて有漏と成ら令むるに由って、故に擾濁と名づく。二に云く、内心というは即ち第七識なり。相応の惑に由って而して染汚に成る。名づけて擾濁と為すという。詳にして曰く、今は後釈に同なり。所以は何ん。答、内心を擾して外の転識をして恒に雑染に成ら令むと言う。雑染とは第八に由って、第七の能なるが故なり。また別釈せば、内心というは通じて七八二識を取る。第八は之れに由って有漏と成るが故に。」(『演秘』第四末・十七左)
内心の意味について『演秘』には二つの意義と別釈としての意義と、合わせて三釈を挙げています。そして「後釈に同なり」として第二義を内心の意味として採用しています。「内心というは即ち第七識なり。相応の惑に由って而して染汚に成る。名づけて擾濁と為す」と。この四つの煩悩は常に生起し、相応する第七識を擾濁して染汚(有漏)とし、これに由って六転識を恒に雑染としていくのであるといわれています。
親鸞聖人は自身を鋭くみつめられて『「教行信証』の信巻やその他で次のように述べておられます。
「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり、と。」(『信文類』真聖p215)
「一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて「雑毒・雑修の善」と名づく。また「虚仮・諂偽の行」と名づく。「真実の業」と名づけざるなり。この虚仮・雑毒の善をもって、無量光明土に生まれんと欲する、これ必ず不可なり。」(『信文類』真聖p228)
「愛心常に起こりてよく善心を汚す、瞋嫌の心よく法財を焼く。身心を苦励して、日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を炙うがごとくすれども、すべて雑毒の善と名づく、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。この雑毒の善をもってかの浄土に回向する、これ必ず不可なり。」(『浄土文類聚鈔』真聖p416)
「『経』に云わく、「一者至誠心」。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生身口意業に修するところの解行、必ず真実心の中に作したまえるを須いんことを明かさんと欲う。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚仮を懐きて、貪瞋邪偽奸詐百端にして悪性侵めがたし、事蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心起行を作すは、たとい身心を苦励して日夜十二時、急に走め急に作すこと、頭燃を炙うがごとくするは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲うは、これ必ず不可なり。何をもっての故に、正しくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も三業の所修、みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なりと。」(『愚禿鈔』真聖p436)
真実とは何であるかを明らかにして、自身の内面を照らし、四煩悩を契機として私たちの全ての行為は雑染であるとはっきりさせられたのですね。これは阿弥陀仏の本願に出遇われて、鶴田師のお言葉では「愚痴るもよし、苦悩するのもよし、背くのもよし、欺くもよし、」という世界に遊べるのでしょうね。「妄念はもとより凡夫の地体なり」と。私たちは凡夫に出遇っていないのですね。凡夫とは思っていません。都合の悪いときにだけ凡夫ですからと言い訳の言葉としては使いますけれどもですね。凡夫であると決断できた時、即ち「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」、罪悪深重煩悩熾盛の衆生の大地に立つことができるのです。四煩悩の教説は私たちの行為が何によって成立しているのかを明らかにしています。