唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (29)

2017-02-27 20:56:38 | 阿頼耶識の存在論証
 

 「勝者のみに開示す」は、後(『論』第三・十九右)で説明されます。簡単に云いますと、諸の菩薩衆です。見道通達位已上の菩薩が勝者であると、仏陀は勝者にだけに教えるのだと、まあ、こういうことです。
 「由摂蔵諸法一切種子識」(諸法を摂蔵する一切種子識に由る)
 このことを以て、阿頼耶識と云うのである。このことを解釈するのに三義あるといっています。
(1) 阿頼耶識の三義の中の能蔵を以て阿頼耶というのだと。
(2) 阿頼耶と云う限りは、三義が備わっているからである。能蔵・所蔵・執蔵の義を具えている。
 「能摂蔵ノウショウゾウ)を挙げて所蔵(ショゾウ)の性を顕す。」(種子を摂めとることを通して、種子を植え付ける所蔵の性格を明らかにしている。)
 理由は、
「雑染の種子と互いに縁と為るが故に。」(能・所の交互性に由る。所は七転識で有漏の種子を能である阿頼耶識に熏習する。熏習された阿頼耶識は、雑染の種子を宿すわけです。これが阿頼耶識の純粋性ですね。)
 此れに由って、
 「此の持する能に由って、内に執して我と為すは則ち執蔵の義なり。故に三蔵を具す。」
 阿頼耶識の純粋性が七転識によって執着されることになるのですね。その因が種子にあるということなのです。
 つまり、執蔵される種子によって現行識が語られているのです。
 次科段においても摂蔵の義が語られます。
 「此の本識諸の種子を具せるに由って、故に能く諸の雑染法を摂蔵すと云う。」(『論』第三・十九右)
 この本識(第八識)は多くの種子を摂め備えている。だからよくあらゆる雑染法(有為有漏法)を摂蔵していると云えるんですね。
 自分の思いで暮らす、日常生活を送るのが雑染なのです。思いです。思いは我です。我は我所を作ります。そして我所に執着します。それが煩悩なのですね。漏れるものが有るというわけです。たとえ清浄法(無漏)に出遇っても、自分の秤にかけて分別を起しますと、全ては汚れます。
 三性で善悪無記と表されますが、善悪は分別されたもの、分別されたものは雑染です。無記は無分別なんですね。
 親鸞聖人は、善導大師の『散善義』を引用なさって、我愛のもっている雑染性を我が身に引き当てて語られますね。
 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚仮を懐きて、貪瞋邪偽奸詐百端にして悪性侵めがたし、事蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心起行を作すは、たとい身心を苦励して日夜十二時、急に走め急に作すこと、頭燃を炙うがごとくするは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲うは、これ必ず不可なり。」と。(『信巻』)
 内に虚仮を懐いているのは、愛心から出るのだと、『浄土文類聚鈔』では押さえておられます。
愛心常に起こりてよく善心を汚す、瞋嫌の心よく法財を焼く。身心を苦励して、日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を炙うがごとくすれども、すべて雑毒の善と名づく、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。この雑毒の善をもってかの浄土に回向する、これ必ず不可なり。」
 
 「悪性さらにやめがたし
  こころは蛇蝎のごとくなり
  修善も雑毒なるゆえに
  虚仮の行とぞなづけたる」(『愚禿悲歎述懐和讃』)
 
 卑下の心からは出てきませんね。無我心です。無我の心が鏡となって己の末那識の正体を見破られたお言葉だと思います。
 説明ですが、正体を見破ると転ずるのです。差別心が平等心にですね転ずるわけです。つまり、差別心は元よりは無いといっていいのではと思います。末那識に依って平等心を覆い隠してしまいますと差別の心しか起こってこないのですね。八地以上の菩薩以外は差別の心をもって日常の生活を送っていると断言してもいいんでしょう。


阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (28)

2017-02-26 21:46:38 | 阿頼耶識の存在論証
  

 先日は事前学習として、講義の概略を投稿をしましたが、実際は『論』の二行だけを読むことが出来ませんでした。遅々とした歩みではあります。ブログの方は少し先行いたします。今日からは第二教証に入ります。
 ここも復習ではないですが、今までの学びの確認を要求されます。
 「今、此の頌の中の諸所説の義は第八識に離れては皆な有ること得ずといわんとぞ」(『論』第三・十八左) 
 『大乗阿毘達磨経』に説かれている四句の頌は、一切法は第八識に離れてはないのだということを表しているのです。
 そして、また次のようにも説かれていることを挙げてきます。
 「即ち彼の経の中に復た是の説を作さく、」(『論』第三・十八左)
 「彼経」は『大乗阿毘達磨経』です。復た次のように説かれている、と。
 「諸法を摂蔵(ショウゾウ)する一切種子識に由るが故に阿頼耶と名く。勝者のみに我開示すと。」(『論』第三十八左)
 関係性です。つながりのすべてを阿頼耶識は摂め取っている。それが一切種子識と呼ばれている。三義の中では能蔵の義、蔵とも云われますが、経験のすべてを格納し保持ている貯蔵庫になりましょうね。それを阿頼耶というのだと。
 ここまでは何とか納得がいくのですが、次の文言にとまどいます。
 「勝者のみに我開示すと」
 思い起こされるのは、『解深密経』巻第一の結びに示されます一文です。
 「阿陀那識は甚だ深細なり、我凡と愚とに於ては開演せず。一切の種子は暴流の如し。恐らくは彼分別し執して我と為せんことを」
 第八識が諸法の根本であることが理解できないのですね。全ては意識によって何とかなると思っていますからね。何ともならんのですが、意識は第七末那識を倶有依としていますから、ただ不善の因を依り所として意識は出てきますので、どうしても自己中心的にならざるを得ないのです。
 つまり、八地以上の菩薩には開示するけれども、それ以前の行者には開示しない。なぜならば、我と執を起こすからである。それほど我の問題は深いということなのですね。
 本科段は『樞要』に三義をもって説明されていますが、次回にします。

本日の講義内容をまとめてみました。(事前学習)

2017-02-24 10:31:21 | 阿頼耶識の存在論証
  

 本日の講義内容をまとめてみました。(聞成坊。会所は八尾別院書院。午後二時より)
 
 阿頼耶識の存在論証の第一教証を学んでいます。前回からの復習になります。
「謂く能く諸の種子を執持するが故に。現行法のために所依となるが故に。即ち彼を変為し応び彼が為に依たるを以て。彼を変為すれば、謂く器及び有根身とを変為す。彼が為に依たりと云うは、謂く転識がために所依止と作る。能く五色根を執受するを以ての故に、眼等の五識之に依って転ず。又末那がために依止たるが故に。第六意識之に依って転ず。末那と意識とは転識に摂めたるがゆえに。眼等の識の如く倶有根に依る。第八理いい応に是識性なるが故に亦第七を以て倶有依をなすべし。」(『論』第三・十七右)
「依」を解釈する段になります。総・別に分けられて説明されます。
つまりですね、第八識は諸々の種子を持続して一切の現行の為に所依(依り所)となる。もし、種子を熏ずる所がなかったなら、現行は何を依り所として起こってくるのか、或は過去のことを思い出すのは、どこからでてくるのであろうか、という問いが生れます。
 第八識は五根等を変為し(第八識は五根等に変化させる働きを持つ)また、七識(眼・耳・鼻・舌・身・意・末那識の七転識)が現行するための依り所となる。
(別釈)
第八識を変為するというのは、第八識は能変の識体です。能変の識体が所変の相・見分を変為するわけです。第八識の具体性になります。では第八識は何を所縁とするのかといいますと、種子と有根身の二の執受と器世間なのです。これを見分が認識をしているのです。身と処の問題ですが、身と処以外に認識の起る所は無いといっているのですね。
総結として、
「是を此の識(第八識)が因縁と為る用(ユウ・働き)を云うのである、と。全ては第八識の中に所蔵された種子と、種子を依り所とする因縁によって現行が生ずるのである。
 つまりですね、所依と所縁とを明らかにしているのです。
 下の二句について考えたいと思います。
「此れに由って諸趣と、及び涅槃の証得(ショウトク)と有りと」(「由此有者由有此識」。『論』第三・十七右)
(此の識有るに由って云うなり)を釈していきます。此の識は第八識です。「有と云うは」は「有諸趣」を指します。「有諸趣」とは何か?です。
「此の識有に由ってと云はむとぞ。」
「諸趣有と云うは、善・悪趣有と云はんとぞ」(『論』第三・十七右)
 趣は趣向、趣くことで、生き物の生存のあり方を云いますが、これを能趣と所趣と趣資具の三つに分けて考えています。(後に説明されます。)
 過去の業果としての生存に五趣有りと(或は六趣)云うわけです。地獄・餓鬼・畜生の在りかたを三悪趣と。人・天は善趣と云われておりますから、過去の業が人・天の境涯を持つような業を積み重ねてきたのでしょう。しかし、この境涯は生死流転を漂っていますから、人としての身として、五道を経めぐりする生存になりましょうね。こういう所に「問い」が与えられているのだと思います。流転と還滅の法は一息一息の中に動いているといってよいのでしょう。
 この流転と還滅の法の依り所が第八識である、と。
 縁は無記性。
 「有諸趣者 有善悪趣」は有漏種子の現行なのですね。生まれた、生をうけたということは、有漏種子を引きずって生まれたということなのでしょう。でも、この有漏種子が転依の機縁となるのですね。無漏種子は仏果ですから、流転はしません。阿頼耶識の所縁は流転しないのです。「いつでもここに帰れ」というシグナルを送っているのですね。帰ってみれば、依他起性です。縁起ですね。依他起性において円成実性・大円鏡智に触れて、我執の愚かさに気づきを得ることができるのでしょうね。「愚かさ」が大事なのですね。天狗の鼻はへし折られないと、天狗であったことが分からないのです。私たちもおなじですね。天狗です。何も鞍馬山においでになるのと違いますよ。 
 阿頼耶識の所縁が「覚」のキーワードになるように思いますが、どうでしょうか。
 「惑と業と生と皆是れ流転なりと雖も、而も趣は是れ果として勝るが故偏に説けり。」(『論』第三・十七左)
 「惑と業と生との有漏の集・苦は皆是れ流転なり。皆生死の法なりと雖も、然も五趣是れ生死の苦果にして勝れたるが故に偏に説けり。果は正しく生死なり、是れ所順の法なり。業と惑とは能く生死の果に順ぜる性なり。故に偏に果を挙ぐ。」(『述記』第四本・八左)
 本科段は問をうけて答えています。
 有漏の苦・集はすべて流転というべきだろう。頌(『大乗阿毘達磨経』)の中では何故諸趣のみを流転の法と説いているのか、ですね。
 五趣である境涯が、流転なのだということなんですね。
 「惑」は無常である自分が受けとれないということ。受け取れませんね。僕は僕自身は有ると思っています。いくら無我だと云われても、無我になりきれません。無我、言葉を変えれば「空」ですね。自分は縁起的存在ということでしょう。
 動きは「空」だと思うんです。そこに解釈をしている自分が居る、後からですね、そこで縛られているのではないのかなと。「空」という仮説されたものは、一瞬の動きの中で表現されているのではないですか。僕は、意識を介在して自分は動いているように思っているんですが、そうではありませんね。無意識の中でデーター化されたシグナルが意識を動かしているのではないですか。
 現在している(現行)のは果ですね。因が種子です。因である種子が五趣という果を引生してくる、引き起こしてくる。
 五趣という生き様は、人として地獄の生き方、餓鬼の生き方、畜生の生き方をしている、どこでかというと、「今、現に」ですね。そういう揺さぶりが種子から生まれてきている。揺さぶりを警覚(作意の心所)と表現したのはないでしょうか。だから、今どのような種子を心に植え付けていくのかが問題とされるのでしょう。
 すべては第八識の中に蓄えられた種子が生起の因となることを論証しているわけです。
 『論』に説かれます「趣」の意味がつづきます。
 「或は、諸趣と云う言は能・所趣に通ず。(『論』第三・十七左)
       能趣(趣かせるもの) = 業と惑と中有
 諸趣 〈
       所趣(趣く所) =五趣の苦果

 中有は次の生を牽いてきます(生有)から因になるわけです。能趣は因、所趣は果です。つまり惑・業を因として、果である苦を牽いてくるわけです。
 この具体性が次の科段における「資具」になります。
 「諸趣の資具も亦趣と云う名を得。」(『論』第三・十七左)
       器世間
 資具 {       } 趣
       惑と業

 (第一義) 器世間は五趣の赴く所です。器世間において五趣は動いているわけです。これは所趣になります。
 (第二義) 惑と業を携えてという意味になりましょうか。
 趣は、ただ果を云うのではなく、果を生み出す因の能(業・惑)と器世間(苦果)を包み込んでいる、ですから唯だ所趣だけを云うのではないということになります。
 総結
 「諸の惑と業と生(苦)とは皆此の識(第八識)に依る。是れ流転がために依持とる用なり。」(『論』第三十七左)
 流転を生み出してくる働きは第八識に依るのであると結んでいます。
 第八識があることに由って煩悩・雑染を生じて苦界を現成してくる、その依持が第八識であることを明らかにしている。
 ここで問いが出されます。
 「還・滅等の為に依持たる用とは、その義如何。」(『述記』第四本・十右)
  「及涅槃証得と云うは、此の識有るに由るが故に涅槃の証得有りと云うなり。」(『論』第三・十七左)
 ここは、『頌」の下の一句「及涅槃証得」の説明になります。
 「及涅槃証得」は「由有此識故」なのです。此の識は第八識です。この第八識が有ることに由って、流転することが出来る、迷えることが出来るのです。おかしな言い方ですね。流転はしないほうがいい、迷いは無い方がいいですよね。しかし、そうは仰らないで、「~することが出来る」と言われます。
 人間は、意識していなくても、「僕は」「私は」と主語をつけて話します。つまり二元化の下で生活をしているのです。僕という意識下において迷いが成り立っているのですね。それは、迷いを翻す縁になる、僕を依り所にして、惑・業・苦の生死流転の輪廻を縁として解脱を求める存在になり得るわけでしょう。これが人間本来の本能ではありませんか。
 古代印度には、人生の目的としてチャトル・ヴアルガが説かれていました。実利(アルタ)・愛欲(カーマ)・法(ダルマ)・解脱(モークシャ)の充足を目的としていたのです。人生を四つのカテゴリーに分けて、人生の意味を解脱に求めたのでしょう。このことは、迷いから解脱へ、解脱から迷いへという流れの中で人間としての生き方を考えていたと云うことに他ならないと思います。そこに、私を依り所とし、流転していることが縁となっていたことでしょう。そして、この私が第八識であると唯識は言い当ててきたのです。私=心(チッタ)の表現だと。
 流転の法は、触・作意・受・想・思の五遍行に由って具体化されるわけです。ここが還滅の依り所となるのですね。それ以外に依り所はありません。
 流転が還滅の依り所となり、還滅が流転を明らかにしてくるのです。往相・還相という二廻向の相は、一つの相の二面性であることがはっきりするわけです。第八識の因が一切種子識と云われるのはこういう意味が有るのでしょうね。全ては種子から生み出されてくることだと、ね。
 「謂く、此の第八識有るに由るが故に、執持して一切還滅の法に順ぜる。修行者をして涅槃を証得せしむるを以て。」(『論』第三・十七左)
 ここでね、先には第八識は流転の法に順ぜるといってですね、ここでは還滅の法に順ぜるといっているのです。此れはどのように理解したらいいのでしょうか。
 素朴に考えますと、私は、迷いのままでは終わりたくない、苦しみのままでは終わりたくない、なんでこんな人生を送らなければならないのか、いくら自業自得とはいえ、やっぱり、このままでは不完全燃焼だよ、という思いがあります。
 ここが本当に大切な機縁だと思うんですね。もうどうにもならん、行き場のないやるせなさの中で、その行き場のないやるせなさが、覚りの道に出遇わせてくれるのです。理屈ではありません。迷いが還滅の依り所となるのですね。これが第八識の織りなす世界:なのです。
 僕はね、世間様から言えば落ちこぼれです。迷惑一杯かけて、生きるに値しない者ですわ。いうなれば、破壊者です。ほんまですよ、知っておられる方は「そうや、のうのうとよく生きておれるな」と言われても仕方ないです。
 でも、そんな人生でも、見直すことが出来る時が与えられていたということなんです。救われました。取り返しはききませんよ。過去は戻っては来ませんからね。でもね、声を大に言えます。「今までのことをご縁にして、生きること、命が与えられていることを考えていきましょう。」と。そこでね、断罪されてもいいではありませんか。
             迷い
 第八識(種子) 〈
             還滅
 ここでですね、第八識の所縁は、種子と有根身と処であると云えるわけです。納得です。いうなれば、求めざる得ない存在ということでしょうね。
 第八識と七転識の関係ですが、「由有此識故」(此の識有るに由るが故に)が依り所となっているわけですね。
 『大乗阿毘達磨経』の頌を引用して、第八識の存在論証としているのですが、その時にですね、
 「無始の時よりこのかた界たり、一切の法に於て等しく依たり」(始めと云う時を特定できない、其の時から阿頼耶識の中に蓄えられた種子が依り所となxちうてすべてのものが縁に依って生起してきたのですね。種子が因です。因が縁にふれて、すべての経験の依り所となる、すべてのものは、さまざまな縁に依って現行してくるのですね。種子が因・現行が果になります。しかし、阿頼耶識の作用は「暴流の如し」ですから、果が因となって、阿頼耶識の中に新たな種子を蓄えていくことになります。これが有漏の迷いという循環の方程式になっているんですね。
 つまり第八識が要であると、第六意識ではないんだということなのです。ですから、第八識に二の位があると云われていたんですね。無漏の第八識と有漏の第八識です。浄心と未浄心の問題です。迷いはただ単に無意味に迷っているのではないのですね。私たちは、迷いに意味が見出せないものですから、ストレスを溜めこんでしまうわけです。これが有漏の正体ですね。ここには、大円鏡智という智慧が働いているんです。与えられているのは、自らの目覚めを待っているのでしょう。
 中学時代の恩師がよく言われました。「水辺には連れていくけど、水を飲むのは君たちだ」と。理屈やと思っていたのですが、飲むのか、飲まないのかは自己判断にゆだねられているのですね。ここに介在しているのが「縁」なのですね。「よき人との出遇い」です。善き人との出遇が増上縁になります。そして、道が見えてくるのですね。
 『論』は、さらに論証を進めてまいります。
 第二解
 「又此の頌の中の初句は、此の識の自性無始より恒有(ゴウウ)なるを顕示し、後の三は雑染(ゾウゼン)と清浄との二の法の為に総・別に所依止(ショエジ)と為ることを顕す。」(『論』第三・十八右)
 この第八識は、無始より恒に有ることを明らかにしています。
 『述記』には「初句は此の識は無始より相続せりということを顕す。」と。
 後の三については、
 「後の三は三種の自性が為に所依止と為るということを顕す。」と説明します。
 『論』(第三・十六左)では「後の半は流転と還滅との依持と為る用を顕す」と説明されていましたが、流転は苦・集諦に依り、還滅は滅・道諦に依る、すべては道理に従って動いているのですね。
 振り返ってみますと、自分の人生、自分の思いが通ったことはありません。思うようにならないのが道理なんでしょう。思うようにならんのが人生、人生は一切皆苦であることが明らかになった。そこから何が因であったのかというと、苦しみを造ってきた因は外にではなく自分が自分の思いで作り出してきたんだということですね。それが滅・道諦からのメッセージに他ならないのではないのかと思うのです。
 心の壁の問題かな。外界からのメッセージはあるのでしょう。それを受け取っているのが第八識です。本質(ホンゼツ)です。そのままということです。自然法爾という無覆無記の中に壁を作っている、人それぞれの受け取り方の容量が有ると思いますが、満杯なんですね。一人相撲をしてきるのですね。溢れてきたのが自覚できる怒りでしょう。荒々しいのです。その背景にはストレスを溜めこんでいる蔵が有るということです。これが微細なんですね。正体を見せないんです。それも第八識が持っていて、そこを阿頼耶識と押さえているのでしょう。執蔵という一面ですね。ここでは雑染法として説明をしています。
 三種の自性とは、依他起性・遍計所執性・円成実性です。 
 概略を述べますと、「涅槃証得」について三つの意見が出されているのですが、涅槃は証得したり、証得しなかったりするものではないのです。ここははっきりしておかなければならないことだと思います。ここの主題は証得の依り所を問題としているのですが、間違いますと、涅槃を証得する方法論に陥ってしまいます。
 涅槃は無為法で、無漏種より現行しているものです。
 第八識は有為法であり、涅槃を証得する道を説いているのだと。この道の中に涅槃はあるわけです。
 言い換えれば、お念仏の中に涅槃は有る、念仏して涅槃を得るわけではないのです。そうなりますと、念仏は条件になります。「念仏成仏是真宗」なんです。念仏が=得涅槃ですから、往生成仏は念仏の働きになりますね。これは無為法なのです。無漏種子の中に涅槃は宿っているのです。
 有為法からいいますと、有為法は生死流転します、流転の身が現行しているわけですから、惑・業・苦の繰り返しになります。惑(因)・業(縁)によって生を得た身は苦(果)のみですから、往生成仏は中有以降の未来になります。
 往生成仏は法ですね。法が未来ということは無いわけです。遍満しているもの、それが無為法でしょう。有為法は往生成仏の道を説くということですね。能証の道だけが説かれているということになります。ですから、此の第八識に依って涅槃が有るのではないということになります。
 往生成仏といいますと、私が歩むということになりますが、それは能証の道であってですね、往生成仏は無為自然の世界ですね。「天にあらず人にあらず。みな、自然虚無の身、無極の体を受けたり。」(『無量寿経』)と。有るとか無いとかの話ではないということです。
 結論として、
 「謂く涅槃と云う言は所証の滅を顕す。後の証得と云う言は能得の道を顕す」(『論』第三・十八右)
 つまり、涅槃を我々の問題として提起されているのですね。生死流転の我が身が、いかにして涅槃を証することができるのか?「能断の道に由って所断の惑を断じて究竟して盡きる位を涅槃を証得する」のだと。これはですね、還に由ると云われています。還は道諦です。道諦つまり本願の一人働きですね。
 こういう働きがどこで成り立っているのか、それが第八識に依るのである、と。
 「能断の道も所断の惑も能証の道も所証の滅も皆此の識に依る。故に還・滅が為に依持たる用なり。」(『述記』)と釈されます。
 第二解
 「又此の頌の中の初句は、此の識の自性無始より恒有(ゴウウ)なるを顕示し、後の三は雑染(ゾウゼン)と清浄との二の法の為に総・別に所依止(ショエジ)と為ることを顕す。」(『論』第三・十八右)
を読んでいました。
 後の三句は「雑染(ゾウゼン)と清浄との二の法の為に総・別に所依止(ショエジ)と為ることを顕す。」と。
 ここでは、雑染と清浄の二つの言葉で説明がされています。前は、流転と還滅でした。
 初めに問いが出されています。「何者か染法と云う。」(『述記』)
 「雑染法とは、謂く苦集諦なり。即ち所能趣のの生と及び業と惑となり。」(『論』第三・十八左)
 四聖諦から説明されます。
 「諦」は真理という意味です。明らかにするという意味も含まれています。苦諦ですと、苦があるという事実(苦諦)をいいますが、苦が何故起こってくるのかが明らかになる(集諦)という意味でもあるのですね。
 苦諦が所趣
 集諦が能趣で、「生と及び業と惑」がこれになります。苦を生み出していくのが雑染法だと。四惑(我痴・我見・我慢・我愛)を依り所として苦を生み出していることが明らかにされるのです。
 友との会話面白いですね、「世の中どうにもならん、なるようにしかならない」と明らかにしているのかと思いきや、面白くないと云う自分がいるわけです。これ矛盾するんです。考えられた了解といったらよいのでしょうか。持ち替えですわ。我を立てた判断ですね。それが雑染法と云われているのです。
 「無始時来界 一切法等依」の初句について、『述記』の説明は、「此の識(第八識)の体は今始めて有るに非ず無始より有りということを顕すが故に識の自体を出さば即ち種子識なり。」と。一切は種子識の現行である。種子として蓄えられている時は無記として熏習されている。種子生種子です。善は善として、悪は悪として分別されること無く熏習されるのです。それは何故なのかと、阿頼耶識が無覆無記だからですね。善悪の判断はしなくて、ありのまま、行為そのままを熏習してくるのです。風が吹くと現行します。現行は色が変わるということでしょう。無色のものが、風にあたると有色に変化するわけです。善は善として、悪は悪として現行してきます。これは正直なんです。意識であきらめようと思ってもあきらめられない。喧嘩して仲直りをしても、許せないものがある。寝床に入ると思い出して腹が立つということがあります。悔やんでも悔やんでも悔やみきれない歯がゆさがありますね。意識で解決できるものなら楽なんですが、なかなかそうはいかないのです。この第八識厄介ですね。仏法に出遇うことがなければ楽に生きれたかもしれませんね。えらいもんに釣り上げられたものです。
                  善
 阿頼耶識(無覆無記)〈       〉  現行(有覆無記)
                  悪
 今が大事だと云うでしょう。でもね、今は押さえられないですね。動いていますからね。それを今が大事だとして捕まえようとするわけです。これが我ですね。我は種子として隠れているんです。
そして、「清浄法について」の説明が大切なことを教えてくれます。
 「清浄の法と云うは、謂く滅・道諦なり。即ち所・能証の涅槃と及び道となり。」(『論』第三・十八左)
 清浄の法は、四聖諦の滅諦と道諦である。滅諦は所証であり、道諦は能証である。涅槃は証せられるところ、道は至らしめるものである。
 いうなれば、苦悩があるから滅・道諦は輝くわけです。苦悩の背景に滅・道諦ありです。涅槃においてあるもの、それが苦悩の人生なのでしょうね。
「自分で自分を斬ったら自分が可哀想。斬る自分と斬られる自分。斬る自分はエゴ、斬られる自分が本来の自分。自分を大切にしましょう。でも、自分を大切にと云うのもエゴですね。エゴから抜け出せんということでしょう。エゴを知る、これが真宗の仏道だと思いますね。」
 雑染法と清浄法は何に依って有るのか、それが答えられてきます。
 「彼の二は皆此の識に依って有り。転識等に依たりと云うは理成ぜ不るが故に。」(論』第三・十八左)
 雑染法と清浄法の二は、此の第八識を依り所として起こってくる。
 転識は無始より現在まで間断することなく相続しているわけではなく断絶があるので、雑染・清浄法の依り所とはならないのである。つまり、転識では涅槃の証得はなく、又生死に流転することも出来ないのです。転識も第八識を依り所として生起する所の識だからですね。
 第八識は恒に一類相続して雑染法(流転の法。苦諦・集諦)と、
  生は所趣の苦諦であり、生をもたらすものが能趣の集諦になるわけです。具体的には惑と業です。惑と業によって趣である「苦なり」の生があるのですね。生まれたということは、惑・業を因として生が果になるのですから、因は種子でしょう。迷いの種子(有漏種子)から迷いの生をうけたのです。第八識は唯それだけの用ではないということです。
 清浄法(還滅の法。滅諦・道諦)との所依となる、このことを明らかにしているのです。
  所証は涅槃、能証は道である。ここは先の説明の通りでありまして、能証の他に所証はないということです。
 以上が第二解になります。
 第三解は、
 「或は復た初の句は此の識の体無始より相続せりと云うことを顕し、後の三は三種の自性の為に所依止と為るを顕す。」(『論』第三・十八左)
 「無始時来界」(第一句)は、此の第八識は無始より現在まで間断することなく相続して、一切の現行の依と為る種子を貯蔵して、心を支えつづけていることを明らかにしているのです。
 そして後の三は、
 「一切法等依 由此有諸趣 及涅槃証得」は三種の自性という教えの為の依り所となることを明らかにしています。
 三種の自性は、三性ですね。
 一つは、依他起性
 一つは、遍計所執性   } 三種の自性(三自性・三性)
 一つは、円成実性
 迷いと覚りの依り所と成る、それが第八識だと。
真宗でいいますと、法蔵菩薩ですね。法蔵菩薩を依り所として、迷いと覚りが有る、成り立っていると云った方がいいのかもしれません。目に見えるものではなく、つまみだすこともできませんが法性の具体性でしょうか。
 「謂く、依他起と遍計所執と円成実性となり。次の如く応に知るべし。」(『論』第三・十八左)
「如次応知」は、本頌ですと、第二十頌・第二十一頌になります。そこでは三自性について詳細が語られています。
 多川俊英師の現代語訳が素晴らしいので引用させていただきますと、(角川ソフィア文庫所蔵 『唯識とは何か』p35~37)
「ところで、私たちは一体、どのような世界に住んでいるのでしょうか。このことを改めて考えてみたいと思います。私たちはそこまで鉄面皮でもありませんから、さすがに完ぺきとはいえませんが、それでもまあ、それないに真っ当な判断にもとづいて生活している。つまり。、ほどほどに清く正しい世界にすんでいる。―――と、臆面もなく思っているわけです。
しかし、すでにみてきたように、私たちの分別(認識)は、八識のそれぞれが変化・展開して、分別するものと分別されるものという二つの領域に分かれることによって成立するものでした。そうした唯識の知見にもとづくならば、私たちの認識というのはどうやら、なんらものごとの実像を捉えるのでも、また、あるものをあるがままにみているのでもなさそうだ、と気づかざるを得ません。 
そこでまず、私たちの日常世界とはどういうものなのか、それを端的に示すことにしましょう。そしてつぎに、一般的にみて、世界というものはどのようにして成り立っているのかをかくにんし、さいごに、私たちが真に求めるべき理想の、というか、あるがままの世界について考えてみたいと思います。
はじめに、私たち一人ひとりの日常世界ですが、その要点といえば、その時々のさまざまな思い計らいをからませて成り立っています。しかもそればかりか、その目の前の状況が好都合ならば貪り、不都合ならば毛嫌いするという執着の構図を重ねる念の入れようです。これを遍計所有執というのですが、そういう生活現場が、さも自分の認識している通りに展開している、とも思っています。が、そんな世界は自分の思い計らいや執着によって演出されたものにすぎず、実はどこにもないのです。(第二十頌の現代語訳)
「謂く依他起と遍計所執と円成実性とぞ。次の如く応に知るべし。」(『論』第三・十八左)
依他起は後の三句の初句、つまり第二句「一切法等依」(一切の法において等しく依たり)を釈しています。依他起は有漏・無漏の有為法をいいます。無為法は真如ですから依他起ではありません。全ての事柄、現象は他に依って起きる。因縁ですね。有為法は有漏であれ、無漏であれ、因縁で生じているのです。
思い起こしますと、浄琳寺の若院が「唯識聞きにいこ」とお誘いをかけて頂いておらなかったなら、唯識に触れることはなかったでしょうね。様々なご縁をいただいているのですが、不思議としかいいようがありません。でもずっと一貫して学ばせていただいていたのかと云いますと、違うのです。ごめんなさいね、「仏教なんて」といって一旦はごみ箱に捨てたんです。捨てたつもりだったんですね。ある日なにか日常の生活に物足らなさを感じていた時に、たまたま中日新聞の宗教欄に法話会があるのを見たんです。何故か足が動きまして、碧南まで聴聞にいかせていただきました。そして東別院の聖典講座にも顔を出すようになり、そこで、あるご婦人からお声かけをいただき、鶴田君を知ることになったんです。そうしましたら、なんと『唯識三十頌』を読むといわれたんですね。うわあ、めちゃ懐かしいと思ってですね、鶴田君の唯識を聴くことになりました。それがずっと続いていくことになるのですが、不思議ですね。そこからいろんなご縁をいただいて有難いとしかいいようがありません。このことが依他起なんでしょう。依他起よって今の私がある、その頷きが円成実、円満に完成した真実だと思いますね。
 有為法は、「諸法の種を含蔵するが故に説いて所依とす。」(『述記』)と。有為法は種子を所依として生起する、これを依他起性と云う。
 次に、遍計所執について考えます。能・所・執の執蔵に関係する事柄ですね。
 遍計所執性
 計は計度(ケタク)。計らいです。何を計らうのかといいますと、偏に自分の思いに固執することですね。執は執着のことですが、依他起の固定化です。動いているのを止めてしまうことが執着の本質です。つめまり、縁起を無視したあり方ですね。
 「遍計所執とは即ち第三の句なり。「此れに由って諸趣有り」。謂く執を起こすが故に諸趣遂に有り。彼の趣を生ずるを以てなり。或は諸趣を縁じて而も執(遍計所執)を起こす。此れ(五趣)は彼(遍計所執)に由って起こる。故に是れ彼が性なり。或は趣とは此れ見趣なり。二執(我執・法執)を起こすが故に。」(『述記』(第四本・十四右)
 『述記』の説明の通りです。簡潔に説いています。
 執を起こしたから趣があるということでしょう。人間の身をいただいたのは、執を起こしたからですね。ですから悪趣です。悪趣としての果報を得たのですが、種子が執ですから趣がまた執を起こすのです。これが生死流転なんですね。しかし、本願に出遇えば「悪趣自然閉」。生まれたことの醍醐味でしょう。
 先日も講義の中でお話をさせていただいたのですが、止める、固定化するとですね、わかりやすくいえば堰です。人工的に堰をつくりますと、そこにはヘドロが山積されます。ヘドロ、これが所謂煩悩です。溢れるということもあるのでしょうが、溢れるのはあらあらしい煩悩ですね。細やかな煩悩は沈殿します。そして煩悩は身に纏いついているのです。すべて固定化の問題、遍計所執です。遍計所執によって生死流転していくのですね。依他起に還れば、そこは円成実の世界なんです。理屈ではこうなるんです。このようにいかないところに、人間としての営みの面白さが有るのかも知れません。
 事実は依他起、固定化が執、目覚めが円成実。
 「本願を信じ念仏すれば仏になる」、これは依他起で、無私の法悦が円成実なのでしょう。そして、いつでもどこでも固定化を破っていく働きを持っているのが事実としての依他起ですね。
 大胆に言い放ちますと、依他起が還相の働きをもっているのかも知れません。身の事実、そこに還れと。
 依他起は事実を言っているわけですから、還れということはおかしいのです。還の痛みですね。本国を見失っている者への痛み、大悲といっていいのでしょうか。事実は、事実を見失ったら働きを具現化するのでしょう。そのように思えてなりません。これが第八識所縁の問いかけになります。
 「我が身が問われている」のは所縁からの問いかけだと思いますね。所縁に反逆している「思い」(遍計所執)に対して、所縁に還れと問いを発しているのですね。
  円成実性とは、
 円成実性は言葉としては仮に語られますが、依他起の自覚が円成実性なんですね。目覚めであり、頷きです。
 お念仏に依って生かされている身の頷きが、本願を証明するのでしょう。それ以外に本願の働きは有りませんね。身が頷かないで、本願を語っても、それは形而上学でしかありません。頷いたら、「すでにしてあった」ということでしょう。それが本願成就ですね。
 「生かされている」という頷きが依他起の世界でしょう。「生きている」のが遍計所執になりますね。
 「生かされている」という頷きが、種子として宿る。=有為無漏 → 涅槃証得
 「生きている」という思いが種子として宿る。=有為有漏 → 生死流転
 という構図になると思います。いのちは恒に種子を所縁として動いているのです。

 「円成実性とは是れ第四句の「及び涅槃と証得と」なりと云う。即ち無漏法の有為と無為となり。四清浄の法を円成実性と為すなり。涅槃と証得とを各別に説くが故に。」(『述記』)
 四清浄は、『雑集論』(大正31・691)では、依止清浄・境界清浄・心清浄・智清浄を挙げています。如来の一切種清浄を表しています。
 つまり、
            染
 阿頼耶識は  〈      の依  (『無性摂論』巻第一) である。
            浄 

 一切諸法の種子である識は阿頼耶識であって、阿頼耶識の種子より現行が生起するわけです。その時に、染の種子が現行するのか、浄の種子が現行するのかが修道の問題になってくるのでしょう。
 そこで、阿頼耶識の所縁は種子、所依は末那識ですね。種子が因として、現行が縁となり種子を熏ずるわけです。そこで問題となるのは所依です。因縁依(種子依)・倶有依(増上縁依)の問題です。
 今回はここまでにしておきます。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (27)

2017-02-22 20:46:59 | 阿頼耶識の存在論証
  

 その一に五識の倶有依を挙げる。 
 「此れに由って五識の倶有依は、定んで四種有り、謂く、五色根と、六と七と八との識ぞ。」(『論』第四・二十右)
 (これによって五識の倶有依は必ず四種がある。つまり五色根と第六識と第七識と第八識との識である。)
 五識の倶有依についての護法の説は、 
 眼等の五識の倶有依とは何であるのかという問いに対して護法は眼等の五識の倶有依は五色根と第六・第七・第八識の四種であると答えています。
 前五識は第六識に依るわけですが、その証が、
 また「意識無き時に五識は独り起こって聞くという文を見ざるが故に。『世親摂論』第四に五識は意を以て依と為し、意いい散乱する時は五は生ぜざるが故にと云う。彼に準ずるに明けし五は六を以て依と為すなり。」(また第六識が存在しない時に五識が単独で生起するということは諸典籍に説かれていない。従って五識は第六識を以て倶有依とするのである。)これですね。
 五色根と第六識が前五識の倶有依であることを述べ、次に第七識が前五識の倶有依であることを述べます。
 第七識に依るを証す。
 「何が故に七を以て依と為すを知ることを得るや。」(また何故に第七識を以て五識の倶有依とするのであろうか。)
 『無性摂論』第一に説かれている。五識が第七識を倶有依と証している中に、五識が有漏であることは、染汚である第七識を倶有依としているからである。第七識の染汚あるに由って前六識が起こす布施等の善法が有漏になり、無漏とはならない。五識が有漏であるということは第七識の染汚の影響によるものであり、よって五識は第七識を倶有依としていることがわかる。『世親摂論』第一にも同様の主旨が説かれており、「故に知んぬ五識が有漏を成ずる中に、其の第七識乃し彼未だ究竟して滅せざるに至までは、終に無漏と成らず。・・・故に五識は有漏なり。」と。第七識が転じて平等性智に成るに至までは五識は有漏であり、無漏とはならないのである、と。
 次に第八識に依るを証す一段ですが、
 「何を以て亦第八にも依るということを知るを得とならば、」
 「『世親摂論』第一に五(識)を同法という中に、彼の五識身は五根と阿頼耶識とをもって倶有依と為すこと、此れも亦是くの如し」
 (第八阿頼耶識を倶有依とすることは、「『世親摂論』第一にに説かれている通りである。五識身は五根と第八識を倶有依として説かれている。)
 第八識は諸識の根本で、根本識といわれます。ですから根本識と七転識は共依の関係です。従って第八識は五識の倶有依であることがわかるのです。
 以上が五色根・第六識・第七識・第八識が五識の倶有依であるという理由を概略しています。
 次の科段で五識の倶有依であるという理由と倶有依としての種別を説明します。(どのような訳で、五識には五色根・第六識・第七識・第八識の四を備えることが必要なのであろうか、という問いに答えていきます。)
 五識の倶有依である理由と、種別についてですが、
 「随って一種をも闕きぬるときには、必ず転ぜざるが故に、同境と分別と染浄と根本と所依別なるが故に。」(『論』第四・二十左)
 (五色根と第六識と第七識と第八識のうちの一種でも闕いたときには五識は転じない。また同じ倶有依であっても五色根は五識の同境依であり、第六識は五識の分別依であり、第七識は五識の染浄依であり、第八識は五識の根本依であるという所依の種類の別がある。)
 「随って一種をも闕きぬるときには」というは、「彼の五識に望むるに並びに力有る故に、前の四義を具する故に。此の四の中に於いて、若し随って一種をも闕きぬるときには、必ず転ぜざるが故に」と『述記』には説明されています。即ち、五色根と第六識と第七識と第八識の四つはすべて五識に対して力があり、四義を備えている為に、この中の一つでも欠いた時には五識は転じることはない、と。
 「此の四と何ぞ別なる。五根は五識と同境依と為って共に現の境を取るが故に。余は不定なれば、独り此の名を得たり。」
 初は五根は五識の同境依であることを説明します。五根も五識も倶に現在の境(五境)を対象とするからである。他の識は必ずしも五識と同じ境を対象とはしないので同境依とはならないということです。 
 次に第六識は五識の分別依と為ることを述べます。 
 「第六意識は前の五識が與に分別依と為る。與(ため)に依として同じく縁じて境を分別するが故に。」(『述記』)
 第六意識は五識と認識対象(同一境)を同じく認識(縁じ)、その認識対象(境)を分別するからである。
 そして、「五(識)は無分別なりと雖も意(第六識)は是れ分別あるを以て無分別の依と為す。」(『述記』)と説明しています。
 五識は無分別であるけれども、第六識が境を分別するので、第六識は無分別の五識の分別依となるということですね。
 次に第七識は五識の染浄依と為ることを述べます。
 「第七(識)は五識が與に染浄依と為る。五識は此の根本の染に由るが故に有漏と成る。根本浄なるが故に無漏と成る。全く浄を成じ已るときは五識を漏せざるを以て根本浄と名づく。」(『述記』)
 第七識は五識の染・浄の依と為ることを述べます。諸識が有漏であるのは、第七識の染に由るからである。そして根本の第七識が浄であれば五識も無漏となるのである、と。このように五識が有漏か無漏かは第七識に依るので第七識は五識の染浄の根本であるという。「全く浄を成じ已るときは」と、第七識が完全に無漏となった時(仏果)は五識は有漏ではないので、この時の第七識を根本浄という。
 次に第八識は五識の根本依と為ることを述べます。
 「其の第八識は前の五識が與に根本依と為る。前に説きつるが如くなるが故に。故に此の四の依は其の義差別有り。」(『述記』)
 第八識は一切種子識といわれますように、諸識(七転識)の根本依です。第八識に依って諸識が生起するわけですから、従って五識の根本依も第八識であるのです。
 このように五識の倶有依(護法の正義)を学びますと、私たちの心はどのような構造になっているのかが浮き彫りにされます。
 護法の正義における五識の倶有依は、五色根と第六識と第七識と第八識であり、その中の一種でも欠いたときには五識は活動しない、と説かれているが、聖教には五識の倶有依は五色根のみであると説かれている。もしそうであるのならば、護法の説は聖教に違背するのではないのか、という問いがだされているのですね。その聖教との会通が「聖教に五識はただ五根に依るとのみ説かれているのは五根が五識の不共依だからであり、また五根と五識は必ず同境であり、近依であり、相順するからである。」と説明されているのです。不共依は眼識と眼根との関係のように他と共通でない所依をいいます。(10月26日・前五識の倶有依についての項参照して下さい。)また五根は五識の同境依となるということ。五根も五識も倶に現在の境を対象とするからですね。近とは五根と五識が相い近いということから近依といいます。(他の識は五識のためだけの倶有依となるのではなく、他の識の倶有依ともなるので、他の識は五識に対して遠依という。)相順は五根が五識と相い順じているという、互いに一致していることですね。なにが一致しているのかというと、五識と五根は境と有漏・無漏とを同じくするということです。五根は現前する対象を認識するので五識と同じであり、五識が有漏の時は五根も有漏であり、また五識が無漏の時には五根も無漏であるという関係です。
 五識の倶有依は五根・第六識・第七識・第八識であるけれども、五根は他の識に比べて不共・同境・近・相順の四義において勝れているので、『対法論』等の聖教には以上のような理由から五根を五識の倶有依とのみ説いているのであって、五根のみが五識の倶有依であると説いているのではないのですね。
 『論』ではいろいろな問題について述べられていますが、根本識の倶有依について、以下のように説明されます。
 第八識の倶有依
 「阿頼耶識の倶有所依も、亦但一種なり、謂く第七識ぞ、彼の識若し無きときには定んで転ぜざるが故に。」(『論』第四・二十一右)
 (阿頼耶識の倶有所依もまたただ一種である。つまり第七識である。彼の識(第七識)がもし存在しない時には第八識も必ず転じないからである。)
 「第八が所依も唯だ亦一種なり。謂く第七識なり。第七若し無きときは八は転ぜざるが故に。何を以てか然るというを知るとならば。」(『述記』)
 典拠を挙げる。
 「論に、蔵識は恒に末那と倶時にして転ずと説けるが故に。又、蔵識は恒に染汚に依ると説けり、此れは即ち末那なり。」(『論』第四・二十一右)
 (何を以て知ることができるのかは、『瑜伽論』巻第六十三(大正30・651b)に「第八識は恒に末那識と倶時に転じる」と説かれている。又、第八識は「恒に染汚に依る」と説かれている。これは即ち末那識のことである。)
 『瑜伽論』巻第六十三・五十一及び『無性摂論』巻第三の記述を証として挙げています。第八識と第七識は恒に間断することなく倶に転ず、と、説かれていることが護法説の正義であることの根拠になっているわけです。
 種子と現行八識の倶有依の問題については、またにします。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (26)

2017-02-21 21:25:47 | 阿頼耶識の存在論証
  

 随分脱線をしております。
  第二能変の所依門から、増上縁依(倶有依)について述べています。
簡単に述べますと、
 前五識は、五根と第六識・第七識・第八識を倶有依とし、第六識は第七識と第八識を倶有依とし、第七識は第八識を、第八識は第七識を倶有依とする、と。第七識と第八識の倶有依が人間として非常に大切なことを教えています。「第七識の倶有所依は、但一種のみ有り。謂く第八識なり。蔵識若し無き時は定めて転ぜざるが故に」と説かれ、また、「阿頼耶識の倶有所依も、亦但一種のみなり。謂く第七識なり。彼の識若し無き時には定めて転ぜざるが故に。」と説かれ、深層意識の中で利己性に染汚された識が根本識に蓄積され、染汚されたままの識が表層の意識に伴って前五識が働いてくるのですね。これが迷いの構造になるわけです。
 倶有依とは同時に存在する所依を指しますが、あるものが生じる時、そのものと同時に存在してそれを生じる依り所、その因を倶有依という。眼識の倶有依は眼根、乃至、意識の倶有依は意根であると『瑜伽論』巻一(大正30・279a) に説かれています。
 「何等名爲五識身耶。所謂眼識耳識。鼻識舌識身識。云何眼識自性。謂依眼了別色。彼所依者。倶有依謂眼。等無間依謂意。種子依謂即此一切種子。執受所依。異熟所攝阿頼耶識。」 
(「何等をか名づけて五識身と為すや、所謂眼識・耳識・鼻識・舌識・身識なり、云何んが眼識の自性なるや、謂く眼に依って色を了別(了知弁別)するなり。彼(眼識)の所依とは三あり、倶有依は謂く眼根なり、等無間依は、謂く意根なり、種子依は謂く即ち此れ一切種子を執受する所依にして、異熟に摂められる阿頼耶識なり。」)
 『論』には倶有依についての解釈が四有りと述べられています。第一説から第三説が異説であり、第四説が正義を述べる護法の説になります。概略を示しますと(『述記』による)
• 第一説 難陀等の説で前五識は第六意識を倶有依とし、第六識は第七末那識を倶有依とするが、第七識・第八識には倶有依はないとする。
• 第二説 安慧等の説で前五識は五色根と第六意識を倶有依とし、第六識は五識と第七末那識を倶有依とし、第七識は第八阿頼耶識を倶有依とするが、第八識には倶有依はないとする。
• 第三説 浄月等の説で前五識は五色根と第六意識を倶有依とし、第六識は五識と第七末那識を、第七識は第八阿頼耶識を倶有依とする。ここまでは安慧等の説と同じですが、第八識の倶有依を浄月等は第七末那識と色根と第八阿頼耶識の現行と七転識の現行を倶有依とすると説きます。
• 第四説 護法等の説で正義とされます。前五識は五色根と第六意識と第七末那識と第八阿頼耶識を倶有依とし、第六識は第七末那識と第八阿頼耶識を倶有依とし、第七識は第八阿頼耶識を倶有依とする。そして第八識は第七末那識を倶有依とすると説かれます。
 今は、護法正義について述べます。
 「自下は第四に護法菩薩の解なり。中に於いて三有り。一に総じて前師を斥し、二に義を申べて指し、三に総じて正を結す。」(『述記』第四末・八十五右)
 (第四説は護法菩薩の正義を述べる。これが三つに分けて説かれる。初めには前師(難陀等・安慧等・浄月等)の説をしりぞける。次に自説をあげる。終わりにまとめて正義を結ぶ。)
 護法は倶有依説に対して前三師の説は理に応ぜないというのです。何故ならば、前三師は法に所依と依との別があることを未だ理解していないからである。詳細は次の科段で示されますが、簡略しますと、依とは、すべて有為の諸法が因に杖し、縁に託して生じ住することができるものすべてを依と云う、と。故に広く四縁に通ずると云う。そして所依と云う場合には、次に述べられる四義を具さなければならないとする。(所依の四義 - (1) 決定の義、 (2) 有境の義、 (3) 為主の義、 (4) 心・心所をして自ら所縁を取らしめる義。)
 「依とは、謂く、一切の生滅を有せる法が、因に杖し縁に託して、而も生じ住することを得。」(『論』第四・十九左)
 (依というのは、一切の有生滅の法が、因に杖し縁に託して生じ住するという、お互いに支えあい助け合って一つのものができていることを指す。)
 一切有生滅の法は、因(因縁)と縁(等無間縁・所縁縁・増上縁)によって生じ存在する。その生じ存在することを成り立たせている四縁をまとめて「依」というのである。
 依とは、四縁すべてをいう。現象世界は有生滅であり、現象世界を成り立たしめているものが四縁ということになります。依という場合には、広く因縁に通じる概念で四縁全体をあらわす。「一切有為の諸法は因縁より生ず。」と。
 所依は依であるが、依は必ずしも所依ではない、という。所依には四義が備わっていなければ所依とはいわれない、といわれていますが、依は「すべて有為の諸法が因に杖し縁に託して生じ住する(因に杖するから生といい縁に託するから住という)その所杖託のものを皆依という。」故に依とは広く四縁に通ずるのである、と。喩えとして「王と臣と互いに相依る」といわれています。存在の更互相依性を言い当てているのです。
 しかし、『述記』の喩えは「王と臣が互いに相い依るようなものである」というのですが、これは有為法同士の場合にはこの喩えでいいが、有為法と無為法の場合には「相依」という喩えには問題があると指摘しています。それは「無為法は有為法のために依となるが、有為法は無為法のために依とはならない」から「相依」とはいわれないんだということです。
 所依(倶有依)と云う場合は、
 所依という場合には、四義を備えなければならないといい、依と区別をしています。依は一般的な法則。存在するものはすべて縁に依って生じているものでしたが、所依と言う場合には一般的な法則ではなく、心の問題を捉えて主体的に「自己」の問題を考えていくのです。
 「若し法が決定せり、境を有せり、主たり、心心所をして自の所縁を取ら令む、乃ち是れ所依なり、即ち内の六処ぞ、」(『論』第四・二十右)
 (もし法が決定し、境を有し、主となり、心心所に自の所縁を取らせるならば、これが所依である。即ちこれらの条件を備えているものは内の六処である。)
 諸識の倶有依(所依)には四義が備われなくてはならないとし、その四っの条件とは
• 決定 - 法(存在一般)が決定している。
• 有境 - 境を有するもの。
• 為主 - 種となるもの。
• 取自所縁 - 心・心所をして自らの所縁を取らしめるもの。(詳細については2011年 4月9日~4月12日のブログを参照してください)
 で、本文では「決定せり、境を有せり、主たり、心心所をして自の所縁を取ら令む、」と述べられています。そして具体的には「即ち内の六処」である、といわれています。内の六処とは五根と意根ですね。『論』には具体的な内容は示されていませんが、『述記』・『演秘』・『樞要』・『了義燈』に詳細が示されています。
 所依という場合は心・心所に限る問題であると。心の問題に限定されるわけです。非常に主体的に問題を捉えるあり方が強調されます。自己は決定して有るものであり、境を有し、主であり、自らの所縁を認識しているわけです。これらの四義を備えているものが、内の六処(内の六根)であると。内の六処とは、五根と意根(第六識・第七識・第八識)である。少し先走りをしますと、

 「五識の倶有所依は、定めて四種有り。謂く五色根と六・七・八との識なり。・・・第六意識の倶有所依は唯二種のみ有り。謂く七と八との識なり。・・・第七意識の倶有所依は、但一種のみ有り。謂く第八識なり。」と説明され、其の中の一種でも欠けると心は動かない、と。そして「第八なくば第七転ぜず、第七なくば第八転ぜず。」といわれ、深層意識の第七・第八識が背後にあって前五識および第六意識が働いてくるわけです。存在の構成要素が前五識で感覚ですね。その依り所が五根になります。身体です。身体が依り所になって感覚が働くわけです。そしてその感覚を司るのが心の問題で、第六・七・八識になるわけです。身と心の問題です。身と心は一つのものですね。ここが非常に大事なところで身と心は離れてあるものではないということを、心・心所を通して明らかにしているのです。「依」という場合は「つながりを生きる」というような「法」を指します。諸行無常という法ですね。しかし、その法に迷っているのが私たちです。何故迷っているのかを明らかにするところに所依の問題が提起されるのです。主体の問題です。内の六処(五根と意根)に依って迷っているわけです。
 五識の倶有依についての護法の説は、 
 眼等の五識の倶有依とは何であるのかという問いに対して護法は眼等の五識の倶有依は五色根と第六・第七・第八識の四種であると答えています。
 (第七識に依るを証す。)
 「何が故に七を以て依と為すを知ることを得るや。」(また何故に第七識を以て五識の倶有依とするのであろうか。)
 「『無性摂論』第一に第七有りと証するが中に言うが如し。謂く若し染汚に意有りと説かずば義符順ぜず等といえり。此れが中の意の言く、第七識の染有るに由るが故に、施等の有漏の善法無漏と成らず、彼の染識の所漏と為るが故に、・・・」(『述記』)
 『無性摂論』第一に説かれている。五識が第七識を倶有依と証している中に、五識が有漏であることは、染汚である第七識を倶有依としているからである。第七識の染汚あるに由って前六識が起こす布施等の善法が有漏になり、無漏とはならないのである。五識が有漏であるということは第七識の染汚の影響によるものであり、よって五識は第七識を倶有依としていることがわかる。『世親摂論』第一にも同様の主旨が説かれており、「故に知んぬ五識が有漏を成ずる中に、其の第七識乃し彼未だ究竟して滅せざるに至までは、終に無漏と成らず。・・・故に五識は有漏なり。」と。第七識が転じて平等性智に成るに至までは五識は有漏であり、無漏とはならないのである、と。
 (第八識に依るを証す。)
 「何を以て亦第八にも依るということを知るを得とならば、」
 「『世親摂論』第一に五(識)を同法という中に、彼の五識身は五根と阿頼耶識とをもって倶有依と為すこと、此れも亦是くの如し」
 (第八阿頼耶識を倶有依とすることは、「『世親摂論』第一にに説かれている通りである。五識身は五根と第八識を倶有依として説かれている。)
 「・・・『瑜伽』(巻第五十一)と『顕揚』(巻第十七)とに亦説かく、阿頼耶識有るに由るが故に色根を執受す。五識の識身之に依って転ず等といえり。又『顕揚』第一に阿頼耶識を解して転識等が與に所依因と作ると云えり。此の文は亦六・七が與に依と為ることをも証す。・・・故に知りぬ、五識は本識を以て共の所依と為すということを。」(『述記』)
 第八識は諸識の根本で、根本識といわれます。ですから根本識と七転識は共依の関係です。従って第八識は五識の倶有依であることがわかるのである。
 以上が五色根・第六識・第七識・第八識が五識の倶有依であるという理由を概略しています。
 五色根と第六識と第七識と第八識のうちの一種でも闕いたときには五識は転じない。また同じ倶有依であっても五色根は五識の同境依であり、第六識は五識の分別依であり、第七識は五識の染浄依であり、第八識は五識の根本依であるという所依の種類の別がある。五色根と第六識と第七識と第八識の四つはすべて五識に対して力があり、四義を備えている為に、この中の一つでも欠いた時には五識は転じることはないと説明しています。
 以下は次回にします。
 次に第六識は五識の分別依と為ることを述べます。 
 次に第七識は五識の染浄依と為ることを述べます。
 次に第八識は五識の根本依と為ることを述べます。
六識の倶有依について
第七識の倶有依について 

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (25)

2017-02-20 20:03:15 | 阿頼耶識の存在論証
  

 因縁依(種子依)について
 種子依という場合の、種子生現行における種子と現行が異時であるのか、同時であるのかという問題が提起されます。
 異説は因果異時説で、難陀・最勝子、経量部の説なのです。「要ず種いい滅し巳って現の果方に生ず。」と。これは種子生現行の因果関係において因である種子(所依)と果である現行(能依)が時を異にすることを述べています。
 これに対して護法は因果同時説を主張します。
 異説が教証・理証を立てて因果異時説を主張するわけですが、護法は、彼(難陀・最勝子)が証(『集論』の解釈)として説いていることは、教証とすることは出来ないと云います。その理由は『集論』には「後の種子を引生しないということによって説いている」ものであって、種子生種子において説かれている。種子生現行において説かれているものではないからである、と。
 また異説が「種が芽等を生ずる」ことを例として挙げていることは間違いであるとします。
 護法が種が発芽するという現象を以て例とすることは誤りであると論破するのは、唯識で述べる「種」は種子生現行などの種子であって植物の種は実の種子ではない。植物の種は種子が現行として現れた存在(種も芽も現行した存在)であって、仮に種という名をつけているに過ぎないのです。植物の種は阿頼耶識のなかの種子の喩えとして用いているのです。阿頼耶識の種子を内種子というのに対して外種・外種子というのですね。内種子は存在を生じる阿頼耶識のなかの可能力で、植物の種子に喩えて種子というのです。「種子は本識のなかの親しく自らの果を生じる功能(力)差別(特別の)なり」と定義されています。功能差別とは直接、自らの結果を生じる力をいう。植物の種子は外種といわれますように、実の因果関係ではなく、擬似的な因果関係であって、勝義の因果関係ではないと護法は説きます。護法は内種による種子生現行・現行薫種子・種子生種子の三つに収められて語られます。因縁依は種子生現行・現行薫種子・種子生種子の各種相望の因縁に通じるのですが、種子依という場合、現行薫種子には通じないのです。今は三類の因縁に通じるので因縁依と云うのですね。
 護法の正義は、
 「然も種の自類の因と果とは、倶に非ず、種と現との相生は、決定して倶有なり。」(『論』)第四・十四右)
(種子の自類相生の因と果とは倶に存在しない。しかし種子と現行の相生の因と果は必ず倶に存在する。)
前半は因果異時の関係である種子生種子について説き、後半は因果同時の関係である種子生現行について説かれています。
  「種の自類の因と果とは、倶に非ず」とは種子生種子の自類相生の因果関係について説かれている。これは前念の種子が後念の種子を生ずる因果関係を述べたものであり、これは二刹那にわたるので因果異時であると説くのです。同一刹那で同じ存在が同時に並び存在することはないからである。
 後半の 種と現との相生は、決定して倶有なり というのは種子生現行と現行薫種子の因果関係を述べているのです。種と現・現と種の因果関係で、これは倶有であると。即ち、同時因果の関係を述べているのです。
(語注)
自類 - 自らと同じ種類。自類相生(じるいそうしょう)という。阿頼耶識のなかの種子は一刹那に生じては滅し(刹那生滅)、滅した次の刹那に自らとおなじ種類の種子を生じるというありようが不断につづく、そのような常に非ず、断に非ずという連続体であるから、外道のいう「常一なる我」ではない、という見解のなかで自類という概念を用いる。自類因果は同類因と等流果をいう。前時の自分の同類因によって後時の自分の等流果を受けることをいう。
 「故に瑜伽に説かく、無常の法いい他性が與に因と為る。亦は後念の自性が與に因と為るという。是れ因縁の義なり」(『論』第四・十四右)
(種子生現行が同時因果であるとどうしていえるのか、ということを論拠を引いて論証する。 - 故に『瑜伽論』巻五に説かれる、「無常の法は他性の為に因と為る」という。または「後念の自性の為に因と為る」という。これらは因縁の義である。つまり種子がすべて親因縁(直接の因縁)であることを述べているのです。)
 無常の法は無常という一般の解釈ではなく、ここでは種子を指す。何故ならば、諸法は有為転変する無常の法であるが、それを成り立たせているのが種子だからですね。無常の法が他性のために因と為りとは種子そのものを自性というのに対して、その種子より生じた現行の法を他性という。この種子と現行は同一刹那に於て種子は能生の因・現行は所生の果となる。因が果と倶に現在同刹那に有って倶に離れない種子を指し、これを種子生現行同時因果の果倶有法というと説明します。
 「是の如く八識と及び諸の心所とは、定めて各別に種子の所依あり。」(『論』第四・十四左)
 「八識と諸の心所」とは有漏・無漏を通じて皆な有り、という意味になります。(このように八識と諸の心所とには、必ずそれぞれに種子の所依がある。)
 この記述が因縁依(種子依)の結びの文になります。諸法の縁起は種子生現行・現行薫種子・種子生種子に集約され、すべての縁起の因は種子であることを明らかにしています。種子を直接因として一切の諸法は展開されるのですね。私の生存を成り立たせているのが阿頼耶識の中の種子であり、その種子が現行し、薫習し、種子から種子へと刹那刹那に受けつながれていくのですね。
 「種子とは阿頼耶識(本識)のなかの親しく自らの果を生じる功能差別なり」(『選註 成論』p31・ 『新導本』巻第二・p14)これを以て因縁依(種子依)の記述が結ばれます。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (24)

2017-02-19 13:31:08 | 阿頼耶識の存在論証
 

 補足説明になりますが、三所依について概略します。
 第二能変の「彼依転」が所依を明らかにしています。
 「依彼転とは、此れが所依を顕す。」(『論』第四・十二左)と。
 「彼というは、謂く、即ち前の初の能変の識なり、聖いい、此の識は蔵識に依ると説きたまえるが故に」(『論』第四・十二左)
 「此れは彼第八識に依ると云うことを顕すなり。阿頼耶有るに由るが故に、末那有るを得と云えり、故に聖説と名づく。」(『述記』第四末・五十二左)
 彼というのは、前の初能変の識である。聖(弥勒菩薩)は此の識は蔵識に依って存在すると説いておられるからである。ーその根拠が上記の『瑜伽論』巻第五十一の文ですね。「彼に依って」とは第八識の中の第七識を生起させる種子と現行の第八識に依って、という意味になります。
 異説もあるのですが、正義(護法等の義)は、
 第七識は第八識の中の第七識を生ずる種子と、第八識の現行している識とを以て倶に所依と為す、という。第七識は間断することはないといっても、転易(てんにゃく)するために転識と名づけられるからである。その為に、必ず現行している識の力を借りて、それを倶有依としてまさに生起することを得ることができるからであると説いています。
 第七識の所依には二つ有ると主張します。
 一つは第八識の中の第七識を生ずる種子(因縁依)と、二つは現行している第八識(倶有依)であるという。第七識は間断することが無いとはいっても、転易する為に転識と名づけられるからである。「必ず現の識を仮って倶有依として方に生ずることを得るが故に」ということなのです。この点で、第一師の説を論破していますね。第一師の説は第七識は間断することがないので、第七識が生起する為には現行している識の力を借りるは必要ない、というものでした。論破の理由は上の『述記』の文から伺えます。「第七識は間断することが無い識であるが、善から染へ、あるいは染から善へ、また有漏から無漏へ、あるいは無漏から有漏へと転易するために、第七識が生起する為には、転易も間断もしない第八の現行識の力を借りる必要がある。即ち、第八識を倶有依とする必要があるのであると教えています。
 第七識は第八識に依る、といわれていますが、その第八識のどこに依るのかという問題が残ります。この問いに、
 「此の意は但蔵識の見分のみを縁ず、余には非ず」といわれています。
 「転」の解釈について、
 「転というは、謂く、流転して、此の識は恒に彼の識に依って、所縁を取るということを顕示するが故に」(『論』第四・十三右)
 (転というのは、つまり流転のことである。此の第七識は恒に第八識に依って(第八識の中の第七識を生起する種子と現行識)、所縁を取ることを顕示するのである。)
 流は相続の義。転は起の義と云われます。
 「第八の或いは種、或いは現に依って相続して起こるの義なり」がこの意味になります。
 つまり、第七識が恒に絶えることなく活動し続けていることを意味するのです。 「転」の具体的な活動内容が、「所縁を取る」 ということなのです。「彼に依って転じて彼を縁ず」といわれる 「彼を縁ず」を指しています。「彼を縁ず」ということが何を指すのかと云うと「蔵識の見分のみを認識対象とする」ということなのですね。第七識は絶えることなく相続し、第八識の現行と、種子を所依として、所縁の境を認識し続けているということを表しているのです。此の識が私の意識の底にあって私に気づかれることなく私を執着しつづけている。錯覚はこのところから起こってくるのでしょうね。
 結論としては、「依彼転」が指す第七識の依とは因縁依と倶有依である。
 所依について厳密には、三所依とは因縁依(種子依)・増上縁依(倶有依)・等無間縁依(開導依)を指しますが、『述記』によりますと、所依は倶有依をいい、因縁依と等無間縁依は依であると云われています。
 三所依について個別に説明しますと、初めに因縁依ですが、
 因縁依は、因縁という所依。心を生じる根本原因である因縁を指します。種子と現行が一切の因縁依になるわけです。(種子生現行と種子生種子の因果関係は種子が因で現行が果、そして現行薫種子では現行が因で種子が果になるわけです。)ただ、因縁依と種子依については因縁依の場合は三つの因果関係おいて一切の有為の現象界を捉えているわけですが、種子依の場合は種子といわれるように、種子から生じる場合にのみに云われることで、現行薫種子は含まれないのです。
 『論』に「一には因縁依、謂く自の種子ぞ、諸の有為法は、皆此の依に託す」といわれている「自の種子」とは「種子識」であるという、識の視点から述べられたものであって現行薫種子も含まれるのです。また現行薫種子・種子生現行と現行薫種子との一連の過程が同時に起こることを「三法展転因果同時」といわれ、これに種子生種子を加えた三つの過程で阿頼耶識縁起が構成されているのです。
 種子生種子と、種子生現行と現行薫種子との三つの過程で阿頼耶識縁起が構成されているわけですが、
 良遍は『二巻抄』の中で次のように、
 「サレバ種子ハ現行ヲ生ジ、現行ハ種子ヲ生ズ。種子ハ種子ヲモ生ズ。此ノ三ノ縁ハ因ノ体則転ジテ果ト成リ、其ノ縁尤シタシ。先キニ申シ候ツル四縁ノ中ノ因縁ハ、此ノ三ノ因縁也。新薫・本有ノ種子ノ相、略シテ此の如シ」 と阿頼耶識縁起を説明しています。簡潔ですね。
 次に、増上縁依(倶有依)についてですが、
 「二には増上縁依、謂く内の六処ぞ、諸の心心所は、皆此の依に託す、倶有根に離れては、必ず転ぜざるが故に。」(『論』第四・十三左)
 (二には増上縁依である。それは内の六処(眼根等の六根)である。諸々の心心所は皆この依を依り所として生じる。諸々の心心所は倶有依を離れては絶対に転じることはない。)
 問題は意根ですね。第六識の意根は何を増上縁依とするのかというと、第七識と第八識の二識が第六識の増上縁依なのですね。そして第七識と第八識は相互に意根となり、互いに増上縁依となると説明しています。
 また、前五識の増上縁依(倶有依)は必ず四種があり、それは五色根と、第六識・第七識・第八識との識であるのです。
 大田久紀師は「増上縁依―倶有依は、第七識をも含めて、八識が相互にどのような関係にあるかを説くものである。一応のねらいとしては、八識相互の関係を捉えながら、第七識の性格を明らかにしようとするのであるが、結果的にはそれは、第七識の性格のみの問題にとどまらないで、有漏の人間の全体構造を唯識仏教の立場から組織したものと考えられる。その意味に於ては、三依の中で最も注目すべき一といえる。」(『成唯識論』の末那識 - 利己的自己について - より)と述べられています。
 次に、 等無間縁依(開導依)についてですが、
 「三には等無間縁依、謂く前滅の意ぞ、諸の心心所は、皆此の依に託す、開導根に離れては、必ず起らざるが故に」(『論』第四・十三左)
 (三には等無間縁依である。等無間縁依は前滅の意である。諸々の心心所は皆この等無間縁依を依り所として生ずるのである。それは開導依を離れては諸々の心心所は絶対に生起しないからである。)
 開導根とは開導依のこと。開導は開避(「因縁は種子法の如く等無間縁は開避法の如し」)とも、開闢(等無間縁は能く聖道門を開闢す」)ともいわれ、導くことで、開導依は「刹那前に滅した心を開導依」という。例えば、「ある物の動きを知覚するのは、一刹那一刹那に視覚が滅しては生じているからである。一刹那前の視覚は自らが滅することによって一刹那後の視覚をいわば引導して生ぜしめていることになる。」(『唯識とは何か』 横山紘一著より) 開避引導の意で存在の生起する路を開き、そして後の心心所を引いて導く(生じさせる)というのがその意なのです。
 因縁依は体を生じさせる所依なので、この所依がなければ「諸々の有為法は自らの因縁を離れては生じることはない」といい、増上縁依は能依と同時に転じる所依なので、この所依がなければ、「諸々の心心所は絶対に活動することはない」と述べられ、等無間縁依は生起させる所依なので、この所依がなければ、「諸々の心心所は絶対に起こらない」という。三の文(本文末尾の一文)が異なるのは、これによって三所依が異なることを明らかにしようとしているのです。「生ぜず」・「転ぜず」・「起こらず」ということをもって三所依の異なることを顕しています。
 以上は略説になります。ここから広く論説されますが、今日はここで擱いておきます。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (23)

2017-02-17 20:58:14 | 阿頼耶識の存在論証


  円成実性
 円成実性は言葉としては仮に語られますが、依他起の自覚が円成実性なんですね。目覚めであり、頷きです。
 お念仏に依って生かされている身の頷きが、本願を証明するのでしょう。それ以外に本願の働きは有りませんね。身が頷かないで、本願を語っても、それは形而上学でしかありません。頷いたら、「すでにしてあった」ということでしょう。それが本願成就ですね。
 「生かされている」という頷きが依他起の世界でしょう。「生きている」のが遍計所執になりますね。
 「生かされている」という頷きが、種子として宿る。=有為無漏 → 涅槃証得
 「生きている」という思いが種子として宿る。=有為有漏 → 生死流転
 という構図になると思います。いのちは恒に種子を所縁として動いているのです。

 「円成実性とは是れ第四句の「及び涅槃と証得と」なりと云う。即ち無漏法の有為と無為となり。四清浄の法を円成実性と為すなり。涅槃と証得とを各別に説くが故に。」(『述記』)
 四清浄は、『雑集論』(大正31・691)では、依止清浄・境界清浄・心清浄・智清浄を挙げています。如来の一切種清浄を表しています。
 つまり、
            染
 阿頼耶識は  〈      の依  (『無性摂論』巻第一) である。
            浄 

 一切諸法の種子である識は阿頼耶識であって、阿頼耶識の種子より現行が生起するわけです。その時に、染の種子が現行するのか、浄の種子が現行するのかが修道の問題になってくるのでしょう。
 そこで、阿頼耶識の所縁は種子、所依は末那識ですね。種子が因として、現行が縁となり種子を熏ずるわけです。そこで問題となるのは所依です。因縁依(種子依)・倶有依(増上縁依)の問題です。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (22)

2017-02-16 21:20:58 | 阿頼耶識の存在論証
  

 遍計所執性
 計は計度(ケタク)。計らいです。何を計らうのかといいますと、偏に自分の思いに固執することですね。執は執着のことですが、依他起の固定化です。動いているのを止めてしまうことが執着の本質です。つめまり、縁起を無視したあり方ですね。
 「遍計所執とは即ち第三の句なり。「此れに由って諸趣有り」。謂く執を起こすが故に諸趣遂に有り。彼の趣を生ずるを以てなり。或は諸趣を縁じて而も執(遍計所執)を起こす。此れ(五趣)は彼(遍計所執)に由って起こる。故に是れ彼が性なり。或は趣とは此れ見趣なり。二執(我執・法執)を起こすが故に。」(『述記』(第四本・十四右)
 『述記』の説明の通りです。簡潔に説いています。
 執を起こしたから趣があるということでしょう。人間の身をいただいたのは、執を起こしたからですね。ですから悪趣です。悪趣としての果報を得たのですが、種子が執ですから趣がまた執を起こすのです。これが生死流転なんですね。しかし、本願に出遇えば「悪趣自然閉」。生まれたことの醍醐味でしょう。
 先日も講義の中でお話をさせていただいたのですが、止める、固定化するとですね、わかりやすくいえば堰です。人工的に堰をつくりますと、そこにはヘドロが山積されます。ヘドロ、これが所謂煩悩です。溢れるということもあるのでしょうが、溢れるのはあらあらしい煩悩ですね。細やかな煩悩は沈殿します。そして煩悩は身に纏いついているのです。すべて固定化の問題、遍計所執です。遍計所執によって生死流転していくのですね。依他起に還れば、そこは円成実の世界なんです。理屈ではこうなるんです。このようにいかないところに、人間としての営みの面白さが有るのかも知れません。
 事実は依他起、固定化が執、目覚めが円成実。
 「本願を信じ念仏すれば仏になる」、これは依他起で、無私の法悦が円成実なのでしょう。そして、いつでもどこでも固定化を破っていく働きを持っているのが事実としての依他起ですね。
 大胆に言い放ちますと、依他起が還相の働きをもっているのかも知れません。身の事実、そこに還れと。
 依他起は事実を言っているわけですから、還れということはおかしいのです。還の痛みですね。本国を見失っている者への痛み、大悲といっていいのでしょうか。事実は、事実を見失ったら働きを具現化するのでしょう。そのように思えてなりません。これが第八識所縁の問いかけになります。
 「我が身が問われている」のは所縁からの問いかけだと思いますね。所縁に反逆している「思い」(遍計所執)に対して、所縁に還れと問いを発しているのですね。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (21)

2017-02-15 22:25:46 | 阿頼耶識の存在論証
    涅槃会

 「謂く依他起と遍計所執と円成実性とぞ。次の如く応に知るべし。」(『論』第三・十八左)
  依他起は後の三句の初句、つまり第二句「一切法等依」(一切の法において等しく依たり)を釈しています。依他起は有漏・無漏の有為法をいいます。無為法は真如ですから依他起ではありません。全ての事柄、現象は他に依って起きる。因縁ですね。有為法は有漏であれ、無漏であれ、因縁で生じているのです。
 思い起こしますと、浄琳寺の若院が「唯識聞きにいこ」とお誘いをかけて頂いておらなかったなら、唯識に触れることはなかったでしょうね。様々なご縁をいただいているのですが、不思議としかいいようがありません。でもずっと一貫して学ばせていただいていたのかと云いますと、違うのです。ごめんなさいね、「仏教なんて」といって一旦はごみ箱に捨てたんです。捨てたつもりだったんですね。ある日なにか日常の生活に物足らなさを感じていた時に、たまたま中日新聞の宗教欄に法話会があるのを見たんです。何故か足が動きまして、碧南まで聴聞にいかせていただきました。そして東別院の聖典講座にも顔を出すようになり、そこで、あるご婦人からお声かけをいただき、鶴田君を知ることになったんです。そうしましたら、なんと『唯識三十頌』を読むといわれたんですね。うわあ、めちゃ懐かしいと思ってですね、鶴田君の唯識を聴くことになりました。それがずっと続いていくことになるのですが、不思議ですね。そこからいろんなご縁をいただいて有難いとしかいいようがありません。このことが依他起なんでしょう。依他起よって今の私がある、その頷きが円成実、円満に完成した真実だと思いますね。
 有為法は、「諸法の種を含蔵するが故に説いて所依とす。」(『述記』)と。有為法は種子を所依として生起する、これを依他起性と云う。
 明日は遍計所執について考えます。能・所・執の執蔵に関係する事柄ですね。
 今日のFBより、
 「今日はお釈迦さまが涅槃に入られた日(入滅・涅槃会)です。
宗祖は、
「釈迦如来かくれましまして/二千余年になりたまうふ/正像の二時はおわりにき/如来の遺弟悲泣せよ」
と、お釈迦さまの恩徳を讃えておいでになります。
僕は、阿頼耶識の因相が種子であって、この種子が一切の現象の依り所となることがなかなかわからなかった。
阿頼耶識は何を所縁としているのか、阿頼耶識が所縁としているのは、種・根・器。具体的には種子でしょう。種子生現行ですね。私は種子を因として生まれてきた。
種子は界(三界)・趣(五趣)・生(四生)を引いて来る働きをもっている。果相ですね。
果相は異熟識。過去の業因(種子)に由って現在の生を受けている。
そして現在の生も刹那の行為を種子として、生の相続がうけつがれている。
心は具体的には一切種子識なのですね。
心は外界を所縁としているのではなく、種子を所縁としているのでした。
我が心の影像を認識して一喜一憂しているのです。
ここで、初めて世界は我が心が作り出した影像であることがわかるわけです。
一切の現象は我が心の影でした。
私が迷うと世界が迷う。
私が風邪をひくと世界が風邪をひく。
私が目覚めると、世界が如実に見える。
つまり如実知見を得ることからしか世界は見えない。
 外界が有るとかないとかの話ではないのです。有るといえば常見になり、無いといえば断見に陥ります。外界を所縁とはしないということです。種子を疎所縁・親所縁とする認識のあり方を通して、外界そのものを問い続けていると思います。
「如来の遺弟悲泣せよ」南無阿彌陀仏