釈尊伝 (33) ー家出と出家ー
まぁ結婚すると家をでて行くということがありますが、これは出家というわけにはいかない。ながい間、お世話になりました。はいさようなら、ばいばいと、そんなわけにはまいりません。ながい間の執着があります。そこのところが悲しいはずです。また次の家にうつると、そこにはちゃんと苦しむべきものが待ちかまえています。ですから家というものは楽しいように思っていても、われわれをしばっているものなのです。その家をでるという問題をわれわれは持っています。その家を出るという意味は、形のうえででていくのでは、なくて、そのしばられているものから心が自由になるということであります。 そういう意味で心が自由になったのを出家といいます。そうすれば、家におって自由な、しばられた中におって自由な、そういうことがあります。われわれはがんじがらめにしばられていたけれども、そういうものをなくしてしまった自由ではなく、本当に出家という意義がわかったならば、その中におって自由であるということです。
ー在家道ー
この出家ということがなかったならば、仏教ということは、肝心な意味をうしない、やはり人生を幸福に生きてゆくところの、なにか一つの指針というふうにいわれてしまいます。ただし、ながい間、形の出家と考えられてきましたので、仏教が時代とともにいろいろとまた、変化してきました。親鸞聖人がかならずしも、出家の形というものをとらないで、家におりながら出家する道があるということを教えられたのが、親鸞聖人の教えの意義になるわけであります。そういうわけで、伝記の中で、この出家ということは重要な意味をもっております。
善・染・不定の一切について
「善には唯一のみ有り。謂わく、一切地ぞ、染には、四ながら皆無し。不定には唯一のみあり、謂く一切性ぞ」。(『論』)
「善の中に地というは、三地に遍ずるなり。此れが中に軽安は欲界に遍ぜざるをもってなり。若し初説の如くなれば多分或いは加行等に従って説くが故に。
染には四ながら皆無しというは、亦多に従うが故なり。無明と貪との等の如きは三界地に通ず。八大随惑は皆地と及び倶とに通ずるに非ず。皆地等に通ずるものは非ざるを以っての故に総じて四に非ずと言う。種類に依って論を作すが故なり。
後の四の不定は三性に通ずるが故に唯一のみ有り。此の所の無の義は応に審に簡別すべし」。(『述記』)
三界の中の欲界は欲望を依り処としていますので、散地ともいわれ、定ではなく、散の状態でありますから軽安は存在しないということになるのですが、厳密には一切地を三地と解釈して初めの有尋有伺地が色界の初禅の範囲にあり、ここは定の境地があり、軽安は存在することになります。従って善の範囲である一切地に軽安は存在するということになります。(軽安の項参照)
- 善は一切性は備えない。また一切時・一切倶を欠く。一切地のみ備える。
- 染は四類有り。即ち煩悩(根本煩悩)・大随煩悩・中随煩悩・小随煩悩の四種。ここには四の一切は備えない。厳密には一切地及び一切倶を備える場合もあるのですが、多くの場合にはそうではないので、「多に従う」と説明されています。
- 不定は、三性に通じる心所でありますから、一切性を備えるのです。
「此れに由って、五の位の種類差別せり」(『論』)
此れに由って五つの位の種類を区別しているのである。(差別はしゃべつと読み現代用語でいわれる差別用語ではありません。区別とか差異という意味になります)
総結 ・ 心所とは遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の五であることを上来説明してきました。