昨日の科段についての補足説明です。『述記』の所論を述べます。
「論。無瞋亦爾至是無瞋故 述曰。非離無瞋別有自性。謂於有情不爲損惱。體性賢善之相即無瞋。故離無瞋無別不害。明不害是假也。第二出十一善體已。」(『述記』第六本下・二十九右。大正43・439c)
(「述して曰く。無瞋に離れて別に自性有るものには非ず、謂く有情に於て損悩を為さず、体性賢善なるの相即ち無瞋なり。故に無瞋に離れて別の不害無し。明けん不害は是れ仮なり。
第二に十一の善の体を出し已んぬ。」)
有部等が、不害とは損悩しないこと、その体は無瞋ではなく、賢善であると主張してきたが、無瞋もまた有情をして損悩を為さずを体とする働きを持つ。即ち、有情を損悩せず体性が賢善であるものこそ無瞋だからである。従って、無瞋に離れて不害はない。不害は無瞋の働きの一分である抜苦の働きに依って仮立したものである。
ー ・ -
第三は、諸門分別を述べる。諸門分別とは、諸門から善の心所を分析し説明することである。諸門は十二に分けられて説明されます。
- 義摂所余
- 問答廃立
- 徴責多少門
- 仮実分別門
- 倶起分別門
- 八識分別門
- 五受相応(受倶門)
- 別境相応門
- 三性分別門
- 三界分別門
- 三学分別門
- 三断分別門
第一に、義を以て所余に摂める。十一以外の善の心所について述べる。『頌』に「行捨及び不害」と云う中の「及」は、因に及の字を解釈する。及とは、善の十一の外に更に義の別なる心所あることを顕しているのである。つまり、欣・厭等のような心所である。
「及と云うは十一より義別(コト)なる心所ありと云うことを。謂く欣(ゴン)と厭(オン)との等(ゴト)き善の心所法ぞ。」(『論』第六・八右)
善の心所が十一の心所の他にも義が別である善の心所が存在するということを明らかにしている、つまり、欣と厭などのような善の心所である。
「行捨及不害」という。「及」という語の解釈のところに諸門分別を行っています。善の心所は「頌」には十一と決定されていますが、他の論書においては十一に限らず無数に立てられているわけです。義別なる心所があるということですね。これが「及」と一字によって表されています。
「及」の意味
- 相違義 - 善の十一心所は各々体が別であることを示している。
- 合集義 - 善の十一の心所の他に善の心所があることを示している。
本科段は合集義に由って解釈されていますが、これは善の心所の分位として別、或は別境の中の善のものの分位として別という意味を表しているのですね。例えば、欣も厭も善の心所法として立てられていますが、欣は欲と無瞋の心所を体として成り立っています。欲は別境の心所ですし、無瞋は善の心所です。欲の心所と無瞋の心所が一つになった時に欣が成り立つわけですね。義が別として立てられた心所であるというのです。厭もですね、別境の慧と相応する無貪の上に立てられた心所になります。
「たとえば、欣とか厭とかいうことがある。欣も厭も善の心所法として立てられているが、欣は欲と無瞋の心所を体として成り立つ。欲は別境、無瞋は善の心所である。欲と結合した場合の無瞋、その上に欣が成り立つ。欲は希望であり、希望される対象に対して瞋のないこと、それが欣であるという。
厭というのは慧と相応する限りの無貪、それが厭である。厭離穢土というのは、凡夫の場合には意識できぬが、仏法に触れて穢土を教えられる。慧と相応した限りの無貪、つまり厭うべきところの対象に対して貪着がないことである。慧は別境、無貪は善の心所である。『瑜伽師地論』では欣とか厭とかいうことが数えられるが、かく義の別として立てられたのである。」(『安田理深選集』第三巻p364より引用)
「論。及顯十一至諸心所法 述曰。自下第三諸門分別。於中有十二。第一義攝所餘頌云行捨及不害。此因解及字。謂及顯善十一之外。更有義別心所。謂欣・厭等。梵云遮有二義。一及。二等。不能置等言故總有及字。及字有二義。一顯十一各各體別。即相違釋。二顯十一外心所。今論但約等取餘法一義解也。」(『述記』第六本下・二十九右。大正43・439c)
(「述して曰く。自下は第三に諸門分別なり。中に於て十二有り。第一義を以て所余を摂す。頌に行捨及不害と云う。此れは因みに及の字を解す。謂く及というは善の十一の外に、更に義の別なる心所有るを顕す。謂く欣・厭等なり。梵には遮と云うに二義有り。一に及、二に等なり。等の言を置くこと能わず。故に総じて及の字有り。及の字に二義有り。一に十一の各々に体別なることを顕す。即ち相違釈なり。二に十一より外の心所を顕す(合集釈)。今論は但だ余法を等取する一義に約して解す。」)
「欣と云うは謂く欲と倶なる無瞋の一分なり。・・・・・厭と云うは謂く慧と倶なる無貪の一分なり。」(『論』)
「厭離穢土 欣求浄土」ということもですね、穢土を厭離し、浄土を求めるということなのですが、これは無瞋の一分であり、無貪の一分であるという。追って詳しく説明されます。