唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (7)

2013-10-31 23:03:24 | 心の構造について

 無貪の分位である善の心所の説明

 その一は、「厭」についての説明です。

 「厭と云うは、謂く慧と倶なる無貪の一分なり。所厭の境の於に染著(ゼンジャク)せざるが故に。」(『論』第六・八左)

 先ず、別境の慧とともに働く無貪の一分である「厭」について説明されます。これは、無貪の分位と別境の慧とが倶に働くことによって現れる心所を述べ、その心所は「厭」であることを明らかにしています。

 善の慧と倶に働き、不厭を対治する働きを持ちます。「慧」は「諸法の性を簡択する働きをもつもの」、即ち正・不正を簡び択る(判断する)働きをもつものであり、真実を疑う心を除くもの、これが智であるといわれています。

 では「厭」が何故無貪の一分であるのか、それが「厭する対象に於いて染著しないこと」。染著しないというのは、執着しないことですね。何事においても執着を起こさないことが「厭」の性であり、別境の善の慧と倶に働く無貪の一分を仮立したものが「厭」の心所ということになります。

 『述記』には「此れは無貪の一分なり。所厭の於に染ぜざるが故に」と説明されています。

 日本シリーズを見ていましたが、楽天勢いがありますね。のびのびと野球を楽しんでいるようにも見えました。明後日はマー君ですね。今年一年の締めくくりは東北楽天イーグルス田中マー君で決まりですね。


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (6)

2013-10-30 23:00:48 | 心の構造について

 昨日は、FBの三経一論の会に投稿しました。よろしければご批判を頂きたいと思います。

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 「応に随って」についての二つの解釈について。

 第一釈 - 「欣と欲と倶なるに同じからざることを顕す故に」
と。欲と倶であるのか、倶でないのかという視点から解釈されています。欣は無瞋の働きの一分に仮立された心所であるが、別境の欲と倶に働く心所であるのに対して、忿等の心所は欲と倶には働かない、と解釈されています。

 第二釈 - 「此の忿等は然らず。唯だ是れ彼の無瞋の一分なり」と。欣とは無関係に「忿等はそうではなく。無瞋の一分に仮立されたものである。」と解釈されています。

 「不嫉等も同様である」という等について、

 『瑜伽論』巻第八十九に説かれていることを指して、随煩悩の心所を翻じた不憤発・不悪説・不不忍・不触突・不??・無恚尋思・無害尋思の七つを等取(同一)するものである。『瑜伽論』の記述は取意ですが、『演秘』(第五本・二十五左)には、

 「論。不恨惱嫉等者。准瑜伽論八十九。依嗔而立七差別法。亦合翻之依於無嗔立於善法。故言等也。即彼論云。若煩惱纒能令發起執持刀杖鬥訟違諍故名憤發。於不順言性不堪忍故名惡説。於罵反罵於嗔反嗔等名爲不忍。爲性惱他故名抵突。性好譏嫌故名??。心懷憎惡。於他攀縁不饒益相起發意言隨順隨轉名恚尋思。心懷損惱。於他攀縁惱亂之相起發意言。餘如前説名害尋思。」(大正43・915b)

 と述べられています。

 「論に不恨・惱・嫉等とは、瑜伽論八十九に准ぜば、瞋に依りて七の差別の法を立つ。亦た合して之に翻じて無瞋に依って善法を立つべし、故に等と言うなり。即ち彼の論に云う。

 (1)若し煩悩に纏れて刀杖を執持して闘訟違諍することを発起せ令むるが故に憤発(フンポツ)と名づく。(いかりでこころが動揺すること。)
 (2)不順の言に於ては性は堪忍せざるが故に悪説と名づく。
 (3)罵らるるに於て反って罵り、瞋するに於て反って罵る等を名づけて不忍と為す。(他人からのいかりや罵り、苦しみを耐え忍ぶことができず、こらえきれないこと。)
 (4)性となり他を悩ます故に抵突(テイトツ)性と名づけ、(他人を悩ませようとする毒々しい悪意をいだくこと。)
 (5)好と譏嫌する故に??(ヒシ)と名づく。(そしること)
 (6)心に憎悪を懐いて、他に於て攀縁(ハンエン)して不饒益の相を以て意言を起発して随順し随転するを恚尋思(イジンシ)と名づけ、(三種の悪い尋思の一つ。憎み怒る心を懐いて他者によくないことをしようと思うこと。三種とは、欲・恚・害尋思の三つをいう。)
 (7)心に損悩を懐き他に於て悩乱の相を攀縁して、以て意言を起発し、余は前に説くが如くなるを害尋思と名づくと。(汚れた心で以て他人を傷つけよう、殺そう、悩まそうと思いをめぐらすこと。)

 以上のように、嫉等と同様にこの七つの心所も瞋の一分であり、これは所対治ですね。能対治が不憤発等ということになります。善の心所は十一ですが、能対治と所対治を相対させますと、煩悩と随煩悩の二十六は対治できると述べています。


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (5)

2013-10-28 22:43:05 | 心の構造について

 二十随惑の中の四法も瞋の一分であることを述べる。

 「不忿と恨と悩と嫉との等きも亦た然なり。応に随って正しく瞋の一分に翻ぜるが故に。」(『論』第六八右)

 二十随惑の中の四法(小随惑)である、不忿と恨と悩と嫉との等きも亦た欣と同様である。不忿・恨・悩・嫉等は、無瞋の一分であり、無瞋の分位仮立法であることを明らかにしています。文章を読まれて少し変と思われたことでしょうが、四法の不は恨・悩・嫉にもかかりますので、正確には、不忿と不恨と不悩と不嫉という意味になります。「不」が省略されていますので、注意が必要ですね。

 『述記』には、はっきりと「不忿と不恨と不悩と不嫉」と述べています。そして「応(ヨロシキニ)随って正(マサ)しく翻ず」と、忿・恨・悩・嫉の四法は、根本煩悩の瞋の一分に立てた仮立法であり、この四法を翻じて立てられた善の心所が、不忿と不恨と不悩と不嫉であるということなのですね。翻じられたもの(正反対のもの)は無瞋の一分であり、不忿と不恨と不悩と不嫉の所治は瞋の分位である忿・恨・悩・嫉ということになります。

 「論。不忿恨惱至瞋一分故 述曰。翻二十隨惑中四法。不忿・不恨・不惱・不嫉亦然。隨應正翻無瞋一分。彼所治者瞋之分故。」(『述記』第六本下・三十左。大正43・439c)

 (「述して曰く。二十随惑の中の四法を翻ず。不忿と不恨と不悩と不嫉も亦た然なり。応に随って正しく無瞋の一分を翻ず。彼の所治は瞋の分なるが故に。」)

 「随応の言」については二つの解釈があることが『述記』に記されています。

 「隨應之言顯不同欣與欲倶故。此忿等不然。各各別翻。又但是彼無瞋一分。故言隨應。復言等者。依瑜伽八十九。等取不憤發・不惡説・非不忍・不觝突・不?訾・無瞋尋・無害尋等七法。」(『述記』第六本下・三十左。大正43・440a) 

 (「応に随っての言は、(第一釈)欣と欲と倶なるに同じからざることを顕す故に、(第二釈)此の忿等は然らず。各々に別に翻ず。又但だ是れ彼の無瞋の一分なり。故に随応と言う。
 「復た、等というは、瑜伽八十九(大正30・802c~803a)に依れば、不憤發(フフンポツ)・不惡説(フアクセツ)・非不忍(ヒフニン)・不觝突(フテイトツ)・不?訾(フヒシ)・無恚
尋思(ムイジンシ)・無害尋思(ムガイジンシ)等の七法を等取す。」)

 これら七法も同様であるということです。この項は明日もう一度考えてみたいと思います。

 それでですね、『瑜伽論』巻第八十九を読んでいまして、一つの記述に眼が止まりましたので紹介しておきます。慚愧心についての記述です。

 三種の箭(ヤ)を明かすの文。

 「若し貪瞋癡は慚愧を遠離し、慚愧無きが故に一向無間に制伏す可らず、定んで傷損を為すを説いて名づけて、箭と為す。」

 貪瞋癡の三毒の煩悩を箭に喩ています。箭は損傷を為すということ。三毒の煩悩は、自他を切ってしまい、相手を傷つけ損ない、他を顧みずことなく財物等を蓄積し、人として大切な心、慚愧心を遠離してしまう働きを持つ、これは「極めて下穢なる義なり」と説かれています。


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (4)

2013-10-27 15:01:08 | 心の構造について

 (「述して曰く。此れは是れ無瞋の一分なり。境に於て憎まず。方に彼を欣うが故に。此の性は欲に非ず、欲と倶なる法なり。八十六に三不善根の衆名を解する中に、瞋を説いて欣と名づけず。貪を亦た欣と名づく。今若し彼の名に翻ぜば、不欣は無貪の一分なるべし。貪は是れ着の義なり。染の貪を欣と名づく無貪は厭の義なり。無瞋を欣と名づく。各一義に約す。亦た相違せず。」)

 『述記』は、欣というのは、別境の中の善の欲(善法欲)と倶である無瞋の心所の一分である、と解釈をしています。では、何故欣が無瞋の一分であるのかという理由が次に述べられている所です。

 「所欣の境の於に憎恚せざるが故に」(欣の対象に対して憎悪しないからである)

 即ち、欣はただ別境の善の欲が体ではなく、善の欲と倶に働く、対象に対して憎悪しないという無瞋の一分を欣の体とし、不欣を対治することを以て性とする心所であり、無瞋の一分に対して立てられた仮法であるので、一つの心所としては立てないといわれています。

 「穢を捨て浄を欣う」(『教行信証』総序の文。真聖p149)という意味もですね、単に厭離穢土・欣求浄土という、邪見から出た欲望ではないんですね。願いが込められているのが明らかにされています。私たちは、憎しみのない世界を願っているのです。それを求めているんだけれども、邪見をいう雲霧に覆われて見えない世界を造っている。そういう世界を造りだしている自身を罪悪深重の身として受け取られたのが親鸞聖人ではなかったのか、と思います。教えとの出遇に於いて見えてくる世界が、どこまでいっても閉ざされた世界を造ってしまう自己であったという無慚無愧の自覚なのでしょう。しかし無慚無愧の自覚に頭が下がっていくところに通じ合う世界が開示されていたという、はからずもですね。差異を認め合う世界がすでにして開かれていたということなのでしょう。


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (3)

2013-10-25 23:26:24 | 心の構造について

 『演秘』の所論を伺ってみましょう。

 義を以て所余を摂す。ここは分位仮立法を説明しています。

 「論。雖有義別至故不別立者。准瑜伽論五十六中。依嗔・貪等立餘染法 應翻爲淨。爲無異故。故此不言。即彼論云。多隨嗔恚自在轉義一切一分是有諍。多隨愛見自在轉義一切一分是有愛味。多隨貪自在轉義一切一分是依耽嗜。餘處有文類知不録。」(『演秘』第五本・二十五右。大正43・915b)

 (「論に、雖有義別と云うより故に立てずと云うに至るは」、瑜伽論の五十六の中に准ぜば、瞋貪等に依りて余の染法を立て、翻じて浄と為すべかれども、(体用)異なること無きが為の故に、故に此には言わず。即ち彼の論に、多く瞋恚に随って自在に転ずる義なり、一切の一分は是れ有諍(煩悩の異名・争いの原因になることから有争と名づけられるなり。)なり。多く愛見に随い自在に転ずる義なり、一切の一分は是れ有愛味(ウアイミ・愛着・貪り・執着を有していること)なり。多く貪に随い自在に転ずる義なり、一切の一分は是れ躭嗜(タンジャク・執着すること)に依ると云えり。余の処にも文有り、類して知らるれば録せず。」)

 『述記』の釈を再釈しています。欣や厭などは、十一の善の心所と義が別なることから、種々の名を説くとはいっても、体は異なることが無いことから、別に立てることは無いと説明しています。

 先ず、瞋の一分に依って立てられた仮法を述べています。
 次に、貪の一分に依って立てられた仮法を述べ、これらすべての一分は耽嗜に依ることを明らかにしています。

 『論』はこれ以降、十一の善の心所の他に存在する欣や厭等の善の心所の種々を説き、それらの善の心所が独立した心所として立たられないのは如何なる理由なのかを説明します。

 先ず最初に、欣の心所について述べられます。

 「欣と云うは、謂く、欲と倶なる無瞋の一分ぞ、所欣(ショゴン)の境の於に憎恚(ゾウイ)せざるが故に。」(『論』第六・八右)

 欣についての説明です。欲は別境の心所ですね。別境の心所である欲と倶に働くもの。それが欣の心所である、と。

 欣とは、喜ぶことで、楽受と相応する心です。善心としての欣は、善法欲をともなった、いかりや憎しみない心をいいますが、善法欲が欣の体なのではなく、あくまでも善法欲と倶に働く無瞋の一部が欣の体であるのです。欣は無瞋の一分に依って立てられた仮法であることが解りますね。従って、欣は無瞋に離れて存在するものではない為に、一つの心所として立てられていないのです。

 欣にはもう一つの意味があります。煩悩の中の貪の異名です。「貪の異名とは、亦た、喜と名づけ、亦た、欲と名づけ、亦た、欣と名づく」、と。このことについて、『述記』は次のように説明しています。

 「論。欣謂欲倶至不増恚故 述曰。此是無瞋一分。於境不憎方欣彼故。此性非欲。欲倶法也。然八十六解三不善根衆名中。不説瞋名欣。貪亦名欣。今若翻彼名。不欣應無貪一分。貪是著義。染貪名欣。無貪厭義。無瞋名欣。各約一義亦不相違。」(『述記』第六本下・三十左。大正43・439c)

            (つづく)

 


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (2)

2013-10-24 21:53:07 | 心の構造について

 「及」(キュウ)、およびという意味のcaの訳。「梵には遮と云う」。「及」と「等」の二義があるが、「行捨と及び不害とぞ」には「等の言を置くこと能わず。故に総じて及の字有り」(『述記』)と説明されています。そして「及」に字に二つの意味があるといいます。相異と合集の二つの意味です。相異義は、善の心所の十一が各々体別でることを示し、合集は、十一の善の心所の他ににもまだ善の心所があることを示していると解釈されています。

 例えていうならば「欣と厭との等き善の心所法」というようなものである、と。そうであるならば、何故欣と厭が善の心所として立てられていないのかと云う問題が生じてきます。次科段において答えられています。

 「義別なること有るをもって種々の名を説くと雖も、而も体異なること無し、故に別に立てず。」(『論』第六・八右)

 善の十一の心所と義別である欣・厭という種々の名を説くとはいえ、しかし体は異なることは無い。故に、善の十一の心所の他に善の心所を立てないのである。
 善の十一の心所の他にも善の心所が有ると云う説明は、善の十一の心所の分位という意味に於て有るということである、と。

 善の心所の分位仮立法や別境の善の分位仮法として挙げられる、善の十一の心所の他には、欣・不忿・不恨・不悩・不嫉・厭・不慳・不憍・不覆・不誑・不諂・不慢・不疑(以上が善の心所の分位仮立法)。不散乱・正見・正知・不妄念(別境の心所の分位仮立法)として挙げられています。

 「論。雖義有別至故不別立 述曰。釋不應爲善法所以。此欣・厭等。雖義望前十一有別。然非實有 雜事經者。是阿含經雜事品。及今法蘊足並廣解。及大論五十六・六十九。皆具有染名字解之。翻彼善等。雖依義別説種種名。而體離此十一法更無異故。不別立之。」(『述記』第六本下・二十九左。大正43・439c)

 (「述して曰く。善法と為すべからざる所以を釈す。此の欣・厭等は、義前の十一に望むるに別なること有りと雖も、然れども実有に非ず。雑事経とは、是れ阿含経の雑事品なり、及び今の法蘊足に並に広く解せり。及び大論の五十六・六十九に皆具に染の名字有あって、之を解すこと彼に翻じて善等に、義別なることに依って種々の名を説くと雖も、而も体此の十一の法に離れて異なること無きが故に別に之を立てず。」)

 次科段より、分位仮立法について個別にその理由を示し説明がされます。 


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (1)

2013-10-23 22:27:08 | 心の構造について

 昨日の科段についての補足説明です。『述記』の所論を述べます。

 「論。無瞋亦爾至是無瞋故 述曰。非離無瞋別有自性。謂於有情不爲損惱。體性賢善之相即無瞋。故離無瞋無別不害。明不害是假也。第二出十一善體已。」(『述記』第六本下・二十九右。大正43・439c) 

 (「述して曰く。無瞋に離れて別に自性有るものには非ず、謂く有情に於て損悩を為さず、体性賢善なるの相即ち無瞋なり。故に無瞋に離れて別の不害無し。明けん不害は是れ仮なり。
 第二に十一の善の体を出し已んぬ。」)

 有部等が、不害とは損悩しないこと、その体は無瞋ではなく、賢善であると主張してきたが、無瞋もまた有情をして損悩を為さずを体とする働きを持つ。即ち、有情を損悩せず体性が賢善であるものこそ無瞋だからである。従って、無瞋に離れて不害はない。不害は無瞋の働きの一分である抜苦の働きに依って仮立したものである。

           ー      ・      -

 第三は、諸門分別を述べる。諸門分別とは、諸門から善の心所を分析し説明することである。諸門は十二に分けられて説明されます。

  1.  義摂所余
  2.  問答廃立
  3.  徴責多少門
  4.  仮実分別門
  5.  倶起分別門
  6.  八識分別門
  7.  五受相応(受倶門)
  8.  別境相応門
  9.  三性分別門
  10.  三界分別門
  11.  三学分別門
  12.  三断分別門

 

 第一に、義を以て所余に摂める。十一以外の善の心所について述べる。『頌』に「行捨及び不害」と云う中の「及」は、因に及の字を解釈する。及とは、善の十一の外に更に義の別なる心所あることを顕しているのである。つまり、欣・厭等のような心所である。

 「及と云うは十一より義別(コト)なる心所ありと云うことを。謂く欣(ゴン)と厭(オン)との等(ゴト)き善の心所法ぞ。」(『論』第六・八右)

 善の心所が十一の心所の他にも義が別である善の心所が存在するということを明らかにしている、つまり、欣と厭などのような善の心所である。

 「行捨及不害」という。「及」という語の解釈のところに諸門分別を行っています。善の心所は「頌」には十一と決定されていますが、他の論書においては十一に限らず無数に立てられているわけです。義別なる心所があるということですね。これが「及」と一字によって表されています。

 「及」の意味

  •  相違義 - 善の十一心所は各々体が別であることを示している。
  •  合集義 - 善の十一の心所の他に善の心所があることを示している。

 本科段は合集義に由って解釈されていますが、これは善の心所の分位として別、或は別境の中の善のものの分位として別という意味を表しているのですね。例えば、欣も厭も善の心所法として立てられていますが、欣は欲と無瞋の心所を体として成り立っています。欲は別境の心所ですし、無瞋は善の心所です。欲の心所と無瞋の心所が一つになった時に欣が成り立つわけですね。義が別として立てられた心所であるというのです。厭もですね、別境の慧と相応する無貪の上に立てられた心所になります。

 「たとえば、欣とか厭とかいうことがある。欣も厭も善の心所法として立てられているが、欣は欲と無瞋の心所を体として成り立つ。欲は別境、無瞋は善の心所である。欲と結合した場合の無瞋、その上に欣が成り立つ。欲は希望であり、希望される対象に対して瞋のないこと、それが欣であるという。
 厭というのは慧と相応する限りの無貪、それが厭である。厭離穢土というのは、凡夫の場合には意識できぬが、仏法に触れて穢土を教えられる。慧と相応した限りの無貪、つまり厭うべきところの対象に対して貪着がないことである。慧は別境、無貪は善の心所である。『瑜伽師地論』では欣とか厭とかいうことが数えられるが、かく義の別として立てられたのである。」(『安田理深選集』第三巻p364より引用)

 「論。及顯十一至諸心所法 述曰。自下第三諸門分別。於中有十二。第一義攝所餘頌云行捨及不害。此因解及字。謂及顯善十一之外。更有義別心所。謂欣・厭等。梵云遮有二義。一及。二等。不能置等言故總有及字。及字有二義。一顯十一各各體別。即相違釋。二顯十一外心所。今論但約等取餘法一義解也。」(『述記』第六本下・二十九右。大正43・439c) 

 (「述して曰く。自下は第三に諸門分別なり。中に於て十二有り。第一義を以て所余を摂す。頌に行捨及不害と云う。此れは因みに及の字を解す。謂く及というは善の十一の外に、更に義の別なる心所有るを顕す。謂く欣・厭等なり。梵には遮と云うに二義有り。一に及、二に等なり。等の言を置くこと能わず。故に総じて及の字有り。及の字に二義有り。一に十一の各々に体別なることを顕す。即ち相違釈なり。二に十一より外の心所を顕す(合集釈)。今論は但だ余法を等取する一義に約して解す。」)

 「欣と云うは謂く欲と倶なる無瞋の一分なり。・・・・・厭と云うは謂く慧と倶なる無貪の一分なり。」(『論』)

 「厭離穢土 欣求浄土」ということもですね、穢土を厭離し、浄土を求めるということなのですが、これは無瞋の一分であり、無貪の一分であるという。追って詳しく説明されます。


第三能変 善の心所 ・ 不害 (5) 部派の説を論破する

2013-10-21 22:11:17 | 心の構造について

 本科段から、説一切有部(薩婆多師)及び順正理論の説を挙げ、問答を通して護法が部派の説を論破します。

 「有るが説かく、不害は即ち無瞋には非ず、別に自体有り、謂く賢善なる性ぞと云う。」(『論』第六・八右)

 説一切有部の説(『倶舎論』巻第四に説く)及び順正理論(巻第十一)に説かれていることを挙げる。

 諸部派の主張は、不害は無瞋の一分ではなく、無瞋とは別に自体があると云う、その自体とは賢善である性である、と。

 「與樂損惱有情相違。心賢善性。説名不害。」(『順正理論』巻第十一。大正29・391b)

 (楽と有情を損悩することと相違する心の賢善性を説いて不害と名づける。)

 「論。有説不害至謂賢善性 述曰。薩婆多師正理論等。説謂賢善性。謂有此者人即賢善也 論。此相云何 述曰。此論主問 論。謂不損惱 述曰。此外人答。」(『述記』第六本下・二十九右。大正43・439b)

 (「述して曰く。薩婆多師正理論等に、謂く賢善の性なりと説けり。謂く此れ有る者(不害有る人)は賢善なり。
 (『論』)此の相云何。述して曰く。これは論主の問いなり。
 (『論』)謂く損悩せざるなりと云う。述して曰く。此れは外人の答えなり。) 

 前に護法の正義を述べてきましたが、小乗諸部派は、不害の体は賢善の性であると主張しているのです。問いを以て護法が批判を加え、諸部派の説を論破します。

 「無瞋も亦爾るべし、寧ぞ別に性有りと云う。謂く、有情に於て損悩を為さず、慈悲賢善なるいい是れ無瞋なるが故に。」(『論』第六・八右)

 護法の問いに対して、有部等の主張は「不害とは損悩しないことである」と答えているのですね。

 そうであるならば、「無瞋も亦爾なり」、と。無瞋もまた損悩しないことを性とするものであるわけですから、どうして別に性が有るというのであろうか、ということを述べているわけです。内容が「有情に対して損悩せず、慈悲賢善であることが無瞋だからである」と。

 無瞋と賢善と別に有るわけではなく、ともに有情に対して損悩しないものであり、不害が無瞋の一分を別用として一つの心所と立てていることであり、不害は賢善の性としても、不害は無瞋の一分であることにはかわりなく、諸部派の説は、不害は無瞋を体としていることに他ならないと論破しています。

 次科段より、諸門分別に入ります。

 


第三能変 善の心所 ・ 不害 (4) 『述記』の所論

2013-10-20 20:08:59 | 心の構造について

 「述して曰く。理実には無瞋の体は是れ実有なり。不害は無瞋の一分の抜苦(苦を抜く)の義勝れたるに依るが故に、不害を仮立せり。
 問。前の大悲は無瞋癡の二法を以て体と為す。今何が故に(無癡を言わず)独り(無瞋の分位を以て)不害のみを言うや。
(答)彼(無瞋)は実の体に拠る。此れは仮に成ずるに約す。又彼は是れ大悲なり、此れは但だ是れ悲なり。四無量に摂す。」

 ここまでが第一段になるかと思います。不害は無瞋の一分の働きである抜苦勝れたる理由によって仮立されたものであると云われていますが、これは四無量に摂められるものである、ということ。四無量といいますのは、慈・悲・喜・捨無量であるということですね。禅定を修し、下化衆生の願いに生きる者としての四つの心をそれぞれの側面から表しています。

 『倶舎論』分別定品第八の二の説明は、

 「無量に四種有り。瞋等を対治するが故に。慈と悲とは無瞋を性とす。喜は喜なり、捨は無貪なり。此の行相は、次の如く、楽を与うると、及び苦を抜くと、欣慰(ゴンイ)すると、有情等しとするとなり。欲界の有情を縁ず。喜は初の二静慮にあり。余は六、或は五、十とす。諸惑を断ずる能わず。人に起こり、定んで三を成ず、と。」

 『倶舎論』第四章・修行階位論第八節・定所成の徳において説かれているものです。

 無量というのは、(1)無量の有情を所縁とするという意味が込められています。一切衆生の為にという菩薩の願心ですね。私の上にかけられている願でもあるわけです。(2)無量の福を引くが故なり。(3)無量の果を感ずるが故である。
 何故、四種が説かれるのかというと、四種の多行の障を対治せんが為である。四種の多行の障(四障)とは、諸の瞋と害と不欣慰と欲の貪瞋である。この障を対治するのに四無量を建立する、と。

 前に述べた通りです。慈と悲との体は無瞋であり、理実には悲は不害である。そして喜の体は喜受、捨は無貪である。

 (『述記』) 「問。何ぞ無貪等の上に於て建立せざるや。答。功徳の中の慈と悲との二相の別を顕さんが為の故に。無瞋に依って仮立し、無貪等に依らず。
 問。諸の功徳等において勝処等の如く、亦無貪を以て性と為す。何を以て善の中に無貪の上に依らず、功徳の別を顕さんが為の故に、別の一の仮法を立てざるや。

 勝処(ショウショ) - 勝は伏する、或は勝、処は認識対象のこと。「能く境を制伏する心が境処に勝つが故に勝処と名づく。或は煩悩に勝つが故に勝処と名づく。」

 答。一切の功徳は聖人に依るが勝れたり。聖人の身に於て仏を最勝と為ん。仏身の中に利楽有情勝れたり。利楽の中には慈悲の二種最勝なり。極めて勝れたる功徳の別を顕さんが為の故に。無瞋に依って不害を立つ、無貪等に非ず。
 『顕揚』の第四に云く、「喜は是れ不嫉なり。何が故に立てて善根と為さざるや。
 答。苦を抜くには悲が勝れば、不害を別立す。喜は悲より勝れざれば不嫉を立てず。」

 造論の意趣のなかで、「諸利楽有情」の為にこの論を造るのだ、と。ここにその理由が示されているわけですね。抜苦与楽が最勝である、と。『述記』の釈によりますと、聖人の中では仏が勝れた存在であり、その仏の持つ功徳の中では有情を利楽することが最勝の功徳であり、その功徳の中では慈と悲の二種が最勝である。慈悲を分析考察をして、慈は与楽であり、悲は抜苦であることに於て最勝であることを鮮明にし、無瞋は慈の体であり、不害は悲の体であることを明らかにしたわけです。このことに由って、不害は無瞋の別用を一つの心所として立てた分位仮立法であることが述べられているのです。

 


第三能変 善の心所 ・ 不害 (4)

2013-10-19 23:17:56 | 心の構造について

 「理いい実と云うは、無瞋は実に自体有り、不害は彼の一分に依って仮立せり。慈と悲との二の相の別(コトナル)ことを顕さんが為の故に。有情を利楽するに彼(無瞋・不害)の二いい勝れたるが故なり。」(『論』第六・七左)

 ここに、有情という迷妄存在の救済は、抜苦与楽であることを明らかにし、抜苦は無瞋に於て、与楽は不害に於ての勝果であることを説いているわけですが、問題は無瞋・不害はどうして成立するのかということです。このことを抜いてしまいますと、教理的な学説、机上の空論に陥ってしまいます。

 理は理論・実は実際的な視点ということ。理実を以て無瞋と不害が別々の心所として立てなければならない理由を述べています。

 無瞋 - 自体有り(無瞋は種子から生じた実法であるということ)。
 不害 - 無瞋の一分(無瞋の作用の一部)に依って仮立されたもの。これは、無瞋の働きの一部である抜苦を不害という一つの心所として仮立した心所であるということを述べています。

 では何故、無瞋とは別に不害の心所を立てられなければならないのかということですが、これが本科段の主題となるところです。 
 「慈と悲の二の相、別(コトナル)ことを顕さんが為の故なり」

無瞋は慈の働き(与楽)、不害は悲の働き(抜苦)を明らかにし、「有情を利楽することに於て、この二の働きは勝れたものだからである」、と、理論上から、そして実際的な視点から説明されています。

 「論。理實無瞋至彼二勝故 述曰。理實無瞋體是實有。不害依無瞋一分拔苦之義勝故。假立不害 問前大悲以無瞋癡二法爲體。今何故獨言不害 彼據實體。此約假成。又彼是大悲。此但是悲。四無量攝 問何不於無貪等上建立 答爲顯功徳中慈悲二相別。故依無瞋假立。不依無貪等 問諸功徳等。如勝處等亦以無貪爲性。何以善中。不依無貪之上。爲顯功徳別故。別立一假法也 答一切功徳依聖人勝。於聖人身佛爲最勝。佛身之中利樂有情勝。利樂之中慈・悲二種最勝。爲顯極勝功徳別故。依無瞋立不害。非無貪等 顯揚第二云喜是不嫉。何故立不爲善根 答拔苦悲勝。別立不害。喜不勝悲。不立不嫉」(『述記』第六本・二十八右。大正43・439b)     (つづく)