「前の道理に由って、不放逸の防修の用を推すに、無貪等の四法の総別の能を離れれば、竟(つい)に得べからざるが故に不放逸は定んで別体無し。」(『述記』)
不放逸は四法(精進・無貪等の三根)の防悪修善の作用の他に別の体がない分位仮立法であることを論証する。
「是の如く不放逸の用を推尋(すいじん)するに、無貪等に離れて竟に得可からず、故に不放逸は定んで別体なし。」(『論』第六・六左)
以上のように不放逸の防悪修善の作用を推理し尋ねた結果、無貪等の四法を離れては、ついに防悪修善の作用は得られない、その為に不放逸は絶対に四法を離れて別の体をもつものではない。
以上、不放逸は四法を離れては別の体をもつことのない分位仮立法であることを論証してきたのです。
「 論。如是推尋至定無別體 述曰。由前道理推不放逸防修之用。離無貪等四法總別之能。竟不可得。故不放逸定無別體 問何故此中以無貪爲首等餘三法。不以精進爲初 答次前別簡中。以無貪爲首故。從近而結也。即顯不逸不如小乘體是實有。即是假有之所以也。」(『述記』第六本下・二十五右。大正43・438c)
(「述して曰く。前の道理に由って、不放逸の防修の用を推すに、無貪等の四法の総別の能を離れれば、竟(つい)に得べからざるが故に不放逸は定んで別体無し。
問、何が故に此の中に無貪を以て首と為して余の三法を等じ、精進を以て初と為さざるや。
答、次前に別して簡ぶが中に無貪を以て首と為す。故に近に従って結すなり。即ち不(放)逸は小乗の体これ実有なりという如くにあらざることを顕す。即ちこれ仮有なる所以なり。」)
『述記』には、無貪等の三根を首とし、精進を以て初としないのは何故かという問いが設けられています。此れについて『演秘』には
「疏。問何故此中以無貪爲首者。其難意云。前摽不放以勤爲初。何故後結無貪爲首疏。答以前至從近而結者。此答意云。依次前云若善依持之文結故。無貪爲首。」(『演秘』第五本・二十三左・大正43・914c)
(「疏に「問何故此中以無貪爲首」とは、其の難意に云く、前に(六・六右)不放(逸)を標するに勤を以て初と為す、何が故に後の結(六・七右)には無貪を首と為すや。
疏に、答う以前と云うより近に従って、結ぶなりと云うに至るとは、此の答の意の云く、次前に若し善く依持すと云う文に依りて結するが故に無貪を首と為すなり。」)
「若善」は『論』には「若普」(六・六左)
実有と仮法について、順正理論の論師である衆賢(しゅけん)は不放逸を実法とみなしているのです、それに対し護法は仮法であると論破しているのですが、ここには実法と仮法の論議が交わされていたことが伺えます。実法とは、実有の法という、実際に存在する法で、即ち因縁所生法・依他起法をいいます。仮法は独立した体があるわけではなく、或る心所の上に仮に立てられたもの、法相唯識では、五十一の心所のうち、以下のものを仮法としています。
善 - 不放逸・行捨・不害
煩悩 - 悪見
随煩悩 - 忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍・放逸・失念・不正知
不定 - 尋・伺
複雑な心の構造が読み取れます。随煩悩の多くが仮法であることは、根本煩悩である三毒の煩悩ですね、貪欲・瞋恚・愚癡が複雑にからみあっての仮法なのですね。三毒の煩悩の上に立てられた分位仮立法であるということになります。
例えば、怒り、腹立ちですが、忿という随煩悩ですね、これは瞋の一分の上に立てられた仮法になります。腹が立ったという体はないのですね、腹がたったという現象には、その現象が成り立つ背景があるということなのです。そして忿には必ず恨みを生じさせる働きがあり、そして恨むから悩むと云う随煩悩が生じてきます。