唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所 ・ 行捨(ぎょうしゃ) (1)

2013-08-29 22:42:09 | 心の構造について

 七は、行捨について、

 「云何なるか行捨。精進と三根との、心をして平等に正直に無功用(むくゆう)に住せ令むるをもって性と為し、掉挙(じょうこ)を対治し静に住せしむるを以て業と為す。」(『論』第六・七右)

 どのようなものが行捨であるのか。
 それは、精進と無貪等の三善根が持っている「心を平等に、正直に、無功用に住せしめる」という作用をもって、性とする。その結果、掉挙を対治して、心を寂静に住せしめるのを業とする心所である。

 行捨とは、「行は行蘊なり。行蘊の中の捨なり。受蘊の中の捨を簡ぶ。故に行の言を置く。」と『述記』は説明しています。 (行捨は、行蘊の中の捨。捨には受蘊のなかの捨があるが、それとは異なる行蘊の中の捨に行を付して行捨という。)

 無功用 - 意図的な努力がないこと。

 平等 - ここで云われる平等は、平静、平穏という寂静の状態を指して平等といっています。

 良遍は、「行捨ノ心所ハ、心ヲ平等正直ニナラシムル心ナリ」(『二巻鈔』)と説明しています。

                          この項 未完


第三能変 善の心所・不放逸について (12) 総結

2013-08-27 22:48:13 | 心の構造について

 「前の道理に由って、不放逸の防修の用を推すに、無貪等の四法の総別の能を離れれば、竟(つい)に得べからざるが故に不放逸は定んで別体無し。」(『述記』)

 不放逸は四法(精進・無貪等の三根)の防悪修善の作用の他に別の体がない分位仮立法であることを論証する。

 「是の如く不放逸の用を推尋(すいじん)するに、無貪等に離れて竟に得可からず、故に不放逸は定んで別体なし。」(『論』第六・六左)

 以上のように不放逸の防悪修善の作用を推理し尋ねた結果、無貪等の四法を離れては、ついに防悪修善の作用は得られない、その為に不放逸は絶対に四法を離れて別の体をもつものではない。

 以上、不放逸は四法を離れては別の体をもつことのない分位仮立法であることを論証してきたのです。

 「 論。如是推尋至定無別體 述曰。由前道理推不放逸防修之用。離無貪等四法總別之能。竟不可得。故不放逸定無別體 問何故此中以無貪爲首等餘三法。不以精進爲初 答次前別簡中。以無貪爲首故。從近而結也。即顯不逸不如小乘體是實有。即是假有之所以也。」(『述記』第六本下・二十五右。大正43・438c)

 (「述して曰く。前の道理に由って、不放逸の防修の用を推すに、無貪等の四法の総別の能を離れれば、竟(つい)に得べからざるが故に不放逸は定んで別体無し。
 問、何が故に此の中に無貪を以て首と為して余の三法を等じ、精進を以て初と為さざるや。
 答、次前に別して簡ぶが中に無貪を以て首と為す。故に近に従って結すなり。即ち不(放)逸は小乗の体これ実有なりという如くにあらざることを顕す。即ちこれ仮有なる所以なり。」)

 『述記』には、無貪等の三根を首とし、精進を以て初としないのは何故かという問いが設けられています。此れについて『演秘』には

 「疏。問何故此中以無貪爲首者。其難意云。前摽不放以勤爲初。何故後結無貪爲首疏。答以前至從近而結者。此答意云。依次前云若善依持之文結故。無貪爲首。」(『演秘』第五本・二十三左・大正43・914c)

 (「疏に「問何故此中以無貪爲首」とは、其の難意に云く、前に(六・六右)不放(逸)を標するに勤を以て初と為す、何が故に後の結(六・七右)には無貪を首と為すや。
 疏に、答う以前と云うより近に従って、結ぶなりと云うに至るとは、此の答の意の云く、次前に若し善く依持すと云う文に依りて結するが故に無貪を首と為すなり。」)

 「若善」は『論』には「若普」(六・六左)

 実有と仮法について、順正理論の論師である衆賢(しゅけん)は不放逸を実法とみなしているのです、それに対し護法は仮法であると論破しているのですが、ここには実法と仮法の論議が交わされていたことが伺えます。実法とは、実有の法という、実際に存在する法で、即ち因縁所生法・依他起法をいいます。仮法は独立した体があるわけではなく、或る心所の上に仮に立てられたもの、法相唯識では、五十一の心所のうち、以下のものを仮法としています。

 善 - 不放逸・行捨・不害
 煩悩 - 悪見
 随煩悩 - 忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍・放逸・失念・不正知
 不定 - 尋・伺

 複雑な心の構造が読み取れます。随煩悩の多くが仮法であることは、根本煩悩である三毒の煩悩ですね、貪欲・瞋恚・愚癡が複雑にからみあっての仮法なのですね。三毒の煩悩の上に立てられた分位仮立法であるということになります。

 例えば、怒り、腹立ちですが、忿という随煩悩ですね、これは瞋の一分の上に立てられた仮法になります。腹が立ったという体はないのですね、腹がたったという現象には、その現象が成り立つ背景があるということなのです。そして忿には必ず恨みを生じさせる働きがあり、そして恨むから悩むと云う随煩悩が生じてきます。
 
  


第三能変 善の心所・不放逸について (11)

2013-08-26 21:31:08 | 心の構造について

 前科段に於て、防修の義が「依持」・「策録」・「止悪進善」でるならば、それは四つの法と異なることはないとして、正理師等の説を論破したわけですが、しかし、その他の作用においては、どうなのかを検討し論破してきます。

 「散乱せざら令むるぞといわば、是れ等持なる応し、同じく境を取ら令むるぞといわば、触と何ぞ別なる、忘失せざら令むるぞといわば、即ち是れ念なる応し。」(『論』第六・六左)

 (仮に、正理師等の主張である)防修が散乱させないことであるというのであれば、これは等持であろう。

 等持(とうじ) ー 三摩地・三昧ともいう。七つの定の一つの別名。詳しくは、平等摂持という。

 同じく、心・心所をして境を取らしめるものだということであれば、触と異なるのであろうか、同じことであろう、また、忘失させないということであれば、つまりこれは念であろう。

 例として、定・触・念の三つの心所を取り上げて検証しています。

 正理師等が主張する防修とは、

 一に、心・心所をして散乱させないことであるとするならば、これは等持(定)である。定の心所である。

 二に、心・心所をして対象を認識させるものであるとするならば、これは触と異なることはない。触の心所である。

 三に、心に忘失させないことだとするならば、これは念と異なることはない。念の心所である。

 要するに、正理師等が主張する、防悪修善の働きが、散乱させない、認識対象を取ること、忘失させないことであるとしても、それは定・触・念の各心所であって、不放逸ではないことを述べているのですね。

 「 論。令不散亂至即應是念 述曰。若令心等不散名防修。即應是定。若令心心所法同取一境。不乖返縁名防修。與觸何別。若所作善惡憶念不忘名防修。即應是念。」(『述記』第六本下・二十五右。大正43・438c)

 (「述して曰く。若し心等をして散ぜざら令むを防修と名づけば、即ち是れ定なるべし。
 若し心心所法をして同じく一境を取ら令め、乖返(かいへん)せずして縁ずるを防修と名づくといわば、触と何の別ありや。
 若し、所作の善悪を憶念して忘れざるを防修と名づくといわば、即ち応にこれ念なるべし。」)

 乖返 - 乖反(かいはん)のこと。乖は、そむくこと。反は相違していることで、論理的に矛盾していることをいう。 


第三能変 善の心所・不放逸について (10)

2013-08-25 10:40:17 | 心の構造について

 本科段は、正理師等の主張する防修の作用が、依持・策録・止悪進善とするならば、四法と同じことになることを指摘しています。

 依持 - ここで述べられる「依」は依処のこと、あることが生じるよりどころ、根拠ですね。「持」は増長のこと。依持を以て、出生と増長の意味を表わし、根の意味が述べられています。根には出生と増長の二つの意味がある。

 策録 - 策発駈録という。はげまし、かりたてることで、「能く遍く一切の善心を策発駈録す」という、精進の働きをいう。

 止悪進善 - 防悪修善が止悪進善というのであれば、四つの法の作用と同じであることを述べる。

 「若し普く依持するぞといわば、即ち無貪等なり、若し遍く策録するぞといわば、精進に異ならず、悪を止め善を進むるぞといわば、即ち総じて四の法なり。」(『論』第六・六右)

 正理師等の主張の防修の作用について、三つの側面から四つの法と同じであることを述べています。

 ① 「普く依持するぞといわば、即ち無貪等なり」
 
② 「遍く策録するぞといわば、精進に異ならず」
 ③ 「悪を止め善を進むるぞといわば、即ち総じて四の法なり」

 若し(正理師等の主張する防悪修善とは)普く、すべての善心を依持するというのであれば、それは無貪等の三善根である。また、遍く策録するというのであれば、これは精進と異なることはない。そして、悪を止め善を進めるということであれば、これは総じて四の法の作用である。

 ここに「普」・「遍」という、どちらも「あまねく」と読まれていますが、「普」は普遍という、すべてを包み込んでいる働きを指すんだと思います。また「遍」は遍在といい、横のつながりといいますか、つながりに断絶が無いという意味になるんでしょうか。

 四の法の作用と同じことであることを以て、正理師等の主張の矛盾点を暴き、自らの主張に違背していることを指摘し、論破しているのです。

 「 論。若普依持至即總四法 述曰。若普依持一切善心名防修義。即是三根。依謂依處。持令増長。若能遍策發驅録一切善心名防修。不異精進等此四別能也。若止惡不生進善令起名防修者。總此四法故無別體。」(『述記』第六本下・二十四左。大正43・438c)

 (「述して曰く。若し普く一切の善心を依持するを、防修の義と名づけば、即ち是は三根なり。依とは謂く依処なり、持とは増長せしむるなり。若し能く遍く一切の善心を策発し駈録するを、防修と名づけば、精進等の此の四の別能に異ならざるなり。若し悪を止めて生ぜず、善を進めて起らしむるを、防修と名づけば、総じて此の四法なり。故に別体なし。」)

 『述記』には防修について、総の功能と別の功能の視点から説明されています。この点について、安田理深師は「こういうふうに善悪を防修することが不放逸であり、防修が三善根と精進の用きである。この用きの他に不放逸という独自の作用は見いだしえない。根というも遍策というも、防修について「止悪進善」、防修について根になったり遍策したりする。防修について止悪進善は総、根や遍策は別である。総の能と別の能、功能である。だから、この四法の別の功能の上に防修ということがある。四法の総別の能力の他に防修ということはない。」(『選集』第三巻p355)と教えられています。 


第三能変 善の心所・不放逸について (9)

2013-08-24 17:12:57 | 心の構造について

次科段は、護法の批判に対する、正理師等からの再反論になります。

 第五は、徴

 「勤は唯だ遍策するのみ、根は但だ依のみと為る、如何ぞ、彼いい防し修する用有りと説く。」(『論』第六・六左)

 「論。勤唯遍策至有防修用 述曰。外人徴曰。勤體唯能遍策勵善心。三根但能爲善法依。依是根義。如何説此四法有防修用。」(『述記』第六本下・二十四右。大正43・438c)

 (「述して曰く。外人徴して曰く。勤の体は唯だ能く遍く善心を策励し、三根は但だ能く善法の依と為る。依は是れ根の義なり。如何ぞ此の四法防修の用有りと。」

 「勤は唯だ遍策するのみ」とは、「勤の体は唯だ能く遍く善心を策励」するのみという、勤(精進)は、ただ善心を遍策、つまり、善に向かって勇敢に邁進し励むこころの働き(「善ヲ修スルニイサミヨキ心也」)のみであって、根も、「但だ能く善法の依と為る」のみである、と。どうしてこの四法に防修の作用があるといえるのか、防修の作用はない。

 従って、護法は、四法に防修の作用があると説くのであろうか。

 第六は、釈なり。(護法が正理師等の説を論破する)

 釈が四つに分けられ説明されます。一に、問い(質)。二に、同質であることを指摘。三に、異質であることを指摘し、四に、総じて結ぶ。

 初は問い。

 「汝が防修の用、其の相云何、」(『論』第六・六左)

 「論。汝防修用其相云何 述曰。此論主問。」(『述記』第六本下・二十四左。大正43・438c)

 (「述して曰く。此れは論主の問なり。」)

 護法が、正理師等に対し質す(問を投げかける)。防修の作用の相とは、どのようなものであるのか、と。

 この問題提起は、次科段及び次次科段において論証され、後に結釈し、正理師等の説の誤りを指摘し、護法説の正当性が証明されます。  (つづく)

 
 


第三能変 善の心所・不放逸について (8)

2013-08-21 22:02:22 | 心の構造について

 第二は、護法の質(反問)

 「防し修するぞといわば、何ぞ精進と三根とに異る。」(『論』第六・六左)

 「論。防修何異精進三根 述曰。此質也。汝之防修何異四法。四法能防惡。及修善故。」(『述記』第六本下・二十三左)

 (「述して曰く。此れは質なり。汝の防修すること、何ぞ四法に異るや。四法能く悪を防し、及び善を修する故に。」)

 順正理師等の主張である不放逸の体は防修であること、防修は四法と異なるのであろうか。四法は防修の作用に他ならない。とりもなおさず、あなたの主張である不放逸の体は防修であることも、結局は四法を以て体とする私の説と異なることはないであろう。

 第三は、外人の答え

 「彼は要ず此れを待って方に作用有りという。」(『論』第六・六左)

 彼とは、「彼の四法」ですね。精進・無貪・無瞋・無癡は、必ず此れ(不放逸)を待って、まさに作用があるからであり、というのが順正理師等の答えになります。

 ちょっと解りにくいですので、『述記』から学ぶことにします。

 「論。彼要待此方有作用 述曰。外人答曰。彼四法無力不能防修。要待此中別有不逸。令其四法方有防修之用。故不以四法爲防修體。故知別有不放逸也。」(『述記』第六本下・二十三左。大正43・438b)

 (「述して曰く。外人答えて曰く。彼の四法は力無ければ防修すること能はず。要ず此の中に別に不放逸有るを待って、其の四法をして、方に防修の用有ら令む。故に四法を以て防修の体と為さず。故に知る、別に不放逸有ることを。」)

 『述記』の説明は、「彼の四法はもともと力がないので防修の作用、防悪修善の働きはないのである。しかし、必ずこの四法とは別に、別個に不放逸の体が有るということを待って、この不放逸が持つ防修の作用を四法が受けるのである、という。これは、不放逸が持つ防修の作用を四法が受けることによって、四法が防修の作用を発揮することができるのである、という意味なのです。四法の防修の性は、不放逸が無かったならば力無くして、その作用は持たないということを表わしています。従って、この論理から、不放逸には独自の体が有るということを表わしているのである、というのが順正理師等の主張になるわけです。

 第四は、護法の批判になります。 次回に述べます。

 


第三能変 善の心所・不放逸について (7)

2013-08-19 21:43:08 | 心の構造について

 下科段からは問答と通して、不放逸の心所を説明する。六つの部分に分けられています。問いは、順正理等の外人(げじん)からの問い正になります。

  1.  順正理師等からの問い。
  2.  護法の反問(質)。
  3.  順正理師等からの答え。
  4.  護法の反論(難)
  5.  順正理師等からの護法の説に対する疑問を質す。(徴)
  6.  護法の論破(釈)

 初

 「豈防し修するといい是れ此れが相用にあらずや。」(『論』第六・六左)

 順正理師等からの問いは、悪を防ぎ善を修する働きが、即ち、不放逸の相(体相)と用(作用)とではないのか、というものです。

 では何故このような疑問が出されるのかを知っておく必要があります。小乗アビダルマの順正理論における主張の要旨は、分位仮立を認めないという立場をとっているのです。心所には各々、心所の体(自性・体相)があるとしています。従って、護法のいうように、不放逸の心所が分位仮立法であることは認められないのですね。不放逸も固有の体をもって、防悪修善の働きがあるのではないのかと、疑問を呈しているのです。

 「 論。豈不防修是此相用 述曰。順正理等外人問曰。豈不防惡修善。是此不逸相用。何用以四爲體。此則一切別立有體皆作是説。別有不逸不逸即是防修。隱不逸之名出防修爲難 論主次質」(『述記』第六本下・二十三左。大正43・438b)

 (「述して曰く。順正理等外人、問うて曰く。豈、悪を防し、善を修する、是れ此の不放逸の相用にあらずや。何を用いて四を以て体と為るや。此れ則ち一切別に体有りと立つ。皆是の説を作す。別に不放逸有り、不放逸は即ち是れ防修なり、不放逸の名を隠して、防修を出して難を為す。
 論主、次に質(ただ)す。 


第三能変 善の心所・不放逸について (6)

2013-08-18 11:22:22 | 心の構造について

 不放逸の心所について学んでいるところですが、不放逸は分位仮立法であるということ、「不放逸とは、精進と無貪・無瞋・無癡の三善根」を体(善の心所の四つの心所の上に仮に立てられたもの)として、防悪修善を本質的な働きとする心所であり、その結果として、放逸を対治し、世・出世(有漏・無漏)を通じて善事を完成させるという働きを持つ、ということなのですね。

 防悪修善と廃悪修善とは同義語だと思うのですが、この廃悪修善は散善ですね。定散二善といわれている内の散善がこの防悪修善に通ずるところの心所である、といっていいのではないでしょうか。『観経』における観法・十六の観法が説かれているわけですが、善導大師は初めの十三観を定善・後の三観を散善と分けられたのですね。何故定散二善と分けられたのでしょうか、ここは課題ですね。定散二善は廻向発願心釈で述べられているところですが、『化身土巻』(真聖p336・340)に「定善は観を示す縁・散善は行を顕す縁なり、」と押さえられて「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なお成じがたきがゆえに、「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかつて開けず」(定善義)と言えり。」と結んでおいでになります。そして、定散二善をですね、「定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し」(『信巻』)と、心の問題として、教行証の背景にある信を問われているのではないでしょうか。だから、行に就いて信が問われている、就行立信ですね。散善、特に下品下生の衆生の救済は如何にしたら成り立つのか、若しすでにして救済されているならば、その証明はどこで成り立つのかが問題とされたのでしょうね。本願の念仏ですね、念仏は行だけれども、本願の念仏だと。この展開が正行・雑行の問題ですね。そこで、正行には五正行が備わっているということですね。「一に一心に專読誦・二に一心に專観察・三に一心に專礼仏・四に一心に專称仏名・五に一心に專讃嘆供養」ですが、この一心です。この一心が廻向を表わしているのでしょう。

 「上よりこのかた一切定散諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人天菩薩等の解行雑するがゆえに雑と曰うなり。元よりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、かるがゆえに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おおよそ聖道・浄土、正・雑・定・散みなこれ回心の行なりと、知るべし。」(真聖p449)

 回向ということが非常に大事な問題として語られているのですが、やはり、この善の心所で語られていることも、護法菩薩は学としての唯識というだけではなく、発菩提心と大涅槃ですね。私たちの一挙手一投足すべて回向の行であるという自覚が救済であることを明らかにされているのではないでしょうか。そこに安楽土、身と土は一体ですから、すべては無駄ではない、縁起されたものとして受け取っていける世界が開かれてくるのではないかと思うのです。自然災害・人為災害を通して問題とされること、「人」を問うということが大事なことなのではないでしょうか。社会問題に携わりながら、「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。」(真聖p215)ということに気づきを得ることが要となってくるように思います。表裏の問題ですね。表の問題を通して、その背景を知る、家庭の問題・仕事の問題・社会問題・災害ボランテイア等々を通すということが大事なことですね、生きて働いていることがなければ、廻向ということも成り立ちません。身近なこと、これが一番大きな問題なのでしょう。私が出来ること、身近なことに眼を開くことなのではないでしょうか。往還二回向というけれども、親鸞聖人は現実の目の当たりに見る光景に憂慮されたのでしょう。内には関東の御同行の造悪無碍の問題、外には大飢饉・疫病の問題ですね。これらの問題が背景となって多くの書簡が残されているのではないでしょうか。一人清閑の境地の中で残されたものではないでしょう、悪戦苦闘の歴史が『顕浄土教行証文類』を書かしめたのではないかと思うわけです。

 不放逸の心所から学ばせていただく時に、「常に没している自分」に対して策励と勧められているのですが、策励を通して何者かになるのではないのでしょう、常没の凡愚の自覚が回向されているということで、そこに菩薩の働き、この菩薩の働きを業と名づけていいのではないかと思いますが、業として与えられているということなのではないでしょうかね。


第三能変 善の心所・不放逸について (5)

2013-08-17 11:47:52 | 心の構造について

 『述記』には前文を受けて後の答えを引き出す(成上起下)問いが設けられていました。

 「問。信等の十法は皆、悪を防ぎ善を修するの能有り。何が故に唯四法に於いて立つるや。」(『述記』第六本下・二十二左)

 問いは、信等の十法の善の心所はすべてですね、防悪修善の作用を持っている、何が故に(にもかかわらず、どうして)ただ四法をもって不放逸が立てられるのかが問題とされているのです。

 (答)

 「信と慚との等きも、亦此の能有りと雖も、而も彼の四に方(ならぶ)るに勢用(せいゆう)微劣なり、根にも遍策(へんしゃく)するにも非ず、故に此れが依に非ず。」(『論』第六・六左)

 信等の十法の善の心所はすべて防悪修善の作用を持っているけれども、精進等の四法と比べると作用の勢いが微劣である。精進は「善心を遍策す」と説明され、遍は「遍く」、策は「うながす」「はげます」「かりたてる」という意味があります。(策勤・策励と同義語)ですから、四法を除いた信等の六法は、三善根のように根ともなり得ることはなく、精進のように遍策する働きを持つものでもない、いうなれば四法と比べると勢用が劣っているから、この六法は四法のように不放逸の依り所(体)とはなり得ないのである、と説明されています。

 「論。雖信慚等至故非此依 述曰。其餘六法而方彼四。勢用微而且劣故。何謂爲劣。此四法中三法爲根。精進遍策一切能斷能修善心。彼餘六法非根及遍策故。非不放逸之依。即非勝也 下問答有六。初問。次質。三答。四難。五徴。六釋。」(『述記』第六本下・二十三右。大正43・438b)

 (「述して曰く。其の余の六法は「而も彼の四法に方ぶるに勢用は微」にして且つ劣なるが故に。何を劣と為すと謂うや。この四法の中に三法を根と為し、精進は一切の能く断じ能く修する善心を遍策す。彼の余の六法は根にも及び遍策するにも非ず。故に不放逸の依に非ず。即ち勝に非ざるなり。
 下は問答、六有り、初に問、次に質、三に答、四に難、五に徴、六に釈なり。」)


第三能変 善の心所・不放逸について (4) 雑感

2013-08-16 10:34:20 | 心の構造について

 現象という場合、現は表す、或は表現すること、ここに括弧がつきます、(~)ですね。何かが顕現する、という意味と、もう一つは現在と云う場合の現ですね、この場合は現在前、現前する、「この現前の境遇に落在す」と清沢先生は廻向の現行を、過・現・未の三世を同時存在として「落在」という言葉で表現されておられます。現行というのは現象として起こることですが、現在という言葉で言い表しているところですね。括弧の中は、自身の中に種子として宿しているもの、といえると思います。種子→現行→(熏習・習気・種子)→現行という循環の流れの中で、表層の識と深層の識の呼応が自身の内部で起っているのですね。ですから、現象といわれている、あるかたちをとって現われるという意味は、本質或は本体を指示している言葉であると思われるわけです。辞書を調べてみますと、「現」は隠れていたもの、なかったものを表に出す。「姿を現す・正体が現れた」。また「表」は心の中を示す。また、象徴する。代表する。「名は体を表す・図に表す」。もう一つ、「あらわす」という字に「著」という「~を著す」と説明されています。そして「象」は、象形。甲骨文でわかるように、長い鼻のぞうの象形で、相に通じ、すがたの意味も表す、と説明されています。

 このことから伺えることは、象(かたち)の無いものが象(かたち)をもって現わされること、パソコンに向かってキーボードを叩いていることも、自分の中の深層の種子識が表に向かって表現されている、ここに介在する識、現行を促す識が前六識と根本識である阿頼耶識に深く影響を与えている自分を最大限にアピールする第七識・マナー(末那)という識なのですね。現象されるということは、本質を疎所縁として、末那識の相分を親所縁として現行されたものといえると思います。問題は、親所縁を相分として、阿頼耶識の見分を妄執しているところに現れている対象という存在です。対象(境)が有り、対象・環境と言った方がいいのかもしれませんが、その対境に自分が居るという構図ですね、これが問題だと思うんですね。「二心」ということですね、「一心」ではない、「唯」ではないということ、「唯」は「ただこのことひとつという。ふたつならぶことをきらうことばなり。また「唯」は、ひとりというこころなり。」と教えられていますが、二心ということは一人にはなれない、いつでも他を意識し、他を攻撃しつつ自の存在を確かめている不確定な存在をいうているのでしょう。ですから、他がなかったら事の存在もないという幽霊的存在、幽霊が怖いという恐怖心は、自分が恐怖的存在であるということなのでしょう。

 「私は」・「私が」というでしょう、僕は思うんですけどね、という「思」を、思い量る、量ることが「恒」であるということ、断絶することがない、恒常的である。ここに「命」の恒常性が教えられているように感ずるんです。「現」というと、「過・未」と断絶しますから、どうしても刹那的にならざるを得ません。今さえよければというニヒリズムに陥ってしまいますね。意識される命が生きているということは、意識されることのない命は生きていないということになるのではないでしょうか。しかしね、命は断絶していないというのが本質なのですね。「無量寿」が本質として語られているのが『大無量寿経』の経題ではないでしょうか。

 司馬春英師が、フッサールの後期思想の「超越論的歴史」と阿頼耶識縁起を対比しつつ語られていることに、生きて働いている学びの姿勢を教えられています。阿頼耶識縁起が語る超越論的歴史・「無始時来界」の中に見出せる阿頼耶識が「恒転如暴流」(無始以来現在に至り、未来際に至るまで恒に阿頼耶識が転ずること暴流のようである)ということと、『大経」が語る、「仏告阿難、爾時法蔵比丘、説此願已、而説頌曰。」という法蔵比丘の物語ですね、この法蔵比丘の誓いが一転しますね。「仏告阿難。法蔵菩薩、今已成仏、現在西方。去此十万億刹。其仏世界、名曰安楽。」と。無住処涅槃としての大乗菩薩道が、本願成就としての法蔵菩薩として語られているところに大いなる意味が、私に向かって発信されているようです。私と共に歩みを続ける、わたしの背景に法蔵菩薩のご苦労があることを『大経』は教えているのではないでしょうか。地獄の真っただ中に喘いでいる者のなかに妙法蓮華が現生することを主題としているのが『法華経』であると思うのですが、『大経』はその地獄の真っただ中を住処とし、地獄を安楽の場所として生きることが出来ることを教えているのではないでしょうか。それを表現とした場合に、法蔵菩薩といい、「恒転如暴流」のなかでいうと、阿頼耶識が私に問いを投げかけていると思うのです。

 私が悩み、苦しんで、現実から逃避し、内にこもり、排他的に他を中傷しているど真ん中に働いているのが命の本質、阿頼耶識=法蔵菩薩ではありませんか。阿頼耶識が一切の種子を蓄積している場所としての法蔵という意味での法蔵菩薩ということではありません。法蔵菩薩が『華厳経』の善哉童子とダブってくるのですが、いろいろな形をもって、目覚めを促している働きを法蔵菩薩といい、親鸞聖人は『教行信証』序文に於いて、阿頼耶識縁起を法蔵菩薩に託して「真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知りぬ。ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。」表白されたのではないでしょうか。現象という場合には、このような深い意味が隠され、超越論的時間性の中から現出してきたものが私が認識する世界であると思うのです。