唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (13) 第五、諸受相応門 (2)

2016-01-29 21:20:07 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 その二は、小随煩悩と五受の相応について、二師の説を挙げて論じ、護法の正義が示されます。
 第一師の説。 
 「有義は、小の十は三を除いて忿等は唯喜と憂と捨との三受のみ相応す。諂と誑と憍との三は四と倶なり、苦を除くと云う。」(『論」第六・三十三右)
 
 「論。有義小十至四倶除苦 述曰。此第一師。除諂・誑・憍餘忿等七。唯喜・憂・捨三受倶起。非通上界。無意樂故。不在五識。欲界不通苦樂。地獄之中意無苦故。通歡慼行亦有喜故。諂・誑・憍三四受倶除苦。色界樂倶故。以初靜慮有意樂故。」(『述記』第六末・九十四右。大正43・463)
 (「述して曰く、此は第一師なり。諂・誑・憍とを除いて余の忿等の七 は、唯、喜・憂・捨の三受と倶起す。上界に通ずるに非ず、意の楽無きが故に、五識に在らず。欲界にして苦楽に通ぜず。地獄の中の意は苦きが故に、歓と慼との行に通ず、亦喜有るが故に。諂・誑・憍の三は四の受と倶なり。苦を除いて色界に楽と倶なるが故に、初静慮には意の楽有るを以ての故に。」)

 ・ 小随煩悩は第六意識とのみ相応する。
 ・ 忿等の七(忿・恨・覆・悩・嫉・慳・害)は欲界にのみ存在する。
 ・ 諂・誑は欲界と色界の初静慮に存在し、憍は欲界と色界のすべてに存在する。
 以上は第一師・第二師共に共通した主張になります。相違点は、苦受の存在について異論が述べられます。

 小随煩悩は第六意識とのみ相応するが、忿等の七と諂・誑・憍の三は界繋が違ってきます。
 ・欲界の第六意識には楽受が無いこと。そして第六意識には欲界・色界に通じて苦受が無いということ。従って忿等の七は楽受と苦受とは相応せず、喜・憂・捨の三受とのみ相応する。歓と慼との行に通ずと主張されますから、歓(喜受)と慼(憂受)は第六意識に相応するのだと第一師は主張します。
 ・ 諂・誑は欲界と色界の初静慮に存在し、憍は欲界と色界のすべてに存在する、色界には楽受が存在すること。諂・誑・憍は楽受と相応する。「苦を除いて」といわれていますから、諂・誑・憍は苦受とは相応しない。「諂・誑・憍の三は四の受と倶なり」というのは、楽受・喜受・憂受・捨受と相応すると第一師は主張します。
 苦受とは相応しないという点が第二師と相違するところです。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (12) 第五、諸受相応門 (1)

2016-01-28 22:53:41 | 第三能変 随煩悩の心所
   龍谷大学仏教学叢書 自照社出版

 随煩悩諸門分別第五諸受相応門(受倶門)
 (1) 中随煩悩の二と大随煩悩の八は五受と倶なりを明らかにする。
 (2) 小随煩悩と五受の相応について異説を挙げて護法正義を説く。
 
 初は、 
 「斯に由って中と大とは五受と相応す。」(『論』第六・三十二右)
 (これに由って中随煩悩と大随煩悩とは五受と相応す。)
 受は境を領納すること。順境の相を領納すれば楽受が生じ、違境の相を領納すれば苦受が生じ、いずれでも無い場合は捨受が生ずる、境を領納するのは、受の見分であり、そこに三受が成り立つ、三受を開けば五受(苦受・憂受・楽受・喜受・捨受)になる。
 触・作意によって境を領納するところに感受作用が成り立ちますが、己に関係するところに受の本質があるわけですね。
 中と大と五受と相応するのかという問題は、五受は不善と染とに通ずるからなんです。心王が生起すれば必ず付随してくる心所が五つの遍行です。また心王が生起すれば随煩悩が倶起しますから、心王と相応する随煩悩は遍行と必ず倶起することになります。
 その中で、随煩悩は二十数えられるわけですが、五受と相応する随煩悩は何れかが問題になります。この問いに答えているのが本科段なのです。受は開けば五つになりますから、何れの受が何れの随煩悩と倶起するのかが問われてくるのです。
 「斯に由って」は前科段の「中と大とは相が五識と通じるので五識に存在する」を受けています。つまり、五識と中・大の随煩悩は相応するということは既に明らかにされました。では、五受は如何となれば、五受はすべて不善と染とに通じています。何故ならば、「定んで己に属する」からですね。順も違も倶非の境も欲を生ずるということで、不善と染であるわけです。随煩悩の中で、不善と染に通じているのが、中随煩悩の二と大随煩悩の八なんですから、五受すべてと中・大の随煩悩は相応するのであることが明かにされるのです。

 後は、小随煩悩と五受との関係です。小随煩悩と五受は相応するのか、相応するのであれば、何れの小随煩悩と相応するのかが問われてきます。二つの説があります。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (11) 諸識倶起門

2016-01-26 22:44:07 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 諸門分別の第四は諸識倶起が開かれます。
 八識それぞれはどの随煩悩と倶起するのかが問われている科段になります。

 「此は唯染(ただぜん)のみなるが故に第八とは倶なるに非ず、第七識の中には唯大の八のみ有り、取捨(しゅしゃ)する差別(しゃべつ)は上の如く知る応し。第六識と倶には一切有る容し。小の十は麤猛(そみょう)なり、五識の中には無し、中と大と相いい通ぜり、五識にも有る容し。」(『論』第六・三十三右)
 
 (随煩悩は二十数えられるわけですが、これらの二十の随煩悩はただ染のみである為に第八阿頼耶識とは倶ではなく、相応しない。第七末那識の中にはただ大随煩悩の八のみが存在する。第八は第三巻に、第七は第五巻に説いてきたので、取捨の区別は上に説いてきたとおりに知るべきである。第六識とは倶に一切の随煩悩が存在する。小随煩悩の十は麤猛(あらあらしい)ものであるから五識の中には存在しない。中随煩悩と大随煩悩とは相が五識と通ずるので五識に存在する。)

 「述して曰く、忿等の小随煩悩は行相が麤にして且つ猛なり。五識は彼に望るに即ち細なるが故に倶ならず。中の二と大の八とは五識に有る容し。不善と染とに遍せつが故に。」(『述記』第六末・九十三左)

 前五識と中の二、大の八が相応するというのは、前五識は第六識の影響下に置かれていて、第六識の引く力によって、善にも、不善にも、有覆無記にもなります。いうなれば、前五識は受動態ですね。前五識も第六意識に覆われているといえましょう。
 
 不善になった前五識はただ不善である中随煩悩と相応するわけです。中随煩悩はすべての不善心に存在します。
 すべての染心(不善心と有覆無記心)に存在する大随煩悩は、前五識が染である場合に相応します。
 これが「中と大と相いい通ぜり、五識にも有る容し」と。中と大とは相が五識と通じるということですね。
 整理をしますと、
 第八阿頼耶識には
  随煩悩は相応しない。
 第七末那識には、
  大随煩悩の八のみが相応する。
 第六意識には、
  小・中・大のすべての随煩悩が相応する。
 前五識には、
  中随煩悩の二と、大随煩悩の八が相応する。

 このように見ていきますと、私のいのちの根源は純粋無垢な感情が流れているのですね。この流れを第七末那識という、限りない自我意識が覆っているのがわかります。私の知り得ないところで覆っているのですね。
 そして私たちは善であるとか悪であるとかに翻弄されて一喜一憂を繰り返しているわけでしょう。気が付いてみれば、「自分の人生何だったのか」、築き上げてきたものがあえなく崩壊し、残されたものは余命いくばくもないという状態では如何なものか。
 「我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。」(『御文』)
 死をもって「いのち」の尊さを教えてくださいました先人の声に耳を傾け、いのちの根源、魂の叫びを聞かなくてはならないと思います。
 

第三能変 随煩悩 諸門分別 (10) 自類相応門 (6) 会通 (3)

2016-01-24 14:12:38 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 『三十頌』第四頌
  「是無覆無記 触等亦如是 恒転如暴流 阿羅漢位捨」(是れ無覆無記なり。触等も亦、是の如し。恒に転ずること暴流の如し。阿羅漢の位に捨す。) 
 
 昨日の「唯識に自己を学ぶ会」の投稿の中で、第七末那識は第八阿頼耶識に支えられて動いている、と述べました。最近の話をさせていただいているテイストは、阿頼耶識と相応する心所はどのようなものなのかを学ばせていただいております。触・作意・受・想・思の五つの遍行とのみ相応すと答えられていますがこの五遍行を読むについて、太田久紀師は講義の中でこの五遍行をどのように読み解いていけばよいのか的確な指摘をしておられますので紹介いたします。

  「先回は五つの心所、五遍行のところを読んだわけです。阿頼耶識と言ってしまいますと、静止した形で考えやすいですが、そうではなくて動いている。その動いている姿を具体的に捉えていくのが五遍行の心所でした。阿頼耶識は触・作意・受・想・思の五つの心所ととに動く。私共の深い人格の底にあります阿頼耶識は五つの心所と相応している。環境に接触する、心が立ち上がってくる。それを受け止めていく、それをイメージ化して受け止めていく、そしてそれについて善き意志とか悪しき意志とかというような意志的な働きが出てくる。こういうふうな五つが阿頼耶識の動きである。具体的に阿頼耶識の動きを捉えますとこの五つになる、そういうところを見たわけです。
 この前にこういう話をうかがいました。何年か前に亡くなられましたが、北海道大学に中谷宇吉郎という雪のたいへん有名な先生がいらっしゃいました。そのお弟子さんの先生が、こういうことをおっしゃいました。自分も八十近くなってきた、もう生きすぎました。自分の生命力が弱まってきたということなのだろう。死ぬということが恐ろしくなくなってきた。感動したり、感激したりすることも弱くなってきた。若い坊さんが煩悩と戦う、煩悩を退治すると激しい修行をされるけど、あの時の坊さん達の戦う煩悩とはどうも生命力とは別なもの、何か生命力の上にあって動くもので、生命力が弱まってくるとこっちも自動的に弱まってくる、そういうようなものではないんでしょうかね。茶飲み話ですが、おもしろいなあ、と思ったんです。それは阿頼耶識、人格の一番根底にあるものが接触をする。心が立ち上がる、受け入れる、それに対して働きかけていく、こういう心所が阿頼耶識に動く。これは生命力ですね。まだ煩悩はない。阿頼耶識に煩悩は働きません。善い心も働かない、そのかわり悪い心も働かない。では何故五遍行があるのかと云いますと、阿頼耶識はけっして静的なものではなくして、激しく動いている一つの生命力だということを表しているのだと思います。対象とふれながら、いろいろなものにふれながら、それに反応を持ちながらしかも煩悩ではない。これは生命力といいますか、人間の一番底にあって私共の人格を支えていくようなものだと唯識は云ってるわけです。五遍行は煩悩でもなければ善い心所でもないんです。善悪を離れた、善悪以前のものなんです。ですからその先生がおっしゃる生命力というようなものをここへ持って来ますと、この五つで表される心所の形を生命と云っていいのかなと思います。
 そういう阿頼耶識が一番底にあって、ここでは煩悩も無いし、善い心もない。ただ動いている、激しく動いている、その上に私共は末那識を生み出し、第六識を生み出しというふうにして現実の心を動かすわけですが、末那識から上で煩悩が働いてくる。・・・・・・末那識以上で煩悩が動いていく。そうすると若い坊さんが戦っているのは末那識から上んものなんです。生命力ではなくて、生命力の上に動いていく、自分で作り出し動いていく煩悩というようなものと戦う。戦うのは煩悩から上なんです。その底には煩悩でもない、善でもない、無色透明ん、けっして止まった水の如くでなく、激しい水のように動い続けている生命力のようなものが阿頼耶識。その先生がおっしゃっていることを聞きながら、触・作意・受・想・思と、心所は生きている。阿頼耶識も生きている。煩悩は、生きている人間が、生きている生命の上に作り出していく、と考えていいのだなと、最近その先生の話をうかがいながら、ああおもしろいな、と思ったわけでります。」(太田久紀述『成唯識論抄講』講義より)

 五遍染説の対する護法の会通ですが、『述記』の釈を伺いますと、「対法論巻第六の中に、五のみ遍染であると説かれているのは、不信・懈怠・惛沈・掉挙・放逸の五法である。この五法はただ善法に違背するからである。惛沈は軽安を障礙し、掉挙は行捨を障礙する。余文は知るべし。」と言われていますが、不信は信に、懈怠は精進に、放逸は不放逸にと、それぞれ善の心所に違背するものとして挙げらていれます。つまり遍染の随煩悩として五つを挙げているわけではなく、善の心所に違背するものとして『対法論』には挙げられているのであるといいます。
では何故、八つの随煩悩の中で、残る三つの失念と散乱と不正知は説かれないのかという疑問がでてきます。失念は正念に違背するが三性に通ずるものであって、ただ純粋に違背するものの中には入れらていないのですね。散乱も不正知も同様の理由になります。
 以上で第三の自類相応門が閉じられます。次科段は第四の諸識倶起門に入ります。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (9) 自類相応門 (5) 会通 (2)

2016-01-22 21:08:00 | 第三能変 随煩悩の心所


  大乗仏教興起は、仏滅後六七百年頃から千二百年頃までが源流であり、中観派と唯識派の二つ宗派が並び立っていた時代でもあったわけです。唯識を大成された無著・世親菩薩の時代は、中観・唯識が両立していたのですね。無著菩薩は龍樹菩薩の『中論』に依って「有無の見を催破」し、阿頼耶識縁起を立て、世親菩薩は万法唯識・阿頼耶識縁起を大成されました。しかし仏滅後千二百年戒賢・智光の時代に至って中観・唯識が別個の宗派として互いに敵視するようになってくるわけです。
 時代は更に遡って、隋の時代、中国天台宗の智538-598という人によって五時八教という教相判釈が完成されました。遣唐使として天台山に上った最澄がこの五時教判を持ち帰り、比叡山延暦寺で我が国の天台宗を開創されるわけです。以後鎌倉時代に至って諸宗の開祖が新仏教を興起されるのですが、ここに、何故諸宗が開創されるのかという疑問が起こったのです。いうならば、釈尊のお言葉を編纂した阿含経典で十分ではないのかということなんです。
 でも南都六宗(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗)そして平安仏教(天台宗・真言宗)を経て鎌倉新仏教へ、貴族仏教から庶民の仏教へ大きく変遷していきます。自利利他円満を目指す大乗仏教の根幹から機の問題に正面から取り組まれたからでしょうん。このことは、正像末の三時史観とも関連するわけですが、八万四千の法門は、八万四千の機の問題であったということを今さらながら気づかせていただきました。問題は、自己に執着せざるを得ない自己とは何者という問いが八万四千の法門を生み出してきた背景になるのでしょ。
 名聞・利養・勝他という刃を振りかざして他を裁いてはいけない。また我田引水の法を刃にして機を裁いてはダメだということですね。逆に何故、法に背くのかを問わなくてはならない、どこまでも、どこまでも法に背いていく自己を明らかにしなくてはならないと思うわけです。
 人は人を傷つけあうことに翻弄するのは何故?恨みはまた新たな恨みを生み出してるのは何故?自分さえよければ、他はどうなってもいいと思うのは何故?際限なく何故?という問いが出てきます。
   
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 五遍染説を会通します。
 「有る処に但五のみを染に遍すと説けるは、惛と掉との等きいい唯善に違するを以ての故なり。」(『論』第六・三十三右)

 (有るところに「ただ五つの随煩悩のみが染心に遍く存在する」と説かれているのは、惛沈と掉挙など五つの随煩悩はただ善のみに違背するからである。)

 遍染説は、五遍染説、六遍染説、十遍染説、そして正義である八遍染説が説かれてきます。ブログでは2011年10月18日より随時説明をしております。
 今日は、五遍染説を復習します。
 
 五遍染師の説は、四つに分かれて説明されます。一は宗を標す(遍染の随煩悩は五つであるということを表す。) 二は証を引く。 三は染心の位には必ず五つの随煩悩があることを説明する。 四は問題点を会通する。
 「此れが中に、有義は、五の随煩悩いい遍じて一切の染心(ぜんしん)と相応す。」(『論』第四・三十二左)
 (第二師の中の有義は五の随煩悩が遍く一切の染心と相応する、と主張する。)
 第二師中の有義は第二師中の第一師の説となります。その主旨は五つの随煩悩が遍く一切の染心と相応すると主張することから、五遍染師とよばれます。
 染心(ぜんしん) - 染汚心ともいう。煩悩とともに働く心で不善と有覆無記の心をいう。
 「余触等」の義の「余」とは「故此余言顕随煩悩」と、随煩悩を指すのは四師の説では共通しているのですが、『頌』の文中の「余」とは具体的にどれを指すのかによって意見が相違します。
 第二師中の第一師の説(五遍染師・五遍染師説)は第七識と相応する随煩悩は五つであるという説になります。この五つの随煩悩とは、 小沈・掉挙・不信・懈怠・放逸を指すといいます。証を引く『論』の中で明らかにされます。
 証拠を引く。(『大乗阿毘達磨集論』巻第四・『雑集論』巻第六・大正31・723a)
 「集論に説くが如し。 小沈と掉挙と不信と懈怠と放逸とは一切の染汚品の中に於て、恒に共に相応す。」(『論』第四・三十二右)
 (『大乗阿毘達磨集論』巻第四に説かれている通りである。「惛沈と掉挙と不信と懈怠と放逸とは一切の染汚品の中に於て、恒に共に相応す」と。)
 五の随煩悩は遍く諸の染心と倶である。その証として『大乗阿毘達磨集論』巻第四及び『雑集論』巻第六には「惛沈と掉挙乃至恒に共に相応す」と本文と同様の文が出ている。この文を以て文献的証拠として五遍染師が主張する説は正論であるといいます。
 第二師の中の第一師の第七識と相応する心所は根本の四煩悩と遍行の五と別境の中の慧と随煩悩の五の十五の心所が相応することになります。
三は理を立てる。(五つの随煩悩が遍染であることを説明する。)
 「若し無堪任性(むかんにんしょう)の等きに離れては、染汚性と成るということ、是の処無きが故に。」(『論』第四・三十二右)
 無堪任性(惛沈)等を離れては第七識が染汚性となるということ、その理がない。) 
 無堪任性 - 身心が重く不活動であること。思うように身心が働かない状態をいう。不善の心所である惛沈のありよう。
五遍染師の主張は「無堪任性等を離れて第七識が染汚性となることはない」と述べていますが、この中「等」は等取、これら五つの随煩悩(惛沈・掉挙・不信・懈怠・放逸)を指すといいます。これら五つの随煩悩が働くことによって第七識は染汚性となるというのです。

 「述して曰く、下は理を立つるなり。是の『雑集論』の文は此れと同なり。謂く 惛沈等を離れては則ち染を成ぜず。惛沈は是れ無堪任なり。余の四を等取す。何を以てか知るとならば、『対法』第一に云く、「惛沈とは無堪任を性と為す。掉挙とは寂静ならざるを以て性と為す。不信とは不忍等を性と為す。懈怠とは策励(さくれい)せざらしむを以て性と為す。放逸は有漏を防げざるを以て性と為る故なり。若し無堪任に離れては染の性成ぜざるが故に。」(『述記』第五本・四十六左)
 (惛沈等を離れては第七識は染汚性とはならない。その理由は 惛沈は無堪任性だからである。余の四も同様である。何故ならば『対法論』第一に述べられている。「惛沈は身心が重く不活動であり、思うように身心が働かないので理や善を勤められない働きを持つ。また掉挙とは心を寂静にしないことを本質的な性とする。不信は「実有を信忍しない」・「有徳を信楽しない」・「有力を信じて希望しない」ことの三つを本質的な性とする。懈怠は善に向かって心を策励しないことを本質的な性とする。放逸は有漏を妨げないことを本質的な性とする。無堪任を離れて第七識が染汚性になることはなく、これら五つの随煩悩が働くことによって第七識は染汚性となるのである、と主張する。)
• 実有を信忍しない - 実際に存在する事物とその事物を支配する真理とを信じないこと。
• 有徳を信楽しない - 三宝の徳を信じない。
• 有力を信じて希望しない - 人間には善法を行う力があると信じない。 
 煩悩が生起する時には五つの染汚の随煩悩が存在することを説明する。
つまり、「煩悩の起こる時には、心既に染汚なり。故に染心の位には必ず彼の五有り。」(『論』第四・三十二右)                   
 (煩悩が起こる時には心はすでに染汚である。故に染心の時には必ず五つの随煩悩が存在するのである、と。)
 「述して曰く、煩悩の起こる位は、心を染汚と称するが故に、染心の位には定んで彼の五有り。何の所以有る。」(『述記』第五本・四十七右)
 その理由を述べる。
 「煩悩の若し起ることは必ず無堪任と囂動(ぎょうどう)と不信と懈怠と放逸とに由るが故に。」(『論』第四・三十二右)
 (何故ならば、煩悩が起こることは必ず無堪任(惛沈)と囂動(掉挙)と不信と懈怠と放逸とに由るからである。)

 以上が五遍染師の主張になります。従って五遍染師は八遍染説を否定するという立場です。
 ここで本科段では、八遍染説から、五遍染説を会通してくるのです。会通の内容は、「惛と掉との等きいい唯善に違するを以ての故なり。」という一文になります。 (つづく)

第三能変 随煩悩 諸門分別 (8) 自類相応門 (4) 会通 (1)

2016-01-19 22:27:46 | 第三能変 随煩悩の心所
  

  本科段は、護法正義である八遍染説の立場から、六遍染説及び五遍染説を会通します。
 先ず初めに六遍染説を会通します。ここは、六遍染師が五遍染師の説を会通する論法と同じようになります。
 
 六遍染師の説を述べ、五遍染師の説を会通するところに於いて、
 「第二説・第二師の説(六遍染説)は第七識と十九の心所が相応すると述べています。そしてこの中、不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知は遍染の随煩悩であることが明らかにされていますが、それでは何故、掉挙・惛沈の二の法は遍染の随煩悩ではないといえるのか、という問題がでてきます。
 「惛沈と掉挙とは、行相互に違えり、諸の染心に皆能く遍して起こるものには非ず。」(『論』第四・三十三左)
 (惛沈と掉挙とは行相が互いに相違しているからである。このために諸々の染心にすべてよく遍く起こるものではない。)
 惛沈と掉挙が遍染の随煩悩ではないことの所以を説明します。惛沈とは「惛昧沈重の義」といわれています。惛沈の行相は「内相なり下って起こす」と。内面に向かい、沈むように重い働きがある。それに対して、掉挙の行相は「外相なり、高く生ず」といわれ、外に対するものであり高く挙がる、と説明されます。
 「行相違せるを以て一を起こす時は一無し。諸の染心に皆能く遍く起こすものには非ず。掉挙は外相なり高く生ず。惛沈は内相なり下りて起こる。」(『述記』第五本・五十五左)
 このように、惛沈と掉挙は内と外、下と上というように行相が相反するわけです。「一を起こす時は一無し」といわれますように、惛沈が生起すれば掉挙は生起せず、掉挙が生起すれば 小沈は生起しないと。そのために「諸の染心に皆能く遍して起こるものには非ず。」といい、ともに遍染の随煩悩ではないというのである。
 「若し爾らば何が故に『対法』等に五のみ説いて遍と為る。」(『述記』)
 (若しそうであるならば、どうして『対法論』(『雑集論』巻第六)等に五のみ(掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸)染心に遍在すると説かれているのであろうか。)
 この問に対して六遍染師が答えます。六遍染師の主張は遍染の随煩悩は不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知の六つであるとする。若しこの六遍染師の主張が正しいのであれば、『対法論』等に五のみ染心に遍在すると説かれているのか、という問題です。
 五遍染師の論拠として『大乗阿毘達磨集論』巻第四・『雑集論』巻第六の記述が『論』に述べられています。(2011年10月18日の項を参考にしてください。)
 「集論に説くが如し。惛沈と掉挙と不信と懈怠と放逸とは一切の染汚品の中に於て、恒に共に相応す。」(『論』第四・三十二右)と。
 (『大乗阿毘達磨集論』巻第四に説かれている通りである。「惛沈と掉挙と不信と懈怠と放逸とは一切の染汚品の中に於て、恒に共に相応す」)
 五の随煩悩は遍く諸の染心と倶である。その証として『大乗阿毘達磨集論』巻第四及び『雑集論』巻第六には「惛沈と掉挙乃至恒に共に相応す」と本文と同様の文が出ている。
 ― 五遍染を説く文献を会通する ― 科段に於いて、
 「論に、五の法染心に遍すと説けることは、解麤細に通ずると、唯善の法に違せると、純の随煩悩なると、二性に通ずるとの故なり。」(『論』第四・三十四右)
 (『論』に「五つの法が染心に遍在する」と説かれていることは。行相が麤と細に通じることと、善の法に相違することと、純随煩悩であることと、二性(無記・不善)に通じることの義に依ってである。)
 『対法論』巻第六に四義をもって遍染の別義をあげて説明されています。今は『述記』の記述より説明しますと、
 「述して曰く、彼の論に遍と言うは四義に遍ずるを以てなり。      
 (1) 一には麤・細に通ず。忿等の十を簡ぶ。唯麤事なるが故に。     
 (2) 二には唯善法に違せり。即ち不信は信に翻じ懈怠は精進に翻じ惛沈は軽安に翻じ掉挙は捨に返じ放逸は不放逸に翻じ来るということを明して、即ち散乱の定の数より来るを簡ぶ。設い別に体有るにも、所障の定は三性に通ずるが故に唯善に違するのみならず。忘念・悪慧・邪欲勝解も彼の所翻に随って理いい亦然るべし。並に別境の数に翻じて来るが故に。
 (3) 三には純随煩悩とは根本の惑と及び不定の四とを簡ぶ。彼をも亦通じて随煩悩と名づくる故に。貪等は唯善の中の無貪等のみに違すれども、然も純の随に非ざるが故に今簡ぶなり。
 (4) 四には二性に通ずとは無慚と愧とを簡ぶ。
 斯の四義に由っての故に 『対法』 には五は染心に遍ずと説く。但染心には即ち皆有るには非ず。」(『述記』第五本・五十六右)
 というものです。四義の別義に由って「五つの法が染心に偏在する」と説かれているのであって、「染心には即ち皆有るには非ず」と。実際の遍染の随煩悩を挙げているものではないといいます。別義とは遍染の随煩悩の条件ですね。それに四つあるということです。
 一番目は「解(行相・見分の働き)が麤と細に通じること。これによって行相が麤のみである忿等の十が遍染から除かれる。細に通じないからである。
 二番目は「ただ善の法に相反すること」。随煩悩が善法を正反対にしたものでなければならない。不信―信、懈怠―精進、惛沈―軽安、掉挙―行捨、放逸―不放逸とそれぞれ善の心所を翻じたもの。しかしその対象が三性に通じて善法を翻じたものといえない心所がある。従って三性に通じるものを除くという条件がつきます。散乱は定を翻じたものではあるが、所障の定は三性に通じる為に散乱は除かれる。同様に忘念・悪慧(不正知)・邪欲・邪勝解も染汚性であるが除外される。
 翻ずるとは? - 正反対にしたもの。ひるがえすこと。
 三番目は「純随煩悩であること」。純随煩悩とは純然たる随煩悩であり、護法の正義である二十の随煩悩を指します。「唯二十の随煩悩のみと説けることは、謂く、煩悩に非ず、唯染なり、麤なるが故なり。」(『論』第六・三十二右))。二十の随煩悩の条件は一に根本煩悩ではないこと。二には、唯染であること。三には、行相が麤であること。詳しくは2010年3月1日の項を参照してください。「根本の惑と及び不定の四とを簡ぶ」
四番目は「二性に通じること」。無記と不善(悪)に通じることによって、無慚と無愧が除外される。(2010年10月15日の項を参照してください。)
 五遍染を説く文献は以上述べてきた通り、別義によって選び出されたものであって、実際に染心に遍在することを述べているものではなく、実際の六つを説く随煩悩と矛盾しないと会通しています。」

 以上をふまえて本科段を読み解きますと、
 「有る処に六のみ染心に遍すと説けるは、惛と掉との増せる時には倶起せざるが故なり。」(『論』第六・三十三右)
 (有るところに「六つの随煩悩のみが染心に遍く存在する」と説かれているのは、惛沈と掉挙の行相が共に増大する時には倶起しないと説かれているからである。)
 惛沈と掉挙の行相が増大する時は倶起しないが、しかし一が増大する時は一は劣であって、両者の体は倶起しているわけですから、実際は八遍染なのですね。 (つづく)

第三能変 随煩悩 諸門分別 (7) 自類相応門 (3) 大随煩悩について

2016-01-18 22:17:40 | 第三能変 随煩悩の心所
  

  大随煩悩について、
 「論に、大の八は諸の染心に遍すと説けり、展転して小と中とも皆倶起す容し。」(『論』第六・三十二右)
 (論に、「大随煩悩の八つはもろもろの染心に遍く存在する」と説かれている。つまり、大随煩悩は展転して小随煩悩とも中随煩悩ともすべての随煩悩と倶起するのである。)
 論にという、論書は『瑜伽論』巻第五十八を指しますが、詳しくは『述記』に釈されていますので、これより学びたいと思います。
 
 何故かといいますと、遍染の心所から「染心に遍す」という根拠を伺い知れるからに他なりません。詳細は、第二能変・心所相応門を参照にしてください。結論からいますと、護法は八遍染説を主張しています。これが正義になります。
 第七末那識と相応する心所を明らかにする中で、初に第七識と相応する心所を述べ、後に相応しない心所を述べる。そしてその理由を明らかにしています。
 「然も此の意と倶なる心所は十八なり。謂く、前の九法と、八の随煩悩と、並に別境の慧となり。」(『論』第四・三十六右)と。
 (以上によって、第七末那識と倶である心所は十八である。つまり、前の九法と八つの随煩悩と、別境の慧とである。)
 •前の九法 - 四煩悩と五遍行
 •八の随煩悩 - 大随煩悩(遍染の随惑)である掉挙・惛沈・不信・懈怠・散乱・放逸・失念・不正知である。
 •別境の慧

 『述記』(第六末・九十二右。大正43・462c)より、
 「論。中二一切至皆容倶起 述曰。無慚等中二。遍一切不善心倶。但不善心皆有故。對法第六・五十五・及五十八皆同於此相如前説。故知得與小・大並生。皆通不善故。義引五十八。説大八掉擧等遍諸染汚心。展轉自相望。及與小・中十二。皆容倶起。不相違故。前第四卷説有四師。第四師爲正。忘念・不正知是癡分故。散亂別有性故。餘者極成。故八遍也。此中但有後師正義。」
 (「述して曰く、無慚等の中の二は一切の不善心に遍じて倶なり。ただ不善心のみに皆有るが故に。対法の第六、五十五、及び五十八は、みな此の論に同なり。相は前に説けるが如し。故に知る。小と大と並び生ずることを得ることを。みな不善に通ずるが故に。(ここまでが前回の説明になります。)
 義を以て、五十八に、大の八の掉擧等は諸の染汚心に遍ぜりと説けるを引き、展轉して自ら相望するに、及び小と中との十二も皆倶起すべし。相違せざるが故に。前の第四巻に四師ありと説くに、第四師を正と為す。妄念、不正知はこれ癡の分なるが故に、散乱は別に性ある故に、余のものは極成せり。故に八は遍ぜりというなり。この中にただ後師の正義のみあり。」)

 ここで教証として取り上げられている『瑜伽論』巻第五十八の文言は、十遍染師の論拠をして引用されているものなのです。護法論師はこの中の邪欲と邪勝解は遍染の随煩悩ではないと論難しています。
 「過去・未来という他世の事を疑う時には、必ず現在に於て勝解の働きが存在する。他世について決定的に理解する(印持)勝解の働きが存在するから(邪)勝解及び(邪)欲は遍染の随煩悩であるという理解が生じる。しかし、護法は「他世は有りとせんか無しとせんかと疑える彼(他世)に於て、何の欲と勝解との相か有る。」と疑義を呈します。他世の有無を疑うということは疑の煩悩が生起していることであって、現在に於て勝解が生起しているわけではない。勝解は決定的に理解する心ですから、他世に対して有るか無いかと不確定な事柄に対しては勝解は働くことないのですから、従って(邪)欲と(邪)勝解は遍染の随煩悩ではない、と論難します。
 しかし、その他の八は遍染の随煩悩ですから、大随煩悩の八は遍染の随煩悩であると云い得るわけです。このことに由って遍染の随煩悩である大の八は、同じく染汚心に生起する小と中の随煩悩と相応すると言えるわけです。
 

 
 
 
 

第三能変 随煩悩 諸門分別 (6) 自類相応門 (2) 中随煩悩について

2016-01-17 20:54:38 | 第三能変 随煩悩の心所


 自類相応門 二は、中随煩悩について説明されます。
 「中の二は一切の不善心と倶なり、応(よろしき)に随って皆小と大と倶に起こることを得(う)。」(『論』第六・三十二右)
 (中随煩悩の二(無慚・無愧)はすべての不善心と倶である。この二つは時に応じて皆、小随煩悩と大随煩悩と倶に生起することがある。)
 倶は相応すること。中随煩悩の二つは、三性では唯不善のみの心所なんです。従って不善心が起こると、必ず無慚・無愧が起こっているということになります。自己正当性というのは全く不善なんですね。自己正当性には慚愧の心は生まれてこないのです。慚愧心が自他を開放する唯一無二の心所なのですが、自己正当性は慚愧心を覆い隠してきます。
 では自己正当性が意味を持つのはどういう時なのかという問いも生まれてきそうですが、そう簡単にはいかないと思います。無始以来自の内我によって積み重ねられてきた不善の種子は頑なです。ダイヤモンドの硬さに匹敵するでしょうね。「水よく石を砕く」、聞法の積み重ね(自己を問う歩み)が、やがて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」(「行巻」真聖p
198)世界を開いてくる。
 高僧和讃に、親鸞聖人は
 無碍光の利益より
  威徳広大の信をえて
  かならず煩悩のこおりとけ
  すなわち菩提のみずとなる

 罪障功徳の体となる
  こおりとみずのごとくにて
  こおりおおきにみずおおし
  さわりおおきに徳おおし
 とうたわれています。(真聖p493)
 
 具体的には自己正当性は成り立たたないことだと思います。でもね、自己正当性が成り立つ場所があるんですね。頭が下がった時、つまり「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」なんです。この時は、敵対する相手に向かって手が合わさる時でもあるんですね。「あなたによって、私の傲慢さが知らされました。おかげさまで自分に向き合うことが出来ました。ありがとうございます。」という回心が起こった時なんです。これは自分の中からは出てきません。真実の世界よりいただいたものなんですね。第一義諦真実功徳相 という、我空・法空より賜ったもの。『三十頌』は第二十一頌に「依他起の自性は、分別の縁に生ぜらる。円成実は彼が於に、常に前のを遠離せる性なり。」と迷いと覚りの不一不異の関係を教えています。
 現代語訳は多川俊映師の『唯識とは何か』より引用させていただきます。
 「私たちの日常は、さきほどみたように、遍計所執の世界ですが、つぎに、一般的にみて世界というものはどのようにして成り立っているのかを確認しましよう。むろん、勝手な計らいや執着はいけませんが、そういう世界も、ある絶対条件の下、単独に在るわけではありません。やはり、さまざまな原因が一定条件のした、一時的に和合して成り立っています。つまり、元来は、縁起(さまざまな縁によって生起する)の性質のものです。唯識ではそれを、依他起(他に依って起こるもの)というのですが、どのような世界であれ、この依他起ということが在り方の基本です。
 さて問題は、私たちが真に求めるべき世界です。唯識ではこれを、円満に完成された真実の世界という意味で、円成実(えんじょうじつ)といいますが、これも、依他起の性質がベースになります。ただし、その上によからぬ思い計らいや執着を一切加味しない、というよりむしろ、つねにそうした遍計所執の無縄自縛を隔絶した世界――。それが円成実の世界です。」
 「此(円成実)を見ずして彼(依他起)をみるものには非ず。」と。そして、二十二頌から二十五頌において唯識実性が明らかにされてきます。
 
 横道にずれてしまいましたが、法を聞き、法に触れることが如何に大事なことであるのか、法に触れることに於いて、心の中の勝義の種子(無漏種子)が目覚め発動され、発動した無漏種の現行が智慧の光となって、心の闇を引き出してくる。傲慢自尊の我が白日の下に晒され、お陰様で広大無辺の世界に触れ得ることができましたという恩徳をいただくことができうのでしょう。
 
 中随煩悩の二つはただ不善心と相応するということですから、小随煩悩の中のただ不善である小随煩悩と、ただ不善である大随煩悩と倶に働くのです。従って、上二界に存在する有覆無記のものとは相応しないということなのです。つまり、無慚・無愧は三界でいえば欲界にのみ存在する心所ですから、欲界に存在する不善心すべてと相応して働くわけです。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (5) 自類相応門 (1) 小随煩悩について

2016-01-14 22:16:30 | 第三能変 随煩悩の心所


三は、自類相応門になります。
 自類とは、同じ種類という意味、本科段では随煩悩同士という意味です。相応とは倶起する、同時に働くという意味んあり、自類相応を論ずるのは、同じ種類の随煩悩同士が相応するのか否かを論じる部門になります。つまり、随煩悩同士が同時に倶起するのか、倶起しないのかについて論じられます。
 三つに分けられて説明されます。(1)小随煩悩について (2)中随煩悩について (3)大随煩悩について、説明されます。
 最初に、小・中・大について説明しておきます。小は表面に現れてくるような煩悩をいいます。小さいということで間違いはないのですが、小は断じ易いという意味なのです。「行相が麤であり、猛々しい(行相麤猛、ぎょうそうそみょう)」のですね。ですからよくわかる随煩悩なのです。それに対して、中・大になるにつれ細・微細に働く随煩悩になり、心の奥底に横たわって見えてこないのです。非常に断じにくい煩悩になります。
 初は、小随煩悩について説かれます。
 「此の二十の中に小の十は展転(ちんでん)して定めて倶起せず、互い相違せるが故に、行相麤猛にして各々主たるが故に。」(『論』第六・三十二左) 
 (この二十の随煩悩の中の小随煩悩の十は展転(互いに関係し合う)して絶対に倶起しない。何故なら、小随煩悩の十は互いに相違するからである。その理由は、行相が麤であり猛々しく各々主として働いているからである。)
行相は認識する働きのことで、見分(行相見分)になります。また能縁の働きです。自からの中から起こってくる動きということになりますね。
 倶起しないのは何故かという問いに「体性相違するが故に」(『述記』)と答えています。また「何が故に爾るとならば」(なぜ体性が相違するのかといえば)、「行相麤猛(その働きはあらあらしく、猛々しい)にして、各々が主となって働くからである。」と答えます。
 小随煩悩の十は、その一々に主となって働くから並び生ずることはないといいます。互いに主でありますから、相容れないのですね。
 教証として、『瑜伽論』巻第五十五及び五十八に「忿等の十法は互に倶ならずと云えるが故に」と説かれていることを挙げています。
 
 第三門随煩悩の相応を示す。(『瑜伽論』巻第五十五の記述)
 「復次に、随煩悩は云何が展転して相応するや。まさに知るべし、無慚、無愧は一切の不善と相応し、不信、懈怠、放逸、妄念、散乱、悪慧は一切の染汚心と相応し、睡眠、悪昨は一切の善、不善、無記と相応すと。所余はまさに知るべし互いに相応せずと。
 或は、「・・・十随煩悩は各別の不善心に起る。」(五十八)と。
 以上の理由を以て、小随煩悩は互いに並び立ち倶起することがないといいます。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (4) 倶生分別門 

2016-01-13 21:59:16 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 随煩悩の諸門分別、その二は倶生分別門です。
 倶生は倶生起、分別は分別起。随煩悩が倶生起のものか、分別起のものかが論じられます。随煩悩は煩悩に随って生起してきますので、煩悩の項に於いても、十煩悩諸門分別が説かれています。(2014年6月17日以降を参照してください。)
 第一門が分別倶生門で、以降十三門において煩悩が倶生起のものか、分別起のものかが多岐にわたって説明されています。少し振りかえりますと、
 「一に、分別倶生門、初めに、十煩悩が倶生起の煩悩か、分別起の煩悩かについて説かれ、この中がさらに二つに分けられ説明されます。その一は、貪・瞋・癡・慢・薩伽耶見・辺執見の六つについて説明され、その二は、疑・邪見・見取見・戒禁取見の四つについて説明されています。
 十煩悩が倶生起の煩悩なのか、分別起の煩悩なのかについては、
 「是の如き総と別との十煩悩の中に、六は倶生及び分別起に通ず。任運にも、思察するときにも倶に生ずることを得るが故に。」(『論』第六・十五左)
このような総と別との十煩悩の中で、六つは倶生起及び分別起の両方に通ずるのである。何故ならば、任運の時も思察(シサツ・思惟観察)する時にも倶に生じるからである。
 六つは、貪・瞋・癡・慢・薩伽耶見・辺執見の六つです。これらの煩悩は分別起にも通じるということになります。
 倶生は「身と倶なり」ですね。いのちとともにあるもの、という意味になります。生命の誕生と共に、この六つの煩悩は宿っている、これは任運起だということですね。人人唯識ですからですね、人それぞれが担っている煩悩が有る、それらと倶に私は身と(六つの)煩悩と倶に生れてきたんだということでしょうね。深い問題を抱えて生まれてきているんですね。
 思察は分別起になります。思惟観察という、後天的な教えに依る煩悩ですね。習という、育っていく過程で身に付けていくのが分別起の煩悩です。
 倶生起は、身と倶なり。分別起は、身と倶にしもあらず、と云われています。貪・瞋・痴・慢は内に深く潜行し身と倶である。それに対し、同じ身と倶である身見(我見)は外に向かって攻撃するのです。それは内を守るためですね。知らず知らずの中に法爾自然にですね、身を守る為に我見と辺執見を生起させるわけです。我は一つのものを分断し、我中心の考え方に終始します。我が主で、他は従と云う関係ですね。これが倶生起の煩悩の特徴になります。自他を分断するのが生れ持っていると説かれているのです。これが間違いの元凶ですね。何故、自他を分断するのかを知れということなのでしょう。このような構造を知らなければ知らないまま過ぎ去っていくのでしょう。これが空過という内実ではないでしょうか。教えられいる教えに遇うことを通してしか知り得ないことなのですね。真実の教に遇うことを通して、自他平等の大地に触れていく。自他平等の世界を壊していたのは、実は他ではなく、自分であった、と。「礙は自にあり」という目覚めを通して、はからずも大きな地平が開かれていたということなのであろう。開かれてみれば、「道すでにあり」。救済の道理はすでに成就されていたとう感動と驚きが身を驚愕させるのでしょう。救済の構造は、救済されることのない目覚めを媒介として、六煩悩は身と倶なり、という深い指摘であろうと思います。
 貪・瞋・痴・慢は内なるコンプレックスなんでしょうね。ひた隠しにしているのですね。我見(身見)と辺執見で身を守ろうと働きかけます。見は劣等感の現われであり、慢は優越感の現われである。 
 いえば、倶生の身と倶である煩悩の要求が、煩悩を成り立たせている大地なのかもしれません。煩悩の大地からの要求が、身と倶である煩悩を知れ、身を煩わし、心を悩ませるものは他にあるのではない、身と倶である。しかし現実には身を煩わし、心を悩ませているではないか。このことこそ唯一無二の「人身の至奥より出づる至誠の要求」と云われていることではないのか、と思います。無始より来た身と倶にして生起してきた煩悩が善巧方便として聞思道に歩ませ、やがて智慧に転依するのではないでしょうか。
 その二は、六煩悩の他の四つの煩悩である、疑・邪見・見取見・戒禁取見は唯だ分別起であることを明らかにしています。
 「疑と後の三の見とは唯だ分別起のみなり。要ず悪友(アクウ)と或は邪教の力と自ら審に思察するとに由って方に生ずることを得るが故に。」(『論』第六・十九左)
 見道所断の分別起の煩悩について説かれます。鈍使で有る疑と、利使である邪見・見取見・戒禁取見は、ただ分別起のもののみしかない。(理由)何故ならば、かならず、悪友と或は邪教の力と自らが審らかに思察することに由って生ずるものであるからである。
 生まれ持った倶生起の煩悩はいたしかたのないこととして、分別起は後天的な教えに由って生起してくる煩悩ですから、私は他に対して煩悩を押しつけているのではないのか、と思うんですね。勿論、煩悩を押しつけられてきた背景はあるのでしょう。そのことに気づきを得たならば正見・正思惟をもって事に当れるとは思いますが、「迷いの世界に輪廻し続けるのは、本願を疑いはからうからである。」という疑をもって、邪見・見取見・戒禁取見を教えているのではないだろうかと思うんです。已生の出来事は自らの責任をもって対処しなけばなりませんが、未生に対しては「悪友は自である」という自覚をもって、悪友は自であるのは何故なのかを問い糺していく姿勢が必要であると思われます。ここが聞法の大切な所であると思うのです。この視点が欠如しますと、所謂、聞不具足になるのではないでしょうか。聞不具足には、名聞・利養・勝他という自尊損他の計分別が背景として働いているのですね。
 教育をする、躾をすることは正しいことと信じて事にあたりますと、そこに落とし穴があるのでしょう。そこがわからないと、信不具足になりますね。聞不具足・信不具足から生み出されてくる世界は闘争堅固でしかないと、経(『涅槃経』)には説かれています。
 「また二種あり。一つには信正、二つには信邪なり。因果あり、仏・法・僧ありと言わん、これを信正と名づく。因果なく、三宝の性、異なりと言いて、もろもろの邪語富闌那等を信ずる、これを信邪と名づく。この人、仏・法・僧宝を信ずといえども、三宝の同一性相を信ぜず。因果を信ずといえども得者を信ぜず。このゆえに名づけて「信不具足」とす。」(『教行信証』化身土巻。真聖p352)
(「また信には二種がある。一つには、正しい教えを真じるのであり、二つには、よこしまな考えを信じるのである。因果の道理があり、仏・法・僧の三宝があると信じるのを、正しい教えを信じるという。
 因果の道理がなく、仏・法・僧の三宝の本質が一体ではなくそえぞれ別のものであるといって、さまざまなよこしまな考え、たとえば富蘭那などの言葉を信じるのを、よこしまな考えを信じるという。仏・法・僧の三宝があると信じても、三宝の本質が一体であるということを信じておらず、また因果の道理を信じても、さとりを得た人がいることを信じていないのは、完全な信ではない。このひと人は、不完全な信しか得ていないのである。(中略)」)(意訳は本願寺出版の現代語訳を用いました。p518)
 正しい信でないと、いくら善事(三宝に依らない)を行じても、「悪果を獲得せん」と説かれています。悪果とは、「邪見を増長し 鉦慢を生ずるが故に。・・・涅槃道を迷失するなり。・・・煩悩を雑するは、この人還りて悪果報を受く。」と。
 「自らを問う」姿勢がないとですね、知らず知らずの中に、教育という現場で、躾という現場で煩悩で持って煩悩を洗脳しつづけていくのでしょう。「知らず知らずの中に」ということが、実は本当に問題にしなければならない事柄だと思いますね。「恒に審らかに思量するをもって性となす」という、恒審思量を本質的な用とする末那識の存在に気づきを得ることが、大切な、そして最も基本的な「生きること」の視点になるのではないかと思います。」

 「二十ながら皆倶生と分別とに通ず、二煩悩の勢力(せいりき)に随って起るが故に。」(『論』第六・三十二左)
 (二十の随煩悩には、すべてに倶生起のものと、分別起のものがある。何故なら、この二十の随煩悩は、倶生起の煩悩と分別起の煩悩の二つの煩悩の勢力に随って生起するからである。)
 第二は倶生分別門が説かれます。これは護法の正義に由って説かれているわけです。詳しくは下の断門(第七根本相応門及び第十一三断分別門)の中で説かれます。
 本科段では、簡単に二十の随煩悩には、倶生起のものと、分別起のものがあると説かれていることになります。