第七識相応の心所について、その正義とは何かに答えているのが、第四師の説である護法の説です。護法正義といわれています。その内容は『論』の記述に従って伺っていきますが、先ず、その要旨を述べてみます。
第七末那識は十八の心所と相応する、というのが正義になります。
「惛沈と掉挙と不信と懈怠と放逸と忘念(失念)と散乱と不正知となり。」
「然も此の意と倶なる心所は十八なり。謂く前の九法と八の随煩悩と並びに別境の慧となり。余の心所無きことと及び論の三文とは。前に准じて釈すべし。」
即ち、根本の四煩悩と五遍行と別境の慧と随煩悩の八が第七末那識と相応する、といわれ、捨受相応になります。第七末那識は無始已来任運に一類に相続するから、憂・喜・苦・楽の変異受とは相応しないからです。
第七末那識の性格は恒審思量といわれていますように、恒に細やかに我を思いつづけている働きなのです。ですから恒に真実を覆い隠し、心を染汚していくのです。そのことによって自らが自らを縛っていくという性格をもっています。
そして八つの大随煩悩が第七末那識と倶に働くわけです。根本煩悩と倶に八大随煩悩が働きます。この大随惑といわれる煩悩は不善と有覆無記との両方に働きますが、第七末那識と相応するときには有覆無記として働きます。不善は麤動に働きますが、有覆無記の働きは審細なのです。自覚することが非常に難しいというより、不可能なわけです。ここに聞法の課題があるように思われます。
「しかるに常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽実に獲ること難し。何をもってのゆえに。」(真聖p211)という課題です。
最後が別境の慧の心所が第七末那識と相応するということです。慧の心所は「所観の境の於に簡択するを以て性と為す」といわれています。我と我所を簡択する心所なのですね。自分と自分のものを明らかにし、恒に自分の利益になるように働いていくエゴイズムです。それが自と他(自尊損他)を分ける働きを持つ慧の心所なのです。無意識的に、いわば自己防衛本能として意識の底に漂っている我執なのです。我執を乗り越えようとする意識を覆い隠そうとする潜在的意識が働いているのですね。
では『論』の記述に従って学びをつづけていきます。
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