唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (86) 第八 三学分別門(学等分別門) (2)

2015-04-17 23:01:53 | 第三能変 三学分別門
  野田藤。福島区野田に有る保育園の藤棚です。昨年の4月24日に撮影したものです。今年も来週あたりが見頃かと思います。 僕は19日の日曜日、難波別院の日曜講座を聴聞して、ぶらり散歩しようかなと思っています。

  
 「学と無学とには非ず、彼は唯善のみなるが故に。」(『論』第六・二十一左)
 有学と無学とではない。有学と無学はただ善のみであるからである。從って、十の煩悩は非学非無学のものである。つまり、有学と無学は唯善だから、煩悩のような染のものではないちうことなのです。染とは有覆無記や不善(悪)のものであるから、十の煩悩は非学非無学のものである。注意が必要なのは、有学・無学は唯善であって、非学非無学は唯善のみではなく不善も併せ持っているということです。一切衆生と云う存在にも、善の心所は有るということです。
 非学非無学 ― 学に非ず、無学に非ず。断じ尽くすべき煩悩は断じておらず、なお学び修することのある学でもなく、もはや学ぶべきことは学びつくし、もはや学ぶべきことがなくなった無学でもない人、真理を覚っていない凡夫・異生の人をいう。
 次科段は、第九の三類分別門に入ります。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (85) 第八 三学分別門(学等分別門)

2015-04-16 23:15:35 | 第三能変 三学分別門
 昨年度の葛井寺の藤、もう一題   

 今日から、八の三学分別門に入ります。初めに問いが設けられています。
 根本煩悩の十は、有学と無学と非学非無学では、いずれに摂められるのかという問いです。
 「此の十の煩悩をば学等においては何にか摂むる。」(『論』第六・二十一左)
 「述して曰く。第八大門の中に学とは、有学と無学と非学と無学となり。然るにただ第三なり、前の二種に非ず。瑜伽の五十七に二十二根の中に有学無学は漏無漏に通ず。然るに彼(有学と無学)はただ善、此れは染なるが故に非ず。」(『述記』第六末・五十五左)
 
 非学非無学は凡夫(初地より以前)を指します。
 『述記』の第一段は学の説明であり、第二段において十の根本煩悩と相応するのは非学非無学であることを明らかにしています。 今日は発題だけ述べまして、明日につなげます。 おやすみなさい。