その二は、定を加える理由を述べる。
「並に定有ることは、一類の所執の我の境に専注して、曾て捨せざるが故に。」(『論』大師・三十四右)
(ならびに定が有ることは、一類である所執の我の境に専注して、いまだかって捨したことがないからである。)
「述して曰く、何の慧を以て定あるや。一類の所の執我の境に専注して暫も捨せざるが故なり。忘念の曾受の境を縁ずるが如く此れは一物を縁ず。故に定あるなり。前の師には同じからず。彼は念無しというが故に新新の現の境を縁ず。故に亦定も無しという。此れが中に之有りということは存せる所別なるが故なり。」(『述記』第五本・五十七右)
新新(しんしん) - 現象が一刹那一刹那に生滅しながら新たに生じるありさま。新新の現の境は第八識の新新の現在の境のこと。
第七識と相応するのに定が存在するのは、「一類である所執の境に専注」するからであると説明します。定とは心一境性と言われていますが、これは一類に相続してきた第八識を第七識は我であると錯誤し執着して自の内我として専注する。専注するが故に、「曾て捨せざるが故に」 と。その専注を止めたことがない。このことは定の性である心が散乱することなく静かに定まっている、心が一つの境に止めおかれた状態と同じことである。従って第七識に定は存在する、即ち第七識と定は相応するのであると説明しています。
その三は、惛沈を加える理由を述べる。
「惛沈を加うることは、謂く、此の識と倶なる無明いい尤重(ゆうじゅう)にして、心惛沈なるが故に」(『論』第四・三十四右)
(惛沈を加えることは、、つまり、此の識(第七識)と倶である無明は最も重くして、心が惛沈するからである。)
尤重 - 罪・過失・煩悩の程度が最も重いこと。
「述して曰く、無明いい重なるが故に。内に迷執するが故に。外に追はざる故に。故に惛沈有り。」(『述記』第五本・五十七左)
六遍染師は第七識と相応する心所に惛沈を加えています。惛沈は随煩悩であるが遍染の随煩悩ではないと。しかし第七識とは相応すると主張します。尚、惛沈については2010年2月15日の項を参照してください。)惛沈の存在論については三説が有り、第三説が護法の正義とされます。
「惛沈は別に自性有り。痴の分と雖も而も是は等流なるを以ってす。不信等の如し。即ち痴に摂めらるるものには非ず。」(第三説)
いろいろな説が紹介されているのですが、まず第一説は貪りの一分であるというもの(無明の一部であるという説)。第二説は一切の煩悩に於いて共通して有るものという(すべての煩悩の一部であるという説)。そして第三説が本旨です。「惛沈は別に自性有り」といい、独自の心所であるといっています(固有の体を持つという説)。ですから癡の一分とか、一切の煩悩に共通して有るというものではなく、独立して働くというのです。心が高ぶったり、沈んだりするのは癡と共にとか、一切の煩悩と共にということではなく、独自に働いているといわれるのです。
この護法の正義から『論』を読み解くことは理解しにくい部分がありますが、素直に第一説の無明の一部であるという説に則って理解しますと。惛沈(こんじんー重く沈んだ心)「しずみおぼれたる心なり」(『ニ巻抄』)といわれ、心が重く沈んだ状態をいうのは無明の別用であるわけです。ですから第七識に惛沈は存在するという理解は頷けます。