唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

日曜雑感

2014-11-30 12:36:25 | 聞法の意義
 OCN HPが本日づけで閉鎖されます。「親鸞にまなぶ」も随分更新をしていなかったこともあり、今回HPを新たに作成することは断念したしました。過去ログより抜粋加筆をして、今日の投稿とさせていただきます。
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「親鸞は父母の孝養のためにとて、1返にても念仏ももうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。~」(真聖 P628)私たちはややもしますと先祖供養のため、父のため、母のため、妻のため、夫のため、子供のためと家内安全、無病息災を祈ります。それがあたかも宗教のごとく、深い祈りであればあるほど現証が表れるのであると本気で思っている人が少なからずおいでになります。確かに父を憶い、母を憶うことは大切なことです。しかしそれが特定の対象に向かっての祈りであると自己の欲求を満たすための手段として宗教を利用することになるのではないでしょうか。「人身の至奥より出づる至誠の要求」を満たすものが宗教であると清沢満之は教えておられます。「何々を縁として」真実の人生にふれることが大切なのでしょう。
 お釈迦様が涅槃に入られた日を入涅槃といいます。涅槃という意味は煩悩の火が消えた状態(ニルバーナ)。実際には成道された時をもって涅槃というのが正しいのかもしれません。正しい生き方を身をもって教えてくださいました。そしてなぜ私が苦悩をするのかの原因をつきとめてくださいました。十二支縁起という形で教えられています。根本の迷いは無明であると。そして「無明」は仏陀釈尊によって見破られたのです。自分の外に問題があるのではない。自分自身に問題があるのだと。私たちは環境は私の外にあると思っています。そしてその環境に執着を起こして苦悩をします。外なる環境が私を苦しめるのだと思っていますが果たしてそれは本当なのでしょうか。「内なる外」と題して考えます。
 世の中の暗いニュースとして、たびたび起こってくるj悲惨な事件があります。例えば、滋賀・2園児殺害というなんともいえないようなショッキングな出来事でした。「朝、家を出るときに殺害を決意し、台所から包丁を持ち出した。人気の無い場所を探し回って車を止め、刺し殺した」と供述しているようなのです。私にはこの事件は私と無関係のところで起こった事件とは考えられません。私の内なる闇がこのような形になったのだと教えられました。被害に遇われた家族の方はどんな気持ちでおいでになられるのでしょうか。「なぜ」という気持ちがまず最初に飛び込んできた問いではなかったでしょうか。お子様を何の前触れもなく亡くされたお気持ちはどんな言葉をもってしても心を癒すことはできないものとおもいます。加害者の鄭容疑者もある意味被害者かも知れません。何を依り処として生きておられたのでしょうか。わが子かわいさだったのでしょうか、自分にとって障害となるものを抹殺することによって自分にとって都合のよい生活ができると思っていたのでしょうか。私は社会の流れが欲求を満足させることによって幸福が実現できるのであるという風説があるということに危惧を抱くのです。「知性の闇」という病巣が横たわっているように思えてなりません。この事件の底深くに横たわっている闇は私の心の状態を抉り出してくれました。
 それでは「闇」の正体はなんでしょう。仏陀は我執だとお教えくださいました。自分自身にこだわる働きです。「恒審思量」といはれいつでも寝てもさめても自分自身を思う働きなのです。いつでも他と比較をして自分が優位に立ちたい、そうでないと生きている生きがいがないと思い込んでしまう自我愛の表現なのだと思います。まさに私自身のことなのでした。ここには他に対する思いやりの心がまったく感じられません。他とは自の仮の姿なのです。自は善で他は悪であるとするありかたは他にたいする思いやりのあるまなざしだとはいえません。他を思いやる眼差しを私たちは持ちたいものです。それが本当の豊かさではないでしょうか。
    命は誰のものでもない=私が私有できるものでもない
「私は思うのですが」という思いが私の関心事ではないでしょうか。私の関心の外にあるものに対してはまったく興味・関心を示しません。我執といいますと何か悪いことだと思ってしまうのですが、そのようなことではないようです。私の生き方全体を覆っているのが我執といってよいのでしょう。我執=関心事=命の私有化 これが「闇」の正体ではないでしょうか。外=外界に問題があったわけではないのです。内なる感情が外に向かって、感情に色づけされて内と外を分断してしまっているのではないでしょうか。
 外界と思っていたのは実は心に色づけされた内なる外だったのです。外なる環境は私が思うが如くには存在しないということなのです。私の行動が環境を作っていくといったほうがよいのかもしれません。環境問題=持続可能な世界の構築は私がどう世界を作るのか、どう生きていくのかという問題なのです。ここで問題なのは「生きていく」ということです。私たちは自分が作った世界との関わりにおいて自分という存在の根拠があります。存在の根拠に目覚めるとき私は「生きる」というより「生かされている」自分に気づかされるのです。 生きるという感情には独善と教権性を感ぜざるを得ないのです。それがセクトになった時、全体主義が発生してくるのではないでしょうか。               
「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとく、広大にして辺際なし」(『浄土論』)
 三界とは迷いの境界です。どこまでいっても根源的に苦悩はなくならないのです。苦悩のよってくるところがわからないからです。三界の中でどれだけ行動を起こして改革を重ねても徒労におわってしまいます。疲れと虚しさだけが私を覆いつくしてきます。
では、「助かるとはどういうことか」-自分が今ここに生かされて生きているという疑いようのない事実にうなずくこと。法友である、鶴田義光師の講義から学ばせていただきたいと思います。
 平成十年六月二十一日(日)岐阜市大門町・上宮寺『慈光会』例会に於いての鶴田義光師『歎異抄』第一章の法話から「助かるとはどういうことか」をたずねてみたい。「弥陀の誓願不思議」とは、自分がいかされて生きるという疑いようのない事実を言う。これから中身に入っていきます。まず「弥陀の誓願不思議」です。いきなりこの言葉が出てきます。この言葉につまずくでしょ。「弥陀の誓願不思議」って何だと。「弥陀」は阿弥陀仏、南無阿弥陀仏です。「誓願」とは本願です、如来の願いです、弥陀の本願です。そこに不思議と言う言葉がついていてるんですね。この「不思議」と言う言葉がひとつの要になります。師訓篇は第一章から第十章までですが、第一章の第一段(「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。)に「不思議」と言う言葉があり、最後の第十章に「不可思議」という言葉がある。「不思議」と「不可思議」は同じことです。だから、師訓篇は、「不思議」に始まって「不思議」に終わっている。不思議と言うことが大事なんです。不思議とは何か。われわれが日常的に使う不思議は、不可知、知ることができない、あるいは不可解、理解することができない、と言う意味です。科学、理性、知性で知ることができないことを不思議といいます。しかし、「弥陀の誓願不思議」というのは、そういう身とはまったく違います。「弥陀の誓願不思議」というのは、簡単に言うと、「自分が今ここに生かされて生きているという疑いようのない事実」といっていいと思います。これぐらい確かなことはないでしょう。明日のことはわかりません。昨日のことはもうない。未来も過去も不確かですが、今現在この瞬間だけは確かなはずです。今ここに存在していることは確かなはずです。これを「弥陀の誓願不思議」というんです。これで終わりですよ。このことだけです。「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」とありますけれども、要するに「助ける」「救う」ということですけれども、「弥陀の誓願不思議」というのは、助けるはたらき、救うはたらきですね。如来のはたらきですね。そのはたらきってのは具体的に何処にあるかと言うと、今ここにあります。生かされているということです。自分が今ここに生かされているという疑いようのない事実、それを「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」といいます。特別なことでもなんでもないことです。当たり前としている事実で、疑問にもならない事実ですね。ここに「弥陀の誓願不思議」という事実があるわけです。「弥陀の誓願不思議」は何処にあるかというと、自分が今ここにおるということです。これを除いて、弥陀の誓願不思議がどこかにあるわけじゃないです。いつも今ここにあります。どの瞬間に於いても今ここにある。現に働いている。どんな状況下はさまざまです。病気で寝ている人がいるかもしれない。気が狂っている人がいるかもしれない。それでも、少なくとも、生きていることは確かです。存在していることは確かです。自分がここにおるって事が不思議なんです。別に如来のはたらきが不思議なんじゃないです。自分が不思議なんです。自分と言う存在があるということが不思議なんです。これは疑いようのない事実です。疑いの余地がないんです。考える以前の話でしょ。今ここに生きているから、いろんなこと疑ったり考えたりすることができます。煩悩が起きるっていうこともある。迷うっていうこともある。しかし、煩悩が起きたり、迷ったりする前提があるんです。それは、生まれて生きているってことです。生まれて今生きてる。とにかく、何もかも、自分が存在しているということから出発している。一番根底を成り立たしめているはたらき、これを誓願不思議というんです。だから、不可解・不可知を言うことでない。理解するとかしないとか以前です。不思議の「不」は不要、「思」は思う、「議」は思いはかるという意味です。思ったり思いはかる必要がない。思ったり思いはかる必要がないくらい明らかだって言うんです。思う以前の明白な事実を不思議といいます。「弥陀の誓願不思議」に気づけば終わりです。あとはもうずっと自然(じねん)です。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」、もうこれだけでいいんです。「弥陀の誓願不思議」が本当にうなずければいいんです。われわれは頭で考えている。考えたって納得も何もないでしょ。考えたってびっくりしないでしょ。「弥陀の誓願不思議」は大変なことです。「弥陀の誓願不思議」というものが、どこか遠くにあるわけじゃない。「弥陀の誓願不思議」とは、わが身がここに存在しているってことですよ。理由がないでしょ。自分の力であらしめているわけじゃないです。ここへこようと思ったってこれないということあるでしょ。病気になったらこれん、雨がひどく降ったらこれん、事故にあってこれん、ということもあるわけでしょ。だから、今ここにって言う、この現実・事実が成り立つには、無数の因縁が働いているわけです。これは想像を絶しますね。」まだまだ講義は続きますが私たちが本当に満足をして生かされて生きていくことはどういうことなのかはよくおわかりになられたのではないでしょうか。大乗仏教が教理として「一切皆空」「無自性」「無所得」と説くのはひとえに生かされて生きている事実に気づきなさいというメッセージに他なりません。私たちはこの事実に気づくことがありませんから日常に振り回されて苦悩するのです。事実に反して生きようとしているのです。
      人間に生まれたことをよろこぶべし
 「それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや、家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。心におもうことかなわずとも、地獄の苦しみにはくらぶべからず。世のすみうきはいとうたよりなり。人かずならむ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。このゆえに、人間に生まるる事をよろこぶべし。」(源信僧都『横川法語』より)
 私はこの法語がだいすきです。何があっても、どのようなことがおこっても「人間に生まるる事をよろこぶべし」、人として生を賜ったことを喜びなさいと。わたしたちは人間に生まれさせていただいたことの意味をたずねて、悩み、苦しみがいっぱいの人生を堂々と生きて生きたいものです。何があっても、何が起こっても私を脅かすものはなにもないのです。私が掴んで放さない握りこぶしをパッと手放しさえすればそれだけで道は開けるのですね。それだけでよいのです。にもかかわらず握りこぶしを手放せないのはどうしてでしょうか。私たちは幸福になりたいと願っています、そのために自分の考え、自分の行いをよりどころとして生活を営んでいるのですね。それが絶対なのでしょう。そこに落とし穴があることには誰も気づかないのです。私からは気づくはずもないのです。仮に気づいたとしてもまた私の考え(思慮)によって落とし穴に落ちていかざるをえないのです。知恵の闇とはこのようなことをいうのではないでしょうか。
 「しかるに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷いて金剛の真心に昏し。」(『教行信証』信文類序より)
 「諸仏如来の真説に信順」することがなかったなら、わたしたちは永遠に自性唯心に沈んでいかねばならないのです。「諸仏如来の真説に真順」するとはわたしは「命の願いに目覚めていく」事であるといただいております。
         What is self ?
 私は生きるために何を根拠としているのでしょうか。私は寝てもさめても『私』を依り処として生きているのではないでしょうか。仏教ではそれをマナス=自我意識と教えてくれました。でもマナスが悪いということではありません。私にはマナスしかないのですから。それを悪いといってしまったら私の生きる術がなくなってしまいます。このマナスには自分の思いに執着するというはたらきがあるのです。この働きが問題なのです。どうしても自分を正当化してしまうのです。それによって相手を傷つけ自らも傷ついていくのです。自らも傷ついてしまうのも相手に問題があるわけではなかったのです。このことを正しく教えているのが仏法なのです。死んでから必要なものではありません。今、現に、ここに生きている私に必要なものなのです。このことに気づいていくことを回心(えしん)といいます。回心には懺悔(さんげ)という心の働きがあります。私の考え、私の行動が絶対だとするところからは孤独という心の闇しか生まれてこないのです。仏法といいましても絶対ではないのです。法は縁起されたものなのです。縁起されている事を如実に知られた人を仏陀といいます。その人が説かれた教えを仏教というのです。仏教は私の欲望を満足させるための手段ではありません。ほしいものが手に入るとか、病気が治癒するとか、願い事がかなうというような自分の都合に合わせていく便利で安請け合いできるようなものではないのです。むしろこのようなすべての私の思いが根源から覆されてすべてが無意味でなかったと『このこと一つ』に頭が下がっていく教えなのです。これが『法』といわれる内実なのでしょう。 
 「真実とはどこかにあるのではなく、私を支え続けている命の働きに気づかされたとき迷妄(不真実)があばかれてくる」 迷っていることがはっきりしたらすでに救われているのです。はっきりしないから迷っているのです。
 仏教の熟語に「迷謬」(めいびゅうーまよいとあやまり)といわれ、迷っていること誤っていることはどのようなことなのかを明らかにした教えがあります。私たちは日ごろ何に迷って何に誤っているのかを考えたことはほとんどありませんが、仏教ははっきりとした見解を示しているのです。「迷」は仏法にまったく触れていない状態をいいます。聞法は聞く側の問題なのですが「迷」は自分が問題になっていない、すべては外の問題だとして自分から逃げている状態を言います。責任を転嫁している状態が迷いというわけです。「謬」はそれとは違って仏法には触れているのですが誤解をしている状態を言います。人として生を受け今まで外界ばかりを問題にしてきたけれども仏教を聞く縁を得て、はじめて自分が問題になった。「自分の中に問題があるのではないか」ということです。ここから聞法が歩を進めるのですが、聞いたことを自分の手柄にするという問題が起きてくるのです。内にあって外に転嫁するという質のものです。聖道の諸教がこの質を抱えているとはっきりさせたのが親鸞聖人だと思います。人間的立場から自分を明らかにしていこうとするのですが途中で挫折ししまいますと元の木阿弥で救済という事実はありません。救済とは苦悩(不安)しかない人生を苦悩のまま無上涅槃の道を歩み続けていける生活を言うのではないでしょうか。人間的立場をよりどころとして救済という事実に進んでいくことの中に「難」という質を見出されてきたのでしょう。「浄土真宗は大乗の中の至極なり」(『末灯抄』真聖P601)といわれることは「難」の中から見出されてきた浄土真宗ということではなかったでしょうか。「難」は難しいから「易」というわけではにのでしょう。「難」が人間的立場にたっての事柄としますと「易」というのは人間の努力がまったくいらない、必要ないという立場ではないでしょうか。これを親鸞聖人は「大行」といわれ、また「無条件の救済」とも、「無根の信」とも言われる所以ではないでしょうか。私の問題はそのことに頷けるかどうかだと思います。それ以外に救済ということはありえないのです。ここにまた「謬」という問題が潜んでいるのです。自分をはっきりさせたい、はっきりさそうという「自己とは何ぞや」という問いをもって「自己とは他なし」というところまで聞法を重ねていくのですが、だんだん聞く立場から教える立場に変わっていくのです。すべてのことが縁となり仏法に出遇うわけなのですが、出遇った仏法をを我が物としてしまうということが興ってくるのです。いつの間にか自分が如来の立場に立ってしまうのです。本願で言うなら第十八願を私物化するということです。しかし私物化したとたん第二十願の機に転落をしてしまうのです。これが聞法の落とし穴だと思います。わたしたちはどこまでも「聞く」立場に身をおいて自己をはっきりさすことが必要だと思います。どのような自己であったのか。「虚仮不実のわが身であった」と虚仮不実のわが身がはっきりしたら虚仮不実を背負って立っていける道が開けてくるものであろうと思います。
      「念仏に見出だされる我」(安田理深述)
 ・・・行は本願の行で、本願の行にはおのずから「大」の字があり、本願の行、これは念仏というもの。その念仏に正信という。正信とは帰結である。本願は大行、その帰結はただ念仏のみ。この「ただ・のみ」とあらわすのが「正信」という言葉である。「念仏をも亦信ずる」のではなく、歎異抄で申せば「ただ念仏」ということの意義をあらわす。「念仏のみ」というところに安心が表現されている。あるものは「ただ念仏」、念仏が正信の体。「念仏を信ずる」などという「念仏」を対象にしたというようなものではない。本願の念仏を自分の心で信ずるという様な事ではない。そんな時は信と云うたも、一般的な信である。すべてに通じて信ずる、色んなものを信ずるままでは、念仏を信ずるということにはならない。 (中略)
 念仏とは念仏を信じない者からみれば目に見えない。それよりも社会事業なぞの方が大きい。念仏に於ける事件は、仏から見れば空前絶後の事件というべきであろう。然しこれは人間の眼には見えない。普通の行は人間の眼に見えるだけである。念仏の信は念仏に於いて、本願に於いて、仏をたのむ念仏として開かれた信。それは私が信ずるには違いないが、私が念仏に召された信である。・・・・念仏の中に我々が召され、念仏の中に自己が見出される。大体本願にふれない自己とは妄想に外ならないものであろう。自分の胸に念仏を理解するのではない。念仏を対象とするのではなく、念仏を体として根拠とするのである。・・・・念仏がどこかに有るのではなく、信として自覚して念仏が行ぜられる。その信に於いて「ただ念仏」と言う。・・・・だから念仏の信に於いては厳密の意味に於いて、漠然と信仰と言わず、信心と言う。
 信心には自覚ということがあらわされる。念仏に於いては自覚が成り立つのである。聖道の教えでは信はたいしたことはない。行が大切であるということは、教があっても行がなければ何にもならんから、行が大切だというのである。然るに本願では行は既にあり、我をたすける行はすでにあり、後に残る問題は、頂くか頂かぬかにある。念仏以外では迴向することを要するが、念仏は本願によって行とされ、行はすでにある。だから法然上人は不迴行という。助けにする行ではなく、行を必要とせず。念仏をもち出してすくわれるのではなく、我々の問題が我々の予想を超えた念仏に答えられてある。我々の問題は念仏の中にあり、これから入るのではなく、既にあるのである。それにうなずくか、うなずかないかが我々に残された問題である。
 「時期到来して」--之は誰でも、本願の中に、本願の因縁、本願の約束にあるのであるがーー人間存在は本願の中に流転され、流転が約束され、本来その中のあることを再認識することである。再認識とは、教化などということではない。信は自分の力で獲たのではない。先に生まれたということはなにも自慢にはならない。兄か弟かということがあるだけである。信を獲たことを自慢することではなく、よろこぶのである。
 以上      安田理深述  『本願の歴史ー正信偈序講ー』より
 ここに安田先生の教えをいただきましたが、「聞法の落とし穴」はどこかにあるのではなく、念仏を我が手柄とするところに出てくる問題です。念仏は我に先立って廻向されたものなのですね。念仏に出遇って自分というものが生まれて初めて問題になり、自分というものに初めて出会うことができた。それがすべてであってそれ以外何もないのです。それを本願を頼んで助かりたいとするところに落とし穴がある。安田先生は「たのめ助けんという言葉の中に頼んで助かっておることが成就されてある。頼め助けんという言葉に対して、頼み助かることを加えるのでない。・・・・そうですかといってたのむのでない。」とも教えてくださっています。私たちは手柄ということでもないのでしょうが、何かを付け加えたがるのですね。「そうですか」ということを付け加えるのです。「そうですか」もいらんものなのでしょう。「そうですか」という根性がすたったとき「生死いずべき道」がはっきりするのではないでしょうか。安田先生はよく言われたものです。「夜はすでに明けている」と。

初能変 第二 所縁行相門 四分義(15)

2014-11-28 21:22:27 | 初能変 第二 所縁行相門
 前回までに、三分説をみてきましたが、護法菩薩はこの三分の奥になお三分を成り立たせる証自証分が有ると説かれています。非常に深くて手におえないところではありますが挑戦します。というより知りたいです。ただそれだけの欲求です。
 「又心心所を、若し細かく分別するに応に四分有るべし。三分は前(サキ)の如し。復第四の証自証分有り。」(『論』第二・二十七左) 心・心所を細かく整理し分類すれば、四分があることがわかる。三分は既に説いたが、その奥に証自証分が有るのである。
 次にその理由が述べられます。
 「此れ若し無くば、誰か第三を証せん。心分をば既に同なるを以て皆証すべきが故に」(『論』第二・二十八右) 若し証自証分が無かったならば、誰が第三目の自証分を自覚するのか。自証の証は証明する、自覚するという意味です。心分は、心の一部分という意味で、相分も心の一部分ですし、見分も心の一部分になります。見るのが見分の働きですが、見分をもって認識が成り立つのですね。見分が相分をみているという構造です。そうしますと、この見分を自覚する働きはどこにあるのかというと、相・見の要である自証分になるのです。識体です。八識でいえば、八つの心王が自証分なのです。そして自証分を見ている働きが証自証分になります。自証分が見ていることを、さらに証明する働きです。これをの能証といっています。三量でいえば、自証分・証自証分は現量になります。
 ここからですね、前回までに少し述べました、所量・能量・量果の三量と、新たに説かれてきます、現量・比量・非量の三量(現比非(ゲンピヒ)の三量といわれています。)
 自証分と証自証分の関係は、因果更互関係ですね。自証分は相・見に対して量果ですが、証自証分に対しては因である能量になり、証自証分が量果になります。しかし、量果である証自証分が因(能量)となり、自証分が所量・量果という関係です。この更互関係があって、第五の証自証分が必要ではないと結論づけています。自証分が能量である場合は、証自証分は所量であり、量果として自証分を変現する。この自証分・証自証分は現量であるので、こういう関係が成り立つのです。
 次の科段より、三量分別が示されます。

初能変 第二 所縁行相門 四分義(14)

2014-11-27 08:48:51 | 初能変 第二 所縁行相門
 
 「是ガ中ニ。色法ヲ心々所ガ所變ト申候樣ハ。先ニ申ツル八識ノ心王ト。五十一ノ心所トニ。一一ニ四分アリ。四分ト申候ハ。相分・見分・自證分・證自證分也。眼識ニモ此四分アリ。乃至阿頼耶識ニモ此四分アリ。五十一ノ心所ニモ如是。此中ニ自證分ト申候ハ。心ノ正キ體也。殘ノ三分ハ心ノ用也。用ト申ハ。體ニ備レル功能也。所謂相分ハ功能ノ中ニ知ラルル功能也。心ト云物ハ。物ヲ知ルホカニ別ノ樣ナシ。若知ラルル物ナクバ。何ヲカ知ランヤ。此ニ依テ。心ノ體轉變ジテ知ラルル物トナル。此知ラルル用ヲ相分ト名ク。諸ノ色法ハ此相分ノ中ニアリ。サレバ色法ハ心ニ不離也。見分ト申ハ。能ク此相分ヲ知ル用也。知ラルル物アリトモ。正ク其ヲ知ル功能ナクバ。爭カ知ランヤ。故ニ心ノ體轉變ジテ能ク物ヲ知ル功能ヲ13越ス。此能ク知ル用ヲ見分ト名ク。證自證分ト申ハ。ヨク自證分ヲ知ル功能也。自證分ハ心ノ體トシテ中ニアリテ。見分ヲモシリ。證自證分ヲモ知ル也。」(『二巻鈔』大正171・114b~c)
 『二巻鈔』本文は、岩波書店刊『鎌倉旧仏教』(日本思想体系15)p126~p158に所収されています。
 この中で色法(五根と五境と法処所摂色)は「心・心所が所変として心を離れず」ということについて、先に説明した通り、八つの心王と五十一の心所との一つ一つに四分がある。四分というのは、相分と見分と自証分と証自証分である。眼識にも四分がある。耳識にもまた四分がある。乃至阿頼耶識にもこの四分がある。五十一の心所にも同じように四分がある。
 このうち自証分というのは心の本体である。その他の三分は心の作用である。作用というのは、本体に備わっている働き(功能)である。いわゆる相分とは、心の働きの中で知られる働きである。心というものは、物を知るという外に別に何かがあるわけではない。もし知られる物がなければどうして知るということができようか。この理(ことわり)によって、心の本体が転変して知られる物となる。この知られる働きを相分と名づくのである。さまざまな色法はこの相分の中に摂められる。このような理由から、色法は心に離れては存在しないのである。
 見分というのは、よくこの相分を知る働きである。知られる物があっても、まさしくその知る働きがないならば、どうして知るということが成り立つのであろうか。故に、心の本体が転変して物を知る働きを起こす。この物を知る働きを見分と名づけるのである。証自証分というのは、よく自証分を知る働きである。自証分は、心の本体として相分・見分の要として、見分を知り、証自証分をも知る働きをもつのである。
 以上が『二巻鈔』に説かれる四分の説明です。この説明に所量と能量と量果が説明され、現量と比量と非量という三量で説明されます。このことは『成唯識論』に戻って読んでいきたいと思います。

雑感

2014-11-26 21:39:04 | 雑感
 三法展転同時因果と教えられていることの意味なのですが、因の種子が熏習されたもの、熏習されたものがさまざまな縁を伴って現行という今を生きることになるのですね。そしてすぐさま熏種子として、習気と押さえられますが、阿頼耶識の中に同時に蓄積されてくる。私たちが生きていることは、能動的です。能動的側面が相続して、あらゆる行為という、すべての経験が漏らすことなく阿頼耶識の中に沈潜し、私と云う人格を形成してきているのですね。これは非常に厳しいですね、のほほんとして暮らしているのですが、のほほんが、のほほんのまま人格を作り上げてくるという厳しさがあります。否応なしです。「疲れた、休みたいな、今日も仕事か」と思った瞬間、同時です。時間的前後がなく即時に阿頼耶識の中に熏習されます。
 私たちは、世間を依り処として生きているわけですが、世間の中で功を成し、地位を築きあげることに奔走しているわけです。そこに一点の疑問も抱くことなく、それが正義だとして生きています。要するに、世間では、高学歴、いまでは大学院ですかね、一流企業、地位という自分にレッテルを貼っていきていかざるを得ないのかもしれませんが、すくなくとも、レッテルが通用しなくなる時がきます。必ずですね。その時では遅いですね。今こそ、「死」と向き合う時が必要では、と思います。
 私は、ものすごく回り道をしてきましたが、回り道をしてきた分、いろんなことを教えていただいた恩を感じています。世間を依り処にした生き方は後悔する生き方だと思うんですね。僕は今まで大病したことがありませんでしたから、排除されるということはありませんでしたが、企業の体質として、人間をみているんでしょうか、はなはだ疑問です。いささか差別的発言になると思いますが、零細企業では、人は道具ではないのかと思はざるをえないのですね。使えるうちは有能、使えなくなったら、はいさようなら企業が生き残る為には致しかたのないことなのでしょうが、企業は企業です。私としてはです。この様な体質の中で、道具として一生を終えていいんですか。人は人として生きていく。そこにですね、世間を通して、仏事に触れていくことが肝要ですね。そんなことを教えられます。

初能変 第二 所縁行相門 『二巻鈔』より四分義を学ぶ。(1)

2014-11-25 22:46:19 | 初能変 第二 所縁行相門
 『法相二巻鈔』より四分義を学びます。 
 一切唯識について『二巻鈔』は
 「抑今此百法ヲ見ルニ。唯識ノ理猶信ジガタシ。其故ハ。識ト云ハ。正ハ心王也。心王ノ外ニ。已ニ心所アリ。色法アリ。不相應アリ。無爲アリ。更ニ唯一心ニ非ルヲヤト云。此11疑ヲ開候樣ハ。心所ハ同ク心也。心王ガ伴類トシテ。心王ガ外ニ有ニ非ズ。色法ハ心々所ガ所變トシテ不離。不相應ハ色心ガ義分ナレバ。心ニ不離。無爲ハ色心不相應ガ實性ナレバ。心王ニ不離。故ニ一切唯識也。」(大正71・11b)
 すべては心を離れては存在しないことを、四分説を陳べる前に確認しています。
 『二巻鈔』においてはこの前に五位百法を説いてきましたが、五位百法があるというのなら、「唯識ノ理猶信ジガタシ」と、唯識いう命題は疑わしいことになるという設問を出され、一切不離識を論証します。
 識と云うのは心王のことである。しかし、心王の外に心所があるではないか。また色法があり、不相応行があり、無為が説かれている、「更ニ唯一心ニ非ルヲヤト云」(まさに唯だ一心にあらざるをや)ただ一つの心だけとはいえないのではないか?
 この疑いを開くならば(答え)
 心と心所は同じ心である、心王に伴い、心王の外に心所があるわけではないからである。では色法はどうであろうか。色法は心心所の所変として生起したものであるから、心を離れては存在するものでは無い。不相応行は色と心との義分(特別の意味するもの)として仮説されたものであるから、心を離れては無いのである。無為は色と心と不相応行との真実の性(実性)であるから、これもまた心を離れては存在しない。故に(したがって)一切は心を離れては存在しないのである。
 本科段は、識体転じて二分に似るというkとを論証しているのですね、色は相分としてある、外境として存在するものでは無いといっているわけです。すべては心がとらえたもの、我が心がとらえたものを見ているにすぎない。これお手がかりに四分説を『二巻鈔』から学びたいと思います。今日は序章です。

十一月度 『成唯識論』講義テキスト

2014-11-24 21:52:50 | 初能変 第一 熏習の義
 前回までに、種子の六義が終わりまして、今回は熏習について、何が所熏であり、何が能熏になるのかを学んでいこうと思います。テキストの概略につきましては以前に書き込みをしております。参照していただけたらと思います。今回はテキストの読み下し分を掲載いたしました。
  ファイル添付の方法がわかりませんので、読みにくいと思いますがお許し下さい。
  十一月度講義 十一月二十七日木曜日・午後三時より 八尾市本町 聞成坊において 
 
 (所熏(しょくん)の四(し)義(ぎ))
 何等(なんら)の義(ぎ)に依(よ)ってか熏習(くんじゅう)の名(な)を立(た)つるや。所熏(しょくん)と能熏(のうくん)と各四(かくし)義(ぎ)を具(ぐ)して、種(しゅう)を生(しょう)・長(ちょう)せ令(し)むるが故(ゆえ)に熏習(くんじゅう)と名(なづ)く。
 何等(なんら)をか名(なづ)けて所熏(しょくん)の四(し)義(ぎ)と為(な)す。
一(ひとつ)には堅(けん)住性(じゅうしょう)。若(も)し法(ほう)の始終(しじゅう)一類(いちるい)に相続(そうぞく)して能(よ)く習(じっ)気(け)を持(じ)す。乃(すなわ)ち是(こ)れ所熏(しょくん)なり。此(これ)は転(てん)識(じき)と及び声(しょう)と風(ふう)等(とう)とは性(しょう)竪(けん)住(じゅう)なら不(ざる)が故(ゆえ)に所熏(しょくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
二(ふたつ)には無記性(むきしょう)。若(も)し法(ほう)の平等(びょうどう)にして違逆(いぎゃく)する所無(ところなく)して能(よ)く習(じっ)気(け)を容(い)る。乃(すなわ)ち是(こ)れ所熏(しょくん)なり。此(これ)は善(ぜん)と染(ぜん)とは勢力(せいりき)強(ごう)盛(じょう)にして容納(ゆうのう)する所(ところ)無(なき)が故(ゆえ)に所熏(しょくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。此(これ)に由(よっ)て如来(にょらい)の第八淨(だいはちじょう)識(しき)は、唯(ただ)旧種(くしゅ)のみを帯(たい)せり。新(あたら)しく熏(くん)を受(う)くるものには非(あら)ず。
三(みつ)には可熏(かくん)性(しょう)。若(も)し法(ほう)の自在(じざい)にして、性(しょう)竪(けん)密(みつ)に非(あらず)して能(よ)く習(じっ)気(け)を受る。乃(すなわ)ち是(こ)れ所熏(しょくん)なり。此(これ)は心所と及び無為法とは他に依て竪(けん)密(みつ)なるが故(ゆえ)に所熏(しょくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
四には能熏(のうくん)と共(とも)に和合(わごう)する性(しょう)。若(も)し能熏(のうくん)と同時(どうじ)同処(どうしょ)にして不即(ふそく)不離(ふり)なる乃(すなわ)ち是(こ)れ所熏(しょくん)なり。此(これ)は他身と刹那前後とは和合(わごう)の義無きが故(ゆえ)に所熏(しょくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
唯(ただ)異(い)熟(じゅく)識(しき)のみ此(こ)の四(し)義(ぎ)を具(ぐ)して是(こ)れ所熏(しょくん)なる可し。心所(しんじょ)等(とう)には非(あら)ず。


 (能熏(のうくん)の四(し)義(ぎ))
 何等(なんら)をか名(なづけ)て能熏(のうくん)の四(し)義(ぎ)と為(な)るや。
 一(ひとつ)には有(う)生滅(しょうめつ)。若(も)し法(ほう)の常(じょう)に非(あらず)して能(よ)く作用(さゆう)有(あり)て習(じっ)気(け)を生長(しょうじょう)する。乃(すなわ)ち是(こ)れ能熏(のうくん)なり。此(これ)は無為(むい)は前後(ぜんご)不変(ふへん)にして生長(しょうじょう)の用(ゆう)無(な)きが故(ゆえ)に能熏(のうくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
 二(ふたつ)には有(う)勝用(しょゆう)。若(も)し生滅(しょうめつ)有(あ)り勢力増(せいりきぞう)盛(じょう)にして能(よ)く習(じっ)気(け)を引く乃(すなわ)ち是(こ)れ能熏(のうくん)なり。此(これ)は異(い)熟(じゅく)の心(しん)心所(しんじょ)等(とう)は勢力臝劣(せいりきるいれつ)なるが故(ゆえ)に能熏(のうくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
 三(みつ)には有(う)増減(ぞうげん)。若(も)し勝用(しょうゆう)有(あり)て増(ぞう)す可(べ)く減(げん)ず可(べ)くして習(じっ)気(け)を摂植(せつじき)する。乃(すなわ)ち是(こ)れ能熏(のうくん)なり。此(これ)は仏果(ぶっか)の円満(えんまん)の善法(ぜんほう)は増(ぞう)も無(な)く減(げん)も無(な)きが故(ゆえ)に能熏(のうくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。彼若(かれも)し能熏(のうくん)ならば便(すなわ)ち円満(えんまん)に非(あら)ず。前後(ぜんご)の仏果(ぶつか)に勝劣(しょうれつ)有(あ)りぬべし。
 四(よつ)には所熏(しょくん)と和合(わごう)して転(てん)ず。若(も)し所熏と同時(どうじ)同処(どうしょ)にして不即(ふそく)不離(ふり)なる。乃(すなわ)ち是(こ)れ能熏(のうくん)なり。此(これ)は他(た)身(しん)と刹那前後(せつなぜんご)とは和合(わごう)の義(ぎ)無(な)きが故(ゆえ)に能熏(のうくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
 唯七転(ただななてん)識(じき)と及(およ)び彼(か)の心所(しんじょ)とのみ勝(すぐれ)たる勢用(せいゆう)有(あり)て而(しか)も増減(ぞうげん)するのみ。此(こ)の四(し)義(ぎ)を具(ぐ)するを以(もっ)て是(こ)れ能熏(のうくん)なる可(べ)し。


 是(かく)の如(ごと)く能熏(のうくん)と所熏(しょくん)との識(しき)は、倶生(くしょう)・倶滅(くめつ)にして熏習(くんじゅう)の義(ぎ)成(じょう)ず。所熏(しょくん)の中(なか)の種子(しゅうじ)を生長(しょうじょう)せ令(し)むること、苣(こ)勝(しょう)に熏(くん)ずるが如(ごと)し。故(ゆえ)に熏習(くんじゅう)と名(なづ)く。能熏(のうくん)の識(しき)等(とう)は種(しゅう)従(よ)り生(しょう)ずる時(とき)に、即(すなわ)ち能(よ)く因(いん)と為(なっ)て復(ま)た種(しゅう)を熏(くん)成(じょう)す。三法(さんぽう)展転(ちんでん)して同時(どうじ)因果(いんが)なること、炷(しゅ)の焔(えん)を生(しょう)じ焔(えん)生(しょう)じて炷(しゅ)を燋(しょう)するが如(ごと)し。亦束蘆(またそくろ)の更互(こうご)に依(よ)るが如(ごと)し。因果倶(いんがく)時(じ)なりと云(い)うこと理傾動(りきょうどう)せず。能熏(のうくん)が種(しゅう)を生(しょう)じ、種(しゅう)が現行(げんぎょう)を起(おこ)すことは倶(く)有因(ういん)を以て士用果(じゆうか)を得(う)と云(い)うが如(ごと)く、種子(しゅうじ)の前後(ぜんご)にして自類(じるい)相生(そうじょう)することは、同類因(どうるいいん)を以(もっ)て等流果(とうるか)を引(ひ)くと云(い)うが如(ごと)し。此(こ)の二(に)は果(か)に於(お)て是(こ)れ因縁性(いんねんしょう)なり。此(これ)を除(のぞい)て余(よ)の法(ほう)は皆(みな)因縁(いんねん)に非(あら)ず。設(たと)い因縁(いんねん)と名(づな)けたるも応(まさ)に知(し)るべし、仮説(けせつ)なりと云(い)うことを。是(こ)れ略(りゃく)して一切(いっさい)種(しゅ)の相(そう)を説(とく)と謂(い)う。」



 

 

初能変 第二 所縁行相門 四分義(13) 三分義(8) 所量・能量・量果について(2)

2014-11-23 15:05:08 | 初能変 第二 所縁行相門
  「心と心所と所依の根は同なり。所縁相似せり。行相は各別なり。了別し納領するが等き作用各々異なるが故に。事は数等しきと雖も、而も相は各々異なり。識と受との等き体差別有るが故に」(『論』第二・二十七右)
 心と心所とは所依の根を同じくする。心・心所は一の根に依り、一の境を縁ずるからである。前にですね、「心と心所とは所依・縁同なり。行相は相似せり」と説かれていましたが、ここは、「所縁相似せり」と。心と心所との関係は、所依の根は同じである、八識は八識それぞれの同じ根を所依としている。眼識は眼根を所依とし、乃至第八識の根は第七識。第七識の根は第八識と、所依の根は同じくしているが、所縁の相はどうであるのかですね。所縁の相は相似しているんだと。相似とは、心の中の影像が知るべき本来の対象と似ていることなんですね。眼識は眼根に依って見るという働きをしますが、その対象となる境ですが、対象が有ってそれを見ているのかと云う問題です。所縁となる相分は心が外に現れたものであって、境に似て現じているというわけです。ですから所縁相似せり、と。
 「心と心所とは所依の根を同じくす。その所縁の相は各々変ずること別なり。故に同一と言わず、但だ相似と云う。青の相分を縁ずる時は皆青を変ずるが故に。」(『述記』)
 本質からいえばこの通りなんですが、私たちは本質を直接見るということはできません、見分を通して見ているわけですから、「倶に是れ青なりと雖も、影像を取ること各異なり、故に不同行相と名づく。」(『述記』)
 本質は疎所縁縁であり、影像は親所縁縁であって、私たちの認識構造は、識それぞれの見分が捉えた相分を見ているわけです。それを影像相分として認識しているのですね。
 「了別すると領納すると各々同じからざるに拠る、故に相分は同じからざると雖も、然るに極めて相似す。青を境と為すが如き、諸の相倶に青にして相似するを同と名づく。見分は各々異なり。倶に是れ青なりと雖も、像を取ること各々異なるが故に、不同行相と名づく。」(『述記』)
 見分が了別の働きを持っている。所縁の相分の上に了別の作用があるわけです。これが行相、それぞれの識に了別の働きが有る、しかし領納という、心の受け止めかたという、感覚や知覚あるいは経験は各々異なっている。作用各別といいます。同じものを所縁としていても、それぞれの識の働きによって、像を取ることは異なってくるんだと。
 「事は数等しきと雖も」、事は自証分、事の自証分は一つずつ、数は等しいけれども、相は別である。識と受等の体は別であると説き明かしています。此のところはよく理解できませんが、後に三量という問題が提起され、そこで「みえないものでもあるんだよ」ということがはっきりとしてきますので、後にまた触れてみることにします。
 「然も心と心所とは一一いい生ずる時に理を以て推徴するに各々三の分有り。」(『論』第二・二十七左)
 本科段は、因明の論師であり、三分説を説かれました陳那菩薩が経に依って道理を立てられたことを推徴することになります。
 心王は八識・心所は五十一数えられるわけですが、それぞれ一つ一つに三分があるということを道理をもって推し測っていく。推徴すると各々に三分があるということが解ると述べ、その理由が次の科段で示されてきます。
 「所量と能量と量果と別なるが故に。相と見とは必ず所依の体有るが故に。」(『論』第二・二十七左)
 所量・能量・量果です。量られるもの、量るもの。量られるものを認識するという役割をもっているのが量果ですね。要になる役割を担っている。それがないと、所量・能量は、バラバラで何一つ役割を果たすことが出来ません。そこで、この三つは別であって、三つがないといけないものである。そして相分と見分とは所依の体がないといけないんだと。所依の体が有って初めて相・見の二分が成り立つのである。前回に喩を出していますが、反物と物差しと、反物を物差しを持って量る者、この三分が無いといけないと陳那菩薩は説かれているんです。どこに説かれているのかといいますと『集量論』(ジュウリョウロン)の伽他の中で説かれているんだと。
 伽他とはガ-タの音写で、偈・頌・偈頌という韻文で説かれたものですが、『集量論』には翻訳されたものはないとされています。玄奘さんがこの『成唯識論』の中で、この部分だけを翻訳されたんでしょうかね。
 「集量論の伽他の中に説くが如し。
   似境相所量 能取相自証 即能量及果 此三体無別。」
(境に似る相は所量なり。能く相を取ると自証とは、即ち能量と果となり。此の三は体別なること無し。)
 相分 ― 所量
 見分 ― 能量
 自証分 ― 量果
 であって、この三は識に離れてあるものではないと説かれてきます。不離識ではあるが功能は各別である。
 此の後、細かく分別すればとして、正義である護法菩薩の四分説が説かれます。ここまでは四分説のプロローグですね。
 重ねての説明になりましたが、相分・見分・自証分が説かれなければならない背景と、外界は実に存在するものではなく、外界に似て取らえている識の働きがあることを明らかにしておきたかったのです。
 
 

初能変 第二 所縁行相門 四分義(12) 三分義(7) 所量・能量・量果について

2014-11-20 21:01:24 | 初能変 第二 所縁行相門

 「彼の論を按ずるに、『集量論』を引いて云く、『集量論』に説く、諸の心心法は皆な自体を証するを以て名づけて現量と為す。若し爾らば曾って見ざりしが如き憶念すべからず。」(『演秘』)
 「識体転じて二分に似る」という三分論は陳那論師の説になりますが、陳那論師は更に自証分として見分を縁ずる作用が必要であると説かれています。即ち、能縁・所縁の作用が完成するには、所量・能量・量果の三者を具さなければならないといわれています。所量(認識されるもの)とは相分であり、能量(認識するもの)とは見分であり、量果とは認識の結果を確認する心の働きで、自証分になりますが、自証分は更に量果として見分を縁ずる作用を行います。その時自証分は能量として、見分は認識対象として所量になります。認識したものを確認(量知)することができなければ、所縁を確認することが出来ないのですね。見分と自証分の二重の関係があって初めて相分を了別することができるのです。
       「境に似たる相は所量なり、能く相を取る、自証とは即ち能量と及び果となり。此三は体別無し。」(『集量論」) この三分は功能差別ですから三つに分けられて説明されますが、体は一つ、一識なのです。
           所量
              〉 因  果 ― 量果

           能量          ↓
                       因の意義を持つ。 量果が能量所量を完成させ、完成されたものが、新たな因という意義を持つ。
 量とは物差しのことですが、ここでは判断・認識の根拠になります。古来からの喩では、所量は反物、能量は尺(ものさし)、尺と反物だけでは量ることはできません。尺を反物に当てて量る人がいなければ、量るということが完成しないのですね。量る智がないと、所量・能量の意味がないことになります。その量る智を自証分というのですね。よってですね、見分・相分は必ず自体がなければ成り立たないのです。自証分が自覚作用になりますね。自覚作用がなければ、認識は成り立ちません。認識が成り立つためには、自覚作用が不可欠であって、その役割が自証分なのです。ここにおいて憶することができるのですね。記憶が成り立ちます。 この次に証自証分の必要性が説かれてきます。以上が三分説の概略になります。
 三量について、
 八識それぞれに自証分があり、その自証分は現量(証自証分も現量)。自体分が転じた見分が前五識・第六意識・第七末那識・第八阿頼耶識に分けられますが、前五識と第八識は現量です。第七末那識は染汚識ですから唯だ非量です。第六意識は現量(ゲンリョウ)・比量(ヒリョウ)・非量(ヒイリョウ)の三量に通じます。

初能変 第二 所縁行相門 四分義 (11) 三分義(6)

2014-11-19 22:14:37 | 初能変 第二 所縁行相門
  三分義をまとめましたが、自証分が若し無かったならばどうなるのでしょうか?それに応えて
 「此れ若し無くば、自ら心・心所法を憶せ不る応し。會って更不りし境をば必ず憶すること能は不るが如きが故に。」(『論』第二・二十七右)
 能縁を見分・所縁を相分といいますが、相・見二分は自証分を所依、依止として起こってくるわけです。いわば、自証分の主体的側面を見分といい、客体的側面を相分といいます。ですから、相を離れて見は無く、見を離れて相は無い、互いに所依として二法は成り立っているわけですね。この二法の所依が自証分で、相・見が自体を事といわれているのです。これが自証分なのです。
 ですから自証分が無かったならば、相・見の二法は成立しないことになります。
        「謂く自体分無きは自ら心・心所法を憶せざるべし。所以はいかん。會って更ざらし境を必ず憶すこと能はざるが故に。」(『述記』)
  私たちは過去に経験したことを記憶しています。その記憶する働きが自証分であり、自証分が無かったなら、記憶することが成り立たないのです。見分が相分を見たということを見ている、認識したことを認識する働きが自証分である、と。経験のすべてがですね、無意識裡に記憶しているわけです。自証分が無かったなら記憶は成り立たないと云っているのですね。
 私たちは、過去の経験を思いだすことがあります、「私の経験から言えば」とか、「あの時そうであったな」という記憶があるのは自証分の働きなのですね。私の中で、所縁(相分)を認識(見分)したことを認識(自証分)している、自証分が見分を自証しているのです。
 自証分があるから、過去のことを思いだす事が出来ると、思い出せることが出来るのは自証分があるからである、と。
 阿頼耶識の三相で能蔵の義が述べられています、過去の経験を蓄えるところ、所蔵が蓄えられるところという貯蔵庫ですね、ですから種子論におきましても、「種子とは、本識の中に親しく自果を生ずる功能差別なり」と定義されていましたように、種子生現行の種子は自証分としてあるということに成るのではないかなと思います。阿頼耶識が心のどこかに有るという話ではなく、種子生現行として働いている所に具体相があるのですね。三法展転同時因果を成り立たしめている主体が自証分といえるのではないかと思います。
 『泉鈔』には「自証分と見分との慮知は内外にかはり、麤細に不同である。自証分これを縁ぜしことならば、至極自証が憶する因とこそなるべけれ、見分は會ってこれを縁ぜず、何ぞ見分が能憶の因となるや。答ふ、自証分と見と一体なるが故に見分が憶の因と成るなり」と説明されています。
 

初能変 第二 所縁行相門 四分義(10) 三分義(5) まとめ

2014-11-18 22:51:09 | 初能変 第二 所縁行相門
 三分義までをまとめてみます。
 仏教とは何を教えているのでしょうか。仏法は何を意味しているのでしょうか。私とどんな関わりが有るのでしょうか。関わりなくして私は生きていくことができるのでしょうか。
 「問いを持つことの大切さ」
 私は仏教と出会ってから答えばかりを探していました。「なぜ」という素朴な問いがでてこなかったのですが、ある日家族と、命の大切さについて話をしているとき、「問いを持つ」ことができたのが仏教と出会った証であると教えられたのです。そういえば『大経』に大切なことが教えられてありました。親鸞は『教行信証』教巻において「出世の大事」について『大経』を引用しておられます。(真聖ー152~153)『ここに世尊、阿難に告げて日わく、「諸天の汝を教えて来して仏に問わしめるか、自ら慧見をもって威顔を問えるか」と。阿難、仏に白さく、「・・・・・自ら所見をもって、この義を問いたてまつるならくのみ」と。仏の言わく、「善いかな阿難、問えるところ甚だ快し。深き智慧、真妙の弁才を発して、衆生を愍念せんとして、この慧義を問えり。・・・」と、この後世尊の出世の大事が語られていくわけですが、問いと答えには物の違いがあるのです。格が違うというか、分限が違うというのか「問い」は衆生の分限「答え」は仏の世界、そして仏によって見出されたのが衆生という存在なのです。「問い」も仏によって引き出されたといってよいのだと思います。「何故私たちは苦しみ悩むのか」「何故命は大切なのか」「自己中心でしか物事を考えられないのか」等、「なぜ」という問いを頂いたことの大切さを大事にして唯識の世界を歩み続けたいと思います。 
 ー八識三能変ー
八識とは表層から深層にむかって八つの重層的構造を持つとする捉えかたで、三能変とはこころが三層をなして深層から表層に向かって能動的に対象に働きかける面を言います。
 八識ー眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識
 三能変ー異熟識(阿頼耶識)・思量識(末那識)・了別境識(前六識)
「唯識三十頌」第二頌~第十六頌において転変する識を明らかにしています。
 「経」は仏説ですから「如是我聞」「我聞如是」ではじまります。「かくのごとき、我聞きたまえき」「我聞きたまえき、かくのごとき」。このように私は仏陀より聞きましたというスタイルではじまります。「論」は「経」を聞いて私はどう頷いたのかを表白するものですから最初に仏陀への帰依を表します。ここでは満清浄者=仏陀 分清浄者=菩薩に帰依の気持ちを表しています。最初に唯識性ですが『成唯識論述記』(以後『述記』)に唯識性を釈すとして「唯識性というは略して二種あり。一つには虚妄、即ち偏計所執なり。二つには真実、即ち円成実なり。・・・又二種あり。一つには世俗、即ち依他起なり。二つには勝義、即ち円成実なり。」唯識性というのはただ真実・勝義をあらわすのではないのですね。仏法は今、即ち迷いの只中に真実を明らかにしていくのです。迷いの外に真実があるわけではないのです。迷いによって真実が覆われているといってよいのかもしれません。迷いの只中に真実を明らかにしていくのが仏法なのです。迷い(虚妄)をあきらかにし、世俗を離れて勝義はないと明らかにした者に稽首、即ち帰依するのです。ここでは本当に大切なことを教えていただいています。私たちは日常生活において迷迷悶々としています、自分の思うようにならない、何とかしたいという思いから外を変えていこうと悪戦苦闘を繰り返しています。しかし今思い悩んでいる他に真実はないのだと教えているのです。虚妄=偏計所執はなぜ起こるのでしょう。実体のない存在に実体があるとする心と、その心の対象となって執着された存在と、その心と対象とによって実在すると誤って執着された存在の姿によって起こってくるのです。迷っているということはすばらしいことなのですね。迷っていることが即ち真実に触れていることなのですから。そして迷っている場所を世俗というのでしょう。迷っているということを本当は自覚されていないのでしょう。実は迷っていることを真実であると誤解をしているのではないでしょうか。無意識の領域で妄想を真実として行動を起こしているのではないかと思います。私たちの無意識の領域では刹那刹那に自分の思いに色づけされた考えを正しいとする力が備わっているといわれています。(ユング派における無意識の神話賛成機能 mythopoetic function of the unconscious) 何が正しく、何が妄想なのかを如実に見極められなければなりません。仏道を歩む・仏法を学ぶということにはどんな意味があるのでしょう。わたしにはこの「問い」がいつも心の奥底に潜んでいます。仏法を学ぶということに於いて「世間での成功を夢見ているのではないか」、「サクセスストーリーを歩むことができるのではないか」という期待感があるように思えてなりません。それに対し仏法は「勝過三界道」(三界の道に勝過せり)であると教えられています。私の思いは伊蘭子(どこまでも迷いの境界)です。伊蘭樹を生むことしかできないのです。これでよかったんだと思ったとたん迷いが生まれてくるのです。迷いが隠れているのですね。ですから永遠に理想を追いかけていかなくてならないような仕組みになっているのです。仏法(因縁所生の法)に出遇うことによって本当の自分に遇うことができるのです。迷いの境界にあっては千載一遇の出来事なのです。
 四分義略説
 「識所変」といわれますね。「唯識無境」と。本来は識のみあって境はない、と。その時の識とはなにかという問題ですが、識は了別である。了別は区別のことです。ものを区別して知るという意味になりますね。八識を区別して知るわけです。この識の中には心所も摂める。識と心所は相応するからである。「心所をも摂む」と。識と心所は一緒に働くのですね。八識五十一の心所です。次に「変」ですが、一つは、「変と云うは謂く識体転じて二分に似るなり」ということですね。動くときには、二つに分かれる。もう一つは、「内識転じて外境に似る」。認識活動はこのようにして成り立っているのです。「識体転じて二分に似るなり。相と見とは倶に自証に依って起こるが故に。この二分に依って我・法を施設す。」
 私たちの認識活動は外と内を分けています。主・客二元論です。自分の見ているものは外にあると思っていますが、唯識はそれを否定し、外にあると思っているのは間違いだと。実は自分の心の現れたものであるというのです。主・客ともに自分の心に依るというのですね。自証に依って相分・見分が起こる。識体は自証です。識体が転じて相・見二分という働きになる。外にものが有って認識するのではなく、自分の心の中に現れたものを自分が認識していく、自分の心でみ見ていくというのが、私たちの認識構造なのです。ここが大事なところです。迷いは如何にして成り立っているのかをはっきりさせる為にですね。
 外に有ると思っていたものは、実は自分の心の中に映じたものであった。それが相分である。相分を変革する為には、自分の心を変えなくてはならないということになります。これが一つの解釈ですね。もう一つは、「内識転じて外境に似る」内に有るこころの状態が外のものの如くに現れてくる。
 ものを知るという認識構造は如何にして成り立っているのかですね。先ほど「識は了別」と述べましたが、「此の了別の用は見分に摂めらる」、そして「所縁に似る相を説て相分と名づけ、能縁に似る相を説て見分と名づく」、これが二分義です。難陀の解釈になりますが、認識は一応このような構造をもっているということになります。
 ただ、有漏の時ですね。未転依のときにはどうなるのかということですが、「有漏の識の自体生ずる時に、皆所縁・能縁に似る相現ず」。「自体が生じるとき」という。三分義で、自体分と。執着という問題です。二つでてきます。一つは、「識に離れたる所縁の境有りと執する者」、もう一つは、「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」という人間の種類がだされています。境が有ると執着するもの、が一つ。外境は実有であると見る見方。この時は相分を行相と名づけ、見分を事と名づく。是れ心・心所の自の体相なるが故に」と述べられています。しかし、もうひとつの人間像ですが、「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」。ここでは相分は所縁であり、行相は見分である、と。「相と見との所依」を自体分という。自体は自証分である、ということです。
 迷いの構造を明らかにする時には、すべては有であるところからはじまるのです。有るのは、自体分だけ(一分義)、或いは有るのは、見分だけ(二分義)、或いは三分義・四分義はすべて有るというところから始まります。相分も有る、見分も有る、自証分も有る、証自証分もあるというのが迷いの構造である、ここから出発するのです。執着心はある、これが迷いを生んでくる元だと。
 四分義は何を現わそうとしているのか、私たちの認識の構造は、心の奥深くに横たわっている自己中心的な思いによって成り立っているという問題を抉り出しています。
 第八識の行相と所縁、働きと、対象は何かという問題ですね、心は必ず何かを対象として認識をしているのです。「謂く、云く」と答えています。不可知というのは、阿頼耶識の認識と認識の対象とのありようをを表す概念で、阿頼耶識の行相(認識作用)は微細であり、阿頼耶識の所縁(認識対象)、阿頼耶識は何を対象としているのかというと、執受と処と了である。執受とは種子と有根身、これは微細に働く、処は有情の所依処で器世間のことだと云われています。了というのは、「了と云うは謂く了別」、これは行相であり、識は了別するということが行相になると云われているのです。
 『三十頌』では「謂く不可知の執受と処と了となり」と述べられていますが、注釈は「了」から解釈されています。
 先ず、「種子と有根身」ですが、種子は、「謂く諸の相と名と分別との習気なり」と、私たちの経験のすべてが種子として蓄積されているということ、これが習気といわれるものです。それと、有根身、「諸の色根と及び根の依処となり」と。
 所依処は識の相分であり、外境、外の世界であるということです。
 執というのは、「摂の義持の義」、受は、「領の義・覚の義」である、「摂して自体と為し、持って壊せざらしむ、安危共同にして而も之を領受す、能く覚受を生ずれば名づけて執受と為す。」と云われ、種子と有根身と阿頼耶識は、安らかな時にも、危険な時にも、一体となって働くいく、これが識の根底に於て「暴流の如く」動いていると教えています。 
 
 覚受 - 感覚。身体が苦・楽などを感じること。生きているということは、覚受が働いていることになります。
阿頼耶識には、二つの側面があることを述べましたが、『論』には「阿頼耶識は、因と縁の力の故に自体生ずる時、内に種と及び有根身とを変為し、外に器を変為す。即ち、所変を以て自らの所縁と為し、行相は之に杖して起こることを得るが故に。」と説かれています。
 阿頼耶識の所変を阿頼耶識は自らの所縁としている、と説かれています。阿頼耶識から変化したものを、自らの認識対象としているということです。そして、阿頼耶識の所縁を大きく分けて、執受と処になります。昨日述べた通りです。ただ、内的なもの(執受)に、種子と有根身が有ると述べられているわけですが、種子は有漏の種子ですね。煩悩に染汚された行為の結果しか阿頼耶識の中に植え付けることはないのです。「諸の種子とは、諸の相と名と分別との習気なり。」と云われる所以です。これは、すべての有漏の善等の諸法の種子であり、無漏の種子は植え付けられないのです。それ故、『瑜伽論』等には、「遍計所執の妄執の習気なり」と述べているのです。
 有根身は、根(感覚器官)を有する身体ですね。五色根と根依処とに分けられます。根は、又、勝義根と扶塵根とに分けられますが、勝義根は真実の根、淨色所造と云われています。これは何を意味するのでしょうか。五色根といわれる根そのものは宝石のような光り輝くものであることを、ヨーガ行者は発見したのでしょうね。そして、根を助けるものを根依処と云われ、扶塵根とも云われています。これら執受と処は、微細には働き、広大であるところから、認識されることはない所から不可知と云われるのです。
 このことを前提として、「了」について考えてみます。「了とは、謂く、了別、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」と。了別とは、ものごとを認識する働きの総称で、識の働きのことですが、これが「識の自体分が了別するを以て行相と為るが故に。行相と云うは見分なり。」と云われます。ものごとを区別して知る働きは見分に摂められるのである、と。     
 「此の中に了とは、謂く異熟識いい自の所縁に於て了別の用有るなり。此の了別の用は見分に摂めらる。然も有漏の識が自体の生ずる時に皆な所縁能縁に似る相現ず。」 
 私たちがものごとを認識する時には所縁・能縁という形をとるわけです。そして、所縁に似る相を相分といい、能縁に似る相を見分というのだと。所縁と能縁は別別に起こることはないのです。同時であって異時ではないわけです。それがですね。自体が生ずる時に、所縁・能縁という形を取ると云われているわけですね。「識は外境に似て現ずる」、外境に似て現れるものは相分ですね、そこに見分が働いている、と云われているのですが、こういう所に問題が生じているわけでしょう。
「了」についての所論です。「了」とは、異熟識が、自分の所縁に於て、了別の用(働き)をもつことであって、四分の中では、見分に摂められる、と説かれているわけです。
 そして、「然も有漏の識の自体生ずる時に、皆所縁・能縁に似る相現ず。」(有漏の認識作用は、自体が生ずる時に、皆な必ず所縁・能縁と云う対立した相を現わす。)
 この「自体生じる時」という自体は、自体分(自証分)といいますが、これが私たちが認識するときの軸になるわけですね。自体を中心に、外の境が実在すると思う対象の相を「相分」と名づけられているのです、そして実に外に認識する対象が実在すると思う働き、能縁の側面を「見分」と名づけられているのですね。自体を軸として、相分・見分が、外境は実在すると認識するのです。これが迷いの根本構造になります。二分の相は体に対して云われるわけです。体もまた実体化されているわけです。その体の上に現れる二分の相とは、私たちの、外境は存在すると妄執している相なのですね。妄執している相が相分・見分として現行しているのです。これが三分説になるわけですが、二分説は、識の体は、能縁の見分が自体であり、相分が相であるわけです。二分説は、難陀の説になりますが、見分を相とはみないわけで、体であると。対象化しない、実体ではなく、作用であるとみているわけです。私たちに認識の底には、このように、二分に見ていくという構造があって、ものを知るということが成立しているのです。これを、
 「識に離れた所縁の境有りと執する者、彼説く、外境は是れ所縁なり。」
 私とは無関係に外の世界は存在する、私の主観を抜いて外境は有ると執着する見方です。しかし実際は主観の相違によってものの見方が違ってくるのですね。私の見ている世界と、他の人が見ている世界は違うのです、千差万別です。ですから、「識に離れた所縁の境有りと執する」ということは間違いだといえるわけです。
 これに対してですね、相分は所縁であり、見分は行相である、と見ていく有り方ですね。「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」は、「相と見との所依の自体をば事と名づく、即ち自証分なり」と。
 自証分は自覚作用であるということです。見分・相分は自内証であって、外的関係ではないと明らかにしているわけです。そうしますとね、私たちの認識はどのように成り立っているのでしょうか。私が見ているという認識はありますが、それは外に実在としての環境世界が有るという関係に於いて認識が成り立っています。外境を所縁とし、相分を行相・見分を事とみている有り方なんです。このものの見方が間違っていると指摘しているのが三分説になるのです。
 二分を以て、安慧正量部の説を論破するのです。理証・教証をあげて論証しています。
 「若し心・心所、所縁の相無くば、自の所縁の境を縁ずること能わず。或は、一々能く一切を縁ず。自境も余の如く、余も自の如くなるが故に。」
 (もし、心・心所法に所縁の相が無いならば、自己が縁ずる所の境をもつことはないであろう。識と境が混乱するならば、識は一切を縁じてよいことになる。)
 識と境とは必然関係なのですが、識と境が偶然の関係であるなら、何を縁じてもいよいことになってしまいますから、「自境も余の如く、余も自の如くなるが故に」(自境も縁ぜない余の如く、縁ぜない余も自境の如しである。)
 『述記』には「青を縁ずる時の如き、若し心・心所の上に所縁の相貌無きは、正しく起こる時にあたりて、自心所縁の境を縁ずること能わざるべし。」と、因明を以て説明しています。これが宗になり、「所縁の相無しと許すが故に」が因になり、「余の縁ぜざる所の境の如し」が喩になりますね。能縁についても同じことがいえます。能縁と所縁との二つに似て現行するのですね。意識は、見・相二分に似て意識されるということ。
 所縁(対象)は相分・行相(作用)は見分という見方は、
 「識に離れたる所縁の境無しと達せる者の、則ち説く、相分は是れ所縁なり。見分とは行相と名づく。相と見との所依の自体をば事と名づく。即ち自証分なり。」
 私たちが見ているものは、相分という心の影像、主観によって捉えらえたものを見ていることになります。自分が心の中に捉えた映像を、自分が認識して知るという構造です。これが識の本質になるわけです。この本質を自体分といいます。この自体分が無かったなら、見・相二分は外界の存在になり、外界は実在と見るという錯誤を生じるわけです。自体によって二分が成り立つのですね。自分が自分を知っている、他人は騙せても自分は騙せない、騙したことを自分は知っている、自分は自分から逃れる術はないというのが自体になるわけですね。道理です。自証をもって自体とする、これが道理である。見・相二分の所依が自体である。二分では判然としなかった識の構造が、体は識、用は二分ということで諸法唯識が成り立つのです。