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「勝者のみに開示す」は、後(『論』第三・十九右)で説明されます。簡単に云いますと、諸の菩薩衆です。見道通達位已上の菩薩が勝者であると、仏陀は勝者にだけに教えるのだと、まあ、こういうことです。
「由摂蔵諸法一切種子識」(諸法を摂蔵する一切種子識に由る)
このことを以て、阿頼耶識と云うのである。このことを解釈するのに三義あるといっています。
(1) 阿頼耶識の三義の中の能蔵を以て阿頼耶というのだと。
(2) 阿頼耶と云う限りは、三義が備わっているからである。能蔵・所蔵・執蔵の義を具えている。
「能摂蔵ノウショウゾウ)を挙げて所蔵(ショゾウ)の性を顕す。」(種子を摂めとることを通して、種子を植え付ける所蔵の性格を明らかにしている。)
理由は、
「雑染の種子と互いに縁と為るが故に。」(能・所の交互性に由る。所は七転識で有漏の種子を能である阿頼耶識に熏習する。熏習された阿頼耶識は、雑染の種子を宿すわけです。これが阿頼耶識の純粋性ですね。)
此れに由って、
「此の持する能に由って、内に執して我と為すは則ち執蔵の義なり。故に三蔵を具す。」
阿頼耶識の純粋性が七転識によって執着されることになるのですね。その因が種子にあるということなのです。
つまり、執蔵される種子によって現行識が語られているのです。
次科段においても摂蔵の義が語られます。
「此の本識諸の種子を具せるに由って、故に能く諸の雑染法を摂蔵すと云う。」(『論』第三・十九右)
この本識(第八識)は多くの種子を摂め備えている。だからよくあらゆる雑染法(有為有漏法)を摂蔵していると云えるんですね。
自分の思いで暮らす、日常生活を送るのが雑染なのです。思いです。思いは我です。我は我所を作ります。そして我所に執着します。それが煩悩なのですね。漏れるものが有るというわけです。たとえ清浄法(無漏)に出遇っても、自分の秤にかけて分別を起しますと、全ては汚れます。
三性で善悪無記と表されますが、善悪は分別されたもの、分別されたものは雑染です。無記は無分別なんですね。
親鸞聖人は、善導大師の『散善義』を引用なさって、我愛のもっている雑染性を我が身に引き当てて語られますね。
「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚仮を懐きて、貪瞋邪偽奸詐百端にして悪性侵めがたし、事蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心起行を作すは、たとい身心を苦励して日夜十二時、急に走め急に作すこと、頭燃を炙うがごとくするは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲うは、これ必ず不可なり。」と。(『信巻』)
内に虚仮を懐いているのは、愛心から出るのだと、『浄土文類聚鈔』では押さえておられます。
「愛心常に起こりてよく善心を汚す、瞋嫌の心よく法財を焼く。身心を苦励して、日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を炙うがごとくすれども、すべて雑毒の善と名づく、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。この雑毒の善をもってかの浄土に回向する、これ必ず不可なり。」
「悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる」(『愚禿悲歎述懐和讃』)
卑下の心からは出てきませんね。無我心です。無我の心が鏡となって己の末那識の正体を見破られたお言葉だと思います。
説明ですが、正体を見破ると転ずるのです。差別心が平等心にですね転ずるわけです。つまり、差別心は元よりは無いといっていいのではと思います。末那識に依って平等心を覆い隠してしまいますと差別の心しか起こってこないのですね。八地以上の菩薩以外は差別の心をもって日常の生活を送っていると断言してもいいんでしょう。